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JetBoyのブログ一覧

2022年12月20日 イイね!

冬至のポンテイアック サッポロ一番 スリラチャ味

冬至のポンテイアック サッポロ一番 スリラチャ味










明日は冬至、一年で一番昼間が短い日です。北緯21°の当地、ハワイ州ではこの頃になるとお日様は朝7時過ぎに登り、夕方6時には暗くなります。この時期だけ、数週間の間、朝早く南西の地平線近くには、南十字星、サザンクロスも見えます。

朝の通勤時に、スクールバスの乗降時に停止で引っ掛かる時も真っ暗です。でも今週から學校は冬休みでスクールバスも走らないので通勤時間が格段に短かくなってます


冬至、夏至はそれぞれ、サマー・ソルシテイス、ウィンター・ソルシテイスと呼びますが、そのソルシテイスは2005年からポンテイアックで売られていた2座のコンヴーチブルの名前がそうでした。



ポンテイアックの生き残りがまだ話題に上る前夜、なるべく経費を抑えてミアータに似た軽快車を考え、このソルシテイスを出したんですが、その頃には景気の悪化とGMの経営状態の著しい悪化が始まり、結局売れたのは4年間で65,000台ちょい。4気筒の割には重量が重く、速さで競う車ではなかったみたいです。


このポンテイアック・ソルシテイスが登場した2005年前後からGMは、各ブランドがGMの製品だと知っている人が、中西部地域以外ではとても低い事に気づき、その認知度を高めるために小さな四角いGMエンブレムをさまざまな車種に、通常前のフェンダー、前のドアまたはコーヴェットならドアの直ぐ後に付けました。


コーヴェットはここ、扉の直ぐ後ろ、後ろフェンダ開口部の直ぐ前。



そのキャンペインをやっている内に、はい、経営が傾き、2009年にGMは倒産。時期を前後に、再建の為ポンテイアックもオールズも、サターンも廃止。残ったブランドからもこの小さいGMエンブレムは全て廃止になりました。


先日発見した、サンヨー食品、サッポロ一番の新しい品種、スリラチャ風味の焼きそば。スリラチャとはタイランドから来たピリ辛ソースで、我が国ではとても人気があり、今じゃスリラチャ入りマヨネイズとか、サラダドレッシングとか派生商品も増えてました。


そのスリラチャ風味の焼きそばねえ。ふむふむ。試してたら、見かけとは裏腹にそんなに辛くない、結構美味しかったです。


おお、さぶいのお。冬のアンカレッジ・アラスカ。


Posted at 2022/12/21 16:20:13 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2022年12月18日 イイね!

パンナム機爆破事件とヴォルクスワーゲン・ラビットとゴルフ。

パンナム機爆破事件とヴォルクスワーゲン・ラビットとゴルフ。











クリスマスを控えて今週の気になったニュースは、34年前丁度クリスマス前に起こった、パンナム103便ロッカビー爆破事件で、爆弾を作ったリビヤ人の犯行人が捕まり、米国政府に拘束されたそうです。そのプラステイック爆弾は東芝製のラジカセットプレーヤー、RT−SF16に内蔵され、気圧感知装置が付いていて、離陸を2回したあとに爆発する様に作られていて、フランクフォート発、ロンドン経由でニューヨーク行きのパンナム機に搭載され、ロンドンを離陸後に爆発する計画でした。それまで東芝の電気製品は一般消費者向けにはその名を余り知られていられませんでしたが、この事件で東芝の名は一挙に有名になり、東芝さんもかなり困惑した事でしょう。

これと類似型が爆破に使われた。


我が国では1970年代後半のデスコ時代から、カセットテーププレーヤから大音響を響かせ、それを肩に担いで歩き回るのが若者の間で流行っていて、そう言った類のプレーヤー、それも大型の奴が結構人気で、よく売られていました。この爆破に使われた東芝のラジオカセットプレーヤーは逆に小型でスリムな形状で、余り流行らなかった奴です。矢張り若造が街を大音響で練り歩く際、その音源が小型で繊細なモデルだったら興醒めだったのかもしれません。時期を前後して、もう少し大人は、当時、盗難率の高かった、自動車のラジをが取り外し式になり、自動車から離れる際、取手の付いた取り外し式ラジをも持って出て、食堂でデートの際、テーブルに取り外した自動車ラジオをデン、と置いて凄いだろう、と誇示するのが流行ったような記憶があります。


