今回は独国、Volkswagenが我が国の文化と産業に与えた影響を自分の経験から見ていきます。
前置きが2つ程ありまして、一つは表記で、米語、日本語と独語の間にかなりズレがある模様で、例えば我々はヴォルクスワーゲンと発音するのに対し、独語でVolks、英語でFolks. 人々の意味ですね。WagenはまあWagon、車輪の付いた運搬に使う車両が意味として近いと思うんですが、彼らは独語でフォークス・ヴァーゲン(VolksがのVがF的で、WがVに近い音になる)と読みます。それが何故か日本の発音ではフォルクスワーゲン。フォルクスは分かるのですが、Wagen の部分だけなぜ英語風になるのかがつっかえる所でして、ここでは単に略してVWと表記しておきましょう。
二つ目は、自分は空冷のVWについては実は余り詳しくなく、古いビートルのエンジン脱着やら小さな整備を数回しただけで、偉そうな事は全く言えないので、限られた知識範囲内でのハナシになりますが、VWが米国に与えた影響、文化などは体験しているので、個人の意見ですが、お伝えできたら幸いです。なお、水冷VWについては、ウチの工場でお客さんの数を結構抱えていたのと、丁度VWのウエストモーランド工場生産が始まった頃、整備学校の先生がVWのデーラーから派遣されていた事もあり、結構詳しい事を思い出せるかもしれません。あと個人でVWのジーゼル車を長い間保有していたので、個人体験も入れようと思います。
空冷VWビートル、別名タイプ1、の発祥はご存知の通り、戦前ヒットラーの指導で始まった国民車構想が始まりで、裕福な家庭でなくても手が届く自動車を開発し、同じような国策で全独国を高速道路で移動できるオートバーン計画との相乗で、人民の生活を豊かにし産業育成と、一石三鳥的な考えを推し進めていたヒットラー氏、車両開発を受託したのはフェーデイナンド・ポーシャ氏。不思議な事にヒットラーもポーシャ氏共に独国人ではなく、オーストリア人だったんですよね。ナチに加担したと戦後牢屋に入れられたのはポーシャ氏だけでなく、フランスのルイ・ルノーと、チェコスロヴァキア、タトラのハンス・ルドウィンカも皆、収監されて、不思議な事にこの三氏、皆リヤエンジン・後輪駆動の技術者なんですよね、皆、牢屋で一緒に話し合ってた、なんて頭に浮かびます(いや、実際はルドウィンカの牢屋はチェコスロヴァキアだったのでそうではなかったみたいです)。
余談ですが、ぼくの好きな銀幕の名作、カサブランカに出てくる登場人物、植民警察の署長の名前が、ルイ・ルノー、出国査証を盗んで捕まる男の名前はどう聞いてもブガッテイー、商売敵のサルーンのオーナーの名前はフェラーリ氏。何かを勘ぐりたいのですが、一般封切りが1943年なのでフェラーリはまだ自動車製造する以前ですし、まあ、ブガッテイーもルノーも戦前は豪華車で名を馳せる会社、ちょっと脚本が微妙な所で、今でも討議対象になるそうです。
悪徳のくせに憎めない、ルノー署長。
商売敵相手のフェラーリ氏。この人も納入するビーヤ・ケースの中から数本自分用に減らす、したたか者。でも弱者をこっそり助ける懐が深そうなおっさん。
出国査証を盗んでリックに助けを求めるウガーテイ、でもどう聞いてもブガッテイと聞こえる。。
まあそれは兎も角、戦後経済復興の為にこの人民車を生産して輸出し外貨を稼げと発案したのは英国軍で、第二次世界大戦、欧州側が負けた1944年から6年経った1950年には米国に最初のサンプル車が来ました。その際、音頭を取ったのが、戦後、米国の欧州車輸入販売の中心人物になる、あのマックス・ホフマン氏。因みにこの人も、ヒットラー、ポーシャ氏と同じくオーストリア人でした。ホフマン氏はVW、ポーシャ、メルセデス・ベンツ、BMW、ジャギュア、DKW、NSU、あらゆる車種の輸入権を持っていただけでなく、自らの示唆で自動車製造側に独自の車種を開発させたりして絶大的な力を持っていた方です。
マキシミリオン・ホフマン氏。ニュウヨウクはマンハッタンのパークアヴェニューに建築家、フランク・ロイド・ライト設計の斬新なデーラーシップを持っていました。ぼくも子供の頃見に行った記憶があります。残念なことに2013年に解体。
