2014年05月01日
ローランド・ラッツェンバーガーの死から20年
明日は2014年5月1日。アイルトン・セナの死から20年が経ちます。
セナの死の前日。1994年のサンマリノGPの土曜日。同じく事故死したのがオーストリア人のローランド・ラッツェンバーガーです。
シムテックという新興チームからデビュー。それまでは、日本でF3000やJSPC等(JTCも出てたかな?)で活躍していたので、日本人には非常になじみのあるドライバーでした。
F3000でもキグナスカラーのチームから出場。星野一義もまだまだ強かった一方で、バブルのおかげで、それまで強かった一部のチーム以外も資金力があり、激しい優勝争いがなされた時代に勝利したこともあります。(実際にその場におりました。)
そして、ラッツェンのレースで、個人的に最も印象深いのが、1991年の鈴鹿インターナショナル1000kmレースです。
現在も、夏の終わりの風物詩的なレースとして、伝統ある鈴鹿1000kmですが、91年のJSPCシーズンは、日産がポルシェ962Cを凌駕し、圧倒的な強さを見せ始めた時期で、そこにトヨタが追いすがるという展開でした。
当時、これまた鈴鹿にいた私は、大ファンである日産ワークスたるニスモチーム(YHPではなく、カルソニックだったと思います。)が僅差でサードトヨタを引き離してトップ快走。残り10周を切ったところで、約10秒差をつけていたので、安心してチェッカー&表彰式(と鈴鹿1000km名物の花火)を見るべく、1コーナー側のスタンドからグランドスタンドに向かっていました。
その途中で、サーキットビジョンに映った衝撃のシーン!カルソニック日産(多分鈴木利男がドライバーだったと思います。)の左のリアサスが壊れ、火花を散らしながら1コーナーのグラベルに飛び出していったのです。
そしてトップでチェッカを受けたのが、ラッツェンが駆るサードトヨタでした。
表彰台の中央に立つラッツエンと長坂尚樹ともう一人のドライバー(ちょっと忘れました)が輝いて見えました。日産ファンとしては悔しかったですが、171周のうち約160周戦って、トップと2位の争いが約10秒だったというすごいレースでした。全日本耐久選手権、全日本スポーツプロトタイプカー選手権を見てきた中で、最も印象深いレースでした。
その時輝いて見えたラッツェンが、その約3年後に壮絶な事故で亡くなるなんて信じられない思いでした。
見た目は、オーストリア人というよりもオーストラリア人という風貌でしたが、好漢ラッツェンのこともセナ同様忘れられません。
そして、明日はセナの命日ですね。
このことは別途明日ブログにアップしたいと思います。
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Posted at
2014/05/01 00:26:19
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