その後自動車ラジオは操作・表示部だけが取り外し式になり、その部分だけポケットに入れて自動車から出る様になり、その内暗証番号がないと起動しなくなったり、寸法が特殊になり互換性がなくなり盗難の標的にならなくなったりで、今や、自動車のラジオの盗難なんて以前ほど聞かなくなりましたが。。。

こう言うの、昔はやりましたねえ。よくあの重い物を肩に担いで歩きましたね。(ぼくはこう言うラジオ持っていなかたし、歩きもしなかった)あれ、これ。アース・ウインド&ファイヤ!先週末ホノルルでコンサートがありました。



1980年代のパンナム航空は以前の栄光から奈落の谷を転げ落ち、財産難の泥沼から抜け出せず、資金繰りに困り果てていた所に、自分達のせいでは無いにしろ、この爆破事件が起こり一層、苦難に拍車がかかり、3年後、運行停止・倒産に追い込まれました。


パンナム一等席の名物献立、ロブスター・サーミドー。食べてみたかった。。



パンナムはその末期頃、運転資金が極度に足りない際、ぼくの昔働いていた会社に747を10機程売り飛ばし、それから得た現金でその場を凌ぎ、ウチに売った機体はリース料を払うと言う形で継続してパンナムが運行すると言う、いわゆるリースバックと言う手段で飛び続ける事になりました。(日本で航空機リース返却の事をリースバックと誰かが言い出し、それが定着して業界でもちょっと困っています。それを言い出したのが多分有名な写真家・専門家らしく。。)でもパンナムはいよいよ末期になるとリース料支払いも滞り、倒産の裁判で多額の費用をかけてパンナムから取り返したこの10機は殆どボロボロの状態で、飛べる状態にあったのは数機、エンジンが無かったり書類は何処へ行ったか分からなかったりイチデージな事になっており、足りないエンジン掻き集めて、エンジン3発でニューヨークからアリゾナの弊社の整備基地まで持って帰ったのが、ぼくの入社一年目のハナシ。結局その10機の内、マトモに飛べる様になったのは7機で、その中には747の製造番号003と004と言うごく初期生産型が含まれていて、後日、その機体を自分が運航するなんて、夢にも思っていませんでした。そのパンナム仕様は操縦室の床が明るい緑色の絨毯で敷かれていて、機長席の座席が電動で真っ直ぐ、後に6フィート位後退出来る様になっていて、これは機長がフライトエンジニヤのパネルを弄れる様に設計されていたと聞きました。後にこの電動座席は万が一、離着陸時に故障して動いたらマズイことになると言うご通達が来て、離着陸前にそのサーキットブレーカを落とす項目が追加になってました。あと覚えているのはお尻にあるAPU, 補助エンジンのパネルに診断装置が付けられていて、何かの問題でAPUが自動停止すると、その理由が小さいデイスクの表示で解るようにできていました。実際それで助かった事は一回もなかったですけど。。。

サンダーバード、パンナムの747が盛んに宣伝使われました。


そのロッカビー事件で命をおとした1人が、ヴォルクスワーゲン・オブ・アメリカの大ボスだった、ジム・フラーさんでした。ジム・フラーさんは若い頃から自動車が対すきなカーキチで、大学時代にフォード系のプロジェクトに参加したのをきっかけに、フォードに就職、その後トリーノ、マスタングIIやグラナーダのローンチにリー・アイアコッカ指揮の下関わった後、AMC/ルノーに行った後にポーシャ・ヴォルクスワーゲンに移り、1980年代に、すでに稼働して4年目で販売が落ちていたヴォルクスワーゲンのラビット(初代ゴルフ)の喝入れに選ばれ、ラビット・GTIから始め、独国技術を備えた若々しくかつて廉価なイメージを植え付けるのに成功し、一躍有名になった方でした。

アメリカ合衆国で初めて出来た外国の自動車製造工場(厳密には戦前にマサチューセッツ州でロールスロイスが自動車組立を1921年に始めたのが最初とされていますが。。。)がペンシルヴェニア州にあったヴォルクスワーゲンのウエストモーランド工場で、ジョブ1が1978年でしたっけね。



