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JetBoyのブログ一覧

2021年07月25日 イイね!

ナッシュ、モーモン教と車中泊

ナッシュ、モーモン教と車中泊














ぼくはなるべく宗教と政治に関する話題は避ける様にしているのですが、この程度なら大丈夫かと。。。お気を悪くされたらゴメンなさい。

オアフ島北部にある観光客の人気施設、ポリネジアン文化センター。先日その前を通ったら看板娘だったシトロエンのHYヴァンが跡形もなく2台とも消えていました。ポリネジアン文化センターはご存知、隣接されているモーモン教の大学、ブリガム
ヤング大学の運営で日曜日はお休みです。ポリネジアン・ショーなどに出演する人達は布教先、太平洋の小さな島から若者を連れてきて働かせて、同時にお隣の大学で学ばせて単位を取らせると言う仕組みらしいです。

そのモーモン教の熱心な信者で2012年に大統領選挙に立候補したのがミット・ロムニーさん。彼のお父さんだった人がアメリカン・モータースの社長だったジョージ・ロムニーさんです。ご存知、アメリカン・モータースは昔のハドソンとナッシュ・ケルヴィネータ社が合併して誕生した会社ですが、その後、ヘンリーJカイザーの持っていたジープ社も傘下に入れ、1970年台経営難に陥った際、フランスはルノー公団の一部となった後、続く経営不振の最中、フランス勢で唯一AMCを支持していたジョージ・ベスが同件に絡んで暗殺された後クライスラーに売却され現在に至るわけですね。ああ、ややこしい。

そのジョージ・ロムニーさん、産業家だけでなくモーモン教の宣教師としても活躍して、息子のミット・ロムニーさんもそれに倣い、学生時代フランスへ渡ります。その宗教活動中、5人載せたシトロエンを運転中、酔っ払い運転のメルセデスと正面衝突に遭い大怪我をします。

お父さんのジョージ・ロムニーさん。彼は自動車製造組合なんかの理事もしていた事もあって自動車産業には以前から関係があったんですが、お友達にジョージ・メイソンと言う人がいました。メイソンさんはウイスコンシンのナッシュ自動車の2台目代表でその巨漢とは裏腹に斬新な技術を取り入れた小型車がこれからの先を担うと言うのが信条で、戦後、昔の車体を焼き直した旧型車を皆が売っている最中、車輪を覆った風呂桶をひっくり返したような流線型のエヤフライト新型車を作ります、その後も出す車出す車、小型車に専念し、煌びやかで派手なデトロイト主流の大型車に対抗出来ず、結局1954年にハドソンと一緒になりアメリカン・モータースになった訳でした。

ロムニー氏を初代アメリカン・モータースの社長に命名したメイソン氏、でも悲しいかな、メイソン氏はアメリカン・モータース創立間もなくこの世を去ります。メイソン氏の葬儀の際、牧師としてユーロジー(回想録)のスピーチを行なったのもロムニー氏でした。

ロムニーさんはその後政界に移りミシガン州知事や連邦政府の役員を務め、モーモン教の信者の絶大なる支持を誇っていました。

話は前後しますが、元祖、ナッシュ自動車の創立者、チャールズ・ナッシュ氏が後継者を探していた際、選ばれたメイソン氏はケルヴィネータと言う冷蔵庫会社の代表をしていました。メイソン氏はそれ以前にも自動車業界には関与あったんですが、当時、各自動車会社は電気冷蔵技術の会社を傘下に持っており、GMはフリジドエヤ、クライスラーはエヤテンプ社、ナッシュ社は車両空調装置を一番最初に開発した会社ですから、チャールズ・ナッシュさんがメイソン氏を選んだのも何となくわかります。メイソン氏がナッシュ社に来る際出された条件はケルヴィネータ社も一緒についてくると言う事で、結局ナッシュは、ナッシュ・ケルヴィネータと言う、自動車会社なのに冷蔵庫の会社との兼ね合いみたいな名称になったのでした。

面白いのは小型、軽量、新技術を好んでいたナッシュ氏、戦後すぐこの流線型絵やフライトで業界のどきもを抜きますが、恰幅の良いメイソン氏も体格に反して小型車が大好きで、超小型のナッシュ・メトロポリタンの計画を進めたのもメイソン氏と言われています。

