2012年11月14日
埼玉県秩父郡皆野町の教育委員会主催の、「平成24年度 人権問題啓発指導者養成講座」へ行ってきました。
「養成講座」とありますが、一種の講演会でして、今日(14日)はその第2回目とのことです。
先週の回は試験直前の為に余裕が無く、欠席しちゃいましたが。。。、
さて、今回は、、、
テーマは「いじめ問題」
演題は「~ いじめはなくならないのか ~」
講師は秩父人権擁護委員協議会長の池田克生先生です。
講演の中心は就学児童の「いじめ」問題です。とてもタイムリーですね。
DVDも交えての講演でした。
では、その概要です。
まず、配布された資料から転載しますと、埼玉県教育委員会調査調べ(平成24年4~8月)
(注:コメントはフライフィッシャーによるもの)
認知件数:
小学校294件、中学校333件、高校78件、特別支援学校17件です。
昨年同時期はそれぞれ、112,333,38,データなしとなります。
いじめの認知件数は例年変動していますが、それはその年毎の社会情勢や学校・家庭側の取り組みによるものであり、これら統計値は必ずしも実態をストレートに表すものではないとのことです。
いじめの様態:
冷やしや、からかいといったものが多く、ついで暴力を伴うもの、そしてシカトなどとなります。
これら認知されたいじめ件数のうち84%は解消(解決)されていますが、裏を返せば16パーセントは認知後も解消されていないとのことです。
・・・16パーセントと言えば、6件に1件は未決事件ということができますよね。かなりの高確率です。
ちょっと驚きました。
いじめのメカニズム:
池田先生は”私見”とした上で、自他の違いを違いとして受け止められないという心理的作用がいじめの直接原因になっており、また、そうした心理的作用は自己と違う存在に対する防御本能(排除はひとつの生きる術)、さらには生理的欲求や社会的欲求、欲求表現の稚拙さ・屈折、島国根性などの社会文化などが根底にあるのではないかと捉えています。その延長線上として優越感や、劣等感の裏返しとしてのいじめが発生する可能性も指摘しています。
ちょっと脱線。
ふと、私はリースマンの『大衆の孤独』を思い出していました。リースマンによると、文化的グループがあり、自己所属の文化グループを逸脱して他グループへ参入するのは極めてハードルが高く、多大なエネルギーが必要とされるとのことです。その一例として、白人が私的領域で黒人グループに所属するのは難しく・・・・そういえばエミネムもそうでしたね。彼は持ち前の情熱で乗り越えましたが・・・、逆に黒人グループでは白人の音楽を演奏していると「お前は黒人なんだから、黒人の音楽を演奏しろ」と言われるとか。互いに自己グループからの逸脱と、他グループからの参入を排除する機制をもっているようです。
ただ、不思議なことに、「日本人は、西洋の外国人をすぐ受け入れるけど、アジア系の外国人をなかなか受け入れない」という指摘を、何かの文献かNPOのフリーペーパーだったか、ネット記事だったかで読んだ記憶があります。
うーん、実際どうなんでしょう。学生時代は同胞たる日本人とより、アジア系外国人(韓国・中国・台湾・マレーシア人:順不同)との付き合いの方が多かった私には実感が無く、ちょっと難しい議論です。
まあ、単純には拝欧主義・アジア蔑視が日本の文化の基底にあるという主張もありえそうですし、いやいや、そもそも日本人はアジア系であり、他のアジア系が自己に似ているからこそ、峻別が難しいので強力に排除しようとするのだというのも一理ありそうですが・・・いずれにしても臨床心理データが少なすぎて、私には判別つきません。え、歴史問題?うーん。ひょっとすると、それらのどれでもないのかもしれませんし。私達は皆が皆適当な原因を言って安心感を得ようとしているだけなのかもしれません。
それに・・・むしろ今時の若い人は、国籍云々より、個々人同士の相性の方を優先しているかもしれません。そういった意味では、文化・歴史観の違いなどを越えているのかもしれませんね。頼もしいです。
