米国の自動車産業が一番輝いていた時期、1950年代から1960年代にかけて、なんでもござれの時代が続きました。聳えるようなテイルフィン。宇宙船のような計器盤(丁度その頃、宇宙を目指せと、全米中が沸いていた時代です)やら、何百馬力のエンジンで疾走するマッスルカーなどなど。技術の向上は目を見張るものがありましたが、その頃、安全性とか環境保護とかの懸案は、逆に正義の敵じゃ!と言う風潮があったのも確かです。まあ人種問題やらヴィエトナム戦争問題で政府方針反対の風潮が加担してたのかもしれませんが。その内、大気汚染、交通事故が半歩遅れて問題化されいずれも無視できない環境になり、遂に政府が動き出します。
その結果1966年に生まれたのが DOT、Department of Transportation (運輸省)とその管轄下のNHTSA(ナッサと読む)National Highway Traffic Safety Administration, 全国道路交通安全委員会です。そして1968年にFMVSS, Federal Motor Vehicle Safety Standard, 連邦車両安全基準法が発令し、現在では当たり前になっている安全装備、シートベルト、サイドマーカーライト、2回路ブレーキシステム、パッドで覆われた計器盤、伸縮式ステアリング・コラムなどが法律になったのでした。
その際、不思議だったのは、バンパーの基準がFMVSSに盛り込まれていなかった事です。各社、相変わらずメッキが滴るような大きなバンパーとグリルを作っていたものの、FMVSSがいずれはバンパーにまで及ぶのは時間の問題だと察していたみたいでした。んでそのバンパー基準の設立を政府に働きかけたのが市民団体やらではなく、車両保険の会社をまとめる保険屋団体だったんです。凝った作りの飾りバンパーをぶつけ、保険で直そうと言う消費者が増加していたんですな。このように、企業やら、宗教団体やらが法律を変えようと政府に働きかける際、ロビイストと言う政府にコネのある人脈を雇います。勿論カネのある企業の方が強い影響力のあるロビイストを雇えます。日本で言う天下りの人材なんかがそれに当てはまるでしょう。
なんじゃかんじゃの経緯後、最初に発令されたのが、1971年4月9日の、FMVSS、215条、”外装保護に関する規定” どうしてバンパー基準を外装保護の傘下に入れなきゃならなかったと言いますと、FMVSSは命に関わる安全装置の条例で、主に低速でショックを受けるバンパーは命には関わりがないんじゃないの?と槍玉が出たのです。それで215条の外装保護の規定の中に、安全装置の作動と言う項目があるので、バンパーなら外装で安全装置の保護になるんじゃない?と弁明して、晴れてFMVSSの中でバンパー規定が発足できたのでした。この条例が有効になった日付は1972年9月1日、つまりモデルイヤーで1973年型からでありました。
その次に国会を通過した法律が、1972年車両情報と経費節減法、Motor Vehicle Information and Cost Saving Act、略してMVICS Actです。バンパー基準法の中に、消費者に対して最大限に経費節約になる項目が含まれていました。
ですから5マイルバンパーの法律は2つの法律から成り立つ、なんともややこしいスタートを切ったのでした。
このバンパーの法律、初年のモデルイヤー1973年は、小手調べの感じで完全な5マイルでのバンパー基準は適応されず、まず前面を時速5マイルで、後方は時速2.5マイルで壁に衝突させ、安全に関わる装置、灯火類(ひび割れなし、光軸調整可能)、燃料系統、排気系統に定められた以上のダメージが加わらないかを見た上、フッド、トランク、ドアが正常に開閉でき、燃料キャップも通常に開閉できなければなりません。ここで重要なのは車体の外板にダメージがあるとか、無いとかが書かれていない事です。以上の項目に合格していれば車体がグシャグシャでも問題ないわけですね。各社、バンパーの取り付け金具を延長したり、かまぼこ条のゴムの塊をバンパーの先端に付けたりで対応し、時間を稼いでいました。
ややこしい事にこのFMVSS215条には毎年例外車両があり、例えば車軸間が115インチ以下でハードトップ形状の(または同様の屋根形式で後席がない車両)2扉車がそれに当たります。例としてはAMCジャヴェリン、ダッジ・チャレンジャーとプリムス・バラクーダですが、これらの車両は1974年が最終年だったので結局1973年のバンパー基準には最後まで対応していませんでした。その他に数年以内にモデルチェンジ予定の車種、輸入台数が少量に限られる車種(ロータス・ユーローパ)なども例外車両だったそうです。
