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JetBoyのブログ一覧

2024年11月15日 イイね!

去り行くセダーン車、シェヴォレイ・マリブー

去り行くセダーン車、シェヴォレイ・マリブー








情報によりますと、1965年から続いていたシェヴォレイの中型車、マリブーの生産が今日、2024年11月15日限りで終了するそうです。

ご存知、マリブーは1965年に中型車のシェヴェルがモデルチェンジされた時に出された高級仕様のグレード名称。それがいつの間にか、シェヴェルの名前が落ちて、ただ単にマリブーと名付けられて今日まで生き延びてきました。

一昔前は恐ろしい程の数を売り捌き、アメリカ合衆国の象徴の一つとも言える自動車になりましたが、御多分に洩れず最近のSUV車の流行に押され、今日の生産分で横綱シェヴォレイの生産する最後のセダン型車になってしまいました。

これが最後になった現行型シェヴォレイ・マリブー。フルサイズのインパーラが無くなって久しくなりますが、貸自動車屋に行って一番大きなセダーンを持って来い、と言うと大抵このマリブーがあてがわれていました。


ぼくが最後にマリブーに乗ったのが、2013年となってます。この月にラスヴェイガスでボーイング737の限定免許を取得して、訓練の時に使っていたこの貸自動車を返す為にラスヴェイガスからロスアンジェリースまで転がしていったのがこの写真。いつもなら灼熱地獄の7月に試作車群を追いまくるデスヴァレーにて。


1978年にダウンサイズされた頃には中型車からはシェヴェルの名称が消えていました。この頃のGM2扉車はBピラーはあるのですが、扉窓は窓枠のないハードトップ型で軽快でした。対してフォードは殆どの2扉車に窓枠を残していたのが対照的でした。このダウンサイズされた型から4扉車の後扉窓が固定式になった際、余り文句が出なかったのが不思議です。おまけにあの頃は未だ冷房車が普及してなかったと言うのに。。。そうそう、この型からエンジンが全てV型エンジンになったんですよね。手動変速機も選べられました。この広告のセリフ、新しく切ったりんご!と言うのは、以前建国200年記念の際、大ブレイクした広告キャンペーン、野球、アップパイ、ホットドッグとシェヴォレイ (アメリカ合衆国を象徴する物の事です) を再度髣髴させたセリフなのです。ダウンサイズしてもやっぱりシェヴォレイはアメリカ合衆国を象徴する自動車なのよ、と。補足ですが、この広告の背後の人たちを見てみると、有色人種系の顔が殆ど見られず、特にアジア系が全く出てません。今じゃこんな広告は許されないんですな。。。近代の合衆国は随分違う国になっちゃいました。
 

この時代のシェヴォレイ中型車が一番輝いていたかな。特にSSスーパースポーツの高性能版がまだ活躍していて。セダーン型は例の、コロネード型ピラーをまとって、そうそう、4扉も窓枠がなかったですよね。背後の客船はクイーン・メリー号。ロスアンジェリース港に係留・展示されてある昔の豪華客船です。


豪華客船で思い出したのが、世界最速だった豪華客船、SSユナイテッド・ステーツ号(船の名称でよく使われるSSとは、スチーム・シップ、要するに蒸気で推進力を得る船の事を指します)が廃棄処分される裁判所の決定が今月下りました。SSユナイテッド・ステーツはメリーランド州バルテイモア港に係留されて随分長くなり、この歴史的遺産を博物館にしよう、会議場にしようなど、色々な計画が浮いては沈み、船舶自体も係留させておくだけでも莫大な費用がかかり、それを管理しているNPO財団も流石に裁判で負け、結局沖に曳航した後、海に沈める判決が今月下りたのでした。海に船やら、それこそ廃棄された飛行機を沈めると言うのは結構前例がありまして、当地ホノルルでも日本製の旅客機、YS-11を以前沖に沈め、人工魚礁にしてました。

