2014年08月25日
13・第5日/バスに乗ってのホワイルナイト
▽根室駅前 22:00~札幌BC 6:30・夜行特急バスオーロラ号(札幌22 さ909)
※バスターミナルで煮え切らず
JR根室駅から根室バスターミナルまでは徒歩二分も掛からない。
20過ぎて私はこちらで休む事にした。
と言うのも少し肌寒くなってきたからだ。
風は荒天もあってか冷え込んでおり、8月末とは言え、此の風は広島では11月末並みの冷たさだ。
ノサップ踏破の雨で体を冷やしていたのと、足のマメを潰してサンダルに履き替えているのが堪える。
責めて風だけを防ぐ意味でバスターミナルの待合室に入った。
中に入ってみると入口左手にインフォカウンターが、右手には各種パンフレットの入った棚。
店の奥には土産物店・おっと、こちらはすでに終っている。
その間の待合ベンチには脇に50インチ級のプロジェクションテレビが配置してある。
これで広島市民球場でやっているCG戦を中継していた。
北海道は円山球場(札幌ドームの前身)や旭川スタルヒン球場の関係で巨人ファンが多いらしい。
それでなくとも球団のない地方じゃTV中継は巨人戦が多いから自ずと巨人ファンが多くなるのも仕方がない・と私が納得すると思ったら大間違い!だからこそ許せん!
え?広島の人間だから広島を応援しているのじゃないかって?イヤ一寸違う。
(中略)
だが私がカープファンになり切れないのは、昭和60年代の強いカープでは無くなったからだ。
今のカープは「何を仕掛けるか解らない」チームから、「何を仕出かすか解らない」消極的なチームになった、ムラの多い大雑把なチームになった。
今日もそんなカープがジャイアンツに負けて、そして終わった。観ていても精が出ない。
野球が終わると、テレビも消え、カウンターもひとけが無くなった。
※これが夜行バス!
外は雨、静まり返ったバスターミナル。
この日最後の札幌行き夜行バスを捌くために機能は止まっていないものの、周囲は自動販売機だけが仕事をしていた。
休憩には丁度いい。
合皮製のチェアに座ってバス搭乗準備を待つ。
トイレなどを済まし、各種パンフレットを拾い出して目を通す。
その状態で30分が過ぎる。
やがて私の他の乗客が続々入って来た。
車で送迎される者、タクシーを使って来る者と様々だが、多くは此処から帰り道に就く者らしく、めかし気味の服装が圧倒的だった。
やがてインフォカウンターは俄か活気づき、受付嬢が出て来た。
受付嬢にJTBのクーポン券を渡すと、根室交通の乗車券を渡された。
別に交換する必要は無かったが、暇なんでツイ‥‥‥(^^ゞ
久しくディーゼル音を聞くことになる。
札幌・北都交通のハイデッカーバスが2台、此の根室バスターミナルにやって来た。
根室発札幌行きオーロラ号である。
我々乗客は待ち兼ねたようにそのバスに向かう。
私の切符は一号五番、因って一号車を目指す。ここで乗務員と落ち合う。
ここで一対の黄色の楕円形のアクリルタグを貰う。
そのタグには二つとも“5”と同じ番号が彫ってあり、その片方を荷物に括り着ける。タグを括った荷物はキャビンの下にあるトランクルームに積み込む。私は大きなスポーツバッグをそちらに任せて、徒歩行脚の装備のままのサブバッグを車内に持ち込んだ。
車内はほのかな明かりがついているだけで殆ど真っ暗。
外からのほの明かりと併せて車内の様子漸くが解る。
座席はフル仕様のリクライニングシート。
これは後に譲るとしてこれが三列、左右と中央が半分ずつシフトしている。
私の席は、此のバス一番前の左、右、後ろ中央、二列目左、そして右の此の席である。
座席に座ると、これがフル装備。
夜行バスが航空機や寝台特急に対抗して装備を奢って久しいが、此処までとは正直思わなんだ。
背凭れ肘掛け足置きは勿論、レッグレストと呼ばれる腿当てまで装備してある。
そして各座席にはラジオまで装備。
座席前方の小物入れネットに飛行機などで使われる前掛け形のチューブフォンが用意されている。
装備に感心していると漸く発車時刻になった。
乗務員が車の内外でチェックを急ぐ。
かれこれの準備を終えて二人の乗務員が一号車に入る。
22時を5分廻って、荒天の中バスは札幌に向かった。
※意外とコケ威し?
