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2013年06月26日 イイね!

続 波佐美物語 4

続 波佐美物語 4* 文明開化の象徴
散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。と言うように、明治22年(1889年)東京市内における男子髪型は、誰もが散髪姿であった。ヘアースタイルは、分け目があるものや、長髪で後ろに撫でつけたもの(オールバックスタイル)、短髪、五分刈りがあった。明治4年(1871年)の断髪令以降、18年で世の中は様変わりした。

一方、明治5年4月には「女子の散髪を禁ず」という布告も出ている。あの散髪脱刀令は、旧 士族階級を滅するための物であったが、文面に男女別の記載もなく、拡大解釈した人もいて、女子も髪を切らされたからだ。現在でこそ、グラデーションボブという髪型もあるが、当時はまだ美しい長髪が美人の条件に含まれていた。

もう一つ、象徴的な物がある。それが鉄道だ。明治5年(1872年)5月 横浜・新橋間が開通し、大阪・神戸間、上野・高崎間などが続き、明治22年 東海道線が全線開通した。こうして国内の物流網が整えられていった。

* その後の義国
博覧会に理髪鋏を出品した翌年、明治11年(1878年)義国は師匠の娘:芳と結ばれ、芝田町に所帯を構え、そこに一坪の作業場を設けた。
明治15年 麻布飯倉町に町工場を建てた。鋏の製作量はうなぎ登りであったが、全国にある散髪屋からの求めには足りず、弟子を増やし、場所を広げ、鋏作りに邁進した。

彼が鋏を作り出した当初は、1丁に6日間を要した。と記録にある。その後、慣れてきて1日1丁になった。そして弟子を増やし、町工場も建て、増える一方の注文に応えようとした。しかしながら、それでも一人1日1丁を超えることは難しかったようだ。
いかにその規模が大きくなったとはいっても、所詮は手仕事だ。しかも、あまりに手仕事過ぎた。良い鋏を作るには手抜きができないし、弟子が仕事を覚えるにも時間が掛かる。要するに、手仕事には限界があるのだ。

少し話しは逸れるが、その頃の小売り価格は60銭で、仕入れ値(工場出荷価格)は30銭であったという。そもそもの舶来品が3円という事と照らし合わせれば、やはり刀のような特別扱いはされなかったのである。

* 水力を利用する
明治23年(1890年)義国40歳の時、その町工場が全焼した。そして再建の地に、渋谷村の井守川のほとりを選ぶ。新工場には水車を導入し、水力で1mもの丸砥石や木車を動かし、ネジ穴なども空けた。ちなみに木車とは、木で作った車輪の外周に紙ヤスリを貼り、鋏の刃表や刃裏を粗削りした。 これでわずかではあるが、仕事が楽になった。

じつはこれには前例がある。廃刀令後に師匠と移った陸軍砲兵工廠に水車があり、若かりし頃、水力を使った光景を目にしていた。

この水車利用について伝わるのは少ないが、次男 直二氏は「それにしても、季節によって水涸れが甚だしく(ハナハダシク)、さすがの親父も閉口したらしい。」と笑いながら語ってくれた。

* 石油発動機
水車に期待したほどの成果もなく、3年ほど辛抱した明治26年(1893年)麻布広尾町に500坪の土地を買い、町工場を新設した。今度は古川に期待したのである。井守川よりも水量があり、渇水の心配がないと判断した。というのも、井守川の渇水時には車夫を雇い、人力で1mもの丸砥石や木車を動かしていたからだ。

直二は語る「親父はどうしても生産量を上げたかった。いっそのこと蒸気機関にしようかと考えているうちに、煙突もボイラーもいらない石油発動機という物を知った。方々訪ね歩き、芝区三田の三好鉄工所が売っていると聞いて来た。直ちに赴き、注文す。」明治30年(1897年)の話しだそうだ。