そう、昔は豪華客船が花形旅行手段だったんですよね。これはキャデラックのリムジンから降り立ち、今からロンドンにでも行く光景を再現したのでしょうか。背後のお船がSS United States. GM系フィッシャー車体部門の宣伝。


SS United States は殆ど大西洋路線に使われていたみたいですが、西海岸加州からハワイにも当時は皆、客船で来ていました。殆どがマトソン海運社の客船。創業者のマトソンさんはスウェーデンからハワイに流れ着いて捕鯨の資材などを補給する会社から海運会社に成長して、その後不動産屋らにも業務を広め、現在でも貨物船をたくさん運行しています。とにかくこのSS United States は足のやはい事で記録を立てた有名な客船だったんです。




これが現在の、SS United States の哀れな姿。余りにも巨大で煙突が高く、灣のの外へ曳航するにも潮が一番低い日を選ばないと灣の外にかかっている橋をクリヤできないそうです。


1957年封切の銀幕、”Affair to Remember"  主演のキャリー・グラントとデボラ・カーが欧州からニュウヨウクへ戻る際に撮影された船が同じく、SS United States で、この船内で色々と出来事があるのです。その欧州からニュウヨウクへ戻る船上の2人を見ながら、自分は欧州からニュウヨウクへ行くデルタ航空便で、同じ大西洋を同じ方向に向かっている図。2012年6月14日となっています。






因みにこの1957年版、”Affair to Remember" は復興版で、原作は1939年の題名、”Love Affair" まで遡ります。近代では1994年に3回目の復興版、こちらの題名はまた ”Love Affair" と原作に戻り、キャサリン・ヘップバーンが出演する最後の作品でした。こちらは客船が太平洋を飛ぶボーイング747に変わり現代風になるのですが、アネット・ベニングの演技も素晴らしく、こういった類の復興版としてはかなり良い線を行ってました。



でもこの三つの内、一番有名なのは矢張り1957年版でして、トム・ハンクスとメグ・ライヤンの大ヒット作、”Sleepless in Seattle" もこの1957年版 Affair to Remember があらすじの基本になっています。


日本では ”めぐりあい” と言う題名だったみたいです。ふむふむ、的を得てますな。


1957年版の主役、デボラ・カーと言えば、代表作は矢張り、”From Here to Eternity" でしょうね。撮影は当地、オアフ島中央にあるスコーフィールド陸軍基地。真珠湾攻撃と恋愛物語を描いた名作です。特に浜辺で絡むシーンは非常に有名です。日本では地上より永遠なりの題名なのですね。フランク・シナトラも出てきます。若い頃の。


これが今でも語り継がれている浜辺の場面。


これが主な撮影現場の、スコーフィールド陸軍基地。今でも殆ど外観は変わってないです。






Posted at 2024/11/16 04:25:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2024年11月05日 イイね!

アラ来てたのね。知られざる輸入車、その1。

アラ来てたのね。知られざる輸入車、その1。













米合衆国に輸入されていた、知られざる珍車などを書いて行きたいと思います。連載と言っても気分次第の不定期になるので、ご容赦を。。。

その昔、仕事で寄る寄港地で、同僚とスズキ・サイドキックを共同所有して使っていた事がありました。二輪駆動の自動変速機、手動操舵仕様で、これがかなり単純ですが素直な良い自動車で結構気に入ってました。


鈴木が最初に合衆国へ四輪車を持って来たのが1985年。スズキ・サムライ。


後に操縦安定性で業界を覆すどえらい問題に発展する、スズキ・サムライ、一般には1985年がこのスズキ製ジープ型車が北米へ最初に輸入されたスズキ四輪車と認識されているのですが、実はこの軽便四輪駆動車、1970年代前半に合衆国に輸入されていたのでした。


