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2021年01月16日 イイね!

【問わず語り】 ガキ話~超絶ダサカッコ良かった三菱車

【問わず語り】 ガキ話~超絶ダサカッコ良かった三菱車小生がガキの頃、最もダサいと思っていた自動車メーカーは、三菱だった。
おっと、三菱ファン、オーナーの皆様、もう少し聞いて頂きたい。

小生、そんな三菱が大好きだったのだ。
ガキの頃の小生も、どこか冷めた客観と、そして無我夢中になる主観とか混在していて、その客観では三菱は「ダサい」、一方主観では「カッコいい」メーカーだったのだ。

小生が三菱が好きだったのは、オヤジが乗っていた会社の社用車の影響が大である。
オヤジの勤務先の会社が、社用車を一斉にトヨタの水冷パブリカバンに入れ替える前は、三菱のコルト1000F、1100F、11Fのバンだったのだ。(11Fは、バンには「F」は付いていなかったかも知れない。)
下の写真は、2サイクル3気筒時代のコルト800バンだが、これを水冷直4に載せ替えたのが、コルト1000F、1100F、11Fであり、スタイルに大きな変更は無く、グリルのみ少しずつデザインが変わっただけだ。




これは、水冷パブリカに比べて、どこからどこまでもしっかりと出来ていて、質感が上だった。
ドアが閉まる音、ダッシュボードのデザイン、それからあの「ルンルンルンルン…」というエンジン音。
水冷パブリカは、何から何までペナペナ、ドアが閉まる音も貧相、エンジン音も妙に軽くてシャーシャーと音が大きい。先代の空冷パブリカのようなユニークさも無い。そして、パブリカはフロアシフトだったのだが、コルトはコラムシフト。小生的には、オトナがコラムシフトをクイクイと動かす仕草が好きであり、フロアシフトはイマイチカッコイイとは思えなかったのだ。(こういうネガティヴな事を書いているが、今ではその水冷パブリカが好きなのだから、そこはご理解頂きたい。)

そしてその水島製コルトシリーズ、海外ラリーでもかなりの好成績を残した強豪でもあったのだ。(この後も三菱はラリーに積極的に参戦して好成績を残している。)



まあ大人になってから考えると、パブリカ自体がトヨタのエントリー車種であり、あまり質感が高過ぎてもコスト高になるからそれはメーカーとしては仕方なかった事だし、それで一定の台数も販売出来たであろうし、あれはあれで正解だった事になる。
そもそも、オヤジの勤め先の会社も、確かオヤジが語っていたには、コルトは値段が高いからパブリカにしたらしい、との事なので、トヨタは三菱から客を奪う事に成功したのである。
オヤジは「コルトは大阪で作っているから関東まで持ってくると値段が高い」と言っていたが、「大阪」は間違いで、あのコルトは岡山の水島製なのだが、パブリカは愛知県製だから関東に近くて安い、というのではなく、単純に車両本体価格が安かったのだろう。
実際、コルトはパブリカより、カローラクラスの車だった。

そしてオヤジは、自前の営業車初代サニーの「タイヤの細さ」をイヤがり、コルトを経て水冷パブリカに乗り、すっかりトヨタ党になったのだから、やはりトヨタは実際に車を使う年齢層の一般人(自動車マニアではない)にアピールする何かがあったのだろう。
そしてそれは、利潤を追求する企業としては、とてもとても、大切な事だと思う。
そして恐らくだが、トヨタは市場ニーズのためなら、自分らがイイと思わない車でも作ると思うのだ。そしてこれも、ものすごく大切な事だと真に思う。
企業やエンジニアのこだわりなんて、市場のニーズと合致して初めて光り輝くのであって、そうでなければ、それはただの自己マンでしかないのだ。

これは自動車とは無関係の話だが、例えばの話、かの秋元康氏は、一連のAKB系列グループを本当に良いものだと思ってプロデュースしたかどうかは小生は知らない。
しかし、それらはヒットした。元々ニーズが無かったところにニーズを作り出したのか、ニーズを敏感に察知してああいうグループを作ったのか、どちらにしても秋元氏は天才だ(おニャン子時代から)。
そして、トヨタというメーカーは、秋元氏と同じ「天才」集団だと小生は思ってきた。

さて、三菱だが、小生にとっての「ダサカッコイイ」コルト、オヤジが乗るコルトバンがとても誇らしかった。
その頃、小生はいつもクルマの絵を描いていたが、オヤジが乗るコルトバンの絵が多かったような気がする。

ある日、オヤジが、「今度会社のクルマがパブリカになる」と言った。
小生は、それはやめて欲しいと言った。ずっとコルトに乗っていて欲しいと懇願した。

そしてある日、家の外を見た。
カラーリングは同じだが、まるで違うクルマが外にある。水冷パブリカバンだ。
ガーン!!!!!!
オヤジはこのセガレの頼みを聞いてはくれなかった。セガレの心を踏みにじって、水冷パブリカなんかに乗って帰って来た。

確か夏だったと思う。なぜなら、網戸にしがみついて、そのパブリカを見て怨めしくて泣いたからだ。

まあ、要するに幼稚園児なので、社用車は会社が決めるという単純な事すら分からなかっただけなのだが。

さすがの小生ももう諦めたが、その後もずっとコルトの絵を描き続けた。

ここでちょっと考えた。
冒頭で、小生も三菱はダサいと思っていたと書いた。そしてそのダサい三菱車が好きだったとも書いた。

さて、トヨタ、特に水冷パブリカについては、ダサいともカッコイイとも、何とも思わなかったのだ。

ダサいと思うのは、ある意味印象に残っているからではある。

ダサダサの三菱車、というか、三菱という自動車メーカー、その後もしばらく小生はダサいと思い続けていた。そして、ダサいのに惹かれ続けていた。

水島製のコルトシリーズも、名古屋製だったか京都製だったかの別系統の角ばったコルトも、どちらもダサいが好きだった。
あの、ヘッドライトが斜めに四灯並んだコルト1500も、「こんなの誰も要らねえよ」と思いつつも、小生は大好きだったのだ。



