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2024年10月06日 イイね!

最後の大型リンカン、特別仕様

最後の大型リンカン、特別仕様













最後の大型リンカンと言っても2000年代のタウンカーの事ではありませぬ。フルサイズ車が本当に大きかった頃のハナシです。

そのリンカンもダウンサイズされる事になり、最後の華よと、フォードが世に出したのが、4扉コンチネンタルと2扉のマークVに追加された、コレクターズ・エデイションと言う注文装備でした。これが普通の注文装備パッケージだったのか、それとも限定だったのかが疑問なんですが、多分限定ではなかったみたいです。




この頃のリンカンはこう言った内外装を着飾った特別仕様車が得意だったのですが、このコレクターズ・エデイション、余り宣伝もされていなかったの不思議ですが、その特別装備ですね。まあ座席が山羊さんのカシミヤを混ぜた豪華織物を使っているとか、計器盤一部が革張りだったとか、色々あるのですが、ぼくが卒倒しそうになったのは、絨毯なんです。




知る人ぞ知る1979年、フォードは絨毯の品質に問題があって色々苦労してたんですが、この特別仕様のリンカン。昔の自動車の絨毯はちゃんと毛足が生えている絨毯で、その毛足が一旦上に出て繋がったまま下生地に戻ってくる、所謂ループ・パイル、そのループを宙で切ったカットパイルやらあるんですが今は全く毛足もなにも無くて、ただザラザラした合成樹脂の繊維を張り巡らして糊で形成した物を使ってるのが残念です。軽量で製造容易、遮音性に優れ安く作れ、製造組み付けも簡単です。

でも昔は(ごめんなさいね、昔の話ばっかりで)ちゃんと絨毯、それも各級があって、特にフォード車はフルサイズ車には18オンスのカーペットを使ってますと誇らしげに言ってました。だがこのリンカンの特別仕様車は違うんです。

普通のリンカン車が18オンスの絨毯を使っていた時分になんと、36オンスの絨毯を使っているのでした。それだけでは終わりません。まあこのクラスの高級車になるとトランクにも絨毯が敷かれているのは不思議ではないのですが、この特別仕様は何とトランクに敷く絨毯が、通常室内に使われている高級の18オンス絨毯なのです。それでも満足しなかったのか、トランクリッドの内側まで18オンスの絨毯が貼られているのでした。

この豪華絢爛さ。まあ一般消費者が見ればただの貨物室でしょうが。。


普通?のリンカン。格段に座布団の枚数が減りますね。


今時高級車の宣伝に、どう言った絨毯が使われいるとか、座席の生地がどう言った織物で作られているとか、絶対出てきませんから。そういう世の中、良くなったのか、悪くなったのか。。

この余り知られていなかった特別仕様、生産台数は12,673台。今では何台残っているか。。。。。

リンカンはあれだけデカイ図体でいながら扉の窓枠が無いスポーテイーな振る舞いが素敵でした。日本の古い犯罪物の番組を見ると結構出演しているので、当時はキャデラックより人気があったのかもしれないですね。


この C.W. Ramsay と言う人。日本フォードの社長さんと察しますが、彼のバイオが全然見つからないんです。何処から来た誰だったのでせうか。


おお、久しぶりにシェヴィー・ノーヴァを目撃。20年ほど前、同型青色のノーヴァをタクシーで運営している人がいたんですけど、もう無くなっちゃったみたいです。ハワイでは昔、数台しか保有していない小さなタクシー会社があちこちにあって、所謂流しではなく、小さなギャラージで待機していて、電話が鳴ったら出て行くと言うのが普通でして、その名残のタクシー屋さんの駐車場がまだ2、3件残ってます。
Posted at 2024/10/07 03:20:54 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2024年09月29日 イイね!

天国と地獄

天国と地獄






先日youtubeで昔のクラウンの宣伝を見ていたのですが、どうも変なのです。2扉ハードトップ車、4扉セダーンの両車、よく見ると前後にサイドマーカーが付いている上、ステアリングホイールが左側のLHD北米仕様ではないですか。わざわざフェンダーミラーを植えてJDM仕様に見せかけたんですね。


2扉ハードトップはどの画面も前部が見えません。これは輸出仕様は全て前照灯が丸目四燈だったので、日本国内とは違うのでわざわざ向きを後だけ見れるように配慮した訳ですな。広告部の努力。本物?のライオンまで何処かから連れて来て、結構苦労したように見受けられました。


沖縄でもLHDのモデルは2扉ハードトップでも丸目四燈。


1971年ー1972年にUSAとキャナダで売られたクラウンはごく僅か。ぼくの予想だと多分両国合わせて一万台行かなかったくらいじゃないかと思う程、宣伝も特にしてなかったし、申し訳程度に総合キャタログのはじにちょっと出てた、って感じで、当然販売店もどう売っていいのか非常に困ってたと思います。それでも連邦認定通して売ってたと言うことは厳しい審査を莫大な金額をかけて通してたって言うのですから、トヨータ本社の狙いは不思議であります。












同時期、これも1972年と1973年だけしか持ってこなかったカリーナも同じく謎の車種でした。種類は2セダーンのみ。こちらは統計が残っており、1973年ですけどその年に売れたカリーナの数はたったの15,008台。同年に売れたカローラの販売台数は116,905台。コローナが61,305台。セリカでも59,600台、トヨータ合計で1973年は326,844台売れた年です。因みにカリーナはUSAだけで、キャナダでは売りませんでした。
