輸入・販売をしていたのはスズキでは無く、キャリフォーニアはサンデイエーゴにあった、競走自動車に関与する一家で、インターナショナル・イクイプメント・コーポレーションと言う会社。輸入、デイストリビューション、法規適合、宣伝、やら一挙に抱えて、1970年から1974年、多分排気ガス規制が厳しくなる直前まで、合計にして3,000台を超える数を、主に西海岸地域で発売していたそうです。360ccの排気量、勿論分離給油でしたが2ストロークのエンジン。これで灼熱地獄のデスヴァレーから標高数千フィートの高山まで、車両保証付けて売ってたのですから大したもんですね。


今でもごく稀にこのLJ10が売りに出ているのを見かけます。




北のお隣、キャナダでも別途の輸入企業が1970年代後期から1980年代前期まで、このLJ 10・20・50やらを独自に輸入販売していたそうでした。

合衆国スズキはサムライで始めた1985年から2012年の末まで、数えて約224のデーラーで販売を展開し、一番売れた年、2007年には、102,000台の販売記録を残しましたが、その後デーラーとの問題、限られた仕入れ台数、不利な為替などなどさまざまな問題を解決出来ず、北米市場から撤退しました。

我が国で自動車を売り始める前には、形式認定、即ち非常に厳しい(億単位の高額な試験)の投資、これまた億単位の販売網の確保、製造物責任法、整備網、製品保証、部品確保などなどが必要ですから、彼らもそう軽い判断だったわけではなかったでしょうね。ダイハツも同じ道を辿る結果になりましたから、販売台数が桁違いの北米市場では、成功すれば儲けも桁外れになりますが、失敗すると会社がひっくり返るくらいの被害になるのです。。。

末期には魅力的なセダーン型車、キザーシも北米に持って来ましたが、4年間で僅か20,319台を売った後、スズキの北米撤退で輸入終了。このキザーシ、導入当時は宣伝に力を入れていて、自動車雑誌の老舗、モータートレンドと共謀して、静岡県のスズキ製造工場からモータートレンド誌本社のロスアンジェリースまで運転して行こう!と言う企画を実行しYouTubeにも特集を組みました。仕掛け人はアンガス・マケンジーさん、オーストラリヤ生まれの記者で以前英国の権威ある自動車誌 ”Car” の編集長を経て現在はモータートレンド誌の編集長をやっている人です。


この冒險、よく見ると鳥取県の堺港からロシヤはヴラダヴォストックまで船に乗せ、極東マガダンまで自走、マガダンからはアラスカ州アンカレッジまで空輸して、残りを陸路で走ろうというもの。


動画では日本国内を加州のライセンスプレートで堂々と走って入りうのが不思議ですが、まあ無事、完走したのでした。YouTubeで今でも見られます、此方でどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=utbHTrMo3qU&t=58s

力の入ったマーケテイングに反して、販売が芳しくなかったのが残念です。オアフ島にも以前はたまに見たキザーシも最近はめっきり見かけなくなりました。




日本から走って北米に行く、と言う計画は以前にも聞いた事があり、その一例は、1980年代、日本車の北米市場侵略が大問題になっていた時期に、日本からデトロイトまで米国車で乗り付けて米国市民の勢いを取り戻そう!と言う愛国心抜群の企画をある人が考えだし、デトロイトの自動車生産各社に声をかけた所、唯一関心を示したのが当時、日本車バッシングで一躍人気者になっていた、クライスラーのリー・アイアコッカ会長。丁度Kカーの発展版、レバーロンのコンヴァーチブルの普及に使えるかもしれんと計画は前に進み、企画者は船の設計をする会社に設計を頼み、双胴の船の中心にレバーロンを置き、駆動輪から船を進める装置をローラーで回し太平洋を越える!と言うもの。結局アイアコッカ氏が最後に首を縦に振らなかったので財政的にこの計画は立ち消えしたそうです。

