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2023年11月19日 イイね!

ワールドカーの顛末

ワールドカーの顛末










フォードが誇る、大ヒットを飛ばしたリンカン・タウンカーが、日本の技術の上に成り立っていたと言うお話です。

世界の自動車製造会社各社、数十年おきにワールドカー、またはグローバルカー構想、要するに共通車台を開発し、世界中で使い回すと言う、聞こえはいいのですが、結局経費節約の裏技術、妥協の産物に化とし、余り良い余生を迎えた話は聞きませんでした。

その世界車構想、興味深いのが、世界中の知恵を絞って開発しました!と、前面に宣伝で打ち出す姿勢を取った車種と取らなかった車種があった事でしょうか。

例えばGMの有名なTカー。いすゞと独国のオペルが中心となって開発されたサブコムパクト車。鈍臭い(ごめんなさい)ベレットに変わり、クリーンな欧州風のラインで当時の日本では受け入れられるか、それ程画期的なデザインだったと思います。それが、世界中で共通車台で販売されています、と宣伝したのは日本くらいだけで、我が国のシェヴェット、オペル、英国のヴォクゾールやブラジルでも各国共同開発!等の宣伝は殆ど見受けられませんでした。敵国の技術を借りて作りました、と言うのが嫌だったのか。当時日本の自動車雑誌、カー・グラフィックたTカーの特集で日本からジェミナイをわざわざ北米やら欧州に持っていき、各国の兄弟車と比較した記事がありましたが、あれは世界を視野に入れた、画期的な素晴らしい企画でした。今じゃあの様な高い質の雑誌の記事は見かけません。

45歳の若さで他界した英国人のジェームス・ハント。心臓発作でした。


世界車と大々的に宣伝したのはぼくの知る限りいすゞだけでした。


アクタング、ベイビー!


我が国ではシェヴォレイのシェヴェットの他に、ビュイックのサブコムパクトとして、オペル・バイ・いすゞでビュイックの廉価版と位置付けて結構しぶとく売り続けました。最初の数年はいすゞの名称を入れていましたが、後に単にビュイック・オペルの名称に変更。


独國側は極東から来た自動車に誇り高き自分の社名使われるのをすごく嫌ったと察します。因みにスバルと同様、いすゞと言う名称は英語圏で難しい発音の名称です。


藤沢から全米へ嫁いで行ったビュイック。


クライスラーでも1970年代、欧州クライスラーと米国クライスラーでサブコムパクトの、VWラビット・カローラクラスに対抗する車種を共同開発、とは言われたんですが、外観は極めて似ているもの、機構的には別物の小型車。欧州版のタルボット・オリゾンと、北米版のダッジ・オムニ別名プリムス・ホライゾンを出しましたが、共用している部品は殆どなく。結局ワールドカーの名称は付かず。

これが欧州版の ”オリゾン”
そうです、英語のホライゾンをフランス読みしただけです


似たようで別車のダッジ・オムニ。VWのEA827, 1,700ccエンジンを積んでいました。このLボデーと言われる小型車は後にエヤバッグや高性能版も出して、1978年から1990年まで事実上同じ車体で生産し続けられました。1981年頃、キャナダはオンタリオ州トロントで借りた覚えがあるのですが、小型車のくせして羽のように軽い操舵、ブカブカに柔らかい下回り、まるでこれじゃダッジ・アスペンの中古車を縮ませたようだなと感じたのを今でも覚えています。。。


高性能版のGLH。GLHとは正式には公表されてません(公表できなかった)のですが、Goes Like Hell、悪魔の様に突っ走る、の意味です。この名称は保守的宗教の信者(と言うことは全米の多数)から大いに文句が来たそうです。彼らは ”Hell” 地獄と言う言葉は禁句に近い言葉なのです。GLHは当時クライスラー会長のリー・アイアコッカの友人、キャロル・シェルビーに手がけて貰い、最終盤は過給機を装備してとんでもないホットロッドになりました。明らかにVWラビットのGTIを仇にしていましたね。。。



