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2025年04月21日 イイね!

合衆国のVW文化

合衆国のVW文化











今回は独国、Volkswagenが我が国の文化と産業に与えた影響を自分の経験から見ていきます。

前置きが2つ程ありまして、一つは表記で、米語、日本語と独語の間にかなりズレがある模様で、例えば我々はヴォルクスワーゲンと発音するのに対し、独語でVolks、英語でFolks. 人々の意味ですね。WagenはまあWagon、車輪の付いた運搬に使う車両が意味として近いと思うんですが、彼らは独語でフォークス・ヴァーゲン(VolksがのVがF的で、WがVに近い音になる)と読みます。それが何故か日本の発音ではフォルクスワーゲン。フォルクスは分かるのですが、Wagen の部分だけなぜ英語風になるのかがつっかえる所でして、ここでは単に略してVWと表記しておきましょう。

二つ目は、自分は空冷のVWについては実は余り詳しくなく、古いビートルのエンジン脱着やら小さな整備を数回しただけで、偉そうな事は全く言えないので、限られた知識範囲内でのハナシになりますが、VWが米国に与えた影響、文化などは体験しているので、個人の意見ですが、お伝えできたら幸いです。なお、水冷VWについては、ウチの工場でお客さんの数を結構抱えていたのと、丁度VWのウエストモーランド工場生産が始まった頃、整備学校の先生がVWのデーラーから派遣されていた事もあり、結構詳しい事を思い出せるかもしれません。あと個人でVWのジーゼル車を長い間保有していたので、個人体験も入れようと思います。

空冷VWビートル、別名タイプ1、の発祥はご存知の通り、戦前ヒットラーの指導で始まった国民車構想が始まりで、裕福な家庭でなくても手が届く自動車を開発し、同じような国策で全独国を高速道路で移動できるオートバーン計画との相乗で、人民の生活を豊かにし産業育成と、一石三鳥的な考えを推し進めていたヒットラー氏、車両開発を受託したのはフェーデイナンド・ポーシャ氏。不思議な事にヒットラーもポーシャ氏共に独国人ではなく、オーストリア人だったんですよね。ナチに加担したと戦後牢屋に入れられたのはポーシャ氏だけでなく、フランスのルイ・ルノーと、チェコスロヴァキア、タトラのハンス・ルドウィンカも皆、収監されて、不思議な事にこの三氏、皆リヤエンジン・後輪駆動の技術者なんですよね、皆、牢屋で一緒に話し合ってた、なんて頭に浮かびます(いや、実際はルドウィンカの牢屋はチェコスロヴァキアだったのでそうではなかったみたいです)。

余談ですが、ぼくの好きな銀幕の名作、カサブランカに出てくる登場人物、植民警察の署長の名前が、ルイ・ルノー、出国査証を盗んで捕まる男の名前はどう聞いてもブガッテイー、商売敵のサルーンのオーナーの名前はフェラーリ氏。何かを勘ぐりたいのですが、一般封切りが1943年なのでフェラーリはまだ自動車製造する以前ですし、まあ、ブガッテイーもルノーも戦前は豪華車で名を馳せる会社、ちょっと脚本が微妙な所で、今でも討議対象になるそうです。

悪徳のくせに憎めない、ルノー署長。


商売敵相手のフェラーリ氏。この人も納入するビーヤ・ケースの中から数本自分用に減らす、したたか者。でも弱者をこっそり助ける懐が深そうなおっさん。


出国査証を盗んでリックに助けを求めるウガーテイ、でもどう聞いてもブガッテイと聞こえる。。


まあそれは兎も角、戦後経済復興の為にこの人民車を生産して輸出し外貨を稼げと発案したのは英国軍で、第二次世界大戦、欧州側が負けた1944年から6年経った1950年には米国に最初のサンプル車が来ました。その際、音頭を取ったのが、戦後、米国の欧州車輸入販売の中心人物になる、あのマックス・ホフマン氏。因みにこの人も、ヒットラー、ポーシャ氏と同じくオーストリア人でした。ホフマン氏はVW、ポーシャ、メルセデス・ベンツ、BMW、ジャギュア、DKW、NSU、あらゆる車種の輸入権を持っていただけでなく、自らの示唆で自動車製造側に独自の車種を開発させたりして絶大的な力を持っていた方です。



マキシミリオン・ホフマン氏。ニュウヨウクはマンハッタンのパークアヴェニューに建築家、フランク・ロイド・ライト設計の斬新なデーラーシップを持っていました。ぼくも子供の頃見に行った記憶があります。残念なことに2013年に解体。




ホフマン氏が提案、作らせたと言うBMW507。この時代に非常に高価な3,200cc V8のスポーツカーを作らせ、結局殆ど売れなかったと言う、でもこの自動車、デザインはアルベークト・ヴォン・ゴエツ氏で、初代日産シルヴィア、240Zとトヨータ2000GTのデザインに関与されたと語りつかれた人です。


ホフマン氏はこちらの方が有名ですね、メルセデス300SL。ホフマン氏の華麗な人生、フランク・ロイド・ライトに設計してもらったロングアイランドの住宅に住んでいました。今でもホフマン・ハウスとして有名です。


どうも話がそれます。1955年にはVWビートルの販売台数が年間32,000台にも膨れ上がり、VWは自前の輸入販売会社、Volkswagen of America、VOA社を設立します。この時の社長がカール・ハーン博士。のちにVWの会長にまで登った方です。2年前に他界しました。

VOAが早速始めた宣伝キャンペーン、”Think Small" 物事、小さく考えましょう。1959年ですよ、その頃自動車業界は、恐竜ごとき尾翼の聳え立つ、年々大型化、豪華になるのが流行最先端とされていた時期です。それを真っ向から否定するVW、かなり勇気が要ったと思います。このThink Smallのキャンペーンはドイル・デーン・バーンバックと言う広告代理店が考案した企画で、のちに全米史上、1番語られる宣伝キャンペーンになります。


何故VWビートルが1960年代、爆発的に米国で普及したのか。まあ様々な要因があるでしょうが、機構的に単純で信頼性の良かった上、デーラーの数と部品供給網が良かった事。あと時代的に見て、人種問題とヴィエトナム戦争、冷戦の真っ最中、若い人を中心に政府とは同調せず、学生運動、徴兵反対運動とか、お上に逆らう風習が育って行ったのと同調したのが一因だったと思います。