デボネアも、同じように好きだった。
思えばその初代デボネアも、まるで公開処刑のように長々と生産され、最後は三菱系企業の役員車としての需要しかないみたいな言われ方までして、気の毒だった。

初代コルト・ギャランも、あれは確かにそれまでの三菱車よりオシャレではあったが、まだまだダサさが残っていた。そして、それが好きだった。
かのコルト・ギャランGTOも、何となく垢抜けないが、好きだった。あのサファリブラウンのGTO MRは、好きだった。

しかし、普通車と比べて、三菱の軽自動車は、イメージ的にも他メーカーと互角に張り合っている気がした。
ミニカ・スキッパーというのがあったが、あれはとてもカッコ良くて、小生が納豆に対して感じている、「クサいが美味い」という感じではなく、純粋にカッコいい車だと感じた。




小生が直感的に、「今度の三菱の普通車はヒットする!」と思ったのは、ギャラン・シグマとギャラン・ラムダが登場した時だ。(初代ランサーは、まだまだダサさが残っていて、好きだった。)
その時だ。幼稚園児時代の小生が「ダサいけど好き」な三菱車から、より多くの一般層にもウケる三菱車に変貌したのは。

そして、ダサくなくなった三菱車は、その後次第に小生の印象に残らなくなったのである。
さらば、三菱車よ!
おめでとう、三菱車よ!
Posted at 2021/01/16 05:03:31 | コメント(2) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記
2021年01月13日 イイね!

【問わず語り】 ガキ話~ポップでキャッチーなホンダ

【問わず語り】 ガキ話~ポップでキャッチーなホンダホンダというのは、今はそれほどインパクトも感じないが、小生の幼稚園時代~小学生時代は本当にユニークで鮮烈なメーカーだった。

実はホンダについて語るのはちょっと憚られる。
小生は二輪についてはほぼ門外漢だし(自動二輪免許も持っていない)、F1活動については、せいぜい故・中村良夫氏の本を読んだくらいで、ホンダ・マニアの前ではホンダのホの字も出したくない。
たちまち知識の無いのが露呈して顰蹙を買うのがオチだからである。

だから、当然ながら、今回も小生の見聞き・体験した範囲で書く。

ホンダが本格的に四輪に進出したのは、ホンダSシリーズとそれに続くT360(驚愕のツインカム4キャブレター軽トラw)であるが、小生の年齢だと、やはりN360や、NIII360、それから軽トラのTNシリーズだ。

前回、マツダの初代キャロルは超ゼータクなスペックだったが、音ばかりで鈍重なイメージだったとも書いた。

ホンダNは、空冷2気筒の4サイクルだが、2気筒でしかも空冷で軽いから瞬発力もあったのか、同じ4サイクルのキャロルよりはるかに「元気のいい」軽自動車だった。
とても颯爽としていて、スバル360のような当時は王道だった2サイクル軽自動車と充分張り合う、「輝いている」軽自動車だった。

あれは幼稚園に入る前だったか、となりのシンジ君の家の車がホンダNだった。シンジ君は小生より年下だったはずで、お父さんとお母さんもうちの両親より若かったように思う。

ホンダN。音はビービーとけたたましいが、何しろ俊敏だった。キャロルの「ビービー」とは違った。
大人になってから知ったが、最高出力を9000回転で得るようにチューニングされており、正にF1参戦メーカーならではの高回転エンジンだったわけだ。

N360には、ツインキャブのTシリーズ(?)というのがあった。
ガキの頃は標準モデルとのスペック上の違いは分からなかったが、グリルが黒いメッシュで、シングルキャブ車の打ち抜きダイキャストグリルとはデザインが違った。

当時、小生は普通車だろうが軽自動車だろうが、国産だろうが外車だろうが、とにかく色々なクルマが大好きだった。

ホンダNがらみで軽自動車について思い出せば、スバル360は言うに及ばず、スズキ・フロンテ(初代RR駆動のもの。それ以前のスズライト・フロンテは文字通りFF駆動)、初代ダイハツ・フェロー、初代マツダ・キャロル、初代三菱ミニカ。
それこれも、素敵に思えた。
前回も今回も、キャロルについてマイナス面を書いてしまって恐縮だが、もちろんキャロルも好きだったのだ。

その中でホンダNは、垢抜けていた。ポップでキャッチーなホンダのイメージは、ホンダSよりもあのNで確立されたような気がする。

小生が記憶しているホンダNのアニメCMがYoutubeに残っていた!!(本来はカラーだったはず。)
雪女に「襲撃」されるCMだ。これが、子供心にも印象に残ったのだ。そう、このアニメCMで、子供の心の中にもホンダのポップなイメージを植え付ける事に成功したのだ。



このCM、雪女に凍らされた車をよそに、雪道もスイスイ走る事をアピールしたかったのだろう。
そして、普通の女に化けて乗り込んできた雪女をヒーターで溶かす。そう、空冷車だけどヒーターも効く!という事もさりげなくアピール。(どこまで効いたのかは、小生は知らないが。)
それから、TNIII360の「ショーバイハンジョー、ショーバイハンジョー」のCMも今でもハッキリ憶えている。

それからホンダは、Nのマイチェン版でNIII(エヌ・スリー)を出し、次にライフを出した。それもお洒落だと思ったが、小生はやっぱり初代Nのあの優しい顔つきが好きだ。
初代ホンダZは、別格だ。あの水中メガネ風リアウィンドウは、小生の知る狭い範囲ではワンアンドオンリーだ。

