「太陽の帝国」 大日本帝國 の続き。
帝國海軍技術士官であった氏を偲んで生前にお聞きした話を故人の手記より抜粋し数回に分けて書いている。
故人の回顧録、
戦争・第三部「大和出撃」の続き。
戦争・第四部
「運命の瞬間」
1945年(昭和20年)8月9日
その日、私は大村海軍航空基地の岸壁で佐世保より到着した機材の陸揚げを監督していた。
当時、佐世保工廠造船部の部員だったが同じ鎮守府である海軍大村航空基地での作業を支援する任務を与えられ部下を連れて出張していた。
実はこの機材は昨日到着の予定であったが部下の不手際で一日遅れ今日になったのだった。
お陰で作業は遅れ、また今日も長崎へ出張する予定が延び延びになってしまった。と口の中でブツブツ言いながら海の彼方を眺めていた。
その時だ、ピカリと黄色い一閃、続いてドーンと強烈な響きを体に感じて、ハッとして地に伏すと南の岬の彼方、長崎の方角に真っ白いキノコ状の雲が立上がり、その真ん中に火の柱が紅に巻き上がり続いて地を這う土煙が、じわりじわりと盛り上がっていった。

それは短い一瞬であったが時系列を追ったパノラマの動きは、五十年たった今日でも、色鮮やかに脳裏に焼き付いている。
「これは6日に広島に落とされた原子爆弾だ」と直感した。
しかしその時は、まだ長崎が被災地だという実感は無く、この瞬間、これでまた多数の人が命を失っただろうという、憤りと虚無感を抱いて私は呆然と立ち竦んでいた。

あの土煙の下、数万の人命が失われた事を後で知った。
長崎が直撃されて、地獄の惨状だという情報が入ったのは数時間たってからだ。
予定通りにこの日、長崎へ出張しておればその中に巻き込まれたはずだ、それが部下の不手際で伸び、悲運が一瞬ずれたと知った時、私の運命を左右する「何か」の存在を感じた。
「被災者救済」
その夜、佐世保鎮守府の命により長崎から大村駅に運ばれる負傷者を配下の工廠のトラックで大村海軍病院へ送る作業に従う事になり、駅に出向き列車の到着を待ったが、なかなか来ない。

漸くにして駅に着いた客車と貨物の寄せ集めの列車にはケガ人が、ぎゅう詰めに溢れて連結部から機関室までも負傷者がしがみ付いていた、その人達を労りながらホームに降ろす。
殆ど皆、裸に近くシャツらしいものを纏っていても短冊、あるいはボロボロに裂けていた。
裸の人の背中が真っ赤な色だと思って見ると皮膚が剥けて海藻のように垂れ下がっている。
「痛い、痛い」と辛さを訴える呻き声、「水をくれ、水を」と言う幽かな声。
まさに駅の周辺は地獄の様相、残酷で虚しい夜だった。
この人達を海軍病院へ運んだが、後で聞くところによると、このケガ人の殆どは亡くなったという。
「長崎行」
一日おいて、被爆の日より三日目、トラックで長崎に向かった、人を尋ねてである。
当時、佐世保工廠から長崎の刑務所に、船舶用の小型構造物の製作を委託していた。
その指導監督が私の責任であり、部下の技師二名を刑務所に派遣していたのだ。
あの日、その状況を見に長崎へ行く予定になっていたが佐世保の部下の手配の不手際の為に中止せねばならないことになり、生死のすれ違いという運命が生じた次第だ。
部下の二名の安否が心配で、それを確かめに、長崎へ行くことを独断で決めた。
大村から長崎までは、車で三十分の南下行と予想される行程である。
長崎の街が近づくにつれ周りの雰囲気に何か異様な気配を感じ、ふと振り返りハッとした。
それまで青々と見えていた山の斜面が、首を回して反対側から見ると、赤茶けている。
つまり長崎に向いた面が赤い、長崎側が焼き焦がされているのだ。
これは落とされた爆弾の熱風に拠るもので、原子爆弾なる物の凄まじさを感じさせられた。
街に入ると、その凄さは増々強まった。
今まで佐世保、北九州都市の空爆被害の跡を見ている。
そこには焼落ちた残骸、鉄骨建築の名残、嘗てここに街が在ったと思わせる物があった。
だが此処の原爆の跡は違う。