そう、珍しい車種と言えば、くじらクラウンのジーゼルでしょうか。日本でクラウンのジーゼル版が出たのは確か、1977年ごろだったと思いますが、欧州のフィンランド、何故か1960年代から日本車を好んで輸入していた国、でクラウンのジーゼルが売られてました。多分彼方はギャソリンがべらぼうに高価なんでしょうね。だからジーゼルを乗せたクラウンを開発するのもなんとなくわかります。そのジーゼルエンジンはプジョー製のXD90系の4気筒エンジンでした。1975年にMS80系に移行した後もジーゼル搭載していたし、くじら以前のMS50系にもあったらしいので、人気はあったようです。

ぼくはプジョーのジーゼルとVWのジーゼルに昔は結構任されていたので詳しいです。XD90は基本的には昔のギャソリンエンジンをジーゼル化したものですが、XD90はシリンダーがライナー式で交換できるのでエンジンのオーヴァーホールに便利でしたが、タイミングギヤ歯車式で音がするのが欠点。その発展型がXD2でプジョーの505に広く使われました。確かヘッドボルトが21本あって凄く重いエンジンです。XD90はロト社の噴射ポンプを使っていて調整が簡単でしたが、XD2に進化してからボッシュの分配型燃料噴射ポンプになり、自分はロト式の方が好きでした。このエンジン、弱点はXD2になってから冷却ファンがタイミングチェインの覆いに付いているんですが、そのファンを電動クラッチで接続・断続式にしたら重さとその振動に耐えられずある日突然ファンがラジエータを突っ切って飛んで行くのが持ち病でした。クラウン他、汎用にこのジーゼルエンジンは他にも随分使われたようです。

プジョー505に載ったXD2型エンジン。













もっと昔のクラウンのコマーシャルに出てくるのは、衆議院議員の石田博英氏と彼のお嬢さん。今では考えられませんね。彼はソヴィエト連邦に繋がっていたとされ、ブレジネフ書記長にLHDの日産プレジデントを献上したのも石田氏が関与したと言われていますが、今となっては永遠の謎になってしまいました。



でもぼくとしてはクラウンは山村氏以外は考えられないのです。。。もうこう言う広告、俳優らは2度と出てこないと思います。




おお、ライヴァル登場。でもこの方、誰でせう?


黒澤明の最高傑作、天国と地獄。我が国では ”High and low” と題されてました。昔のクラウンが出てきます。撮影は冬なのに夏場の想定だったので、わざと換気窓を立てて役者は寒かったそうです。撮影は主に横浜、ぼくの生まれた中華街の石川町、関内の周辺ですが、あの界隈、当時の面影は微塵もなくなってしまいました。




三菱のキャタログ。


新宿も今では昔と全然違いますね。


昔のヴォルクスワーゲンの有名な広告。Nobody's Perfect。




日本でも同じ文句を誰かが使っていた。。。(書体まで真似しなくても。。)


テスラのサイバートラック、街中でチラホラ見かけるようになりました。非常に高価。1,500万円以上するらしい。。興味深いですけど、ちょっと用途不明。




ハワイではテスラの普及率が非常に高いのです。いつも充電施設のとりあい。


中秋節も過ぎ秋の気配。14番目の月も過ぎ、9月には帰らない?でも来週から用事でまた日本へ。東京・福岡と沖縄3週間。帰ってくる頃には大統領選挙です。
Posted at 2024/09/30 17:21:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2024年08月19日 イイね!

過去の番組と主役の自動車たち

過去の番組と主役の自動車たち










8月も中旬になり、旧盆が終わった今日から、全米民主党総会がイリノイ州シカーゴで始まりました。ぼくらはすでに予備投票済ませ、大統領選挙まであと3ヶ月に迫り、我が国の先行きはどうなるのか。

シカーゴは全米で3番目に大きい都市です。お馴染みブルース・ブラザースが撮影された場所ですね。ポーランド国外でポーランド人が一番多く住む都市でもあります。

永遠の名作。ブルース・ブラザース。名セリフの数々。でも最近の若い人には全然通じないです。。。


自分はシカーゴで学校へ行き、航空整備免許を取得し、ルノー屋で働いていたので、想い出深い場所です。

これがシカーゴ風のホットドッグ。ビーフで出来たウインナーにこれでもか、これでもかと具を盛り沢山載せます。トメートの輪切り、刻んだなま玉ねぎ、ホットペッパー、キューカンバーに甘いレリッシュ。通常ケチャップは使わずマスタードだけを加え頬張ります。こう言ったホットドッグ店が街角至る所にありその昔、働いていた頃はフレンチ・フライ盛りだくさんとソーダが付いて1ドル50セントくらいでしたっけ。ホットドッグはセイントルイスで発明されたと言う定説と、ニューヨークで発明されたと言う話がありますが、セイントルイスは兎も角、ニューヨークのホットドッグとやらは細くて縮み上がったウィンナが寂しく載っているだけの悲惨なもので、シカーゴ・スタイルに慣れた人には見向きもされません。キャリフォーニアで育った父も、戦前我が家は、ホットドッグ派?それともハンバーガー派だったの?と一度聞いた事がありますが、父は即、ホットドッグだったと答えました。



ブルース・ブラザースと共に、シカーゴが有名になった銀幕で、トム・クルーズ主演の青春影視、1983公開の、リスキー・ビジネス。


あの頃、影視には必ず主役と同格の重要な役割を受け持つ自動車が登場したものでした。ジェイクとエルウッドの相棒はご存知、警察から払い下げになった 1974年型ダッジ・モナコ。リスキー・ビジネスは1979年型のポーシャ・928。その撮影に使われた3台中の一台が今週競売にかけられるそうで、数年前に落札された価格より若干下がり、2.6億円くらいになると予想されています。


このV8エンジンでトランスミッションが後にあるスポーツカー、撮影に使われた車両は手動変速機仕様で、それまで自動変速機しか乗った事の無い当時21歳だったトム・クルーズが、クラッチを操作して変速する運転練習をした車両だとされています。