ところで、ホンダ1300(H1300)、ご存知の方は今では少ないだろうか。
ホンダとしては初の普通車セダンとクーペである。
あれも小生的にはとてもカッコイイセダンとクーペだった。





オトナになってから、あの1300はピーキーなバケモノ空冷エンジンで扱いにくいとか、シャシーが負けていて転倒の危険があるとか、そんな本の記述を読んだような記憶がある。

セダンだと、角目シングルキャブの「77」と、丸目で4キャブの「99」があった。
どちらもスタイルはとても好きだった。
小学生になり、他クラスの担任の先生がホンダ1300の77セダンに乗っていたのだが、小生の印象はとても良い。
静かで、何より乗り心地が良かった。タイトで、しかし固過ぎず、スウェーっと滑らかに路面を走るのだ。

この空冷エンジン、前述のホンダ元F1監督中村良夫氏が貶しているごとく、アルミの鋳物のお化けではあったと思う。
軽さが重要な軽自動車はともかく、普通車で空冷にこだわるのは無理があったと思う。

本田宗一郎氏(小生もガキの頃から、母からその名を教えてもらったほどの、業界を超えた立志伝中の人物)の空冷へのこだわりは異常だったようで、「水冷のように空気で水を冷やすなら、直接エンジンを空気で冷やせば良い」というのも、ちょっと困った話である。
本田氏も比熱とか、熱伝導率で水が空気より有利な事は分かっていたとは思う。
ただ、ラジエターで冷却水を冷やす事や、複雑な通路のウォータージャケットを設けるのをまどろっこしく思っていたのではないだろうか?

本田氏も最後は副社長で相棒の藤沢氏に説得されて空冷至上主義を諦めたようだが。

ただ、本田氏で尊敬できるのは、政府が輸入自由化に備えて日本の自動車メーカーの統廃合を考え、各メーカーが作る車種も限定しようとした時に、通産省の前で一升瓶を持って座り込み、役人たちを相手に「車(四輪車)を作らせろ!」と悪態をついた話である。
会社のトップが、時には文字通り先頭を切って、政府や官公庁に対してタイマンを張る事も、時には必要だと思うのだ。(小生もオトナなので、何でもかんでも政府を批判して粋がるような子供じみた事は嫌いだが、自分の信念・信条が潰されそうになったらハッキリと反対意思を述べる事は断然必要だと思っている。しかもホンダのようなコンセプトが明快な企業は尚更だ。)

さて、空冷・水冷の話に戻ると、ホンダ1300の空冷エンジンはさすがにナンセンスだと悟ったのか、それに何より排ガス対策に不向きだと認識したからか、ホンダ1300のセダンとクーペは水冷エンジンに載せ替え、「ホンダ145」という名でマイナーチェンジする。
これは、クーペは外観にあまり変化は無かったが、セダンの顔が小生的にはちょっとマヌケに見え、それが残念だった(これまたあくまでも主観である。オーナー諸氏のクルマチョイスのセンスを貶めるつもりも、その権利も小生には無い)。それだけ、空冷1300セダンは見た目はカッコ良く感じていたのだ。

とにかく、しばらくホンダは普通車カテゴリーでは軽自動車カテゴリーよりも元気が無い時期が続いた。

さて、その時期、米国でマスキー法なる法律が出来た。米国のマスキー上院議員による議員立法だったと思うが、早い話が空気清浄化に関する法律である。
アメリカが日本車輸出の一大顧客であるからには、この法律をクリヤーしないとマズい。
米国ビッグ3も難色を示したこの法律(仮に解決の目算があっても、一応は難色を示しておくのは経営者として当然だとは思う)、クリヤー出来ると手を挙げたのはホンダだった。



ビッグ3としては、本田に対して「あっ、バカ! そういう時は一応出来ませんと言っておけよ!」という気分だったかも知れないw
ホンダは二輪ではとっくに世界的メーカーだったが、四輪としては新参者。しかも自動車王国アメリカからすれば、小癪な敗戦国日本である。

まあ兎にも角にも、ホンダは「出来ます」と答えたのだ。

そこで颯爽と登場した、ホンダとしてはある意味初の本格的普通車が初代シビックだった。
シビックは鮮烈だった。




当時のNHKのニュースでも大々的に採り上げられ、「CVCCエンジン」なるものが、どうやら新世代の救世主みたいなエンジンらしいという事だった。
シビックはアルファベットではCIVICと綴るが、当初小生はその読み方が分からなかった。
恐らくCVCCエンジンとも引っ掛けて、「市民の」を意味する「civil」とダブらせていたのかも知れない。
ちなみに、CVCCエンジン自体の元ネタは古いソ連の副燃焼室付き自動車用エンジンなのだが、とにかく利用出来るものは利用すればいいだけの事。
また、後に排ガス対策は三元触媒方式がメインになり、ホンダもそれに倣ったが、大事なのはイメージだと思う。「CVCC」エンジンでマスキー法クリヤー!というイメージだ。他社の排ガス対策が殊更劣っていた訳ではなく、むしろそちらが主流になるのだが、先鞭を付けたホンダのイメージ的なアドバンテージは揺るがない。

シビックはその新しいCVCCエンジンの話題性だけでなく、スタイルもスマートで垢抜けていた。ホンダ145の何ともショボくれた(失礼!)スタイルから大きく前進しつつ、しかもホンダN360以来の愛らしさも引き継いでいる。
いやはや、とにかく初代シビックはホンダN同様輝いていた。
思えば3ドアハッチバック車はそれ以前も三菱コルト11Fとかもあったが、本格的な2ボックスのハッチバック車はシビックが最初ではないか?
アメリカではGMCグレムリンという車がそれ以前にあったが。

ここで余談。
日産の初代チェリーは元々旧プリンスの開発によるものだが、その初代チェリーは当初は3ドアハッチバックのFF車となる予定だったが、日産上層部によって「ライトバン臭い」と却下され、3ボックスっぽくデザインし直し、改めて「チェリー」としてデビュー出来たのだそうだ。
下の初代シビックのデザインスケッチを見ると、これが正に日産でボツにされた初代チェリーのハッチバック案のようなスタイルなのだ!