街の爆芯地に入ると、そこにあるのはただ瓦礫、一望の間、瓦礫の原っぱ。
全てが完全に破壊されたという印象で、ここに街が在ったとこと想わせる物は何も無い。
人の遺骸がまだ放置されており、焼け焦げた牛が腹を膨らませて転がっていた。
漸く刑務所の跡を探し充て、其処で部下の一人を見つけた。
怪我をしたが何とか生き延びたと言う。
仲間の遺体を焼いた、しの夜、彼と遺骨と共に佐世保へ帰った。
それから数日後、日本は敗北を宣言した。
その数日後、原爆の下をどうにかを生き延びた部下も死んだ。
「数年後」
終戦後、私は神戸の造船所にいた、業界は昭和三十年代に輸出船ブームを迎える。
それに先だつ時期に我々技師は英語会話の勉学に追われ、キリスト教会の牧師の指導する英会話グループに通った。 と言っても、立派な教材や、テープ・レコーダの無い時代だ。
無茶苦茶にしゃべって度胸を鍛えるのが唯一の勉強だ。
この教会で「英語スピーチ大会」が行われる事になり、私も応募した。
演題は、「That Tragic Day」 あの長崎被爆の悲しく忘れる事の出来ない日々の体験談。
未だに脳裏にコビリついているキノコ雲、火の柱、大村駅に辿り着いた悲惨な被爆者の群。
皮膚が垂れ赤く剥げ、水を求める幽かな声、瓦礫と化した長崎の街、荼毘に立ち上る煙。
瓦礫野でやっと見つけた部下のことなど忘れられない悲憤を私はブロークンな英語で語り、最後に「如何なる者に他の人種を悪魔の原子爆弾に拠って殺戮する権利ありや」と結んだ。
スピーチの後、「You’re very brave」と言って、握手を求めてきた外国人がいた。
それが何れの国の人だったか、残念ながら覚えていない。
思えば、まだ原爆を大っぴらに非難する事が出来なかった時期だった。
次の日、会社へ米国情報局CIAの職員が訪れ人事部長に面談を求めて来た。
「Kawashima という Communist を出せ!」 と、居丈高に迫ったという。
「川嶋はいるが、Communist (共産主義者)ではない彼はNavy Officer (海軍士官)だ。」と言ったら黙って帰ったよ」と、学生時代に相撲部の主将だったという人事部長は豪快に笑った。
私が部下の不手際で予定が延び悲運とすれ違ったのは、運命を左右する「何か」の存在がある。と前段に書いたが、実はこの様に紙一重でのすれ違いの体験は戦争中、この他に何度もあった。
その様な環境の中で私を生かした、この存在とはなんだろう。
宗教心強い人なら、神様、仏様のお陰と、信仰の世界にのめり込んで行くだろう。
しかし私にはそれがない。
だが私は、一口に言えないが、「何か」”Something Great”と言うものがあると思っている。
その存在が私の下に「出来の悪い部下」を配し、それが一連の運命的な結果を生み出した。
戦後、色々な仕事に従い多くの部下を持ったが出来の悪い部下ほど大事に扱ってきた。
被爆三日目の放射能が残る長崎に入り、終日過ごしたが、二次的な放射能障害が無かったのか、と聞かれるが機能障害を患う事なく八十余歳の今日まで生き延び頭の毛も残っている。
それは、あの日、長崎へ出発する時に宿舎の寮母さんが大きな握り飯と満杯の水筒を持たせてくれた、私は、それで終日過ごし、現地の水や炊出しに触れなかったからだと思う。
聞く処に拠ると直後に現地入りした応援の医者や看護婦は被曝した現地の水や食糧を喫し、二次的放射能障害を被ったという。
これも ”Something Great”が、命じたものか。 私は人生を振り返った。
・・・・・以上、故人の回顧録より。
68年前の今日 昭和20年8月9日 広島に続き二発目の原子爆弾が長崎に投下された。
改めて亡くなられた総ての戦没者の方々の御冥福を心からお祈り致します。
1945年8月9日 日本の空
大戦末期の頃、帝國は日本周辺の制空海権を失い本土上空も既に日本の空ではなかった。
