
台風9号が通過
長崎では雨も風もそれほどではなく
被害も特に無かったんじゃないかな
しかし
今回の台風は
発生当初に九州直撃の進路予想が出てたのに
しばらくすると翌日くらいまでの進路予想に代わって
その後暫くは予想が出なくて
そろそろ九州近いんじゃないのっていう昨日になっても
現在位置が4時間前の位置
気付いたら鹿児島の枕崎あたりに上陸した模様ですになってた
台風が複数発生していて進路予想が難しいとかあったかもしれないけど
もしかして
オリンピックの関係で東京に接近してた台風10号の方が大問題だから
9号なんてかまってられない
ってことだったのかな?
通過してからも
9号は温帯低気圧に変わるけど発達するので要注意
とかって意味分かんないから
気象庁のHPを覗いてみたけど
いつの間にかリニューアルしちゃってたみたいで
詳しい情報のページにうまくたどりつけない
気象庁のHPらしきところに
お天気アプリの広告とか有るんだけど
お役所のHPに広告って有りなのかな?

川の水は結構増えてる

一時的にはもと水位が高かったみたい
鳥たちはどうやって台風をやり過ごしたんだろうか
今日は長崎原爆の日
この町は
長崎市に隣接している地域は被爆指定になっているし
長崎からの被災者を鉄同で運んでここの駅に救護所を作ったそうで
ここの公園にもその関連の碑とか像が設置されていて平和宣言的なモニュメントも有るので
今日は世間は何かの代休じゃなかったか?と思ったけど
たぶん県下全域で8月9日は登校日なんだね
昔はそんなものは無かったなぁ
夏休み中の登校日なんてものが無かった
長崎はコロナ関連もステージ4に引き上げられたとか言ってたけど
それでも登校させて平和教育をやらなきゃいけないのかな
そもそもどんなことをやっているんだろうか
大体こういう話ってやたらと恐怖感を煽るような内容なんだけど
死にかけてる人の様子とかご遺体の惨状とか聞く意味がそれほどあるとは思えない
普通の?空襲とかだってご遺体は悲惨なことになってるし
災害とかだって十分に悲惨であることには変わりない
核兵器とかの大規模殺戮兵器の一番の問題は
民間人が犠牲になることが前提であることだと思うんだけど
何故かそういう点は色々な議論の中に出て来ない
敵国の民間人を大量に殺すことで自国の兵士の犠牲者を減らそうとした
ってところは誰も問題視しないんだなぁ
日本人らしいと言えば日本人らしいのかもしれないけど
こちらの家の荷物を整理する中で
父親の被爆時の状況を記した紙が出て来た
被爆者の多くがそうであるように
被爆時の話を子供には殆どしていなかったので
初めて知った内容だったけど
書かれたのは比較的最近っぽいうえに
名前の漢字が違っていたりするので
おそらく父が最後に入院した時に口述筆記的に記されたものではないかと思う
一応白血病だったから
治療する時に被爆者として何か特別な扱い
試験的に未認可の投薬をするとか?
