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2020年10月18日 イイね!

最近の乗用貨物車事情、シェヴォレイ・ピックアップトラック。

最近の乗用貨物車事情、シェヴォレイ・ピックアップトラック。









10月も早、後半に入り来月の大統領選挙が間近に迫ってきました。ぼくは出来る範囲で政治、宗教を記するのを避ける努力をしているのですが、巷は逆で、喧嘩を売るごとく、今日もピックアップトラックに沢山の旗立ててやれ、B氏しか無いとか、いや、T氏が我らを救ってくれるとか喧々轟々と走り回っていました。

同じ避ける言葉でなるべく ”アメリカ” と言う表現を控えます。慣用句で一般的にはアメリカ合衆国を示すこの ”アメリカ” と言うのはぼくに言わせばアメリカ大陸、北米、南米を両方表現する方法であり、アメリカ合衆国でも50の州が集まってできた国であり、その一つ一つが簡単に言えば国なのです。よって州により法律も違いますし、言葉、食べ物、習慣、文化、全て異なります。それを取り仕切る大統領ですから、選ばれる理由も一筋縄では行かないもので、4年おきのこの選挙、皆、一般大衆を興奮させます。

50州、50通りの物の考え方がありますが、共通している事も当然沢山あり、その一つが我が国とピックアップトラックの関係でしょう。このピックアップトラックこそ外国の人に理解し難く、かつ、我々の心に根付いている文化何です。そのピックアップトラック文化が過去30年で急激に変化していく事情をお話しましょう。

50の州、ぼくは何回か自動車で大陸横断した事がありますが、このだだっ広い国土、殆どが農地と荒野です。欧州から来た移民は馬に引かせた馬車で西へ西へと開拓が進みます。その当時と全く変わっていない土地は現在でも沢山あり、移動電話の電波の届かない所とか、ラジヲ放送の届かない所などざらで、それでも馬車の後に鉄道を引いて東海岸から西海岸まで来たんですね。当時の馬に変わって一番頼りになったのがそのピックアップトラックです。物資を運び、鉄道の駅から遠い牧場まで脱穀機の部品を運び、街に食料の買い出しに行き、日曜日には家族を荷台に乗せ一張羅着て教会へとトラック文化は浸透していきました。それも戦後になると国は豊かになり、街は潤い、ピックアップトラックの代わりに気の利いた乗用車が普及し、ピックアップは主に農場、仕事場で使われる道具に専科します。特異なのはそのピックアップトラックの販売台数で、今でもフォードで年間何と890,000台!を売り捌きます。もちろんコレには商業用も一般消費者用も含まれていますが、恐ろしい数です。ですから自動車三会社、ピックアップトラックの開発には本気で没頭します。特に最近は乗用の4扉ピックアップトラックがひと昔の高級車に変わる役目を受け継ぎ、一般家庭でも使われ始めたのが特質されます。

ピックアップトラック、GMの70年台のモデルはぼくに言わせば頑丈に作りすぎたきらいがあり、1988年に新型の、GMT400と言われる型にモデルチェンジした際は、多少華奢な身構えに変わりましたが中身は洗練されていて、特に乗用車のダウンサイズで学んだ技術も取り入れ進化しました。その頃前後して、鶏税をかいくぐる為にこっちで荷台を合体させて”脱税”していた小型ピックアップトラックが税法改正で旨味が無くなった後、GMはS10と言う小型ピックアップトラックを1982年に登場させます(ファスター・LUVの後釜と言うだけではなくいすゞがかなり開発に加わっていた様子)。この小型トラックは最初から荷物運搬以外の用途、若者が気軽に乗り回したり、荒野にキャンピングに行ったりする、娯楽用途をかなり意識しており、注文装備の豊富さ、内装の一部をシープスキンで張ってみたりその後に来るSUV社会を暗示していました。S10のお兄さんの様な風格のGMT400は販売当初はまだ、かなり真面目な働く人の車両、って言う感じでしたが、それも1990年台に入ると乗用需要の儲けが高い事にきずき、次第に内装も豪華になってきます。S10とS10ブレーザーは1987年から座席の中央が本革で張られている座席が注文でき、C/Kシリーズは1995年に内装の変更時からシェヴォレイのピックアップトラックでは初めての革座席が選べる様になり、1996年からは右側の延長運転台用の補助扉がお目見えします。