米軍は「飢餓作戦」をB-29長距離戦略爆撃機で日本全国の軍港、貿易港、瀬戸内海や関門海峡に12,000個以上の磁気と音響機雷を投下、潜水艦の通商破壊と共に日本の海上閉鎖を行っていた。
威力偵察、制空戦闘目的で飛来したP-51 マスタング、F4F ワイルドキャット、F6F ヘルキャットなどの米戦闘機は鉄道や工場等を空襲しただけではなく、非戦闘員と目視確認できる低空から婦女子を機銃掃射で殺害した。
この日、原爆投下の第一目標を小倉、第二目標を長崎として爆弾搭載機である 「Bockscar」観測機「Great Artiste」、天候偵察機(小倉)「Enola Gay」、天候偵察機(長崎)「Laggin' Dragon」、撮影機「Big Stink」、爆弾搭載予備機「Full House」(硫黄島待機)計6機の Silverplate B-29 Superfortress が、米軍占領下の北マリアナ諸島 テニアン島 ノースフィールド飛行場の滑走路を飛び立った。

(テニアン島の米軍上陸占領 B-29の配備に至るまでは
テニアンの戦い に書いている。)
07:40 新型爆弾搭載機 「Bockscar」と観測機「Great Artiste」は屋久島上空の合流地点に到着して、40分待機したが撮影機「Big Stink」と会合できず、已むなく2機編隊で作戦を続行した。
7月に神戸に2回の空襲を行い、6日の広島への原爆投下に参加したスウィーニー少佐らの爆撃隊は前回の広島と同様、味方護衛戦闘機を伴っていない。
敵戦闘機の接近銃撃を阻む火器管制装置に拠る優れた防御火力と重厚な防弾・防爆力を備える スーパーフォートレス「超空の要塞」B-29は強力なインタークーラー付ツインターボ4発エンジンで対空砲火射程外の高々度を旧型戦闘機を上回る高速巡航で侵入する。
1942年4月に空母「ホーネット」から初めて日本本土空襲した ドーリットル中佐のB-25 Mitchell や B-17 Flying Fortress とは全く別世代の長距離戦略爆撃機である。
このB-29の性能に対して日本には優れた防空監視レーダー網が無く、迎撃に上がる帝國陸海軍の1段2速式スーパーチャージャー搭載の単発戦闘機は高々度で会敵、要撃するだけでも苦労し、第二撃や追撃は困難であった。
銀色の悪魔は、精神力では墜せない。
しかも悔しいことに、「超空の要塞」B-29は米国の標準、量産型であった。
空戦も既にパイロットの腕ではなく、科学技術と工業力の優位が勝敗を決した。
しかし高々度からの爆撃は精度を下げ戦果を得られ難い為、米軍は中低空爆撃に戻した。
帝國は機体と燃料、熟練搭乗員の不足に加え、陸海軍指令部は本土決戦に備えて戦力を温存して出撃を控える中、震天制空隊が武装を撤去し軽くした古い機体を使って体当り攻撃を敢行したが、多勢に無勢、然したる戦果は上がらなかった。
09:40 スウィーニー少佐の原爆搭載機「Bockscar」は、大分・姫島方面から投下目標である小倉の陸軍造兵廠上空へ到達する。
「Bockscar」は爆撃航程を繰返すも、前日の八幡空襲で発生した残煙が小倉上空に流れ込み靄に覆れていた為、爆撃手が投下目標の目視確認に3度失敗して45分間燃料を費やす。
結果、小倉上空の天候は徐々に悪化、更に「Bockscar」の燃料系統に故障も発生する。
また築城の零戦や芦屋の五式戦の迎撃戦闘機発進情報が確認され対空砲火も激しくなる。
10:30 投下目標を小倉から第二目標である長崎に変更、爆撃編隊は小倉上空を離脱した。
途中、「Bockscar」が急旋回して「Great Artiste」と空中衝突寸前のニアミスを起こした。
10:50 小倉を離れた爆撃隊は約 20分後には長崎上空へ侵入、戦闘機による要撃も対空砲火も無かったが高度1800m~2400m間が90%近く厚い積雲で覆われていた。
