2015年01月03日
本日は母の葬儀
松の内なので
ごくごく内輪の親戚だけ
以下は親族代表の挨拶用に作った原稿
母は、大晦日の晩、あと数時間で年が明けるというところで亡くなりました。86歳でした。
かねてより、高齢でもあることと持病の呼吸器系の病が悪化方向であったことから
それなりに心づもりをしていたつもりではありましたが、まさか、この冬にというのが
正直な家族の思いです。
平成15年にちょうどこの場所で父を送らせていただき、その時の母の落胆ぶりは
息子である私の想像をはるかに超えたもので、この先どうなるのだろうかと思っていたのですが
皆様のご厚情によりなんとか普通の生活に戻れたと思ったのも束の間、特に夜に
長く咳き込むようになりまして、思えばその頃に呼吸器系の疾患を抱えたのでは
ないかと思っています。
私は大学進学以後、実家を離れてしまい、幸い姉が近くに住んではおりましたが、母は
一人暮らしになってしまうと、自分のことはどうでも良いというのか、家族のための
家事の合間の趣味は楽しめても、自分の好き勝手にできる状況になってしまうと、
自分自身のためだけの楽しみというものをうまく持てなかったように思います。
そういう気力を充実させることのできない状況の中での呼吸器系の疾患というものは、
体に酸素を取り込めなくなるために、常に息切れ状態で倦怠感や無気力感を
増長させてしまっていたのだと思います。元々食の細い人でしたが、輪をかけて
食事量が減っていったようで出歩くこともめっきりと減り、私たち姉弟は
「もっと食べて歩かんばね~」というのが口癖のようになっておりました。
そのうちに母の頭の記憶の棚が一杯になってしまったらしく、よくあることですが
昔のことははっきり覚えていても新しい情報は入れる場所がもうないようで
、つい最近のことは思い出せず、炊飯器を2台こわしました。どういうことかというと、
ご飯を炊いたことを忘れてしまったのか、食欲がなくなったのか、炊いたご飯を放置して
何故かコンセントだけは抜くんですね。そうすると真っ白なご飯がカラフルな色のついた
何らかの物体に変わってしまうんです。「どうしたのこれ」と聞いても「知らん」というだけで
一度は炊飯器を買い替えたのですが、次に帰省した時には見おぼえのある物体が
そこにあって、これはまずいぞということになりました。宅配のお弁当を姉が手配して、
火を扱うのが不安になったことは本人も自覚してか、母は次第に自分の食事をつくることを
諦めたようで、誰かに食べさせたいと思って食事をつくるのであれば、一旦忘れたとしても
、あっそうだと思い出すのでしょうが、自分のことだとさほど重要ではなく忘れてしまうんだと
思います。平成20年の夏を境に私は母の手料理を食べることができなくなりました。
自分のためにやることは大部分を放棄して、いよいよ家の中を動くことすら難しくなってくると、
事前に多少なりとも姉から状況は知らされているとはいえ、毎回帰省の度に今度は一体
どんなことになっているんだろうかと凄く不安一杯で帰省をしておりました。
丁度今のような
正月休みの時でしたが、私が夜に実家の二階にいてそろそろ寝ようかという時に、
下の階のガスコンロに火をつける音がしまして、驚いて「何してんの?」と聞きますと
「湯たんぽばいれよるったい」と母は答えました。少し前にエコだということで湯たんぽが
見直されたようで昔ながらの形ではありますがオレンジ色のプラスチックのものを
父が生前に愛用していたものを母が持っていました。「寒いのかな」と思って代わって
湯たんぽをしたてて母に渡したら「違う!あんたんとたい!」と言うんですね。
歩くのもままならなくなって自分のための調理はあきらめても、子供のためなら動ける
という母でした。
三年ほど前でしたか、姉から近くにいい介護施設があるからという話がありまして、
確かにここまでくると、その方が遠くに住む私自身もさることながら仕事を持つ姉も安心だろうし、
私的にはもしかすると日々多少なりとも動く機会が増えたり色々な人と話す機会も増えて
リハビリ的なことも期待できるかなと賛同しました。
本人は「家に帰りたか~」と我々の顔を見るたびに訴えておりましたが「そげんこと言うたって、
ご飯も食べれんし動けんたい。動けるようになってから帰らんばね~」とのやりとりが繰り返され、
家に帰りたい気持ちが強いからか、最初はなかなか施設の他の入居者の方とも仲良くは
なれなかったようですが、この1年でしょうか、ようやく周りの方とも打ち解け始めたようだと