夜の街で親の車乗り回してる馬鹿野郎とヤジられる図。その相手がスバルDLと言うのが面白い。。。このスバルはステアリングが当時の基準からしてもエラく重たいのです。ぼくはこの車で自動車免許の実地試験受けたのでよく知ってます。。。



この現車、最初は白色だったのをこの金メタリックに塗装して、劇場車を専用に貸し出す会社からリースされたと聞いています。この金メタリックは1981年から選べる色で、撮影年の1983年の最新の色にしたかったんでしょうかね。トム・クルーズはこの928を余程気に入ったんでしょう、撮影が終わると新車の928を購入したそうです。

余談ですがトム・クルーズ、若い彼の買った初めての車は、彼がまだ18歳、ハイスクールに通ってる時に入手した、中古の1976年型ダッジ・コルトだったそうで、この三菱製小型車を運転し、俳優目指して地元のシラキュースからマンハッタンまで上京して行ったそうです。1976年と言えば排気ガス規制の始まった頃。ダッジ・コルトは1,600ccのエンジンにサーマルリアクタを後付けし、排気マニフォールドから火を炊く機関車如きの形相で走っていたんですよね。それに自動変速機ですから、さぞかし性能は緩やかだったんじゃ無いかしら。


その Risky Business. 多分この影視以前に使われてた広告宣伝キャッチフレーズと言われていますが、彼の呟くセリフの一言。”Porsche. There’s No Substitute” (ポーシャ。他に代用出来る物はありえない)このセリフが全米中での流行り言葉になり、当時、初めて赤字に転落し苦しんでいたポーシャ社のイメージ向上に、何十年も後にも、貢献したのは有名な話です。


シカーゴは数々の有名な電視番組やら影視が生まれた都市ですが、あそこは非常に独特な文化と言うか、政治がありまして、部外者にはさっぱり判らない冗談などが頻繁に出てくる特徴があります。1988年に封切りされた ”Switching Channel” もその一つで、バート・レイノルズ、クリストファー・リーヴとキャサリン・ターナーの絶妙なコンビ(撮影時、レイノルズ氏とターナー女史は犬猿の仲で大変だったらしいですが)脚本が緻密に描かれていて、特に当時のイリノイ州の政治を多少でも知っている方にとってはたまらない筋書きで、ぼくの好きな作品の一つです。

バート・レイノルズ、キャサリン・ターナー、クリストファー・リーヴの元気だった頃。シカーゴの筋書きなんですが、撮影はほとんどキャナダって言うのが興醒め。



今でも見たいと思う番組らが、30年経った今、ふいとユーチューブで見られるようになったのは、感無量です。長生きしてヨカッタ。。。

その一つが、80年代に全米で人気のあったABCのミステリイ・コメデイの、
”Moonlighting” です。


飛ぶ鳥をも落とす勢いの人気女優マデイー・ヘイズ(キャサリン・ターナー)が他人任せで資産運営し、知らないうちに大損出の多角経営にのめり込んで行って、その内一つの赤字会社、ブルームーン・探偵所を管理するデイヴィッド・アデイソン(ブルース・ウィリス)と一緒に事件を解決すると言う筋書き。

初回の放映で、マデイー・ヘイズの人気ぶりを示す、世界中の雑誌の表紙に飾られた顔写真の数々、その内の一つが何故か、”週刊女性” となっています。


(ムーンライテイングとは副業 ー秘密でやっている感じのー 事です)主題歌を歌うのはあの、アル・ジェロウ氏。ひょんな事から探偵事務所のパートナーになってしまった性格の正反対なこの2人が巻き起こす珍騒動。たまにはシリアスな恋愛感情。その他は常に喧嘩の続く探偵捜査。この時間帯に放送される普通のシナリオからはみ出て実験的な構成を試したりしたのですが、実はこの2人も、撮影現場で非常に仲が悪く、その上、シェパードが妊娠してしまった事もあって、結局1985年から1989年の5シーズンで終わりになっちゃいました。中に出てくる主役の自動車は1985年型のBMW635CSI。所謂E24ですね。これもカーチェースやったりぶつけたりで数台使ったらしいです。



次が同じE24が出てくる番組で、こちらは ”Shannon’s Deal” (シャノンの賭け)と言う題で、1990年から1991年までたったの14エピソードしか作られなかった珍しい番組で、ぼくらの年代でも覚えている人は殆どいないと思います。それが最近、ユーチューブで全作見られるようになったのです。


主役のアイリッシュ系の俳優、ジャック・シャノン扮するジェイミー・シェリダンは企業弁護士。それが複雑な問題から仕事を辞める羽目に。女房にも娘を連れて出ていかれ、その上全財産を失い、走った先は賭け事。それも巨額のタチの悪いギャンブルで多額の借金を背負う事に。ようやく目覚めた彼は弱い者を助ける駆け出し弁護士として、一からやり始める、と言うのが初回の話です。その以前働いていた企業弁護士会社の同僚にいじめられ、同僚自慢のE24のドアを一蹴りするのです。

ジャック・シャノンは自動車買う財力もなく移動は自転車。E24は元同僚の自慢車。




そして主題歌を含め、背後に流れる音楽は全てジャズの有名な奏者、ウィントン・マーセリスと言う趙豪華な話し。フィラデルフィアを舞台に、東海岸特有のアイリッシュ文化を混ぜ入れて、相棒が、キューバ系の女優、エリザベス・ペニャ(残念な事に彼女は2014年に病気で他界しています)。このアイリッシュの負け犬弁護士と、悩みを抱えも逞しく生きていくヒスパニック系女性秘書のやり取りが素晴らしいんです。放映が始まると、評論家の評判は良かったのですが、わずか2年で終了。また戻ってくると言う噂があったんですが、結局ダメでした。そのお気に入りの番組が33年後に再度見られるのは嬉しいです。