爆撃隊は「目視爆撃が不可能な場合は、太平洋に原子爆弾を投棄せよ。」と厳命を受けていたが、已むを得ず命令違反であるレーダー爆撃に切替ようとした時に雲の切れ間から一瞬、眼下に広がる長崎の市街地を確認、直ちに爆撃手の自動操縦に切り替え高度 9000mから手動投下した。
11:02 目標の長崎市街中心部工業地帯から約 3km 逸れた信仰心の厚い人が集まる平和な町である浦上地区の上空、高度約503mで、Mk.3 核爆弾ファットマンは炸裂。
この時、浦上教会の天主堂に礼拝に訪れていた多くのカトリック教徒全員が亡くなった。
原爆投下後「Bockscar」は衝撃波を避ける為、機体を北東に向けて急旋回と急降下を行い、後方の「Great Artiste」は爆発圧力、熱温度等を計測するラジオゾンデ3個を落下傘投下。
「Bockscar」と「Great Artiste」の2機は暫く長崎上空を旋回し被爆状況を観測、テニアン基地に爆撃報告を送信した。
14:00 残燃料が僅かになった2機は占領下の沖縄 読谷飛行場に緊急着陸、スウィーニー少佐らは日本本土爆撃と北アフリカで昇進したドーリットル中将に沖縄で面会する。
17:00 燃料補給と整備を終了し離陸 23:06にテニアン島に帰還した。
この様に様々の要因が絡んだ結果、長崎に原子爆弾が投下される事になった。
もし平地が広がる小倉市に投下されていた場合、北九州一帯と関門海峡を挟む下関市まで威力は及び、死傷者と家屋建築物への被害は広島の規模を超えていたと考えられる。
また原爆の投下目標として広島、長崎、小倉以外に京都、横浜、新潟も検討されていた。
帝國の落日
祖母は「おじいさんは国の為に戦い亡くなった」と話すが、「アメリカに殺された」とは言わない。
近所の叔母さんは、不可侵条約を平気で破り日本の降伏の混乱に火事場泥棒に来て、大陸にいた叔父さん達を長い間、シベリアに抑留し強制労働させて殺したソ連の事を「嘘つきの泥棒、共産主義は信用できない。」と言うが病院船や市民に機銃掃射を掛け焼夷弾で神戸の家を全焼させた米軍の事は悪く言わない。
アメリカに正義があった訳でもなく、GHQに洗脳されたのでもない。
それは戦争に敗れながら援助を受けた敗戦国である日本のアメリカに対する負い目と反省であり、「負けたから仕方ない。」と言う諦めだったのかも知れない。
広島と長崎でウラニウム型とプルトニウム型のそれぞれ別タイプの原子爆弾を使用したのは都市部で新兵器の威力を比較し放射能による影響を生きている人間で実験する為だ。
この時、既に3月26日から3ヵ月に及んだ沖縄戦で民間人 約10万人が亡くなっていた。
敗戦寸前の日本の都市への原子爆弾投下を連合国軍総司令官 マッカーサーやアイゼンハワーは「核爆弾を使わなくても勝てる、日本は降伏準備を始めている」と強く反対した。
独系・伊系米国人には触れず日系米国人だけを収容所に入れて日本に対し原子爆弾使用を考えたルーズベルトの後を継いだ民主党大統領トルーマンは反対意見に耳を傾けず、ポツダム宣言の前に政治判断で原爆投下を決定した。
広島・長崎の原子爆弾使用は本土決戦を唱える日本の降伏を早める為だけではなく、次の敵となるソビエトに対する威嚇であり米国の軍事力を大戦後の世界に誇示する目的もあった。
数年後、朝鮮戦争で越境攻撃を行っては旧満州に逃げ込む中国共産軍に対して原爆使用を求めたマッカーサー元帥をトルーマンは解任した。
トルーマンは、原爆の残虐性や中国人の命や倫理を考えた言う。
では何故、敗戦目前 虫の息だった日本の人口密集地に二度も核を使い多くの市民を殺した。
威力を見せ戦意を喪失させる事が目的ならば民間人の少ない島に投下すれば済む事である。
ルーズベルトは人種差別主義者でトルーマンは臆病な偽善者だ。
彼の政治判断とは、中共・ソビエトとの戦線拡大を恐れただけだ。
もし日本で原爆を使っていなければ中ソは本格的に南侵し米国は躊躇なく核兵器を使う。
