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対厳山のブログ一覧

2014年09月15日 イイね!

94北往記20。帰路へ、しかし・・・・・(長編容赦)

 すみません、「次で終わる」って思ってたらコレがけっこう残ってて(T_T)。
 このページで凄く長編になってしまうけどごめんなさい、一気に家に帰るぅ(゚´Д`゚)!

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    21・第6日/大阪神戸・回り道

▽大阪 12:39~宝塚 13:14・福知山(JR宝塚)線(モハ112 5102)

※久方振りの普通電車

 TWxが大阪に到着し、私は大阪駅10番ホームに降り立った。
 此処で普通なら入庫を見送るまでTWxにしがみつく処だが、どうも札幌から“サッパリ病”が板についたか、列車からさっさと地下通路に向かっていた。

 行き着いた先は2番ホーム。此処では既に電車が発車を待ち侘びていた。乗り込んで一分も経たぬ間に電車は発車した。

 乗り込んだのはJR宝塚線・新三田往きである。“普通電車”に乗り込んだのは三日目の朝に札幌から滝川までのって以来3日振りだ。
 大阪を発ち、間もなく特有の近郊風景が流れる。ヤンマーの体育館、タケダビル、MBSビル。名前は忘れたが二つのビルの登頂部がヘリポートでつながれているタンデムのビル。大阪の街並は他にも、ビルがなくともそれと解りそうな“匂い”がある。列車は尼崎を入る前辺りで東海道線から別れ、駅南端のホームから東海道線を股ぐって北上する。

 さて、先程何気なく“JR宝塚線”と書いたが、これは平成に入ってから大阪近郊の各線に地域に見合った名称を付けようとJR何々線と名付けられるようになった。
 たとえば東海道・山陽本線では神戸で区切られてどうも勝手が悪い。JR神戸線と名付けられ、大阪からJR京都線になった。
 他にも大和路線、学研都市線、琵琶湖線などがある。
 ただ個人的にはこの宝塚線を余りJR線には使って欲しくないような気はしている。私には阪急線の印象が余りにも鮮烈で。
 ともあれ、北上を続ける電車は時折直流モーターをけたたましく鳴らして疾走する。
 TWxからそのまま飛び乗ったので、札幌-大阪間の普通切符では都合が悪い。塚口を過ぎた辺りで巡札に来た車掌に18切符を一枚切って貰った。

※それでも変わる‥‥‥

 窓外の風景だが、阪神間特有の市街風景で、工場群と住宅が混在する。
 右手にはダイハツの本社工場、そして大阪国際空港も仰げる。もっとも掩蔽物が多くて施設の大半は拝めなかったが、関西国際空港に移転する直前の盛況であろう。
 実は恥ずかしい事に、茫然としていると忽ちのうちに宝塚まで到達していた。大阪から宝塚までは凡そ20分ほど。TWxの贅沢気分を醒ましているうちに着いてしまったのが正直な処だ。

 宝塚は、阪急の終着駅でもある。前の中山寺を過ぎて暫く、“阪急城”が住宅街の間から垣間見える。宝塚大歌劇場、宝塚ファミリーランド遊園地。その後阪急宝塚線がJR宝塚線を跨ぐ。そして阪急宝塚駅が。

 処が、この阪急駅を見て仰天した。私の記憶している宝塚駅は、ファミリーランドに半ば抱かれる格好で存在した平屋建ての駅舎だったような気がしたが、今眼前に、赤褐色の切り妻屋根に茶褐色の巨大な建物が姿を現した。
 その壁にはブロンズのブロックで“阪急 宝塚駅”とハッキリ書いてある。ショッピングセンターまで内包したその駅舎はその駅前を含めてその容貌を一変した。都市は効率を求めて変わり続ける、駅前開発が大詰めを迎えた宝塚駅前再開発を見て思った。

▽宝塚 13:30~西宮北口 13:45・阪急今津北線(5241)

※宝塚トランスファ

 立て替える前の阪急駅と雰囲気が似通ったJR駅。此処で新三田に向かう電車を見送って駅表に出ると、どうもJRと阪急の各駅に隔世の感を覚える。
 人口10数万ほどの町並みによく見られる小じんまりとしたJR駅と、ターミナルとしての機能を満たした阪急駅。
 ただ、私は此の時阪急ファンでありながらも、愛すべき駅舎はJR側に思えた。

 阪急駅に向かった。歩道橋を上がって二階玄関から入って改札を探った。この形態がこの期に及んで少し嫌だった。
 しかし改札が見付かるとゲンキンなもので、馴染みの自動改札に手持ちのラガールカードを差し込んで入札。エスカレーターでホームに上がった。

※コーヒーにブライト・クリープの無いコーヒーなんて、私に…

 実は阪急はこの1月にドライブで大阪に行った時に千里・京都線に乗り込んでいる。
 此の時に阪急の様相が微妙に変わっているのが解ったので、コンチは京都線系統は諦めた。
 今津線に向かってみると、宝塚線のホームには阪急新鋭の8000系が停車していた。
 お馴染み阪急マルーンの車体にポーラホワイトの帽子を被り、頭文字のHに花をデザインした白字の新しいグループ・シンボルマークを各車両の中央にいただく。個人的にはこのマークは好きになれないのだが、阪急の持つ繊細さをよく顕しており、似合っているとは思う。
 私は京阪神三市のマークを複合した昔のマークも好きだし。
 マークは変われど、上品でキメ細かいサービスが昔からの阪急の身の上。阪急に惚れてもう8年になるが、このアジは変わらない。

 13:26、今津線から丁度私が立っている処に先頭車の5214号車が停まった。
 手書きの方向看板こそ新しさはないが、落ち着いたデザインに対して破綻がないのが嬉しい。
 西宮方面から乗って来た乗客が降りてきたが、買い物客が殆どであった。
 入れ違いに乗ってみるものの、時間帯から乗客は疎ら、間もなく折り返しの発車と相成った。
 新築間もない宝塚駅を滑りだし、左手に丘陵住宅地が、右手にはファミリーランドが拡がる。宝塚線も高架で東に向かい、電車は南下する。

※もっと真面目に見て置けば良かった!

 この界隈の高架区間も、あの日早暁には悪夢が起こった。
 震度7の烈震に電車は脱線、ここを走っていた電車はスライディングするように転倒した。
 そう。この神戸一帯は変わり果ててしまったのだ。
 この時は改築以来初めて見た大歌劇場に見入っていたが、ここにも被害が及ぶ。
 悔やむかな、リポートをまとめる今現在(96年11月)までも行きそびれているが、こんな事ならタイトルにも書いたように真面目に見て置けば良かったと思うことしきりである。
 だって、TWxでバテた訳でもあるまいが、この間に見留めた風景と言えば、大仰なオーニングが目に着く阪神競馬場と今津線の各駅風景、それも人も疎らな風景だけ。住宅街を縫う閑静な路線であると漠然と乗っていた。
 14時前頃、つつがなく西宮北口駅に到着した。

▽西宮北口 13:53~阪急三宮 14:06・阪急神戸線(7571)

※今は昔

 阪急西宮北口駅と言うと、昔は二つの目玉が有った。
 一つは西宮球場。昭和11年創設の由緒あるプロ野球球団、“阪急ブレーブス”の本拠地である。
 実は私は昭和63年のオフ、密かに私は「脱カープファン・ブレーブスファン宣言」を心に決めた。帽子まで買ったんだよ。
 処が晴天の霹靂、古豪南海に続いて阪急も球団売却を発表。
 以来05年まではどこのファンでもない「アンチ巨人ファン」を名乗ることとなった。
 開催球場が一暙少々しか離れていない阪神-阪急の“日本西宮シリーズ”があったら面白いなという目論見すら潰れた。今思えば、なんと早まったことを・とまだ思っている。

 今一つは鉄道界随一の大規模な“ダイヤモンドクロッシング”。鉄道の平面交差は国内では個々が唯一だった。その運行規模と保安施設は目を見張るものが有り、ファンならずとも注目されていた構造だった。
 だが、こいつも昭和の終わりを待たずに廃止・撤去された。

 前置きが長びいたが、そういう訳で路線途中でありながら終站駅という変わった構造の今津線西宮北口駅に降り立った私。
 2階コンコースを渡って神戸線ホームに降り立つと、今津線と違って喧噪の中。お客が細胞分裂したのかと思えるぐらいの差があった。
 この人波に揉まれて寄り道する気がなくなったか、昼飯もまだなのにそのまま新開地往きの特急に飛び乗った。

※平和な昼下がり

 列車が西宮北口を滑り出すと、今まで気付かなかった青空が出迎えてくれた。眩しい昼下がりの陽光が西宮の住宅街を鮮やかに照らし付ける。嬉しくなってビデオカメラを回し始めた。無為に回していたビデオだが、この風景も今度撮るときは随分とこさ変わっているはずだ。

 車内に目を移すと、その眩しい陽光を避けるためにブラインドを“上げて”いる。阪急電車のブラインドは伝統の鎧戸。
 こいつは日射と熱気を完全に遮断するが、これを使われると外が全く見えないという困ったちゃんである。下請け車両会社のアルナ工機がアルミ加工を得意としているだけあって薄肉のアルミプレスで造られている。

 駅ホームが近づいてもスピードが落ちない快速感に包まれ、青空と山の手の住宅街が弛まなく流れる。時折ビルや盛り土が目の前を塞ぐが、閑静な住宅街に心が落ち着く。
 ここを過ぎて暫く、今度は神戸市街が拡がってくる。
 王子公園を過ぎると、いつの間にか高地に上がっていた軌条の下からJR線が現れ、遠くには臨海地区の工場群も見留められた。複々線の線路をお供に神戸中心部が近付くのを見届ける。いまや神戸そごうも駅前も、そして、
「間もなく神戸三宮、神戸三宮で御座います」
 そう、阪急神戸三宮駅に至っては全壊の憂き目にあっていたのだ。
 この日、私は「最後の阪急三宮駅」入りをしたのだ。

※ア~ア、雨だよ

 新開地往きの電車が三宮に到着したのは西宮北口で電車に乗り込んで僅かに10分余。この列車が神戸高速線に向かうのを見届けて、私は階下に降りた。

 さすがに腹が減った。だが手持ちの小銭は300円ほど、まともな食事ができるのは札幌で使ったガソリンカードだけ。
 となれば昼飯もハンバーガーか。マァ、三宮界隈ならマクドナルドも簡単に見付かろうものだ・と、ゴチャゴチャと考えていたのが表へ出て一気に吹き飛んだ。
 雨が、雨が降ってる‥‥‥
 先程まであんなにいい天気だったじゃないかと些か面食らった。
 そのお蔭で冷やかし客までが店に入って商店は一気に混雑した。

 や~めた(-_-;)。腹もそんなに減っていないし。

 そういう結論に達し、私はガード下の横断歩道でJR三宮駅に向かった。改札から案内に添って新快速乗り場に向かった。


    22・第6日/ようやく帰った山陽路

▽三宮 14:21~姫路 15:01・JR神戸線新快速(サハ220 16)

※嗚呼、麗わしの221?