1981年にフォードから鳴り物入りで颯爽と登場した、これまたサブコムパクトのフォード・エスコート。旧態化したフォード・ピントに変わる、世界の技術の結晶のワールドカーと、高らかに、各国の国旗を描いたベールを脱いで颯爽と登場。でも蓋を開けてみれば、各国の国旗に描かれてる国々とは余り関係が無く、ワールドカーと言ってもデトロイトと英国フォードが開発に関与した(あと独国フォード?)、懸架装置は全くの別物、強いていえばエンジンが共通だったくらいでして。当時資本関係を始めたマズダが開発に加わっていると思ったのですが、新型のGLC(323)は似たようで別物。フォードもエスコート登場次の年から広告にワールドカーの文字が消えて皆、忘れた事に。まあこのエスコートは後にマズダ製のジーゼルエンジンを載せた事がいくらか関係あったみたいで。でも次期エスコートはほぼマズダ開発になったので、日米共同開発ワールドカーになった上、フォード側もそこそこ、マズダの技術を資料に記していました。

初年度は盛んにワールドカーと謳っていた北米版、フォード・エスコート。


初年版にはわざわざ地球を模ったエンブレムまで付けていたのですが、次の年からやめました。


アヒルのお尻みたいにハッチバックの端が突き出ているのは似ていますが、エンジンを除いて共通点のほぼ無かった、欧州版のエスコート。ワールドカーとは全く宣伝してませんでした。


同時期に登場したマズダGLC/323も関連性があるように見えましたが、全く関わりを持たず。


クライスラーはGLHで顰蹙を買いますが、マズダの方はGLC。Great Little Car。素晴らしい小さな車と名づけます。ステーションワゴン版は新型が前輪駆動に移行した後も継続販売されました。コヤツはアフリカでしたっけ?三菱のエンジンを積んだり、インドネシヤでは1990年代後半まで売られていましたね。十分元が取れた。。




フォードの次の世界協力事業がリンカンのFN36。そうです、1990年にモデルチェンジしたタウンカーです。あの頃のリンカンは車名と車格がコロコロ変わり、一番でっかいリンカン・コンチネンタルのグレード名のタウンカーがそのまま、車種になっちゃったんですね。そのコンチネンタルはダウンサイズされフォックス車台の中型になっちゃったんですからややこしい。

これはパンサー車台にダンサイズされた頃のタウンカー。この後、製造各社の予想とは裏腹に原油価格が下がり出し、このフルサイズのリンカンはバカすか売れ出すのです。


次世代の大型リンカンを考えていたグループは、流線型に衣替えした量販中型車、トーラスの大ヒットを目にし、保守派のリンカンも大変身したいと上部に折衝しますが反対に合います。やっとの事で反対を押し切ったものの、今度は予算と時間に攻められ困ります。それを前後して英国に旅行していたある管理部の人が、IADと言う自動車開発の会社を発見します。IADは自動車製業会社から受託され、試作車の開発・製造、技術開発、少量生産を得意とする技術集団で、予算と時間の制約をかけられていたFN36の開発を受け持つ事になります。同時にFN36の外板プレスと車体製造を、ちょうどデトロイトに進出してきた群馬県太田市の金型プレスの老舗、荻原鉄工に委ねます。当時自動車の外板は外注される事が多く、特にフォード系は昔からの鉄工屋さん、バッド社に依頼していたのですが、品質やら納期に問題が多く、他社に変える事を思案していたところ、丁度荻原鉄工がデトロイトに進出してきたのでした。



その後業績悪化したバッド社は倒産、事業終了。確か樹脂板部門はSMC, シート・モールデッド・コンパウンドと呼ばれる樹脂で外装を作る、ポンテイアック・フィエーロの製造を担当していましたが、今はどうなっているか。。。バッド社は米国で初めてのモノコック車体を作ったので名を知られていましたが、主に鉄道車両の製造の方が有名でした。


IADの英国、荻原さんの群馬とホットラインを設置したリンカン技術部は突貫工事でFN36の開発を進め、1990年に晴れてジョブ・ワンを世に出します。ワールドカーとは言われませんでしたが、太平洋と大西洋の技術協力で日の目を見たこのリンカン。当時としては驚異的な空気抵抗値0.36を記録。斬新な形の中にも伝統的な形状が趣味よく散らばれていて新世代の大型豪華車として大ヒット。屋根に架装が無い、スリック・ルーフ、要するにパデッドルーフやらヴァイナル・ルーフが装備されない鉄板だけの屋根、新世代の格好でした。