現場を知らぬ臆病な政治家が政治判断と称しボタンを押し兵隊と民間人が血を流す。
原子爆弾に拠る 広島の死者 約20万人 長崎 約15万人
重慶やドレスデンと同じく戦時国際法で明確に禁止されている非戦闘員への無差別爆撃。
1945年(昭和20年)3月10日夜の東京大空襲では325機のB-29が来襲。
38万1300発 1783トンもの焼夷弾を投下して10万人の東京都民を殺した。
「火垂るの墓」
1945年(昭和20年)神戸大空襲 罹災者54万人、死者8千人、負傷者1万7千人
当時、祖母と幼い母と2才の妹は葺合区から叔母の家に移り東灘区の本山で生き延びた。
母達は三ノ宮駅から岡山に疎開、終戦後に神戸に戻り、母方の祖父は大陸から復員した。
三ノ宮・阪急電車・布引・御影公会堂・石屋川・酒蔵・夙川・回生病院・神戸の街と言葉。
三ノ宮駅には母と同年齢で親を亡くし行き場のない戦災孤児が多く居た事を母に聞いた。
空襲と疎開、駅で置引きに遭い優しい巡査、防空頭巾を肩に掛ける母の写真は節子の様。

自分にとって「火垂るの墓」は他人の話しではなく、幼い節子が不憫で何十回も泣いた。
海軍に奉職した父方の祖父は南方方面で消息不明、音信不通となり帰って来なかった。
清太の父が乗る重巡洋艦「摩耶」は1944年(昭和19年)10月 レイテ沖海戦に於いて
フィリピン・パラワン水道で米潜水艦の雷撃を受け沈没している。
清太も駅で衰弱死、ドロップの缶に納められた節子の小さな遺骨は駅員に投げ棄てられた。
これら日本本土への戦略無差別爆撃は紛れもない国家に拠る民間人の大量虐殺だった。
原子爆弾はキリスト教徒も捕虜となり広島や長崎にいた味方の連合軍将兵も焼き殺した。
こんな悪魔の兵器を作り使用する世界一の超大国に極東の新興島国が勝てるわけがない。
原爆投下後、間もなく帝國は降伏を受け入れる。
しかし仮に枢軸国が先に原爆製造に成功していたならば、日本やドイツも間違いなく使う。
国家が国益、道義や正義を理由に武力を行使して組織的に民間人の大量虐殺を起した。
それが戦争だ。
太平洋戦争での日本軍将兵の戦没者 174万1千人 民間人 39万3千人
日本人 213万4千人の命を失い、 太陽の帝國は落日のように終焉を迎えた。
連合国・占領国の死者 約1900万人。
これほど多くの命を犠牲にしてまで戦い取る価値がある植民地、資源など世の中には無い。
戦争責任と正義
帝國は日本の領地権益維持と経済封鎖を破るべく、欧米列強の植民地支配下にある南方資源地帯の確保を目指して米英との戦端を開いた。
帝國陸海軍上層部には勝てないと解かっている対米戦を始めない理性と勇気が必要だった。
二・二六事件以降、皇道派を締め出した統制派軍部が統帥権を楯に大善を騙り軍政を敷く。
「君臨すれども統治せず。」
既に御前会議は大本営の立案を追認されるだけの形式的なものであったが、二・二六事件の決起部隊討伐発言に責を感じられた昭和天皇は国政により口を閉ざす様になられた。
米国の国力を知る山本五十六や栗林忠道ら駐米武官を経験した陸海軍の将官達は三国同盟締結と対米英参戦に強く反対したが、軍部は広い視野と国際感覚を持つ戦争不拡大派を中枢部から遠ざける。
開戦前、北進を唱え対ソ戦に備えていた陸軍は米領フィリピンやグアムを攻めなければ米国は出て来ないと踏んでいた。
近衛内閣と世論に押され中国大陸での戦線を拡大し泥沼に嵌っていた陸軍は蒋介石との和平交渉が潰れ、ドイツのフランス占領を期に悩みの種であった援蒋ルートの遮断を目的に仏ヴィシー政権政府と仏印総督の許可を得て仏領インドシナに進駐する。
蘭印・仏印の両植民地本国をドイツが占領した事は三国同盟を進める大きな要因となった。
また仮想敵を米海軍とし、一方的に軍縮条約を破棄して大型艦艇を次々と建造した海軍内で多数を占めた対米英強行艦隊派も日米開戦を望んだ。