ナッシュさん、経済的な事には念がなく、その一つが車中泊装備に戦前から拘っていました。1930年台は後席背もたれを前に倒し、トランクと貫通して頭を進行方向に向け簡易寝台するのを宣伝してましたが、戦後になるともっと本格的な装備になり、専用の寝袋、開けたままの窓に張る虫除けの網など、宣伝文句はナッシュ車は車中泊ができるので宿代が浮くので経済的だと、宣伝には必ず夫婦と小さな子供を挟んで団欒した絵が描かれていましたが、若い人たちが若干異なる用途に重宝した事は容易に想像できます。。。。

子沢山で知られるモーモン教のロムニー氏が代表になった後もこの車中泊寝台はアメリカン・モータースに受け継がれ、毎年必ずキャタログには図案が描かれていましたが、ロムニー氏が政界へ去った後しばらくして、この車中泊の図がキャタログから消えたのは偶然かしら。。。

1955年型辺りのナッシュ・アンバサドーの傍に立つ、ジョージ・ロムニー氏。


ジョージ・ロムニーさんの末っ子、のち大統領候補になったミット・ロムニーさん。多分1955年型ハドソン・ホーネット。


そのミット・ロムニーさんがモーモン教の布教先、フランスで遭遇した大事故。ロムニーさんが運転。計器盤から察すると普通のDS。メルセデスの酔っ払い運転だったそうです。




ミット・ロムニーさん、大統領候補。


お父さんのジョージ・ロムニーさん、毎年アメリカン・モータースのキャタログに登場してました。


ナッシュ社の二代め代表だったジョージ・メイソン氏。貫禄がある。見かけによらず小型車に信念を燃やしていた。。。ナッシュ社がアメリカン・モータースになって程なくして死去。



メイソン氏の進めたナッシュ・メトロポリタンの試験車でご満悦。


メイソン氏は流線型もお好き。皆をびっくりさせたナッシュ・エヤフライト。


そのナッシュの車中泊、戦前からやっていました。これは1939年型。


次第に進化し、前席も寝台の一部になります。宿代節約って言うのがいい訳。


専用の網戸、寝袋、かなり凝ってました。


このCピラー、中に強固なロールバーが入っていて横転時の安全性を謳ってました。


ランブラー1963年のキャタロブ。車中泊の宣伝、最後になったのは1963年頃。子沢山で有名なモーモン教、ロムニー氏も1962年に自動車業界を去りますから、なんとなく関係しているような。それにしても皆さん、寝巻きまで着ている芸の細かさ。着替えは何処で。。。。



車中泊と言えば、フランス車は昔から座席が平らになるのは当たり前でした。
これはプジョー。


プジョーの504。


シトロエンDSと同じくらい凄かった、ルノー12。5に次いで僕の好きなルノーです。七変化シートと呼んでましたね、むかし。


英国社でもオースチンなんかは寝台になりました。


ウチで乗っていたホンダ・エレメントも寝台可能でした。やったことありませんでしたけれど。因みに北米仕様は4人乗り。日本仕様は5人乗り。


北米で絶盤になったホンダ・フィットも背もたれが完全に倒れたそうです。


最新のフォードF150の注文装備で背もたれが水平に倒れ仮眠できると宣伝されてます。


ポリネジア文化センターにあったHYトラック。


おまけ画像。
帰宅途中遭遇した素晴らしい状態のK10トラック。1983年辺りか。。。


おまけ画像。
1960年代前半のTバード。ウィンドシールドワイパーが油圧で駆動されている。。


虹が地上に触る所は、ただ単に霧雨でした。。。


昨日のカハラ・ビーチ。


例のカハラにあるヘンリーJカイザーの邸宅。彼はピンク色が好きで何から何までピンクに染めましたが、門標も例外なく。敷地は余りにも広大で高価になりすぎたので、3分割されて売られた模様。一番安いロットが$18,000,000。


そのカイザー邸宅、一番端っこがボートハウスと言って埠頭まで付いています。その残り。お向かいは有名番組の主人公、ドッグ・the・バウンテイ・ハンターのチャップマン氏のお家。家賃納入滞っているらしい。。。。


冒頭の写真はロムニー親子、ミット氏とジョージお父さん。
Posted at 2021/07/26 09:37:29 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2021年07月19日 イイね!