 時ならぬ夕立に毒気を抜かれてJR三宮駅4番ホームに上がった私。
 雨足は相変わらず強く、周囲の風景も阪急線に乗る前とは一変してジクジク湿っていた。

 佇むホームの目の前には587を示す東京からの東海道線のキロポストがある。
 正面にはさくら銀行のコマーシャルロゴがデカデカと飾られる。
 ホームの上には、乗客が白線の中にあふれ返っている。帽子を転がしてホームの際まで出てくるベタな女の子もいた。
 旅行・買い物帰りの人と仕事の最中らしいワイシャツ姿の男性が半々である。

 驟雨のなか、ヘッドランプをきらめかせて221系の新快速はやって来た。
 ポーラホワイトとカーキグレイのツートンカラーで彩られた癖のないボディーははや5年を数える。
 高いレベルでの快適性とハイセンスな外観は当時の近郊型列車としてはオーバークオリティーであり、乗り込む度にその魅力に魅せられたものである。
 今や様々な新車の登場でこの乗り心地も特筆するに値しなくなったが、逆にこれだけの年月を重ねてなお魅力の失せないセンスは拍手ものである。
 草津からの発車なので既にしこたま乗客を吸い込んでいる。三宮で降りるには降りたが、それ以上に乗り込む乗客に席は残らず、結局立ちんぼを強いられた。マ、たまには良かろう。

 ドアが閉まって雨の神戸を後にする。どのみち財布が底をついているので何か出来よう筈はない。
 夕立に濡れた神戸の中心街の中を走る新快速は、次の到着が神戸ということもあって然程のスピードは出ていない。
 不意に右手を見ると青色の山陽緩行が暫く併走していた。間もなくこちらに追い抜かれるが、前後して上り新快速が上り山陽緩行を追い抜いてすれ違った。速度感が鈍ってしまう複々線特有の光景である。うち一台は最新鋭の207系である。
 電車の顔ぶれがそれぞれ替わってしまうが、この風景が相も変わらず神戸の、私が始めてみた神戸の風景である。

 曇天の許、暗がりに拡がる神戸の街は様々な陸路で訪れた初めての街である。それだけに様々な思い出がそれぞれ一入だ。
 神戸駅到着は三宮発車から3分後。待ち構えた乗客を飲み込むと間もなく発車した。
 こんなに味気ない発車だが、山陽鉄道の由緒ある始発駅である。ここでキロポストが0にリセットされる。残りの航跡まで300km余になった。

 重苦しい雲行きの中でも、221系は快適に乗客を運び行く。
 ツクヅク感心させられるのは、乗客に対する快適さを誇示する事無く配慮を重ねたその乗り心地である。優等感が鼻に衝くでなく、不快感が腹を揺するでなく、惚れた者の弱みを差し引いてもこの配慮はやはりJRW屈指の傑作電車である。
 金を掛けて幾らという価値観もあるが、金や装備を奢る事なくその与えられた列車の仕事そのものに磨きをかけるという事にかけては此のJR221系と阪急・京阪間特急は抜きん出ている。

 その快速感に抱かれて、いつしか雲が薄くなっていることに気がついた。雲間に青空すら覗き始めた。

※彷徨うミナト街・神戸

 それにしても神戸のビルも前にも況して垢ぬけてきた。ハーバータウンなどの港湾都市の更なる機能性を追求が続く。
 この鉄道線を境に都市の新旧の差異が徐々に激しくなっている。
 新しい神戸とは・と此の時は思案したものだが、地震によってその形が問い直された。
 歴史上の史跡などは復元されるであろうが、地元の生活が育むミナト繁華街特有の景色を取り戻すには、長い時間と多少の変貌は避けられないであろう。

 ドア窓に着いた雨滴も徐々に吹き払われ、視界が再び明るくなってきた。
 中心地が過ぎて家並みが低くなり、また長閑な昼下がりを思わせる光景になる。
 その雨雲も切れ始め、瀬戸内海まで出てくる頃にはどこまで晴れてくるものか。

 兵庫駅を過ぎ、和田岬までの山陽盲腸線が南に別れ、もう一つの街並みに向かう。
 この界隈になると樹木も所々に見え、そこいら辺の街並みと良い意味で変わらない。
 その景色も各停線が跨ぐとそれを隔てての風景となり、時折207や113が目前を遮る。
 不意と鷹取JR工場に目を向けると、見慣れぬ電車が駐機しているのに気がついた。
 カメラを向けつつよく見てみると、ステンレスボディーの片側に四枚扉。その間の窓は一枚づつの大窓。
 アクセントのストライプはベージュにネイビーのツートン、また電車の前面に“E217”の白文字が認められたことから、横須賀・総武線系統の新型近郊列車と容易に推せた。
 無精な前面の造形に付け、JREの電車には違いない。

※雲は流れる・明石の空に

 さらに電車は西へ向かう。間もなく日射が軌条を照らした。分厚い雲が左翼、青空が右翼というコントラストの激しい空模様になった。同時に南岸を走っていた山陽電鉄が上を跨いで山の手についた。舞子の浜は間もなくである。

 左翼が徐々に開けてきた。5日振りに合間見える故郷の海・瀬戸内海である。
 すっかり厳しい日射が戻り、この瀬戸内海を青く輝かせる。
 いよいよ明石市境が近づいた。山陽本線も高台に避け、此の海を見下ろす。舞子の臨海風景を一通り流すと、その最後には巨大鐘楼が見えた。
 往きの時にも少し触れた明石大橋の事である。
 陽光に影を落とす2つの主塔とそれを伝う2本のロープ。そのロープはすでに明石と淡路を繋ぎ留めていた。
 ともあれ、明石大橋の工事もこれから本番。いよいよこの本四架橋も現実みを帯びてきたようだ。

 再び山陽電鉄が上を跨ぎ、3複線が揃い並んだ。
 その後朝霧駅の上を通過する訳だが、此処は国道28号線の起点であると同時に思い出の地でもある。
 車を使ったとはいえ、産まれて初めて野宿をしたのが此処である。
 とは言え苦い思い出で、暖を取るのに失敗して大風邪をひき、胃腸はズルズル、意識は朦朧でホウホウのていで広島まで運転して帰った記憶がある。
 だからこそ、自慢は出来ねど車の運転には自信を持っているんだけどな。
 日射に輝く瀬戸内海を見送ると、漸く明石市街に列車は入る。

※そしてのんびり

 山陽電鉄が高架橋に上がり、普通列車線と共に並んできた。明石駅の到着である。
 此処で漸く乗客が入れ替わり、客も減ってきた。此処でビデオを仕舞い、空席にありついた。
 よく考えたらTWxを降りて以来列車の席にありついておらず、それで疲れた訳でもあるまいが、半寝の状態で座席にまどろんだ。

 次の西明石を過ぎると、優等列車専用の複線が消え、ありきたりの幹線設備になる。
 風景も宅地が圧倒的になって都市風景とはかけ離れる。山陽新幹線の袂に拡がる蓮畑は相変わらずで、いつ見ても印象に残る。
 色んな風景に出会った此の旅だが、印象と言う点ではやはり自然に勝るものはない。
 納沙布の風雨に打たれてこういう考えを持ったというのとは少し違う。ただ人の手の入っていない自然は、それだけの苦難を強いる。その程度が解った旅でもある。もう到底自然と向き合う旅は出来まい。その次に魅力のある、庶民の手の入った景観でも漁ろうか。
 加古川では煉瓦造りのニッケ工場が住宅街風景に抑揚を与える。その後も農住交えた郊外風景が続く。この風景も小10分ほど流すと、間もなく姫路市街に列車は入る。


    23・第6日/長旅の終わり

▽姫路 15:34~糸崎 18:27・山陽本線(クハ115 75)

※長い旅路の締め括り

 姫路到着は15時間もなく。
 此のすぐ後には4分発の岡山往きもいたのだが、岡山往きの後再度広島で乗り換える上、次発下りが三原往きとあってそちらを選択した。混雑が予想される岡山での乗り換えは避けたい。
 余りある発車時間までに自宅に一報しようと思ったものの、ホームにたった2基ある電話機の前にはそれを上回る人だかり。とてもすぐに電話を入れられる状態ではない。
 止む無くキオスクで残り少ない懐から100円のキャンディーを買い求めた。これで帰宅までは何とか対応出来よう。
 すると、間もなく15:14次発の三原往きが滑り込んできた。
 だったらさっさと乗り込んでゆっくりすんべぇか。

 乗車した列車は115系のいよいよ初期型。
 従って、クーラーなど気の利いた装備はなく(!)涼を取る方法は唯一・ラム圧導入だ。
 何の事かと思われそうだが、側窓を全開にする。
 今までならこれだと蒸し暑くて持たないと思ったが、意外にも凌げる。雨が降りそそいで輻射熱が押さえられているようだ。眩しい西日を受けて過ごす待ち時間。
 客も混雑こそ招かなかったがドンドン乗り込み、席は満席に達せんとした。
 そんな訳で余裕があるように思われた20分の待ち時間は瞬く間に消化。列車は三原に向けて西進し始めた。

※長閑こそ最大の休養

 さて久々に長い距離を各駅停車で走り行く列車。それはもうもどかしいを通り越して麻痺というのに近かった。
 と言うのも、此処の風景には刺激がなくただ呆としている事が多かったからだ。
 有年を過ぎると不意に車掌の車内検札を受けた。私は半ば面喰らって伊丹の車内検札で検印を押した18切符を差し出した。

 次の上郡を過ぎると“山陽線の閑区”とも言える備前地域を走破する。
 此処は時間抵たり1本あるかないかというダイヤで、それも納得せざるを得ない山の端の迫った光景が始まった。
 こういう閉鎖的な光景は行った場所にも因るのだろうが、私が見た限りでは天竜峡か祖谷渓谷ぐらいしかお目にかかっていない。
 しかも此の二景は渓流風景だが、ここは中国山地特有の山あいの閑景である。
 たび重なる陸路で見慣れている上に抑揚も無いので、普段なら寝に掛る処だ。処が、様々な風景を目の当りにしたせいか、此処がイヤに新鮮だった。
 夕立に降られたせいか山々は深緑に映え眩しいぐらい。思いのほか心和む時間になった。
 神戸以来雨にも祟られる事なく、中国山地の山あいを縫うこの路線を穏やかに電車は走り抜けた。
 途中の和気では廃線になるもまだ駅施設の残る片上鉄道の廃墟を見る。熊山を過ぎればその風景に中国地方有数の“大河”、吉井川が加わる。懐がやや拡がると、じきに岡山市近郊にはいる。