国道44号線に上がるとバスは快走を始めた。
乗車直後に渡されたオレンジジュースはバッグの中に仕舞込む。
では此のバスの装備を一つ二つと試しますか。
腿当てを揚げて背凭れを寝かせる。
足がマメだらけだから極力足先に負担は掛けられない。
この状態でも座席の前後方向には余裕がある。まず座席の使用感は及第点と言った処か。
ただ、窓際が三列シフト配置のわりに窮屈に思われた。
通路を確保しなければならないジレンマか。
この状態でさて置き、次に座席のラジオを試した。
医者の使う聴診器に似た形状の大きなステレオイヤホンを首の前に掛けた。
インナイヤホンに慣れた私としてはこういうぶら下げる形のイヤホンがぎこちなくて仕方がない。
だが旅も四日を消化して手持ちのカセットテープも聴き尽くし、バッテリーも無闇に消化したくない。
気分転換の軽いつもりで聴いてみた。
ところが、どうも調子が悪い。
けっこう気の休まる音楽が流れる筈なのだが、その聞こえ方が変だ。
なんだ(-_-;)片方しか音が出ていない。
プラグを軽くこじったり挿し直したが、全く音が出る気配がない。
乗務員に申告するも、予備のイヤホンで試しても症状は同じ。
けっきょくラジオは故障という事でサービスを諦めた。
外を見た。納沙布で私を襲った雨がなおも降り続く。
雨は飛沫と靄を呼び、閑散とした風景を混沌とさせる。
温根沼大橋を渡って風連湖を望む・と言う芸当が出来なかった。
不意と足下に痺れを感じた。
その源は脹ら脛。
え?、脹ら脛はレッグレストを当てて休ませている筈なのに・と私も思ったのだが、そこに落とし穴があった。
実は足の重みがそのまま下腿に伸し掛かって脹ら脛を圧迫する。
これが意外と痺れる。
けっきょく足先に重みを掛けまいとして他の処に負担が掛かるという結果だった。
どうやら至れり尽くせりが次々仇になった格好になる。
残る装備は足置きとリクライニング、そして後に触れるミッドデッキにあるウオータージャグになってしまった。
此のバスは途中、厚床駅を経由する。
外の風景は胡乱なまま見届けられず、体を楽に拘束するシートに抱かれた格好で揺られ続ける。
故障のラジオに替わって自前のラジオを点けたが、根室市街をぬけると頗る受信状態が悪くなり、混信も著しくなった。
その混信だが、広島ではハングルやダカログ語などが聴き取れる処、此の根室ではあのロシア語が特有の丸っこい響きで入ってくる。どのみち解りはしないのでラジオは仕舞った。
夜行バスという空気を一通り嗅いだ後に到着した厚床。
上部中央正面にあるデジタル時計は22時半を過ぎていた。
此処で若干の乗客を乗せると、乗務員の手によって運転席と客席の間に大きなカーテンが曳かれる。これで風景とは一層無縁になる。
ファーア、寝るか。
※コンテナ
目が醒めた。
外は明るくなっていたが、まだ青白い。
時計を見ると4時半を廻ったばかり。
窓に曳かれたカーテンを少し割くと、山深いなか僅かな平原が拡がる。
後で調べてみると夕張連峰を抜けている最中の様だ。
下っ腹に力が入らないのでトイレに行く。
この手のバスは車両中央、左寄りにキャビン下を抉ってトイレスペースがある。
階段というよりはステップと言える急な段を降り、ややも揺れる車内に手を取られながら引き戸を明けると必要最低限の洋式トイレがある。
装備もスペースも要るものが何とか詰め込まれている。
車内の揺れには思いの外手を焼いたが、何とかつつがなく終えることが出来た。
このトイレ周辺のミッドデッキには先程少し降れた半自動のウオータージャグと電話機がある。
此処では今一つ解らなかったが、テレビで見たのでは此処の僅かな隙間に運転助手の文字通り横になるスペースもあるらしい。
ちなみに此の日の運転助手は、空席となった私の前の席で寝入っていた。
此処に潜ると、屋根までの高さが半端ではない。
此処から狭苦しい中周囲を見回すと、バスというよりはコンテナという感じになってきた。
とりあえずジャグから冷水を注いで席に戻った。
窓外の風景は相変わらずだが平野が少し開け、山の標高も低くなっている。
不意と気が付いたのが、此処が国道274号線ということだった。
国道38号線では無く屈曲や標高差の激しい此処を通るというのは些か意外だったが、JRの石勝線と一緒で距離を取ったものと思われる。
いずれこの路線も高速道が通ってそこを通るのだろう。
屈曲の緩い道を跳ばすバス。
窓外には農耕地、ビニールハウス、夕張メロンのコマーシャル看板が流れる。
もう一休みしようっと。
※再び札幌へ
次に目が醒めたのは既に札幌近郊に入ってからだった。
周囲を覆っていた分厚いカーテンが引き剥がされる。
北広島市と近く名を変える札幌郡広島町界隈である。
存じ上げている方も多いが、北海道では明治期に入植した開拓使の出身地がそのまま地名になったものが多い。
此の広島町は云わずものがな広島県出身者が入植した地域である。
一方で逆に北海道古来の地名は根室で通過したトーサムポロや歯舞、屈斜路などのアイヌ語であり、これらの地名の差異は裏を返せば国策の名を借りた明治政府の北海道侵略という視点がある。
北海道の歴史は明治以降と浅く思われがちだが、それは古来から長らく続いてきたアイヌの歴史を黙殺してのことだ。
だが我々の習う北海道は“蝦夷地”という曖昧な表現に象徴されるようにアイヌの正しい理解は等閑にされている。
これでは侵略よばわりもされかねないか・と我が無知を今更恥じる。
ともあれ、札幌の市街は目前となった。
ここに来て今度は缶コーヒーを配られた。
小銭を切らしているので有難く頂こう。
市中心部に程近いバスセンターまではややも時間が掛かるが、寝ぼけた頭をゆっくり醒ますには都合がいい。
そして天気は久方振りの青空。まだ目の醒めていない、日曜の札幌市街であった。
やがて6時が過ぎた。
だが、バスがターミナルに入る様子が無い。札幌名物テレビ塔も目前となり・と言う所でバスは路肩に寄った。
どうも到着らしい。
バスセンター行きを考えていた私には些か呆気ない到着であった。歩道に出て、タグにそって大荷物を受け取ると、バスは先を急ぐように発車した。他にも函館発のバスがいたらしく、発車したバスが4台に増えている。
しまった(゚Д゚)。札幌駅前まで行くのなら乗っていればよかった。
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~後記
まぁ大層なことは書いてるけど、けっきょく疲れて寝ぼけてただけでした(-.-)。
もうね、随分とこさ精力使い果たしましたとも。
うん、実は今も(-_-;)。
さて今回の加筆は削除も含まれてますm(_ _)m。
もう言葉の限り巨人ファンを逆撫でする文言が綴られてますので。
この時期はもう野球ファンじゃなくアンチ巨人ファン以外の何物でもなかったんですよね。
でも本文にも書いてありますがもうカープがこの頃から優勝できなくなってたし。
愛想が尽きつつあったのも事実です。
まぁ、05年騒動でみんな醒めましたけど。
今は北海道にも地元プロ野球があるのでその意味じゃ事情が変わったかな(^^ゞ?
今度はファイターズを応援させてくれるだろうか?
それともコンサドーレかな?
その辺りの事情は随分変わりました。
Posted at 2014/08/25 20:22:21 | |
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蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年08月24日
12・第4日/踏破と挫折
▽未だ到達せず
※釈迦の掌
豊里を過ぎると、遥か東に見えるものがある。
白い塔の上に円板状のものがある構築物だ。
こう言うものはまこと久方振りで、何らかの展望台か、そう解るまでは随分時間を要した。
何しろ随分小さく見えていたもので。
ともかく、納沙布岬までの距離が目視出来るほどになったのだ。
ともかく?