このレバーロンを船に載せて、ゴムローラで駆動輪から推力を取ると言う。。。


その計画模型。丁度中央部にレバーロンが載っているのが見えます。でも多分クープ仕様。


末期の米国スズキは中型ピックアップトラックも売っていました。 その名は、  スズキ・イクエーター。イクエーターとは赤道の事です。こんな車種、スズキは作ってませんでしたから、中身は日産のフロンテイアー・ピックアップトラック、所謂昔のダットラです。生産はミシシッピー州のキャントン工場。4年間で売れたのはたったの5,808台。今となっては非常に珍しいトラックになりました。


イクエーター、赤道、昔は船などで赤道通過する際には赤道儀礼祭と言う大きな行事があったそうです。そう言えば昔の日本航空では日付変更線通過証とか、北極通過証なんて乗客に配られてましたっけ。10年ほど前、ぼくは毎週金曜日になると、ホノルルから赤道越えて南半球の米領サモアへ郵便を運んでいました。日帰り片道5時間半。当然赤道を1日に2回通過するわけですね。まあそれを月に何回もするわけですから、儀礼祭どころの話じゃないのですが、1990年代、初めて赤道上空を通過した時、機長がぼくをからかって、ホラ、見てご覧、もう直ぐ赤道通過だよ、と慣性航法装置の位置表示を指さして、馬鹿な自分は外界を凝視したのを覚えています。笑。。

赤道儀礼祭。今でも実施する船あるそうです。


サモア島は米領と西サモア領と二つの国に分かれているだけでなく、その間に日付変更線が走っているんです。プロペラー機で30分くらい(れっきとした国際線です)の距離のこの二つのサモア。米領は一応、通貨、法律も全て米本土に倣いますから、当然米領サモアには米郵便局があり、そこへ行く郵便物を運ばなければならないと言う訳です。

ぼくが最初に米領サモアに行ったのは1990年代中盤。豪クワンタス航空の貨物便でホノルルからオウストラリヤに行く途中の給油中継地でした。


それから20年後、毎週金曜日の米領サモア往復は小さい飛行機で。


でもここは米国自治領と言う領地の階級なので、彼らは米国領なのに米国市民ではなく、大統領選挙にも投票はできません。米国に住んで働くことはできます。では旅券はどうなっているの?と言いますと、一応米国旅券は発行されるのですが、中に但し書きが記されており、この旅券は正規の旅券ではあるが、保持者は米国市民ではありませんと書かれています。それと米国市民でも米領サモアに行く際は旅券を持って行かなければなりません。米領サモアは結構険しい山々と深い入江が特徴で、米海軍が駐留していますが、米軍人には世界中どこに駐留していても連邦選挙に投票可能と言う規則があります。

同じ理由で、米国市民でもアメリカ準州に当たるグアームに住居を構える人たちは大統領選挙に投票できません。グアームはハワイやら沖縄と同じく、軍人とその家族の比率が非常に高い島で、その特別法で、軍人とその家族に限ってはグアムに住んでいても大統領選挙に参加できます。因みにプエト・リーコの住民も大統領選挙には参加できません。なので知らないと、米国人でもハワイからグアームに引っ越した人たちは、連邦選挙に投票できず愕然とするケースをよく聞きます。

米領サモアの空港はPagoPagoと言う街にあり、(パゴパゴと書き、パンゴ・パンゴと発音します)街中に行くと一番大きい産業のマグロ缶詰工場があり、ぼく時代の米国民なら馴染みのあるツナ缶、スターキストの缶に描かれているマグロの坊や?チャーリー・ザ・ツナの立体像があります。これだけ離れた小さな町でもここで缶詰されるツナ缶は米国製造になるので、(一応)付加価値が高いそうです。

人気者マスコット、マグロのチャーリーくん。ぼくらの年代なら誰でも知ってます。




米領サモア、パンゴパンゴ空港。


この手前が丘になっていて着陸進入の際、地上が結構迫るのですが、1974年、パンナムのボーイング707がこの丘から下がり滑走路へと続くジャングルの中に墜落して大惨事になった事がありました。太平洋の孤島、勿論レーダー管制も無く、夜間の発着に赤道近く特有のスコールなどで視界が著しく低下する場合があり、燃料計睨みながら着陸復行したり、結構神経を使うのは今も昔も変わりなかったです。