屋根の後端が下がっているのがいいです。小さなオペラウィンドウも忘れてません。
 白壁タイヤとこのプレーンなハブキャップも似合います。

新しい企画と伝統的な味をどう残すかはいつの時代も微妙で、大ヒットのトーラスを真似て、1992年に流線型になったクラウン・ヴィクトリア。初年はこののっぺら顔が不評で1993年には早々と改良なされ、きんきらきんのラジエータ
グリルが付加されました。この流線型になった1992年からステーションワゴンが無くなります。


でもどうしてもと言う顧客層にはデーラーで随分パデッドルーフやらキャリッジルーフを架装していた模様。これは後扉の縦サッシまで覆ったやつ。意外とサマになってますね。



1993年に ”改良” された クラウン・ヴィック。ラジエータ・グリルの追加。
 そうそう、この車輪、当時からタウンカーも含め、このメッシュ型はBBSです。と言う事はこれも富山製?ワールドカーですね、足元から。



FN36に乗った方はご存知と思いますが、後席の扉が縦長で非常に乗降し易いんです。流石、正統派のセダーン、リヴリーにも文句なく使えます。


これは後期型の後席。扉の取手やら細部が丸まっているのが分かります。


荻原さんはその後も忙しく、今ではクライスラーやらフォード社各車種の外板、内板の製造されてます。


FN36のヒミツ。トランクリッドの後端、一番下の部分ですね、水平に伸びるメッキの飾りの直ぐ上です。この下端が尾灯を囲むメッキの飾りと平面になっておらず、下端が若干内側に反っている点。製造前に発覚したそうなんですが、この部分の修正に莫大な時間と経費がかかるそうで、結局この形状に落ち着いたとか。車体設計は難しいもんですなあ。。。


バッド社はコーチビルダーでしたが、GMもフィッシャー車体部門を傘下に抱えていて、昔のGM車は至る所に、その証が記されていましたね。昔の馬車製造の名残。。




それがキャデラックになると車体はフィッシャー、内装はフリートウッドとね。いいなあ、あの時代。フリートウッドはフィッシャー傘下の部門です。フリートウッドは元々はフリートウッド金属車体と言う、ペンシルヴェニア州にあったコーチビルダ。それをGMのフィッシャーが買収したもの。知らなかったんですが、ペンシルヴァニア州フリートウッドと言う街はぼくが小さい頃よく休暇で行ってたペンシルヴェニア州東部を流れるサスコハナ川からそう遠くない場所にあり、行かなかったのが悔やまれます。アメリカ合衆国建国当時のオリジナルの州の一つ、ペンシルヴェニアなんかに行くと、当時の古い建物がまだ結構残ってたりします。







FN36は1995年に大改良され、さらに魅力的に。計器盤のスイッチでパワーステアリングの力を任意に変化できる装置が面白かったですね。思い出せば昔、イタリヤで借りたフィアットのウーノだったかしら、にも同じようなボタンが付いていました。確かそれにはシテイーとハイウェイと書かれていたっけ。。。


日本では西洋の有名人を宣伝に起用するのが有名ですが。。。


プロフェッショナル・ゴルファーのジャック・ニクラウス氏もFN36に彼の特別仕様を出していました。ロイヤルテイー幾らだったのかしら。。。




あっ、そうそう。ポンテイアックにも。。。


1976年でも。。。。


そのジャック・ニクラウス氏の近況。まだお元気そう。


リンカン・コンチネンタル。昔の広告。


同じ車種、翌年の広告。あれ、この人どっかで見たような。。。


そうです、トム・セリックさん。ハワイを舞台にした探偵番組、マグナムP.I.で一躍有名になった俳優さん。この人のおかげでフェラーリが我が国で、どこの主婦にでも知られる銘柄になりました。


そうそう、彼はダッジでも働いてましたね。駆け出しの俳優業、ご苦労様でした。


背の高いセリックさんが駆るフェラーリの座席には仕掛けがあって普通より数段低く座面を改造していたそうです。それじゃ無いと開いた屋根から頭が突き出て滑稽に見えるからだったそうです。。。エピソードの一話で彼がホンダのN600に乗る場面がありましたけど、彼、どうやって運転台に座ったのかしら。。。