それにしては随分とこサその距離がある。
ガイドブックに因ると此の白亜の塔は察する通り納沙布岬口に有る展望台・平和の塔である。
高さ100m弱、起伏の多い丘の果てにその上半分が微かに小さく見えている。
薄ら痛む足を半ば引き摺って前に進んでは見るが、なんとも手繰り寄せるような・と言う表現には程遠く、しかも正面に見えていた筈の塔が右左に見えたりとまこともどかしい。
痛みと疲れにかまけて状況判断が鈍ってしまったが、道路の起伏と屈曲がせわしくなった。
程度そのものは相変わらずなだらかなものだが、平坦路が随分減ってしまった。
しかもまだ15時頃だというのに随分暗くなってしまった。頭上の雲が分厚くなっていた。
サンコタンとガイドに書いてある辺りを過ぎると、道中で初めてまとまった集落があった。
この先にはトーサムポロと名付けられた湖がある。
農村落をやり過ごす此の道からあと、なだらかに丘に登っていた道は急となる。
しかも登り切ったあとからすぐ下って行くようになる。
この疲れているのに随分タイトになったものだ。
此のトーサムポロ辺りでは薄日が差すまでに明るくなった。
これだけが救いだと思った矢先、此処を過ぎた高台に辿り着くと冷たいモノが頬に落ち始めた。
ゲ(+_+)!
此の徒歩行脚で一番恐れていたモノは、何よりも雨であった。その雨が落ち始めた。
とは言え、持って来た雨具は折り畳み傘が一丁。
拡げて雨露を凌ごうとするものの、強風が相変わらず吹き付けている。
真縦に差したのでは全く傘の用を成さない。
けっきょく傘を風上に向けつつ上半身に擦り着ける様に差した。もう下半身は分厚いジーンズに任せて濡れ放題となる。
雨量は小降り程度で酷くなることがないものの、この強風が傘の差せない部位を隈無く濡らす。
特に足には堪えた。
元々生乾きの靴が引き起こした足の不調、此処に来て漸く乾いてきた靴が再び雨曝しとなり、元の木阿弥。後ほど悪夢を見ることになる。
雨に打たれ、正面には今まで一番近くに見えるオホーツク。
10件以上続く民家をよぎりながら、何時か助けを求めて玄関を叩くのではと、随分ひ弱なことを考えていた。
強風に息は切れ、足裏の痛さが腹の底を不快にくすぐる。
不意と東・と思われる方角には平和の塔が、私の葛藤を嘲笑うかのように未だ小さく見える。
今思うと、この不快感を顧みて或る場面を思い出した。
それは束縛を嫌って逃げ回るものの釈迦の掌から逃げ仰せなかった孫悟空ではないか、そう思うようになった。
※オアシス
そんな苛立ちを抱きつつ、20分ほど歩き通した。
けっきょく弱音は口先までに出すに留め、自業自得を唱えつつ歩き続けた。
我ながら意志が強いのやら弱いのやらよく解らない状態になっていた。
すると、苦痛に耐えつつ前進はするものだと思った。
集落の果てに飲料水の看板が認められた。
先に一度この手合いで大衆食堂が閉まっていたので内心宛にはしなかったが、今度は脇にこんな言葉が書いてあった。
“林下商店”
辿り着いてみると、この商店は営業していた。
温根元集落を過ぎた頃。
おそらくこの辺のよろず屋と言った店であろう。食料品を主に僅かな日用品も扱っている。
無礼を承知で中に入る。お客としてではなく軒を借りて休憩する旅人として。
出て来た店主にその旨を伝えると、店と居間の間にある桟に座って休むよう勧められた。
此処でえびすやから貰った沢庵付きのむすびとお茶を開けて漸く口にすることが出来た。
お茶は途中で飲もうと幾度も思ったが、自販機一つ無い此のロケでは最後に飲んでやろう、途中唯一有って壊れていた自販機を見て強くそう思っていのだ。
此処ならバチも当たるまい。
突然飛び込んだこの傍迷惑な旅人を店主はそっと休ませてくれた。
店主の母であるらしい老婦がお茶を出してくれた。
そしてえびすやからのこのむすび。
この旅は人との触れ合いを殆ど顧みたことがないのに、この持て成しは嬉しかった。
甘えてばかりで恐縮すら覚える。
記憶が鮮明ではないが、切った西瓜か何かも頂いたような気がした。
体を休めに来たのにむしろ休まったのは心であった。
財布に余裕がなかったのと、お茶をいっぱい飲むことが出来たので、この後に備えての缶ジュースと飴を買い求めて、15:50、林下商店を後にした。
※苦痛の中の到達
雨は相変わらず降り続いたが、風が幾分収まった。
漸く風が涼しいと思える状態になった。
未だ痛む足が今度は振り出せるまでには回復した。
暫く起伏の激しい道が続いた後、道が平坦になった。
民家が点在する此の道だが相変わらず人の行き交う様子は殆ど無く、時に観光客の車やバイクが通り過ぎるのみであった。
これは途中サンコタンで農夫を見掛けた以外はとうとう終始変わらずだった。
此処に来て平和の塔が漸くはっきり見て取れるようになった。
終站が漸く近づいた・と言える証だ。
高台から見下ろすオホーツクはとうとう寒天色の濁った色を変える事無く荒れ続け、晴天時には見られる筈の北方四島も雨に煙って見留められない。
歩き続けて20分、雨が降り初めて1時間余経ったか、それは遂に訪れた。
時刻は16:15、遥か遠くに民家とは明らかに違う集落があった。そこに辿り着くと、平和の塔が東ではなく頭上に来た。
最果ての岬、納沙布の集落であった。
この一帯は“望郷の岬公園”と呼ばれる広場である。
左手には“四島の掛け橋”と呼ばれる高さ5mのオブジェが掛かり、平和と返還を願う篝火が焚かれる。
この丘には北方四島が望めるらしい。
ただ此の時は忘れていたが、此処からは象徴の灯台が見えない。
実は厳密な意味での納沙布岬はこの道道から更に海岸線まで下らなければならない。
私が到達したのは実は北海道道104号線上の納沙布岬だったのである。
これに気が付いたのは帰りのバスで待っている最中。だがこの体調で更に・と言う気概はなかった。
公園に辿り着くと、私はまず便所に向かった。
公衆便所というよりは大衆便所という感じで、大きく新しく、綺麗な便所である。
兎に角6時間以上歩いてトイレが途中一箇所のみ。そりゃあ溜まっておりますよ。花咲かにをデザインした便所に入る。
次にバス停に向かう。
とてもじゃ無いがこれからまた歩いて帰るような状態じゃない。
次のバスを見ると16:38に駅まで戻るバスが来る。然程待つ必要がない。
バス駐車場の脇にあるラーメン屋の軒を借りて雨宿り。
昼飯もまだなのにそのラーメン屋に寄る余裕さえない。
更に東に降りる砂利道もあったが、足が全く向いてくれない。
バスは18時過ぎまであるので余裕はあるはずだったが、体調に余裕が無くなっている。
そのままバスを待っていると、10分もしないうちに根室駅発のバスが来た。
残念ながら這々の体でこのまま帰ることにした。
▽納沙布岬 17:00~根室駅前 17:40・根室交通(御免・ナンバー見てないm(_ _)m)
※呆心なるまま
やって来たバスは一昔前の観光用セミハイデッカーである。あの運転席の後ろの上に天窓のあるあのタイプだ。
根室駅発のバスが客を降ろし、一旦転回準備を整えてからこのバス停に来たのはそれから更に5分程後経ってからだった。
雨宿りをしている間に身の回りを見たが、太股から下は隈無く濡れている。
靴は分厚いジーンズに阻まれてズブ濡れこそ免れたが、湿気まくっている。
幸い上半身のほうは傘を上手いこと差し廻して殆ど濡れていない。
バスにそのまま乗る事は出来そうだ。
バスに乗り込み、先に料金960円を払ってしまった。
まだ乗客は他に居らず、その間私は運転手と雑談をしていた。
最初は気分良く話し相手になっていたが、次の客が乗って来ると急に素っ気なくなってしまった。
あちらも疲れているのだろうか?