現在非常に乗用普及している六人乗り4扉のピックアップトラックは以前、シックスパック(ビーヤの缶が六本くっ付いて売っているのと同じ呼称)とか、クルーキャブと言い、主に工事現場に作業者6人いっぺんに連れて行く際便利な車、と言う感じで内装は簡素な物が殆どで広告も大抵鉄兜被った建設作業風のニーニーや、山へ木を伐採に行く山男が肩並べて6人乗っている図が多かったです。シェヴォレイはこの4
扉型にもう一つボーナスキャブと言う仕様がありまして、コレはクルーキャブの後席を取り払って荷物置き場にした物で公用車なんかでたまにみました。

まあ兎に角この4扉型のピックアップトラックが寸法的に5人、または6人を樂に載せられ、短めとは言え荷台もあり(通常有蓋)最新の電子技術を投入すれば燃費も以前のフルサイズの乗用車より遥かに良いし、内装も昔の高級ビュイック真っ青な程の質の高い革をふんだんに使いと、結局、蓋昔のフルサイズ車の用途にぴったりあるので、最近、爆発的にこの手の4扉ピックアップトラックが普及してきたのであります。

最新のフォードのピックアップ、キングランチ仕様。


1988年に登場したGMT400。現在でもどんな小さい部品から改良された部品など、完全レストア出来る部品供給体制が整っている、今でも非常に人気のある車種です。


最初は全車、ヘッドレストが付いていませんでした。何故なら連邦安全基準が商業車には要求していなかったからです。FMVSSー202条、乗用車のヘッドレストは1969年から。商業車はやっと1991年の9月から義務付けられました。


シェヴォレイのピックアップは昔から一番下から、標準、シャイアン、スコッツデールと最高級版のシルヴァラードに分かれていました。その最高級版シルヴァラードは現在のシェヴォレイのピックアップ全ての名称になりました。コレは1991年式なのでヘッドレストがありません。シルヴァラードの内装。このベンチシート、膝先までちゃんと座面が長く、とても良い座席でした。


急遽、ヘッドレストが加えられた1992年型のシルヴァラード。結局シェヴォレイは1995年に内装の大改良まで基本的に1988年から同じ座席を使っていました。この初期型は計器盤の樹脂類の耐久性に問題がありましたねえ。。。


1988年登場時、ど肝を抜いたのがこの先進的な計器類です。でもバーグラフ状の指針にコントラストが無く、特に日差しの強い下では非常に見難く、1989年の1月生産分から変更になり、結局1991年辺りから通常の計器盤に変更されました。


改良型。セグメントの先端が赤くなった。


1990年型、最初からカセットテープは助手席側に後ずけされてました。。。


1991年型、通常の計器盤に改良。


1975年から1979年まであったBig10と言う仕様。ピックアップトラックはどの会社の車種でも伝統的に1/2トン, 3/4トン, 1トンと区分けされます。ハーフトン 、スリークオータートン、ワントン。コレは昔は積載量を表したのですが、近頃は実際の積載量より、そのタイプの属している”タイプ”を差し、ハーフトンは通常街流しやら乗用に使う一般タイプ、スリークオータートンになるとトライラーを引いたり日常的に重いものを積む実用型、ワントンは重いトレーラを牽引したり作業場で重いものを扱う営業タイプって感じですね。シェヴォレイは1500、2500、3500と分けていますそれ以上になるとHDとか星の数ほどある注文装備でカスタマイズできます。そのBig10と言うのは一番軽いハーフトンなのですが、総重量が重くなっています。所謂ハーフトンのヘヴィー仕様で、骨格の厚さ、寸法、ギヤ比などは変わらないのですが、重い重量に対してタイヤの寸法、ブレーキと懸架バネの強化で対応しています。何でこんな車種があったのかと言いますと、1975年から小型商用車にも排気ガスの規制が始まり、6000パウンド以下の軽重量トラックにも乗用車と同様の規制を掛けられ、それにはEGR, 冷却吸気吸入、排気触媒などのややこしい装置と性能低下を余儀なくさせられました。一番困ったのは触媒装備による無鉛燃料の使用で、フリートの営業などで何百台単位で使う事業者には値段の高い無鉛燃料は深刻な問題でした。それでシェヴォレイは最大自重をわざと重い仕様を作り、同じお手軽のハーフトンでも6000パウンド以上の重さで重商業車にさせて排気ガス規制を逃れる為に作られたのでした。されどコレを見ていたキャリフォーニア州は法規を変更し、6000パウンドの境を8,500パウンドにまで引き上げ、連邦政府もそれに追従して、結局このBig10仕様は消滅しました。