そもそもこの石油発動機は、1890年 英国で発明され、欧州で実用化・製品化され、ユーラシア大陸を通って我が国まで来た。そして日本人の手で作られ、一理髪鋏製作者の手に入ったのである。わずか7年で世界に広まった近代化の速さには驚嘆する。今でこそ交通・通信の発達により地球が狭くなったが、明治という時代のことである。

義国が求めた物は1馬力半ほどの能力だったが、重さが1トンもした。だから増築工事も大がかりで、煉瓦(レンガ)を積んで建てた。そして動けば1時間で石油缶を空にしたという。当時は一斗缶と呼ばれ、18L入りだ。まさに浴びるほど使う、と揶揄された。それでも、とにかく彼は機械が欲しかったのだ。

ここで道具と機械の違いについて補足します。

道具とは人が使う物であり、人力だ。機械とは、人が動かさずとも勝手に動く物のことで、人はその仕事から解放される。この機械の動力として、蒸気機関などの内燃機関が利用された。つまり、機械というものを道具が発展したもの、あるいは複雑化したものとして簡単に片付けられないのである。

歴史学者はこれを差して、近代化・工業化と呼ぶ。それまでの古代~中世~近世に対し、近代とは道具が、いや動力が、人の手を離れて機械として動き始めた事を意味している。
そして水力はその簡便な構造や、人力で代われることから道具の範疇だ。但し、機械化(近代化)へと橋渡しをする役割を果たした。

* 内助の功
じつはこれを買うのには、妻:芳の助けがあった。この発動機の値段は600円もしたという。この時、義国には買えるだけの財がなかった。7、8年前に飯倉の大火で焼け出され、水車を当てにした井守川工場は水涸れのために思うように行かず、また移転した。そしてこの石油発動機購入の段取りになった頃には、どうやら財布がだいぶ薄くなっていたようだ。しかし夫の苦渋を見かねた芳が、嫁入り持参金を差し出したという。

こうして据え付けた発動機であったが、よく故障し、その度に義国が徹夜で修理した。直二は言う「母親は大金を投じた物が上手くいかなかったのでグズグズ言うし、仕事は滞る(トドコオル)し、まことに困り果てた。まだ子供だった私は、早く大きくなって父の手伝いをしなければならぬと心に誓った。」と。

* 電気の力
その後、日露戦争も終わり、明治39年(1906年)日暮里にある桜田鉄工所製の2馬力の石油発動機に買い換えた。さらに数年後、待ちに待った電力線が通じる日が来た。すると、築地明石町にある明電舎製の3馬力の電気モーターに買い換えた。そして晩年に至るまで使用したのである。

こうして明治30年から始まる機械化への取り組みは、時代の波に乗って大きく前進した。それと共に事業の方もますます発展できた。事実、同じ頃に鋏製造を始めた立野平作の名は、もう消えている。恐らく明治30年頃からは義国一門の独壇場であったろう。
Posted at 2013/06/26 18:17:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 波佐美 | 日記
2013年06月25日 イイね!

「スマートミスト」で、つるピカ・W効果!

■Q1:いまお乗りの愛車を教えてください(例:メーカー/車名/年式/ボディカラー)

MAZDA/Demio/2006年式/サンライトシルバー

■Q2:性別/年齢(年代)を教えてください。

男性/45歳

■Q3:愛車の保管状況を教えてください(例:屋外、屋根付き駐車場…etc)

ガレージ

■Q4:洗車頻度(例:2週間に1回、1か月に1回…etc)と洗車場所(例:自宅、洗車場、ガソリンスタンドなど…etc)を教えてください。

ふた月に一度くらい、自宅駐車場にて。

■Q5:普段、カー用品をどこで購入していますか?(例:ディーラー、カー用品店、ガソリンスタンド…etc)