すると一気に疲れがきてしまった。リクライニングシートに身を委ねた。
寝ぼけた状態の中、バスは発車時間を迎える。半ば後ろ髪を引かれる思いに駆られる中でバスは平和の塔の下を周回した。
最果てに到達した充実感ではなく、漸く自力で交通・通信手段が確保出来る処まで逃げ仰せた安堵感の方が実際は強かった。
我ながらネガティブな収穫だったという意味でややも悔しかった。
それには恨んでも止むを得ない天候の悪さを責めるようになる。
となれば計画の実行そのものが失敗・という味気の無い追求が始まる。
もうこう言い出したらネガティブどころの問題ではない。
だからこの一言で一気にポジティブにしよう。
これも北海道の大地だ!
※傷心の帰路へ
いよいよこの旅は、最果てを求めて来た此処から初めて引き返す帰り道と相成った。
バスが発車して間も無く・とは言え歩けば20分位は軽く消化してしまう距離だが、珸瑶瑁の集落を通過する。
この後も歯舞など幾つか集落を通過するが、此処で一つ気が付いた。
ガイドブックなどを見ても解る様に、日本海側のこちらの径路が小学校や郵便局などを擁するまとまった集落がある。
実際はどうか、バスの左手には雨に煙る日本海。そして右手はやはり民家が続くが、こちらには交差点や酒屋まである。
どうやらオホーツク側を歩くのはややも無謀なむきがあったらしい(T-T)。
こちら側にして置けば休憩も取り易いし何かあっても途中で引き返せた。
と、同時によくあんな何もない道を6時間掛けて歩き通したものだと妙に感心した。
マァ、我ながらよくやった。
昨日北海道入りしたばかりのズブの素人が、あんな悪天候の上級者コースを大きな事故もなくよく歩き通せたものだと。
‥‥‥‥そー思うより他はあるまい(>_<)!
そんな訳で、初めて納沙布岬へ徒歩で行かれる方は、悪い事は言わんから日本海側を行きなさい。
私が苦痛の中6時間かけて実践した結果の結論です。
不意と目が醒めた。
こう言うと、決まって旅の最中にうただ寝をしては思いの外行程を消化している前振りになってしまったが、
実はッ!
その通りである(T_T)。
窓の外は煉瓦色の巨大なサイロ、そして間も無く見覚えのある大通りにバスは上がった。
それは国道44号線、巨大なサイロは根室名所の明治公園であった。
なんと、間も無くバスは根室駅前に到着した。
▽根室の晩餐
※旅の後始末
バスが停まったのは、JR駅に向かって右側にある根室バスターミナルである。
楕円形の建物の周りをバスが周回する、どちらかと言うと転回場の間に待合案内所がある形を取るコンパクトなバスターミナルである。
このターミナルについては後に譲り、小休止の後にえびすやに戻った。
18時を廻って、小雨降る市街も暗くなり始めている。
えびすやでは玄関口に大荷物をまとめて置いていてくれた。
女将の驚嘆とも呆れとも取れる言葉に迎えられ、私はむすびの便宜などの礼を述べた。
休憩を兼ねて荷物をもう一総めする。此処で湿った靴を諦め、サンダルを取り出した。
足が実感倍になった様に痛む。
イヤ、痛みを通り越して痺れている。マァ、足の手入れは後ほどゆっくりやろう。
1時間ほど後、小休憩の後に女将と、此処で初めて会う旦那に別れを告げ、えびすやを後にした。
その足で、すぐ近くの根室駅に向かった。
次に乗るのは汽車ではなく夜行バス。
汽車に乗るのではないが、昨日忙しなく駅を出て来たので、駅でゆっくりしたかった。
駅は閑散としていた。次の列車が昨日乗って来た19:35到着の汽車、その後も各時間帯に着発合わせ一本ずつ。
終着の21:59までたったの三本である。
最果てとは言え、根室は北海道有数の漁港であり、根室支庁の中心都市である。
しかし此処にいた間、喧噪という言葉には無縁どころか人の出歩く姿を殆ど見掛けなかった。
そんな閑散とした駅舎内。この待合室は、改札、切符売り場、キオスク、そして駅食堂の玄関をグルリ見渡せる。
しかし駅員をはじめ人影が全くと言っていい程見掛けない。
改札には二枚の白い表札で
“つぎの改札は”
“快速 ノサップ 釧路行き 20:40発”
と提げられている。それまでは改札員も顔を出さない。
此の改札というと、我々は腰抵たりまである鉄格子がある位で解放された感があるが、此処は改札口に家庭の玄関戸の様なアルミサッシ製の扉が二つ並べてある。
冬の寒さが厳しい北海道ならではの配慮か、それとも汽車のダイヤが空疎な故の配置か。マァ私は前者と受け止めたい。
10人程が固まって座れるベンチを並列配置する待合室。
正面の掲示板には観光啓発のポスターが目立つ。
レンタカーだの、フリー切符だのとJRを使って遊んで下さい風のポスターは、しかし却って癪だった。
(私にはその自覚は無いが)今回型破りの旅行をした私はこんなポスターを見て、やはり自分流の旅がイイと思うようになった。
確かにワリを喰う場面が多いが、こんな事をするとこんな目に逢うんだなと納得が出来るし、失敗を愉しむ芸当はあのような旅には出来やしない。
そう腹の中で思いつつ、私は足裏にできたマメを潰していた(T_T)。
持って来た裁縫道具と絆創膏をベンチの上に拡げた私、縫い針をウエットティッシュで丁寧に拭き、踵や足の小指・足の外辺に“群生”するマメに穴を穿ち、水を出す。
その後をティッシュで丁寧に拭き、痛む処だけ絆創膏を貼る。