なお、これらは同グループ内における「逸脱」と「アイデンティティクライシス」の問題にもつながってきます。
さてさて、脱線はさておき。
加害者にしばしばみられる特徴としては、
我慢が苦手(・・・ええと、私のことですかwww)、自己評価が低い、誰かに認めてもらえないという失望感を抱いている、家族を含めて感情のコントロールが苦手な人々に囲まれ自身もそのように育つ、ゆえに、暴力が先に出てしまう、
のだそうです。つまり、不満やストレスのはけ口としての攻撃行動なのだ、と。上映されたDVDでも、彼の父親がDVを起こしており、家庭不和にあるという設定になっていました。
またもや脱線です。
見田宗介氏の『現代社会の現代意識』を思い出しました。
同著は、田舎から上京したある若者の話が中心となっています。彼は貧困家庭に生まれ、当然のごとく豊かな暮らしを送る人々を見ながら、自らの生活との違いを幼子ごろから焼き付けられ、上京して自らを偽り背伸びしながら生きます。彼はどんなに背伸びしても学歴や変えがたい出自などによって自らの実態を突きつけられ、ますます虚飾を自らに施してゆきます。やがて彼は事件を起こし、射殺魔として追われ、刑を受ける身となりました。
都市は若者を「金の卵」として受容しますが、それは「意欲があり忍耐強く働く労働者」としてある限りにおいてであり、都市の代弁者たる経営者にとって、若者の「自己の開放」」は困惑以外の何者でもない、と。都市は田舎の代弁者たる若者を労働力として吸収・消化し、残った純粋に「個人たる部分」を残骸として廃棄すると、著者は指摘しています。
そういえば、『希望格差社会』なんて本も、最近流行っていましたね。
個性化・・・結局それは「商品を買う消費者」としての個性化を求められるものであり、社会的意味や自己実現としての個性化は、むしろ圧殺されているのかもしれません。だからこそ、個性を表現したい、自己存在の肯定感を持ちたいという思い・・・のどの渇きとでも言うような切望がインターネット上にあふれ、むせ返るような思いがするのかもしれません。見田氏はたしかそれを「尽きなく生存する欲求」
といったような表現であらわしていたように思います。うーん、相変わらずうろ覚えだーー;
おっとっと、脱線しすぎましたね。
したがって、いじめをする加害者の問題は、気質的な部分と、その気質を形成する社会的背景が存在していることが伺えます。
で、いじめの社会構造として配布資料は、まず中心に「被害者」がいて、それに対し「加害者」が直接的加害を加える。その周囲に「観衆」がいて、積極的是認などの助長行為を行います。さらにその周囲には「傍観者」がいて、何も行動を起こさないことにより暗黙的支持を行うものであり、これも一種の助長行為だとしています。また、同資料は、観衆や傍観者が勇気を出して抑止力にならなければならないと説いています。
また、いじめは「成長過程の必然」とか「通過儀礼」という理由で、結果的にいじめを是認し許してしまう動きにもつながってゆきかねないと指摘。「いじめはなくならない」という考えを固定化させることの危険性を訴えていました。
確かに「通過儀礼」「大人社会は当たり前のようにいじめがある」ということで、子供達がいじめに合い、尊い命を絶っている現実から目を背けるならば、いじめに加担しているのと変わらないことになりますね。
いじめを解消するためには、子供達(・・・に限らないわけですが)の様子に常に目を光らせるとともに、その背景たる社会環境にも十分注意してゆかなければならないと思います。これは親や学校単体だけでできるものではなく、地域社会も含め、連携して総合力をもって対処してゆかなければならない問題だと思います。
なお、最近は震災被災地からの避難者のお子さん達に対するイジメも増えてきているそうです。卑怯な!絶対許してはなりませんし、イジメを受けた子に対する手厚い保護(カウンセリング等)が必要です。
Posted at 2012/11/14 11:15:27 | |
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