日産にはこの手の情けない話が結構ある。
初代プレイリーも旧プリンス系の荻窪の設計だが、役員で旧プリンス出身の田中次郎氏が役員会で懸命にプッシュし、デビューに漕ぎ着けたらしい。
のちに三菱のRVRとかホンダのオデッセイ等のああいうハイトワゴンというか、背の高い多目的ワゴンが登場してヒットした事を思えば、やはり日産の上層部は先見の明が無かったと言わざるを得ない。
マツダが初代ファミリア(カローラの長谷川龍雄氏が本気でビビった車)でトヨタにタイマンを張らなかったのはロータリーに本腰を入れるためだったからだとは思うが、日産の場合は、単にモノを見る目が無かったとしか言いようがない。

シビックに話を戻す。
とにかくシビックのデビュー時は、前述のCMとも話がつながるが、CMも実に印象的でオシャレだった。
シビックのCMも、初代ホンダZのCMも、どれもこれも良かった。
CMというとハコスカ~ケンメリのスカイラインのCMが一大旋風を巻き起こしたし、あのストーリー性はトヨタの歴代クラウンのCMと共に特筆すべきものだが、ホンダのCMはクルマそのもののポップさ、そして先進性(排ガス対策・燃費の良さ)がCMだけで分かるものだったと思う。

例えばスカイラインは、「このクルマでチャンネーを誘ってデートしたらキマるだろうな」というストーリー性があり、クラウンも「成功したオトコの乗る車だな」というストーリー性があるが、ホンダのあの、押しつけがましくなくメカニズムの優位性をビジュアル的に訴える手法は、秀逸だった。

小生の小学校低学年の頃だったが、シェリーというハーフの女優(今現在のSHELLYとは別人物)が主人公ドロシーを演ずる「オズの魔法使い」という子供向け実写ドラマがあった。その番組の提供がホンダだった。



1分ほどの長尺のCMも流すのだが、そこでもハッキリと、子供にホンダのポップさと優位性をアピールしたわけだ。
それから、かの淀川長治氏が解説していた「日曜洋画劇場」も、ホンダが提供の一社だった。そこでも長尺のホンダZのCMとかが流れ、ホンダのスマートさ、お洒落さが伝わってきたのだ。

そのホンダZのCMも前景の動画に含まれているので、お時間があればご覧頂きたい。

その他、その後のホンダ車についても2代目シビックとかワンダーシビックとかシビックシャトルとか、2代目プレリュードとか初代バラード・スポーツCRXに乗せてもらったりしたが、どれも好印象だ。
運転に関しては、ホンダに勤める友人の2代目か3代目のインテグラを運転させてもらったり、大学時代の先輩のEFかEGのシビックのSiのツインカムを運転させてもらった事はあるが、存分に乗り回したわけでもなく、今ふと思い出した程度だ。

ところで、初代バラード・スポーツCRXのCMも久々にこれまたポップだった。
サロンミュージックという音楽ユニットがCMソングを歌っていて、あまりにも印象的だったので、そのシングルレコードを買ったぐらいだ。
小生の中での、久々にポップでキャッチーなホンダだった。

最後に、そのサロンミュージックのBGMに乗せたCMもどうぞ。
ポップでキャッチーなホンダよ、永遠なれ!

Posted at 2021/01/13 04:37:23 | コメント(5) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記
2021年01月10日 イイね!

【問わず語り】 ガキ話~シビレるほどカッコ良かった初代ルーチェ

【問わず語り】 ガキ話~シビレるほどカッコ良かった初代ルーチェプリンス車に乗る小生だが、プリンス会長の石橋正二郎氏(ブリヂストンの創業者)がプリンスを手放そうとした時、最初に身売り先として考えたのはマツダだった。

理由は簡単で、マツダもプリンスも、メインバンクが住友銀行だったからだ。
住銀としても、投資に莫大な金額がかかる自動車メーカーを二つも抱えるのはリスキーだし、両者をいっその事合併させてしまえばいいと考え、石橋氏の考えに賛同したであろう事は容易に推察出来る。

そして、プリンス自工の社長は、石橋氏が招いた元住銀常務の小川秀彦氏であった。
その小川氏、別の意味で有名である。

戦後、トヨタが財政危機に瀕した時、助けを乞うたトヨタに対して、「機屋には貸せるが鍛冶屋には貸せない」と追加融資を拒んだ、元住銀名古屋支店長でもあったのだ。「機屋」とは、トヨタが元々織機メーカーだった事による。
ものは言いようなのであって、いくら何でもそんな失礼な事を言うだなんて、小川氏はどんだけ無礼で傲慢な人だったのだろうかと、これまた色々と想像してしまう。
事実、元プリンス動力機構部長で、後に日産工機社長、オーテックジャパン顧問を歴任した元中島飛行機のエンジン技術者であった岡本和理(かずただ)氏も、「一体何様だというような傲慢な事を役員会で言うような人物だった」とまで言っている。

さて、マツダとプリンスの合併だが、周知の通り実現していない。
マツダの松田恒次社長が、「弱い企業を救済する意味での合併はしない。うちより強い会社、例えば日産さんとなら合併を考えても良い」と拒絶。マツダと日産の合併なんてあり得ないわけで(合併する理由が無い)、つまり早い話が、「プリンスというお荷物なんか背負いたくない」という意味だ。
しかも、当時すでに西ドイツのヴァンケル社とロータリーエンジンについての技術提携の話を終えていたはずのマツダが、プリンスの技術を特に魅力的に感じていたとも思えない。(ロータリーエンジンについての是非はさておき。)