本当は全部に張っておき、ストレスを掛けないのが一番だが、そんなに絆創膏は持ち併せていない。
湿気に白くなった足を見つつ、一番ワリを喰わせたのはこの足だったなと少し申し訳無く思えた。
途中19:35の汽車が到着したが殆ど乗客が居らず、引き続き寂しい情景が続く。
一人二人居た他の乗客もその寂しさを嫌う様に長途留をせずサッサと思う処へ駅を発つ。
時間が経つに連れて寂しさは倍増した。
最初は料金表や時刻表を見詰めていた。
国鉄時代特有の白いセル板に、肉太のペンキ塗り文字の料金表に丁寧に植字された時刻表が隔世の感があっていい。
旅行の終站に相応しい、しかし寂しげな終着駅である。その雰囲気を腹八分目にして根室駅を後にした。
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~後記、前回忘れてた(^^ゞ。
う~ん、こんな旅今できやしねぇな(T_T)。
ナンカ凄く痛い目に遭ってるんだが。
そのぶん、随分と厚意に甘えてたりもする(-_-;)。
実は4年後に今度は両親を連れて行き(コレが片親には唯一の孝行旅行になってしまった)、今項の行程はレンタカーで行った。
20分掛からんのね(-_-;)。
ほんとナニしに行ったんだと親にも言われたよ。
当時はまだ健在だった林下商店にお礼にも伺いました。今もあるかな?
その時はこの時の分まで納沙布でラーメン食べぇの土産を買いぃの灯台許にも行ったりと元は取りました。
風蓮湖の入り口や車石にも行きましたしね。
梅雨前線の濃霧に祟られてなかったらねぇ(T_T)。
そのときは視界5mだったのよ。
Posted at 2014/08/24 08:33:17 | |
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蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年08月23日
具体的なことが出来なきゃ要らんこと云わにゃあえぇのに、
と、自分でも思ってますけけどm(_ _)m
まぁ思うことが止まらないので続いてます。
災害探索が未だ思うように進まないところは一緒。
それでもこの週末からボランティアを受け容れ、渇望にコップ一杯の水という状況にはなってる。
地元はもとより東京の方でも大きく採り上げて戴いて啓発になってる点ではありがたい。
これから台風シーズンを迎えることだし水害の季節はまだ始まったばかりだ。
コレを見て今回僭越ながら幾つかm(_ _)m。
今回の水害を見て99年の629水害を採り上げてはいる。
しかし実はもう一つ大きな水害があったことには触れていない。
88年にあった旧加計町(今の安芸太田町の一部)での水害だ。
あれも壮絶だったが今回のと根本が変わらない。
つまり、広島では67年芸北水害など半世紀はほぼ10余年のスパンで水害に見舞われてるのだ。
未だに『空白の天気図(ヒロシマ韻読編参照)』の世界が繰り返されてる。
それが場所を移すだけで教訓に繋がっていない。
問題にすべき点はココにあるんじゃないかと思う。
広島県民は意外と水害には慣れっこになってて教訓を学ばない体質になってるような気にさえなる。
基本的に水害とは水の流れの支障である。
水は低きに流れる理に人間が逆らって居住地を求めた結果だと思う。
ソレが桁外れの豪雨という自然からの仕返しだ。
まえにも言ったが申し訳の暗渠で誤魔化して自然の水流を押し込めようとした傲慢が度々の水害に繋がっていないかという事を思い知らされる。
ンで、災害要因に脆い土壌を理由に挙げてるところもあるが、今回そんなモノは関係ないと思ってた。
今日の中国新聞では頑強な岩盤までそのまさ土と一緒に流された分析も出されてた。
考えても欲しい。
宅地を分譲する業者もソコまで無能営利主義じゃない。
土壌や地盤はある程度勘案するはずだ。何より商品だもの。
ソレはこの土地に県営住宅まで設けられてたことから推し量れる。
(ちなみにこの県営住宅群は被害にこそ遭ったが全棟損壊は免れた)
一方で、危険警戒区域認定にそちらの方面が絡む事情がある。
コレをされると地価が一気に下がるので忌避される傾向がある話が出てきた。
「命に関わるのにそんな目先のことで」
と、普通は思うだろう。
しかし分譲地を購入したあとでそんなことを言われて売るに売れない方に回った住民にしてみれば迷惑な話というのも無理からぬ事。
そして半世紀どころか、被害甚大だった八木地区の道路割りを見れば推察に足るように1世紀近くもそんな災禍に見舞われなかったのだからと言う判断も起こるだろう。
よく100年に一回の災害と言うが、200年に二回の災害が10年の間に二回だけ来たとしてもそうなのだ。
水利に関して言えばその頻度はぐっと尺度を縮めてるのかも知れない。
ソコを見越せる人って、日本のどのくらい居るんだよ。
もうそんな話になってきたぞ。
と言う訳で、今回の水害で罪人捜しをするのは徒労じゃなかろうか。
ソレよりも、今あなたが住んでる宅地がどういう危険に脆いのか色々考える機会じゃないか?
水害じゃない。
地震もそうだし津波もそうだし地下水汲み上げの地盤沈下なんて素人には絶対わからない話もある。
ウチσ(^◇^;)?