数年前にあったニセBig10の復興版。このツートーンの塗装見て育ったぼくはレトロ感がタマらいですね〜。でもこのモデル、もう新型になっちゃいました。




現在ポピュラーな4扉型ピックアップトラックの源流は此奴です。1973年に出た旧型は1991年まで基本的に変更なしで生産されました。あの悪夢の新規格、H4703/H4701の前照灯が痛いです。。。この前照灯の悲劇はいつか書きますね。。。


4年遅れて出てきた4扉型。でもこの世代は乗用豪華仕様は現れず、現在の姿のは一世代位前、ごく最近からです。


流石一般大衆廉価版で有名だったシェヴォレイ、その中でも一番高級な乗用車、カプリースに革の座席が注文出来るのは1988年が初めてでした(コーヴェットは以前にもあったかも)。後扉にオペラ窓を付けたカプリース・クラシック・ブローハーム。限りなくキャデラックになりたかったシェヴォレイの注文装備でした。




計器盤の木目は南米産、バーハイ・ローズウッド調です。


以前はバーズアイ・メープル調。1981年型。


1984年型。ゲージパッケージ付き。


シェヴォレイのカプリース・インパーラ、ローズウッド調は、実は1976年型にもあったんですよね。。。コレはフル装備のインパーラ。計器盤左下端にあるHVACパネルが見えないですが、助手席側に空気孔があるのはエヤコン装備車。


1976年はダウンサイズする前の年。特別仕様のタイプS、超廉価仕様、小さなハブキャップが素敵ですね。ローズウッドのアクセントのある計器盤はS仕様ではないと思います。


シェヴォレイの廉価版と言えば、コーヴェアにもありましたね。。。タイプ500って奴。飾りの無いラインは基本造形の素晴らしさを返って強調してます。後期型コーヴェアの4扉は柱のないハードトップ。されど柱の無いハードトップなんて、矛盾した言葉ですよね。最近よく記されている、写真はイメージです、と言う注意書きと同じでs。。。


1975年型、クライスラー・インペリアルクープ、普通なら後半分をパデッドルーフにしたがるのに、こちらは前半分。中から覗くネーネーが何とも妙齢でサマになってます。2扉インペリアルには例の後席ラヴァリエー・吊り革付いていたのかしら。。。


Posted at 2020/10/19 17:18:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年10月12日 イイね!

素晴らしき技術者、本田に宿る。

素晴らしき技術者、本田に宿る。








海軍真珠湾造船所から丘に上がった所、パールリッジショッピング・センターの山側、高速道路を挟んだコーラウ山脈の麓にあるパール・カントリークラブが今月一杯で一旦営業を終え、新しい会社に移管するそうです。ぼくはゴルフなど全くしないので詳しくは無いのですが、このパール・カントリークラブは本田技研傘下の本田開発が運営していたゴルフ場なんです。余り知られていませんが本田さんは傘下の会社を通してホテルやレストラン、不動産業から弁当配達までしていて、このゴルフ場、1970年代にゴルフ場の事業がつんのめり、取引銀行を通じて本田で何とか手を貸してくれないかと頼まれ、あの本田宗一郎氏が引き継いだそうです。されどこのコロナ伝染病の中、丁度土地のリースが期限に迫り、地主のカメハメハ財団との条件で合意を得られず、撤退することが決まったそうで、次の経営会社は既に名乗り出ているのでゴルフ場自体は継続営業される見通しだそうです。



カメハメハ学校とビショップ財団はハワイの古くからの王族に源流を求める地元の地主で、バーニス・ビショップ氏がカメハメハ家から相続した莫大な土地をショッピングセンターやら大規模の借地権を使い利益を上げ遺言通りカメハメハ学校の運営に充てる団体です。あのアラモアーナショッピングセンターもビッショップ財団の土地の上に建ってます。

家に1983年頃のホンダ・プレイリュードの解説書があり、コレに搭載されていたエンジンが興味深く、キャムシャフト一本で12個の吸気・排気弁を駆動すると書かれていますが、よく見ると構造は例のCVCC, コンパウンド・ヴォーテックス・コンバスチョン・コントロール、が未だ使われており副燃焼室もその為の小さな吸気弁もあるので厳密には16個の弁が付いているのですが、吸気側2個の弁の開けるタイミングを少しずらし混合気が渦を巻いて燃焼室に入る様に設計されているんです。流石本田技研、中々面白い事やるわいとは思いましたけど、この気筒三弁のエンジンはそう長くは続かなかった様で、次第にキャムシャフト二本、CVCC無しの普通の機構になっちゃいましたが、1990年初代、このキャムシャフト駆動のベルトが切れる故障が多発して話題になったのを覚えています。

