ニセモノを越えられない本物のジレンマ?!(ドラえもん創作最終話)
livedoor ニュース - 藤子プロの突き上げが発端 ドラえもん最終話騒動の真相
記事の最後こんな事が書かれていました。
--------<記事部分引用>--------
小学館は、今回、異例ともいえる厳しい措置を取った理由を、(1)絵柄や装丁がよく似ていて本物と間違える人がいる(2)作品の世界観を勝手に改変した(3)部数が同人誌の範囲を超えている、ためなどと説明しているが、前出記者のこんな笑えない証言もある。
「ある小学校の教諭から小学館に連絡があり、“とても感動したので道徳の授業で『ドラえもん』を使わせてもらえないか”というので詳しく話を聞いたら、なんと『ドラえもん最終話』のことだったという話もあるそうです」
今回の措置には、ニセモノが本物以上の支持を得たことに対する嫉妬があったのでは……というのは、言い過ぎだろうか?
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以下、勝手に創作?!
小学館サイド:
本当の最終話はこちらなので、ぜひこちらで・・・
小学校教諭:
え?
いや、この最終話だからこそ、道徳に良いんじゃないですか。
え?え?え?
なんですって、これ、原作でない???
え、ええ~?
あ、そう言われれば、作者名とか違うのですか・・・。
とっても良い話なのに・・・。
こんなに良い話、埋もれさせたり、葬り去るなんて、勿体無い話ですね。
それこそ、道徳から外れてしまうのでは・・・
同人マンガでも良いですから、学校の授業に活用させて頂く事、ご了承頂けないでしょうか?
小学館サイド:
それは、ご勘弁願います。
原作でないもので授業をされて、それが本当の最終回と勘違いされたままとなってはとても困ります。
小学校教諭:
そうなのですか。
いや~勿体無いな~。
ドラえもんなど子供達も親しみ持った作品でとても喜んでくれるのですよね。
これなら、とても良い道徳授業ができるのですけどね・・・。
仕方ないですね。
この同人マンガを超えるお話ありましたら、是非ご紹介頂ければと思います。
ドラえもんは子供たちにも身近で人気がありまして、良いエピソードなどは教材としては非常に注目しているのですよ。
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テケテテン フュヨ~ンフヨ~ンフヨ~ン(場面切り替わりSE風?!)
そうこうして数ヶ月・・・
ドラえもん、映画などの案内は来ても、その他のストーリーやエピソードなど、伝えられる事はなかった・・・。
小学校教諭:
ニセモノを越えられない本物のジレンマに陥ってしまっているのですかね・・・。
それくらいなら、同人だって承認してくれれば、子供の教育にとても役に立つのに・・・。
わかりました。
それでは「ニセモノを越えられない本物のジレンマ」として取り扱う事にしましょう。
温故知新を絡めても良いかもしれないですね。
これは、とても深い教育の題材になりそうです。
それにはやっぱり、ドラえもんをベースにお話を創作するのが良いかもしれませんね。
そうやって、大いにリスペクトしたエピソードを練り上げるべく、ペンを採るのであった。
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ニセモノを越えられない本物のジレンマ
しかし、もしもドラえもんが実在したら、こういう話を一体どうするのか?
ドラえもんのコピーが出来て、そちらの方が良くできていたら?
心をもたない機械であったら、当然挿げ替えられてしまうだろう。
しかし、意地や誇りがあったなら、出てきてしまったものは仕方が無い。
無かった事にするのではなく、自分の独自性、経験、先行者としての意地で、
独自性を展開していくのではないか?
ネームバリューに胡座をかいて、ピリッと引き締まった感動を呼ぶ話を作れない。
それを尻目に、高度に作品の本質に迫るレコメンド、ブラッシュアップのアイテムが出てきたならば?
流石に著作物と言う訳にはいかないけれど、料理などは同じ物に独自性、独創性、もしくは頑なまでの伝統を維持して
シェフ達が切磋琢磨して自慢の逸品を競い合う。
同様にマンガ等の創作活動は、個人、もしくは特定グループが
その作品の鍵を握る肝心なところを握っているからこそ、創作であり著作と呼べるのではないか。
作品の肝心なところを、簡単に越えられるものを作られてしまう事自体が、手落ち、創作力で負けたといってよいのでは無いか?
古来、日本でもより優れた技術者の作品は、模倣からはじまり、その物の本質を盗み取り、元となったものに、オリジナリティ、
独自性、研ぎ澄ます要素を盛り込む事で、互いに切磋琢磨して、より良いものを生み出してきたのではないか。
今回の措置は、お代官様、これで何卒ご容赦を・・・
を、その代官様の方から下達したようなもの。
もしくは、この紋所が目に入らぬかぁ~~。
模倣され、それを越えられてしまうと不味いようであれば、登用、徴用、囲い込みで自らのうちに収めてしまうのが、
良くあるやり方だったのではないかな~。
極端な話、原作なり、脚本なりを検討するスタッフとして迎え入れる。
もしくは、外部脚本協力スタッフとして登録する。
なんて具合にして、作品の新規制、広がり、解釈を積極的に取り込む事もできたのではないか?
本来の著作物を、限られたグループが占有、独占し、そのパイの中で利益の享受、恩恵に与る仕組みが出来ていたのならば、
新たな外部スタッフを迎え入れるような、幅、新規制、挑戦的な姿勢は出てきようもないか。
やはり、新たな血や息吹を取り込んで、視聴者にアピールする、視聴者の感動を巻き起こす事自体を最優先した、人材登用も検討した方が良いのでは?
原作のエッセンスを活かす事ができる、貴重な戦力を失ってしまった、と、見る事もできてしまうのかもしれない。