まぁ、地盤沈下と火事ぐらいかなぁ(^_^;)。
そうじゃなかったらマヂ日本の動脈が切れるし(ぉぃ。
Posted at 2014/08/23 20:52:49 | |
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近況ほか | ニュース
2014年08月23日
11・第4日/最果てを目指せ
▽根室の朝
※最果ての朝
目が醒めたのは5時半だった様に思う、早すぎたと判断して二度寝を決め込んだ。
何せ昨晩眠りに就いたのは零時頃。少し早すぎる。
そんな訳でちゃんと目が醒めたのは6時頃だった。
寝惚け眼でトイレへ行く。
すると肌を擦る風がホノ冷やい。
これは秋風にしても涼し過ぎる。まるで11月並みだ。
持参した洗面道具を持って歯を磨き、シェーバーでここ5日間手を加えなかった髭を剃る。
痛痒い感触が此の3日間の長旅を感じさせる。
部屋に戻ると布団を畳み、撤収と外出の用意をする。
外の気候は曇り。だがその厚みは無く、雨に祟られそうな様子が無い。
今日の納沙布踏破を私はこの時点で決行とした。
とは言え、それまでに済まさなければならない事は山ほどある。
この宿の御代を済ませなければならないし、その前にはズラかる用意も終わらさなければならない。
まずはコンセントから曳きまくった充電機を束ねる。もう着ることの無い衣類をビニール袋に括る。
そして、サブバッグとして持っていたビデオバッグにはビデオカメラと付帯機器、ヘッドホンステレオ一式とガイドブック。
おおよそ行動するに充分なだけ・ビデオとステレオが必ずしもそうとは言い難いが、これだけあれば日中の行動を充二分に愉しめる。
※丘の上の街・根室
間もなく朝食に呼ばれた。
品目は定番の和食、ご飯に味噌汁である。
ただ味噌汁は白味噌で、この辺りはっきり覚えていないが山芋などの山菜が入っていたかなぁ。
マァ、あっさりしたお味で胃袋も目が醒めた。
昨晩は不覚を取ったが此処の飯は味が過不足無く乗っていて美味しかった。
(後年両親を連れると味が濃かったという不評を託ってしまったが(^_^;)
私がどちらかと言うと海育ちだからか、港町・根室の味があっていたのかも知れない。
「まんまんごっしゅ」というところか、私は食後の散歩に出掛けた。
と言うのは名目で、実は宿代を口座から引き出す為に出て来たのだ。
ただ、銀行を捜す為だけに街を出歩くのは芸がない。
と言う訳で食後の散歩という形を取った。
根室営林署の筋まで東に抜けて国道44号線に出た。
此処に出ると正面の通りはクキッと下り坂となる。
左手には市役所、右手には支庁舎合同庁舎がある。
国道を稜線として海岸線までの北半分の市街は根室湾に向けて斜面に拡がる。
斜面を下って行くと根室市きっての旅館・大野屋をはじめ商店も多い。
オホーツク海を臨みつつ、曇天の空の下根室市を掻い潜る。
ファミリーデパートがニチイやイズミの様な規模を持つ他は個人経営やチェーンショップが大半、コンビニも無い。
だがこういうロケは却って旅行気分を盛り立てる。
長閑・では表現が悪い。
だから生活臭と例えるか、日本全国ハンコで押した様な生活臭では無く、此の土地の人が永年掛けて育んだ、味のある生活臭だ。
常盤町を下ると北洋銀行があった。
こいつが第一地銀か第二かどうかは解らないが、あまりの長途留は好ましくない。
散歩の時間も長びきつつあるので此処で宿代を卸した。
此処で一つ不安が沸き上がった。
残高が16000円ほどになった。
実は此の旅終盤のトワイライトエクスプレスの切符をまだ買い求めていない。
札幌-大阪の普通切符だ。こいつが確か15000円ほどした筈だ。
土産物の話しは此処で霧散した。
宿に戻って御代を清算、大荷物を一つにまとめて部屋に残している事を了解し合い、ビデオバッグをベルトで腰に固定した。
その時女将から嬉しいプレゼント。
納沙布岬までの徒歩踏破は朝食の時に言い合っていたが、おにぎり三つと缶入りのウーロン茶を頂いた。
これは此の時もだが、召し上げる時はもっと感激した。
女将に見送られ、いよいよ最果て・納沙布岬までの自力踏破が今始まった。
▽大地への出発
※あの根室はもう‥‥‥
時刻は10時半。再び私はえびす屋から東に向かった。
駅前の商店は土産物店が主で、徒歩行脚で何か買う物は・と言う雰囲気ではない。
花咲かにが店頭幾らだの、全国宅配サービスなど書かれているが、私は先程の口座の残高が頭をよぎるばかりで食指が延びない。
根室グランドホテルの脇を通り今度は合同庁舎の筋に出た。
此処から国道44号線に出ると辻の北と東が下り坂になっていて市街が一望。
国道の終端には明治公園があるらしいが、今回は寄る暇が無い。
こちら方面に写真入りの納沙布岬の標識が23kmと表記して立てられている。
これは多分日本海側の径路を表示したものと思われる。だが私の採るはオホーツク側の径路は2km多い25kmとあった。
官庁街筋・と言っても役場が固まってあるという程度のものだが、とりあえずは根室港に向けて歩き始めた。
上下4車線、通りはなかなか大きいこの道は前方に寒天色のオホーツク海を望む。
歩道は北海道開拓使の入った時代・明治時代を象徴する煉瓦舗装されている。
下ってくると途中にはカラータイルでキタキツネと納沙布岬の象徴・四島の掛け橋が描かれていたり、マンホールの蓋は“根室縣庁 明治17年建立”と旧庁舎のイラスト、“根室本線全通 明治19年”と弁経型SLのイラストが見受けられた。
この通りはどうやら“花さきロード”と呼んでいるらしい。そんな看板があった。
商店や銀行、企業の営業所が並ぶ通りであるが、土曜日ということもあってか碌たま開いていない。
根室港に出るまで20分は掛かった。
堤防の向こうにはマストやリフトだけが見え隠れする漁船がある。