その一本キャムシャフト、12弁のエンジン。この頃の日本車は負荷のゴムパイプが網の目の様に這い回っていて、それを解説するダイアグラム図がフッドの裏側に貼ってあったっけ。。。


その二代目プレイリュード、何故か日本版はウィンドシールドワイパーが一本だった様で不思議です。。。


この話、誰かから聞いた話なのでどこまで正確か分かりかねますが、まあ、笑い話にでもと。。。CVCCを考案した本田技研(僕らの年代は未だこう呼びますね、それにホンダSFね)CVCCの特許使用、フォードとクライスラーは即、ライセンシングを求め走ったのですが、将軍様は、そんな物、おもちゃの小型エンジンなら使えるかもしれないが、大型エンジンじゃ話にならないだろうと、ふてくされて言ったか言わなかったか。まあそう言ったハナシがが本田宗一郎氏の耳に伝わったんですね。彼は即、最新の1973年型シェヴォレイ・インパーラを日本の研究所まで空輸させ(この空輸させた、って言う所が面白い)自分所の技術者にスモールブロック350のシリンダーヘッドを分解・改造させCVCC構造に作り直し、自社で排気ギャス検査を確かめた上、また空輸!でデトロイトはアンアーバーの連邦政府環境保護庁の施設に送り公的検査をして、いとも簡単に1975年の排気ギャス規制に合格出来る事を証明、将軍様に一泡吹かせたと言う談話がありました。その検査結果が証拠として出回ってはいるんですが、よく見るとカーボンモノキサイドとハイドロカーボンは確かに優位ですが、Noxは流石に高く、燃費も全体的に悪かったのが実情で、多少武者伝のきらいはありますが、まあ、面白いハナシだと。でもそのCVCCのシリンダーヘッド付けたシェヴォレイ、今頃一体何処で眠ってるのかしら。。。


本田技研は我が国で確か、二輪から初めて四輪へ拡張した際、輸入元も販売会社も同じで、本社がロスアンジェリース中心街から近い西側の4077番ピーコ大通りにあって、今でも建物は現存しますが、近頃、その旧本社の前で記念撮影されたと思う写真が出てきて、それに写っている営業車、1961年型シェヴォレイ・アパッチ・ピックアップトラックのハーフトン型、の同型車を探してきて再生し、当時と同じ塗装をしてアメホン60周記念に現本社で展示されたそうで、コレがその写真。本田宗一郎氏、生きていたら何て言ってたかしらね、と。

当時の本社。


シェヴォレイ・アパッチのハーフトン 。


レストア再現した車両。60周年記念。


現在の4077番ピーコ大通りの様子。


因みに冒頭のホンダ・シヴィック。よーく見るとバンパが未だ規制前だったので小さい奴です。初期型シヴィックはバンパが規制毎に3種類あったみたいです。コレが1番の初期型。
Posted at 2020/10/20 16:32:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年10月11日 イイね!

再度、スチュードベーカーとメルセデス。

再度、スチュードベーカーとメルセデス。





また同じネタですいません、ご辛抱願いたく。

中年も後半に達しますと、何故か周りの連中が急激に若くなり、どうも話の噛み合いが上手くいかないと、君らは知らないだろうが昔はああだったんだよ、こうだったんだよと直ぐ、昔話に走る自分が情けなくなるんですが、全て機械的に油圧で制御していたシトロエンや、技術者が完全支配していた昔のメルセデス・ベンツやらを知っている者には、今の同ブランドが時代の要求とは言え、昔の栄光とは程遠い自動車になってしまったのが残念です。でも若い人達はその昔を知りませんから、それはそれで良いのかもしれません。。。

その技術屋が先頭を斬っていた昔のメルセデス、異様な特許の一つで扉のラッチがありました。これは扉側に円錐形の金具があり扉を閉めると車体側に付けられている穴にぴったり入り締め付けるもので、車体自重数倍の重量に耐えられ、きっちりと円錐形の形通り360度締め付けるので上下左右の、何と表現して良いのか、食い下がり力がただ事ではなく、鋳鉄のヒンジとも相まって、上手に調節された建て付けの良い昔のメルセデスの扉は何とも表現し難い重圧な感じで開閉したものです。それもW201型辺りから円錐形からウェッジ型に変更され、最近のラッチは何の変哲も無い物にかわっちゃいましたが、こう言う所に頑固たるまで妥協しなかったのが昔のメルセデスでした。