所で我が国にはまだ徴兵制度があるの、ご存知でしたか。ヴィエトナム戦争時、18歳から26歳までの全市民は政府登録が義務付けられ、抽選で選ばれたら、余程の理由が無い限り入隊する義務がありました。それがヴィエトナム戦争が終わって1975年まで続きました。ただし現在でも18歳から25歳の成人は政府に徴兵登録をする義務があります。まあこれは登録だけで別に徴兵されるわけではありませんが、万が一有事になった際、素早く人を集められるよう準備しておく為だそうです。連邦政府の求人広告に応募する人、連邦政府契約のお仕事をもらう時など、必ずこれを今でも聞かれます。

その1960年代、VWの販売店はお客さんと同じで、普通の自動車デーラーとはちょっと違う、消費者に尽くす、正直で思いやりのある、ビートルと同じ位、真面目で異端で頼りになれる自動車販売店だった事です。所謂自動車デーラーは信用出来ないという今日に続く神話の正反対の印象を、VWデーラーでは売り物(文字通り)にしていました。今は廃業したGMのサターン部門に似てますね。あれもGMが米国での通説、自動車デーラーは必ず騙す、展示場なんて行くのも嫌だ、と言う観念を覆そうとした努力。サターンが登場した頃はそれが随分話題になりました。


牧師、学生、技術者、主婦、絶大なファンを増やしていったVW、1969年ビートルの絶大なファンで航空力学の技術者だったジョン・ミューアと言う人が、絵描きの友人とVWの整備本、あなたのVWを長持ちさせる方法 (How to keep your Volkswagen Alive) と言うイラストレーション満載、誰でも分かりやすく容易にビートルの整備が出来る解説書を発行して、それが大爆発的な売れ行きになります。ぼくと同年輩の人なら皆、知っているでしょう。彼は残念な事に1977年に脳腫瘍で他界しますが、その後も同種の本で、ビートルに変わってラビット、ホンダ・シヴィック版も出ていました。






このジョン・ミューアと言う方の親戚が同じ名前、もう1人のジョン・ミューアと言う人で、こちらのミューア氏は、米国古くからの自然保護家、国立公園の企画を作り出した有名な方で、ぼくが以前飛ばしていた森林消火の飛行機の名称にもなってた方です。機首にSpirit of John Muir と描かれています。


そのVWの熱狂的なファン、何とポール・ニューマン氏。この方。ダットサンで有名になる前、1960年代後半からビートルの愛用者。広告にも出てました。


米国内の自動車製造各社、1960年初頭からみるみる販売を増やして行ったVWを脅威に感じるのにそう時間はかかりませんでした。それまで、小型車ナゾ余り作ったこともなく、大型車作って売っていた方が利幅も大きいしとたかを括っていたのが、事情がとても変わってきました。VWの売れ行き増加予想していた各社、その憂いは現実になり、1960年代末期になると、販売台数は何と販売店数1,000店で、569,696台!輸入車の脅威が本物になったのです。でもこの輸入車の脅威とは、VWだけを指していて、その頃、他の輸入車、例えば日本車勢は主役のトヨータでもデーラー数がまだ850店、年間販売台数がわずか100,000台を越える位で、デトロイトの誰もが今の日本車の普及など、夢にも思ってなかった時分です。慌てて対抗策を案ずるも、今も昔も小型車を作るのが苦手なデトロイト。その数例を。。。

対抗馬、一番乗りは矢張りシェヴォレイ・コーヴェアですね。後輪駆動。空冷エンジン。いずれもVWを意識してましたが、例の旋回時操縦安定性に難癖付けられ、一代で消滅。でもデザイン外観は結構世界に影響を与えました。


次がフォード・ファルコン。小型車のくせにV8エンジンを積めたり、6人乗りを強調して差別を図ります。登場時、漫画のピーナッツを採用していました。


輸入車勢国産勢も含め、ほんの一時的でしたが、VWビートル打倒を現実化したのが、想いもよらぬルノー・ドーフィンでした。旧態化した4CVに変わり、1957年から積極的にドーフィンの販売を開始し、翌年には年間販売台数が102,000台にも到達します。勢いに乗ってルノーはドーフィンを運ぶ輸送船を6隻も契約し、一隻で1,060台。それを全米410店舗のデーラーで捌き始め、実にその1958年はVWに次ぐ全米輸入車販売台数第二位にまで上り詰めるのですが、品質問題が早期に現れ、特にブレーキの欠陥で叩かれ、あっと言うまに販売が減っていき、あっという間に萎んでしまい、後味の悪さがだけが残りました。友人もその販売に加わった1人で、当時、ドーフィンがあんな欠陥車だったとは知らなかった、とぼやいていました。まあそんなに欠陥でもなかったんですがね、悪評拡散するのを他社が手伝った気配がありましたし。ドーフィンと言えば、かなり早期から自動変速機(自動クラッチ)を選べ、初期型はファーレック・トランスミッションと言って(Ferlec Transmission) 電磁粉の密封された継手を介してクラッチ操作が自動的に行われる仕組みで、のちにはジェイガー製の押しボタンで選択する自動変速機に昇格しました。この頃からルノーの自動変速機は油圧制御より、電気制御が得意だった様子で、後日、自分がルノーの整備をしていた頃、ルノー18やフエーゴの自動変速機の電気系の修理を随分やらされ、後になって壊れるのは随分昔からだったのかと知りました。笑。。。


この押しボタン式変速機はルノー8と10にも受け継がれます。


そうです、今ではトヨータに続くクライスラーより大きくなっちゃったホンダは、当時、まだ軽自動車を細々と、西海岸のデーラーで売り出して、2年目の頃です。デーラー数がやっと50店舗くらいまで伸びて、あの大ヒットになるシヴィックでさえ登場当初、販売台数はまだ36,957台。デトロイト勢には殆ど無視されている時代でした。


堅実性を訴える広告。


全米で比較的小型車を得意としていたアメリカン・モーターズ。比較広告の好きな会社でした。


1970 1/2 って言うのが面白いですね。モデルイヤー真ん中、1/2 って正直に使って広告を出したのは、このAMCと1985年のフォード・エスコートくらいかしら。


この1/2って言う事情を知りたいですなあ。






フランス・シムカを買収したクライスラーもキャプテイヴ・インポートとしてシムカを北米クライスラーデーラーで売ってました。






当然フォード・ピントやらシェヴォレイ・ヴェイガなども。。。


余り知られていないのですが、英国のヴォクゾールもキャナダではポンテイアック店で細々と売られていました。これは1960年。


1972年、GMキャナダのフィレンザは英国ヴォクゾール製。合衆国には来なかった。




こんな3扉ハッチバックまで、ちゃんとサイドマーカーまで付けて。何となく1970年のマズダ・ファミリアに似ているようなきが。。


英ヒルマンも買収したクライスラーはシムかの他に、英ヒルマン・アヴェンジャーも合衆国へ持ってきていました。文章にVolkswagenとの比較が入ってます。


とまあ、今日はこの辺で。次回は空冷VWの技術的な事を書いてみます。

Posted at 2025/04/22 08:40:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2025年03月15日 イイね!