そして遂に、1974年に本格的に5マイルバンパーが導入さます。
まず、衝突速度が、車体前も後ろも時速5マイルに。試験方法は、まず壁に正面衝突を前と後ろで1回ずつ、それに加え、静止車両に、車重と同じ重さの振り子式の錘を、バンパー高4.5フィートで時速5マイル、バンパー幅に1フィート間隔で横方向に左右5回ぶつけて(高さの許容範囲は±16インチ)最後に、バンパーの両端を30度の角度で振り子の錘を時速3マイルでぶつけます(これが相当堪えた様で特に方向指示器やらの破損で大掛かりな車体変更をしなければならなかった模様)。その上、1973年の試験項目の上に、懸架装置、駆動装置と制動装置が正常に動くかが加わりました。
次に来たのが1979年。今までの試験条件の上に、車体のバンパ以外の車体外板にダメージがあってはならない事に。これが所謂フェーズ1。この年に、FMVSS215条と、MVICS法が統合され、バンパー基準はFMVSS・581章にまとめられます。フェーズ1には各社、相当悩んだようで、1979年で大々的なモデルチェンジを実施して対応したり、結局諦めて1979年型から市場撤退、または車種消滅するケースも結構ありました。(市場撤退はバンパだけでなく、同じ時期に一層厳しくなった排気ガス規制、衝突規制対応などのトリプルパンチで、70年代後半の暗黒時代でした)
バンパー規制が一番厳しかったのは1980年からの2年間。それは1980年までの試験条件の上に、今度は衝撃を受け止めるバンパー自体に加わるダメージが定義され、バンパが最大3/8インチ凹むのと、バンパ自体が元の位置より最大3/4インチ以内に動くことが加わりました。これがフェーズ2。要するに5マイル以下でぶつかれば、車体の前も後も完全にダメージがなかった、と言うわけですね。こりゃ厳しいわ。。。。
その一番厳しい規定が緩和されたのが、1982年5月14日以降の車両、テスト速度が前も後ろも時速5マイルから2.5マイルへ下げられ、斜めのテストが時速3マイルから1.5マイルに格下げになりました。その後、多少の追記を含めバンパーの基準は現在に至ります。
規制緩和の理由は経費と燃費でした。5マイルバンパの法規が始まってから、政府は細かい経費対ベネフィットの研究をしており、要するに余り厳格にしすぎて消費者のためにならない。その上当時、燃料価格の高騰で資源節約を政府が音頭を取って先行している中、軽い簡易バンパーに戻したら燃費向上で、これだけ原油の節約になり、人民の為になる上、原油輸入を減らせるので外交のためにも有利になる、などと言うのが言い訳でした。。。
1982年から規制緩和になったとは言え、即、バンパーをひ弱にした会社、緩和後も5マイルバンパを続けた会社。その話は次回ですね。。。。
余談ですが、このバンパー基準にの他に、燃料漏れ基準専用の項目がFMVSSにはあります。この燃料系統のFMVSSは571条と言い、バンパー基準の215条に絡んで、それ以上厳格な基準があります。おまけにそれが最近、まあ、2006年ですが、再度改定され一層厳しくなっています。例えば前部を壁に時速48キロで衝突させ燃料漏れを見る。後部を70%オーバーラップで時速80キロ!で崩れるバリヤに衝突させ(車体は静止)燃料漏れを見る(これ最新の規定)側部を崩れるバリヤで時速53キロで衝突させ燃料漏れを見る(車体は静止)車体を前後を軸に宙で90度ずつ回転させ燃料漏れを見る、などなど。これは燃料漏れと衝突を観察する試験で、燃料系はその上、排気ガス規制の一環で、気化したした燃料を完全密封しなければいけないと、これまた厳しい試験があります。(なので燃料系の規定を満たしておけば、バンパー試験の際の燃料漏れは多分起きないと言う事でしょうね)
余りにも有名で社会問題にも発展したのは、後部衝突で発火したフォード・ピント。ぼくらの年代ならピント=炎上は同義語でした。
燃えよ、ピント。
燃えよ、ドラゴン。香港生まれのブルース・リーくん、サンフランシスコ背後の坂道に止まっているのが1965年型シェヴォレイ・ベルエア、ルノー・ドーフィンだったり、左のは英國ルーツ集団製のヒルマン・ミンクスの商用版、ヒルマン・ハスキー、ステーションワゴン。
