
我が家は昔から一家離散状態で、父方はキャリフォーニア州から来ているのにブラジルには親戚がいるし、カズンは皆ベルジャム産まれで、母方の叔母も戦後間も無く合衆国東海岸でオーストリア人と結婚してと、関係閣僚殆ど他界していて今では聞くチャンスを逃したのですが、戦前キャリフォーニアで育った父は何故か普通語が出来ると言う理由で戦時中は大陸に送られて鉄砲は持たなかったのですが何やら色々友達作って、結局両政府に頼まれて戦後も帰還が遅くなったのですが、当時の李香蘭とも何か接触があった感じなのですが今や聞くに遅しです。
そのチューゴクが1949年に分裂し共産党の赤旗を上げ、人民は台灣島やら香港に皆、逃げます。
ここに目を付けたのが我が合衆国なんですよね。
今でもそうですが、共産党は人類の敵と昔から定義している合衆国。(今でも合衆国の入国申請書には共産党を支持したりナチス政府と関わった事があるかと、答案検分記載されています)共産党と戦いを始めた台灣へ公にも、そうじゃ無い所でも援助し始めるのです。
当時の沖縄は未だ米領でしたから、見つかっちゃマズい物・人・その他が沖縄経由になったんですね。便利です。
何せ台灣で初めて創立された航空会社、CAT (Civil Air Transport) は大東亜戦争で有名だったフライング・タイガーと呼ばれた米軍人が集まって始めたチャキチャキの米国式の会社で、今のチャイナ・エアラインズの源流ですね。。。(香港のキャセイ・パシフィック航空も元は米国人が始めた会社)その他に台灣では、沖縄にある旅行会社OTSと関連する琉球・定期航空会社やらもあったんですが、話が脱線します
そして朝鮮戦争、ヴィエトナム戦争が勃発します。
軍のお仕事しているのに何故か民間会社、みたいなのが台灣に作られ大陸への内緒のおしごと、ヴィエトナムへ戦争への支援が始まります。今でも台南にある航空整備会社はその軍・民間で始まった米系の会社の一つで、昔ウチの会社も受託整備に使っていました。。。確か日本航空も出資したいたかな。。。。
60年代台灣で盛んだったそう言うヘンテコな合資会社、一つは秘密のアッコちゃん、一つは数カ国巻き添えになる大戦争。でも共産主義に立ち向かうと言う思想は共通しておりました。
そしてヴィエトナム戦争は終わり、我らは負けて、間も無くニクソン大統領が宿敵だった共産党のチューゴクへ訪問します。まあ色々理由はあったでしょうが、米中国交回復に署名すると大激怒したのが台灣です。当たり前ですよね、お友達と思っていた合衆国が手のひらを返して敵さんと晩餐してエッグロールをお箸でつまんだんですから。
それにも増して火山大爆発の怒りを発したのが、田中角栄首相の北京訪問。。。合衆国は色々事情があったにせよ、お隣で家族と思っていた日本人に裏切られたと思った時の感情の方が激しかったと察します。
それからと言う物、国連に加盟していない、と言うか、独立国と認められていない状態の台灣は他国機の台灣空域通過を禁止します。東京から香港まで普通なら4時間ちょっとで飛べるところが突如5時間超になり、その上、各国を代表する航空会社が大陸に定期便を出すのなら、台灣には来れなくなりました。
困りましたね〜。
そこで苦肉の策として、日本航空は日本アジア航空と言う子会社を設立し、出向社員で別会社の形式でなんとか台灣への運行を維持します。欧州の会社もXXX航空アジアとか、別会社やら機体の塗装にアジアを描きなんとか台灣路線を維持します。台灣側も外国からの路線全て締め出したら困りますからね。
台灣自身も世界中、タイリクを支持する国々から村八分をされ、台灣の中華航空の上空通過拒否されます。地理的に直行便を飛ばせなくなったのでアチコチにテクニカル着陸して燃料補給しなきゃならないのです。未だ超長距離飛ばせるヒコーキも無かったし。それ故に70年代中盤に登場した短胴型のジャンボ機、ボーイング747SPは打って付けでそんなに沢山の人を載せる必要もないけれど、航続距離だけはうんと出るこの機、台灣では随分採用されたみたいです。