ホフマン氏が提案、作らせたと言うBMW507。この時代に非常に高価な3,200cc V8のスポーツカーを作らせ、結局殆ど売れなかったと言う、でもこの自動車、デザインはアルベークト・ヴォン・ゴエツ氏で、初代日産シルヴィア、240Zとトヨータ2000GTのデザインに関与されたと語りつかれた人です。
ホフマン氏はこちらの方が有名ですね、メルセデス300SL。ホフマン氏の華麗な人生、フランク・ロイド・ライトに設計してもらったロングアイランドの住宅に住んでいました。今でもホフマン・ハウスとして有名です。
どうも話がそれます。1955年にはVWビートルの販売台数が年間32,000台にも膨れ上がり、VWは自前の輸入販売会社、Volkswagen of America、VOA社を設立します。この時の社長がカール・ハーン博士。のちにVWの会長にまで登った方です。2年前に他界しました。
VOAが早速始めた宣伝キャンペーン、”Think Small" 物事、小さく考えましょう。1959年ですよ、その頃自動車業界は、恐竜ごとき尾翼の聳え立つ、年々大型化、豪華になるのが流行最先端とされていた時期です。それを真っ向から否定するVW、かなり勇気が要ったと思います。このThink Smallのキャンペーンはドイル・デーン・バーンバックと言う広告代理店が考案した企画で、のちに全米史上、1番語られる宣伝キャンペーンになります。
何故VWビートルが1960年代、爆発的に米国で普及したのか。まあ様々な要因があるでしょうが、機構的に単純で信頼性の良かった上、デーラーの数と部品供給網が良かった事。あと時代的に見て、人種問題とヴィエトナム戦争、冷戦の真っ最中、若い人を中心に政府とは同調せず、学生運動、徴兵反対運動とか、お上に逆らう風習が育って行ったのと同調したのが一因だったと思います。
所で我が国にはまだ徴兵制度があるの、ご存知でしたか。ヴィエトナム戦争時、18歳から26歳までの全市民は政府登録が義務付けられ、抽選で選ばれたら、余程の理由が無い限り入隊する義務がありました。それがヴィエトナム戦争が終わって1975年まで続きました。ただし現在でも18歳から25歳の成人は政府に徴兵登録をする義務があります。まあこれは登録だけで別に徴兵されるわけではありませんが、万が一有事になった際、素早く人を集められるよう準備しておく為だそうです。連邦政府の求人広告に応募する人、連邦政府契約のお仕事をもらう時など、必ずこれを今でも聞かれます。
その1960年代、VWの販売店はお客さんと同じで、普通の自動車デーラーとはちょっと違う、消費者に尽くす、正直で思いやりのある、ビートルと同じ位、真面目で異端で頼りになれる自動車販売店だった事です。所謂自動車デーラーは信用出来ないという今日に続く神話の正反対の印象を、VWデーラーでは売り物(文字通り)にしていました。今は廃業したGMのサターン部門に似てますね。あれもGMが米国での通説、自動車デーラーは必ず騙す、展示場なんて行くのも嫌だ、と言う観念を覆そうとした努力。サターンが登場した頃はそれが随分話題になりました。
牧師、学生、技術者、主婦、絶大なファンを増やしていったVW、1969年ビートルの絶大なファンで航空力学の技術者だったジョン・ミューアと言う人が、絵描きの友人とVWの整備本、あなたのVWを長持ちさせる方法 (How to keep your Volkswagen Alive) と言うイラストレーション満載、誰でも分かりやすく容易にビートルの整備が出来る解説書を発行して、それが大爆発的な売れ行きになります。ぼくと同年輩の人なら皆、知っているでしょう。彼は残念な事に1977年に脳腫瘍で他界しますが、その後も同種の本で、ビートルに変わってラビット、ホンダ・シヴィック版も出ていました。
このジョン・ミューアと言う方の親戚が同じ名前、もう1人のジョン・ミューアと言う人で、こちらのミューア氏は、米国古くからの自然保護家、国立公園の企画を作り出した有名な方で、ぼくが以前飛ばしていた森林消火の飛行機の名称にもなってた方です。機首にSpirit of John Muir と描かれています。
そのVWの熱狂的なファン、何とポール・ニューマン氏。この方。ダットサンで有名になる前、1960年代後半からビートルの愛用者。広告にも出てました。