石橋氏が次にプリンスの身売り先として考えたのはトヨタだ。
そこで槍玉に上がるのが前述のプリンス小川社長だ。
トヨタ側はやんわりとイヤミを言った。
「鍛冶屋のうちでは都合が悪いでしょうから」とキッパリ断ったのだ。
かつて住銀支店長だった小川氏に「鍛冶屋には貸せない」と足蹴にされた事をトヨタは忘れていなかったのだ。
余談だが、トヨタが住銀と手打ちをするのは、住銀が三井銀と合併して三井住友になってからである。その時、三井住友がトヨタに詫びを入れて、手打ちとなったのだ。
そこで必然的に、石橋氏は次の交渉相手として日産に話を持ち掛け、日産の川又克二社長もダボハゼよろしく、プリンスと合併すればトヨタを抜ける!と早計に考えて石橋氏の話を受け入れたわけだ。
これで一瞬だけ日産は「日本一」の自動車メーカーになったのだが、それも束の間、またすぐに二位に転落した。

トヨタは企業文化があまりにも違い過ぎるプリンスとの合併は、前述の小川氏との因縁を別にしても、やるべきではないと踏んだのだ。そしてそのトヨタの判断は正解だった。
日産とプリンスが真に融合出来たのは、合併から約20年ほど経ってからだったのだ。その間、労組問題や開発部門同士の確執やらで、ギクシャクしたのだ。

さて、プリンスの話をしたかったわけではない。プリンスの誕生と消滅の経緯も実に興味深い話なのだが、それはまた別の機会にキープしておく。

そう、マツダの初代ルーチェの話である。
小生は、マツダの初代ファミリアには幼稚園かそれ以前の頃に乗せてもらった事はあるが、初代ルーチェは恐らく乗った事は無い。
しかし、小生の中での初代ルーチェのイメージは、前回のオジキのスバル1000Sとは違う意味で鮮烈だ。

何しろ、カッコ良かったのだ!!!
それもそのはず。あれはベルトーネ時代のジウジアーロのデザインを基に、マツダのデザイン部門が手を加えたのだ。(ルーチェのデビューの時にはジウジアーロはすでにベルトーネを去り、後任のデザインチーフはガンディーニになっていたんじゃなかったかな?)

低く、広く、長く、フロントは逆スラント。小生にとってはあまりにもカッコ良過ぎた。当時の表現を使えば、「シビレる」デザインだった。

下の写真は、ルーチェのリア。恐らくこれは豪州向け仕様で、車名も「マツダ1500」になっている。


後で追加発売されたルーチェ・ロータリークーペも、これまた抜群にスタイリッシュだった。シビレた。(そのロータリークーペだけ、FFだったと知ったのは、オトナになってからだ。)
小生は二代目ファミリアのデザインも大好きだったし、とにかくマツダは垢抜けていてカッコ良かった。

その初代ルーチェだが、昭和41年、ちょうどプリンスが日産に合併吸収された頃のデビューだ。

エンジンもこれまたスゴい。
クロスフローSOHCの1500ccだ。

先にプリンスとマツダのつながりを書いたが、技術至上主義だったプリンスよりもスゴいエンジンだったのだ。
いや、プリンスも手を拱いていた訳ではない。
レース用の二代目スカイラインS54には、すでに前年にG7型直6SOHCエンジンをクロスフロー化したGR7B'エンジンを登場させていた。確かにそれはスゴいエンジンではあったが(このレース用エンジンを乗せたS54を持っている人を、小生は直接知っている)、市販には至っていない。
プリンスの悲しさとして、生き残りを賭けたレース畑での勝利のために、市販用エンジンの開発が後回しにされてしまったのだ。レース用エンジンの技術を逐一市販車にフィードバックするほどの時間的、規模的な余裕が無かったのだ。
さて、マツダだが、実は初代キャロルのエンジンもビックリするほどのハイメカニズムだ。
軽自動車と言えば大体2サイクルであったし、軽自動車用としてはそれが最適であったと小生も思う。
ところが初代キャロル、軽にもかかわらず、水冷直4のクロスフローOHV、しかも5ベアリング式だったのだ!! しかも総アルミ製の「白いエンジン」である。
技術至上主義のはずのプリンスの当時の主力エンジンが、ターンフローOHVの3ベアリング式、しかもヘッドもブロックも鋳鉄製だった事を思えば、ヒジョーにゼータクなエンジンだったわけだ。
キャロル自体は、そんなハイメカニズムにもかかわらず、軽というより普通車の縮小版とも言えるほどの凝りようで、逆に重量が嵩んでしまい、しかも瞬発力で2サイクルに負けてしまい、小生のガキの頃のイメージでも、ビービーと音がけたたましい割にはトロいクルマ、というイメージがある。
しかしキャロルの名誉のために言っておけば、あのスタイルは実にオシャレだったし、そしてそのエンジンは排気量を拡大出来るほどの余裕があり、後に初代ファミリアの800ccエンジンとして脱皮したのだ。
初代ファミリアが、あの初代カローラを開発した長谷川龍雄氏を生涯で唯一ビビらせたクルマだったと言えば、マツダのとんでもない底力も分かってくるというものだ。
初代サニーなんて眼中にも無かった長谷川氏が、それほどまでに初代ファミリアを脅威に感じたのだ。
但しマツダはその初代ファミリアでトヨタに本格的にタイマンを張ろうとはしなかったようで、その後はロータリー車を看板にしていき、浮沈したのだった。