聞きました。それまでかなり施設のスタッフの方々にはご苦労をかけたのではないかと思います。
母は施設に打ち解けると同時に表情がとても柔らかくなったように感じました。
年をとると子供に還るというような話も聞きますが、母は顔のしわは相当に増えましたが
本当に子供みたいなというか子犬のような目になっていました。少なくとも私はそう感じていました。
親不孝者の息子としては、大体眉間にしわを入れて怒る時の母の顔の印象が強いわけでして、
今日の遺影のような思いっきり笑った母の顔もほとんど記憶にありません。
そういうわけで、この直近の1年は本当に施設のスタッフの方に感謝しつつ以前のような不安感
も全くなく今回も帰省して参りました。直前に姉からのメールで「母は今ちょっと熱が出て調子が
悪そうだから」と知らされていましたがまだほとんど危機感はなかったんです。
今回帰省して母に面会に行きますと、酸素吸入のチューブを付けた母がいまして、
かなり呼吸も荒いんですが、問いかけにはうなずいたり首を横に振ったりして答えてくれて、
呼吸器系の疾患が悪化してかなり血液中の酸素濃度が下がっているということを聞かされました。
痛みであれば薬とかで和らげるとかの処置がありますが、呼吸器系ではそれ自体では痛みが
あるわけでもないようで、息苦しいということに対しては酸素吸入のような対処方法しかなく、
それ以上は病気に対して何もすることができないと理解しましたし、実際にそういう説明も
受けました。
それは良く分かりましたが、だからといってそれがこういう結果になることにはやはり頭の中で
結びつかず、母には「苦しかね?体起こす?何か飲む?」という言葉をかけるくらいのことしか
できなくて、私が子供のころに確か肋間神経痛だったかになって激しい痛みで夜眠れず
うなってる時に枕元で母が「どげんしたら良かとかね~」と言いながら体をさすってくれていた
情景を何故か思い出して母の体をさすってあげることが精一杯でした。
大晦日の日は、母は私がいる時には殆ど目を開けることも、言葉を発することもありませんでしたが問いかけに首を横にふることはあって、息苦しさに耐えてるけどまだ意識ははっきりしているようだと思っていましたし、姉も私もいない時に少し楽になることもあったんでしょう、看護師さんに話をすることは有ったようです。
夜になって看護師さんが「体の向きを変えましょう」と言って母を抱き起した時に、一瞬呼吸が
楽になったのかなと思いますが、その日初めて目を大きくはっきり開けて看護師さんの肩越しに
私を真っ直ぐに見ました。本当に子犬のような目でした。それが母の最期のメッセージだったんだと
思います。
その後は一気にまた呼吸が荒くなりまして、なかなか落ち着かないと思っていたところようやく
呼吸が落ち着きはじめて「あぁやっと・・・」と思っていると・・・
「いや、これはいくらなんでも落ち着きすぎるんじゃない」というくらいに呼吸が遅く浅くなって、
「いやいやいやいやちょっと待ってよ」と、その時点になってようやく本当に慌てました。
母の最期は本当にゆっくりでした。
「えっ、これ息してないんじゃない?」と体をさする手を止めて顔の前に手を当てると
喉がちょっと動いてふ~っと息をして、それを繰り返しながら次第に間隔が広がって本当に
ゆるやかに呼吸が止まって、手を触ると体温がどんどん下がっていくのが分かって、
病気というよりも、あぁとうとう母の体力が尽きてしまったんだなと思いました。
呼吸がゆるやかに止まったということは、母が最期の最期まで生きようとした証なんだと
受け止めています。
息子の目からはとかく母親というものは理解し難い面が多いように思います。
父が亡くなってからの母の十数年はどれほどの価値が有ったのだろうかと思ったことも
ありますが、今更ながらというか完全に手遅れなのですが、母は家族のために精一杯最期まで
生きてきた人だったんだと今は思えます。
かなり無駄に長い話になってしまいましたが、どうか親不孝な息子の懺悔ということで
ご容赦いただきたいと思います。
最期になりましたが、看取り介護という形で最期まで母にお付き合いいただきました
介護施設のスタッフの皆様には本当に心から感謝しております。本当にありがとうございました。
以上を遺族代表の挨拶とさせていただきます。
本日はありがとうございました。
Posted at 2015/03/01 22:58:14 | |
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