常に博打の誘惑から逃げ去ろうと戦っているジャック・シャノン。どこだかの運動選手の通訳を思い出しました。そう言えば焼きそばで有名な明星食品の一平ちゃん、我が国では生麺版もあるんですよ。インスタント版も国内工場で作られているのか、最近結構目にします。

要冷蔵。


一平ちゃんは昔の職場でも大人気で結構載せてました。。。


題名、Equalizer (イコライザー)と言うCBS系で放映されたスパイ・スリラー。



1985年から1989年まで88話。主演は英国はサリー生まれのエドワード・ウッドワード。その息子役がウイリアム・ザブカ(空手キッドでブロンドの敵役で有名)息子役が米語訛りなのがつまらない。。。


ウィリアム・ザブカ、空手キッドの悪役図。


空手キッドII、沖縄背景の筈が、撮影は殆どオアフ島東部だったらしい。。
ミスター宮城の場面はクアロアランチで撮影。



このイコライザー。音楽はあの有名な英國合唱隊、ThePolice のドラム担当のステユワート・コープランド(米国人、お父さんは中央情報局の局員)


主演の役者以上に主役なのは1984年型の黒塗り、泣く子も黙るジャギュアXJ6。クイーンズイングリッシュ訛りのウッドワード氏の足にするのには打ってつけですね。


主役のウッドワードは、ロバート・マコールを名乗る、あまりはっきりしない、ある政府の秘密機関を退職した口数少ないマンハッタンに住むおじさん。新聞に一行広告を出し、”問題抱えていますか?チャンスは絶望ですか?イコライザーに電話を” 電話をかけてくる顧客はいずれも特殊な問題を抱えた人ばかり。一筋縄では片付かない問題をこの黒塗りジャギュアに乗ったミステリアスな人が解決してくれると言う筋書きです。



このイコライザーは相当人気があったのか、のちに随分オリジナルとは筋書きが違っていますが、影視が The Equalizer、The Equalizer 2、The Equalizer 3 と3本も作られ、電視版も2021年に再度、復興版を出しています。もっともこのリ・メイク版は主人公がクイーン・ラテイーファになっていて残念ですが。。おまけに出てくる車両が最新の(一応黒塗りは守り通していますが)ジャギュアのSUV、F-Pace と言った具合で、オリジナルを知っている人は見ない方が良いかもしれませんが。

エドワード・ウッドワード氏は随分前に他界されましたが、同じ雰囲気を持つ英国の俳優は、ロンドン生まれのマイケル・ケインさんですね。彼は喜劇からシリアスな役までこなし、我ら ”米語” を喋る者にとっては、彼らの訛りがなんとも魅力的に映るんです。

今は ”サー” の称号を持つマイケル・ケイン氏。最初に買ったロールスロイスは
初代のコーニーシュ、確かまだお持ちだった記憶が。



1987年の銀幕。フレデリック・フォーサイスの小説を元にした冷戦スリラー、
題名、”The 4th Protocol”  (第四外交儀礼、こちらもユーチューブで見れます)。撮影はどっかで見た事があると思った背景だったんですが、RAFアッパー・ヘイフォード基地周辺だったらしく、ぼくはミルデンホール基地と確かレイケンヒースだけだったので思い違いだったのか。MI5の部員扮するマイケル・ケイン。ロシアの工作員はピアス・ブロズナン(彼実際はアイリッシュ人)。フォード・トランジットがブロズナン駆るフォード・エスコートを追っかけるのも迫力がありますが、マイケル・ケインの乗るこれまた黒塗りC登録の、ローヴァーSD1がセイント・パンクラス駅構内のプラットフォームで演じるハンドブレーキ・ターンする場面に痺れます。




これも担当したのがあのカーチェイスで世界一有名な、ジョン・フランケンハイマー氏です。”RONIN"(浪人)でメルセデス450SEL6.9とシトロエンXMのカーチェイスを企画した人と言えば分かるかもしれません。最後の場面でマイケル・ケインの自家用車が登場します。多分に漏れず、矢張りジャギュアのXJ6。似合うもんですね。。。

ローヴァーSD1はたったの一年半、北米にも持ってきた時代があったのです。されど抜群の信頼性、高価、と虚弱な販売網。あれだけ認定に投資したのに全く売れず、最終販売台数は1,100台程度だったらしいです。ビュイックのV8。大柄な車体。大陸には結構向いていた気がするんですがね。

あの金欠状態のBLが大枚叩いて北米仕様に改造したのに。。。。




ローヴァーはこれにも懲りず、その後ホンダ・レジェンドの兄弟車、ローヴァー800の北米版をスターリングと名乗って、新、旧両型を5年間販売しましたが、矢張り、人気はSD1と大して変わらず。全部で35,000台程度を売った後、北米市場から撤退。

話は変わり、一昨日は、旧盆ナカヌヒーの盆ダンス。日本領事館となり、ヌーアヌ通りが暫しエイサー会場に早変わり。。ハワイの盆ダンスもあと2週間を残す所。日没が随分早くなりました。。
Posted at 2024/08/20 14:54:27 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2024年06月13日 イイね!