そのジョブワンの個体は独国の博物館に展示してあるそうです。


そもそもこのウエストモーランド工場はクライスラーが作りかけて計画が頓挫していた工場を買い取ったもので、地域の活性化目的で州政府から多大なる優遇を受けて始まった工場でした。1978年と言えば第二次石油危機が勃発する直前で、経済者のラビットは人気があって、その上、同時期に登場したジーゼル・ラビットが驚異的な燃費で一時期で流行ったもの、日本勢に押されマーケットシェアは落ちる、その上工場では労働組合、及び品質問題で叩かれ悩んでいた所、投入されたのがジム・フラー氏だったのでした。

ウエストモーランド製のラビット・ゴルフは角目の前照灯が特徴で、連中の犯した罪は、余りにも製品を米国化してしまった事でした。フカフカの足回り、きんきらきんのメッキの外観、総一色にまとめられたゴテゴテした室内、これだったらダッジ・オムニ(皮肉な事にラビットと同じVWのエンジンを積んでいた)や新しく出たフォード・エスコートの方がいいんじゃないと、買う特徴が薄かったのが理由大だったみたいでチャーならん。これが北米化されたゴルフ、内装がクライスラーそっくりの総赤色だったりすると、同時期の赤の内装のダッジ・オムニと印象が変わらなかった。






そこで他の商品とは異なった特徴を与える事をフラー氏は提案。彼の来る以前から、米ヴォルクスワーゲン社では軽便ピックアップトラックの構想を独国側に提案しており、他にはない独自性を考えてはいたんですが、フラー氏は、独国技術、独国の高性能走行性を前に出した、ラビットのGTIの米市場導入に成功、ラビットの4扉型のジェッタにも同様の高性能版をGLIとして販売開始。

本国のGTIは、あの超軽量840キログラムのゴルフのドンガラに110馬力の燃料噴射装置付きエンジンを乗せたんですから、その走りざまは凄いもので、面白いように飛び回りました。

初期型、本国のゴルフGTI。安全性で先進性があると思われがちの当時の欧州。でも側面に方向指示器が付いたのは遥か後、確か90年代になってから。右側のリヤヴューミラーもその頃まで義務装備ではありませんでした。



フラー氏が産んだGTIは本家とは随分違い、大きなバンパ、強化材が入れられた扉、豪華な装備などで重量は952キログラムと重く、エンジンは燃料噴射でも90馬力(後に100馬力)しかなかったんですが、北米仕様は最大トークの105フット・パウンドをなんと3,250回転と言う低速で発揮、それもトーク・カーブがとてもフラットで、変速機を何速に入れても小気味よく力が盛り上がり運転が容易。高性能の小さな経済車ハッチバックを最初に米国に導入した功績はとても大きかったのです。



実は一足先に北米でもGTIがありました、と言ってもキャナダの話で、コチラは独国製。主に外観・内装だけの特別仕様で、エンジンは普通の1,600ccの燃料噴射付き。1979年と1980年にだけ用意され、1983年からはウエストモーランド製のGTIに代わります。


残念な事にフラー氏の努力の甲斐もなく、北米VWの販売台数はされに減り、経済難も手伝いウエストモーランド工場は1987年に閉鎖。翌年フラー氏はパンナム機の爆破事故で亡くなります。彼はその時、小ラード2扉クープやら他の高性能車の導入を企んでいました。コラードは一応輸入はされましたが、その前のシロッコより販売台数は少なく目立たない内に消滅してしまいました。ウエストモーランド工場の施設はその後中共に売り飛ばされ、跡地はソニーが一時期カラーテレヴィジョンかなんかそ製造していました。

ここ10年間で北米ヴォルクワーゲン車(と、同型エンジン搭載のアウデイ、ポーシャ類)は、独国、米国の幹部が何人も有罪投獄され天文学的な罰則金を課せられ、社会問題にも発展したジーゼルエンジンの排気ガス事件で著しく企業イメージが極めて悪化し今だにその悪評が続き、その上連続して起こった止まらない、技術欠陥に対する集団訴訟の数々でさらにイメージダウン、結局現在は車種の電動化に方向を切り替え、今までや屋台を支えてきた量産車のパサート(北米のテネシー州新工場製造)普通のゴルフも既に辞めて、(GTIと高性能のRだけ残した)他社にもれずSUV多目的車だけに的を定めている様子です。。。

初代ゴルフが北米に来たのモデルイヤー1975年。名前をラビットにしたのは、躍動的で速いと言う連想が着く事、ゴルフを嫌ったのは、運動のゴルフは年寄り、または裕福な人層のする運動と連想されるからだったそうです。因みにゴルフの意味は、運動のゴルフではなく、西大西洋に吹く偏西風、ガルフストリームのガルフの独国語発音から来ています。





