自分が小学生を過ごしたのが横浜でした。まだ田んぼに行けばザリガニが獲れ、蛍が飛び回り、市内には路面電車が走っていた時代です。
シブリングは近所の学校に通っていて、中学校の教頭先生が式典の際、”みんさんも山本リンダさんのようにエライ人になりましょう” と口を滑らせPTA会から総スカン喰った話がありました。(山本リンダちゃんが卒業生だったらしい。)
リンダちゃんと言えば以前弊社の独国の人員輸送の契約会社はオートバーンの女王と言われてたリンダちゃんで、A6路線だけでなく、VWのキャラヴァンやらアウデイなどで一般道でも猛スピードて疾走し、ザーランドからフランクフォート・マインまで1時間で走った記録もあったりして(人呼んで リンダの、どうにもとまらない)、ぼくもGPSのデータロガーで時速260キロを記録した事あります。独國の職業運転手は例外無くカーキチで、いつも業界話で花が咲きました。 ああ、脱線、脱線。。。
今はモービル・エクソンになっちゃいましたが、昔はスタンダード・ヴァキューム・オイル(スタンヴァック)と言う会社が独禁法で半分がモービル、半分がエッソになったのが始まりです。んでモービル社はスタンヴァックがあった横浜にとどまり、戦後に横浜駅西口にある、いや、あった、相鉄ビルが本社でした。今はシェラトン・ホテルになっちゃってますが。あの頃は(1960年代です)横浜駅西口はバス乗り場がまだ砂利で、相鉄線(あだ名は砂利線、相模川の砂利を運ぶのが最初の仕事, 僕が知る上で唯一、パワーウインドーの付いた鉄道で、窓一つ一つに小さな丸いボタンがありそれを押すと窓が開いたり閉まったり任意の場所で止められる)の改札口までが国鉄から離れていてアーケードで繋がっていて、今で言う相鉄ジョイナスですね。そのアーケードが個人タクシー乗り場でした。東口などは荒れに荒れ果てていて造船会社の資材置き場なんかになっていました。
そのスタンヴァック時代、米国から出向してくる社員に向けに本牧は三渓園の近くの丘に社員寮を建てたんです。あの一帯、米海軍のPXやハウジングエリアがあった所で人気だったらしく、電電公社が電電会館と言う福祉施設を丘の上に持っていましたし、テニスの発祥地であの、亡命事件で有名なラストヴォロフがテニスをしていたテニスクラブも近所にあります。(彼は晩年までテニスをしていたそうな)。
横浜スタンヴァックの社員寮、一般にソコニー・ハウスと呼ばれていたみたいですが (ソコニー SOCONY は Standard Oil Corporation of New Yorkの略で、ロッカフェラーが始めた石油会社でこれまたモービルの一つ)それが近年取り壊されたかで、調べて見ると近くの共同住宅の管理棟に移されたとかで、あり、こりゃ、一度見に行かんと。。。このソコニー・ハウスはアントニー・レイモンドと言うチェコスロヴァキヤ人の設計だそうで、有名な建築家、フランク・ロイド・ライトの弟子です。横浜市内にも他のフランク・ロイド・ライトに関わる家屋が数軒あったのですが、もう殆どが取り壊されたみたいです。
そのモービル・オイル、今やGMでもメルセデスでもポーシャでも純正潤滑油に指定されているモービル1。あれ、実は最初はモービルSHCと呼ばれていたんです。SHCは航空機の潤滑油として軍用に開発されたのが後に、石油危機で販売減少して苦境に立たされた石油屋さんが、逆に燃料を節約する潤滑油として出したら?と売り出した商品でした。この合成潤滑油を使うと内部潤滑抵抗が下がるのでアイドル回転数が上がるのでそれを規定値に下げてとか、寒いと普通のオイルは流れないがモービル1だとさらさらと流動するとか言うコーマシャルしていたの覚えている人はいるかしら。。。。それから暫くしてSHCは産業潤滑油脂のブランドに変わり今だに現存。航空ジェット機用潤滑油はモービル・ジェットII とし今だにジェット機市場殆どを独占、自動車用はお馴染みモービル1です。
影になっている機体がDC−8と言うのが興味深い。。。。
はみ出し情報その1。古いピストンエンジンの航空機にはダイリューター・ボタンと言うのがついています。極寒地域でエンジンを止める前にアイドル状態でこのダイリューター・ボタンを押すと決められた量の航空燃料がクランクケース内に混じり一時的に潤滑油の粘度を下げます。そうすると次回、寒くなったエンジンを始動する際の潤滑油抵抗が下がるのでエンジン始動の助けになると言う訳。潤滑油に混ざった燃料は温度が上がると揮発するので問題ナシ。ただ潤滑油交換の頻度は高くなりますが。。。。DC–3なんかの星型エンジンに見られます。
はみ出し情報その2。90年代にモービルは航空ピストンエンジン版のモービル1、名称をモービル・アヴィエーション1を開発・発売したのですが、この潤滑油には問題があって暫くして販売止めました。今でも訴訟を引き摺っているみたいです。航空エンジンの故障は直接生命に関わるのでイチデージです。
さてさて、元町にあったバンド・ホテルもドンキホーテになり (淡谷のり子、別れのブルース)、そのドンキホーテも現在取り壊し中。元町入り口の谷戸橋にあったモービルのガソリン・ステーションは全国でも数少ない、代理店が経営しているのではなく、モービル石油が直接営業していた珍しいガソリンステーションの一つでしたが今じゃ、マッサージ屋さんです。
相鉄ビル内にあったモービル石油の本社は1973年に東京丸の内に建てられた白亜の新サンケイ・ビルに引越。その新サンケイ・ビルの一階ロビーの売店、通路を隔てて二軒同じようなお店があるのですが、一つは細身のキツネ顔のキットしたおばさん、反対側はふっくらしたタヌキ顔の温暖そうなおばさん。それが不思議な事にお昼のお弁当の時間になると、みなキツネさんから買って行き、タヌキさんはふくれっ面してその売れ行きを頬に手を当てて見ていると言う、キツネとタヌキの商売合戦と言う評判だったとか。。。
大手町・新サンケイ・ビルお向かいの大手町ビルヂング(三菱系なのでビルデイングではなくビルヂングなのが面白いですね、因みに三菱自動車も解説書などにはライチング・スイッチと書かれていました)一階には一般社団法人自動車工業会の図書室があって、受付のネーネーは外見は強面なんですが、顔見知りになると親切な人なんですよね。。。現在は浜松町に移っちゃいました。
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2018/04/01 04:17:38