仮想敵としながら石油と鉄の殆どを米国に依存していた海軍が艦隊を燃料の縛りなく運用するには南方石油資源地帯が必要であり輸送ルート上に位置するフィリピンの攻略が不可欠であった。
日本軍の南部仏印への進駐に対する米国の対日資源禁輸制裁による艦隊への燃料調達の困難と真珠湾作戦遂行上、冬季北大平洋の天候不利を理由に海軍軍令部は早期開戦を進言した。
日米開戦を憂慮した昭和天皇は三国同盟に反対であった海軍大臣 米内 光政を総理大臣に陛下が信頼する畑 俊六の陸軍大臣留任を強く勧められ、米内内閣が組閣任命された。
しかし陸軍部内開戦派の圧力によって畑 俊六は陸軍大臣を単独辞職、海軍大臣 吉田善吾は病気で辞任し、陛下が信任、期待された米内内閣は半年で解散に追い込まれる。
「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世になど波風の 立ちさわぐらん。」
陛下は御前会議で開戦に明確に反対する御心を明治天皇が詠まれた御製で表された。
軍部は外交交渉に期限を限り、1941年11月26日 野村駐米大使がハル・ノートを受取る前日、連合艦隊の空母機動部隊は真珠湾に向け単冠湾を出撃する。
12月2日1700 発 聯合艦隊司令長官 宛 機動部隊指揮官
本文 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 開戦は12月8日 と決定された。
12月6日 ルーズベルトから親電が発せられたが、故意に留め置かれ陛下の手元に届けられたのは真珠湾攻撃の30分前であった。
戦略なき戦術に戦局は次第に悪化したが大本営は陸海軍の大敗を国民に隠し嘘の戦果戦況を流し続け、自分達が見捨てた皇軍部隊の全滅を「玉砕」と美化して言論統制を厳しくする。
また陸軍参謀本部と海軍軍令部は互いに作戦失敗の責任を擦り合い互いの情報まで隠した為に、多くの作戦遂行に大きな支障を来した。
日米開戦に走った大本営作戦部中枢の無能なエリートは戦争を終わらせる方策は全く持たず、何処を戦争終結点にする目標もなく漠然と兵の命と国力を消耗し戦争を続けて行く。
それでも師団、艦隊末端の将兵は作戦に矛盾を感じながらも最前線で必至に戦い続ける。
大本営は沖縄占領、原爆を投下されて尚も徹底抗戦、本土決戦、一億玉砕を主張していた。
最後の御前会議で軍部の「国体護持」を求める抗戦派を諌め、ポツダム宣言を受諾し降伏を促されたのは開戦を憂慮し、軍政軍令一体に懸念を示され国民の将来を憂う陛下の御聖断であった。
終戦前日の8月14日 ポツダム宣言と終戦決定を受入れず本土決戦を主張する陸軍の若手参謀らが、近衛第一師団師団長 森赳中将と第二総軍参謀 白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令書を作成、警備の近衛歩兵第二連隊に宮城を占拠させ玉音放送を阻止する為にNHK放送会館に近衛歩兵第一連隊を派遣した宮城事件を起こす。
この宮城事件の朝にも陛下は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べられておられる。
阿南惟幾陸軍大臣は敗戦と宮城事件の責任をとり終戦の日に陸相官邸で自刃した。
しかし「軍部」と、一括りには出来ない。
満州事変を画策した石原 莞爾は中国戦線不拡大を唱え、早期和平を望み日米開戦と三国同盟に反対した。
終戦に貢献した米内 光政は蒋介石の南京政府との和平交渉の打切りを強く主張して、日中戦争の泥沼化を招いた。
また中国戦線拡大と対ソ対米英の両面戦を主張した東條 英機は天皇絶対忠信者であり、陛下から戦争回避に力を尽くすように直接指示されると、それまでの開戦論姿勢を直ちに改め対米協調路線に変更、外交交渉に全力を尽くすも開戦を避けられず陛下に泣きながら詫びる。
開戦前から帝國陸海軍の軍部に於いても、それぞれ主張の違いと紆余曲折があった。