ジーン・ハックマン氏とトヨータ

ジーン・ハックマン氏とトヨータ















ジーンハックマンさん夫妻が他界したので、フレンチ・コネクションを思い出しました。

戦後から1970年代にかけての麻薬の輸入は欧州の東側から大西洋経由で我が国に運ばれてたそうで、一つ有名だったのが、1962年製のシトロエン・DS・シャプロン・デカポタブル(デカポタブルは英語のDecapitate, 頭を切り落とす意味です、要するに自動車の屋根を切り落とすと言う訳ですね。フランス語、流石です)が不思議な事に大西洋を7回も往復している事実に米税関が気付き、1968年の4月にニューヨーク港に陸揚げされた際、税関が極秘にバラして燃料タンクやら内部に麻薬が隠されているのを発見。その後バレない様に元の状態に戻して引き取りに来る人物を待つども誰も来ず。結局犯人は逮捕されたそうですが、その実車は北米に残りどこかの博物館に最近まで展示されていたそうですが、ぼくは見逃しました。

シトロエンDSの燃料タンクは後部座席の下。この黄色いパッドの下に鉄板があり、それを取り外すと現れます。


普通自動車の燃料タンクはとても難しい場所に設置されていて、燃料ポムプやら燃料計の測定部などを交換する際には難儀しますが、DSはいとも簡単です。後車軸前方、さらに左右に走る図太い骨格に囲まれていて非常に安全な設計になっています。


その代わり給油口は後フェンダの後端にあるので、この長い鉄パイプで燃料タンクまで繋がっています。パイプとタンクはゴムの短いパイプで接続されていて、年次が経つとゴムが硬化して亀裂が入り、燃料がじゃばじゃば漏れます。


デカポタブルはステーションワゴンのシャーシを使っているので、ジャッキアップする際のつっかえ棒の支点が前後2つあります。床下側面に見える2つのの黒い穴がそうです。


セダーンのつっかえ棒支持点は一つだけ。


ステーションワゴンにも穴が2つ見えます。このステーションワゴン、荷物は余り積めないんですがぼくの好きだった車種の一つで、北米だけには特別仕様でシトロマチックが用意されていました。本国でもステーションワゴンは高級仕様のパラースはなかったので、米仕様のシトロマチック車にパラースの装備を植え付けたら素晴らしいなどと昔は空想していました。(偽パラース仕様は結構多く、でも細部を見れば直ぐバレます)


これが密輸に使われたデカポタブル。当然植物性油のLHS仕様。この頃はエンジン室内の温度管理に苦労したらしく、クロームで縁取られた換気口がフェンダー上に付いており外観を台無しにしていました。燃料タンク内に ”ブツ” を積んでいたので、他に容量の小さい補助燃料タンクを増設して、短距離の走行を可能にしていたそうです。ライセンスプレート下2桁の ”77” は登録場所がセイヌ・エ・マーン縣を示します。




フレンチ・コネクションの原作、と言うか実際に元になった事件に使われていたのは、ビュイックのインヴィクタ、この自動車です。


フレンチ・コネクション2ではジーン・ハックマンさん、DS、じゃなくて廉価版のIDの後席でアイスクリームを食べます。劇中で、マヨネーズと言う言葉が通じなく、何回もメーヨ、メーヨと繰り返すのが可笑しかったです(ハイ、我らはマヨネイズの事を略して ”Mayo" メーヨと言うことがあります。


そのジーン・ハックマンさんの駆る(いや、乗っ取る)のはポンテイアック・ルマンズ・ハードトップ・セダーン。このミッドサイズ車に何のエンジンが載っていたかは知る故もありませんが、望めば7,500ccの強力エンジンも選べたのですから凄いです。


そのレマンズ、1971年と1972年だけにあった趙廉価仕様のT-37。非常に珍しい車種です。装備が殆ど省かれているのに、エンジンは同じく7,500ccまで積めたので、それに手動変速機などを選べばとんでもない ”スリーパー” が作れました。2年間で合計36,000台のT-37が生産され(当然廉価車を望む家庭主婦やら老人達が主な購買層を生産側は見ていた)その内V8エンジンが5,802台、7,500ccの高性能エンジンがたったの54台!たまに市場に出回りますが、気の遠くなるような値が付きます。


フレンチ・コネクションの影視で密輸に使われたのはシトロエンでは無く、リンカン・コンチネンタル・マークIII。当時フォードの社長だったリー・アイアコッカが、キャデラックのエルドラードやらに危機を感じ、設計部の副社長、ジーン・ボーデイナントさんに、(モデル末期の)サンダーバードにロールスロイスのラジエータグリルを付けて、豪華な内装にしてみろ、と最低限の経費で開発、目論見は見事に当たり、コンチネンタルがモデルチェンジするまでの3年間、一度もエルドラードに販売台数で負けた事はありませんでした。その上最低限の開発費用とサンダーバードとの共用部品点で非常に高利益の車種でした。


印象に残るブルックリンでのカーチェース場面。こう言う時に限って必ず乳母車(非常に興味深い日本語ですね、乳母とは)が出てきます。


その場所の現在。ブルックリンは86丁目とニューアトレクト通り。


その撮影車。


あれ、何処かで見たような計器盤、ジーン・ハックマンさんは競争自動車の運転でも有名でした。特に1977年の加州ロングビーチで開催されたトヨータ提供の有名人レースに参加してから、長い間トヨータ車を使っての競争。その一場面です。




当時は自動車製造業、運転技術の優れた有名人を起用して宣伝に使うのが流行っていたのか、他に有名なのはポール・ニューマンさんですね、彼は勿論日産自動車。でも彼とジーン・ハックマンさんの違いは、ポール・ニューマン氏は日産自動車の宣伝・広報に積極的に活動したのですが、ジーン・ハックマン氏はトヨータの広告などには全く起用されませんでした。運転の腕は一級だったそうですが、1980年代後半になると、自分は役者で、競争自動車の運転には向いていないと、自分から遠のいていった話でした。


