
* 文明開化の象徴
散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。と言うように、明治22年(1889年)東京市内における男子髪型は、誰もが散髪姿であった。ヘアースタイルは、分け目があるものや、長髪で後ろに撫でつけたもの(オールバックスタイル)、短髪、五分刈りがあった。明治4年(1871年)の断髪令以降、18年で世の中は様変わりした。
一方、明治5年4月には「女子の散髪を禁ず」という布告も出ている。あの散髪脱刀令は、旧 士族階級を滅するための物であったが、文面に男女別の記載もなく、拡大解釈した人もいて、女子も髪を切らされたからだ。現在でこそ、グラデーションボブという髪型もあるが、当時はまだ美しい長髪が美人の条件に含まれていた。
もう一つ、象徴的な物がある。それが鉄道だ。明治5年(1872年)5月 横浜・新橋間が開通し、大阪・神戸間、上野・高崎間などが続き、明治22年 東海道線が全線開通した。こうして国内の物流網が整えられていった。
* その後の義国
博覧会に理髪鋏を出品した翌年、明治11年(1878年)義国は師匠の娘:芳と結ばれ、芝田町に所帯を構え、そこに一坪の作業場を設けた。
明治15年 麻布飯倉町に町工場を建てた。鋏の製作量はうなぎ登りであったが、全国にある散髪屋からの求めには足りず、弟子を増やし、場所を広げ、鋏作りに邁進した。
彼が鋏を作り出した当初は、1丁に6日間を要した。と記録にある。その後、慣れてきて1日1丁になった。そして弟子を増やし、町工場も建て、増える一方の注文に応えようとした。しかしながら、それでも一人1日1丁を超えることは難しかったようだ。
いかにその規模が大きくなったとはいっても、所詮は手仕事だ。しかも、あまりに手仕事過ぎた。良い鋏を作るには手抜きができないし、弟子が仕事を覚えるにも時間が掛かる。要するに、手仕事には限界があるのだ。
少し話しは逸れるが、その頃の小売り価格は60銭で、仕入れ値(工場出荷価格)は30銭であったという。そもそもの舶来品が3円という事と照らし合わせれば、やはり刀のような特別扱いはされなかったのである。
* 水力を利用する
明治23年(1890年)義国40歳の時、その町工場が全焼した。そして再建の地に、渋谷村の井守川のほとりを選ぶ。新工場には水車を導入し、水力で1mもの丸砥石や木車を動かし、ネジ穴なども空けた。ちなみに木車とは、木で作った車輪の外周に紙ヤスリを貼り、鋏の刃表や刃裏を粗削りした。 これでわずかではあるが、仕事が楽になった。
じつはこれには前例がある。廃刀令後に師匠と移った陸軍砲兵工廠に水車があり、若かりし頃、水力を使った光景を目にしていた。
この水車利用について伝わるのは少ないが、次男 直二氏は「それにしても、季節によって水涸れが甚だしく(ハナハダシク)、さすがの親父も閉口したらしい。」と笑いながら語ってくれた。
* 石油発動機
水車に期待したほどの成果もなく、3年ほど辛抱した明治26年(1893年)麻布広尾町に500坪の土地を買い、町工場を新設した。今度は古川に期待したのである。井守川よりも水量があり、渇水の心配がないと判断した。というのも、井守川の渇水時には車夫を雇い、人力で1mもの丸砥石や木車を動かしていたからだ。
直二は語る「親父はどうしても生産量を上げたかった。いっそのこと蒸気機関にしようかと考えているうちに、煙突もボイラーもいらない石油発動機という物を知った。方々訪ね歩き、芝区三田の三好鉄工所が売っていると聞いて来た。直ちに赴き、注文す。」明治30年(1897年)の話しだそうだ。
そもそもこの石油発動機は、1890年 英国で発明され、欧州で実用化・製品化され、ユーラシア大陸を通って我が国まで来た。そして日本人の手で作られ、一理髪鋏製作者の手に入ったのである。わずか7年で世界に広まった近代化の速さには驚嘆する。今でこそ交通・通信の発達により地球が狭くなったが、明治という時代のことである。
義国が求めた物は1馬力半ほどの能力だったが、重さが1トンもした。だから増築工事も大がかりで、煉瓦(レンガ)を積んで建てた。そして動けば1時間で石油缶を空にしたという。当時は一斗缶と呼ばれ、18L入りだ。まさに浴びるほど使う、と揶揄された。それでも、とにかく彼は機械が欲しかったのだ。
ここで道具と機械の違いについて補足します。
道具とは人が使う物であり、人力だ。機械とは、人が動かさずとも勝手に動く物のことで、人はその仕事から解放される。この機械の動力として、蒸気機関などの内燃機関が利用された。つまり、機械というものを道具が発展したもの、あるいは複雑化したものとして簡単に片付けられないのである。
歴史学者はこれを差して、近代化・工業化と呼ぶ。それまでの古代~中世~近世に対し、近代とは道具が、いや動力が、人の手を離れて機械として動き始めた事を意味している。
そして水力はその簡便な構造や、人力で代われることから道具の範疇だ。但し、機械化(近代化)へと橋渡しをする役割を果たした。
* 内助の功
じつはこれを買うのには、妻:芳の助けがあった。この発動機の値段は600円もしたという。この時、義国には買えるだけの財がなかった。7、8年前に飯倉の大火で焼け出され、水車を当てにした井守川工場は水涸れのために思うように行かず、また移転した。そしてこの石油発動機購入の段取りになった頃には、どうやら財布がだいぶ薄くなっていたようだ。しかし夫の苦渋を見かねた芳が、嫁入り持参金を差し出したという。
こうして据え付けた発動機であったが、よく故障し、その度に義国が徹夜で修理した。直二は言う「母親は大金を投じた物が上手くいかなかったのでグズグズ言うし、仕事は滞る(トドコオル)し、まことに困り果てた。まだ子供だった私は、早く大きくなって父の手伝いをしなければならぬと心に誓った。」と。
* 電気の力
その後、日露戦争も終わり、明治39年(1906年)日暮里にある桜田鉄工所製の2馬力の石油発動機に買い換えた。さらに数年後、待ちに待った電力線が通じる日が来た。すると、築地明石町にある明電舎製の3馬力の電気モーターに買い換えた。そして晩年に至るまで使用したのである。
こうして明治30年から始まる機械化への取り組みは、時代の波に乗って大きく前進した。それと共に事業の方もますます発展できた。事実、同じ頃に鋏製造を始めた立野平作の名は、もう消えている。恐らく明治30年頃からは義国一門の独壇場であったろう。
Posted at 2013/06/26 18:17:11 | |
トラックバック(0) |
波佐美 | 日記