周囲は急に海産物の卸しや加工会社で占められた。
海苔や昆布、持ち出したガイドブックにも鮭やタラコにイクラなんて文字も躍る。
この中に石造りの洋館という感じの二階建ビルがあった。
洋風とも近代風ともつかない大正・昭和初期頃の建物にある特有の渾沌とした雰囲気を持っている。
根室の水産業が歴史を語っている様だった。
ただ、残念ながら此の建物はこれで見納めになった。
と言うのもこの10月に釧路一帯を中心に起こった地震でこの建物は基礎を損壊、大きく傾しいでしまったのをテレビニュースで見た。
恐らく取り壊したであろう、もっと念入りに見て置くべきだった。
この旅行から、此の後を引っくるめて変わり果ててしまった。非常に残念にも思う。
※再び大地に
海産物加工工場の屋根上には海ネコらしき海鳥が屋根の妻や峰に列を成し立っていた。
やけに行儀が善く些かユーモラスなので休憩がてら暫く見入る。
こういう漁港ではよくある風景だが、その海鳥の立居振る舞いが妙に上品なのが苦笑モノだ。
マァ烏が群れるよりは見栄えがいい。
その鳴き声をやり過ごし、左手に金刀比羅神社を見る。この辺りの坂道を下ると急に建物が消え失せた。
道道104号(当時)線、納沙布岬を一周するこの道路は屈曲が大きく高さ5m以内の起伏が頻繁にある。
坂がきついという訳ではないが、まっすぐ延びる道路・とは行かず、先行きは見通せない。
ただ草原の他は掩蔽物が無い。
道沿いに立つ電柱と、積雪時の為か道路の縁石を上から示す矢印柱が地形の限り目認出来、それが道標になる。
浜中町という此の一帯の果ては牧場である。
道路からそう遠く無い処で馬が数頭認められた。
漁村から農村に変わった風景、豹変も急ならその解放感も一変。
程無くその家の玄関から珍客がやって来た。
いや、珍客はこちらか(^_^;)。
此の家の番犬である。
なんと此処では殆ど放し飼い・繋いでいたら家の軒先から届かないという処か。
母家のほうから駆けて来て、人通りの少ない此処を歩いてやって来た私に不審な点が無いか探りに来た。
実は私、犬は大の苦手・だった。
だった・のは今は然程の恐怖を持っていないからだ。
昔はこんな場面で処構わず逃げ回っていた(お前はオバQかっ(^_^;)が、やたら刺激しなければ飼い犬が見知らぬ人を噛むことはない・と解ってからは然程取り乱すこともなくなった。
酪農家を4~5件やり過ごすと、風景は消えた(゚Д゚)。
足もとから延びる道と両脇に拡がる草っ原、そして、僅かに仰ぎ見ると灰色に荒れたオホーツク海。
草っ原も最初は牧場であったのが荒れ草枯れ草入り乱れて単なる荒れ地へと変わって行く。
道道は起伏の多い地形に揉まれるように上下左右に揺れている。
それで居て道路に沿う電線を見てこれから歩く先が地平線か岡の陰まで見届けられる。
未体験・と言う感動より、私がこれから成そうとしている事の意味を此の目で見せ付けられた思いがした。
少なくとも目で認められる此の道は此の足で確実に歩かなければならない。
バスはあるにはある。
手を挙げれば停まってくれるとも言っていた。
しかしそれは日一回の定期観光バスの事である。
とてもじゃ無いが非常時の頼りとはとても期待出来ない。
況してやタクシーは皆無、車だって、観光や地元の人が十分に一台しか通らないという有様。
この自分の足が最も頼りに出来る交通手段なのだ。
とは言え(-_-;)、
歩けど歩けど、根室市街を離れて小一時間、此処に大衆食堂があるとガイドブックには書いてあったが、どう見ても営業している様子がない。この辺りに集落もあったが、この集落は牧場か農業で生計を立てている様だ。先の草原では干し草を円筒ブロック状にして放かしてある。
処でこの集落という奴が此の後に及んでも殆ど無い。
道中、30分に5~6件の集落があればましなほうである。
そんな処だから自動販売機も無ければ公衆電話も無い。
先程頼れるのは自分の脚だけと言ってはみたが、どうやらこれはシャレになりそうも無い。
少し歩くとバスが通り過ぎてしまった。
乗客も殆ど居ないようだが観光用のデラックスバスだ。
どうやら先に述べた定期観光バスがこれらしい。切札は呆気なく過ぎ去った。
先の岡に出てみて仰天した。
なんと今まで歩いてきた道程、凡そ三十分ぶんが丸見えなのだ(゚Д゚)。
はるか後方には根室市街が霞む。
起伏の激しい地形なので所々見えないところもあるにはあるが、どこからここまで・がよく解る。
凄いのは、これから進む道も同じ様に見渡せる事だ。
もっともこちらは白樺林が邪魔をして途中で切れている。しかしこれとて歩いて10分は下るまい。
だが、これは序の口だったのである。
更に進むと、北方原生花園を案内する標識が納沙布までこの先16kmと示してある。
此処が花園?と思ったが、足元に拡がるのは草いきれ。
微かに花がついている物もあるが、花園とはとても言えない。
シーズンオフだったのかなぁ(T_T)。
実は北方原生花園はこれからまだ更に5kmほど先。
一寸騙された。だが此処も殆ど変わりがなかったと言って置こう。
処で此処には一緒に
“返せ!北方領土”
という看板もある。
今まで触れて来なかったのだが、根室は漁業や観光の町であると共に日本では珍しく領土という形で戦後を引き摺っている。
引き摺るというのは悪い表現かも知れないが、殊ここに関してはこう言う他無いと私は思っている。
北方四島には日本の築いた文化以上にロシアの生活を刷り込まれている。
こうなるまで未だ何等手の打てなかった政府こそ恨めど、相手に一方的に言いくるめられるものでもないとは思う。
だが、此処ではJRの駅で、合同庁舎で、根室公園で、そしてこんな最果てに通ずる閑静な道路にすら領土返還の声が高らかに謳われる。一体このギャップは何だろうか?