ハックマンさんが1番有名だった競争は、1983年にフロリダ州はデイトーナ・ビーチで行われた、ペプシコーラ協賛の、24時間耐久競争ですね。でもこれは彼が直接トヨータ傘下で出場した訳ではなく、オール・アメリカン・レーサーズと言う競争会社の専属運転手と言った形で参加したものでした。


余談ですがこの競争、ジーン・ハックマン氏と一緒に運転したのは日本のマサノリ・セキヤ氏。後にルマンズ24時間競争で優勝した方です。

このオール・アメリカン・レーサーズと言う会社は、あの有名なダン・ガーニーさんの率いる会社でした。ダン・ガーニーさんは言わずと知れた競争自動車の設計、製造、運転、兎に角頭脳の優れた天才的な人でした。1960年代は彼とフォード自動車との協力があり、マーキュリー・クーガーのダン・ガーニー仕様などと言う特別車もあったほどです。これは近代にもマスタングで再現されました。


ヒコーキ屋の分際で空力學は少しは知っていなければならない我が身で、この、ダン・ガーニーさん、翼の境界層制御の装置を発明して(競争自動車の空力に使う)、ガーニー・フラップと言うのがあるそうです。恥ずかしながら、知りませんでした。。。境界層の剥離速度を抑える装置らしいです。ふむふむ、なかなか勉強になるわい。。




ガーニーさん、例の米国東海岸から西海岸まで最速を競う、キャノンボール・ランの第一回に、その競争の創立者、ブロック・イェイツ氏と共謀して無改造のフェラーリデイトーナで2,876マイルをたった36時間弱で走り神話を作ったのも思い出です。以前書きましたが、ブロック・イェイツ氏はぼくの育った近く、西ニューヨーク州のキャスタイルと言う田舎町に大きな家を持っていて、お元気な頃は結構な数の有名人が訪れていたとか。


ガーニー氏は1970年後半からトヨータと関係する機会が多くなり、多分その影響で、このデイトーナでの耐久競争に走るセリカを使うことになったと思います。1980年代に入ると彼はトヨータの宣伝にも出演するようになり、特に新型になったスープラをロングビーチ市内で走り回る広告が思い出されます。


最近になってもフォードからダン・ガーニー仕様が出ていました。彼は2018年に他界されました。


ブリスター・フェンダのA60も好きな自動車の一つですけど、その一つ前のA50も憧れますね。伸び伸びとしたロングノーズ、鏡面を細いメッキで枠囲されたBピラー。運転してみると、まだボール循環式の操舵、固定後車軸などお世辞にも ”スポーテイー” では無いのですが、その雰囲気ですね、外も中も、が素敵でした。


ぼくはこの革張りの内装より、細い縦線の入った布ばりに憧れました。特に赤い内装のやつが。。




2000GTを彷彿させるT文字ラジエータグリルにEFIのバッジ。嗚呼。


この場所は加州サンデイエーゴにあるバルボア公園です。




こちらもサンデイエーゴにある、創業1888年の由緒あるホテル・デル・コロナード。


ジーン・ハックマンさん、その後もトヨータ好きは続いていたみたいで、わずか数年前に5700cc8気筒375馬力のトヨータ・ツンドラ四輪駆動トラックTRD仕様を購入、愛車にしていたと記事が出ていました。


ポパイ・ドイル


キーリー上院議員


話の筋が非常に上質につながっている、泣いて笑ったバードケージ。あのロビン・ウイリアムスもあっちへ行っちゃった。。涙。


今日のオマケ。1972年マズダの試験車。広島登録のライセンスプレートなのが不思議です。。。


場所はロスアンジェリース、535グランド通り。
Posted at 2025/03/16 20:09:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年03月01日 イイね!

ロータリーエンジン じゃましないでね

ロータリーエンジン じゃましないでね













2月最後の日。ニミッツ大通りを左折しようとしたら、あれま、ありま。トラックの上に載ってたのは何と、マズダのステーションワゴン、おまけにヴァンケルエンジン搭載のRX−3ではないですか!かなり錆びていますが、加州のライセンスプレートをぶら下げていたので、多分本土から持ってきてサンドアイランドで陸揚げされて、今から修理工場にでも持って行かれるのでしょう。


当時、夢のエンジンとされていたヴァンケル・エンジン、またはロータリー・エンジンですね、マズダが最初に北米に進出して来た頃、1970年4月14日、ワシントン州シアートル港へ60台のR100を送り出したのが最初でした。あの、現在の軽自動車より軽いサブコムパクトの車体に1リットル弱の排気量で100馬力を叩き出す、おまけに電気モーター如く無振動のエンジンに、関係各社、ぶったまげたのは想像に容易です。


マズダの初めての北米車、品揃えは小型の1200、ロータリーエンジンのR100と、中型の1800。


ピックアップトラックもあるでよう。




ハワイにも結構あったらしい。。。ダイハツ・コンパーニュ、いすゞのべレルとベレット、日野コンテッサにプリンス・スカイライン、あの頃のハワイは非常に面白い自動車社会だったと思います。。。




これはモンタナ州ミズーラ。結構田舎なんですが、ここにも1800が。ぼくが以前働いていた会社の昔の写真で、森林火災消火を業務とする会社でした。ヒコーキは第二次世界大戦時の海軍艦船雷撃機で、これを改造して火災遅延剤を空から噴霧します。ジョージWブッシュ大統領がこれを駆る操縦士として有名でした。


その後、業界異例の趙長期エンジン保証、なんと50,000マイルに魅力を感じて買った消費者が、その距離を越える頃になるとエンジンのオイル消費が増え、幸運だった人は無償で修理してもらいましたが、その該当台数があまりにも増大したのと、50,000マイル越えてからの車両は保証対象外となり、ロータリーエンジンの不評が広がったのでした。マズダはピストンエンジンの同車種を揃えなんとか生き延びます。

いつも不思議に思っているのは、衝撃吸収バンパが始まっても、RX4、それもハードトップだけが以前からのバンパでやり過ごしていた事です。これは1975年の広告。多分何らかの理由でエグゼンプションを貰っていたとは察しますが、理由は?