※トラフィック・トランジット

 旧西大寺市街にはいると、車内が俄か活気づいた。時刻は既に16時を回り、ラッシュアワーを迎えていた。
 こうなると旅行気分なんて悠長なものは萎えてしまう。ひたすら体を休める事に務めた。
 薄暮時になるに連れて人の動きは慌ただしく、無表情でもあった。このラッシュアワーは倉敷市を過ぎて小康状態になったものの、以後車内の混雑が退くことは無かった。

 山の端に太陽が傾いて止まない。いよいよ此の旅も終焉が近付いてきたのが漸く実感された。

 何故、悔いなく過ごしたつもりの此の旅に心からの喜びが沸かないのは、やはり悔いがあったからなのか。
 違う。
 また来られる・そんな確信と意欲があるからこそ悔いはない。
 心に沸き出た陰りは夢の終わりを噛み締めたい、そんな思いがあるからだ。

 だが、そんな心情とは裏腹に周囲は容赦無い。
 電車はお構いなく定刻運転はするわ、乗客は福山市を迎えて再び混雑はするわ、旅行なんて知ったものかと知らん顔。

 しかし、赤坂、松永を過ぎると今度は尾道水道が心和ませてくれる。夕陽の沈む瀬戸内の尺景だ。
 駅を過ぎれば因島大橋も微か向こうに望め、青く映えた瀬戸内の風景を堪能させてくれる。三原は間近だ。

▽糸崎 18:38~至近駅(^^ゞ 21時半頃・呉線(クハ103-98)

※最っ低ーの電車

 糸崎で降りようか、三原まで乗って次の電車を待つとするか。実は糸崎に辿り着くまで決めかねていた。だが、糸崎に着いた途端にアッサリ結論が着いた。
 となりのホームに呉線経由の岩国往き電車がいる。その確認だけでアッサリ電車を飛び降りた。

 だが合いまみえた電車は、私が今まで乗ったことのある列車のなかで“最低”と評している103系である。しかし勢いよく降りて行った手前、次の駅で終着する三原往きに戻る気にはならず、半ば騙された思いで103系に乗り込んだ。

 久方振りの最高な景観堪能線である呉線乗車。これが最低な電車の103系で此の旅を終えることになろうとは、なんとも後味の悪い思いだ。

 初年度設計は1963年。115系と時期は然程変わらないが、原形は1957年の試作。
 一歩車内に入ってみると、ユニット窓の下の壁に沿うベンチシートが長短八脚、吊革と握り棒を除くと他の構築物は見当たらない。座席よりもドアの間口のほうが広いこの電車は一切の飾り気もなく、言ってしまえば“人間用有蓋貨車”の如くなのだ。
 今の通勤列車でこそ様々な内装や装備で僅かに心和ませるようになったが、こんな列車に客を乗せようという神経が知れないと私なら思う。まさに“モーレツ世代”が居たならではの合理的な電車だ。

 マァ、これに乗り込めば自宅駅まで乗り換える必要もないし、どおせ疲れているんだからアンキに呉線に揺すられようと、電車前端のベンチシートに腰掛けた。

※暮れて安芸路

 席が空いていただけでも救いモノかと半ば諦め、小10分で電車は発車した。
 処が次の三原で6分の停車。聞けば、次発の岡山発山陽線下り列車を連絡しての発車らしい。
 次発電車にまで抜かされていよいよ心情が怪しくなった。

 高架化されてその容貌を一変した三原駅は駅構造もすっかり垢ぬけ、ホームは主無い天主台と肩を並べる高さになった。背後には新幹線ホームを配する。
 だが私には、まだ0番ホームから呉線電車が出発する旅情たっぷりの三原駅が恋しい。

 岡山発電車の乗り換え客を吸い込んで、これまた高架工事済みの呉線へと駆け出した電車。陽は此の待ち時間の間に墜ち、風景は青く煙ってきた。
 沼田川の県内随一の長い鉄橋を渡り、三菱三原重工の和田工場を眼下に見ると、眼先には蒼ざめた瀬戸内海が拡がり、佐木・小佐木島を望む。此処からも遥か遠くに因島大橋が望める。私が一番親しんだ瀬戸内の風景であり、明かりの落ちた今現在も魅力は充分だ。
 須波・幸崎を過ぎると残照もなくなり、島影は黒く瀬戸は墨色に沈む。外の光景はすっかり見えなくなった。
 また、忠海を過ぎるとビニールなどがまだ取れていない工事済みの駅ホームが拡がる。
 安芸長浜駅で、日本電源開発竹原発電所とその近隣の住民の要望で近日開業する。

 外の風景は暗がりに沈んでほぼ見えなくなった。

※グダグダ愚痴こぼしながら馴染みの風景

 竹原に向かう列車だが、海岸線には縁がなくなり、建物や山崖に跳ね返るけたたましいモーター音が妙に耳に衝くようになった。19時を過ぎて通勤ラッシュから時間帯も地域もズレてきた。閑散となる車内。

 呉郊外の仁方・広を過ぎると20時を過ぎている。この辺りで乗客の増減が僅かだが慌ただしくなる。そうかと思えば気合いを要する休山トンネルでは呆としている間に抜け、気が付けば呉市街に入ってた。
 どうもこの通勤型列車は車外より車内の情報が入りすぎ、103系に至っては中身が何もないので鬱陶しい乗客の動向だけがいちいち目に入るようだ。通勤列車も殺風景になるはずだ。

 もうこうなってくると、旅行が終わって勤め先から家に帰ってきたような状態に成り下がっている。此処まで雰囲気を壊したのはムーンライトの後のJREの区域ぐらい。それが最後の広島で味わうとは、トホホ‥‥‥

 とは言え、絶景が無くなった訳ではない。
 天応の手前から見える広島湾の風景はこれまた格別。ホリゾントに放たれたプラネタリュウムも結構綺麗だが、対岸から見る廿日市-佐伯区-鈴が峰の夜景はまた乙なもの。キメ細かな無数の光眸が街の形を写し出す。それを遮る江田島にも僅かだが町の灯が輝く。

 瀬戸内の夜景は此処に魅力を感じる。それぞれがそこに生活の息づいている事を示している。逆に同じ明かりを灯す人がそれぞれの生活を営んでいる。それを優しく教えてくれる。ともすれば都市の明かりは華美で疲れがちになるが、この位置からだと程よく和らいでいていいのだ。
 この光景も坂を過ぎると見えなくなり、いよいよ広島市内に入って行く。

※いよいよ帰宅

 海田市で山陽本線に戻った電車はひとまず広島に向けて駆け抜ける。
 呉線を含めて複々線になった鉄路を今度は北西に向かう。マツダ関連の工場群を縫って走る向洋界隈。
 それを過ぎると広島機関区・車両区が眼下に拡がった。山陽新幹線も迎えて鉄路は一気に活気づく。そして滑り込むホームは1番。20:51、電車は広島駅に滑り込んだ。

 広島では9分の待ち合わせ、その間に乗客はまた増え、俄か混雑してきた。
 そして21時丁度、電車は発車した。
 もう旅行気分を匂わすのは僅かに足元の大荷物のみという、旅の終わりには些か慌ただしいものを感じた。

 一方外では縮景園、基町・白島市営住宅をかすめ、遠くには基町クレドと眼下には営業を始めたアストラムラインがある。此処も徐々に大きく変わりつつある。
 それはひとまず再来月に行われる広島アジア大会に向けての大きな流れである。
 そしてその後も被爆半世紀、21世紀へと広島の未来は過去を抱えて常に先を見据える。ともすれば足元がおぼつかなくなるほど‥‥‥

 次の横川を過ぎて太田川放水路を渡る。高校時代は此処の涼風を好んで仰いでいた思い出の風景だ。
 西広島、新井口の近郊風景、そして高層マンションまで擁した鈴が峰という山にのしかかった山津波のような団地。見なれた風景を迎えていよいよ家路へと帰る時がやってきた。

 こうして長旅を終えることとなる。
 重い荷物を引き摺って駅から歩いて15分(T_T)。ほぼ一週間振りに自宅に戻り着いた。

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 ホントすみません、途中一回切ろうとは思ったんだけど。
 コレでも乗車に繋がりの薄いうんちくや個人情報を削った挙げ句ですm(_ _)m。

 このシリーズ、単項がすごく長くてさすがに途中やめようかと思ったんですけど、取り敢えず綴ってみた(^_^;)。
 もう20年になるんだよね~
 でも近所の状況はこの時と殆ど変わらないんだよね~
(クーラーが無いってのはさすがに無くなったけど)
 ドユコト(@_@)
Posted at 2014/09/15 11:10:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年09月14日 イイね!

94北往記19。トワイライトの日常


    20・第6日/西の都へ

▽加越路を下る

※日本屈指の都市・金沢

 金沢の到着は8:48である。
 金沢は二年振り二度目の訪問だ。

 前回途中下車をして兼六園と金沢城趾を見物したが、それだけでも金沢の持つ味を掴めた。
 それはさすがに金沢の持つ底力なのだと思う。
 金沢は維新期には日本4位の大きさを持つ大都市だった。今で言う名古屋に当たる存在感なのだろう。
 だが、その金沢は前にも況して雰囲気を一変した。

 高架橋から見下ろす駅前の風景は空き地や工事中の建物が目立ち、区画整理の嵐が吹き荒れているのが見て取れた。
 家屋が押し並べて一戸建ての平屋ないし2階建が殆どだったこの街も高層建築が増えてきた。
 こう言う都市化というのは形の善し悪しを問わずけっきょくは情緒を踏み潰す形を取る。
 それは否定出来ない事実である。

 何故か。
 それは日本の建築様式が効率を追求し続けた結果だと思う。
 建築学は専攻外で趣味でもないのでどうすれば・までは思い付かないが、このままでは情緒を踏み潰す都市開発だけが独り歩きしかねないと思う。
~しかも金沢駅は新幹線開業にその様相を一変したと聞く。

 8分の停車の後、金沢を発車。
 道路型に沿って削られた空き地に一抹の不安を抱きつつも、いにしえの都を見送った。

※越前の国

 金沢で止んだ雨も今度は雲が晴れ、小松市辺りを駆け抜ける時には薄雲だけになっていた。微かな青空に迎えられて見えない海岸線まで拡がる平野に見惚れた。

 この辺りは天候に似通った穏やかな地形が展望窓に拡がる。
 背後こそ山並みが迫るが、眼前は広々と掩蔽物の無い平野だけ。水田や畑などが拡がって目を潤してくれる。
 晩夏と強い朝陽でやや黄ばんでみえるが、実りの秋が近付いていることを示している。

 時折普通列車や特急列車をやり過ごし、加賀・芦原の温泉街を過ぎると再び加越国境を越えて福井県にはいる。

 もともと地理の得意な私が47都道府県を思い付くままに言うと、どうしても40番台のそれも後半になるまで口に出ない県なのだが、そんな福井県の持つ歴史や産業上の地味な印象に反して観光地は多い。
 大分して若狭湾岸のリアス式海岸や、景勝地・東尋坊を筆頭とした北西部、加えて九頭竜渓谷など豊かな自然を持つ北東部と言う処だ。
 その中の北西部をTWxが駆け抜ける。
 車窓から景勝は望めないが、長閑な風景がそれに替わって私の心を和ませる。