をするための事務手続きに使われたものではなかろうかと思う
一応
情報として人目に触れる可能性のある状態にしておくべきかなとも思うので
以下に記しておくので
見たくない人は見ないで
ということで
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爆心地から2.8kmに有った造船所の施設(現在の長崎大学経済学部の場所)に勤務し、
8月9日、木造2階建ての屋内にいた。
黄色い光線がピカッとして「飛行機が見える」と誰かが言ったので、窓際に寄り、その後すぐ
机の下に潜った。土壁や窓ガラスが崩れ落ちてきた。
自分は直撃弾かと思った。
出口に殺到して皆が我先に出ようと足を引っ張るので出るのに時間がかかった。
やっと建物から出て、防空壕に入った。
背中が血だらけだと言われ伊良林国民学校に同僚のSさんと二人で行くことにした。
行く途中、県立高女で戸板の下敷きになっていた女の人を助け、一緒に向かった。
しかし、酷い火傷や怪我の人がいっぱいで、自分はいつ見てもらえるのか分からない。
私の背中にガラスや木片が刺さっているのを他の人たちが水をかけながら、同僚たちが
ピンセットで抜いてくれた。
造船所の寮が城山3丁目(今のマリヤ学園)に有り、そこへ帰ろうと西山から金毘羅山を越えて
行こうと思ったが、長大生や先生、医師、看護婦さん達がものすごい人数で下って来た。
私は山越えしながら、たくさんの死体を踏み分けて歩いた。
建物は燃えてしまって目標物が無いので、川に沿って歩いた。
浦上川には大橋から死体がぎっしり浮かんでいた。
寮は燃えてしまっていたので、庭の木に蚊帳を張って寝た。ずっと野宿だった。
2日くらい何も食べなかった。
8月11日に茂木から握り飯の配給が有り、寮の皆で食べた。
死体が浮いている井戸から水を汲んで飲んだり、炊いたりした。
西山木場方面で焼けた米俵を見つけて持って帰って来たり、缶詰工場で缶詰を拾って来て
五右衛門風呂で米と一緒に炊いて食べた。生きている鶏も捕まえて食べた。
寮の従業員で生き残った人は火傷がひどく、私が手当をしたり、水を運んだりした。
毎日毎日、周りの人が死んでいった。
稲佐から拾ってきた鉄の棒を数本並べてかまどのようなものを作り、死体を魚のように焼いた。
内臓がなかなか焼けないのでひっくり返して焼いた。
これは私の分だとあてがわれて、私が焼く死体の横で毎日寝た。
朝起きると私の身体は夜露でびっしょりだった。
2週間、毎日死体を焼いた。
一緒に作業をした仲間は数年後亡くなった。
駒場町の競技場のところでも
手伝いに来てくれと言われて死体処理に行った。
また岡町の刑務所跡(現在の平和公園)に上司の奥さんを探しに行ったり、
工業高校に上司の娘さんを探しに行ったりしたが見つからなかった。
平戸の実家に帰ったのは8月27日だった。
3ケ月くらい後、下痢がひどく、便所が自分の部屋のようになり出られなかった。
歯茎から出血し、髪が抜けた。
造船所から戻るよう言われ、12月頃職場復帰したが、体調が悪く入退院の繰り返しだった。
35歳の頃、肺潤滑、胃潰瘍で半年くらい休んだ。
57歳で高血圧になり、59歳で退職したが、それから毎月病院通いになった。
平成12年の夏、原爆健診で白血病が1万1千になり、長崎大学原研内科で白血病と診断された。
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ということで
うちの父は木造の建物の屋内で被爆していて
直後にほぼ爆心地近くでご遺体を約作業をしていたので
そこでも二次被爆をしている可能性が高い
しかし
直接的な健康被害は被爆から数年のところまでだと思う
肺潤滑というのが検索しても良く分からないけれどたぶん関係無い
関係有るならもっと早い段階で死んでるはず
最後は白血病だったけど
西日本には幼少時に母乳を介し母親から感染する成人T細胞白血病とかいうのが有って
高齢になって免疫が低下すると発病するそうで
うちの父親はそれだったと医師からは聞いていたので
被爆との関連性はほぼ無いと思う
ただ、被爆との関連性を完全に否定する証明は難しいし
どちらが原因かと分かったところで治療が変わるわけでもないので誰もそんな手間はかけない
そのせいか
被爆者団体的には
被爆者が白血病で死亡すると
今でも被爆者は苦しんでいるのだ~
と叫ぶネタにしている気がして
この口述筆記らしきものもそれに利用されたのかもしれないなと思える
まぁそれでも
父の被爆の状況が残されていたことは良かったと思うべきかな
ということで
久々に墓参りにでも行こうかと思ったけど
父は別に被爆で死んだわけではないので
きょうは仏壇にお線香をあげるだけにしておこう