モデル末期やら、販売台数がごく僅かに限られているとかで、エグゼンプションは得られる場合があるのですが、RX-4は1976年に車体前部だけをちょっと弄って、大型バンパを装備。一層1975年の謎が深まります。


謎と言えば、例のコザのRX-2ですね。その後近所の自動車やさんとの会話で、とうマズダは左側通行に近くなってもLHDの車両を結構売ってた話を聞きました。でもこの車両は単にLHDだけではなく、明らかに北米仕様。なのにSOFAのEプレートではないのが摩訶不思議。いずれかはここの地主さんに事情を聞きに行かなくては。。。




ロータリー化はピックアップ・トラックまで広がり、REPU
RotaryEnginePickUp) と呼ばれ、これは一定の数が出たみたいで、ぼくが1980年代に自動車整備学校に通っていた時、実験の相棒の若い子がコレに乗ってました。


そのREPU、加州の砂漠の飛行場の裏に、数台が保管されていました。この写真を撮った数年後、コレらの車両は跡形も無く消え去ったそうで、警備のオッサンも目撃していたらしく、一体何が起こったんだろう、と言ってました。






RX-4の2扉ハードトップは一足先に廃止され、その代わり投入されたのが、あの、瞬間コスモの匂いの、アレです。日本製オールズモビル・カトラスと言いたくなる様な素敵なデザイン。今でもぼくの好きな一台です。でも導入されたのがRX-7が登場する前の2、3年間だけ、販売数は微々たるものでした。




余り知られてない事ですが、(いや、余り知られたくない事でしょうけど、特にこの時勢では)。ロータリーエンジンの発明者として知られる、フェリックス・ヴァンケル氏、戦前戦中はヒットラーのナチ党の支持者だけでなく、その傾き方が余りにも熱狂的過ぎて、ナチ党から解脱、それに2回も!ジュイッシュ嫌いの人だったらしいです。ヘンリー・フォードとは会話があったのかどうか。。ヴァンケル氏はその後ネッカーサルムのNSUで働きますが、彼は一生、自動車の運転免許を取得できなかったそうで(近視が酷かったらしい)、移動は自分のRo80をお抱え運転手に乗り回していたとか。


ラムシュタイン空軍基地にて。
Posted at 2025/03/02 06:05:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年02月22日 イイね!

アウデイ・DKW・VW

アウデイ・DKW・VW














春節も終わり冬も後半になる今日この頃、北緯18°のハワイ州では早朝だけ、水平線のすぐ上に南十字星が見えます。我が家からは南方の空はホノルル市街の街明かりで南十字星を見た試しはないのですが、流石、太平洋の真っ只中の孤島、光害の少ない場所、特に標高の高くなるマウイ島の山に登ると信じられ無い様な星空の光景を見る事ができます。

これはオアフ島北側、カエナ岬付近での夜空。古いiPhone13でもこれ位の星空が見えます。ISO 6400, 絞りF1.5, 10秒露出。





現在はダニエル・井上・國際空港と呼ばれるホノルル空港の、主に大型機出発に使われる海側の長い滑走路は、以前宇宙に行って帰ってくる宇宙船、スペースシャトルの緊急時の臨時着陸滑走路として建設したものです。


離陸後、万が一エンジンが故障などで停止し、絶体絶命で旋回出来なくなりワイキキーの高層建築に近寄るのを防ぐ為、この滑走路は離陸後、直ちに海に向かって右側に旋回する規定になっています。


スペースシャトルよりずっと前の話、まだ人間が月に行って帰る前の話で、ソヴィエトの人工衛星、スパットニクに宇宙戦争の出花を取られた我が国は、マーキュリー計画と言う有人の人工衛星を上げる計画を立てました。1950年代から1960年代初期、ケネデイー大統領の時期です。





このマーキュリー計画に選ばれた宇宙飛行士達7人を、人呼んで、”マーキュリー・セヴン” と呼ばれ、国中の熱狂的な英雄になったのです。


そのマーキュリー計画の有人人工衛星の一つに1人で乗って、数々の問題を制覇しながら奇跡的に無事帰還した飛行士の1人に、ジョン・グレンと言う空軍の戦闘機乗り、試験飛行操縦士の方がおりました。


ソヴィエトを負かせて宇宙戦争に勝つと言う任務を任せられた宇宙飛行士。この計画に便乗し数々の商売が宇宙を連想させる広告やら商品が大ヒットした時世、その一つが元競走自動車の運転手をしていた、ジム・ラスマン(Jim Rathmann)と言う人で、宇宙計画が始まった頃、GMに働きかけ、1962年から毎年、新車のコーヴェットを彼の販売店から年間1ドルのリース契約で宇宙飛行士に提供する契約を交わしたのです。それはマーキュリー計画から始まり、月へ行って帰ってきたアポロ計画に加わった宇宙飛行士達までに続きました。


されど、最初の人工衛星、マーキュリー・セヴンの7人のカウボーイに7台のコーヴェット(アストロ・ヴェットと呼ばれていた)が納車されたと思ひきや、それが6台だったのです。と言うのも7人全員がこのプログラムを承諾したわけではなく、前記のジョン・グレンさんはその招待を辞退したのでした。

その代わり、彼の使っていた自動車が何と、NSUプリンツと言う、今で言う軽自動車クラスの西独から来た、ヘンチクリンな経済車だったのです。


彼曰く、これから我が家は子供も育つし、いくら宇宙飛行士と言えどもお金を貯めなければなら無いので、小型車で充分役に立つと言われたそうです。中々質実堅実な有名人なお方ででした。因みにジョン・グレン氏は宇宙飛行士の後は政治家になり、長い間上院議員として勤め上げた後、77歳でもう一回、スペースシャトルで宇宙に出た後、2016年に他界されました。

そのNSUプリンツ。ハイ、例の単車で有名な西独はネッカーサルムの、ロータリー・ヴァンケルエンジンで有名だった会社です。我が国では当時NSUを始め、西独の車の殆どは、オウストリア生まれの移民、マクシミリアン ”マックス” ホフマン氏の経営する自動車輸入・販売会社で扱われていました。彼の持ってくる自動車の中には、BMWのメッサーシュミット、DKWやらかなりのゲテモノが含まれていて、NSUもその一部でした。

1967年当時のNSU販売店のリスト。プリンツの様な2気筒の軽自動車で、モハーヴィ砂漠を横断したり、極寒のノースダコタ州でお使いに使われたり。今となっては想像し難いところですが、プリンツも後釜の1000やら1200もごく稀に中古車売りに出ているので、世の中、わからんものです。