険しい山々に守られる、水深の深いパンゴパンゴ灣、客船の寄港地としても有名です。この向こう側の山頂とこっち側の山頂の間に昔、ケーブルカーがあり移動を簡単にしていたのですが、1980年の航空祭の時、展示飛行をしていた米海軍のロッキードP3対潜哨戒機が飛行中、垂直尾翼をそのケーブルに引っ掛けホテル・レインメーカーの敷地内に墜落してこれも大惨事になりました。それからこのケーブルカーは、廃止に。。。


日付変更線で思い出しましたが、もう一つ、太平洋の孤島、キリバス共和国のクリスマス島にも月に一回の頻度で通ってましたが、地図を見ると、真っ直ぐ南北に走る日付変更線がキリバス諸島の周辺だけ曲がりくねって西側に入っているんです。これは1994年位キリバス共和国が自分たちで宣言して日付変更線を動かしたそうです。ふむふむ。


クリスマス島は世界で一番大きい環礁と言われ、ほとんど真っ平、ホノルルから僅か2時間ちょっとの距離で、最近は空の便が復活し、ホノルルまたはフィージーのナンデイーから飛行機が寄るみたいです。島には打ち上げ衛星の追跡施設と、昔、日本の航空宇宙技術研究所が進めていた小さなスペースシャトルみたいな飛行物体の実験を旧英軍(キリバスは昔、英領でした)が使っていた滑走路を直して使っていた様子で、それが良く見えました。ビキニ諸島での原爆の実験は水面下でしたが、クリスマス島で行われていた英国軍の核実験は上空で爆発させた物で、ビキニ諸島は今だに核の掃除をやっているのに、クリスマスは何もやらないのが不思議でした。。。

クリスマス島の飛行場、キャシデイー国際空港(名前だけは勇ましいですが、1950年代英国軍が撤退した後の基地を利用したバラックだけの施設)。今はキリバスの首府、タラワからも小型機が出ているみたいです。


日本の宇宙研究機構がリースし整備・仕様していた、クリスマス島のイオン飛行場。


さて、今日は合衆国大統領選挙の日、ハワイ州は郵便で投票書類が来て、折り返し郵送するか島中に設置された大きな投票箱に投函するので、我が家は既に投票済み。結果がどうなるか。。。。
Posted at 2024/11/06 09:20:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2024年11月03日 イイね!

旅の夜風

旅の夜風












今回は簡単な旅行記です。

海を越えて日本へ。お墓参り。慰霊碑掃除。親戚訪問などなど。中年後期になるとこのような用事が増えます。

一度でいいから観光で行ってみたい所です。

小さなブルーツースの発信機で自分の無線イヤフォンに機体のAVODの音声を飛ばしていたら、前のお客さんも同じ事をしていた。。。


中野サンプラザ。色々揉め事があるようで、未解体。


雨の戸越銀座駅。幹線でも無いのに駅舎の素晴らしい事よ。東急池上線。確かこれを歌う流行歌がありましたね。


日野自動車博物館。高速バスの水平対向12気筒ジーゼルエンジン。並列噴射ポムプが片側バンク一個ずつ。連結駆動はされているようですが、左右バンクのタイミング調整、難しそう。プライマー用のプランジャーがかわゆい。




おお、こんなところにウチナーが!