インデイアナ州サウスベンド市にあったスチュードベーカー社、最後のイメージアップを目論見、無い金出して作ったのが高利益をもたらす実用車ではなく、高価な四座のグランドツアラー、アヴァンテイでした。倒産寸前にこれまた非現実的なSMを出したシトロエンと似ています。レイモンド・ロウイーのデザインは豪華絢爛かつ趣味の良い控えめな内装から、繊維補強樹脂で作られた車体外板と、画期的な自動車ではありましたが、当然会社の経営には何の足しにもならず、程なくして会社は倒産。でもアヴァンテイは地元のデイーラーが製造施設全てを買取り、コツコツと長年製造販売が続いていました。そのアヴァンテイ、面白いのは扉のラッチに、このメルセデス特許の円錐形のラッチを使っている事です。何回か書きましたが、当時、スチュードベーカーは高級車パッカードと共にメルセデス・ベンツの合衆国での販売代理店をしており、その関係からかもしれませんが、アヴァンテイの扉はメルセデスと同じラッチでした。しかしそれも経費節約だったのか、1970年代に入ると普通のつまらないラッチ構造に変更になっちゃいました。。。

これがその円錐形のピンが絡む扉ラッチの特許。


特に古い個体で、微調整が完璧だと、絶妙な扉の閉まる感覚を味わえました。


確か最後にこの円錐形のラッチを使ったのはW126じゃなかったかしら。。。


アヴァンテイの宣伝広告にもこの扉のラッチは表記されていました。


アヴァンテイに使われていたメルセデスの扉ラッチ。


後日、経費削減で、そのオリジナルの扉ラッチを隠すプレートで塞がれた下には変更後の普通のラッチ。確か1974年辺りの変更だったかな。。。。


威風堂々ですね。これには安全性を追求した熱意の上に醸し出されたから出せる物でした。当時の宣伝で印象に残っているのが、240型かなんかで、様々な外装の色を表示して、この色が一番事故率が調査結果低い事が判明したのでお勧めする!と、1970年初頭はオレンジ色の欧州車、特にメルセデスが売れました。もう一つ、300型で運転台から見た際、360度水平の死角は何度あり、外部への視認性が向上すれば向上する程運転し易くなるだけでなく、脈拍は下がり疲労も軽度されより安全につながるのですと長々解説が出ていました。それが今じゃワザと後方視界を狭めてセンサーやらの警報に頼り、以前の哲学とは全く逆方向の企業思念で。。。。あっ、やめておきましょう。中年の遠吠え、ごめんなさい。所で背後のヒコーキは短胴型のボーイング727型機。中央エンジン空気取り入れ口が楕円形なので直ぐわかります。(長胴型はそれが真円型)翼内側の前縁クルーガーフラップがだらりと垂れていないのは油圧のAシステムに圧力がかかっている証拠。。。なので変ですねえ。まあエンジン停止して20分くらいはまだ圧力が残っているのでこう写ったのかもしれませんが。。。。(エンジン停止後しばらくするとクルーガーフラップはだらーっと垂れ下がってくる)


この頃のメルセデスは豪華さには程遠く、アポストレーは無愛想な硬い黒いヴァイナルや革だったり、機能一点張りの計器盤だったり、なのでこう言う宣伝を理解できる顧客にとっては幾ら払っても価値のある自動車だったんですね。。。


日本版は丁寧に日本語に訳しているのが凄いです。。。


ライセンスプレートで判る通り、1970年型何でしょうね、280SE。一時期この車体に4,500ccのV8エンジンを積んだ奴がありましたが、あれはとてもバランスが取れていただけではなく力がとてもあり非常に我が国に適した車種でした。


スチュードベーカー・ラークのステーションワゴン。荷室の屋根が開くのが面白いですね。


ずーっと後になってGMCのエンヴォイも同じ構想。でもラークもエンヴォイも売れなかった。。。


スチュードベーカー最後のワゴネアの荷室天井も開きましたが、テールゲートによじ昇る際に便利な展開式の足踏みが何とも便利そう。。。
Posted at 2020/10/12 16:39:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年10月10日 イイね!