ハワイで大活躍をしたセリック氏、なんとオアフ島空域の位置報告点に彼の名がつけられているのです。(綴りは多少異なりますが。。)


でも矢張りタウンカーといえば、最終型のFN145ですね、それも車軸間が長いやつです。昔、加州で空港間の移動に会社が使っていたタクシーがそれそのものでした。無口なインド人のおっさんが絶妙な手捌きで横揺れのGを全く感じさせず夜のフリーウェーを滑るように転がす黒塗りのタウンカー。良い思い出です。







全く関係のない画像。東京都昭島市。右に見えるのは旧プリンス自動車村山工場跡。上が横田基地。左下が立川基地。


今日のおまけ画像。今日も来る巨人機。搭乗率は聞かないでね。

Posted at 2023/11/20 16:59:07 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2023年11月12日 イイね!

80年代リンカンのパーソナル・クープ

80年代リンカンのパーソナル・クープ













あっという間に11月です。日の登りも随分遅くなり、出勤時に前照灯を点ける様になりました。


先日、その出勤途中に目撃したのは、これも今となっては珍しい、リンカン・コンチネンタル マークVII おまけに若旦那仕様のLSC。






名称がちょっと複雑なのは、この1LNと呼ばれたマークVII2扉車、初期型は ”コンチネンタル” の名前が入っていて、事実、この年代にはフレーム付きのパンサー車台からダウンサイズをして、マークVIIと同じ、マスタングやらフェアモント系の独立したフレームが付かないフォックス車台にダウンサイズされたリンカンの中型車をただ単に ”コンチネンタル” と呼ばれていたので、混同します。後期型はただ単にリンカン・マークVIIと呼ばれます。

これが独立フレームの無い、マスタングやらフェアモントにも使われたフォックス車台にダウンサイズされた、コンチネンタル。後ろ姿が例の ”フーパー調” ですが、似通った後ろ姿を持つキャデラック・セヴィルと比べるとかなり小型です。




このマークVIIが出た当時、業界では非常に話題になり、何が違っていたかと申しますと、この自動車が全米初めて、規格の前照灯を捨てて、ポリカーボネート製の商品名、レクサン(GEジェネラル・エレックトリックが付けた名称)を使った、所謂 ”異形前照灯” 、我々はこの頃はコンポージット・ヘッドライトとも呼ばれていました、を初採用した事でした。それまで我が国では規格シールドビームしか許されていなかったのを製造各社が政府に訴えかけ、漸く漕ぎつけた法制改定で認可されたのです。その理由は、”燃費節約” 空気抵抗の向上で燃料消費の節約になるから、と言うものでした。70年代後半・80年代前半の燃料危機の時代でしたからね。同じく5マイルバンパーの緩和も同時期で、重量軽減で燃料消費の節約になるから、と言う理由でした。でもこの改正法は認可されないと皆思っていたらしく、マークVIIの試作車は以前通り、規格の四燈角形前照灯仕様も用意されていたそうで、部品納入業車も製造側も認可された暁には胸を撫で下ろした事でせう。(同じ車台を使ったフォード・サンダーバードは結局、規格四燈前照灯を使い、異形型になるのは、中途改良を見た1987年です)

初めて全米で認可された異形前照灯のリンカン・マークVII。





1980年代、燃料危機に応えて ”ダウンサイズ” (今となっては死語?)を行っていた各社、対応の仕方もそれぞれで、1977年に先駆を切って大型車BとCボデーをダンサイズし歴史的な成功を納めたGMをよそ目に、フォードは遅れた感じだっただけでなく、品質低下と労働環境にも悩まされたいた時でした。角ばって堂々とした押し出しの良い昔からのデザインにするか、空気抵抗の低い、未来の流線型にするか、結局フォードは後者を選び、このマークVII、サンダーバード、そして爆発的な人気になるトーラスと続く、80年代の大ヒット車を次々に市場に出しました。その正反対はGMで、第二次フルサイズB・Cボデーを縮小してみたら、その時すでに燃料危機は峠を越え原油価格は下がり、縮小した車体は寸詰まりの惨めな格好で、慌てて場当たり的な改良はするものの、まともな大型車が戻ってくるのには90年代越しても暫くしてからの事になります。