5マイルバンパーの話、その1

5マイルバンパーの話、その1










米国の自動車産業が一番輝いていた時期、1950年代から1960年代にかけて、なんでもござれの時代が続きました。聳えるようなテイルフィン。宇宙船のような計器盤(丁度その頃、宇宙を目指せと、全米中が沸いていた時代です)やら、何百馬力のエンジンで疾走するマッスルカーなどなど。技術の向上は目を見張るものがありましたが、その頃、安全性とか環境保護とかの懸案は、逆に正義の敵じゃ!と言う風潮があったのも確かです。まあ人種問題やらヴィエトナム戦争問題で政府方針反対の風潮が加担してたのかもしれませんが。その内、大気汚染、交通事故が半歩遅れて問題化されいずれも無視できない環境になり、遂に政府が動き出します。

その結果1966年に生まれたのが DOT、Department of Transportation (運輸省)とその管轄下のNHTSA(ナッサと読む)National Highway Traffic Safety Administration, 全国道路交通安全委員会です。そして1968年にFMVSS, Federal Motor Vehicle Safety Standard, 連邦車両安全基準法が発令し、現在では当たり前になっている安全装備、シートベルト、サイドマーカーライト、2回路ブレーキシステム、パッドで覆われた計器盤、伸縮式ステアリング・コラムなどが法律になったのでした。

その際、不思議だったのは、バンパーの基準がFMVSSに盛り込まれていなかった事です。各社、相変わらずメッキが滴るような大きなバンパーとグリルを作っていたものの、FMVSSがいずれはバンパーにまで及ぶのは時間の問題だと察していたみたいでした。んでそのバンパー基準の設立を政府に働きかけたのが市民団体やらではなく、車両保険の会社をまとめる保険屋団体だったんです。凝った作りの飾りバンパーをぶつけ、保険で直そうと言う消費者が増加していたんですな。このように、企業やら、宗教団体やらが法律を変えようと政府に働きかける際、ロビイストと言う政府にコネのある人脈を雇います。勿論カネのある企業の方が強い影響力のあるロビイストを雇えます。日本で言う天下りの人材なんかがそれに当てはまるでしょう。

なんじゃかんじゃの経緯後、最初に発令されたのが、1971年4月9日の、FMVSS、215条、”外装保護に関する規定” どうしてバンパー基準を外装保護の傘下に入れなきゃならなかったと言いますと、FMVSSは命に関わる安全装置の条例で、主に低速でショックを受けるバンパーは命には関わりがないんじゃないの?と槍玉が出たのです。それで215条の外装保護の規定の中に、安全装置の作動と言う項目があるので、バンパーなら外装で安全装置の保護になるんじゃない?と弁明して、晴れてFMVSSの中でバンパー規定が発足できたのでした。この条例が有効になった日付は1972年9月1日、つまりモデルイヤーで1973年型からでありました。

その次に国会を通過した法律が、1972年車両情報と経費節減法、Motor Vehicle Information and Cost Saving Act、略してMVICS Actです。バンパー基準法の中に、消費者に対して最大限に経費節約になる項目が含まれていました。

ですから5マイルバンパーの法律は2つの法律から成り立つ、なんともややこしいスタートを切ったのでした。



このバンパーの法律、初年のモデルイヤー1973年は、小手調べの感じで完全な5マイルでのバンパー基準は適応されず、まず前面を時速5マイルで、後方は時速2.5マイルで壁に衝突させ、安全に関わる装置、灯火類(ひび割れなし、光軸調整可能)、燃料系統、排気系統に定められた以上のダメージが加わらないかを見た上、フッド、トランク、ドアが正常に開閉でき、燃料キャップも通常に開閉できなければなりません。ここで重要なのは車体の外板にダメージがあるとか、無いとかが書かれていない事です。以上の項目に合格していれば車体がグシャグシャでも問題ないわけですね。各社、バンパーの取り付け金具を延長したり、かまぼこ条のゴムの塊をバンパーの先端に付けたりで対応し、時間を稼いでいました。

ややこしい事にこのFMVSS215条には毎年例外車両があり、例えば車軸間が115インチ以下でハードトップ形状の(または同様の屋根形式で後席がない車両)2扉車がそれに当たります。例としてはAMCジャヴェリン、ダッジ・チャレンジャーとプリムス・バラクーダですが、これらの車両は1974年が最終年だったので結局1973年のバンパー基準には最後まで対応していませんでした。その他に数年以内にモデルチェンジ予定の車種、輸入台数が少量に限られる車種(ロータス・ユーローパ)なども例外車両だったそうです。

そして遂に、1974年に本格的に5マイルバンパーが導入さます。

まず、衝突速度が、車体前も後ろも時速5マイルに。試験方法は、まず壁に正面衝突を前と後ろで1回ずつ、それに加え、静止車両に、車重と同じ重さの振り子式の錘を、バンパー高4.5フィートで時速5マイル、バンパー幅に1フィート間隔で横方向に左右5回ぶつけて(高さの許容範囲は±16インチ)最後に、バンパーの両端を30度の角度で振り子の錘を時速3マイルでぶつけます(これが相当堪えた様で特に方向指示器やらの破損で大掛かりな車体変更をしなければならなかった模様)。その上、1973年の試験項目の上に、懸架装置、駆動装置と制動装置が正常に動くかが加わりました。

次に来たのが1979年。今までの試験条件の上に、車体のバンパ以外の車体外板にダメージがあってはならない事に。これが所謂フェーズ1。この年に、FMVSS215条と、MVICS法が統合され、バンパー基準はFMVSS・581章にまとめられます。フェーズ1には各社、相当悩んだようで、1979年で大々的なモデルチェンジを実施して対応したり、結局諦めて1979年型から市場撤退、または車種消滅するケースも結構ありました。(市場撤退はバンパだけでなく、同じ時期に一層厳しくなった排気ガス規制、衝突規制対応などのトリプルパンチで、70年代後半の暗黒時代でした)

バンパー規制が一番厳しかったのは1980年からの2年間。それは1980年までの試験条件の上に、今度は衝撃を受け止めるバンパー自体に加わるダメージが定義され、バンパが最大3/8インチ凹むのと、バンパ自体が元の位置より最大3/4インチ以内に動くことが加わりました。これがフェーズ2。要するに5マイル以下でぶつかれば、車体の前も後も完全にダメージがなかった、と言うわけですね。こりゃ厳しいわ。。。。