SAかわさき

■Q6:いま使っているワックスやコーティング剤を教えてください。

特に使っていません。

■Q7:『スマートミスト』を今回のモニター企画前からご存知でしたか?
①はい ②いいえ

2.いいえ

■Q8:Q7で「はい」と答えた方に質問です。『スマートミスト』をどこで知りましたか?
①雑誌 ②新聞 ③店頭 ④インターネット ⑤ソーシャルメディア(ブログやツイッター、フェイスブックなど) ⑥友人・知人から聞いた

■フリーコメント

いつも洗って拭くだけなので、とても期待しています。(@^^@)

※この記事は「スマートミスト」で、つるピカ・W効果! について書いています。
Posted at 2013/06/25 12:27:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | みんカラ | タイアップ企画用
2013年06月21日 イイね!

続 波佐美物語 3

続 波佐美物語 3今回は平作の話しです。

* 捻子屋 荘吉
立野平作のところに渡辺 荘吉という人がいた。彼は元武士で菊間藩主 水野 忠敬に仕え、刀剣係をしていた。つまり、平作の元上司である。維新後、生活に困り平作を頼って上京した。そこで共に鋏作りに励み、明治15年(1882年)捻子屋(ネジヤ)として独立を果たした。そして彼が、理髪鋏の捻子屋の元祖とされる。

当時の鋏作りは、まず地金で柄や指輪(シリン)、小指掛け(ショウシカケ)、ネジ穴、接点突起に至るまで金槌(カナヅチ)で打ち出す。そして鋼(刃金)を鍛え、地金と合わせ(着鋼作り)、1本の鋏の原型を作る。そして刃表を柄研ぎ(ツカトギ)で、粗研ぎする。
ここまでが火造りと呼ばれる工程である。言い換えると、鋏を単刃の刃物同様に扱っている。

ここからは仕上げ工程と呼ばれ、まずは焼きによって生じた鋏身の歪みを嵌め木(ハメギ)を用いて矯正し、刃裏を手回し式の木車を用いて裏梳きする。鋏体部の穴にネジ山を切り、ネジを入れて静刃と動刃を合わせ、調子を整え、刃付けをする。つまり合わせ刃物として鋏を仕上げるのである。そして捻子屋の仕事は、これに当たる。

平作が鋏を1本ずつ叩き出し、荘吉が1丁として仕上げた。どちらが主でいずれが従であるとは言えず、ふたつながら優秀でなければ、切れ味の良い鋏は生まれないのである。

* 理髪器具商
平作と荘吉が作った鋏は、長 信博の手によって売られた。彼は旧幕府の旗本で、深川に屋敷を構えていた。平作が移り住んだ本所の近くである。維新後しばらくは無職だったが、平作鋏や櫛、ブラシなどの理髪器具を売るようになった。
友野義国に木平という道具屋がいたように、平作にも売り手がいたのである。そして、彼らは理髪器具商の先人とも呼ばれる。

ところが、大阪の藤原商店や友田商店が理髪器具も扱うようになると、木平も信博も消えてしまった。やはり生え抜きの商人相手では喧嘩にならなかったのだろう。
時は、明治20年(1887年)頃のことである。ようやく理髪鋏の生産も増え、商売として成り立つようになったのであろう。

ちなみに江戸時代には髪結い床であり、そこで使う剃刀(カミソリ)や床鋏は金物屋が売っていた。

* その後の平作
立野平作という人は職人気質で、気難しかったようだ。腕は良かったが、名人気取りだったという。だから弟子を育てるのには向かず、次第に平作鋏は消えていった。
ところが、理髪鋏の前から作っていた植木鋏の方は、現在まで続いている。

平左衛門の弟子の大野 政次郎から政太郎、正徳と続き、当代の正敏は五代目。上総鋏を名乗り、平作の鍛錬所があった市原で、今も当時のままの鋏の形と製法と、代々の親方達の知恵を貯えて、明治から変わらない鎚音を響かせている。


次回は義国の話しです。 では、また来週。
Posted at 2013/06/21 16:38:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | 波佐美 | 日記
2013年06月20日 イイね!

