
プリンス車に乗る小生だが、プリンス会長の石橋正二郎氏(ブリヂストンの創業者)がプリンスを手放そうとした時、最初に身売り先として考えたのはマツダだった。
理由は簡単で、マツダもプリンスも、メインバンクが住友銀行だったからだ。
住銀としても、投資に莫大な金額がかかる自動車メーカーを二つも抱えるのはリスキーだし、両者をいっその事合併させてしまえばいいと考え、石橋氏の考えに賛同したであろう事は容易に推察出来る。
そして、プリンス自工の社長は、石橋氏が招いた元住銀常務の小川秀彦氏であった。
その小川氏、別の意味で有名である。
戦後、トヨタが財政危機に瀕した時、助けを乞うたトヨタに対して、「機屋には貸せるが鍛冶屋には貸せない」と追加融資を拒んだ、元住銀名古屋支店長でもあったのだ。「機屋」とは、トヨタが元々織機メーカーだった事による。
ものは言いようなのであって、いくら何でもそんな失礼な事を言うだなんて、小川氏はどんだけ無礼で傲慢な人だったのだろうかと、これまた色々と想像してしまう。
事実、元プリンス動力機構部長で、後に日産工機社長、オーテックジャパン顧問を歴任した元中島飛行機のエンジン技術者であった岡本和理(かずただ)氏も、「一体何様だというような傲慢な事を役員会で言うような人物だった」とまで言っている。
さて、マツダとプリンスの合併だが、周知の通り実現していない。
マツダの松田恒次社長が、「弱い企業を救済する意味での合併はしない。うちより強い会社、例えば日産さんとなら合併を考えても良い」と拒絶。マツダと日産の合併なんてあり得ないわけで(合併する理由が無い)、つまり早い話が、「プリンスというお荷物なんか背負いたくない」という意味だ。
しかも、当時すでに西ドイツのヴァンケル社とロータリーエンジンについての技術提携の話を終えていたはずのマツダが、プリンスの技術を特に魅力的に感じていたとも思えない。(ロータリーエンジンについての是非はさておき。)
石橋氏が次にプリンスの身売り先として考えたのはトヨタだ。
そこで槍玉に上がるのが前述のプリンス小川社長だ。
トヨタ側はやんわりとイヤミを言った。
「鍛冶屋のうちでは都合が悪いでしょうから」とキッパリ断ったのだ。
かつて住銀支店長だった小川氏に「鍛冶屋には貸せない」と足蹴にされた事をトヨタは忘れていなかったのだ。
余談だが、トヨタが住銀と手打ちをするのは、住銀が三井銀と合併して三井住友になってからである。その時、三井住友がトヨタに詫びを入れて、手打ちとなったのだ。
そこで必然的に、石橋氏は次の交渉相手として日産に話を持ち掛け、日産の川又克二社長もダボハゼよろしく、プリンスと合併すればトヨタを抜ける!と早計に考えて石橋氏の話を受け入れたわけだ。
これで一瞬だけ日産は「日本一」の自動車メーカーになったのだが、それも束の間、またすぐに二位に転落した。
トヨタは企業文化があまりにも違い過ぎるプリンスとの合併は、前述の小川氏との因縁を別にしても、やるべきではないと踏んだのだ。そしてそのトヨタの判断は正解だった。
日産とプリンスが真に融合出来たのは、合併から約20年ほど経ってからだったのだ。その間、労組問題や開発部門同士の確執やらで、ギクシャクしたのだ。
さて、プリンスの話をしたかったわけではない。プリンスの誕生と消滅の経緯も実に興味深い話なのだが、それはまた別の機会にキープしておく。
そう、マツダの初代ルーチェの話である。
小生は、マツダの初代ファミリアには幼稚園かそれ以前の頃に乗せてもらった事はあるが、初代ルーチェは恐らく乗った事は無い。
しかし、小生の中での初代ルーチェのイメージは、前回のオジキのスバル1000Sとは違う意味で鮮烈だ。
何しろ、カッコ良かったのだ!!!
それもそのはず。あれはベルトーネ時代のジウジアーロのデザインを基に、マツダのデザイン部門が手を加えたのだ。(ルーチェのデビューの時にはジウジアーロはすでにベルトーネを去り、後任のデザインチーフはガンディーニになっていたんじゃなかったかな?)