その一番厳しい規定が緩和されたのが、1982年5月14日以降の車両、テスト速度が前も後ろも時速5マイルから2.5マイルへ下げられ、斜めのテストが時速3マイルから1.5マイルに格下げになりました。その後、多少の追記を含めバンパーの基準は現在に至ります。

規制緩和の理由は経費と燃費でした。5マイルバンパの法規が始まってから、政府は細かい経費対ベネフィットの研究をしており、要するに余り厳格にしすぎて消費者のためにならない。その上当時、燃料価格の高騰で資源節約を政府が音頭を取って先行している中、軽い簡易バンパーに戻したら燃費向上で、これだけ原油の節約になり、人民の為になる上、原油輸入を減らせるので外交のためにも有利になる、などと言うのが言い訳でした。。。

1982年から規制緩和になったとは言え、即、バンパーをひ弱にした会社、緩和後も5マイルバンパを続けた会社。その話は次回ですね。。。。

余談ですが、このバンパー基準にの他に、燃料漏れ基準専用の項目がFMVSSにはあります。この燃料系統のFMVSSは571条と言い、バンパー基準の215条に絡んで、それ以上厳格な基準があります。おまけにそれが最近、まあ、2006年ですが、再度改定され一層厳しくなっています。例えば前部を壁に時速48キロで衝突させ燃料漏れを見る。後部を70%オーバーラップで時速80キロ!で崩れるバリヤに衝突させ(車体は静止)燃料漏れを見る(これ最新の規定)側部を崩れるバリヤで時速53キロで衝突させ燃料漏れを見る(車体は静止)車体を前後を軸に宙で90度ずつ回転させ燃料漏れを見る、などなど。これは燃料漏れと衝突を観察する試験で、燃料系はその上、排気ガス規制の一環で、気化したした燃料を完全密封しなければいけないと、これまた厳しい試験があります。(なので燃料系の規定を満たしておけば、バンパー試験の際の燃料漏れは多分起きないと言う事でしょうね)

余りにも有名で社会問題にも発展したのは、後部衝突で発火したフォード・ピント。ぼくらの年代ならピント=炎上は同義語でした。

燃えよ、ピント。




燃えよ、ドラゴン。香港生まれのブルース・リーくん、サンフランシスコ背後の坂道に止まっているのが1965年型シェヴォレイ・ベルエア、ルノー・ドーフィンだったり、左のは英國ルーツ集団製のヒルマン・ミンクスの商用版、ヒルマン・ハスキー、ステーションワゴン。


バンパー規制と衝突時の燃料漏れの規制で、特にピントの騒ぎ直後に出たトヨータ・セリカ。トランクの床下にあった燃料タンクとそれに繋ぐ給油口は尾灯の間、バンパの上。スペアタイヤは横に立て掛け式でしたが。。


73年から急遽、燃料タンクは後席背後に移動し、給油口は左側ピラーに移動。多分想定もしていなかった法規適合で製造各社、特に外国の製造会社技術者群の間で大騒ぎになっていた事は容易に想像できますね。


1968年にGMのポンテイアック部門は人気の中型高性能車、GTOのモデルチェンジをした際、車両前部に柔軟な素材のポリユリセーン樹脂で作った外皮で出来たバンパをエンデユーロ(Enduro) と名付け、大々的に発表します。広告にはスレッジハンマーでGTOの前部を何回も叩く広告で衝撃が広がりました。この樹脂は温度に対し安定しているほか、元の形状に戻る記憶があり、それにギャソリンやらの化学薬品に対しても非常に耐久性のある樹脂でした。この色の付いた柔らかい ”顔” のGTOに拒否反応を示す購買層が居ると察した製造側はちゃんと、デリート・オプションコード674を選ぶと通常のメッキ仕様のバンパが注文可能でした。但し注文装備の隠れる前照灯はこのデリート674とは同時注文できませんでした。1968年に87,000台以上売れたGTOの中で、この674デリートオプションを注文したのは2,000台強だったそうです。

これが樹脂製の前部を持つ1968年型ポンテイアックGTO高性能車。


広告でスレッジハンマーでノーズを叩く。


技術者達も並んでスレッジハンマーを落とす。。




同色の前部が気に入らない層には、ちゃんと鍍金バンパーが注文できました。


その後GMはこのエンデユーロ樹脂の仕様を拡大していき、翌年1969年にはシェヴォレイのカマーロのバンパを同じ素材で注文装備の提供をします。

これが普通のメッキバンパーのカマーロ。1969年型。


注文装備でエンデユーロ製のバンパー仕様のカマーロ。


後日、カマーロやファイヤバードは車両前端を全てこのユリセーンで覆う形で随分スマートな外観になりました。カマーロは78年型から。


そう言えばセリカにも似たような仕様があったっけ。。。見た事ないですが。


GMでもコーヴェットは少し変な仕組みで1973年の衝撃吸収バンパにしています。車両前部を例のユリセーン樹脂の皮で覆い、その下の鋼鉄製補強材とフレームとの間に特殊なボルト、通称、”オマーク・ボルト”(Omark Bolt) で結合されています。このオマーク・ボルトは肢の部分が先に行くにつれて細くなっており、それを貫通する穴がフレーム側に付いています。バンパの補強材が衝撃を受けるとこの特殊ボルトがフレームに付いた穴を貫通しようとしますが、後方に動くと同時にボルト径も太くなるので、次第に穴に貫通しなくなり、衝撃を吸収するという仕掛け。1973年と1974年だけの仕掛けでした。当然車両前部をぶつけた際はこのボルトの交換になります。されど外皮はユリセーン樹脂でぶつかっても元に戻るので、下からオマーク・ボルトの状態を見ない限り、ぶつかった事は分かりません。