あきさみよ〜 手動変速機

あきさみよ〜 手動変速機













我が国での手動変速機。俗に言えば ”マニュアル・シフト”、 
”ステイック・シフト”  などと呼ばれていましたが、今じゃ殆どの人が操作出来ないと思います。でも昔は意外な車種に結構手動変速機を選べました。。。。

ジープ・グランドチェロキー。6発限定でしたが、アイシン製の5段変速。




クライスラーのミニヴァンはこの代まで手動変速を選べました。




海外では2007年型まで選べました。




メルセデスのSクラス。W140の6発限定。但し我が国は全て自動変速機仕様。


確かSクラスの手動変速機は此奴が最後。。


ウチにあった190D2.5も手動変速機。この仕様探すのに時間がかかった。。。


メルセデスの後に来たホンダ・エレメントも四輪駆動かつ手動変速機仕様。総生産全体の3%くらいしか売られなかったらしい。


シェヴォレイのフルサイズ、最後の手動変速は1971年、フルモデルチェンジした最初の年、6気筒限定で手動変速が選べました。ヤス風情のベルエヤ。空調吹き出し口の少ない事で非冷房車だと判ります。




センチュリーのAタイプ。フロアシフト限定。コラムシフトのベンチシートだったらよかったのになあ。。。


冒頭の写真はジェイミー・リー・カーテイス。シャワーで濡れて何やってんですかって、いや、彼女のお母さんはジャネット・レイなんですよ。ヒッチコックの恐怖影視、 ”サイコ”  の有名なシャワーで絶叫する場面を再現してるんですわ。。。

彼女はフォード車によく乗った。中古車屋の向かいから謎の警官が見張ってるのが恐ろしい。。。


ジェイミー・リー・カーテイスとアーノルド・シュワーツネーガー共演のチュルー・ライスでは確か彼女、リンカンのリムジンのサンルーフから脱出する。。。




ジェイミー・リー・カーテイスの最初の女優出演はなんとコロンボ。ピーターフォークが持参してきたドーナッツを見て機嫌の悪い女給役。
Posted at 2021/07/27 16:01:28 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2021年07月18日 イイね!

破産に追いやったヘイロー・カー達。

破産に追いやったヘイロー・カー達。






ヘイロー(Halo) とは一般に光る輪っか、特に天使やらの頭上に輝くワッカの事を指します。興味深いのはこのヘイロー、宗教の意味合いでは古くから西洋、東洋、問わずに歴史的画像には共通に登場するんですな。

冒頭の女性が被っているのはヘイロー・ハットと言って、所謂帽子のツバが丸く大きいのを指しているんでしょうかね。昔の流行だったそうです。

そのヘイローという単語、自動車業界でたまに、ヘイロー・カー として使う事があります。ヘイロー・カーとは自動車会社の製品で特別に作られ、利益を無視しても会社の印象を向上させたり、高度技術を示すのに使われる、まあ一般大量生産車の反対とでも理解できたら近いと思います。

面白いことにそのヘイロー・カー、自動車会社が経営危機に陥りニッチもさっちも行かなくなると最高経営責任者は、エイや、ここでヘイロー・カーを出して会社の風評上げて一気に立ち直るのだ!と無茶な計画を立て、当然ですが間も無く会社は倒産するのがオチなんですが、その際最後の手段として出てきたヘイロー・カー。この自動車のせいで会社が潰れたんだなどと後指刺されそうですが、その例を2、3ご覧あれ。

ウィスコンシン州にあった異端児ナッシュ自動車会社。GMの創業者と喧嘩別れして始めたナッシュ自動車は、戦後産め増せ増やせの巨大化するビッグ3に立ち向かうのに固執してのっけから資金難、白物家電大手のケルヴィネータ社と合併した後も(買収されたの方が正確だったかも)お茶碗をひっくり返したような芋虫に車輪を付けたような小型車ばかり売っていて一向に台所事情は好転しません。そのナッシュ社の代表のジョージ・メイソンさんがある日、クイーン・エリザベス丸でロンドンに出張に行く際、乗り合わせたのが後にオースチン・ヒーレーなどで有名になるドナルド・ヒーレーさん。彼はデトロイトのキャデラックにエンジン供給交渉に行った帰りで契約取れず、夕飯でメイソン氏と偶然に同席した際、共通の趣味もあった事で意気投合。それがナッシュ・ヒーレーと言うヘイロー・カーになって世に出ます。ウィスコンシン・ケノーシャのナッシュ工場から車台とエンジンが英国に送られヒーレー社でシリンダヘッドなどを弄られ車体を架装した後完成車は再び大西洋を渡り北米に戻り販売されると言う、ずっと後にキャデラックのアランテが同じような事をやりましたが、後に車体架装がイタリヤのピニン・ファリーナへ変更になり寄り道が増え、コストだけでも大出血だったのに、仲の悪かったGMが朝鮮戦争の軍需契約をナッシュ社から不利にさせるよう仕掛けて台所は火の車。結局このナッシュ・ヒーレーは4年間で506台だけの生産で終わり、ナッシュ社は1954年にハドソン社と合併して現在の(じゃなかった)アメリカン・モーターズになったのでした。。。。