海を渡る鶏。

海を渡る鶏。毎年この時期になると、地元のチェイン・レストラン、ジッピーズでは期間限定特別メニューで、ガーリック味噌チキンなる物を提供し、それがぼくの好物でありまして、宣伝が始まるといてもたってもいられず、昨日金曜日の夜、仕事の後、ようやく食事が店内で食べられるようになった店舗を探して行き、家族はガーリック・味噌チキン、ぼくはガーリック・味噌サーモン・カツなる夕飯を頂き、しばしの禁断症状を抑えることができました。


ジッピーズはL&Lと共にここ地元ハワイでは地元の絶大なる人気の食堂で、創業はフランシスとチャールズ比嘉兄弟で、当然ウチナンチュのビジネスですから我が家ではいつも応援している訳であります。


今では安い動物肉の部類に入る鶏ですが、ジッピーズなどが始まるちょっと前の1960年代初め、欧州はまだ戦争から立ち直れておらず、鶏は非常に高価な食べ物でした。それに目をつけた我が国は欧州へ格安鶏肉を輸出し始め膨大な利益を上げると、当然、連中から不当に安い値段での鶏肉販売だと文句がつきました。喧々轟々の喧嘩の後、欧州は合衆国産の鶏肉の輸入税を上げ、応戦する形で当時ケネディ大統領が暗殺された後に就任したジョンソンは合衆国に入るじゃが芋のスターチ、ブランデー、などの課税を引き上げるのですが、その項目の中に何故か小さなトラックの完成車両の輸入税が25%に引き上げる案が入っていました。コレは当時、丁度独国はヴォルクスワーゲンが合衆国に爆発的に普及する前夜でそのラインアップの中にタイプ2の小型トラックがあり、この当時の合衆国には現存しない新種の貨物自動車が普及するのをデトロイトが恐れており、その上1964年の大統領選挙に落選するのを懸念していたジョンソン大統領は莫大なる影響力のある自動車組み立て労働者組合の票取りご機嫌を取ろうとこの増税案に署名をしました。


その煽りを受け、ヴォルクスワーゲンはタイプ2の貨物車の合衆国への輸出を止めたんですが、同じ北米でもお隣のキャナダはその鶏税と関係の無い話だったので、結構最近までキャナダにはヴォルクスワーゲンのトラックがあり、そのお古がたまに合衆国へ流れ出ると大変な高価で取引されます。


VWはペンシルヴェニア州ウエストモーランド工場が稼働していた頃、ピックアップ版も生産していました。当然輸入車ではなかったので25%の鶏税とは無関係。。。このラビットのピックアップは今では希少価値高く特にジーゼル版は高値が付きます


1960年代、合衆国ではまだ日本製の自動車など殆ど走っておらず、輸入車と言えば欧州製の方がまだいくらか見かける程度でデトロイトは無敵の進路を謳歌していた頃、アジア製の初期車両で一番マシだったのがダットサンのピックアップでしょうか、トヨータはまだハイラックスを出す前で、スタウトを数台売っていたくらいで、三菱、マズダ、ホンダが四輪車を本格的に合衆国に出すずっと前の話です。



1970年代になると25%の高課税でそそくさ小型貨物車の輸出を諦めたヴォルクスワーゲンの代わりのダットサン・トラックが、特に西海岸で一定の市民権を得ると、トヨータも漸く本気でハイラックスを開発(開発・製造は日野自動車)、輸入を始めるのですが、どうにもこの、後を引く25%の鶏税が悩みのタネになります。そこでトヨータは南キャリフォーニアはロングビーチにピックアップの組み立て工場を1972年に建設し、日本からベアシャーシの状態で合衆国へ送り、ロングビーチで荷台を取り付け完成車として売れば、完成車にしかかからないこの鶏税を免れる得策に出ます。


ここに目を付けた各社、丁度将軍様と提携を交わしたいすゞはファスターをシェヴォレイ・ラヴと言う名で売ってもらう契約に漕ぎ着け同じく未完成で輸出を始め、フォードもマズダと一緒にB1600トラックをフォード・クーリヤとして合衆国で荷台をくくり付け売り出します。個人的には小型貨物車は、ダットサンが圧倒的なシェアを得ていたのの、それは1970年代後半までで、1980年代になると今度はトヨータの方に人気が移ります。しかし政府も黙ってはおれず、この未完成車で鶏税を掻い潜るのを1980年代前半で一旦禁止にさせ、LUVとクーリヤの代わりに将軍様は自分で小型貨物車のS10ピクアップを、福徳汽車はレンジャー・ピックアップを市場に出します。LUVはLOVEと語呂合わせでLightUtilityVehicleの略だそうですが、高級仕様にミカド(帝)ってーのがあったのが面白かったです。






スバルはブラットと言うピックアップ・トラックの荷台にジャムプシートを括り付け、こりゃトラックじゃないさ〜、乗用車だと説得し25%の輸入税を逃れ、トヨータもダットサンも合衆国に後に製造工場を建設し、輸入車ではなくなりこの鶏税を逃れます。