そう、ルーチェの話だった。
あの流麗で実にイケメンなボディに、市販ではプリンスよりも先んじたクロスフローOHCエンジン。
小生が乗っている二代目スカイラインS5系は、特に4気筒車は幅も狭く背も高く、もう完全に時代遅れである。
プリンスがようやく市販車にクロスフローOHCエンジンをデビューさせられたのは、日産との合併の翌年、二代目スカイラインの末期であった。レース用のクロスフローOHCエンジンの技術が、ようやく市販車にフィードバックされたのだ。
余談だがそのエンジンはハコスカからケンメリまで排気量を変えつつ引き継がれ、そして初代と二代目のローレルにも引き継がれ、恐らくは当時の小型車用4気筒エンジンとしては最高峰だったかも知れない。(プリンスマニアの小生、そのエンジンを体験した事が無いのは、ここだけの恥ずかしい話であるw)

そして、記憶違いかも知れないが、ルーチェのテレビCMのキャラは、イケメン俳優の故・田宮二郎氏だったと記憶している。
イケメン俳優がイケメンなクルマのCMキャラ。もうどこからどこまでもカッコいい車、それが小生にとっての初代ルーチェだった。

もう一方で、初代ルーチェについてはちょっと笑える思い出もある。
それはルーチェのせいではないのだが、小学校時代、女子のNさんの祖母さんがクラスで有名人だった。
やたらとムキになる婆さんで、クラスの悪童らによくからかわれて、しかもからかわれる度に「うるせーよ、コノ!!」とババアがガキに反撃するのだ。悪ガキどものオモチャだったのだ。
そのNさんの祖母さんが、家の初代ルーチェ・バンを運転していて、田んぼにボチャン!と突っ込んだというのだ。
小生はその場を見ていないが、クラスではいつも「Nのバアちゃんがルーチェバンで田んぼに突っ込んだ」ネタで盛り上がっていた。
それはルーチェそのものとは関係ない話だが、初代ルーチェのカッコ良さを思い出すと、同時に「Nのバアちゃん」の田んぼダイビングの話もセットで思い出してしまうのである。

さて、初代ルーチェがどれだけ魅力的だったか、これでよくお分かり頂けたかと思う。(ウソつけw)
Posted at 2021/01/10 03:00:53 | コメント(5) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記
2021年01月08日 イイね!

【問わず語り】 ガキ話~オジキの真っ赤なスバル1000S

【問わず語り】 ガキ話~オジキの真っ赤なスバル1000Sさて、ガキシリーズを続けてしまっているが、勢いでまたぞろ書いている。

スポーツカーとスポーティカー。
前者と後者はまるで意味合いが違う。
確かものの本によれば、前者の定義は、シャシーを他の市販車と共用しない、専用シャシーを持つスポーツ走行向き車両、だったかと記憶する。
後者は、他の市販車をチューニングしたり、見た目だけスポーティにした車、と見做せばいいと認識している。それには、例のリー・アイアコッカが企画したフォードの初代マスタングや、日本で言えばトヨタの初代セリカのような、いわゆる「スペシャリティカー」も含まれているかも知れない。

もちろん、「スポーティカー」は時として本格的な「スポーツカー」の性能を凌ぐ事もあり、一概にスポーティカーを急ごしらえのニワカスポーツカー呼ばわりする事なんて出来ないわけである。

さて、小生はと言えば、スポーティカーは割と好きだったが、スポーツカーはさほど好きではなかった。
ガキのくせして、「二人乗りじゃ、家族で乗れないじゃんか」とか、極端なクーペスタイル(同世代のガキ達はみんなそっちを好んでいた)は、どうも自分的にしっくりこなかったのだ。

幼稚園時代、あれは相模大野の近辺だっただろうか、オフクロの買い物に連れて行ってもらうと、いつも同じ場所に路駐しているトヨタ2000GTを見ていたが、それがスゴい車だとはおぼろげに認識していても、大騒ぎしたいと思う程には感じていなかった。

ヨタ8も嫌いではなかったし今でももちろん好きなクルマだが、当時は「二人乗り」だから自分的にはアウトだったのだ。

それから、フェアレディSP/SRも見る事はあったが、記憶としては、当時のあの手のクルマは音がけたたましく(オーナーが改造を施していたのかも知れないが)、そこが苦手だった。
今では「旧車」と呼ばれてピカピカに磨かれたそれらのクルマがイベントの花でもあったりするが、トヨタ1600GT(RT55)にしろ何にしろ、当時はそういう超高性能に部類する車はどれも何だか排気ガス等ですすけていて(見ようによってはスパルタンなのだが)、小生には品が無いように見えていたのだ。
ガラが悪く思えたのだ。

そんな中でも、ごく普通のセダン車のスポーツバージョン等は、結構好きだった。
実用性があってしかも内外装もスパルタンで「オトコの車」(こういう表現も今ではジェンダー論的にNGになるのだろうか)という感じがしたのだ。(自分が乗っているスカイラインについてはまた別の機会に書く事とする。)

実用性と言えば、うちの亡父は仕事柄、社用車にしろ自営業時代の車にしろ、ずっとライトバンだった。
小生、このライトバンという車種が実は大好物である。
ガキの頃から、休日に河原へピクニックに行くにしても、家族全員乗れて、しかもたっぷりの荷台に色々と詰め込めて、こんなに便利なクルマは無いと思っていた。
そこでガキの頃夢想したのは、「スポーツワゴン/スポーツバン」である。ライトバンのボディで、スポーティバージョンを作れば面白いのに、と。

しかし日本では、法制度上バンは4ナンバーの貨物車カテゴリーであり、同じボディを共用するステーションワゴンも5ナンバーとは言え「商用車クサい」と、長い年月バカにされてきた気がする。
小生が小学校低学年の頃だろうか、マツダがサバンナRX-3のロータリーワゴンというのを出していた。
ライトバンボディで、ロータリーエンジンを積んだ超スポーツワゴンである。
「ほう、オレが思い描いていた車種がついに出たか!」と小学生の小生も思ったが、ああいうのは確かあれ一発キリだった気がする。たぶん「商用車クサい」と敬遠されたのではないだろうか。

ステーションワゴンが多少なりとも市民権を得られたのは、恐らくだがサニーB310 の「カリフォルニア」あたりからではないだろうか? いや、違うかな?

