今日はお休み、収穫感謝祭の祝日、遠いところに行った家族らが戻って来て親の家に集まり、焼いた七面鳥、マッシュドポテート、クランベリージェリーにパンプキン・パイを食し、ニュウヨウク・メイシーズ百貨店のパレードを見て、と言うのが伝統です。
先日、カハーラ地区、照屋さんの超級市場の駐車場で久しぶりに見たのが1990年代前半に売られていたジーオ・プリズムの中でも珍しい5扉ハッチバック版。多分加州サンフランシスコ近郊、フリーモント市にあった、GMとトヨータの合弁工場、ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング・会社、略してNUMMI (ニューミーと呼ばれます)で組み立てられた個体だと思います。
ジーオ・プリズムの5扉ハッチバックは2、3年しか売られませんでした。
1980年代、日本からの輸入車の売れ行きが飛躍的に伸び始め、それに対する反対世論が沸騰しかけていた頃。一つの解決策は現地生産だと言う事は多分、皆気づいていたんでしょうが、北米に自動車工場を新規に建てて稼働させると言うのは、物理的な面以上に非常に難しい事でして、その先頭を切ったのがホンダ技研のオハイオ工場でした。
ホンダはそのオハイオ工場、ダットサン、いや、ニッサンはテネシーのスマーナ工場でそれぞれ組み立てを始めるのですが、遅れてきたトヨータさんは何と、敵相手の将軍さんと手を握り、このフリーモントにかつて稼働していた古いGMの組み立て工場で新規事業を始めるという、前代未聞のプロジェクトが動き出したのでした。
GMが運営していた頃、このフリーモント工場は最低の効率、最高の欠席者数、最低の品質で有名で、GM一の問題児でした。酒を飲んで出勤し、誰かに密告され罰でも喰らうと、仕事に戻った際、腹いせにわざとネジを締め付けないでラインに流し、後でそれが発覚し、該当車両が再修理の為ヤードに何百台と置かれ出荷が遅れるなんて言うのが日常茶飯事で、犯罪、喧嘩、なんでもあれで、組合に守られクビにもされず、結局戦前創業の歴史に幕が降りたのが1982年。
昔のフリーモント工場
フリーモント工場、最後の出荷が1982年型オールズモビル
大体敵味方関係のGMとトヨータが何故手を握って事業を始めたのか。トヨータ側は自分達の工場を建てる前、このプロジェクトで労働組合やら文化の違いを學び、GM側はカンバン方式の在庫管理や、高効率の工場操業の秘密を手に入れる絶好の機会だと踏んだんでしょうね。
閉鎖された後のフリーモント工場の従業員から選ばれた人たちが、日本式の生産工程を習う為、ローテーションで高岡工場に行きます。敵さんの懐に送り込まれた、労働組合で長く働いてきた連中は驚きの連続だったそうです。そのナンバーワンが、生産ラインを止める、天井からぶら下がっている紐でした。GM時代にその紐を引くと言う事は全てのラインを止め何千人の労働者を休み時間に追いやり、全ての生産計画を狂わせる、所謂、絶対引いてはいけない、労働者と経営側の対立を象徴するような物だったのです。それがトヨータに来てみれば、その同じラインを止める紐を引っ張っても良いと言う事に衝撃的な文化の違いを感じたそうです。それだけではありません。改善の案があったら容易に提案できる意見箱があったり、管理職と同じ食堂でお昼ご飯を食べたりと、訓練期間が終わると参加者は日米両方涙を流し、これからの協力を約束、そうして1985年型のカローラのジョブ1(工場から最初に出てくる車両)がロールアウトしたのでした。
豊田英二氏。彼の先を見る頭脳、矢張り素晴らしかったですな。。。
誰でも生産ラインを止められる工場で作られてます、これを聞いた他の工場の労働者は誰もこの宣伝、信じなかった。。
最初の数年は赤字だったものの、1991年に初めて黒字操業となり、徐々に車種も増やします。
NUMMIで最初に生産されたのが、カローラのシェヴォレイ版、懐かしいノーヴァの名前で登場(この命名には随分評判が悪かったです)。
生産の立ち上げ遅れとGMにとっては利益が少ない小型車とのことで余り宣伝や売り方が本気になれず、このトヨータのノーヴァは販売台数は余り伸びませんでした。特にハッチバック、じゃなかった、リフトバックは珍しいです。
色々カローラを改造して北米仕様にしてある筈ですが、矢張り、デルコ製のGM共通のラジオが目に付きます。このラジオ、とても音質が良いのです。
同時期のカローラ。これは1984年型。
NUMMIが軌道に乗ると、GM各地の工場から視察する人が絶えませんでした。やれば出来るじゃん、と胸を張るNUMMIだったんですが、GM本社との企みとは裏腹に、視察に来た人々は、コレ、ウチじゃ絶対できない。オレん所の労働者がこんな変化を受け付ける訳が無いと皆、否定的で、逆にトヨータから習った技術はブラジルやら他国のGM系列工場の方が進んで取り入れたとか。
その自社製の輸入車を販売する為に、GMは独自の販売網を設立。その名も ”GEO” ジーオと発音します。ジーオの販売店では、鈴木製品、いすゞ製品とNUMMI製のカローラ、今度はプリズムと名前を変えた車種を、主にGMのデーラーの隅っこで売り出します。発音出来ない自動車は売れないと言うジンクス通り、このGEO, 何て読むの? ジー・イー・オー? ジェオ? 混乱するんですが、同時期にキャナダでは、いすゞ、サーブ、デーウーと鈴木をパスポートと言うブランドのお店で販売した時の失敗よりかはマシでしたが。。。
キャナダで輸入車を売る販売網を企んだ、GM傘下のパスポート・ブランド。
NUMMI生産のカローラは次世代に変わり、名前がプリズムに進化。でもこれがどこから来た車かわかる人は余りいなかった。ジーオって何だべ?