 福井市が近付いてきた。
 近郊風景も地方都市のそれではあるが、金沢と違って妙に背伸びしておらず少し安心した。
 福井県が長閑だから安心したというのでなく、都市毎に合った都市の成長を福井は出来そうだという感じを持ったからだ。

 引き替え、広島の都市化は悲しい程の過成長を施されて軋んでいる。
 それは広島の都市化の基本が、具現化されていない“平和”というものに成り立って来たからだ。
 昭和20年代後半に打ち出された“平和都市構想”というものは所謂“平和の聖地”という形状的には曖昧なもので、都市機構や生活空間という観点は等閑にした上で、戦後の痛手を漸く克服した住人から住処を奪いながら構築した。
 此処まででも軋んでいるのに、広島市は此のあとの急速な都市化の弊害を無視しながら都市構築をしたと言うべきだ。
 周囲の宅地化に交通手段は飽和し切り、交通開発に不向きな地形に都市機能を集約した矛盾が今以て解消されない。
 生活設備も然かりで、例えれば広島は玄関居間だけが立派な肋家という為体だ。

 こんな街に、知っている処だけでもなって欲しくない。そう願うばかりだ。

 此の福井市から、福井鉄道が見え隠れする。
 広電や静岡鉄道と同様のJR併走型のインターバンで、JRの輸送を補完する形で頑張っている。
 終点の武生市駅では電車が並んで待機している風景も見られた。その手前の鯖江市は近日の体操大会の会場で、ドーム競技場まで拵えたらしい。

※最後の一休み

 広い平野も窄まり、暫く走ると敦賀に到達する。

 此の敦賀では此の列車最後の機関車交換が行われる。
 記録していないが確か26分もの停車時間があったはずだ。私は軽装のまま、車外に出ることにした。
 素人考えからすると札幌大阪間は方向転換を考えても二回交換するだけでいいものだと思うが、この区間の機関車のやり繰りは想像を超えるらしい。
 恐らくこの機関車はのちほどここに来るTWxの上り列車を曳くことになるであろう。
 なおこの旅行後、大阪-新潟間を走る寝台特急“つるぎ”が廃止された。

 私はこの機関車交換作業を見に行ったが出遅れ、解放作業の終わった場面から立ち合ってビデオを回した。
 だがそれが終わると急に閑散としたので、趣旨を変えてこのビデオカメラを持って編成を見回した。

 洞爺停車以来18時間振りの外の空気に触れる。時間帯もあるが、やはりけっこう蒸している。
 上空は薄雲こそ浮かんでいるが「ピーカン」と俗に言う爽やかな青空。
 ただこれが編成をビデオに納める私を泣かせた。

 TWxはご存じ濃緑色の車体色だが、これを青空に合わせて撮ると車体色が潰れ、車体に合わせると青空は白く飛ぶ。
 面倒になったのでオートにワイドコンバーションレンズの調整要らずの装備で外から撮影した。
 編成最後尾の電源車を撮り終えた後、今度は車内を撮影しようと思ったがさすがにB寝台車両はためらった。
 A寝台使用者の冷や水とも言おうか、逆の立場ならこれ程癪に障ることは無いと思えたからだ。
 けっきょく4号車・サロン・デュ・ノールから前だけを撮った。

※車内を拝見

 この時間はサロンカーも寛げる時間ではなく、人は疎らであった。
 座席の全てが日本海を望むというレイアウトは伊達ではなく、大きな曲面窓と相俟ってクリアーな視界を持っている。
 しかし此の窓から今見える風景は何の変哲も無い駅構内である。
 この車両の裾には展望室のハイデッキから一段下がって自販機・公衆電話、シャワールームがある。

 続いて食堂車・ダイナープレヤデスに入るが、普通食堂車は車両の半分しか乗客に解放されていない。
 それもそうで、殺風景なライトグレイの壁の向こうには食堂車に無くてはならない厨房がある。

 その手前の窓から何やら怪しげな光が見えた。
 大昔の計算機が計算でもしているのではと思えるほどの暗がりの窓を覗き込むと、それは音響機器だった。
 数台のベータデッキも稼働している。
 車内放送の指令塔が此処にある。

 そしてアルミの押し戸を開くと、そこには落ち着いた色彩のテーブルが並ぶ。食堂車に詰めている給仕係が疲れているのか、食卓に陣取りため息をついていた。
 一級の列車に勤務するなら悩みなぞあるまいというのは大間違いである。此処の勤務だからこそ大変だと思う。

 そこから自動ドアを二度くぐるとA寝台個室の車両だ。
 ただ、一歩入ってハタと気が着いた。そういえば、個室のプライバシーが万全ということは、逆に言うと外から個室の様子が分かるべくもない。結局白い壁と五つの扉を見送る他無かった。

▽湖西線

※大廻りループ線

 部屋に戻って間もなく列車が発車。寸も無く山並みに抱かれる事になる。

 北陸本線最後の難所、柳ヶ瀬越えである。東の野坂山地と東の伊吹山地の間をくぐる形で衣掛・深坂の隧道を通る。

「ループ線の案内をさせて頂きます。
 右手に見えて参りました衣掛山の山腹を、時計の針の方向に周回します。
 これは少しでも緩やかな上り勾配で列車を運転するため、走る距離を長く改良したもので、ループ線と言います。
 只今から右手に見えて参ります北陸・下り本線の上を越えまして、第二衣掛山トンネルに入って参ります」

 車掌の案内のように距離をおいて離れてきた北陸下り線を列車が跨ぐ。
 短音一発の後、そのループトンネルに入った列車。

「左下の方向に、先程停まりました敦賀の町並みと、敦賀湾が見えます。此の列車の中からご覧頂ける、最後の日本海です」

 のはずだったのだが、ビデオカメラの操作を誤ってしまい、操作に気を取られ気が着いたときには再びトンネルの中(T_T)。
 殆ど目に入らなかった。

「左下に、此の列車が走りました、北陸上り本線が下り本線を越えた所が見えます。
 これで衣掛山の山腹を一周した事がお解り頂けると思います。
 およそ2km進む間に28m登っております」

 左側の小窓にはコンモリと盛られた小山が認められる。
 衣掛山だろうか、通路を挟んだもどかしさこそあるが、此の山を綺麗に望める風景を堪能。
 手前の稲穂の黄緑と、山の深緑のコントラストが綺麗である。
 そのうち、下り線を跨いでから凡そ4分弱で再び下り線を左手に望む。
 短いトンネルを潜るといつの間にか右手に移っている。
 さらに元通り併走するまではまる4分半掛かった。

 新疋田駅を通過後、一際長い深坂トンネルに入った。このトンネルを抜けると今度は右手眼下に北陸本線が分岐、下を桁繰って東に向かった。

※日本の風景

 この山越えが終わると、TWx最後の景観琵琶湖が左手に拡がる。

 唯一反対の小窓から見るこの景観は思いの外心鎮まるものであった。
 最初は水田が拡がる平地の果てに微かに水面が見えてきた。
 それをひと山ふた山小山を抜けるとその琵琶湖が近付いてきた。見え始めてから眼下に拡がるまでは10分ほど掛かった。

 湖面の際を走る国道161号線に束ね掛かるように居並ぶ家屋や集落は戸建てが多く、都市に見られる殺風景さがない。
「生活臭」という言葉を折りに触れ使っているが、効率や機能だけが先走りした建物には人の持つ「余裕」がない。
 食って寝て、それ以上の味が建物から感じ取られない。言わば都市住宅は“シェルター”の如くである。
 そんな都市の忘れた佇住まいが此処にはあった。
「田舎が良くて都市が殺風景」と一概に言っている訳ではない。
 生活という物が如何な物かを考えた時、必要なものが何であるかを見つめ直す必要があるのでは・と思うばかりである。

 この界隈を走っていて思い付く言葉が“日本の縮景”だ。風に耐え、雨に耐え、その繰り返しが磨く生活の場だ。
 穏やかな昼の陽に照らされて、心静める風景が続く。屈曲の殆ど無い湖西線の線路状態にも助けられ、のんびりとした昼下がり風景を琵琶湖を肴に満喫する。
 この風景を湖西線は一段上がった処から見下ろす。高架なのか山の端の高地なのかはこちらからは解らないが、比良山地を背後に背負い、眺めの程よい風景がこの一帯に続く。

 日本海を走り終えるともう京都に急ぐだけの旅路だと思っていたTWxだが、その名前に似合わず本州側では余すところ無く日本の風景を見せ付けてくれる。
 骨の髄まで日本という風景で心を潤してくれる列車、それがTWxである。

 此の琵琶湖湖畔の旅は一時間にも満たなかった。
 その中には水田風景あり、湖水浴場のキャンプや駐車場がありと、水のある生活が拡がる。
 それが、山の瀬に窄められた都市風景を仰ぐと大津市が間近になる。
 左手にはびわ湖タワーの観覧車が見える。琵琶湖湖畔に繰り広げられた“日本の縮景”も間もなく終わる。

▽いよいよ京阪路へ

※通い馴れた旅路の中

 湖東・湖西のジャンクションになる大津駅を通過すると、もう頭の中に叩き込まれた、悪く言うと見飽きてしまった京阪路が始まる。

 ただ、この辺りのJR京都線は古来から高速交通として高度に整備されており、運行施設がこの様な優等列車の走行を一切妨げない複々線だ。
 左の小窓から山科の町並みが見えてきた。ここも歩いたという意味では思い出がある。
 ムーンライト山陽で京都まで初めて旅した夏、泊費で採ったホテルが上花山の東急インで、此処からJR山科駅まで歩いたら1時間以上も掛かった苦い思い出がある。
 1道一号線を西進し、新幹線高架の下をかい潜った風景、古都の落ち着いた風景が拡がる山科を思い出す。

 京都に12:02定時到着。
 TWxの旅も余す処あと30分余になった。
 工事中の殺風景な足場などを見送り、いよいよ京阪路に入った。

 商・住宅地を暫く走ると間もなく乙訓郡に入る。東海道最後の隘路・山崎の天王山である。
 名神高速、東海道新幹線、そして阪急京都線が束になって合流する交通の要衝だ。宇治川、桂川、木津川の三つの川が合流して淀川になるのも此処である。
 此処を境に、11道府県を縦貫するTWxの、最後の自治区になる大阪府に入った。

 暫く併走していた高速、新幹線、阪急がそれぞれの袂を分かつと、京阪間独特の衛星都市風景が始まった。
 高槻-茨城間の巨大工場群が続く。高槻の車両基地や駅を過ぎると車内のラジオサービスが終了した。

 間を繋ぐリスニングミュージックが始まって間もなく、車掌の案内がした。
「ただいま、外側線・TWxTEXとすれ違います」
 その案内が終わるまでもなく、車窓に濃緑色の特急列車が走り去った。
 特急同志の擦れ違いでもあり、アッと言う間ではあったが、直線路で遮るものもなく綺麗に見ることが出来た。
 私は車内の片付けを始めた。

※いよいよお別れトワイライト

 部屋に拡げた私物を片付け、大きなバッグにまとめると列車は吹田を過ぎていた。
 間もなく新大阪に到着する。
 ただ、此の時、余りこのTWxで長途留をすると折角さっぱりした気持ちで迎えた終点で名残惜しくなる。
 私は時刻表を開いて大阪発の列車を漁って一策練った。

 新大阪も定時に発車。
 部屋を片付けて部屋を出るとJRWの担当車掌に出喰わした。
 挨拶を交わし、灰皿を返して貰い、車内の出来事話しに花を咲かせた。

 間もなく大阪。この列車に別れを告げる時がやって来た。

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 TWxの乗車もコレで終わり。
 本当に日本の借景を堪能できる列車です。
 無くなるのがここまで惜しい列車という物もない。

 さて、大阪からはまっすぐ帰りません。
 そしていよいよ次が最後の章ですm(_ _)m。
Posted at 2014/09/14 11:57:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年09月11日 イイね!