交差点で止まる度に、隣の車に一ガロンで38マイルも走るんだよ、と自慢したくなります。っと、隣の車はキャデラックのリムジン。


ラビットはキャデラックのフリートウッドよりトランクが広いんです。但しラビットは後席を倒してますがね。フリートウッドは屋根前端の形状からリムジンですね、前の広告のを持って来たか。でもこの頃のラビットの荷室の広さは驚くくらいの広さでした。


全米輸入車販売ナンバーワンは日本製車ですけど、日本での輸入車ナンバーワンはラビットです。場所は何処かしら。。


派生車のピックアップは北米ヴォルクスワーゲン社の提案で開発されたもの。のち、キャデイーの名称で世界に広がります。合衆国でもまだ熱狂的なファンがいます。余り台数は出なかった。


欧州ではキャデイーが一旦途絶えた間、なぜかハイラックスで凌いでいましたね。
その名もTaro。独国発音でなんと言うのか?タロ?太郎?


見て下さい、この広さ! でもこれ、結構本当で、右下の写真だとよく分かるんですが、初代ゴルフの荷室の広さには驚きました。初期型ゴルフにはお尻の表情が二つありまして、ごく初期型はスワローテールと呼ばれ、尾灯下の左右を繋ぐ線が中央で一段降りていて、燕の羽を伸ばした形状でスワローと呼ばれます。後にこの線は直線になります。よってこれはスワローテールの極初期型。1975年のワイオミング州のライセンスプレート。この頃はまだ前輪もドラムブレーキだった。


ウサギのお尻と言えば、当時のキャタログ、世界共通の写真が多く、生産されなかった試作的な尾灯の写真が堂々と載ってました。







そのウサギのお尻。これは本家版、後期型。GTI。


北米版、後期型。GTI。


南アフリカ版、後期型。


南アフリカでは驚く事に、1974年に出た初期型ゴルフを、なんと2009年まで細部を改良しながら生産していました。



最終型はダッシュボードを当時のグループ系列スコーダのファビアから移植。ダッシュボードは同じですが、扉内側のトリムで古いゴルフなのがバレる。



これは同時期のスコーダ・ファビア。


南アフリカと言えば、サニー・トラックも2008年まで生産していたし。安全・環境規制の無い国は恐ろしい、いや、羨ましい?


長期生産と言えば、イランでは日産(プリンス?)ジュニアをまだ作ってる模様。



ラビット・ジーゼルでニューヨークからワシントン(当然ワシントン州では無く首都のワシントンDC)までたった10ギャロンで走ったわ。いいえ、それ往復よ!!


ラビット・ジーゼルはギャソリンエンジンからの流用、でも軽量、そこそこの馬力とフラットなトークカーブで、軽量の車体を小気味よく走らせ、非常によく走りました。でも後期になると増えた装備品で重くなり、特にエヤコンデイショナーなどを装備すると、力不足がひどく、坂道で苦労します。



ビートルのカブリオレから移行したラビット・カブリオレは一定の需要があり、会社の家計を支えたようです。ご存じ生産はオスナブルックの今はなき、カーマン社製。
ラビットがモデルチェンジしても初期型カブリオレは1993年まで続行生産。幌の上下も油圧電動式に改良。



1984年の2代目からは、北米のラビットは本家と同じ、ゴルフに変わるのですが、何故か2004年に登場した5代目のゴルフはまた、ラビットに名称が戻ります。でもラビットのエンブレムは無く、ただウサギの印がテールにあるだけです。2.5とは搭載されていたエンジンが2.5リッターを意味します。










今日のオマケ。1975年、ノーウェー仕様のマズダ616ことカペーラのチラシ。ブロンド髪の白人を使い、目一杯欧州の雰囲気なんですが、待てよ、ステアリングホイールが左側にあるのに、左側を走行しているように見えます。。左側の写真、何処か見覚えあると思えば。。。



やっぱり、赤坂の迎賓館前でした。


1991年12月3日、パンナムが倒産した日に、パンナム社員に送られた社長からの通達。運行管理部からこのファックスがウチの部に送られた時の事、今でも覚えています。



冒頭画像が亡くなったジム・フラー氏。50歳の若さでした。
Posted at 2022/12/19 11:54:13 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2022年11月24日 イイね!