今年はコザが沖縄市になって50周記念。この車両は1974年式と書かれていたので、その時に配備されたんですね。それでもぼくにとっては今でもコザはコザです。


藤沢のいすゞ博物館。シェヴォレイのLUV軽貨物車。それも初期型が。バンパー下にもう一つの補助バンパーみたいなの装備されていたの思い出しました。


初期型、1972年と1973年だけにあったスペアタイヤを下ろす時に使うクランク棒を入れる穴。初年1972年は尾灯も丸い別物でした。


紛れもなく古いボーイング747翼の下。懐かしいなあ。。。


成田空港の滑走路16Lの端にある高速道路を跨ぐ赤い橋。これに着陸進入灯やらレーダー高度計を正確に反射させる役目を果たしますが、あと数年でこの一帯、滑走路延長で高速道路は地面下に埋めて平たく埋め立てられるそうです。でも相変わらず横風に弱い。。用地確保の際、滑走路の方向、地球温暖化現象など配慮されていませんでしたからね。


おお、珍しいデイムラーDS420. おまけに後期型。雨ざらしがかわいそう。こういった車種、古いシトロエンと同じで、車庫に入れてないと車体が腐食する速さが凄まじく、おまけに板金直すのにどえらい手間暇かかるんですよね。。。


コザボーリングセンターの取り壊し。


福岡、中洲端の昼と夜。



三年前に亡くなった、沖縄最後の歌姫、大城美佐子さんのお店。既に違う店舗が入ってましたが、看板だけは残り、寂しいですね。。。”片想い”




借りたのは10万キロ以上走った三菱eK 軽自動車。燃費が余り良くなかったです。900キロ走って、うーん、この前に乗ったオレンジ色の三菱の軽自動車の方が良かったかな、と。




グレイスホテルも、ホテル・テキサスも既に営業していない様子。



オリオン・ビーヤの創業者、元警察署長だった具志堅宗精さんが首里で経営していた赤マルソウ味噌の工場も今では新築住宅が建ちますが、この石碑だけは残っています。

慰霊碑の掃除。10月と言うのに気候は8月下旬並み。頭からつま先まで汗でびっしょり。

南城市に新しく出来たコスコで給油。リッター150円。コスコの会員権は世界中で有効なのです。



13年前、例の沖縄仕様のカローラ20が駐車してあった場所、沖縄市市役所向かいの駐車場。現在はこんな具合。この一帯は戦後、米軍が接収して一旦更地にした後、軍の施設を作って暫くして1950年代から返還された後に区画整備されたので、通りが碁盤目のように作られているのが特徴です。でも最近になっての再開発でまたもや景観が変わりつつあります。






只今JALで移動中。ボーイング767の300型機。テーブルの皿面が樹脂で一体形成されているだけでなく、支柱も全て樹脂製。軽く。安く。


木更津の君津製鉄所。なんかブルースブラザースの冒頭に出てくるキャリューメット・シテイーの工場群に似てますね。ここに見学展望台があるらしい。。。数マイル先にルフトハンザ航空の747ジャムボジェットが着陸進入中で我が便は減速している模様。。

東京散歩。あり〜。トヨタ・クラウン。4扉ハードトップ。それに過給機付き!


やっと帰宅すれば二重虹のお出迎え。でも12月にまた沖縄へ戻る事に。ちゃーすがやー。。。
Posted at 2024/11/04 06:20:39 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2024年10月06日 イイね!

最後の大型リンカン、特別仕様

最後の大型リンカン、特別仕様













最後の大型リンカンと言っても2000年代のタウンカーの事ではありませぬ。フルサイズ車が本当に大きかった頃のハナシです。

そのリンカンもダウンサイズされる事になり、最後の華よと、フォードが世に出したのが、4扉コンチネンタルと2扉のマークVに追加された、コレクターズ・エデイションと言う注文装備でした。これが普通の注文装備パッケージだったのか、それとも限定だったのかが疑問なんですが、多分限定ではなかったみたいです。




この頃のリンカンはこう言った内外装を着飾った特別仕様車が得意だったのですが、このコレクターズ・エデイション、余り宣伝もされていなかったの不思議ですが、その特別装備ですね。まあ座席が山羊さんのカシミヤを混ぜた豪華織物を使っているとか、計器盤一部が革張りだったとか、色々あるのですが、ぼくが卒倒しそうになったのは、絨毯なんです。