94北往記18。飽くなきまでに日本海


    19・第6日/お早う!最終日

▽長閑なり日本海

※寝ぼけ眼の信越路

 幾つもの目覚ましからけっきょくクロノグラフで目が醒めた。
 部屋のアラームで目が醒めた記憶もあるのだが、窓外の風景は既に新津駅を出た様子である。

 薄雲が拡がる曇天模様に、道路は湿っている。
 夜の間に雨に降られた証拠である。
 4:50程なので、蛍光灯の街灯がいまだ点灯している。
 雲の切れ間にはまだ青みが差しておらず、日の出をまだ迎えていない証拠である。

 30分程この様な薄青色のモノトーンの住宅街や水田を寝惚け眼で眺めつつ、次の停車駅の長岡にやって来た。

 時刻は5:23。この辺りになると大分意識もはっきりしてきたので、そろそろ寝台を片付けることにした。
 セッティングと違って今度はボタン一つで畳むだけでいい。
 通路に避けてこの様子をビデオカメラに収めてみた。
 “ソファー”のほうへボタンを押すと、セット時と逆に、ベッドの手前半分が持ち上がってゆっくりと立ち上がって行く。半開きのカーテンを引っ掛けながら垂直になると、一旦“ガクン”と跛を引いて向こう側に倒れ込む。座面と背凭れの間からシーツが覗き込んでいるがそれは御愛敬。丁寧に後ろ側に押し込みましょう。

 出発からずっと今まで着続けた白いシャツをグレイのスペアシャツに替え、半ズボンを着用。ラフな着衣に替えた後、もう一度折り畳みテーブルをセットし、再び昨夕と同じ様なセットに取りかかった。

 ラジオを点けて、稲穂の青さ眩しい越後路を見送る。
 新旧織り交ぜての家屋はある種の長閑さを醸し出す。
 人通りがまだ無く、建物の持つその性格がまるで人々のそれである如くだ。
 ラジオの受信状態が芳しくないのでこちらは諦め、呆と風景に魅入った。

 普通の特急なら新津から新潟へ寄ってから長岡に向かうのだが、TWxは時間帯の悪さと編成の向きを考慮して、新津から長岡までまっすぐに向かう。
 新潟に寄ると列車編成をもう一度逆進しなければならなくなるのだ。

 長岡から暫く走ると柏崎を通過。それまでビデオをつけてそれを呆と見詰める。今度は展望窓には日本海が見え隠れする区間に辿り着く。

※朝陽の日本海

 此処を過ぎると日本海の絶景を幾度か眺めることになる。
 この辺りになって漸く朝陽が周囲を眩しく照らし出すようになった。しかしまだ早起きさんの時間帯だ。

 目下の日本海は穏やか且つ溌剌としていた。既に群青色の水面を見せてくれる。
 沖に浮かぶ、松林を頂いた島が白波を受け止める。
 中には鳥居や七五三縄を頂いた岩礁もある。昔の年賀切手などの絵柄にも扱われた景勝である。

 やがて、堤防や陸が朝陽に照り付けられて強い黄昏色に映え出した。コントラストも抜群である。
 調子に乗ってビデオカメラを回しながら「お早う御座います・日本海」何て大ボケをかまそうかと思ったが、言い掛けた途端にトンネルに入った。「御座」辺りで息を噤んだ私は思わず「馬鹿野郎」と言ってしまった。
 ただ、そんな馬鹿げたやり取りをしたくなるほど、目の前の風景は雄大で穏やかであった。

 時折絶景を塞ぐトンネルや堤防こそ小癪だったが、お蔭でゆったりと目醒める事が出来た。
 やはり“白鳥”から車窓を望むのとは訳が違う。
 こんないい風景を一人占め。その景色の中、ホームの向こうは日本海・と言う駅も珍しくなかった。
 写真ぐらいは撮ってみたいが、列車の待ち合わせをするには些か心細い気もする。心の掃除にはいいかも知れない。

 米山駅通過後、不意と列車海手の窓から廻り望める列車の後方に目を向けた。
 どよめいた上層の雲から、まるで藤棚から藤が花や蔓を垂れる様に雲が下に流れている。
 いや、これは雨だ。
 山形秋田、奥羽地方なのだろうか?
 新津の方でも雨に降られていたから容易に想像できるが、此処からその様子がはっきりと解る。
 間を遮る分厚い雨雲が不気味に日本海を曇らせる。
 ただ近景は時折薄雲に遮られはするが、鋭い朝陽の陽光を受けて明るく照らされる。

 漸く雲の切れ間が鮮やかな青色になってきた。
 水平線を望むが、異国の地が見える訳で無し、空と海との境目でしかない「ホライズン」をただ見詰める。対岸に大抵何かある瀬戸内海で育った悲しさか、海の上に何かが見えそうでやはり呆と見詰める。
 レールのすぐ向こうは砂浜だ。
 少しごみが打ち揚げられているのが玉に傷(-_-;)だが今にも服を脱いで海に飛び込みたくなった。
 そう言えば長らく海には来ていないな。打ち寄せる白波、足跡の無い砂浜、思いきり遊びたくなる!

※忘れ物の町並み

 国道8号線か、それが線路と海岸線の間に降り立つと今度は集落が見える。
 漁村落か、それとも海水浴宛ての商売か、小じんまりながらも瓦葺きのしっかりした家並みが懐かしさを感じる。
 壁に焼き板を打ち付けた家、ブリキやホウロウで出来た広告看板を掲げた家も見られ、産まれ育った町並みを思い起こさせた。
 その向こうには日本海である。
 海岸線と、そんなつましささえ思わせる集落が入れ違いに現れて心和んでくる。
 やはり俺は海っ子なんだろうなぁ。

 ふと思ったのだが、北海道の集落には大地の持つ雄大さの影でどこか乾燥感があった。
 それは家屋の造りによるものだとこの時思った。
 向こうは厳寒や大雪に耐えうる必要から何処か簡素で頑丈な造りを要求される。
 スレート葺きで、形状の変化に乏しく角度の急な北海道の屋根に対し、海からもたらされる風雨に耐えるべく瓦葺きにされた変化に富む屋根。
 空調の効果を重んじる北海道の壁に対し、通気性が重視される焼き板葺きの壁。
 注意さえ払えばTWx一台で此処までの変化を感じられる。

 直江津、3分の停車のあと6:28発車。此処よりTWx所轄のJRWの管轄に入った。
 引き続き日本海と集落を繰り返し眺める風景が続く。
 海岸線もより激しく近く遠くに移動する。
 ただ、有間川通過後には今まで背後に控えていた北陸自動車道の高架が見え隠れする。北陸路の隘路が近付いてきたのだ。
 駅ごとに拡がる集落とその間に拡がる日本海。人通りもまだ疎らで長閑な事この上無し。上空は相変わらず薄雲拡がる中に青空が覗く。まさにこの風景、長閑しや。

 ところで糸魚川を通過後、背後の風景が険しくなってきた。
 先程北陸路の隘路と言ったが、北陸路随一の難所親不知・子不知が近付いて来たのだ。
 険しい断崖と日本海の激しい波に洗われ、命を落とす者も居たと云う。
 この断崖を越える時
「親は子を顧みず、子は親を知らず」(車掌案内)
 事から名付けられたという。
 現在は此処を国鉄はトンネルで、国道と北陸道は高架橋で渡して事無きを得ている。
 だから絶景を列車から望む事は出来なかったが、その難易度は容易に推せた。

 ただ、今は難所を通り越してキャンプ場にすらなっている(=_=)。
 トンネルを抜けて親不知駅を通過すると自動車道高架の下の浜にはワゴンや四駆が駐車し、自動販売機まで有る。
 すっかり俗化されてしまった。
 国道・自動車道の二本の高架橋を見詰めつつ、もうじき日本海の絶景は離れて行く。
 高速道も山の手に下がり、市振駅通過後から認められる掩蔽物の無い日本海を見納めた。水田を目前に黄緑と青のコントラスト。日本の風景だ。

▽加越三都へ

※立山、そして富山

 日本海を離れて来るとTWxはブレックファーストの時間帯を迎える。

 本来ならダイナー・プレヤデスで朝食という時間帯になるのだが、繰り返し述べたように銭が無い。
 そんな不貞腐れた私の感情を慰めるように、食堂車のスタッフがコーヒーを持って来た。
 モーニングルームサービスである。
 コーヒーにミルクとスティックシュガーが添えてあり、お味はお好みに・と言いたかったが砂糖だけブッ込んだ。

 表戸に新聞が置いてあったのを認めてそれも部屋の中に持ち込んだ。コーヒーをのみながら新聞を読むその姿はよくビジネスマンの肖像としてイメージ付けられるが、私がこれをやるとどうも“父っつあん”になってしまう。老け顔二段腹の哀しさである。
 此処であらためて関東地方の豪雨の被害が甚大である事が書かれている。
 一通り読み終えて思ったのは、やたら広告が多く、知りたい種の情報が少ないのは全国紙の宿命か。
 欲を言えば富山の地方紙か日経でも入っていればなぁと思った。

 その新聞を読み終えると、展望窓には平野の先に僅かの日本海、左手の小窓に近郊風景が大きく拡がってきた。
 富山平野に拡がる魚津・滑川市街である。富山が近付いてきたのだ。
 水田に地鉄・富山地方鉄道が縫って走るという風景も家屋、そしてビルが並びはじめて漸く市街地になってきた。
 その市街の奥には高く遠く聳える連峰があった。
 朝靄がひどくてその表情までは拝めなかったが、これが北陸の屋根・立山連峰である。
 その脇からは朝陽がまばゆく差し込む。漸く動き始めた富山の朝である。