あの巨大なるエルドラードがコレになっちまったんですからね。顰蹙買うのも無理ない訳です。


それに比べたら、マークVIIの伸びやかな均等の取れたスタイル。キャデラックのセールスマンはさぞかし頭を痛めたんでしょうね。


GMも急場凌ぎにエルドラードのお尻をいじってみます。これは初期型。


改良型は尾灯を立体的に後方へ伸ばし、バンパの両端もツノ状に伸ばし、全体的に立体的にして事実上の全長を伸ばしましたが、車体中央部と前部を変えていないので、
全体的な印象は結局変わりませんでした。


でも同じ車台のビュイック・リヴィエーラの改良は気合いが入っていて。。。
惨めな初期型。格が二つ下のNボデーのサマーセットとそっくり。


1989年の改良で、車体中央部はそのままで、頭とお尻を伸ばしてガラッと印象が変わりました。さすがに効果はテキメンで、この11インチのストレッチのお陰で販売台数は8,625台から2倍半以上の21,189台に増加。


こう言った、格好の良い2扉車、それもパーソナル・クープと呼ばれる車種は結構昔から需要があり、1970年代のモンテ・カーロとかカトラスになると当たりの年だと何十万代がコンスタントに売れた時代です。パーソナル・クープが少し小型・廉価になると、昔はセクレタリー・カー(若い女性秘書などが乗る、軽便で、ちょっとお洒落な車種)などと呼ばれていましたが、そんな言葉、今じゃ通じないでしょうね。

サンダーバードはその最もたるパーソナル・クープだったんですが、1980年に一度、フォックス車台に縮小して大失敗します。開発費の乏しい時期でしたから、廉価車種のフェアモント2扉の頭を伸ばして屋根に飾りを載せた程度で、写真を見るとそうでもないのですが、実車を見ると頭でっかち・寸詰まり・幅狭の三拍子が揃っていて、のちにGMが大失敗するエルドラードなんかにも通じるものがありました。変な話で、この3年間しか売られなかったダウンサイズされたTバードは結構輸出に回されて、何せ以前より二回りサイズが小さく取り回しが容易になったので、欧州でもたまにチラッと見た事がありました。

失敗したサンダーバード。実車はかなり悲しい外観です。


その前が、この堂々とした風格でしたからね。落胆の差も激しかったわけです。これはダイアモンド・ジュブリー特別仕様。後の側窓が潰されて(パデッドルーフの延長素材で覆われているだけ、窓は中に残してある)オペラウインドウだけになっています。後方視界は悪かったでしょうけど中々ステキ。


この1978年のフォード中型車が、HVAC操作(ヒーター・ベンチレーションとエアコンデイショニング)が運転席左側にあった最後の乗用車だと思います。


SUV系では1985年のジープ・グランドワゴニヤがHVAC左側操作が最後でしたね。


フェアモント・フューチュラに極似(こちらの方が前後のバランスが取れていると思ふ)。フォードの2扉車はLTDもグラナーダも、何故か皆、窓枠の付いた扉形状で、マスタングもそうでした(但しTバールーフ車はサッシュレス)




このマークVIIのデザインを担当したのは、ジェフ・テイーグ氏(Jeff Teague)。



この苗字、どっかで聞いたことあるかって?そうです、1960年代から1980年代まで、AMCのデザイン部門を仕切った、あの、デイック・テイーグ氏の息子さんなのです。(AMCペーサー、イーグル四輪駆動車、グレムリン、それから
ジープXJチェロキーなどなど)。



ジェフさんがデザイン學校に在校していた時のクラスメイトはマーク・ジョーダン、そうです、あのGMの大ボス、チャック・ジョーダンの息子さんです。色々なところで繋がっていますね。ジェフさんはお父さんがAMCの大ボスだったにも関わらず、フォードに就職し、ジャック・テルナックの下で、このリンカン・マークVIIとフォード・サンダーバードを産み出しました。不幸なことにジェフ・テイーグ氏は59歳の若さでこの世を去ります。