車体後部にあるプリンツのエンジンは、NSUのモーターサイクルのを持ってきていて、OHC, 頭上にキャムシャフトがある現代的な機関なのですが、その頭上のキャムシャフトを駆動するのにチェインやベルトではなく、非対称の円盤を棒で動かすと言う、変則的な仕組みを持っていました。勿論冷却は空冷。


プリンツのハッテン版は基本的に同じエンジンを4気筒化、キャムシャフトの駆動をチェインに変えて、1970年代前半まで北米に持ってきてました。

NSU、プリンツ系の最終型の1200。


その北米仕様。


法規対応、前照灯の処理が何とも痛ましい。。




最後まで空冷リヤエンジンで通したプリンツ、前部には当然トランクです。今のフォードF150EV仕様とかテスラもそうですね。


そのNSUの本拠地、ネッカーサルムから逃げるようにオートバーンA6を西に走る図。自動車は借りてきた1,200ccの小型車、VWツーラン。過給機付いていても流石に高速で苦しい。。平和な巡航速度は時速160キロくらいまで。


NSU/ネッカーサルムと言えば皆は直ぐAudiを頭に浮かべるかもしれませんが、現在あのAudiの本拠地はもっと東のインゴルシュタットです。今は全部VW帝国の傘下になっちゃいましたが、ほんの昔まで、西独の自動車会社はとても複雑な関係でした。Audiは戦前までは、お馴染み四つ輪っかで有名なオートユニオン(はい、現在のAudiの輪っかはAudiの社標ではなく、元の親会社オートユニオンのマークなのです)そもそもオートユニオンはAudi, ワンダラー、ホーヒとDKWが組み合わさった四つの輪なのですが、戦後は実質的に小型乗用車と貨物車を生産するDKWしかなく、Audiも含む、他のブランドは休業中でした。

戦後しばらくして、小型車で躍進し出したDKWを見たダイムラー・ベンツはDKWを買収して、小型車から大型車までのフル・ラインナップを目論みようと、親会社のオートユニオンを手の中に収めます。ダイムラー・ベンツは古臭くなった2ストロークばかりの煙を吐くオートユニオンのDKW製品を改良しようと、かなり資金を注ぎ込んだのですが、矢張りお堅いダイムラー・ベンツとヘンチクリンな集団のDKWと馬が合わなかった、と言うのがぼくの想像ですが、1960年代中盤になると、ダイムラー・ベンツはオートユニオンを段階的にVWに売り飛ばします。VWは丁度その頃、北米で空前のヒットとなりつつKafer・ビートルの増産に、オートユニオンが持っていたインゴルシュタットの工場を欲しがっていたそうです。ただし、ダイムラー・ベンツは手を引く前に、時代錯誤のDKW2ストロークエンジンの代わりに、4ストローク4気筒の最新エンジン、M118を開発してDKWのF102セダーン車に搭載します。これは非常に圧縮比が高く、混合気が渦を巻いて燃焼する非常に効率の高いエンジンで、これを搭載した車種に戦後初めて、”Audi” のサブネームを与えます。

因みにダイムラー・ベンツがオートユニオンをVWに売却した際、DKWの商用車部門だけは手放さず、後にメルセデスのスプリンター・ヴァンと、スペインのヴィトリオ工場で作られるVクラスの商用車に現在は受け継がれています。

ねっ、あのメルセデス・ベンツが何故前輪駆動のヘンチクリンな商用車を売っていたか。これはDKWの直系だったからなんすよ、ダンナ。MB100。


四つの輪っかはAudiを指すのではなく、親会社のオート・ユニオンの事です。これは1000Sクーペー。ちゃんと柱のないハードトップが素敵ですね。これもマックス・ホフマンの仕業で我が国でも一応売られてました。


そのずんぐりむっくりの旧型に近代的な車体を載せたのが、DKWの名称を最後に付けた、F102です。でもエンジンは相変わらず3気筒・2ストロークのスモークマシーン。ラジエータ・グリルの四つの輪っかはオート・ユニオンのマーク。


そこにダイムラー・ベンツの技術部が関与して、前部を伸ばして、M118と名付けられた、新型高性能4気筒4ストローク・エンジンを載せたのが、F103。この車からDKWの名称が消え、初めてAudiの名が付きました。されどこれが出た頃にはオート・ユニオンは既にダイムラー・ベンツから売られ、VWの傘下になってます。そしてこのF103は馬力によってAudi60、Audi80、最強版のAudi Super90として売られます。

これはDKW時代のF102、2ストロークのエンジン。


それに載せたF103、Audi90のエンジンベイ。ダイムラー・ベンツ設計の高性能4気筒4ストロークエンジン。車体前部を伸ばしても前後長が足りず、ラジエータを左にオフセットして斜めに設置させていますが、この配置はこの後、40年近く続きます。


Audi Super90、F103、向かって右が進行方向。4気筒4ストローク化でいかにエンジンが前に突き出ているのがわかります。あと、この頃としては画期的な事にインボード・デイスクブレーキを装備しています。


晴れて ”Audi” になったSuper90。これは1968年型。


興味深い事に、英国ではこのAudiを販売するのはメルセデス・ベンツのデイーラーでした。ベンツとは手を切っていると言うのに、メルセデスのエンジンだ、と威張っている広告が不思議です。


Super90にはメルセデス開発のエンジン、ポーシャのシンクロメッシュとVWのサスペンションが付いている、と。まあ間違ってはいないんですけどね。その後Audiは長い間、米国でもロールスロイスと同じ広さ、フェラーリと同じ操舵装置(ラック&ピニオン)、メルセデスと同等の豪華さ(何故かエンジンの件は無言)を備えていますと宣伝していました。


ハーフトンのペイロード、メルセデスのエンジン。Audi Super90。


Audiは1970年から米国に進出してきました。でもアウデイって何だべ?と知名度がゼロの会社ですから、立ち上げもそう簡単ではありません。なのでAudiの親会社となったVWは、当時、開発などで協力関係にあり、既に北米に販売網を持っていたポーシャに輸入販売を委託します。廉価車を専門に扱う当時の北米ヴォルクスワーゲンと同じ展示店に置きたくなかたんでしょうね。でもまあ、その頃、VWとポーシャは快軽スポーツ車、914/916の開発問題で泥沼に入ろうとしていた前夜ですが。1970年からの宣伝は、PORSCH+AUDI と記される様になりました。これは1984年頃まで続いたと思います。その後は独自の輸入業者としてAudi USAに移りました。