 7:50、富山到着。4分の停車ののち発車。

 穏やかに明けた富山の朝を私はゆったり寛いで過ごす。
 普通寝台特急は、朝起きてしまうとその乗務の行程がほぼ終わっている事が多いが、こちらはまだ4時間半もの残り時間がある。
 近郊列車なら列車1~2本分の行程だ。
 のんびり出来る・ただそれだけの贅沢が如何程の価値かをたっぷり味わった。

※恋路列車

 この北陸本線に入って走破すると、距離の割に難所が多いことに驚かされる。
 これから迎える加越国境の倶利伽羅峠もその一つである。
 実は先の高岡を過ぎてからすぐあと天候が陰り、少しずつ雨が篠付いてきた。
 道路は湿り、風景の色も暗く落ちてきた。
 山の端が迫り、自動車道も高架橋に待避し、周囲の風景は急にもの寂しくなった。

 此処で私はBGMを掛けてみた(また楽曲歌詞掲載ご容赦m(_ _)m)。

 ♪愛しくて 愛しくて
  寄せては退く 波を見ていた
  忘れたくて 二人のことすべてを
  恋路は 霧雨の中
  遥かなる 冬の浜辺
  幻と 佇む駅
  潮風 赤錆びた鉄格子 無人の待合室
  剥き出しの 樹々の肌と
  カタカタと 黒い電車
  街を出て 北へ登る
  想い出だけ 重ね着して
  しだれ柳 慰める様に
  能登路は 雨に霞む

 村下孝蔵の歌う“恋路海岸”である。
 些か外したシチュエーションも有るが、情景が厭というほど合っていた。
 特に“幻と”のフレーズで図らずも倶利伽羅駅が現れてきた。

 語り囁く村下孝蔵特有の歌いくち、哀愁を誘う水谷公生の旋律、終盤で感情の高揚を誘う町支寛二のコーラスは彼のデビュー時からの取り合わせで、私はデビュー間も無くの頃から好きだった。
 それが旅愁を帯びた曲ともなるとたまらない。
 叙景詞が綺麗で、みだりに横文字を使わない氏の作品は国内の旅に連れ立ちたくなる。
 北海道でも三曲ぐらい持ち合わせて聞いていた。

 二つ先の津幡はその能登路に向かう七尾線の分岐駅だ。
 程無く列車は加賀の国、百万国の城下町である金沢に差し掛かる。
(今項敬称略)

-----------------------------------------------------------------

 目が覚めてもまだ堪能しています(o^-^o)。
 あいにくこの区間はもう新幹線で訪れる地域になってしまいTWxの存在意義を消し去ってしまう。
 しかし、用事に追われてならともかくこの区間はやっぱりこう言う寝台特急や普通列車での走破が似つかわしい。
 18切符では残念ながら夜しか通れなかったので尚更だ。

 この区間を目当てにするだけでもTWxは珠玉の列車なんだがなぁ(T_T)。
Posted at 2014/09/11 07:19:38 | コメント(1) | トラックバック(0) | 蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年09月10日 イイね!

94北往記17。北海道との別れ


    18・第5日/トワイライト・ムーンライト

▽大詰め北海道行

※壮大・駒ヶ岳

 内浦湾を迂回するに従って、西陽が徐々に展望窓を照り付けた。
 さいわいコーティングガラスと空調が暑さを和らげてはいるが、その日射は強烈だ。

 八雲を過ぎた辺りであろうか、有珠山にも負けないボリュームで迫ってくる山があった。
 なだらかな稜線を持つ道南の名峰駒ヶ岳である。
 強い西陽の中鮮やかな緑を映し出す。有珠山同様頂きに靄を被っているが、こちらは微かな日除け程度である。

「右手に活火山・駒ヶ岳が見えております。標高1131mの活火山、駒ヶ岳で御座います。
 この山は全山溶岩に覆われております。
 大沼公園の北側に聳えます駒ヶ岳で御座います。
 列車は暫く駒ヶ岳の麓を進んで参ります。
 進む方向に連れまして、色々と変わった姿を見せてくれます。どうぞご覧下さい」
 との車掌の案内通り、最初は緑色に映えていた山肌が茶灰色に変わって行く。

 なだらかだった稜線も度重なる火山活動で険しく削れている処がある。
 案内の後の駒ヶ岳は一人聳えると言った格好で綺麗に山全体が一望出来る。

 もう少し進むと、火山流を手櫛でかいたように稜線が斜めに流れる。
 言われる通り、表情の豊かな山が西陽の鮮やかな光に照らされてはっきりとした陰影を描き出す。
 色、影、形。恐らく素晴らしい描写の駒ヶ岳であろう。
 東岸を進む列車は駒ヶ岳を周回するように隈無く駒ヶ岳を眺める。
 一方の駒ヶ岳も照れるでなく、角度によって様々な姿に変えながらも優しく堂々とした威容を見せてくれる。
 TWxの北海道最後のイベントはこれで決まりであった。

「ご案内致します。
 列車はただ今道南の景勝地であります大沼国定公園の中を通っております。
 右側に見えております湖、周囲160kmの小沼で御座います。
 大沼国定公園は、活火山・駒ヶ岳の火山爆発によりまして塞き止められて出来た遊水湖と言われており、入り江の多い岸辺には大小合わせまして126の島が御座います。
 また先程ご案内致しました標高1131mの活火山・駒ヶ岳は今度は列車の右側後方のほうに見えております。
 この角度から見ます大沼国定公園の姿、皆様、絵葉書などで一度はご覧になっているかと思います。
 列車、ただ今道南の景勝地であります大沼国定公園の中を走行しております」
 とのご案内で大沼を通過。

 日もほぼ落ち、水面は日射の反射で一面光っている。
 穏やかな湖面に黄昏が近付く。
 札幌発のTWxはこの大沼公園一帯で黄昏・トワイライトを迎えるらしい。
 その黄昏が駒ヶ岳を美しく、大沼を穏やかに映す。
 それを大きな展望窓に余す事なく映し出した。トワイライトの面目躍如である。

 この大沼公園を過ぎると、急に夜の帳が落ちてくる。函館市も間もなくである。

※ナイトトラフ

 機関車交換で停車をする五稜郭駅を目前に、私はシャワーを浴びることにした。

 身ぐるみ剥いで素っ裸・・・・・・・・
 オット、その前に部屋のカーテンは全部曳かなくちゃあ、動くストリップ劇場になってしまうσ(^◇^;)。
 服はハンガーに、下着はビニール袋に。石鹸とスポーツタオルを手にシンクルームに入った。

 シンクルームはシンク・トイレを畳むと肩口の鏡と腰許の石鹸置き、そしてシャワー器材だけが使用可能になる。
 そのシャワー器材は二つの操作部と一つのゲージがある以外はシャワーノズルだけである。
 操作はダイヤルが蛇口、ボタンが温度調整になっており、デジタルゲージは使用時間を表示する。
 ゲージは順算式で、総使用時間との差が使用可能時間になる。

 二人分の使用が設定されているので、此処ぞとばかりにゆったりとシャワーを浴びてみた。
 温度調整さえ間違わなければかなり快適である。
 その温度調整も然程の時間を要しなかった。
 肌が隈無く潤ったら石鹸を擦り付けてスポーツタオルで擦りあげた。
 一昨日根室の民宿で風呂に入って以来、この旅二度目のお清めである。
 納沙布や札幌の垢を惜しげもなくシャワーで流し込んだ。

 さっと水を切って、シンクルームの出口にあるフロアタオルで足をよく拭く。
 空調を強めると、気持ちがいいほど汗が退く。
 A寝台個室のレイアウトならではの快感でもある。

 カーテンを割くと、窓の外は既に陽が落ちていた。
 何より進行方向が逆になっている。
 五稜郭駅で機関車の付け替えを行った際に逆進していたのだ。左から右の風景が右から左になった。
 だが風景が暗くなったので違和感がない。

 TWxでは21時より“パブタイム”が食堂車とサロンカーで始まる。
 ただ、私は出向いて行っても酒や食事が頼めない(T_T)。

 イジケた訳でもないが、折角寛ぎの空間を誂えて貰っている訳だから此処で愉しんでしまえ。
 セットしたビデオウオークマンで映画“海峡”を流し、部屋の照明も落として月明かりで過ごす。
 札幌で買い込んだスナックで今度は自前のパブタイム。
 サロンカーでのそれに比べるとチープな感じは否定出来ないが、心だけでもリッチになっていた。

 函館市を後にすると、往きの時にも味わった津軽海峡の風景が漆黒の闇に拡がる。
 国道228号線を時折走る車が光の尾を曳いて眼下を行く。
 その上には闇に溶け込んだ津軽海峡が拡がる。
 水平線にも光の帯が認められる。
 これは対岸の下北半島ではなく、函館山からも望んだ烏賊釣り漁船の漁火だ。
 そして上空には時折雲の間に間に現れる満月が認められた。
 この三つの光が北海道からのお見送りである。

 よくキャンドルサービスなんかをイベントでやるが、それに有りがちなわざとらしさがなく、こちらものんびりと眺めながら寛ぐことが出来る。
 流している映画も佳境が近付いて、画面の小ささを除けばまさに映画館。2号車のビデオデッキが使えれば雰囲気は最高だろうに(T-T)。

 対岸には月明かりの中、凾館山と函館市街が見えてきた。
「‥‥‥漁業と海運によって発展した街です。
 その昔、横浜・長崎と共に我が国最初の海外貿易港として開港した古い歴史を持っており、欧米貿易の窓口となり、その影響は、古い町並みや、建物に面影を留めています。
 最も代表的な建物には湯の川トラピスチヌ修道院、ハリストス正教会、旧ロシア領事館、中華会館、公会堂などがあり、異国情緒豊かな風情を醸し出しています。
 函館は維新戦争最後の舞台となった処で、洋式築城の五稜郭は訪れる人々に当時の面影を偲ぶことが出来、国の特別史跡に指定されています。
 エ、しかしなんと申しましても、函館を代表する見所は凾館山から見る夜景で御座います。
 凾館山は、市街地の南端、津軽海峡に突き出している山で、高さ335m、600種に及ぶ植物の棲息と渡り鳥の休憩地として知られております。
 山頂からの眺めは、海と市街地の景観が素晴らしく、特に夜景は、香港・ナポリと共に世界三大夜景の一つになっております。
 またの機会御座いましたら、どうぞ函館のほうにお立ち寄り下さい」
 車掌の函館案内が流れ、北海道最後の風景も流れて行く。

 ロジックパズルの様に無数の細かい輝点が織り成す模様が人の息づく証である。光の羅列であるネオンサインが不快感をもたらすのはおそらくこの違いであろう。光と闇のハーモニーは美しくもあった。

 いよいよ列車は北海道の大地を離れ、19:45に青函隧道に突入した。

▽グッナイト‥‥‥

※外が見えないなら‥‥‥‥

 世界第2位の長さになる海底越狭トンネル・青函隧道に入った訳だが、往きの時にも言い出したようにトンネル内には華がない。
 唯一列車の快速感が心地好いが、外の風景が見えない鬱憤はそれ位では納まらない。