ガング ホー! 海外生産 カローラ

ガング ホー! 海外生産 カローラ












今日はお休み、収穫感謝祭の祝日、遠いところに行った家族らが戻って来て親の家に集まり、焼いた七面鳥、マッシュドポテート、クランベリージェリーにパンプキン・パイを食し、ニュウヨウク・メイシーズ百貨店のパレードを見て、と言うのが伝統です。

先日、カハーラ地区、照屋さんの超級市場の駐車場で久しぶりに見たのが1990年代前半に売られていたジーオ・プリズムの中でも珍しい5扉ハッチバック版。多分加州サンフランシスコ近郊、フリーモント市にあった、GMとトヨータの合弁工場、ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング・会社、略してNUMMI (ニューミーと呼ばれます)で組み立てられた個体だと思います。

ジーオ・プリズムの5扉ハッチバックは2、3年しか売られませんでした。



1980年代、日本からの輸入車の売れ行きが飛躍的に伸び始め、それに対する反対世論が沸騰しかけていた頃。一つの解決策は現地生産だと言う事は多分、皆気づいていたんでしょうが、北米に自動車工場を新規に建てて稼働させると言うのは、物理的な面以上に非常に難しい事でして、その先頭を切ったのがホンダ技研のオハイオ工場でした。

ホンダはそのオハイオ工場、ダットサン、いや、ニッサンはテネシーのスマーナ工場でそれぞれ組み立てを始めるのですが、遅れてきたトヨータさんは何と、敵相手の将軍さんと手を握り、このフリーモントにかつて稼働していた古いGMの組み立て工場で新規事業を始めるという、前代未聞のプロジェクトが動き出したのでした。

GMが運営していた頃、このフリーモント工場は最低の効率、最高の欠席者数、最低の品質で有名で、GM一の問題児でした。酒を飲んで出勤し、誰かに密告され罰でも喰らうと、仕事に戻った際、腹いせにわざとネジを締め付けないでラインに流し、後でそれが発覚し、該当車両が再修理の為ヤードに何百台と置かれ出荷が遅れるなんて言うのが日常茶飯事で、犯罪、喧嘩、なんでもあれで、組合に守られクビにもされず、結局戦前創業の歴史に幕が降りたのが1982年。

昔のフリーモント工場


フリーモント工場、最後の出荷が1982年型オールズモビル


大体敵味方関係のGMとトヨータが何故手を握って事業を始めたのか。トヨータ側は自分達の工場を建てる前、このプロジェクトで労働組合やら文化の違いを學び、GM側はカンバン方式の在庫管理や、高効率の工場操業の秘密を手に入れる絶好の機会だと踏んだんでしょうね。

閉鎖された後のフリーモント工場の従業員から選ばれた人たちが、日本式の生産工程を習う為、ローテーションで高岡工場に行きます。敵さんの懐に送り込まれた、労働組合で長く働いてきた連中は驚きの連続だったそうです。そのナンバーワンが、生産ラインを止める、天井からぶら下がっている紐でした。GM時代にその紐を引くと言う事は全てのラインを止め何千人の労働者を休み時間に追いやり、全ての生産計画を狂わせる、所謂、絶対引いてはいけない、労働者と経営側の対立を象徴するような物だったのです。それがトヨータに来てみれば、その同じラインを止める紐を引っ張っても良いと言う事に衝撃的な文化の違いを感じたそうです。それだけではありません。改善の案があったら容易に提案できる意見箱があったり、管理職と同じ食堂でお昼ご飯を食べたりと、訓練期間が終わると参加者は日米両方涙を流し、これからの協力を約束、そうして1985年型のカローラのジョブ1(工場から最初に出てくる車両)がロールアウトしたのでした。



豊田英二氏。彼の先を見る頭脳、矢張り素晴らしかったですな。。。


誰でも生産ラインを止められる工場で作られてます、これを聞いた他の工場の労働者は誰もこの宣伝、信じなかった。。


最初の数年は赤字だったものの、1991年に初めて黒字操業となり、徐々に車種も増やします。

NUMMIで最初に生産されたのが、カローラのシェヴォレイ版、懐かしいノーヴァの名前で登場(この命名には随分評判が悪かったです)。


生産の立ち上げ遅れとGMにとっては利益が少ない小型車とのことで余り宣伝や売り方が本気になれず、このトヨータのノーヴァは販売台数は余り伸びませんでした。特にハッチバック、じゃなかった、リフトバックは珍しいです。