ややこしいのは英国にもフレーザー・ナッシュと言う自動車会社があり、此方は英領インド生まれ技術士、アーチボルド・グッドマン・フレーザー・ナッシュと言う人が始めた競走自動車会社で、戦前に英国のBMW販売権を持っており、BMWの軽快車を改造輸入販売してました。数年後独国と英国はドンパチの戦争繰り広げるんですから、世の中先は分かりませんな〜。

敗戦後極限貧富に陥っていた独国、まだ国民は動力移動には自転車、原動機付き二輪車、またはそれに傘を付けた様なバブルカーでも夢また夢の時分に、オーストリア生まれで米国の輸入車業の初期を牛耳ったマックス・ホフマン氏。特にオーストリア人でしたから独系への影響が強く、メルセデス・ベンツのガルウイング・スポーツカーを提案した張本人がこのホフマン氏。彼は当初、まだ二輪車とそれに毛の生えた程度の三輪イセッタを四苦八苦作っていたBMWに、戦前の輝かしい競走自動車のBMWで企業印象向上させましょ、んでコレ作れっ!とV8エンジンの高速グランドツアラーの507を作らせます。西独はまだ皆が靴やら衣服を各家庭で手作りしていた程貧しかったのに、507なら合衆国で売れて外貨稼げると啖呵切ったのですが、結局作られたのは252台。これが原因でBMW社は倒産に追い込まれます。ついでに言えばこの507をデザインした人は独国から移住してきたアルバート・ゴーツ氏で、戦前に米陸軍服務中偶然にも産業デザイナーのレイモンド・ロウイー氏に遭遇し、彼から手解きを受けた後ロウイー氏と関係のあったスチュードベイカー社に入社。その後自立してマックス・ホフマンと出会い507のデザインを頼まれただけでなく、後、ヤマハに呼ばれてから日産自動車の初代シルヴィアを手掛け、初代フェアレイデイーやらの改良に加わり日産が諦めたプロジェクトと共にトヨータ2000GTの基本を手掛けたとか、いや、ダットサンZの初代スケッチをしたとか色々言われていますが、彼は2006年に他界されています。

大は大型車のDS,次は超経済車の2CVしか持ち駒が無く、技術者指導で経営危機に陥っていた1960年台のシトロエン。此方も何を血迷ったか、1968年に無い金捻出してイタリヤのスポーツカー名門のマゼラーテイを買収します。連中の持っていたV8の2気筒をぶった切ってV6にし、2座のグランドツアラー、SMを世に出します。当然儲けなど殆ど出ず、石油危機に直面した後、シトロエン社はプジョー集団に吸収される事になり、傘下のマゼラーテイ社は倒産。一体連中、何を考えていたのだろうか。。。。

前期のレイモンド・ロウイー氏、大統領専用機の塗装やコカコーラのくびれたボトルをデザインした事で有名ですが、経済事情がこれまた悪化の一方を辿っていたインデイアナ州サウスベンド市のスチュードベイカー、1954年に高級車のパッカード社と合併するものの金回りは一向に改善せず。昔アイアコッカ氏が言ってました。一時期、あのジョン・デローリアン(彼はスチュードベイカーの技術士でした)が自分でスポーツカー作ってた時、アイルランド政府からの融資だけでは足りなくなり、一度クライスラーと手を組まないかと聞きにきた事があったそうです。その時、アイアコッカはただ一言、”父がよく言っていた、負け犬を2匹飼っちゃいけないぜって” とデローリアン氏に言い放ったとか。。。まあそれは兎も角、んでサウスベンドの経営陣はこれも気狂いじみた判断で、今、我が社が必要としているのは企業印象の向上、よって有名なレイモンド・ロウイー氏がデザインする2座の豪華旅行車、アヴァンテイを作る決定をしたのです。車台は強固なX型骨格でその上にガラス繊維強化樹脂で作られた斬新な車体を乗せ最新技術てんこ盛りの高級車を世に出したのですが、此方も一年半で生産頓挫。1963年末で生産が終わり、その後1965年から生産施設を買い取った販売店が独自にアヴァンテイIIとして製造再開(スチュードベイカーから独立)、スチュードベイカー社は1967年に自動車製造終わらせますが、アヴァンテイは製造元が数回変わりながら変わり果てた姿とは言え結構最近まで作られていました。最後に生産されていたのはGMのFボデーやらフォードのマスタングの車台を基本にデザインを加えたようなレトロカーで、その事業を行っていた主が不動産金銭不正取引の疑いでFBIに逮捕され最後の車両が作られたのが2006年だったか。。。。