米国内の自動車製造各社、1960年初頭からみるみる販売を増やして行ったVWを脅威に感じるのにそう時間はかかりませんでした。それまで、小型車ナゾ余り作ったこともなく、大型車作って売っていた方が利幅も大きいしとたかを括っていたのが、事情がとても変わってきました。VWの売れ行き増加予想していた各社、その憂いは現実になり、1960年代末期になると、販売台数は何と販売店数1,000店で、569,696台!輸入車の脅威が本物になったのです。でもこの輸入車の脅威とは、VWだけを指していて、その頃、他の輸入車、例えば日本車勢は主役のトヨータでもデーラー数がまだ850店、年間販売台数がわずか100,000台を越える位で、デトロイトの誰もが今の日本車の普及など、夢にも思ってなかった時分です。慌てて対抗策を案ずるも、今も昔も小型車を作るのが苦手なデトロイト。その数例を。。。
対抗馬、一番乗りは矢張りシェヴォレイ・コーヴェアですね。後輪駆動。空冷エンジン。いずれもVWを意識してましたが、例の旋回時操縦安定性に難癖付けられ、一代で消滅。でもデザイン外観は結構世界に影響を与えました。
次がフォード・ファルコン。小型車のくせにV8エンジンを積めたり、6人乗りを強調して差別を図ります。登場時、漫画のピーナッツを採用していました。
輸入車勢国産勢も含め、ほんの一時的でしたが、VWビートル打倒を現実化したのが、想いもよらぬルノー・ドーフィンでした。旧態化した4CVに変わり、1957年から積極的にドーフィンの販売を開始し、翌年には年間販売台数が102,000台にも到達します。勢いに乗ってルノーはドーフィンを運ぶ輸送船を6隻も契約し、一隻で1,060台。それを全米410店舗のデーラーで捌き始め、実にその1958年はVWに次ぐ全米輸入車販売台数第二位にまで上り詰めるのですが、品質問題が早期に現れ、特にブレーキの欠陥で叩かれ、あっと言うまに販売が減っていき、あっという間に萎んでしまい、後味の悪さがだけが残りました。友人もその販売に加わった1人で、当時、ドーフィンがあんな欠陥車だったとは知らなかった、とぼやいていました。まあそんなに欠陥でもなかったんですがね、悪評拡散するのを他社が手伝った気配がありましたし。ドーフィンと言えば、かなり早期から自動変速機(自動クラッチ)を選べ、初期型はファーレック・トランスミッションと言って(Ferlec Transmission) 電磁粉の密封された継手を介してクラッチ操作が自動的に行われる仕組みで、のちにはジェイガー製の押しボタンで選択する自動変速機に昇格しました。この頃からルノーの自動変速機は油圧制御より、電気制御が得意だった様子で、後日、自分がルノーの整備をしていた頃、ルノー18やフエーゴの自動変速機の電気系の修理を随分やらされ、後になって壊れるのは随分昔からだったのかと知りました。笑。。。
この押しボタン式変速機はルノー8と10にも受け継がれます。
そうです、今ではトヨータに続くクライスラーより大きくなっちゃったホンダは、当時、まだ軽自動車を細々と、西海岸のデーラーで売り出して、2年目の頃です。デーラー数がやっと50店舗くらいまで伸びて、あの大ヒットになるシヴィックでさえ登場当初、販売台数はまだ36,957台。デトロイト勢には殆ど無視されている時代でした。
堅実性を訴える広告。
全米で比較的小型車を得意としていたアメリカン・モーターズ。比較広告の好きな会社でした。
1970 1/2 って言うのが面白いですね。モデルイヤー真ん中、1/2 って正直に使って広告を出したのは、このAMCと1985年のフォード・エスコートくらいかしら。
この1/2って言う事情を知りたいですなあ。
フランス・シムカを買収したクライスラーもキャプテイヴ・インポートとしてシムカを北米クライスラーデーラーで売ってました。
当然フォード・ピントやらシェヴォレイ・ヴェイガなども。。。
余り知られていないのですが、英国のヴォクゾールもキャナダではポンテイアック店で細々と売られていました。これは1960年。
1972年、GMキャナダのフィレンザは英国ヴォクゾール製。合衆国には来なかった。
こんな3扉ハッチバックまで、ちゃんとサイドマーカーまで付けて。何となく1970年のマズダ・ファミリアに似ているようなきが。。
英ヒルマンも買収したクライスラーはシムかの他に、英ヒルマン・アヴェンジャーも合衆国へ持ってきていました。文章にVolkswagenとの比較が入ってます。
とまあ、今日はこの辺で。次回は空冷VWの技術的な事を書いてみます。