その後、まあ色々なスポーティなワゴンが登場したが、その金字塔はやはりスバルのかつてのレガシーだろう。

さてさて、本題にいつまでたっても辿り着けないので本題に入る。
そうそう、レガシーのスバルである。

小生の母方の親戚は、伯父が一人メグロ→カワサキの代理店を兼ねたバイクの修理屋をやっていて、スバルの代理店も兼ねていた。
だからだと思うが、母方の親戚は大方スバル車に乗っていた。そう、だから小生は意外と初代レオーネあたりまでのスバル車には馴染みが深いのだ。

前述のバイク屋のオジキもずっと初代以来の歴代サンバーを乗り継いでいたし、オフクロの長兄も記憶がある辺りではスバル1000、スバルFF-1のバンに乗っていた。
仕事で大阪に住んでいたオジキもスバル360に乗っていた。
1000やFF-1のボクサーエンジンの音も実にカッコいいものだったか(あの音がイヤだという人がいるとかで最近のスバルのボクサーエンジン車は実にマイルドな音になり、寂しい限りだ)、バイク屋のオジキの2代目サンバートラックも実に高性能な、ビュンビュン走る「カッコいい」軽トラだった。(もっとも、体感速度が速かっただけだとは思うし、それにオジキは腕利きの整備士だったので、クルマの調子は完調だった。)
関東住まいの小生は毎年夏に一人で飛行機に乗せられて九州の親戚の家に遊びに行っていたが、50キロほどの道のりをオジキのサンバーの助手席で目的地まで連れて行ってもらった事があるが、あの大分県内の峻険な峠道を、オジキはたくみにシフト操作して「ヒュワン! ヒュワン!」と疾走するのだ。
時折、オーバートップのポジションにスコーン!とギアを入れたりして、その時にオジキにオーバートップとは、エンジンよりも速く回るギアの事だと教わった。

おっとっと、サンバーの話をしたかったわけではない。
表題の、母の弟である叔父のやや暗いレッドのスバル1000Sが主役だ。

これが、小生がガキの頃に乗せてもらった車の中でもダントツにスパルタンでカッコイイ、スポーツセダンだったのだ。
ボディは普通のスバル1000と全く同じ。
しかし内外装が違う。
グリルもブラックアウトされていたが、それよりカッコ良かったのは、テールランプだ。
こちらは普通のスバル1000。

こちらの写真の右上が、Sのテールランプ。そう、アンバーが無く、赤とバックアップランプの白のみなのだ。視認性から言えばアンバーは有り難いが、単なる見た目なら、こちらがカッコいいと思ったのだ。

そして、ホイールキャップも違う!
上の写真をご覧頂きたい。キャップのリムの辺りに丸い穴が沢山開いている。(デラックスグレードだと、四角い穴。)
これがシビレるほどカッコ良かった。たとえ重量軽減のためであってもアルミホイールだのは無用だ。あのホイールキャップがイイのだ。
それから、運転席よりのルーフ上に斜めのラジオアンテナがある。
この斜めのアンテナで、もうトドメを刺された。
要は何から何までカッコイイ車だったのだ。

いや、トドメはまだあった。音だ。
後にそれはSUツインキャブ付きエンジンだと知ったのだが、マフラーも排気効率を考えて消音効果を下げてあったのだろうか。
回転が上がると、あのボクサー音に交じって、排気管から「カリカリカリカリカリ~ン!!!」という官能的な音がするのだ!

先に、当時のスポーツカー/スポーティカーのけたたましい音は好きではなかったと書いたが、このスバル1000Sだけは別格だ。

小生にとってのスパルタンの定義は、あの叔父のスバル1000Sで確定したように思う。

前回、ブル410やセド130は金があっても今欲しいとは思わないと書いたが、もしも今、目の前に程度のいい真っ赤なスバル1000Sを持ってこられて、フトコロに余裕があるならば、衝動買いしてしまうかも知れない。

スバル1000は、一般的には、フロントブレーキがハブ側ではなく、エンジン側に付いているインボードブレーキというやつなので整備士泣かせだとか、初期のFF車としての未成熟な部分もあったのかも知れないが、ああいうカッコいいスポーツセダンならば、そんなことぐらい何のそのだと思わせるものがある。

そのオジキも子供が出来たりしてオトナになったのだろうか、そしていつもあのスバル1000Sを「調子がよくない」とバイク屋の兄(小生の伯父)に診てもらっていたからか(SUツインキャブの調整が面倒だったのか?)、後に初代レオーネの新車に乗り換えた。

初代レオーネはボクサー音こそすれ、普通のグレードで、実にお上品な感じがした。
だからこそ、余計にあの真っ赤でスパルタンなスバル1000Sの印象が小生の中で際立ったのである。

スバル1000S、バンザイ。

《追記》
スバル1000と言えば、これはFF-1も同じだが、ダッシュボードが意外に使い勝手がいいのだ。
どういう風にいいかと言えば、ダッシュボードのフタを開けると、お弁当箱をそっくり置けたのだ。下の写真をご覧頂きたい。

ダッシュボードが非常になだらかな坂になっている。そしてフタを開ければ、ラクラクにお弁当箱を置けるわけだ。
昔、オヤジの会社の同僚の営業マンのNさんが近所に住んでいて、そこの息子は小生の友人だったが、家族同士でクルマでどこかに行楽に行った事があった。
小生は、NさんのFF-1に乗せてもらったが、お昼の時間に、車を停めてご飯を食べたが、Nさんちのおばちゃん(奥さん)が作ったお弁当の箱が、そっくりダッシュボードのフタに載せられたのだ。
幼稚園時代の小生も「ははあ! こりゃ便利だ! うちのオヤジの会社のクルマ(コルト11Fだったか水冷パブリカだったかのどちらか)よりよく出来ている!」なんて思ったものだ😄
Nさんちのおばちゃんの作った玉子焼きやおにぎりの美味しさとともに、忘れられない発見だった。
そう、スバルはスパルタンで、しかもダッシュボードにお弁当箱を置けると、クルマオタクの幼稚園児を感動させる偉大なメーカーだったのだ。
Posted at 2021/01/09 00:43:50 | コメント(2) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記
2021年01月08日 イイね!