色々カローラを改造して北米仕様にしてある筈ですが、矢張り、デルコ製のGM共通のラジオが目に付きます。このラジオ、とても音質が良いのです。







同時期のカローラ。これは1984年型。


NUMMIが軌道に乗ると、GM各地の工場から視察する人が絶えませんでした。やれば出来るじゃん、と胸を張るNUMMIだったんですが、GM本社との企みとは裏腹に、視察に来た人々は、コレ、ウチじゃ絶対できない。オレん所の労働者がこんな変化を受け付ける訳が無いと皆、否定的で、逆にトヨータから習った技術はブラジルやら他国のGM系列工場の方が進んで取り入れたとか。

その自社製の輸入車を販売する為に、GMは独自の販売網を設立。その名も ”GEO” ジーオと発音します。ジーオの販売店では、鈴木製品、いすゞ製品とNUMMI製のカローラ、今度はプリズムと名前を変えた車種を、主にGMのデーラーの隅っこで売り出します。発音出来ない自動車は売れないと言うジンクス通り、このGEO, 何て読むの? ジー・イー・オー? ジェオ? 混乱するんですが、同時期にキャナダでは、いすゞ、サーブ、デーウーと鈴木をパスポートと言うブランドのお店で販売した時の失敗よりかはマシでしたが。。。



キャナダで輸入車を売る販売網を企んだ、GM傘下のパスポート・ブランド。


NUMMI生産のカローラは次世代に変わり、名前がプリズムに進化。でもこれがどこから来た車かわかる人は余りいなかった。ジーオって何だべ?


バブル景気の時期、日本で流行ったワインレッドのヴェロア内装もあった(らしい)
これは1991年型。


廉価版の計器盤。


結局トヨータから色々な事を學びGMの飛躍の種を蒔こうと言う目論見は限定的な成果で終わり、そうしている間に本家のGMの経営がぐらっと傾き、GMは2009年に破産宣告し、NUMMIの契約を切り合同事業から撤退。トヨータ側は、NUMMI生産開始後数年して、ケンタッキー州ジョージタウンに自前の組み立て工場を1986年にオープン。GM撤退後、翌年にはNUMMI工場閉鎖。25年の歴史に幕が下ります。

その後GMの小型経済車は韓国の系列会社、GM大字デーウーのマテイスやらを輸入していましたが、それも今年で終了。マリブーも確か来年限りで、シェヴォレイもセダーン型乗用車から完全撤退。

韓国製シェヴォレイ・スパーク、軽自動車くらいの規格、我が国の空港で一番安いレンタカアを借りるとこう言うのが出てきます。流石に長距離はデージ・ナンギ。


何故かヴィエトナム仕様は後扉の取手の位置が異なる。。。


トヨータの北米自動車製造、本当はTABC(Toyota Auto Body California) と言ってハイラックスの組み立てを加州ロングビーチで1972年に始めたのが1番最初ですが、最初の合衆国製造自社製の乗用車は、NUMMIのカローラ・ノーヴァを別とすれば、ケンタッキー州ジョージタウン工場生産開始時の、1988年キャムリーでした。



ホンダはオハイオ州メリーズヴィルのアコード生産開始が1982年ですが、実際は2輪車北米製造開始が、1979年です。



ホンダが北米で最初に生産したのは、CR250Rエルシノー荒野バイク。


ダットサン、じゃなくて日産は720型ピックアップトラックをテネシー州スマーナで製造開始が1983年。


トヨータとGMと言えば日本で売ったシェヴォレイ・キャヴァリヤってーのもありましたね。まあこれは政治的な譲歩を象徴するだけが主目的だったかもしれませんが。
あのプロジェクトでどちら側が何を學んだか。。。(何処が如何に改造されたか、興味津々です)



冒頭の画像は1986年配給の喜劇影視、題名 ”Gung Ho” 主演マイケル・キートン(好きじゃ無い俳優)監督ロン・ハワード(好きな監督) 日本の自動車会社が合衆国に自動車工場を建設しビジネスを始める際、労働者側と経営陣の間に起こる数々の事件をドタバタ調で演じる筋書き。アジア系のバッシング、侮辱の連続で流石にぼくも2度と見たくない銀幕の一つです。到底今じゃこんなのは作成できない。。撮影現場はフィアットのアージェンテイーナ、コードバ工場。日本車に見せかける為エンブレムやらを改造してあるものの、見ての通り、フィアット・レガータばかり。このくだらない作品でも、NUMMIを始める際、やってはいけない事の見本として、関係者はこの作品を鑑賞したとか。





