
胸の内がモヤモヤしているので、やっぱり書きます。^^;
夏休みに帰省した際、いとこの兄さんに誘われ、被災地を見て回りました。
初めは断ったんだけど、親族一同で説得されまして…。
しかも、その兄貴は解体屋に勤めていて、震災後は被災地で仕事していると言う。

そんな兄貴の案内で、陸前高田から45号線を北上し、宮古まで行きました。
途中で止まり、じっくりと写真を撮る事は出来ませんでした。 走るデミ雄の助手席から、カメラを向けるのが精一杯でした。 なので、これらの写真は被災地のほんの僅か、本当にちょびっとだけ写し取った物です。

現地に立った時の、見渡す限りの荒野。街があったであろう痕跡は、僅かに残った建物だけ。。。
あの何もない感じ、喪失感は言葉に出来ません。
私は戦後生まれだけど、戦後の焼け野原ってこんな感じだったかもしれない。なんて思いました。

特に臭いは、、、ありませんでした。瓦礫に埋もれていた頃は臭かったと聞いていましたが、きれいに片付けられたのでね。
住宅地は片付けられ整地されたけど、その他の所に瓦礫の山が続く。その見上げるほどの瓦礫の前に、小さな小山があり、石やセメント類・鉄骨などの金属類・木材などと分別されていました。だけど、あの瓦礫の前では無力感がこみ上げる。あれを分別するだけでどれだけ掛かるのか。

道路も痛みが酷く、凸凹道ばかり。デミ雄の純正足回り+15インチタイヤでさえ揺れが酷い所も多い。
片側交互通行や、道が寸断されている所もあった。脇道へ入れないように、パイロンが並べられ「一般車の通行を禁ず」の看板があちこちに置かれていた。

電気などのライフラインは未だ戻らず、交差点では警官による手信号。私が見たのは、北海道・神奈川・奈良・大阪・兵庫の警官達でした。兄貴によると、全国から来ていて沖縄も見たよだって。
警官も立たない交差点では、互いに譲り合い。。。だけど、事故が絶えず、とても危ないそうだ。
三陸地方はリアス式海岸。山が海へとせり出し、僅かな平地にも人が住んだ。その場所を、残らず津波が襲った。道路から見下ろせる、波際の小さな茶色い所。かつて集落があったであろう場所。もしかすると、このまま自然に帰るのかもしれない。

よくTVや新聞で「壊滅的打撃」という言葉を聞くけれど、その意味が唐突に理解できました。町が丸ごと、一切合切を飲み込んだ津波。
TVで何度も見たけれど、TVはやっぱりTV。
そのTVで、未だに瓦礫の前で途方に暮れる映像を見るけど、、、嘘じゃないけど、現在でもない。今は何とか0に戻った感じがしました。これからがスタートです。

ちょうどお盆中に訪れたため、あちこちのお寺さんで盛大に法要が行われていました。門前はどこも駐車車両の列が出来、花を持った人達が歩いていました。
そのお寺も、たいてい屋根にブルーシート。
高台にあり津波は免れたけど、地震にやられたのだろう。
もちろん被災地のあちこちに花が置かれ、手を合わせる家族も多かった。
被災された方達のご冥福をお祈りいたします。(-人-)
P.S
写真は、泣きそうになった物。あんな状態でも仕事を続けるとは!!
そんな方の元へ、私達が研いだ鋏が届いているといいなぁ。
Posted at 2011/08/30 15:49:55 | |
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夏休み | 日記