米国版Audi Super90は例の サイドマーカーライト、”ギョロ目” 仕様で、2扉・4扉セダーンとステーションワゴンがありました。基本的にはまだDKWですね。


言い忘れましたが、ダイムラー・ベンツがDKW F102からAudi F103に大改造した際、前部の懸架装置は変更せず、捻り棒のトーションバーのままでした。


1970年にアウデイが米国に来た時、車種はそのDKWから来たSuper90と、それより大型の100LSでした。これはごく初期の広告。Porsche Audiとは書かれていますが、Audiの事をVolkswagenの系列会社とも書かれています。


多分Porsche+Audiで恩恵を受けたのは後者だけだったと思うのですが。この頃の911、排気ガス対策にサーマルリアクターが付いていて大変だった。。。



これがPorsche+Audi最後の広告。


翌年からPorscheの文字が消えました。ポーシャがヴォルクワーゲン帝国の傘下に入るのはずっと後の事、と言うか、当時は誰も想像していなかったかもしれません。かといってVWと同族経営のポーシャは常に関係が深かったので不思議だと思っていました。蛇足ながら、Porscheの名が消えてからは、資料問い合わせの無料電話番号も変更されています。


話は戻って北米に進出して来たアウデイ。既に旧態化していたDKW譲りのSuper90は1970年と1971年で終了し、小型アウデイは1972年は何も揃えず、翌年、1973年にAudi Foxとして新しいVWパサートとの姉妹車として売り出されます。

その大型Audi100ですね、これもエンジンはM118が改良されたもので、OHVとクロスフロー型シリンダーヘッドを持ち、1975年からはKジェトロニックの燃料噴射装置が付き、DKW譲りのインボード・デイスクブレーキを装備されていました。


余談ですが、このDKWじゃなかった、Audi Super90に載ったメルセデス設計のM118エンジンはその後、改造に改造を重ね、キャムシャフトがシリンダーヘッドで回るOHC形式になりボアを広げ大排気量化されても、オリジナルの84.4mmのピストン行程を保ったまま名称をEA831と呼ばれ、ポーシャ924に使われたり、アメリカンモータースのAMCグレムリン他、VWのLT商用車からAMジェネラルの郵便配送ジープにまで使われた経緯がありました。


MDジープやらLTヴァンに載せられたので、ポーシャは商用車エンジンを積んでいると随分叩かれました。




最初期型、1970年の100LS。ぼくも工場に一台入庫してきた車両で随分弄らされました。


素敵な2扉セダーンもありました。


内装はアフリカ産のヴェニヤを使った本木目をダッシュボードに使い、早い時期から冷房などが選べ、特質な事に、トランクの容量が20キュービックフィートと、当時のシェヴォレイ・インパーラ並の容量を謳ってました。

うーむ、これは最初にアウデイに目一杯荷物を積んでおいて、それをリンカンに移した様な感じなんだけれども。。。1971年の広告。



されど故障も多く、特に電気系ですね、今も昔もアウデイの伝統みたいに、あとインボード・デイスクブレーキの整備性の悪さ、完全に前車軸前方にエンジンをぶら下げている為、非常に操舵が重いこと、なのでステアリングホイールも巨大だった、は後期型からパワーステアリングが選べる様になったのでいくらかマシになりましたが。。。

エンジンが車体最前端にぶら下がっている。。。


これは1973年型の100LS。燃料噴射が付く前で確かソレックスの32かなんかだったかしら。ストラット頂部横の黒い箱は中に冷房のエヴァポレータが入っています。当時、ビートルを含め、欧州車は大抵冷房装置を米国の会社に受託開発させていたので問題が多かったのですが、誰が設計したか知りませんが、アウデイの冷房は巨大なヨーク製2ピストンのコンプレッサが重くて振動した以外は余り問題がなかったように記憶しています。


アウデイ・フォックス、欧州名Audi 80 は非常に人気車種になっただけでなく、特質なことは、この車種が後々に続くVWグループを長い間支えた4気筒水冷エンジンのEA827型を積んだ最初の車種です。EA827は単純・軽量・安く作られることを主眼に、カウンターフローのシリンダヘッド、シムで隙間を調節するバケット型のタペット、デストリビュータやらオイルポムプを駆動する2次シャフト、ゴム製ベルトで駆動するオーヴァーヘッドキャムシャフトやら、大成功します。

EA827エンジンを縦置きにしたAudi Fox、VWパサートと一緒ですね。100LSに比べ幾らか重いものが後に来ているのが分かります。



でもその後に来た、キャムシャフトをチェインで回す、TFSI直噴エンジンの欠陥問題で今でも頭を抱えるVW、ぼくは当時のアウデイ100LSからゴルフ・ラビット、パサート・ダッシャー、ギャソリン・ジーゼルとこのEA827と結構長くお仕事をしていたので、現在のVWはどうなっちゃうのかと心配する今日この頃であります。。

アウデイ・フォックス。それまでの車種がアウデイ・スーパー90なので、新型に本来の80と名付けたら車格が下がると思ったのでしょう、フォックスの名前がつきました。フォックスは多分VWが登録しているらしく、後日、ブラジル製のVWを廉価車として北米で売った時も、フォックスの名称が付けられていました。






番外編: ナイジェリアではAudi100をVWブランドで売ってました。


アウデイ5000にヴァンケル・ロータリーエンジンを積んだ試作車。



蛇足ですが、NSUとAudiは昔から関係があると思われがちですが、VWがオートユニオンを買収した後に、1969年にNSUを吸収して既にVWグループになっていたオートユニオン(この時点では実質的にAudi)の中にNSUを組み込んだので話が複雑になってるわけです。Ro80はご存知の通り1970年代中盤まで青息吐息で生産されましたが、普及版と期待されていたK70は、それこそNSUプリンツから派生した昔のNSUエンジンの生き残りで、同時にVWが売り出した新しいEA827とは性能も似ていましたが、どちらが生き残ったのかはお分かりでせう。

宜野湾の我如古(じゃがこ)のバークレーモータースはリスエニアから逃げてきたジュイッシュのビジネスマンが戦後進駐軍相手に始めた会社で、今でも浦添のバークレーズコートを運営している会社です。


独国でウチの会社と人員移動の契約を結んでいた運送会社のリンダさんは、社長兼、運転手。独国訛りのブルックリン英語で捲し立てながら恐ろしい速度で我々の送り迎えをしてくれました。


ザーランドのホンボーグからフランクフォート・マインまで送迎してもらった時の記録。時速224キロを記録しています。それも一般道で!! 
ぼくが彼女を ”リンダのどうにもとまらない” と名付けた理由でありました。


この空力アウデイも今ではクラシックカーの仲間入りをしているみたいで、この後期型でもそれに相応した使い方をされてるようで、ライセンスプレートから夏期間だけ有効の特別登録なのが分かります。


冒頭の女史は、昔アウデイ・クワトロを駆りWRCラリーチャンピオンに輝いたミシェル・モウトンさん。今だにかっこいいですな。流石フランス人。
Posted at 2025/02/23 19:10:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2025年02月05日 イイね!