知る人ぞ知る1979年、フォードは絨毯の品質に問題があって色々苦労してたんですが、この特別仕様のリンカン。昔の自動車の絨毯はちゃんと毛足が生えている絨毯で、その毛足が一旦上に出て繋がったまま下生地に戻ってくる、所謂ループ・パイル、そのループを宙で切ったカットパイルやらあるんですが今は全く毛足もなにも無くて、ただザラザラした合成樹脂の繊維を張り巡らして糊で形成した物を使ってるのが残念です。軽量で製造容易、遮音性に優れ安く作れ、製造組み付けも簡単です。

でも昔は(ごめんなさいね、昔の話ばっかりで)ちゃんと絨毯、それも各級があって、特にフォード車はフルサイズ車には18オンスのカーペットを使ってますと誇らしげに言ってました。だがこのリンカンの特別仕様車は違うんです。

普通のリンカン車が18オンスの絨毯を使っていた時分になんと、36オンスの絨毯を使っているのでした。それだけでは終わりません。まあこのクラスの高級車になるとトランクにも絨毯が敷かれているのは不思議ではないのですが、この特別仕様は何とトランクに敷く絨毯が、通常室内に使われている高級の18オンス絨毯なのです。それでも満足しなかったのか、トランクリッドの内側まで18オンスの絨毯が貼られているのでした。

この豪華絢爛さ。まあ一般消費者が見ればただの貨物室でしょうが。。


普通?のリンカン。格段に座布団の枚数が減りますね。


今時高級車の宣伝に、どう言った絨毯が使われいるとか、座席の生地がどう言った織物で作られているとか、絶対出てきませんから。そういう世の中、良くなったのか、悪くなったのか。。

この余り知られていなかった特別仕様、生産台数は12,673台。今では何台残っているか。。。。。

リンカンはあれだけデカイ図体でいながら扉の窓枠が無いスポーテイーな振る舞いが素敵でした。日本の古い犯罪物の番組を見ると結構出演しているので、当時はキャデラックより人気があったのかもしれないですね。


この C.W. Ramsay と言う人。日本フォードの社長さんと察しますが、彼のバイオが全然見つからないんです。何処から来た誰だったのでせうか。


おお、久しぶりにシェヴィー・ノーヴァを目撃。20年ほど前、同型青色のノーヴァをタクシーで運営している人がいたんですけど、もう無くなっちゃったみたいです。ハワイでは昔、数台しか保有していない小さなタクシー会社があちこちにあって、所謂流しではなく、小さなギャラージで待機していて、電話が鳴ったら出て行くと言うのが普通でして、その名残のタクシー屋さんの駐車場がまだ2、3件残ってます。
Posted at 2024/10/07 03:20:54 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2024年09月29日 イイね!

天国と地獄

天国と地獄






先日youtubeで昔のクラウンの宣伝を見ていたのですが、どうも変なのです。2扉ハードトップ車、4扉セダーンの両車、よく見ると前後にサイドマーカーが付いている上、ステアリングホイールが左側のLHD北米仕様ではないですか。わざわざフェンダーミラーを植えてJDM仕様に見せかけたんですね。


2扉ハードトップはどの画面も前部が見えません。これは輸出仕様は全て前照灯が丸目四燈だったので、日本国内とは違うのでわざわざ向きを後だけ見れるように配慮した訳ですな。広告部の努力。本物?のライオンまで何処かから連れて来て、結構苦労したように見受けられました。


沖縄でもLHDのモデルは2扉ハードトップでも丸目四燈。


1971年ー1972年にUSAとキャナダで売られたクラウンはごく僅か。ぼくの予想だと多分両国合わせて一万台行かなかったくらいじゃないかと思う程、宣伝も特にしてなかったし、申し訳程度に総合キャタログのはじにちょっと出てた、って感じで、当然販売店もどう売っていいのか非常に困ってたと思います。それでも連邦認定通して売ってたと言うことは厳しい審査を莫大な金額をかけて通してたって言うのですから、トヨータ本社の狙いは不思議であります。