 千歳で出されたウイスキーセットが函館からスプライトのソーダハイに変わったが、それをスイーッと飲んでいた。
 今頃サロンカーではこのトンネル通過すらイベントにしているが、誘われつつもけっきょく部屋から出ず終いになってしまった、そんな調子で揺れる気持ちで寛いでいる。

 何時しかどの辺りを走っているのかすら解らないようになってきた。
 海峡号のような現在位置を示すものが無いからだ。
 しかし不快感は無い。乗車後に幾度か述べているが、TWxは今幾時何処をと言う事を一々気にして乗る列車では無い。云蓄やオタクを並べて乗るなんて以ての外なのである。
(この文章を自己否定してるよねσ(^◇^;)

 トンネルを出たのは20時半の少し前である。
 40分少々でトンネルを駆け抜けた訳だが、元々途中停車の駅が無い区間なので海峡号などの普通列車と経過時間に大差が無い。
 映画も無事にエンディングを迎え、私はビデオウォークマンをテレビに切り替えた。

※ベッドメイク

 さて、寝支度と洒落込むか。
 酒盛りを片付け、大荷物を全部壁際に寄せ付ける。
 ベッドメイクをするとダブルベッドのサイズになるのでソファーの儘で寝られないで無いが、出っ張った背凭れのせいで体を納めて精一杯のサイズなので、荒っぽい寝相には対応出来ない。
 ただソファー時の肘掛けがベッド時に使えない。他所へほかさなくてはいけない。

 ベッドメイクには思ったより大仰な片付けが必要だ。
 テーブルも二つのうち一つはベッドの可動範囲に抵触するので畳まなければならず、ベッドメイク後は一部が塞がって使用不能である。
 コンセントもテーブルタップが引っ掛かり、それも片付けの一つ。
 幅40cm程のスペースにこれら荷物を寄せてしまえば、後は殆ど手間を取らせずベッドが出来上がる。
 そのカラクリは出入り口にあるスイッチである。
 こいつを“ベッド”の方に押すと、カクンという音がしてゆっくりと背凭れが倒れて行く。
 ゆっくりゆっくり手前の方に倒れると、座面と面一になって止まった。既に仕込まれたシーツの敷かれたダブルベッドが出来上がったと言う按配だ。
 こうなると今度は大の字になっても余裕のベッドが出来上がり!

 据え付けてある浴衣に着替えて帯を締め、横になると、今まで背凭れに隠れていた読書灯が左手に現れた。
 これは折り畳みテーブルと排他利用である。
 また頭上には最初に触れたコンソールがある。
 寝たまま無精操作するには少し苦しいが、手を伸ばせば総べての照明が操作できる。
 この中のアナログ時計のアラームを次の停車駅・新津到着時間に合わせた。
 おまけに根室で使った自前のヘッドホンステレオのアラームラジオを適当に合わせて着けて置き、クロノグラフもアラームセット。
 果たして今度はどれで起きるやら。

※明日へおやすみ

 テレビを着け直すと、21時前のニュースをやっていた。
 受信状態はお世辞にも良くは無かったが、試聴に差し支えはなかった。

 聞けば外の天気が優れない。
 外は闇の帳で状態が殆ど解らなかったが、関東地方は結構な大雨に見舞われているらしい。
 そう言えば前に青森で車掌が「はつかりが遅れているんですよ」と言っていたのを思い出した。
 新宿をうろついている時も薄雲が掛かっていたが、あれから雨が降り始めて久しかったのだ。

 この大雨を逃げる格好で、しかしそのとばっちりを時折浴びながらもこなした今回の列車旅。
 そう言えば明日は最終日だ。

 この列車が大阪に着くと最後の大詰めになる。

 しかしまだTWxは行程の1/4を過ぎたばかりである。
 最後を締め括るにはまだ早すぎる。
 マァ北海道に程よい未練を残して、列車は21:13に青森に業務停車。
 10分少々の停車の後に進行方向を元に戻して発車。闇夜の奥羽路に向け走り始めた。

 私は抑揚の感じない夜景に見切りをつけ、眠りに就いた。

--------------------------------------------------------------

 やっと北海道から帰ってきました。
 コレでも函館と根室と、ちびっと札幌を回ったワケなんだけど、やっぱ足りないよね。
 一応4年後の98年には両親を連れて根室と札幌、06年に片親と函館には行ったんだけど、まだ回り足りないところがあるモノ。
 ま・根本的にここに来るまでの切符で予算を使い果たしてる側面が強いんだけどね(T_T)。

 TWx、夜が明けてもまだ堪能できます!
Posted at 2014/09/10 13:35:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年09月09日 イイね!

94北往記16。ロイヤルという個室寝台


    16・第5日/ロイヤルルーム、その空間

▽ロイヤルと名乗る、その装備

※イクイップメント

 列車は苫小牧を発車。
 その頃から部屋に着いている装備中最大の占有率を持つTVモニターが稼働開始。これを以てA寝台個室・ロイヤルの装備が総べて利用可能となる。
 ただし、此のTVサービスは3チャンネルだがすべてが映画であり、
“ラストアクションヒーロー”
“1492コロンブス”
“まあだだよ”
 と映画個体では魅力があるが、此処に来てまで観るものでもないと思われた。
 私が自前で持って来た高倉健主演の“海峡”や“八甲田山”の方がよほど似つかわしい。
 またTWxならではのオリジナルチャンネルが欲しいとも思った。

 オリジナルという事で振り返ると最初に用意してあったロイヤル用の小物類はその意味ではグンと魅力的だった。

 まず目を見張ったのが、TWxのトレードマークの輝く赤いビニールボックスに梱包されたサニタリー類。それもビジネスホテルで常備している物より点数も多い。
 内容はと言えば、まずケース入りの石鹸、シャンプー、リンス、歯ブラシ、髭剃り。これに加えて“グリーンモイスト”洗顔フォーム・ローション・スキンミルク3点セット、“アウスレーゼ”ヘアートニック・リキッド・アフターシェーブローション三点セット。さらにシャワーキャップとコームが付属するという気配り振り。
 何より圧倒されたのは、ユニセックスというケチな考えを持たず、必要と思われるものは何でも梱包してしまうというこの装備振り。
 野郎には“グリーンモイスト”は必要無いだろうし、女が“アウスレーゼ”を使っている処など想像もしたくない。
 なのに両方入っているのは「要らないだろう」という考えを持たないことのサービスだと思う。
 主観で利用客を決めてかかる程の失礼は無い・と言う考えがあるが、それを地で行ったこの装備に感服。

 なお、ドリンクがサントリーで統一されていたのに対し、これまでサントリーが揃える訳にはいかんので(当たり前か)資生堂の製品で統一されている。

 一方でロイヤルのサービスか否かは定かでないが、これら泣かせる装備の中で少し首を傾げるものもあった。
 貸しペンと絵葉書、便箋に封筒である(-_-;)。
 記念品とあらば別に気にしないが、この手の品は元来列車内に長期滞在する時に実際に利用する装備のはずだ。
 列車内にポーターも切手販売も無く、たった22時間半の旅には半分の役体しかない。
 機関車と“サロン・デュ・ノール”のトレードマークの絵葉書。トレードマークがシンボルカラーで描かれた封筒は実用品というよりは記念品だ。はっきり言って使いそびれて未だ手許にある。
 物は使って幾らという私には些か物足りない。

 他は小型のボックスティッシュ、先に触れたクリスタルのアシュトレイ、そして各部屋用の屑籠が装備してあった。

※充実の車内外案内

 リーフレット類はなかなか出色の出来であった。
“トワイライト旅情”と“車内営業のご案内・1994.7月~8月”の二葉だが、沿線風景と営業要項を描いた前者と車内営業の詳細に触れた後者で、車掌の案内が無くとも快適な旅が愉しめる。

 特に“旅情”のほうは案内文の下端に簡単なダイヤが記載され、その中に季節毎の日の出日の入りが記載されたりと下手な時刻表より情報量が豊かだ。
 沿線案内は京阪神三都、滋賀、福井、石川、富山、新潟、山形、秋田、青森、そして北海道と各項に分かれている。
 それぞれが簡潔且つ詳細な案内に誘われ、これ一つ持っていても充分な観光案内になる。
 これを場所に応じて通過しながら読むというのも一興だろう。列車案内を越えたリーフレットである。

 一方で“車内営業”は“旅情”が列車外の案内を中心に扱うのに対して列車内を詳しく案内する。
 食堂車と車内小物販売、サロンカー、AVサービスの説明と簡単な編成図が掲載してある。
 内容を繙いて見よう。
 ディナーの和洋食には、細かなメニューと名誉料理長がそれぞれ明記してあり、予算上恩恵に与かれなかった私にもその雰囲気が汲み取れた。なお和食は弁当型式になっており、こちらに限って個室利用者はルームサービスとして部屋まで持ち運んで貰える。
 また朝・昼食は予約無しで頂け、モーニングは和洋とも\1500、セットランチは\2000、カレー・サンドイッチ\1000千円、スパゲッティー2種各\800、飲み物各\400という具合。
 その他パブタイムメニューもある。
 車内販売は食堂車。このカウンターにサニタリー、ステーショナリー、アクセサリー類を販売している。
 高価な物を所望しなければ\3000で買い物は充分だろうが中には1万円ほどの商品もあるので注意されたし。

 また食堂車で使用している食器類の注文販売も承っている。
 5人分単位でフルセットが\50000ほど。2~5人用の単品販売もあるという。
 B寝台利用者の各施設は、食堂車・サロンカーにほぼ集約されており、この案内も細かく書かれている。
 旅馴れた人の中にはホテルの利用案内を碌たま読まないで係員に何でも訊ねたがる方も居られるらしいが、このような案内書を読みもしないで係の手を取らせるのは相当の失礼にあたる。それが車掌なら尚更のことだ。その意味ではこの案内書は係要らずとも言えた。

※ロイヤルと呼ばれる個室

 車内のレイアウトは最初に述べたが、身の丈ほどのソファーベッドに身を委ねて正面を見る。
 窓際の壁には幅20cmほどの細いクローゼット。ここに着替えなどを収納するが、私は使用しなかった。
 その隣の列には、ドライヤーとインターホンのユニットがスモークグラスの奥にビルトイン。
 真下に14インチTVモニター、その下にAVコンソールスイッチがそれぞれ縦一列に装備。
 その隣の列に半身用の鏡、下のタオルホルダーにはタオルが二枚。