旅券更新

旅券更新









旅券の更新が迫る今年、期限は年末なのですが、更新は12ヶ月前から可能なので、今年に入ってから早速申請しました。

我が国の旅券は10年間有効(子供用は除いて)。10年前の更新に比べて随分変更箇所があり、まず、通常発券の場合は、全てインターネットで申請可能になりました。自分で写真撮ってアップロードして送ります。

我が家は家族があちらこちらに居るので万が一の際、旅券が無いと駆けつける事が難しくなるので、旅券の更新は特急で申請します。

残念ながら特急申請の場合はインターネット申請を使えず、従来通り、写真、申請書、古い旅券を郵送で送付します。更新料が$130。特急費用が$60。それに向こうへ送付する郵便代が自費(優先郵便で$20程度)。戻って来る際は優先郵便で送られ、望めば別途費用で速達も可能でした。

今回は送付してから帰って来るまで、実質17日間かかりました。新し旅券を手にしてアキサミヨー。顔写真のあるページは何と、ポリカーボネートの樹脂製でクレジットカードの手触りです。色々高度な仕掛けがされているそうで、偽造が非常に困難な機構が取り入れらているそうです。



失敗したのは、申請する際、通常旅券とページの多い旅券と選べたのですが、旅をするお仕事はもうしないので、普通で十分と、通常26ページのを注文したのですが(50ページの大型も無償で選べます)まあ、ページが足りなくなれば、いつものようにページを増刷して貰えば大丈夫さーと思っていたら、この増刷サーヴィスが廃止sれていて、ページが足りなくなった場合は、再度、旅券の更新をしなければならないとの事、知りませんでした。

増刷に増刷を重ねていた昔の旅券。一冊で10年。合計過去40年の歴史がこれらに詰め込まれています。


サウデイアラビア航空で飛んでいた時の査証。彼らは陰暦で月日を数えるので、査証が何時失効になるのか分かりづらかったです。その後アラビア数字の読み方独自で学びましたけど(通常はサウデイ便を扱う地上支援会社の人が処理してくれてました)中華人民共和国もそうでしたが、査証で全1ページを使うので、ページがあっと言う間に足りなくなってしまいます。


まあ、ぼくはグローバル・エントリーと言う信頼認証旅行者のサーヴィスを契約しているので、米国の出国も帰国する際も旅券には判子を押されませんし、一番頻繁に行く日本国も同じサーヴィスと契約しているので付属のカード一つで出入国するので、最近は旅券は旅をするのに真っ白で、将来何処へ行っても皆、アプリやらインターネットで出入国になるでしょうから、多分ページが不足する事は無いと思います。。。

昔、コザの保健所通りにあった入国管理事務所。着陸後、MPの護衛を伴ってここで入国していました。護衛が付くのは、街中にあるこの事務所までは、未だ入国していないので、移動中自動車事故やら事件に巻き込まれたらイチデージになるからです。現在はこの入管事務所は嘉手納ロータリーに移転しました。

以前コザにあった入管。


現在はヘアサロンになっているみたいです。以前は早朝出発の際、朝2時に戸を叩いてお邪魔し、眠たい目を擦る当直の方にお世話になりました。。。


昔はダイエー、今はドンキ。まあダイエーの前はホリデーマートと言う似たようなデイスカウント・ストアだったんですが。我が街のドンキホーテが年末で閉店。跡地には住宅が建つそうで、その代わりでもないですが、最新大型のドンドン・ドンキが島の西側、カポレイに2月15日に開店予定。

因みにハワイ島のウチナンチュ、照屋兄弟が創業したタイムズ・スーパーマーケットも、加州から来ていたマルカイ卸売マーケットも、現在はドンキホーテの子会社、パンパシフィック・インターナショナル・ホールデイングス社が買収し、オアフ島の超級市場を圧倒しています。何処に行っても情熱価格の商品。

新しいドンドン・ドンキ。看板も上がり、開店間近。カポレイ。



ドンキの閉店後、下ろした看板の後にダイエーの文字が。。。懐かしい。


友人がアージェンテイーナはブエノス・アイレスに旅行していて、市内で乗った地下鉄は何と、昔の営団銀座線の車両だったとか。あれま、ホントだ。


銀座線、以前乗っていると突然、室内灯がたまに消えて、非常灯が暗い車内に点りましたね。なんか第三レールからの配電の都合だったらしいですが、今もそうなのかしら。

銀座線と言えば、矢張り丹波さん。ショーン・コネリーに一泡吹かせる、タイガーさん、格好ええ。


丹波さんと、1966年型ポンテイアック・パリジエンヌ・コンヴァーチブル。


先週、全日空機。ボーイング・ドリームライナーの長胴型B787−10、製造工場から羽田への新機納入回送便。運悪く到着時のホノルルは荒れに荒れた豪雨の悪天候。おまけに西風のコーナ風状態。最新型機でも最低視程2マイル、600フィートまでしか降りられず、西へ東へ散々空中待機、着陸試みるも滑走路見えずやり直し。やっと到着した頃は、1時間強遅れ。翌日はカラリと晴れ、羽田へ飛び立って行きました。


アラ・モアーナ・ショッピングセンター内のテスラ販売店。ここ数ヶ月で、サイバートラックを頻繁に街中で見かけるようになりました。色々な色のサイバートラックを目撃するんですが、あの自動車は基本的に塗装が出来ないので、色違いは皆、色のついたフィルムを貼っているそうです。


巷は相変わらずテスラだらけ。左に黒の一台、右に白いの2台、プラスぼくの背後にもう一台いました。
Posted at 2025/02/06 07:40:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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「合衆国のVW文化、その5 カーマン・ギア http://cvw.jp/b/1945280/48688035/
何シテル?   10/01 12:28
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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