バンパー規制と衝突時の燃料漏れの規制で、特にピントの騒ぎ直後に出たトヨータ・セリカ。トランクの床下にあった燃料タンクとそれに繋ぐ給油口は尾灯の間、バンパの上。スペアタイヤは横に立て掛け式でしたが。。
73年から急遽、燃料タンクは後席背後に移動し、給油口は左側ピラーに移動。多分想定もしていなかった法規適合で製造各社、特に外国の製造会社技術者群の間で大騒ぎになっていた事は容易に想像できますね。
1968年にGMのポンテイアック部門は人気の中型高性能車、GTOのモデルチェンジをした際、車両前部に柔軟な素材のポリユリセーン樹脂で作った外皮で出来たバンパをエンデユーロ(Enduro) と名付け、大々的に発表します。広告にはスレッジハンマーでGTOの前部を何回も叩く広告で衝撃が広がりました。この樹脂は温度に対し安定しているほか、元の形状に戻る記憶があり、それにギャソリンやらの化学薬品に対しても非常に耐久性のある樹脂でした。この色の付いた柔らかい ”顔” のGTOに拒否反応を示す購買層が居ると察した製造側はちゃんと、デリート・オプションコード674を選ぶと通常のメッキ仕様のバンパが注文可能でした。但し注文装備の隠れる前照灯はこのデリート674とは同時注文できませんでした。1968年に87,000台以上売れたGTOの中で、この674デリートオプションを注文したのは2,000台強だったそうです。
これが樹脂製の前部を持つ1968年型ポンテイアックGTO高性能車。
広告でスレッジハンマーでノーズを叩く。
技術者達も並んでスレッジハンマーを落とす。。
同色の前部が気に入らない層には、ちゃんと鍍金バンパーが注文できました。
その後GMはこのエンデユーロ樹脂の仕様を拡大していき、翌年1969年にはシェヴォレイのカマーロのバンパを同じ素材で注文装備の提供をします。
これが普通のメッキバンパーのカマーロ。1969年型。
注文装備でエンデユーロ製のバンパー仕様のカマーロ。
後日、カマーロやファイヤバードは車両前端を全てこのユリセーンで覆う形で随分スマートな外観になりました。カマーロは78年型から。
そう言えばセリカにも似たような仕様があったっけ。。。見た事ないですが。
GMでもコーヴェットは少し変な仕組みで1973年の衝撃吸収バンパにしています。車両前部を例のユリセーン樹脂の皮で覆い、その下の鋼鉄製補強材とフレームとの間に特殊なボルト、通称、”オマーク・ボルト”(Omark Bolt) で結合されています。このオマーク・ボルトは肢の部分が先に行くにつれて細くなっており、それを貫通する穴がフレーム側に付いています。バンパの補強材が衝撃を受けるとこの特殊ボルトがフレームに付いた穴を貫通しようとしますが、後方に動くと同時にボルト径も太くなるので、次第に穴に貫通しなくなり、衝撃を吸収するという仕掛け。1973年と1974年だけの仕掛けでした。当然車両前部をぶつけた際はこのボルトの交換になります。されど外皮はユリセーン樹脂でぶつかっても元に戻るので、下からオマーク・ボルトの状態を見ない限り、ぶつかった事は分かりません。
鼻先がユリセーン樹脂で覆われた1973年型のコーヴェット。
これがオマーク・ボルト。因みにオマーク社は銃の製造していたみたいです。
1975年からは潰れて衝撃を吸収する樹脂ブロックが内蔵されるようになり、オマーク・ボルトは消滅。
1975年、後方はGM自慢のエネソーバー(後述)で対応。
1973年にモデルチェンジしたシェヴォレイの中型車、シェヴェル・マリブーの高級版、ラグーナはフロントクリップの先端を全部このユリセーン樹脂で覆い、1978年にマイナーチェンジしたカマーロも同様、車両先端はユリセーン樹脂で覆われました。
製造側各社はこの強化バンパ基準の対応に四苦八苦し、その手順も各車種によってバラバラだったりします。
GMの大型車は、デルコの開発したエネソーバー(Enersorber) と言う、シリンダの中に液体を入れそれが衝撃で動くと小さい穴から固定してある狭いオリフィスから液体が流れようとし、衝撃に対応します。ピストンの反対側には不活性ギャスが圧入されており、衝撃で圧縮された後、膨張で元に戻ります。(要するにオレオ方式)
オールズモビルはラジエータグリルが上か下に蝶番で取り付けられており、バンパが引っ込むとそれに連られてグリルも後方へ逃げる構造でした。
オールズモビル、72年型にはしなる鋼板を使い、衝撃を吸収する構造を法規先行で装備してました。
シェヴォレイ・ヴェイガもしなる鋼板で衝撃を吸収。