同時期、これも1972年と1973年だけしか持ってこなかったカリーナも同じく謎の車種でした。種類は2セダーンのみ。こちらは統計が残っており、1973年ですけどその年に売れたカリーナの数はたったの15,008台。同年に売れたカローラの販売台数は116,905台。コローナが61,305台。セリカでも59,600台、トヨータ合計で1973年は326,844台売れた年です。因みにカリーナはUSAだけで、キャナダでは売りませんでした。
















そう、珍しい車種と言えば、くじらクラウンのジーゼルでしょうか。日本でクラウンのジーゼル版が出たのは確か、1977年ごろだったと思いますが、欧州のフィンランド、何故か1960年代から日本車を好んで輸入していた国、でクラウンのジーゼルが売られてました。多分彼方はギャソリンがべらぼうに高価なんでしょうね。だからジーゼルを乗せたクラウンを開発するのもなんとなくわかります。そのジーゼルエンジンはプジョー製のXD90系の4気筒エンジンでした。1975年にMS80系に移行した後もジーゼル搭載していたし、くじら以前のMS50系にもあったらしいので、人気はあったようです。

ぼくはプジョーのジーゼルとVWのジーゼルに昔は結構任されていたので詳しいです。XD90は基本的には昔のギャソリンエンジンをジーゼル化したものですが、XD90はシリンダーがライナー式で交換できるのでエンジンのオーヴァーホールに便利でしたが、タイミングギヤ歯車式で音がするのが欠点。その発展型がXD2でプジョーの505に広く使われました。確かヘッドボルトが21本あって凄く重いエンジンです。XD90はロト社の噴射ポンプを使っていて調整が簡単でしたが、XD2に進化してからボッシュの分配型燃料噴射ポンプになり、自分はロト式の方が好きでした。このエンジン、弱点はXD2になってから冷却ファンがタイミングチェインの覆いに付いているんですが、そのファンを電動クラッチで接続・断続式にしたら重さとその振動に耐えられずある日突然ファンがラジエータを突っ切って飛んで行くのが持ち病でした。クラウン他、汎用にこのジーゼルエンジンは他にも随分使われたようです。

プジョー505に載ったXD2型エンジン。













もっと昔のクラウンのコマーシャルに出てくるのは、衆議院議員の石田博英氏と彼のお嬢さん。今では考えられませんね。彼はソヴィエト連邦に繋がっていたとされ、ブレジネフ書記長にLHDの日産プレジデントを献上したのも石田氏が関与したと言われていますが、今となっては永遠の謎になってしまいました。



でもぼくとしてはクラウンは山村氏以外は考えられないのです。。。もうこう言う広告、俳優らは2度と出てこないと思います。




おお、ライヴァル登場。でもこの方、誰でせう?


黒澤明の最高傑作、天国と地獄。我が国では ”High and low” と題されてました。昔のクラウンが出てきます。撮影は冬なのに夏場の想定だったので、わざと換気窓を立てて役者は寒かったそうです。撮影は主に横浜、ぼくの生まれた中華街の石川町、関内の周辺ですが、あの界隈、当時の面影は微塵もなくなってしまいました。




三菱のキャタログ。


新宿も今では昔と全然違いますね。


昔のヴォルクスワーゲンの有名な広告。Nobody's Perfect。




日本でも同じ文句を誰かが使っていた。。。(書体まで真似しなくても。。)


テスラのサイバートラック、街中でチラホラ見かけるようになりました。非常に高価。1,500万円以上するらしい。。興味深いですけど、ちょっと用途不明。




ハワイではテスラの普及率が非常に高いのです。いつも充電施設のとりあい。


中秋節も過ぎ秋の気配。14番目の月も過ぎ、9月には帰らない?でも来週から用事でまた日本へ。東京・福岡と沖縄3週間。帰ってくる頃には大統領選挙です。
Posted at 2024/09/30 17:21:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「合衆国のVW文化、その4 http://cvw.jp/b/1945280/48458481/
何シテル?   05/30 15:26
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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