春節も終わり冬も後半になる今日この頃、北緯18°のハワイ州では早朝だけ、水平線のすぐ上に南十字星が見えます。我が家からは南方の空はホノルル市街の街明かりで南十字星を見た試しはないのですが、流石、太平洋の真っ只中の孤島、光害の少ない場所、特に標高の高くなるマウイ島の山に登ると信じられ無い様な星空の光景を見る事ができます。
これはオアフ島北側、カエナ岬付近での夜空。古いiPhone13でもこれ位の星空が見えます。ISO 6400, 絞りF1.5, 10秒露出。
現在はダニエル・井上・國際空港と呼ばれるホノルル空港の、主に大型機出発に使われる海側の長い滑走路は、以前宇宙に行って帰ってくる宇宙船、スペースシャトルの緊急時の臨時着陸滑走路として建設したものです。
離陸後、万が一エンジンが故障などで停止し、絶体絶命で旋回出来なくなりワイキキーの高層建築に近寄るのを防ぐ為、この滑走路は離陸後、直ちに海に向かって右側に旋回する規定になっています。
スペースシャトルよりずっと前の話、まだ人間が月に行って帰る前の話で、ソヴィエトの人工衛星、スパットニクに宇宙戦争の出花を取られた我が国は、マーキュリー計画と言う有人の人工衛星を上げる計画を立てました。1950年代から1960年代初期、ケネデイー大統領の時期です。
このマーキュリー計画に選ばれた宇宙飛行士達7人を、人呼んで、”マーキュリー・セヴン” と呼ばれ、国中の熱狂的な英雄になったのです。
そのマーキュリー計画の有人人工衛星の一つに1人で乗って、数々の問題を制覇しながら奇跡的に無事帰還した飛行士の1人に、ジョン・グレンと言う空軍の戦闘機乗り、試験飛行操縦士の方がおりました。
ソヴィエトを負かせて宇宙戦争に勝つと言う任務を任せられた宇宙飛行士。この計画に便乗し数々の商売が宇宙を連想させる広告やら商品が大ヒットした時世、その一つが元競走自動車の運転手をしていた、ジム・ラスマン(Jim Rathmann)と言う人で、宇宙計画が始まった頃、GMに働きかけ、1962年から毎年、新車のコーヴェットを彼の販売店から年間1ドルのリース契約で宇宙飛行士に提供する契約を交わしたのです。それはマーキュリー計画から始まり、月へ行って帰ってきたアポロ計画に加わった宇宙飛行士達までに続きました。
されど、最初の人工衛星、マーキュリー・セヴンの7人のカウボーイに7台のコーヴェット(アストロ・ヴェットと呼ばれていた)が納車されたと思ひきや、それが6台だったのです。と言うのも7人全員がこのプログラムを承諾したわけではなく、前記のジョン・グレンさんはその招待を辞退したのでした。
その代わり、彼の使っていた自動車が何と、NSUプリンツと言う、今で言う軽自動車クラスの西独から来た、ヘンチクリンな経済車だったのです。
彼曰く、これから我が家は子供も育つし、いくら宇宙飛行士と言えどもお金を貯めなければなら無いので、小型車で充分役に立つと言われたそうです。中々質実堅実な有名人なお方ででした。因みにジョン・グレン氏は宇宙飛行士の後は政治家になり、長い間上院議員として勤め上げた後、77歳でもう一回、スペースシャトルで宇宙に出た後、2016年に他界されました。
そのNSUプリンツ。ハイ、例の単車で有名な西独はネッカーサルムの、ロータリー・ヴァンケルエンジンで有名だった会社です。我が国では当時NSUを始め、西独の車の殆どは、オウストリア生まれの移民、マクシミリアン ”マックス” ホフマン氏の経営する自動車輸入・販売会社で扱われていました。彼の持ってくる自動車の中には、BMWのメッサーシュミット、DKWやらかなりのゲテモノが含まれていて、NSUもその一部でした。
1967年当時のNSU販売店のリスト。プリンツの様な2気筒の軽自動車で、モハーヴィ砂漠を横断したり、極寒のノースダコタ州でお使いに使われたり。今となっては想像し難いところですが、プリンツも後釜の1000やら1200もごく稀に中古車売りに出ているので、世の中、わからんものです。
車体後部にあるプリンツのエンジンは、NSUのモーターサイクルのを持ってきていて、OHC, 頭上にキャムシャフトがある現代的な機関なのですが、その頭上のキャムシャフトを駆動するのにチェインやベルトではなく、非対称の円盤を棒で動かすと言う、変則的な仕組みを持っていました。勿論冷却は空冷。
プリンツのハッテン版は基本的に同じエンジンを4気筒化、キャムシャフトの駆動をチェインに変えて、1970年代前半まで北米に持ってきてました。