キャデラックはラジエータグリルがバンパーに取り付けられており、バンパーが引っ込むとラジエータグリルも引っ込む仕組み。
クライスラーはGMのエネソーバーと似たり寄ったりですが、中にバネが入っており、衝撃を吸収した後、元の寸法に戻ります。
AMCは早々とGMからエネソーバーの部品供給を受け73年規制に合格しているだけでなく、 1973年型コムパクト車グレムリンは当然最初から後ろは2.5マイルの衝撃を吸収できるように強化されていましたが、注文装備でそれをGMのエネソーバー装着で5マイルまでの衝撃吸収に向上させる選択を与え、一年早く前後に5マイル衝撃吸収可能になり、そうすると車両保険の割引に適合すると宣伝していました。
1973年型のグレムリン。規制適合で前部はエネソーバー使った5マイルバンパー。でも注文装備で後部にも5マイルバンパの装備ができました。
74年型先取りで後にもエネソーバー式強力バンパーを。これを注文すると、車両保険の割引適合されたそうです。
74年型。本格的の前部・後部、両方5マイルバンパーのグレムリン。
各社1973年のバンパは足並みが揃わず、様々な仕組み、衝撃後元に戻る形、衝撃吸収したら部品交換になる形と混同している中、フォードだけが1973年全車種、前部のバンパは衝撃吸収・自己復帰の機能を揃えていました。(なのにGMほど1973年の新型バンパを宣伝していなかったのは不思議)。小型車のピントからリンカンまで、フォードは殆どの車種でゴムのブロックをバンパとフレームの間に噛ませていました。GMは例のユリセーン樹脂などでゴツいバンパの外観を何とかして美観にしようとしていたのとは反対で、フォードはがんじゅうな外観の凄バンパーをデンっと架装していました。でも例外は新しく出た、ピントの親戚のマスタングIIで、最初からユリセーンの外皮でバンパを隠していただけでなく、衝撃を吸収するのに、新開発のPGMと言う機構を採用。
PGMとは、ポリ・ジェル・ミテイゲーター(Poly -Gel -Mitigator) の略で、これは衝撃吸収に他社と同じくピストン形状のシリンダを使うんですが、中身はシリコンに添加剤を加え8,500PSIに加圧し、ジェル状にして装填すると言う物。シリコンは液体でもゴムみたいに柔軟性がありますから、その弾性を使いバンパーからの衝撃を吸収すると言う仕掛けでした。
ジャーマニー独國ではマスタングの名称が既に他車で登録されていたので、代わりに開発プロジェクトの名称、 ” T5 " で1978年末まで呼ばれてました。
日本で衝撃吸収バンパーが流通し出したのが、確かT100シリーズの通称、安全コロナだったと記憶していますが、確かその頃、シリコン・バンパーと呼ばれていた覚えがあり、ふむふむ、確かに資料にはシリコン樹脂を高圧で封入していると記されていました。って事は、これ、もしかしてフォードのPGMだったのかしらと? でもトヨータはその後、ほとんどユリセーンの塊を使った黒いバンパーに移行して行ったので、あれは何の事情があったのかと、知りたい歴史の一つです。
北米、最初に出たセリカは1971年型。外観も余計な物がなく綺麗でした。例の、”フルチョイス” システムはありませんでしたが。。。
72年型もほぼ原型ととどめていました。
73年、最初のバンパー規制に沿って大きなコブ、 ”バンパーレット” が加わり、バンパー下の方向指示器が大型化されています。この年から燃料タンクの位置が変わります。
そして74年。。。例のハードトップ車、軸間115インチ以内のエグゼンプションが適応されていたと察します。
74年の広報写真。
んで遂に1975年にはおっきなバンパー抱える事になります。大きく重いバンパーとより厳しくなった排気ガス規制で、エンジンは2.2リッターに。
カローラなんかも相当苦労したんだなーと、でも軽量車だったので少しは救われたか。多分30は多少最初から来たりくる法規改正に対応すべく考えられていたのかもしれません。
72年型のラインアップ。サイドマーカーの処理が実にスマートです。
73年になると突如、補強された物が目につく容易なり。。広報写真。
エクゼンプションのあったセリカより一足早く、74年には完全装備の法規対応に。細いバンパーの跡の凹みやら取り付け位置を隠す黒いゴム帯が虚しい。。特に例のコーナーからの衝撃を処理するのに苦労している事がわかります。でもカローラは翌年75年から30型にモデルチェンジするのです。