鼻先がユリセーン樹脂で覆われた1973年型のコーヴェット。


これがオマーク・ボルト。因みにオマーク社は銃の製造していたみたいです。


1975年からは潰れて衝撃を吸収する樹脂ブロックが内蔵されるようになり、オマーク・ボルトは消滅。


1975年、後方はGM自慢のエネソーバー(後述)で対応。


1973年にモデルチェンジしたシェヴォレイの中型車、シェヴェル・マリブーの高級版、ラグーナはフロントクリップの先端を全部このユリセーン樹脂で覆い、1978年にマイナーチェンジしたカマーロも同様、車両先端はユリセーン樹脂で覆われました。


製造側各社はこの強化バンパ基準の対応に四苦八苦し、その手順も各車種によってバラバラだったりします。

GMの大型車は、デルコの開発したエネソーバー(Enersorber) と言う、シリンダの中に液体を入れそれが衝撃で動くと小さい穴から固定してある狭いオリフィスから液体が流れようとし、衝撃に対応します。ピストンの反対側には不活性ギャスが圧入されており、衝撃で圧縮された後、膨張で元に戻ります。(要するにオレオ方式)




オールズモビルはラジエータグリルが上か下に蝶番で取り付けられており、バンパが引っ込むとそれに連られてグリルも後方へ逃げる構造でした。






オールズモビル、72年型にはしなる鋼板を使い、衝撃を吸収する構造を法規先行で装備してました。


シェヴォレイ・ヴェイガもしなる鋼板で衝撃を吸収。


キャデラックはラジエータグリルがバンパーに取り付けられており、バンパーが引っ込むとラジエータグリルも引っ込む仕組み。





クライスラーはGMのエネソーバーと似たり寄ったりですが、中にバネが入っており、衝撃を吸収した後、元の寸法に戻ります。




AMCは早々とGMからエネソーバーの部品供給を受け73年規制に合格しているだけでなく、 1973年型コムパクト車グレムリンは当然最初から後ろは2.5マイルの衝撃を吸収できるように強化されていましたが、注文装備でそれをGMのエネソーバー装着で5マイルまでの衝撃吸収に向上させる選択を与え、一年早く前後に5マイル衝撃吸収可能になり、そうすると車両保険の割引に適合すると宣伝していました。

1973年型のグレムリン。規制適合で前部はエネソーバー使った5マイルバンパー。でも注文装備で後部にも5マイルバンパの装備ができました。




74年型先取りで後にもエネソーバー式強力バンパーを。これを注文すると、車両保険の割引適合されたそうです。


74年型。本格的の前部・後部、両方5マイルバンパーのグレムリン。


各社1973年のバンパは足並みが揃わず、様々な仕組み、衝撃後元に戻る形、衝撃吸収したら部品交換になる形と混同している中、フォードだけが1973年全車種、前部のバンパは衝撃吸収・自己復帰の機能を揃えていました。(なのにGMほど1973年の新型バンパを宣伝していなかったのは不思議)。小型車のピントからリンカンまで、フォードは殆どの車種でゴムのブロックをバンパとフレームの間に噛ませていました。GMは例のユリセーン樹脂などでゴツいバンパの外観を何とかして美観にしようとしていたのとは反対で、フォードはがんじゅうな外観の凄バンパーをデンっと架装していました。でも例外は新しく出た、ピントの親戚のマスタングIIで、最初からユリセーンの外皮でバンパを隠していただけでなく、衝撃を吸収するのに、新開発のPGMと言う機構を採用。

PGMとは、ポリ・ジェル・ミテイゲーター(Poly -Gel -Mitigator) の略で、これは衝撃吸収に他社と同じくピストン形状のシリンダを使うんですが、中身はシリコンに添加剤を加え8,500PSIに加圧し、ジェル状にして装填すると言う物。シリコンは液体でもゴムみたいに柔軟性がありますから、その弾性を使いバンパーからの衝撃を吸収すると言う仕掛けでした。


ジャーマニー独國ではマスタングの名称が既に他車で登録されていたので、代わりに開発プロジェクトの名称、 ” T5 " で1978年末まで呼ばれてました。


日本で衝撃吸収バンパーが流通し出したのが、確かT100シリーズの通称、安全コロナだったと記憶していますが、確かその頃、シリコン・バンパーと呼ばれていた覚えがあり、ふむふむ、確かに資料にはシリコン樹脂を高圧で封入していると記されていました。って事は、これ、もしかしてフォードのPGMだったのかしらと? でもトヨータはその後、ほとんどユリセーンの塊を使った黒いバンパーに移行して行ったので、あれは何の事情があったのかと、知りたい歴史の一つです。




北米、最初に出たセリカは1971年型。外観も余計な物がなく綺麗でした。例の、”フルチョイス” システムはありませんでしたが。。。






72年型もほぼ原型ととどめていました。


73年、最初のバンパー規制に沿って大きなコブ、 ”バンパーレット” が加わり、バンパー下の方向指示器が大型化されています。この年から燃料タンクの位置が変わります。




そして74年。。。例のハードトップ車、軸間115インチ以内のエグゼンプションが適応されていたと察します。


74年の広報写真。



んで遂に1975年にはおっきなバンパー抱える事になります。大きく重いバンパーとより厳しくなった排気ガス規制で、エンジンは2.2リッターに。


カローラなんかも相当苦労したんだなーと、でも軽量車だったので少しは救われたか。多分30は多少最初から来たりくる法規改正に対応すべく考えられていたのかもしれません。

72年型のラインアップ。サイドマーカーの処理が実にスマートです。


73年になると突如、補強された物が目につく容易なり。。広報写真。


エクゼンプションのあったセリカより一足早く、74年には完全装備の法規対応に。細いバンパーの跡の凹みやら取り付け位置を隠す黒いゴム帯が虚しい。。特に例のコーナーからの衝撃を処理するのに苦労している事がわかります。でもカローラは翌年75年から30型にモデルチェンジするのです。


Posted at 2024/06/14 14:36:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2024年05月31日 イイね!