NSU、プリンツ系の最終型の1200。
その北米仕様。
法規対応、前照灯の処理が何とも痛ましい。。
最後まで空冷リヤエンジンで通したプリンツ、前部には当然トランクです。今のフォードF150EV仕様とかテスラもそうですね。
そのNSUの本拠地、ネッカーサルムから逃げるようにオートバーンA6を西に走る図。自動車は借りてきた1,200ccの小型車、VWツーラン。過給機付いていても流石に高速で苦しい。。平和な巡航速度は時速160キロくらいまで。
NSU/ネッカーサルムと言えば皆は直ぐAudiを頭に浮かべるかもしれませんが、現在あのAudiの本拠地はもっと東のインゴルシュタットです。今は全部VW帝国の傘下になっちゃいましたが、ほんの昔まで、西独の自動車会社はとても複雑な関係でした。Audiは戦前までは、お馴染み四つ輪っかで有名なオートユニオン(はい、現在のAudiの輪っかはAudiの社標ではなく、元の親会社オートユニオンのマークなのです)そもそもオートユニオンはAudi, ワンダラー、ホーヒとDKWが組み合わさった四つの輪なのですが、戦後は実質的に小型乗用車と貨物車を生産するDKWしかなく、Audiも含む、他のブランドは休業中でした。
戦後しばらくして、小型車で躍進し出したDKWを見たダイムラー・ベンツはDKWを買収して、小型車から大型車までのフル・ラインナップを目論みようと、親会社のオートユニオンを手の中に収めます。ダイムラー・ベンツは古臭くなった2ストロークばかりの煙を吐くオートユニオンのDKW製品を改良しようと、かなり資金を注ぎ込んだのですが、矢張りお堅いダイムラー・ベンツとヘンチクリンな集団のDKWと馬が合わなかった、と言うのがぼくの想像ですが、1960年代中盤になると、ダイムラー・ベンツはオートユニオンを段階的にVWに売り飛ばします。VWは丁度その頃、北米で空前のヒットとなりつつKafer・ビートルの増産に、オートユニオンが持っていたインゴルシュタットの工場を欲しがっていたそうです。ただし、ダイムラー・ベンツは手を引く前に、時代錯誤のDKW2ストロークエンジンの代わりに、4ストローク4気筒の最新エンジン、M118を開発してDKWのF102セダーン車に搭載します。これは非常に圧縮比が高く、混合気が渦を巻いて燃焼する非常に効率の高いエンジンで、これを搭載した車種に戦後初めて、”Audi” のサブネームを与えます。
因みにダイムラー・ベンツがオートユニオンをVWに売却した際、DKWの商用車部門だけは手放さず、後にメルセデスのスプリンター・ヴァンと、スペインのヴィトリオ工場で作られるVクラスの商用車に現在は受け継がれています。
ねっ、あのメルセデス・ベンツが何故前輪駆動のヘンチクリンな商用車を売っていたか。これはDKWの直系だったからなんすよ、ダンナ。MB100。
四つの輪っかはAudiを指すのではなく、親会社のオート・ユニオンの事です。これは1000Sクーペー。ちゃんと柱のないハードトップが素敵ですね。これもマックス・ホフマンの仕業で我が国でも一応売られてました。
そのずんぐりむっくりの旧型に近代的な車体を載せたのが、DKWの名称を最後に付けた、F102です。でもエンジンは相変わらず3気筒・2ストロークのスモークマシーン。ラジエータ・グリルの四つの輪っかはオート・ユニオンのマーク。
そこにダイムラー・ベンツの技術部が関与して、前部を伸ばして、M118と名付けられた、新型高性能4気筒4ストローク・エンジンを載せたのが、F103。この車からDKWの名称が消え、初めてAudiの名が付きました。されどこれが出た頃にはオート・ユニオンは既にダイムラー・ベンツから売られ、VWの傘下になってます。そしてこのF103は馬力によってAudi60、Audi80、最強版のAudi Super90として売られます。
これはDKW時代のF102、2ストロークのエンジン。
それに載せたF103、Audi90のエンジンベイ。ダイムラー・ベンツ設計の高性能4気筒4ストロークエンジン。車体前部を伸ばしても前後長が足りず、ラジエータを左にオフセットして斜めに設置させていますが、この配置はこの後、40年近く続きます。
Audi Super90、F103、向かって右が進行方向。4気筒4ストローク化でいかにエンジンが前に突き出ているのがわかります。あと、この頃としては画期的な事にインボード・デイスクブレーキを装備しています。