あとプリムスのブランドが廃止になる前にプロウラーなんてのがありましたね。あの自動車が厳格な規制適合出来たのは奇跡に近い話ですが、意外と評判はよくなく、今では殆ど忘れられちゃった感ですが、程度の良い個体なら投資価値はあるかもう。。

ヘイローと言えば頭上のワッカ。スバルのブラットがモデルチェンジした際、運転台の頭上に2つの穴が空き、それを中央ヒンジのガラス板で開けるのをヘイロー・ルーフと言っていました。これはTトップみたいに見えるんですが実際は屋根に穴を開けたのを塞ぐ格好でドア上に骨格が残るのが残念でしたが、あの頃のスバル、いや、日本車全般は魅力的な車種が沢山ありました。。。。

お椀をひっくり返したような形相のナッシュ車。時勢が大きければ富と次第に巨大なテイルフィン開花前夜にこんなこじんまりしたへんちくりんな自動車売っていたのですから、一体誰が買いたがっていたのか。。。1951年型ナッシュ・ランブラー


ナッシュは家電会社のケルヴィネータ社と合併したものの、文字通り台所事情は向上せず。ところでお嬢ちゃん、血糖値、大丈夫?



そのナッシュ社が挽回かけて作ったヘイロー・カー、ナッシュ・ヒーレー。これは後期型でイタリヤで車体が架装されていた奴。


これは英国のフレイザー・ナッシュ・BMW 戦前型。ウイスコンシンのナッシュとは関係ありませんが、小型車好きのウイスコンシンのナッシュは後に超小型車メトロポリタンを英国のオースチンに製造委託させます。


戦後、輸入自動車業界のドンだったオーストリヤ生まれのマックス・ホフマン氏。かなり怖かった人物らしい。。。。


そのホフマン氏が作らせ、結局会社を潰す羽目になった507。


1962年に登場したスチュードベイカー・アヴァンテイ。ガラス強化繊維樹脂の車体は外注。車体骨格はX型、ねじれに強い。昔のクラウンと同じね。


アヴァンテイ技術の最先端、1962年でトランクのヒンジはパンタグラフ式、メルセデス式の安全ドアラッチ、そのトランク、後窓内側下の蓋が開閉し、車内からトランクの物を出し入れできる。その後コーヴェットに用いるV8エンジンも備え、丁度英国のジェンセン・インターセプターを思い出させます。






ラグーン通りで目撃したアヴァンテイII。現在でも十分通用する性能、時代に耐えるデザイン。いいな〜。




2000年初頭、アヴァンテイの無様な姿。可哀想。。。


シトロエンを救う筈(?)だったSM。これは故バート・レイノルズがカーチェイス後に波止場から海に落としちゃう映画の一コマ。彼は別にいつもトランザームばかり駆っていたんじゃないのね。


面白いのは急制動かけても前部が下がらず車高が水平に保たれている様子。確かSM(とDSだったか)のブレーキ回路は前後配分調整にブレーキを踏む床のマッシュルームの背後に小さなピストンで前後動く坂板が有って、後輪荷重が軽くなると後輪懸架の油圧も低下するので板が動き後輪のブレーキ圧が弱まるだけでなく、後の車高が落ちるので(ワンテンポ遅れて)急制動時、非常に安定してました。(技術解説、うろ覚え)。


硬めとは言えロール、ピッチ、姿勢変動大きいです。


スバルクッション、前部ねじり棒中央の巻きバネ、本来ならここに油圧シリンダを入れて車高調整できるようにしたかったらしい。。。


中央のエンブレムが回転して補助灯が現れる。。。




スバル・ブラットの広告に出ていたルース・ゴードン女史。彼女はコロンボにも犯人役で出演した事があり、青色のロールスロイス・コーニーシュを優雅に転がす筈が運転台コロンボに乗っ取られ。。。大好きな女優の一人でした。ヘイロー・ルーフを実演するルース女史。






結局不発に終わったプリムスのヘイロー・カーだったプラウラー。


2000GTを出した頃のトヨータも凄かった。。なんでこの様なスーパーカーを突如出したのか。でもあの頃はいすゞの117クーペーもありましたからね。。。
Posted at 2021/07/19 09:13:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2021年07月06日 イイね!