バブル景気の時期、日本で流行ったワインレッドのヴェロア内装もあった(らしい)
これは1991年型。
廉価版の計器盤。
結局トヨータから色々な事を學びGMの飛躍の種を蒔こうと言う目論見は限定的な成果で終わり、そうしている間に本家のGMの経営がぐらっと傾き、GMは2009年に破産宣告し、NUMMIの契約を切り合同事業から撤退。トヨータ側は、NUMMI生産開始後数年して、ケンタッキー州ジョージタウンに自前の組み立て工場を1986年にオープン。GM撤退後、翌年にはNUMMI工場閉鎖。25年の歴史に幕が下ります。
その後GMの小型経済車は韓国の系列会社、GM大字デーウーのマテイスやらを輸入していましたが、それも今年で終了。マリブーも確か来年限りで、シェヴォレイもセダーン型乗用車から完全撤退。
韓国製シェヴォレイ・スパーク、軽自動車くらいの規格、我が国の空港で一番安いレンタカアを借りるとこう言うのが出てきます。流石に長距離はデージ・ナンギ。
何故かヴィエトナム仕様は後扉の取手の位置が異なる。。。
トヨータの北米自動車製造、本当はTABC(Toyota Auto Body California) と言ってハイラックスの組み立てを加州ロングビーチで1972年に始めたのが1番最初ですが、最初の合衆国製造自社製の乗用車は、NUMMIのカローラ・ノーヴァを別とすれば、ケンタッキー州ジョージタウン工場生産開始時の、1988年キャムリーでした。
ホンダはオハイオ州メリーズヴィルのアコード生産開始が1982年ですが、実際は2輪車北米製造開始が、1979年です。
ホンダが北米で最初に生産したのは、CR250Rエルシノー荒野バイク。
ダットサン、じゃなくて日産は720型ピックアップトラックをテネシー州スマーナで製造開始が1983年。
トヨータとGMと言えば日本で売ったシェヴォレイ・キャヴァリヤってーのもありましたね。まあこれは政治的な譲歩を象徴するだけが主目的だったかもしれませんが。
あのプロジェクトでどちら側が何を學んだか。。。(何処が如何に改造されたか、興味津々です)
冒頭の画像は1986年配給の喜劇影視、題名 ”Gung Ho” 主演マイケル・キートン(好きじゃ無い俳優)監督ロン・ハワード(好きな監督) 日本の自動車会社が合衆国に自動車工場を建設しビジネスを始める際、労働者側と経営陣の間に起こる数々の事件をドタバタ調で演じる筋書き。アジア系のバッシング、侮辱の連続で流石にぼくも2度と見たくない銀幕の一つです。到底今じゃこんなのは作成できない。。撮影現場はフィアットのアージェンテイーナ、コードバ工場。日本車に見せかける為エンブレムやらを改造してあるものの、見ての通り、フィアット・レガータばかり。このくだらない作品でも、NUMMIを始める際、やってはいけない事の見本として、関係者はこの作品を鑑賞したとか。
ちなみに ”Gung Ho” の意味は、第二次世界大戦中、中国にあった団体、工業合作社から来ていて、略称、工合 を西洋人がガン・ホーと呼んだ事が始まりです。この工業合作社が皆が力を合わせて戦争を勝ち抜く企業だったのを例えに使い、これから我々も ガンホーだっ!と海兵隊の親分が部下にハッパをかける際言い始めたのが由来だそうで、我が国の年寄りなら知っているかもしれませんが、今では死後ですね。因みにウチの人は香港生まれなので聞いてみましたが、何それ?と全く知りませんでした。。。