ちなみに ”Gung Ho” の意味は、第二次世界大戦中、中国にあった団体、工業合作社から来ていて、略称、工合 を西洋人がガン・ホーと呼んだ事が始まりです。この工業合作社が皆が力を合わせて戦争を勝ち抜く企業だったのを例えに使い、これから我々も ガンホーだっ!と海兵隊の親分が部下にハッパをかける際言い始めたのが由来だそうで、我が国の年寄りなら知っているかもしれませんが、今では死後ですね。因みにウチの人は香港生まれなので聞いてみましたが、何それ?と全く知りませんでした。。。
Posted at 2022/11/25 08:09:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2022年11月13日 イイね!

沖縄、むかしの自動車たち。

沖縄、むかしの自動車たち。








先週、超級市場で、古い自動車に遭遇。写真撮ろうと思ひきや、乗ってきた人達が帰ってきたので、スナップ写真だけにと。1963年型のクライスラー・ニューポート。ここいら辺の年代からクライスラーの自慢は、普通の車体と骨格が別体では無く、ユニボデー構造、所謂モノコック式車体になった事ですね。一番の利点は重量が軽くできるのと、車体と骨格がボルトで結合されていないので、長年使っても車体各部が緩んだり軋み音がしない事。クライスラーのユニボデーはその後現在まで受け継がれています。



身体障害者用の駐車スペースに停めてあった買い物客、皆お年寄りの方達で、3人乗って仲良く出て行ったのがデージ、微笑ましかったです。ウィンドシールド上端が屋根に食い込むのが素敵ですね。(これに若造が色眼鏡でも掛けて肩肘窓枠から出して出て行ったら興醒めだったところでした。。。)







古いクライスラーと言えば、今年本土復帰50年を迎えた沖縄で、以前の琉球列島米国民政府機関(USCAR, ユースカーと言われた)の下にあった、琉球政府の最高指揮官、松岡政保行政府首席の公用車として写真に結構出てくるのが、1962年型のプリムス・フューリーの4扉ハードトップ・セダーン。ミッドサイズのクライスラー、当然モノコック車体で捻り棒トーションバーの前輪独立懸架式。

1965年、宜野座の写真は沖縄県立公文書館より。



実際のフューリーは政府高官を送迎するより、若々しい躍動家族の乗るイメージでしたが。。。フューリーはこの前年はフルサイズ車だったのに、”ダウンサイズ” されました。この頃のクライスラー車は、デザインの大ボス、ヴァージル・エックスナー氏が解雇され、デザインにさまよう日々が続いていました。。。



1966年、具志川村の中央病院視察とのキャプション。松岡首席は米国で高等教育を受けたので、ユースカーとの折衝に貢献したのでしょう。



その後の行政首席の公用車は、1967年型、最新ピッカピカのシェヴォレイ・インパーラ、こちらも4扉ハードトップ。フルサイズに格上げされましたが、シェヴォレイと、派手じゃないのが微妙な所ですね。首席専用のライセンスプレートに注意。



同じ自動車の広告。この頃からシェヴォレイのフルサイズ車はキャデラック風に追っかけて光り物の飾りが増えます。光り物一つ増やすと販売台数が何千台単位で増えたそうです。



1968年、名護町の役所から。沖縄県立公文書館の写真。



ヤマトから来た、難尾文部大臣はトヨータ・クラウン。スーパーデラックス?



ユースカーのトップは流石、キャデラック。これはアルバート・ワトソン高等弁務官、彼は米本土政府に反して親沖派だったらしい。。1966年那覇市内の共栄伸鉄の視察。沖縄県立公文書館画像。



このキャデラックは多分1961年か1962年型。この年代のキャデラックは非常に複雑で、同じ車軸長でもトランク部が短いのと長いのと2種類あり、セダーン型も6ライト、4ライト、フォーマルルーフと非常にややこしい。写真のは多分長尾の6ライト型、デヴィル? 沖縄県立公文書館画像。