日本でも成田国際空港が開港しても台湾の中華航空だけは羽田に残りました。都心に近い羽田に残ったのでかえって交通の便や乗り継ぎが便利だったので、お客さんに人気はあったようです。その中華航空が成田に移っても暫くは台灣系の会社の機体と大陸系の機体が同時間帯に鉢合わせにならない様スケジュールを調整していたらしいですが、今じゃ激しい混雑でそんな事言っていられる状態じゃなくなりました。
しっぺ返しは受けたけれども、ニクソン大統領は首になり、水面下で合衆国の台湾への支えは続きます。
その頃から台灣の自動車産業は自国の技術養成を理由に輸入車には高い関税がかかり、地元企業との合同ノックダウンが始まります。
日本とも深い交流があった指導者、チャンカイシェック氏も歴代の公用車はキャデラックでしたし、マダム・チャンカイシェックもそうでしたよね。
台北市は日本が都市計画で建てたんですが、道幅は並木などへの余裕がとってあって大きめの米国車でもなんとか行き来できたみたいですし、90年代になるとノックダウンされた小型のビュイックやらが結構走ってました。
以前お仕事で香港、台北、上海をぐるぐる回っていた時期がありましたが、日本で統括して呼称される ”チューゴク” なんですが、結局似ているのはご飯の色だけで、語学、文化、宗教、慣習、外交、全ての面でことごとく違い、面白いわ、と感じました。
チューゴクと米国車と言えば、大陸、特に上海とかに行きますと、キャデラックとビュイック、裕福層の支持は凄いものです。大陸での米国車の普及は台灣での裏政治的な意味合いより、文字通り、広大で気候の変化も激しい中国大陸で、同じく広大で荒野の多い米国大陸で鍛えられて来た自動車が非常に適応していた事でしょうね。それに大陸は台灣以上に見栄を張るのが大切ですから、デッカくてゴーカなキャデラック等は好まれたのかもしれません。何せ今じゃ米国車が一番売れている地域が中国大陸なのですから。余談ですが、今現在我が国で売られているビュイック・エンヴィジョンと言う名の小型SUVは上海製の中華人民共和国製です。。。トランプさん、知ってるのかしら??
そこでやっと台灣のリンカンのお話。電網で拾って来た話題ですので、悪しからず。。。
米東海岸に住んでいるある人、お母さんが台灣人だそうです。台灣ではお爺さんが建設会社を創立して、矢張り裕福な台灣人の米国に対する思入れなのか、わざわざリンカン・コンチネンタルを輸入し(多分天文学的な税金を払っている)家族で使っていたそうです。そのお爺さんが亡くなり遺産は家族で争う事になりリンカンも2005年くらいから走っていないので、皆売り払われスクラップになったと思っていたそうです。そうしたら10数年後、電網の誰かのブログに載っていたのですよ、紛れもないそのお爺さんのリンカンが!それも大事に乗られている様子で。。。
なんとも心温まるお話でせう?
写真で見る限り、多分モデルチェンジした直後の1972年型、マークIVですね。Tーバードと兄弟になった奴で、確か歴代で一番大型だった筈、それを台灣で転がしていたんですから、おまけに2扉ですよ!あのドアの長さが・重さ、半端じゃないです。。。
我が国が長年敵視していた共産党、今やその国から自動車を輸入するまでになり、その代わり宿敵はイスラム過激派に変わり現在があります。歴史は繰り返されるともうしますが、また共産党が強くなるんでしょうかね。。。。
図は那覇市泊交差点。

Posted at 2018/03/30 01:16:00 | |
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