2月最後の日。ニミッツ大通りを左折しようとしたら、あれま、ありま。トラックの上に載ってたのは何と、マズダのステーションワゴン、おまけにヴァンケルエンジン搭載のRX−3ではないですか!かなり錆びていますが、加州のライセンスプレートをぶら下げていたので、多分本土から持ってきてサンドアイランドで陸揚げされて、今から修理工場にでも持って行かれるのでしょう。
当時、夢のエンジンとされていたヴァンケル・エンジン、またはロータリー・エンジンですね、マズダが最初に北米に進出して来た頃、1970年4月14日、ワシントン州シアートル港へ60台のR100を送り出したのが最初でした。あの、現在の軽自動車より軽いサブコムパクトの車体に1リットル弱の排気量で100馬力を叩き出す、おまけに電気モーター如く無振動のエンジンに、関係各社、ぶったまげたのは想像に容易です。
マズダの初めての北米車、品揃えは小型の1200、ロータリーエンジンのR100と、中型の1800。
ピックアップトラックもあるでよう。
ハワイにも結構あったらしい。。。ダイハツ・コンパーニュ、いすゞのべレルとベレット、日野コンテッサにプリンス・スカイライン、あの頃のハワイは非常に面白い自動車社会だったと思います。。。
これはモンタナ州ミズーラ。結構田舎なんですが、ここにも1800が。ぼくが以前働いていた会社の昔の写真で、森林火災消火を業務とする会社でした。ヒコーキは第二次世界大戦時の海軍艦船雷撃機で、これを改造して火災遅延剤を空から噴霧します。ジョージWブッシュ大統領がこれを駆る操縦士として有名でした。
その後、業界異例の趙長期エンジン保証、なんと50,000マイルに魅力を感じて買った消費者が、その距離を越える頃になるとエンジンのオイル消費が増え、幸運だった人は無償で修理してもらいましたが、その該当台数があまりにも増大したのと、50,000マイル越えてからの車両は保証対象外となり、ロータリーエンジンの不評が広がったのでした。マズダはピストンエンジンの同車種を揃えなんとか生き延びます。
いつも不思議に思っているのは、衝撃吸収バンパが始まっても、RX4、それもハードトップだけが以前からのバンパでやり過ごしていた事です。これは1975年の広告。多分何らかの理由でエグゼンプションを貰っていたとは察しますが、理由は?
モデル末期やら、販売台数がごく僅かに限られているとかで、エグゼンプションは得られる場合があるのですが、RX-4は1976年に車体前部だけをちょっと弄って、大型バンパを装備。一層1975年の謎が深まります。
謎と言えば、例のコザのRX-2ですね。その後近所の自動車やさんとの会話で、とうマズダは左側通行に近くなってもLHDの車両を結構売ってた話を聞きました。でもこの車両は単にLHDだけではなく、明らかに北米仕様。なのにSOFAのEプレートではないのが摩訶不思議。いずれかはここの地主さんに事情を聞きに行かなくては。。。
ロータリー化はピックアップ・トラックまで広がり、REPU
(
RotaryEngine
Pick
Up) と呼ばれ、これは一定の数が出たみたいで、ぼくが1980年代に自動車整備学校に通っていた時、実験の相棒の若い子がコレに乗ってました。
そのREPU、加州の砂漠の飛行場の裏に、数台が保管されていました。この写真を撮った数年後、コレらの車両は跡形も無く消え去ったそうで、警備のオッサンも目撃していたらしく、一体何が起こったんだろう、と言ってました。
RX-4の2扉ハードトップは一足先に廃止され、その代わり投入されたのが、あの、瞬間コスモの匂いの、アレです。日本製オールズモビル・カトラスと言いたくなる様な素敵なデザイン。今でもぼくの好きな一台です。でも導入されたのがRX-7が登場する前の2、3年間だけ、販売数は微々たるものでした。
余り知られてない事ですが、(いや、余り知られたくない事でしょうけど、特にこの時勢では)。ロータリーエンジンの発明者として知られる、フェリックス・ヴァンケル氏、戦前戦中はヒットラーのナチ党の支持者だけでなく、その傾き方が余りにも熱狂的過ぎて、ナチ党から解脱、それに2回も!ジュイッシュ嫌いの人だったらしいです。ヘンリー・フォードとは会話があったのかどうか。。ヴァンケル氏はその後ネッカーサルムのNSUで働きますが、彼は一生、自動車の運転免許を取得できなかったそうで(近視が酷かったらしい)、移動は自分のRo80をお抱え運転手に乗り回していたとか。
ラムシュタイン空軍基地にて。
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2025/03/02 06:05:18