昔の琉球東急ホテル。那覇の天久の海岸崖っぷちの丘に長らくあった名所、現在は病院。 前を出ていくのはモデルチェンジしたばかりのダッジ・ダートの的士。



当時の絵葉書。英フォードのコーテイナ、1965年型フォード・ファルコン、それにコーヴェット。玄関前の的士はフォード・ギャラクシー。



現在は病院に。



板金工場は大盛況。バンパの曲がったマスタングに、ランブラーのステーションワゴン、などなど。沖縄県立公文書館画像。



このランブラーは1963年辺りのクラシック660ステーションワゴン。1966年のおきなわ祭りパレード、場所は今の県庁前。左が昔のりゅうぼう百貨店、沖縄で最初にエスカレータを装備したお店、後に、りゅうぼうは斜向かいに移りパレットくもじ、旧りゅうぼうの建物は現在ホテルになってますね。



丁度中央交差点の右上が上の画像です。当然右側通行なので現在のバスが停留所で止まっているのが反対側です。この止まっているバスの道路向かいにナナサンマル、右側通行から左側通行に移った時の記念碑があります。



現在でもこんな自動車を発見。1963年型マーキュリー・モントレー。ブリーズウェイと言って後窓が開き換気効果抜群だっただけでなく、当時のフォード・マーキュリーはど肝を抜く数々の装置がてんこ盛りでした。うるま市にて。





神奈川県のある場所、えっ、なんじゃコレー!

Posted at 2022/11/14 17:09:38 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2022年10月09日 イイね!

Lee ジーンズ

Lee ジーンズ



一昔前のTVコマーシャルです。最後の最後まで製品の情報は全く出てきません。

実際に行った事ある人以外は分からないと思いますが、小さな渡し船。あきらかにシアートル近郊、ヴァッション島かどっかへ行く場面です。



草臥れたオハイオ州のライセンスプレートを下げた古いVWビートルが乗船します。ルーフラックに荷物満載で、長距離を引っ越してきた様子が伺えます。



ビートルから出てきたのはジーンズを履いた若い美女性。長旅に疲れたのか、伸びをしています。



その渡し船を追いかけて青年が走ってきます。乗ってきたのは1970年代のフォード・ピックアップトラック。



キャデラック・エルドラ-ドをすり抜け、出航直前、渡し船に飛び乗ります。



先程の女性が乗ってきたビートル。



甲板で涼んでいるビートルの女性に近づきます。



振り向く彼女。



白い肌着、短い髪、フラネルのシャーツにジーンズ。いかにも中西部の農場で働いて、トウモロコシとビーフステーキを目一杯食べて育った感の青年。

彼女にこう言います。”失礼ですが、これ、落としましたよ”



差し出す手の中には小さな首から下げるペンダントが。



好青年に声をかけられただけではなく、落としたペンダントを拾ってきてくれて、笑顔の女性、でも少し判らない表情で青年に聞きます。

”でも何処に落ちていたんですか?”



好青年は照れながら恥ずかしそうにただ一言。

”ネブラスカ”



やっと最後に製品のロゴが出ます。Lee Jeans。



解説:

オハイオ州からシアートルまで3,800キロ。運転すれば四日間くらいかかる距離です。途中で通過するネブラスカ州から数えてもシアートルまで2,500キロの距離。

落とし物の持ち主に一目惚れした青年は、彼女を追って2日半トラックを運転して遂に、西の終点シアートルまで来てしまったのです。

その大挙を成し遂げた若者なのに、やはり中西部の人柄か、彼は興奮もせず、はにかんだ、照れた顔で、ただ単に、”ネブラスカ” の一言。(ネブラスカです、とか、ネブラスカで拾いました、とかとは言わず、ただ一言、”ネブラスカ” とやっと発した事に彼の性格を表す重要さが被されているのです)

視聴者にはこの後、この2人の間に、どう言うドラマが展開されるかを想像させてくれる、とてもセンスの良い広告でした。

この30秒の白黒画像のコマーシャルは1995年に放映されました。筋書きを書いたコピーライターはデイーン・バックホーン氏。1980年から1990年にかけて、ジーンズ製造各社、とてもマニアックかつ芸術的な宣伝を展開していて、この白黒のコマーシャルもその一環でした。バックホーンさんはその後も、道や旅に関わる宣伝を幾つか作ったので、これが彼のシグネチャーかもしれません。

最近、こう言った粋な宣伝が無いんですよね。。。と言うより、今の若い人にこのコマーシャル見せても余り理解してもらえないのかもしれません。
Posted at 2022/10/09 18:42:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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