言い訳画像

言い訳画像
















前回のブログ、うっかり消してしまったので、お詫びに空からの画像でごまかします。


夏富士。この画像、どこかの学会の発表にも使ってもらったらしいです。


中東はカター共和国の首都ドーハ。写っているのは既に閉鎖された旧空港。現在は新空港がすぐお隣に開港したはずです。


雨の58号線をぶった斬る。北谷がまだそんなに開発されてなかった頃。


ヌガンヌ島



やんばるは奥間のレックセンター。中央のまっすぐな道は昔の軍用軽飛行機の滑走路。左下が今で言う日航オクマプライヴェートリゾートホテル。このホテル昔は軍の送信施設で今でも一部の建物は当時の物を使っています。昔は巨大なアンテナとそれを駆動する巨大な発電機が群がり、表むけにはVOAの放送をしていたとされてましたが、実際はうーむ、他の目的に使われていたみたいです。南部及び中部で編集された放送テープを軽飛行機に積んでここまで運んだと察します


ご存知、成田空港。


泡盛残波、飲んでひやるがへい、の残波岬。日航アリビラホテル。昔はボーローポイントと呼ばれて終戦末期に作られ殆ど使われなかったボーロー飛行場跡地。上に読谷補助飛行場の滑走路と象の檻が未だ見えます。今はすっかり区画整地され昔の面影ナシ。


早朝の到着、波之上。未だうみそらトンネル建設中なのでこれもフルイ写真ですなあ


早朝、こちらは出発時。伊計ビーチや海中道路。右の浜比嘉島と左の平安座島は本島から渡し道路建設計画の際意見が分かれずっと仲が悪かったそうで。。。。


慶良間島と外地島。外地島に写っている慶良間空港はあの豊田商事事件の豊田商事の子会社で公共地図施設航空と言う会社が作った飛行場でしたが、今では定期便も飛ばず。もったいないです。慶良間ブルーで有名な島です。


場所は飛んでウェーキ島。今でも駐在がいてたまーに飛行機が降りてます。以前ハワイからグアムへ飛ぶ航路はこの島の真上を飛びましたが10年ぐらい前から航路が数百キロ南にずれたので現在はこの様な写真撮れません。面白い事にこのウェーキ島、ミッドウェイ島、マーシャル諸島のクワジャリン島などで働く人は殆ど軍の民間契約でそれを一手に引き受けているのが何とチューガック・コーポレーションと言ってアラスカ州はアンカレッジにある、主にエスキモーやらの原住民のための、いわゆる第2セクター的な会社が仕切っており、南洋で働きたいなら履歴書をアラスカに送らなければならないと言う摩訶不思議な事をせねばなりません。


ウチに昔あったシトロエンとメルセデス。何とも変な組み合わせ。。。


昔のモットー、カバン一つで何処へでも。。。。


スコットランドはプレストウィックで出発待ち。。。


この左の青年知ってますか?若い時のミット・ロムニーさんです。数年前、大統領候補になった政治家、もとマサチューセッツ州の州知事。中央は彼のお父さん、ジョージ・ロムニー氏。ジョージロムニーさん、ミシガン州の州知事の前は何と、アメリカンモーターズの会長やってたんですな。次回はその話でもしましょう。ご期待あれ。


そのジョージ・ロムニーさんが取り仕切っていた時代のハドソン・ホーネット1956年型。この頃にはハドソンはすでにAMC傘下に入り、後すぐブランド消滅しちゃいました。


これは1959年型か。。。影響があったのか、でも前から見ると似ても似つかない形相です。


冒頭の写真は毎夏通っていたキャリフォーニア州のデスヴァレーの入り口のデスヴァレージャンクションと言う村。自転車に乗っている強者は欧州からの旅行者が多い
Posted at 2021/07/07 17:14:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「合衆国のVW文化、その4 http://cvw.jp/b/1945280/48458481/
何シテル?   05/30 15:26
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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