でも例外もありまして、三菱と提携していたクライスラーは、三菱製のピックアップトラックをキャプテイヴインポートとして、プリムス・アロー・ピックアップと、ダッジD50として持ってきてはいたのですが、完成車としての輸入で、鶏税の餌食になっていた(と察します)。まあ、そんなに数の売れてる車種ではありませんでしたから。三菱は後日、レイダーと言うピックアップトラックを3年間だけ売った事がありますが、あれはミシガン製のダッジ・ダコータの焼き直しでした。




この鶏税、本来の目的はとっくのとうに役目は終わって、オバーマ大統領は断続的に廃止しようとしていたんですが、トランプ大統領は即、その意向を退け、よって鶏税は今でも継続。

その後、1980年代には鈴木のサムライが、自動車か、貨物車か、日産のテラーノ、いすゞのトルーパーが自動車か、貨物車かで何回か裁判沙汰になりますが、近年では左官屋さんや大工さんに大評判の小型貨物車のフォード・トランジット・コネクトやらクライスラー系のラム・プロマスター・シテイーが槍玉に上がり、ターキーやらスペイン製のこの輸入車は後部ガラスに座席が付いた乗用形態で輸入され、その後座席を外し窓にメクラ蓋を嵌めて貨物車として売ると言うケッタイな事になり、メルセデスのスプリンター・ヴァンなどは、デユッセルドーフの工場で組み立て終了後一旦エンジンと駆動系が外され木箱に入れ、サウスキャロライナ州のチャールストン港に水揚げされ19マイル離れた内地にある、メルセデスの傘下のウエスターンスターのトラック工場に持ち込まれ、4時間弱の時間をかけて再組み立てが行われ、晴れて完成車として1日に70台程度が1週間で5日の割当で出荷されてました(その費用だけでも十万円はくだらないそうな)。その後アマゾンやらの小口配達が爆発的に広がり大口契約を貰ったメルセデスはやっとスプリンターの製造工場を建設し、近頃のスプリンターは正真正銘合衆国製になりました。



ちなみにトヨータの南キャリフォーニア、ロングビーチの工場、正式名称、TABC トヨータ・オート・ボデー・キャリフォーニア、は合衆国に出来たトヨータ最初の工場で、現在でもタコーマやらカローラの部品を作っています。



と言う訳で色々苦労して25%の鶏税を避ける各社でしたが、皮肉な事に、1980年代日本車が我が国に溢れ出すと日本製乗用車の自主輸出制限が始まり、コレには貨物車は含まれていなかったので、自動車で送ると税金は安いが球数に制限が出て、貨物車で送ればナンボ送っても良いのですがその代わりに25%の高税がかかると言う二重苦に悩まされ、なら、限られた数の自動車なら高利益の車種を送った方が儲かると言うので始まったのが高級ブランドのレクサス、インフィニティ(と実現しなかったマズダのアマーテイ)なんですが、その話はまたいずれかに。。。

大統領と言えば、選挙も目の前に迫り、今週、郵送投票紙が郵便で来ました。 


冒頭画像は北米、キャナダ仕様のヴォルクスワーゲン・トランスポーターのピックアップトラック。合衆国では売られなかった。。。
Posted at 2020/10/11 18:19:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年10月07日 イイね!

外へ出そう、輸出仕様のあれこれ。

外へ出そう、輸出仕様のあれこれ。










何が理由でそうさせるのか、政治的な理由?事業計画の変更?合衆国主な自動車製造会社は20年くらいの周期で突然、ハタと輸出に力を入れる傾向があるのです。まあクライスラーは昔からシムカを傘下に持ち、フォードも独国で独自展開をし、将軍様も言われてミリャ、オペルを戦前から持ってましたが、合衆国製の車両を世界に輸出しようとすると、努力不足、世界経済事情の変化、まあ言い訳はともあれ、いずれも10年続かないのがオチでして、その地域から撤退する度に顰蹙を買うのは日本の方々にはご存知だと思います。