郵便配達

郵便配達












電子メールが発達したこの世の中で、じぶんは依然として郵便を送ったりするのが好きな方で、自然と郵便局に通うだけでなく、以前お仕事で飛んでた時、郵政省の受託運送で結構郵便配達便の乗務をしていました。

今週、郵便局で気がついたのが、郵便の投函箱。


外観はいつもと変わらぬ、あのお馴染みの形状なんですが、通常入れ口にある横長の取っ手の付いた扉がありません。


その代わり、何かシュレッダーみたいなギザギザの付いた歯が並んでいて、ちょっとしたコツが必要でしたが、何とか投函できました。



調べてみると、これはここ数年、投函箱からの郵便盗難を防ぐ新しい奴で、ギザギザの歯はラチェット形式になっていて、一度入れると引っ張って出せない様に出来ているそうです。

我が国の郵政省は万年赤字で、税金がかなり使われているので、新しい施設や、郵便料金値上げの際、必ずと言って皆から、何とかならんかのう、と文句が出ます。税金で補助されている鉄道のアムトラックもそうですね。

されど米国郵政省、United States Postal Service、略してUSPSと申します。結構時代の最先端を進んでいるのです。

一番一般的なのは、優先郵便、プライオリティメールと言うサーヴィスで、備えられた封筒・箱に入るのなら重量関係なく、国内どこでも一定金額で送れると言うサーヴィス。これらの封筒や箱は郵便局で無料で貰えます。


この優先郵便のサーヴィスを使えば、自宅のインターネットで宛名、宛先、郵送料も全て払えて、バーコードの付いたレイベルをプリンタで印刷し、箱に貼ってしまえば準備完了。それから街中の郵便配達のにーにーに渡すか、郵便局内にあるカゴに落とせば全て終了。頗る便利です。


その郵便局には大抵、セルフサーヴィスのキオスク機械が置いてあり、様々種類の切手を買えるだけでなく、優先郵便の支払い・宛先ラベルの印刷も全てできます。


刻々と値上げされる郵便料金に備えて、”永遠切手”、Forever Stamp と言うのもあり、それには切手の値段が印刷されてないのですが、多少高い値段なのですが、一旦買えば後日、郵便料金が値上げされてもその切手を使えると言う代物。現在大抵の人はこの永遠切手を買っているみたいです。切手は郵便局では勿論、超級市場やらでも買えますし、インターネットで注文すれば、望みの切手を郵送で送ってくれます。


これは数年前に発売開始になった、有名な、第二次世界大戦の陸軍第442歩兵隊を記念した切手。442歩兵隊は主に日系人で構成されていて、当時の日系人は敵人と見なされていたのを覆そうと、合衆国にただならぬ忠誠心を持って戦い、成果を上げた部隊として活躍、主に欧州と北アフリカですね。その部隊の功績を讃えた記念切手です。Go For Broke とは、まあ、一か八か!と言う意味合いですね。もう失うものは無い、突撃だ!と。


切手は貼るだけ以外にもあり、優先郵便は自宅で宛名レイベルと一緒に印刷できますし、USPS以外の会社から自宅で切手を直接封筒に印刷するサーヴィスもあり、中々便利です。


郵便配達となると、当然、歩道にある郵便箱に手が届く右側にステアリングのあるRHD車が便利で、少量ながら昔から、RHDの車両、特に郵政用ジープ、DJ3(DJはデリヴァリー・ジープの事)を作っていたアメリカン・モータースなんかが得意でした。


スチュードベーカーも。


配達も郵便本局の配達係だけでなく、僻地になると地元に受託配達が委ねられ、その為にLHDをRHDに変換するキットなんかもあるのですが、近年では、米製スバル・レガシーやら、サターンのステーションワゴンもRHD版を販売していたし、ジープもまだ新車のRHD版が買えます。以前日本の自動車雑誌の記者が、美国では右ハンドルは禁止されているから、なんて書いてありましたが、そんな事はありません。

LHDをRHDにする郵便屋さん用のキット。そういえば昔、英国に輸出されていたAMCのペーサーも、計器盤の裏側で、チェインとスプロケットでRHDにしてましたっけ


元祖、郵便配達のジープDJ。




RHD仕様を実際に日本向けやらに生産していたので、サターンのRHDも容易かったのか。。。


スバル・レガシーRHDは全てインデイアナ州・ラフィエット工場製。


USPSはAmazonの配達と協力していて、本来なら配達のない日曜日に郵政省配達車を最近は見かける様になりました。因みにぼくの経験からするとUSPSで配達が著しく遅延したり紛失するケースは余りないのですが、これがお隣り、キャナダになるとどうも質が落ちるようで、ヴァンクーヴァの実家から灣を越えてヴィクトリアに郵便を出すと10日もかかったり、勿論土曜日の配達もあちらじゃ無いしと。

キャナダ郵政省の電動配達車。これはナヴィスター製(NAVISTAR、昔のインターナショナル・ハーヴェスタ社)この画像、撮ったのが2012年の秋、ヴァンクーヴァでしたから、連中かなり前から電動化目指していたんですね。。。。


因みに北米のかなりのテレヴィ番組やドラマはキャナダで撮影されているんです。あっちの方が経費が安いんですかね。その際、街頭の風景なんかが出てくると、想定がUSAだと、殆どがキャナダで撮影した事はバレないんですが、たまに郵便箱でバレる事があります。キャナダ郵政省の郵便箱は赤いので。。。(USAは青)



Posted at 2024/06/01 05:05:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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