晴れて ”Audi” になったSuper90。これは1968年型。
興味深い事に、英国ではこのAudiを販売するのはメルセデス・ベンツのデイーラーでした。ベンツとは手を切っていると言うのに、メルセデスのエンジンだ、と威張っている広告が不思議です。
Super90にはメルセデス開発のエンジン、ポーシャのシンクロメッシュとVWのサスペンションが付いている、と。まあ間違ってはいないんですけどね。その後Audiは長い間、米国でもロールスロイスと同じ広さ、フェラーリと同じ操舵装置(ラック&ピニオン)、メルセデスと同等の豪華さ(何故かエンジンの件は無言)を備えていますと宣伝していました。
ハーフトンのペイロード、メルセデスのエンジン。Audi Super90。
Audiは1970年から米国に進出してきました。でもアウデイって何だべ?と知名度がゼロの会社ですから、立ち上げもそう簡単ではありません。なのでAudiの親会社となったVWは、当時、開発などで協力関係にあり、既に北米に販売網を持っていたポーシャに輸入販売を委託します。廉価車を専門に扱う当時の北米ヴォルクスワーゲンと同じ展示店に置きたくなかたんでしょうね。でもまあ、その頃、VWとポーシャは快軽スポーツ車、914/916の開発問題で泥沼に入ろうとしていた前夜ですが。1970年からの宣伝は、PORSCH+AUDI と記される様になりました。これは1984年頃まで続いたと思います。その後は独自の輸入業者としてAudi USAに移りました。
米国版Audi Super90は例の サイドマーカーライト、”ギョロ目” 仕様で、2扉・4扉セダーンとステーションワゴンがありました。基本的にはまだDKWですね。
言い忘れましたが、ダイムラー・ベンツがDKW F102からAudi F103に大改造した際、前部の懸架装置は変更せず、捻り棒のトーションバーのままでした。
1970年にアウデイが米国に来た時、車種はそのDKWから来たSuper90と、それより大型の100LSでした。これはごく初期の広告。Porsche Audiとは書かれていますが、Audiの事をVolkswagenの系列会社とも書かれています。
多分Porsche+Audiで恩恵を受けたのは後者だけだったと思うのですが。この頃の911、排気ガス対策にサーマルリアクターが付いていて大変だった。。。
これがPorsche+Audi最後の広告。
翌年からPorscheの文字が消えました。ポーシャがヴォルクワーゲン帝国の傘下に入るのはずっと後の事、と言うか、当時は誰も想像していなかったかもしれません。かといってVWと同族経営のポーシャは常に関係が深かったので不思議だと思っていました。蛇足ながら、Porscheの名が消えてからは、資料問い合わせの無料電話番号も変更されています。
話は戻って北米に進出して来たアウデイ。既に旧態化していたDKW譲りのSuper90は1970年と1971年で終了し、小型アウデイは1972年は何も揃えず、翌年、1973年にAudi Foxとして新しいVWパサートとの姉妹車として売り出されます。
その大型Audi100ですね、これもエンジンはM118が改良されたもので、OHVとクロスフロー型シリンダーヘッドを持ち、1975年からはKジェトロニックの燃料噴射装置が付き、DKW譲りのインボード・デイスクブレーキを装備されていました。
余談ですが、このDKWじゃなかった、Audi Super90に載ったメルセデス設計のM118エンジンはその後、改造に改造を重ね、キャムシャフトがシリンダーヘッドで回るOHC形式になりボアを広げ大排気量化されても、オリジナルの84.4mmのピストン行程を保ったまま名称をEA831と呼ばれ、ポーシャ924に使われたり、アメリカンモータースのAMCグレムリン他、VWのLT商用車からAMジェネラルの郵便配送ジープにまで使われた経緯がありました。
MDジープやらLTヴァンに載せられたので、ポーシャは商用車エンジンを積んでいると随分叩かれました。
最初期型、1970年の100LS。ぼくも工場に一台入庫してきた車両で随分弄らされました。
素敵な2扉セダーンもありました。
内装はアフリカ産のヴェニヤを使った本木目をダッシュボードに使い、早い時期から冷房などが選べ、特質な事に、トランクの容量が20キュービックフィートと、当時のシェヴォレイ・インパーラ並の容量を謳ってました。