そのジェフ・テイーグ氏が提案した未来車がリンカン・コンセプトC90とC100。これが元にマークVIIに流れを汲みます。

未来車のC90


これはC100


同じくジェフ・テイーグ氏が手がけたサンダーバード。これでサンダーバードは息を吹き返し、結構な販売台数になります。




パーソナル・クープもリンカンの領域になりますと、対象顧客はモンテ・カーロとかカトラスとは断然違い、裕福層が頭に浮かびますが、2扉ですから家族はもう子供達は巣立っている、50歳代以上の方々、または30歳代で家族のいない独身貴族みたいな方々が購買対象と察します。初期にはリンカンお得意の有名デザイナーに託す、デザイナーシリーズとしてビル・ブラスとか、
はたまた暗殺されたジャンニ・ヴァーサーチ仕様も用意されてました。

Versaci仕様。


ビル・ブラス仕様。これが実車は意外とキンキラキンではなく、落ち着いて、結構イケてるんです。ぼくらの年代だったらそんなに ”ハリウッド” してなく恥ずかしくないかもと。。。


このマークVII、一応登場初期は50歳代以上の方々の為の、豪華な旦那仕様、それに当時はやったデザイナーシリーズも用意されたのですが、蓋を開けてみると若者仕様だったLSC型、(Luxury Sports Coupe) が大当たりし、年代を重ねるにつれそのLSCもリンカン社は硬派、黒タイヤ、ハードボイルドなスポーテイー仕様に熱を入れます。


フォードが始めたデザイナー車シリーズ。こう言うの、戻ってこないかなああ。。





今回目撃したのもそのLSC型。マークVIIは全車、空気バネの懸架装置で、当然LSC型はそれなりにスポーテイー仕様に味付けされています。

マークVIIが出てからの2年間、まだ燃費の心配があったのでしょうか、それとも他社が揃えていた、特にメルセデスが、ジーゼルエンジンを載せたかったのですが、開発時間・投資費用も無く、結局独国のBMWと契約を結び、当時出たばっかりの、オーストリア・シュタイヤで作られるM21と呼ばれる2400ccのターボ・ジーゼルをこのマークVIIと同じフォックス車台のコンチネンタルに積みます。恐ろしく非力で煙を吐くこの6気筒エンジン、本国では524tdと324tdに積みます。最初の契約では年間五千基だったかしら、の計画だったと記憶していますが、原油価格の急下落と劣性能故、売れたのは1,500台程度、それもコンチネンタル・セダーンとマークVII合わせて)と言われています。見たことは有りませんでしたが、この優雅な大型パーソナル・クープがダンプトラックみたいなエンジン音発して坂を登ってきたりしたら非現実的な光景となってたでしょう。

マークVIIに乗ったM21ジーゼルエンジン。


ヴァルヴカヴァーのBMWの文字がちゃんとFordになってますね。


これはBMW524tdに載ったM21。


面白い事にこの524tdはBMWの正規輸入車として北米でもちゃんと売られてました。




そのM21ジーゼルエンジン、この低床式モーターホーム、ヴィクセンにも使われていました。。。この自重とエンジン出力。。。


マークVIIの派生ではなかった、ですが、部品を共用していたモーターホーム、その名もエルドラード・スターファイヤ。名称が問題にならなかったのかしら。いや、デザイン自体が問題か。。。


フォードは換気窓に凝っていて、流線型になった後も、このマークVIIとサンダーバードには注文装備で換気窓が選べました。でもリンカンは最初の2年だけ、サンダーバードは1987年の大改良で廃止。おまけにこの換気窓は手動です。一体完全空調の高級車Mk VIIに一体何人が手動操作の換気窓なんか選んだんでしょうかね?タバコ吸う人だったのかも。。。サンダーバードはまだ冷房が注文装備の時代でしたから、廉価版なら選ぶのもわからない訳でもないですが。。。

サンダーバードの換気窓仕様。


手動窓を選んだと言う事は、冷房もなかったのか。。。サンダーバード。


マークVIIに2年間だけ選べた換気窓。




フォード社はその後、流線型に加えて安全性を全面に出す政策で90年代に突入したのでした。。。
Posted at 2023/11/13 06:11:39 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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「合衆国のVW文化、その4 http://cvw.jp/b/1945280/48458481/
何シテル?   05/30 15:26
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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