【問わず語り】 ガキ話~幼稚園時代の送迎車

【問わず語り】 ガキ話~幼稚園時代の送迎車50過ぎのオッサンである小生も、世間一般の家庭と同じく幼稚園に通った。

実は幼稚園時代にオヤジの転勤で一度転校ならぬ「転園」をしているのだが、最初の幼稚園は神奈川県。
まあ、賃貸平屋のいわゆる「文化住宅」だったうちの周囲は雑木林で、道も未舗装だった。
ヒジョーに田舎だった。

で、幼稚園は通園バスに乗って行くのだが、その通園バスは日産エコーのGC240 というやつだった。
そう、そのロングボディー版が、高速道路でペラシャフトがミッション側から抜け落ちて車をひっくり返らせ、死傷者まで出した事があるマイクロバスである。
後にマイチェンで「シビリアン」と名前を変えたが、小生、子供心に「これってエコーじゃん?」と思っていた。例の死傷事故での悪いイメージを払拭するための名称変更だったと思うが、そんなのは当時の小生は知る由もない。

さて、小生、そのエコーが好きだった。
あのH20エンジン(ガソリン直4 OHV 2000cc)の1速~2速の加速時の音がとても気持ち良かったのだ。
「フンフンフンフフフフフーン、フゥ~~~~~~ン」である。
日産の2トントラックのキャブオールやクリッパー(プリンスからの引継ぎ車)も全く同じ音をして走っていたが、つまり同じエンジン、しかも同じミッションだったからなのだろうか。
今でもあの音は好きだ。

ところで、幼稚園の送迎車だが、小生の地区が田舎だったからなのか、或いは車のやりくりのためだったのだろうか、時折そのエコーとは違う車で幼稚園の先生や職員さんが迎えに来てくれる事があった。

例えば、ブルのステーションワゴンWP410の初期型。(グリルに丸いバッジが付いているやつ。)
これがまた実に上品で好きだった。色は茄子紺。
シートも分厚く、うちのオヤジの社用車の水冷パブリカバンの安っぽいシートなんて比べ物にならない。
そして、E1型エンジンと呼ぶんだろうか、あの1200ccのOHVエンジンの音がまた実に心地よかった。
「ルンルンルンルンルン…ルルルルルルルルルーン」だ。
あの410の初期型は今でも好きだ。さすがはピニンファリーナというべきか。
もちろん、今ではボディの細部をよく見ると、自分も乗っているプリンス車の方が実は直線基調の中に微妙な曲線を隠し味的に効果的に使っていて、凝っているなあと思うのだが、それはそれ。

そして、410で送迎されるかと思えば、セドリック130初期型(やはりピニンファリーナ!!)で送迎された事もあった。
あれも乗っていてイイ車だと思ったが、そもそも高級車だからイイと思って当たり前だったかも知れない。
印象としては410の方が良かった。
あのセドリック、ダッシュボードは木目だったような、そうではなかったような。だからグレードは良く思い出せない。黒塗りの上級仕様である、カスタムシックスとか、スペシャルシックスだったかも知れない。
しかし、セドリックが高級・上品だったことはハッキリ憶えている。
これまたオトナになって考えてみれば、あのダッシュボードの右側にヒーターのツマミ類がある事自体、助手席の人間にはヒーターのスイッチを触らせないという感じでちょっと不愉快にも思ったりもするが…。(後期型で大々的なマイナーチェンジを受けた際に、あのヒーターのツマミ類はダッシュボード中央部に移されたと記憶している。)
それから、セドリック130もクラウンのS50系も、タクシー車としても馴染みがあった。良い意味で巷に溶け込んでいたと思う。

という事で、幼稚園時代の小生は内外装、そしてエンジン音などによって、トヨタより日産贔屓だったのである。(ただ、トヨタでも空冷パブリカやコロナRT40のエンジン音は別格だった。特にコロナのあのゴロゴロした苦み走った音はたまらなく好きだった。逆に、日産も510のL型4気筒や、ローレルやハコスカ4気筒のプリンスG型クロスフローエンジンの音は、なんだかカサカサ乾いた音がして好きではなかった。野暮ったく聞こえた。思えばあれがSOHCの吹け上がりの良さだったのかも知れない。)
ただこれまた断っておくが、初代カリーナや初代セリカが登場した時のトヨタ車のカッコ良さは、幼稚園児の小生も夢中になったという事実だけはお伝えしておく。
そして、例えばの話、フトコロに相当な余裕があったら410や130が欲しいか?と問われれば、答えはNOである。
知人らから後になって聞いた知識として、当時の日産車はオースチンの影響下から脱せておらず、ネジもミリとインチが混在しているとかで、ズボラな小生はそんなのまっぴらゴメンなのである。(※前回と同様重ねて言うが、そういうクルマのオーナー諸氏にケンカを売るつもりも、はたまたそういう車の歴史的意義を貶めるつもりもさらさら無い。あくまでも私見であるので、ご容赦されたい。)
Posted at 2021/01/08 16:11:28 | コメント(2) | トラックバック(0) | 昔話 | 日記

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