うーむ、これは最初にアウデイに目一杯荷物を積んでおいて、それをリンカンに移した様な感じなんだけれども。。。1971年の広告。
されど故障も多く、特に電気系ですね、今も昔もアウデイの伝統みたいに、あとインボード・デイスクブレーキの整備性の悪さ、完全に前車軸前方にエンジンをぶら下げている為、非常に操舵が重いこと、なのでステアリングホイールも巨大だった、は後期型からパワーステアリングが選べる様になったのでいくらかマシになりましたが。。。
エンジンが車体最前端にぶら下がっている。。。
これは1973年型の100LS。燃料噴射が付く前で確かソレックスの32かなんかだったかしら。ストラット頂部横の黒い箱は中に冷房のエヴァポレータが入っています。当時、ビートルを含め、欧州車は大抵冷房装置を米国の会社に受託開発させていたので問題が多かったのですが、誰が設計したか知りませんが、アウデイの冷房は巨大なヨーク製2ピストンのコンプレッサが重くて振動した以外は余り問題がなかったように記憶しています。
アウデイ・フォックス、欧州名Audi 80 は非常に人気車種になっただけでなく、特質なことは、この車種が後々に続くVWグループを長い間支えた4気筒水冷エンジンのEA827型を積んだ最初の車種です。EA827は単純・軽量・安く作られることを主眼に、カウンターフローのシリンダヘッド、シムで隙間を調節するバケット型のタペット、デストリビュータやらオイルポムプを駆動する2次シャフト、ゴム製ベルトで駆動するオーヴァーヘッドキャムシャフトやら、大成功します。
EA827エンジンを縦置きにしたAudi Fox、VWパサートと一緒ですね。100LSに比べ幾らか重いものが後に来ているのが分かります。
でもその後に来た、キャムシャフトをチェインで回す、TFSI直噴エンジンの欠陥問題で今でも頭を抱えるVW、ぼくは当時のアウデイ100LSからゴルフ・ラビット、パサート・ダッシャー、ギャソリン・ジーゼルとこのEA827と結構長くお仕事をしていたので、現在のVWはどうなっちゃうのかと心配する今日この頃であります。。
アウデイ・フォックス。それまでの車種がアウデイ・スーパー90なので、新型に本来の80と名付けたら車格が下がると思ったのでしょう、フォックスの名前がつきました。フォックスは多分VWが登録しているらしく、後日、ブラジル製のVWを廉価車として北米で売った時も、フォックスの名称が付けられていました。
番外編: ナイジェリアではAudi100をVWブランドで売ってました。
アウデイ5000にヴァンケル・ロータリーエンジンを積んだ試作車。
蛇足ですが、NSUとAudiは昔から関係があると思われがちですが、VWがオートユニオンを買収した後に、1969年にNSUを吸収して既にVWグループになっていたオートユニオン(この時点では実質的にAudi)の中にNSUを組み込んだので話が複雑になってるわけです。Ro80はご存知の通り1970年代中盤まで青息吐息で生産されましたが、普及版と期待されていたK70は、それこそNSUプリンツから派生した昔のNSUエンジンの生き残りで、同時にVWが売り出した新しいEA827とは性能も似ていましたが、どちらが生き残ったのかはお分かりでせう。
宜野湾の我如古(じゃがこ)のバークレーモータースはリスエニアから逃げてきたジュイッシュのビジネスマンが戦後進駐軍相手に始めた会社で、今でも浦添のバークレーズコートを運営している会社です。
独国でウチの会社と人員移動の契約を結んでいた運送会社のリンダさんは、社長兼、運転手。独国訛りのブルックリン英語で捲し立てながら恐ろしい速度で我々の送り迎えをしてくれました。
ザーランドのホンボーグからフランクフォート・マインまで送迎してもらった時の記録。時速224キロを記録しています。それも一般道で!!
ぼくが彼女を ”リンダのどうにもとまらない” と名付けた理由でありました。
この空力アウデイも今ではクラシックカーの仲間入りをしているみたいで、この後期型でもそれに相応した使い方をされてるようで、ライセンスプレートから夏期間だけ有効の特別登録なのが分かります。
冒頭の女史は、昔アウデイ・クワトロを駆りWRCラリーチャンピオンに輝いたミシェル・モウトンさん。今だにかっこいいですな。流石フランス人。