続 波佐美物語 2

続 波佐美物語 2今回は理髪鋏誕生編です。

* 理髪鋏の開祖
我が国で最初に理髪鋏を作ったのは、友野 義国という。
本名を釜五郎と言い、義国は銘である。元々は刀剣師、つまり日本刀を作る職人であった。
注:刀工(トウコウ)や刀匠(トウショウ)、刀鍛冶(カタナカジ)と呼ぶこともある。

明治4年(1871年)8月9日に発布された廃刀令(散髪脱刀令のこと)で刀の歴史が一旦終わりを告げると共に、刀剣師達も役目を終えたのである。
そして釜五郎は、師匠と共に小石川にある陸軍砲兵工廠へ移った。(現在の小石川後楽園である。)そこで鉄砲や大砲を作り、給与をもらうようになった。

刀剣師とは、単に刀を作る職人といったものではなく、一振りの芸術作品として、その制作を求められてもいた。その柄に刻んだ銘に関わる作刀工程の全責任を負う以上、あらゆる技術を修めていなければならない。そしてそれがそのまま、鉄砲や大砲作りに役立ったことだろうし、政府から望まれていたことでもあった。

しかしながら当時の先端兵器といえども、所詮は大量生産品であり、彼としては単調な作業ではなかったか。そんな時に理髪鋏と出会うのである。

* 道具屋 木平
友野釜五郎に西洋の散髪鋏を見せたのは、道具屋の木平という人だ。本名を斎藤喜兵衛と言い、横浜で髪結い床をしていた。彼は、他の髪結い師達が散髪屋に転身するのを見て、真似をせずに器具商を選んだ。散髪に必要な理髪鋏や西洋櫛なども、これから求められると考えたのだ。

現に、明治6年(1873年)3月 明治天皇が散髪を行い、それを機に全国で散髪屋が開業すると、理髪鋏などの器具がまるで足りなかった。商社が輸入すれども、数量は少なく、高価であった。そのため、床鋏(トコバサミ)と呼ばれる、髪結いの頃の大振りな握り鋏を使い続けていた。

そこで彼は輸入品である散髪鋏を国内で作ろうと考えた。その相手を探すうちに釜五郎と出会ったのである。この時、彼が持っていた鋏はフランス製だと言われている。

一方、釜五郎としても自分が散髪屋に行った際に、床鋏やあり合わせの鋏を使って、苦労しながら髪を切っている理髪師達を目の当たりにしただろう。当時、いかに新しい理髪鋏が求められているのかを実感したであろう。

そして刀と鋏の違いはあれど、同じ刃物として興味深く見つめていたであろう。また元刀剣師として、刃物で苦しむ姿は見るに堪えない思いもあったろう。だからこそ、木平が差し出した西洋の鋏を前にして、決断を下したに違いない。

こうして明治10年(1877)8月21日、第一回内国勧業博覧会に、「義国」の銘で理髪鋏を出品した。それは、タナゴ型幅広、刀身五寸と伝えられている。

*もう一人の開祖
じつはこの時、もう一人、理髪鋏を出品した人がいます。名を立野 平左衛門と言い、千葉県市原群平田村で生まれ、領主 水野出羽守に刀鍛冶として召し抱えられるも、維新により主家と共に失業。明治5年(1872年)東京に出て本所柳原町に住み、植木鋏や裁ち鋏などを製作、銘を「平作」とした。

口伝によると、千葉の五井海岸へ汐干狩に行った時、錆び付いた理髪鋏とおぼしき西洋鋏を拾い、これを研究改良したと言う。にわかには信じ難い話しだ。当時の理髪鋏は舶来品であり、とても高価な品物であった。それを海岸に忘れたり、落としたりするものだろうか。
今となっては確かめようもないが、ともかく、平左衞門は西洋鋏を手に入れた。