低く、広く、長く、フロントは逆スラント。小生にとってはあまりにもカッコ良過ぎた。当時の表現を使えば、「シビレる」デザインだった。
下の写真は、ルーチェのリア。恐らくこれは豪州向け仕様で、車名も「マツダ1500」になっている。
後で追加発売されたルーチェ・ロータリークーペも、これまた抜群にスタイリッシュだった。シビレた。(そのロータリークーペだけ、FFだったと知ったのは、オトナになってからだ。)
小生は二代目ファミリアのデザインも大好きだったし、とにかくマツダは垢抜けていてカッコ良かった。
その初代ルーチェだが、昭和41年、ちょうどプリンスが日産に合併吸収された頃のデビューだ。
エンジンもこれまたスゴい。
クロスフローSOHCの1500ccだ。
先にプリンスとマツダのつながりを書いたが、技術至上主義だったプリンスよりもスゴいエンジンだったのだ。
いや、プリンスも手を拱いていた訳ではない。
レース用の二代目スカイラインS54には、すでに前年にG7型直6SOHCエンジンをクロスフロー化したGR7B'エンジンを登場させていた。確かにそれはスゴいエンジンではあったが(このレース用エンジンを乗せたS54を持っている人を、小生は直接知っている)、市販には至っていない。
プリンスの悲しさとして、生き残りを賭けたレース畑での勝利のために、市販用エンジンの開発が後回しにされてしまったのだ。レース用エンジンの技術を逐一市販車にフィードバックするほどの時間的、規模的な余裕が無かったのだ。
さて、マツダだが、実は初代キャロルのエンジンもビックリするほどのハイメカニズムだ。
軽自動車と言えば大体2サイクルであったし、軽自動車用としてはそれが最適であったと小生も思う。
ところが初代キャロル、軽にもかかわらず、水冷直4のクロスフローOHV、しかも5ベアリング式だったのだ!! しかも総アルミ製の「白いエンジン」である。
技術至上主義のはずのプリンスの当時の主力エンジンが、ターンフローOHVの3ベアリング式、しかもヘッドもブロックも鋳鉄製だった事を思えば、ヒジョーにゼータクなエンジンだったわけだ。
キャロル自体は、そんなハイメカニズムにもかかわらず、軽というより普通車の縮小版とも言えるほどの凝りようで、逆に重量が嵩んでしまい、しかも瞬発力で2サイクルに負けてしまい、小生のガキの頃のイメージでも、ビービーと音がけたたましい割にはトロいクルマ、というイメージがある。
しかしキャロルの名誉のために言っておけば、あのスタイルは実にオシャレだったし、そしてそのエンジンは排気量を拡大出来るほどの余裕があり、後に初代ファミリアの800ccエンジンとして脱皮したのだ。
初代ファミリアが、あの初代カローラを開発した長谷川龍雄氏を生涯で唯一ビビらせたクルマだったと言えば、マツダのとんでもない底力も分かってくるというものだ。
初代サニーなんて眼中にも無かった長谷川氏が、それほどまでに初代ファミリアを脅威に感じたのだ。
但しマツダはその初代ファミリアでトヨタに本格的にタイマンを張ろうとはしなかったようで、その後はロータリー車を看板にしていき、浮沈したのだった。
そう、ルーチェの話だった。
あの流麗で実にイケメンなボディに、市販ではプリンスよりも先んじたクロスフローOHCエンジン。
小生が乗っている二代目スカイラインS5系は、特に4気筒車は幅も狭く背も高く、もう完全に時代遅れである。
プリンスがようやく市販車にクロスフローOHCエンジンをデビューさせられたのは、日産との合併の翌年、二代目スカイラインの末期であった。レース用のクロスフローOHCエンジンの技術が、ようやく市販車にフィードバックされたのだ。
余談だがそのエンジンはハコスカからケンメリまで排気量を変えつつ引き継がれ、そして初代と二代目のローレルにも引き継がれ、恐らくは当時の小型車用4気筒エンジンとしては最高峰だったかも知れない。(プリンスマニアの小生、そのエンジンを体験した事が無いのは、ここだけの恥ずかしい話であるw)
そして、記憶違いかも知れないが、ルーチェのテレビCMのキャラは、イケメン俳優の故・田宮二郎氏だったと記憶している。
イケメン俳優がイケメンなクルマのCMキャラ。もうどこからどこまでもカッコいい車、それが小生にとっての初代ルーチェだった。
もう一方で、初代ルーチェについてはちょっと笑える思い出もある。
それはルーチェのせいではないのだが、小学校時代、女子のNさんの祖母さんがクラスで有名人だった。
やたらとムキになる婆さんで、クラスの悪童らによくからかわれて、しかもからかわれる度に「うるせーよ、コノ!!」とババアがガキに反撃するのだ。悪ガキどものオモチャだったのだ。
そのNさんの祖母さんが、家の初代ルーチェ・バンを運転していて、田んぼにボチャン!と突っ込んだというのだ。
小生はその場を見ていないが、クラスではいつも「Nのバアちゃんがルーチェバンで田んぼに突っ込んだ」ネタで盛り上がっていた。
それはルーチェそのものとは関係ない話だが、初代ルーチェのカッコ良さを思い出すと、同時に「Nのバアちゃん」の田んぼダイビングの話もセットで思い出してしまうのである。
さて、初代ルーチェがどれだけ魅力的だったか、これでよくお分かり頂けたかと思う。(ウソつけw)