 最後に通路側にシャワー・シンク・トイレの統合された部屋の扉がある。
 シンク・洗面台とトイレは共に格納式で同時使用は出来ない。
 それらは限られたスペースのシャワーを使う為の苦肉の策でもある。
 洗面台にはコップと鏡、コンセントと小物置きが装備され、シャワー室・洗面台共に使い勝手をはかっている。
 実に簡単に書いたが、実際列車内で水道が個人レベルで自由に使える事の有難さと贅沢さは筆舌に尽くせない。シャワーこそ20分というリミットはあるが、身だしなみや、いつでも気軽に水が飲めることの有難さは乗車中痛感した。
 なお、好評につき後になって増結された2号車のTVモニターにはソニー製のテレビデオが装備され、8mmビデオの再生が出来るようになっていた。
 これはけっこう悔しかった。
 これさえ知っていれば、また2号車に割り当てられていたら、あの大きな“ビデオウオークマン”まで持ち出す必要なぞ無かったのだ。
(なお室内改編の際TVは液晶化されてテレビデオも撤去された模様(T_T)

 仕方がないから(T_T)部屋に戻ってビデオウオークマンをセットした。

 ベッド側に目を向けよう。
 ベッドはドア口のスイッチ1つでダブルベッドに変わるタイプで、座席時の肘掛けが装備されている。
 頭の上にはコンソールスイッチがあり、アラーム付きアナログ時計と照明・空調のスイッチ群。
 また非常警報も此処にある。

 主立った操作が寝たまま出来るのは近年の寝台特急個室の共通仕様。
 また反対の足側の上、丁度通路の上に当たるが、小さな開放型の押し入れがあり、此処に浴衣、布団、枕が二人分揃えてあった。こちらはTWx仕様ではなく、JRの寝台特急共通仕様だった。

 また、気になっていた装備としては交流100vのコンセントが部屋に2口、洗面台に1口あった。
 ただ充電機がそのままでは入らないので平型のテーブルタップが必需品だ。
 こいつにヘッドホンステレオ、ビデオ、シェーバーの各充電機を繋いだ。

▽北海道のハート

※大動脈の最果て

 そうこうしているうちに登別に到着した。

 温泉街で有名な登別ではあるが、駅から温泉街は望めない。山の中にあるから海岸線から全く見えないのだ。
 マァ私はその頃他の車両を覗きに行っていたからよくは解らないんだけどね(^^ゞ。
 暫時の後に登別も発車。東室蘭へ向かう。

 この列車は“特急”である筈だが、思いの外快速感がない。
 キロポストをタキメーターで計ってないので時速は解らないのだが、そんな事をも忘れる位悠然と走って行く。
 大きな窓に広漠とした台地が拡がっているせいかも知れないが、それを差し引いても然程の速さを感じない。
 さすがに駅通過の時には速度感もあるが、長らく各駅停車に乗っていたせいもある。
 私はTWxの乗車が他の列車に対して異常に浮き立ち過ぎはしないかと思ったが、意外な事に不自然感がない。
 リラックス偉大なり!

 登別を過ぎて山の端が随分海岸線に近付いてきた。
 山が近付くと風景がつまらなくなるという私にしては然程の関心を魅かない。
 国道36号線と道央自動車道が伴走してくれるが、この自動車道が山の手へ引っ込むと室蘭は間近である。
 ただ室蘭も函館同様“出島”に開けた街なのでこの列車が辿り着くのは郊外の東室蘭である。
 その東室蘭発車は15:48。
 発車して、室蘭本線の盲腸線を見送ると、札幌を発車して以来初めての非電化区間になる。
 いよいよ北海道の大動脈から先に踏み出したのだ。
 小窓の窓外には貨物ヤードと小規模なコンビナートが並ぶのが見える。その間を掻い潜るように母恋富士と測量山、それに挟まれ抱かれる室蘭市内が見えた。大きな鉤崎を持つ室蘭は大洋の中の良港で、貨客共に大きな規模を持つ港であることがこの風景からも感じられる。
 その活気溢れる姿は紛れもなく北海道有数の拠点都市である。

※風土の抑揚

 太平洋が左手に見えてきた。
 眩しい西陽を浴びて黄金色に輝く内浦湾は穏やかで美しい顔を見せていた。
 上空は絹のような雲で覆われているものの暗さは全く感じない。
 西陽を穏やかに過透しているからだ。

 昨日の悪夢とはまさに天地の差がある。
 昨日は大地と空の苛立ちをまともに被ってしまったが、今は海の上機嫌をお裾分け。
 そうか、あれからまだ24時間そこらしか経っていないのか。
 水平線までストレス無く拡がる太平洋と穏やかな波に慰められて気分も安らか。

 やがて右手に堆い山並みが壁となって現れた。
 山頂に綿雲を頂き・と思ったらこれは水蒸気。北海道で今一番熱い活火山群、有珠山連峰であった。
 有珠山の右手に現れた岩肌の粗い、茶褐色の綺麗な錘状の山・昭和新山でそれとハッキり解った。
 昭和新山は50年前の火山活動で誕生し、また本嶺である有珠山も17年前に噴火して麓の虻田町他を潰滅的被害に遭わせた。
 伊達紋別の次の長和駅に差し掛かると昭和新山は本嶺の後ろに隠れてしまうが、駅ホームから有珠山を仰ぎ見ることが出来る。
 大地の怒り、まさに此処に有りと言わんばかりの薄曇りの中の熱気を感じ取る。

 ただよく解らないのはこんな危なっかしい火山連峰を抱えながら観光地だから是非お越し下さいと言う事だ。
 と言うのも、この北にある洞爺湖は眺望抜群の温泉保養地。
 火山ある処に温泉有りというのはマァ仕方無いにしても、今長崎・雲仙の現状を考えると余り喜び勇んで行く気にはなれない。
 火山がある位で逃げんで下さいと言うのとは少し違うと思う。
 大地の怒りを物見遊山で見に行く気には私にはなれない。

 この後に到着の洞爺では機関車交換のために暫時10分ほどの停車。
 この洞爺が今日最後の停車駅であることから、私もホームに出て腰を伸ばして一休み。
 カードキーで部屋に錠を掛けられる安心はやはり助かる。のーんびり一休み。

※意外に長い札函間

 さて洞爺を出て、この後電気機関車に繋ぎ替える函館・五稜郭駅まで先を急ぐTWxだが、この後風景の抑揚は殆ど無くなる。左手には内浦湾、右手は北海道には珍しく山の端が近い。
 こんどは国道37号線が伴走してくれるが、長らく絶景がなかったように思える。
 そして時折この“王様”に道を開ける地元の気動車が見受けられる位である。

 この退屈な間に、札幌-函館間の陸路を不意と考えた。

 地図や時刻表を見るまでもなく、札函間は異様に屈曲した路線を強いられる。
 函館を出ると、渡島半島を北に上る。
 途中の長万部で鉄路は二つに分岐し、倶知安・小樽を経て札幌に至る函館本線と、東室蘭・千歳を経て札幌に至る室蘭・千歳線が有る。共に札函間を直線で引いたコースとは大きな差異がある。

 内浦湾口を横断できたら、長万部から直線距離で札幌間で鉄路が引けたら、そう思えるほどの屈曲振りである。
 むろん、両方法には限界がある。
 昔は北廻りに“北海”、南廻りには“北斗”とそれぞれ特急があったが、効率を考えて結局北斗が残った。
 千歳と室蘭の二都市を結ぶ路線である事、屈曲が比較的少なく高低差があまり無いという事からだと思う。
 ただその為に倶知安廻りの路線が寂びれたのは寂しい限りだ。
 今北廻りの函館本線には特急列車は全廃、普通列車すら直通で十往復を切り、長万部-札幌直通列車に至っては僅か一往復となってしまった。
 南廻りの北斗が“スーパー”を冠して増強されるのとは好対称である。
 また、函館-長万部も特急列車に彩られはしているが、殊普通列車に関しては北廻り同様の寂びれ様である。

 実は札幌-根室間を普通列車でその日のうちに辿り着けたのは極めてまれなケースであり、稚内行きを断念させた原因でもある。
 JRHの普通列車は、山陰本線やJR四国の様に地域内の輸送が主で、地域間輸送は特急列車に一任している格好を取っている。

 18切符で列島を駆けずり回った私にとってこの様なダイヤ構成は本当に頭痛の種である。
 時間消費の割には先に進めず、直通列車1本有れば違う処を、走破目前で終便を迎える。
 宿代を切り詰めてより遠くを目指す私に対する大きな壁でもある。

 この壁が、私を九州から、山陰から、西四国から、南紀から遠ざけている。
 恐らくこれはJRの経営方針に対する挑戦でもあるように思う。
 不採算部門を切り詰めたがるJR側と、それこそが列車旅を繋ぐか細い道と考える私と。

 のちの96年春、この18切符から発行型式がチケットから冊子になり、一括・または順繰りの使用しか出来なくなってしまった。
 換金や個人売買が横行したのが原因だが同時にJRがその様な漫然とした列車旅を快く思わなくなって来た顕れだとも思える。

 一方でJR各社は課題でもある国鉄の残した膨大な借金を返す目途が遠のく。
 いわゆる三島(九州・四国・北海道)会社は株式公開をしたくても満足な収支が得られない。
 結果値上げに踏切りざるを得なくなった。
 不採算部門、いや、その要素は一つでも多く削り取りたいのが偽らざる本音であろう。
 だが公益事業のジレンマで、利用者の利便を奪い取ることは採算の為だとしても許されない行為である。
 そこで“あそび”を削り取ることが目下の課題になってしまった。

 特に思惑通りの使い方をされていない制度は真っ先に削除して行く訳だ。18切符の発行方法変更はそういう思惑を感じ取られる。

 仕方の無いことだとは思うが、かつては“太っ腹”と快く握っていた切符が“特殊な”切符となって、何かしら懐持ちの細る思いまで抱かせる。これは非常に哀しいことだと思う。
 特急列車や新幹線が増強され、見せ掛けだけの華やかさだけがひとり歩きをして、いつの間にか動脈だけの残った半身不随の鉄道網なんて何の魅力もない。
 そこに無い魅力を探る鉄道旅、その先行きは渾沌と暗くどよめいている。

---------------------------------------------------------

 う~ん、折角豪華個室寝台で盛り上がってるのに終章で随分滅入ってしまった(T_T)。
 そしてこのTWxさえ来春廃止。
 もうこのレポを書いた96年時点で現在の寂寥が現実以上の物になるとは。

 列車の旅、凄くつまらなくなりました!
Posted at 2014/09/09 00:45:27 | コメント(1) | トラックバック(0) | 蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域

プロフィール

「今回カーナビ外したので、後記用のトラッキングは悩んだ。
最初ここの[何シテル』投稿やスマホカメラで休憩に撮ったが行程が残らず。
最後に使ったのはスマホ地図のスクショでこっちが効果高かった。

また大きな声で言わないが位置ゲーもトラッキングに使った。」
何シテル?   07/09 10:48
 広島・備後御調種佐伯産宮島対岸棲息の対厳山。 長らく勤めてた仕事を現在辞職、2025年初めはフリーターで始まりました。  新社会人時代(つぅても四...
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