こうして彼もまた、第一回内国勧業博覧会に出品したのである。こちらの鋏は、義国の物より細身で、刀身四寸五分、銘は「平作」のままであった。

*刀剣師と理髪鋏
友野義国と立野平作は元刀剣師である。これは単なる偶然ではない。刀剣師は、刃物作りの職人の中では最優秀であった。逆に、なぜ理髪鋏は他の刃物作りの職人達(野鍛冶とも呼ばれる。)から生まれなかったのか。それは、文明開化で暮らしぶりが変わっても、包丁や鋸(ノコギリ)、鎌や鍬(クワ)といった道具は使い続けられ、求められ続けていた。それまでの仕事があり、比較的平穏な生活が続いていたのだ。

一方、刀剣師達は廃刀令により廃業した。つまり、生活の糧を失ったのである。
ここで改めて、刀剣師について補足したい。
江戸時代、刀は武士の魂とも呼ばれ、それを作り出す刀剣師は武士と同様の立場を得た。つまり、武士と同じ教育を受け、立ち居振る舞いも毅然としていた。刀を作る職人でありながら、武士に準じた身分であった。高い教養と知性を持っていたからこそ、新しい鋏を生み出せたのであろう。恐らく、全身全霊で取り組んだに違いない。

*刀の子
義国は鋏の作り方を弟子達に伝え、それが今も残る。それによると、鋼はもちろん玉鋼、焼き入れは備前物(他に、相州物がある。)、刃紋は直刃まがい(スグハマガイ)うちぐもり掛けであった。これらは全て刀を作る時に使う言葉であり、こうして作り出された理髪鋏はまさに刀の子であった。

刃金に玉鋼を用いるならば、地金に合わせるには硼砂付け(ホウサヅケ)と呼ばれる技法が必要だ。これを着鋼作り(チャッコウヅクリ)と呼ぶ。
また、地金には金槌(カナヅチ)で柄や指輪(シリン)、小指掛け(ショウシカケ)、接点突起に至るまで全て打ち出して作るのである。これを火造りと呼ぶ。
さらに、錆止めとして柄と指輪に赤漆を塗った。まさに芸術品とも呼べる姿だ。ゆえに彼らは鋏一丁にも銘を入れた。銘こそは、作者の魂なのである。

こうして誕生した我が国の理髪鋏は、初めから独創性があった。単なる外国製品の模倣ではなく、伝統に根ざした日本の理髪鋏である。それは一寸(3cm)もの長い接点突起と、指輪(シリン)の溝が外後方に傾斜していることにある。モデルとなったフランス製の鋏には見られない特徴だ。
特に指輪の傾斜は、鋏を安定して持てるように意図したものだ。このように使い手のことも考えて細工をするのは、じつに日本的である。
Posted at 2013/06/20 15:01:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 波佐美 | 日記
2013年06月19日 イイね!

ナイトオフ on 6/16

ナイトオフ on 6/16いつものように着くと、珍しく一番乗りでした。
しばらくしてりこるぬさんが登場。9時過ぎて、ぼちぼち集まり始め、気付けばいつもの感じになってました。

来てくれた方達は以下の通り。
りこるぬさん、雪月さん、常陸丸君、たまちゃん、ディグセグさん、いんでぃーさん、雅さん、たつき君、Esteedさん、まいける君、しんのすけさん夫妻、シバchang、ウタ氏、Lilyさん、メソケンさん、青デミ君yuriさん、ノブさん、てっちゃん、と。さん。

どうもありがとうございました。m(_"_)m
Posted at 2013/06/19 19:47:13 | コメント(6) | トラックバック(0) | オフ会 | 日記

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何シテル?   06/12 18:36
2006年(H18) 3月にデミオのキャンバストップを買いました。 銀色の1500ccのMTです。屋根開けてzoom-zoom ! 純正風味でDIYしていま...

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