日本人が一番後回しにした戦後問題が此処にあったような気がした。
※思わぬ、然るべき障壁
草原が林に変わり行くが、その頃から随分と足取りがモタ付いている事に気が付いた。
オホーツクから吹き付ける風が体を前から強く煽り出した。
道路・その歩道こそ整備されて歩き易くなっているが、地形はアップダウン、風は強い向かい風。先程の標識から逆算すると行程の1/3はこなしているはずなのだが気が楽にならない。
しかもその向い風はオホーツク寒気団のものか、冷たさを徐々に増してきた。
トレッキング中の涼風は心地好くすらあるはずだが、程度が違う。
強さに足はもつれ、冷たさに肌は一層張り詰める。
負担ばかり掛る風であった。
そんな辛さを中和してくれたのは、地元STVラジオのトーク番組。
内容はもう後の行程の辛さから殆ど覚えていないが、軽妙な喋べ繰りと差し出がましいボケが印象的なパーソナリティーにはけっこう笑えた。
(のちに日高晤郎ショーだと解ったけどね(^_^;)
AM局が嬉しいのは毎日が一本勝負のトーク番組だから話題も広くて飽きがこない。
更に北海道で嬉しいのは、AM局が二つある事だ。
TBSラジオ系のHBCと文化放送系のSTVだ。
しかも両局はAMステレオ化を早期から進めて音もいい(今や引っ込めてしまったけどね(T_T)。
だからトーク番組を聞いていた。
林を抜けると今度は漁村落。
此処で猛烈な尿意をもよおし止む無く‥‥‥m(_ _)m
北方原生花園に到達したのはそれから1時間以上後になってから。
しかし右手に拡がる湿原は小麦色になびく草いきれ。殆ど花は落ちている。
海沿いに走るはずの道道だが、此の道そのものは海岸線に縁がない。
50ないし数10mは少なくとも離れている。
とても波打ち際には届かない。有っても砂浜では無くガレ場である様だ。
ここに唯一の公衆トイレがあったので、前後あらため念入りにっと。
再び歩を進めるが無情にも時計の針はどんどん進み、14時を廻ってしまった。
台地を縫う、何処かすら見当も着かない此の道に些か嫌気が差してきた。
と言うのも、足裏を中心に脚全体が熱く痺れ出した。
一昨日の函館行脚が急に恨めしく思えた。あれで足を痛めていたのだ。
とうとう腰を降ろして靴と靴下を脱ぐ。
靴のインソールを整える。足は白くなっており、それが赤らみかけている。
もちろん燃えるように痛い。
だが後どれ位歩けばいいのであろうか?
気を取り直して歩を進めると、バス停が認められた。
“豊里”
これは定期観光バスのバス停で、時刻表には一行だけ、3時間前にやり過ごしたあのバスの時刻だけだ。
加えて此処には標識が一つ。
納沙布まで7km。
まだ行程の2/3が過ぎただけであった。
淡い絶望感に囚われて「ヤレ糞っ!」と思い切り腰を降ろした。
1/3が二時間ほど、
2/3まで到達するのに更に3時間弱と明らかにペースが落ちている。
これは非常に拙い。
しかも体調が万全とは言えなくなった。
豊里、現実の厳しさに絶望を覚えた場所である。
だが、気を取り直した。落ちこんでいてどうなるというものでもない。
自分が前に進まなければこの先一切が起こらない。
まさかこんな一級道道を歩いただけで遭難なんて馬鹿げて居る。しっかりしろ!
それにしても、風が一層強さを増し、座っている自分すら揺り動かさん勢いである。とても休憩どころではない。
脚の痺れが小康状態になった処で、休憩を切り上げて歩き始め.る事にした。
(なおも試練は続く。次章へ(-_-;)
Posted at 2014/08/23 20:16:45 | |
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蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年08月22日
まぁ後述の状態であまり掘り下げない方がいいのかも知れないのだけれどもm(_ _)m。
だから今回マジメな話はそこそこで。
それにしても東日本震災の時にも思ったんだけど、コレ、政令指定都市での出来事なの?
まだ災害の容態さえ判明し切れていない。
最初にも言ったけど天候不順よりも人海戦術が基本の救難活動に手こずってる。
先進道具こそあれ江戸時代の災害復旧じゃあるまいに都市住宅街の災害とは思えない状況を呈している。
文明って、無力だなぁ。
とにかく窮した生活と不安が拭えない罹災市民には辛い戦いが続く。
夏休みが終わる時期までは気が緩められないだろう。
ぼちぼちボランティアも受付を始めるらしい。
とにかく車や機械に頼れないところで猫の手も借りたい状況なのが実情だ。
タダ震災と違って被害地域が直線上30x5km前後の3区画の町に甚大な被害が集中してるので、市中心部や私の居る西部、東部などには悲しいほど影響が無いのも(何よりなんだが)事実なんである。
え?私(^_^;)?
ごめんなさいm(_ _)m。
アレコレ偉そうに言ってましたが自分のことでもふらふらヤットでしてホントごめんなさいです。
そんななので同情ととられると困るので下らないことも色々と。
ニュースで度々触れてることで聞くようになった
「とげ」。
地元市民なのに初めて聞いた地名だった。
「桐原」
と書くようでなるほどそう言われれば読めるかも知れないとは思ったけど、
「駄荷(だに。廿日市市吉和で路線バスの終点の一つ)」
のようにピンとは来ない読み方だ。
さて災害の8月20日は20年前にアストラムラインが開業した日だった。
とんだ誕生日だ。
こちらは今回出る緑井の南である大町で西に折れるのだが、今回運良く沿線で被害はなかった。
現在JR可部線がその緑井以北で運行再開の目処が立たない。
災害復旧で盛んに跨ぐ必要もあるしなにしろ泥流が絶え間なく軌条内に雪崩れ込んでいる。
先日中国山地でのJR線災害不通が続くと書いてて、今度やっと山陰本線や山口線が復旧するというのに入れ違いになった恰好だ。
可部線は227系投入による105系の動向やJR化以降で初めて廃止路線が一部ながら最開業するなど話題も多い路線だが、18切符フリークを始め残念がる人も少なくなかろう。
取り敢えず明日からバスで代行運転を行うようだ。
あと、今は渋滞で窮赳としている国道54号線だが、被災地の一帯は車のディーラーはひと揃いする界隈で、みんカラでもディーラーの安否を心配された方も居られるようだ。
こちらは一応ディーラーは全社無事、県道270(旧国道54)号線沿いのショップでは泥流に見舞われ少なからず被害を被ってるが、ココで被害が押さえられてる。
タダ、今からが大変で水没対応や補修に追われることになるだろう。
私も93年19号台風では郊外店ながらけっこうあちこちしたもんです。
と、雑感で括ってみましたm(_ _)m。
Posted at 2014/08/22 21:49:17 | |
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