1990年代に将軍様が結構本腰でシェヴォレイの小型万能車、いわゆるS10ピックアップのステーションワゴン版のS10ブレーザーの右ハンドル仕様を開発し日本に送った事が興味深く、余りこちらの資料も無いので写真だけで色々見た所、随分と金のかかっている事が判明。。前照灯のスイッチは本来なら計器盤に付いている捻りスイッチの所、方向指示器のスタークを回転させる、一般的な部品に変更、4ウエイフラッシャーはステアリングコラムの上の押しボタンから計器類の左横の高い位置に移動、そこにあった本来なら四輪駆動の切替スイッチはその下の、本来ならばテールゲートのワイパーのスイッチがあった所に移植。エマージェンシーブレーキは足踏み式からレヴァー式に変更、ラジオの開口部が縦に広くなり、床から生える変速レヴァーは本来ならば斜め横型の形状からガングリップ式の縦型に。。。。ざっとみただけでこれでけが気になりました。初期型のS10ブレーザー はインドネーシアでオペル・ブレーザー として右ハンドル仕様で売られており、こちらとの比較も面白いのですが、数年後、この初期型S10ブレーザーの右ハンドルの計器盤をオーストラリヤで売られたホールデンサバーバン(メキヒコ製)に使ったのも何か訳があったのか、なぜならその時点でS10ブレーザーの内装は日本仕様と同じの新型に切り替わっていたからなので。。輸出仕様の開発、将軍本社で詳しい人がいたら本でも書けば売れるんじゃ無いかと(いや、そんなツマラヌ事を知りたいのは自分だけか。。)

これがインドネーシアで売られていたオペル・ブレーザー。手動変速のみ。


ホールデン・サバーバン、自動変速機のレヴァーは右側。エマージェンシーブレーキは座席間のレヴァー式。


これが日本仕様。画像どっかからお借りしました。ごめんなさい。


日本仕様、四輪駆動切替スイッチが、通常なら上方HVACの吹き出し口横にあるのが、右ハンドル日本仕様はここに下りて来てます。


でもインドネーシアの後期型オペル・ブレーザーは二輪駆動なのか、日本仕様では四輪駆動切替スイッチのある場所には、元祖合衆国仕様と同じく、後窓のワイパーやらのスイッチが収まっています。ついでに前照灯のスイッチもオリジナルと同じ、計器盤右端の回すスイッチ。


オーストラリヤで右ハンドルに改装する際、変速レヴァーも含め、ステアリングコラムを全てそのままで右に持ってくるのが多く、この古いC/Kも計器類も右に持ってきただけ。。。だからHVACの操作盤もステアリングの右手に。同乗者からは手が届かない。


本来ならこうですな。例の燃料タンクの位置はさておき、このシリーズのC/Kは頗る頑丈で耐用年数が長過ぎたきらいが。。それに比べて最新型は貧弱ですのお。。おまけに当時のグレード名だったスコッツデールとか、上級のシルヴァラードなんかに選べるタータンチェックの内装がハードボイルドのカウボーイ御用達にしては頗るお洒落だった。。。




元祖、サバーバン。


メキヒコ工場で作られていた右ハンドル仕様のホールデン・サバーバン。開けてビッっくり、この自動車の計器盤が全く違う車のを移植したとは誰が想像できたか。。。


これがその内装。


開けてビックリと言えば。。これ、見慣れた1973年型シェヴォレイ・インパーラ
1973年は前が大きなバンパでも後はまだ小さなバンパでした。


これがその内装。ん?なんか変?扉の内装は普通のインパーラですよね。。。


これが本来の1973年型インパーラの内装。扉の内装は同じなんですけど。。


実はコレ、計器盤だけ、同年のオールズモビルのを移植してきたんです。コレはオールズ98リージェンシー。


この変態インパーラは将軍様が1973年に1,000台だけ作ったエヤバッグ搭載の試験車で、実用試験で保険会社やら自社の社用車として世に送り出したものだったのです。デザイン自体オールズモビル主体で開発だったので、廉価な試験車両のシェヴォレイにそっくり移植しちゃったと言う訳です。この初期エヤバッグは全席3座配慮しただけでなく、衝撃により二段階の膨らみ方が既に取り入れられており、20数年後、本社技術部が全米くまなく探し回り、納屋で長い間惰眠を食っていた個体を買い戻し、衝突実験に持ち行った所、完璧に作動したそうで当時の技術でも偉く高度だったそうです。因みにシェヴォレイにエヤバッグが装備されるのは1980年代後半からで、1974年からキャデラック、オールズモビル などの高級車に注文装備で選べられたのですが、全く人気が出ず、クワドラステアを同じく、消滅の運命をたどりました。




コレがシェヴォレイに付けられたオールズモビルの計器盤。


後日、売り出されたキャデラックのエヤバッグ仕様。


コレはビュイック・エレクトラ。


オールズモビル・トロナード (大トロ)


今日の一台。本土系超級市場のセーフウェイの駐車場。おお、カローラのステーションワゴン。綺麗ね。


後窓を良く見ると。。。。好き者、いるんですねえ。。。
Posted at 2020/10/08 16:58:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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