善悪正誤は一人物に存在するもので、戦犯も然り、誰が良い悪いと決める事は出来ない。
温厚篤実または好戦的な提督や将軍が実戦に於いて、必ずしも軍事戦略に長け戦果を上げる秀でた武人、優れた闘将だとは限らない。
軍人が戦争回避の為に意見具申、進言する事は良いが、政治外交に介入してはならない。
しかし開戦の責任すべてを陸海軍上層部だけに押付てはいけない。
日本を三国同盟と対米戦争へ進ませたのは一部の軍人だけではなく、ドイツのヨーロッパ電撃侵攻に靡き破滅行きのバスに飛び乗った政治家、マスコミ、財閥をはじめとする経済界と貧しかった国民自身だ。
戦争は麻薬である。
満州建国の夜、真珠湾攻撃の朝、ラジオの臨時ニュースに国民は喜び沸き万歳三唱する。
国民は総力を結集し家族の為、お国の為に死ぬ事に、一致団結した。
刀は抜くより、収める方が難しい、戦争を精神論と失業対策で始めてはいけない。
マスコミは開戦を煽り、無知故に翻弄される者、金儲けに走る輩の世論が戦争に加担する。
何時の時代も戦端を開かせるのは、過去、現実、未来を正しく見ない愚者達だ。
右翼は不必要に国威を発揚し、無責任な日和見リベラルと左翼の売国奴が国を売り滅ぼす。
欧米列強との地資源争奪戦に日本は敗れた。
アジアを侵略し現地民を奴隷の様に扱い搾取した白人連合国に正義が有った訳ではない。
新興小国日本の首を絞め上げ、アジアで植民地支配を続けた列強にも責任の一端は有る。
戦前の台湾、朝鮮、南満州鉄道及び付属地、樺太、千島列島、南洋群島は国際社会から認められた大日本帝國の正当な領土、及び統治権益地で武力により侵略したのではない。
支那軍閥は勢力争い国共内戦に明け暮れ分裂、義和団は再び青龍刀で居留民を襲う。
民国は国の体をなさず、条約協定を破り武力挑発を続け国際共同租界を包囲攻撃した。
スターリンはノモンハンで仕掛け日中米の衝突消耗を謀り中共を支援し南下の隙を伺った。
ブラウナウの伍長はドーバーを渡れずロシアの冬に泣き、日本に英印に出兵を要請する。
ルーズベルトは援蒋ルートで物資を送り、経済制裁と包囲で日本の首を絞め追い詰める。
英軍は仏領シリア・レバノンを攻撃占領しながら、許可を得た日本の仏印進駐を抗議した。
チャーチルはハルノートを書かせ米国参戦を画策し、日本海軍の真珠湾攻撃に歓喜した。
太平洋戦争には、それぞれの思惑があった。
国際連盟常任理事国であった日本は南京政府や欧米列強の思惑に対して北京議定書、日清通商航海条約、満州善後条約、日英同盟に基づき、国連や二国間の交渉で政治的に大陸の権益を守る外交戦略に尽力すべきだった。
日本は再び三国干渉されても国際連盟を脱退すべきではなかった。
クリミア半島で行われたヤルタ会談はミュンヘン会談から続く連合国の占領エゴ協定だ。
ルーズベルト、チャーチル、スターリンのヤルタ密約は東西冷戦と現在の領土問題を産む。
戦後も米国が沖縄返還を盾に日露の平和条約締結と北方領土の返還交渉に圧力を掛けた。
連合軍占領統治下の東京での極東軍事裁判に戦犯を裁く判決は有ったが正義は無かった。
中立国からの判事は一人も選ばれなかった。
連合国軍による無差別爆撃、病院船の雷撃、婦女子への機銃掃射、民間人や捕虜の虐殺と暴行はジュネーブ条約やハーグ陸戦協定に明確に違反しているが裁かれる事はなかった。
戦勝国側の行為はすべて不問した勝者に拠る、正義の無い報復の儀式は裁判ではない。
証拠証言も認めず一方的に裁いて決した戦犯、日本人は戦争責任、犯罪を裁けなかった。
戦争は善悪正義の有無、思想や精神力では勝てない、技術力と物量、戦略で勝敗が決る。
パール判事曰く「戦争の勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」正論である。
爆撃で亡くなった幼い弟を背負い、姿勢を正し唇をかみ締める少年の凛とした立ち姿。
日本人なら誰しも、この少年の悔しさと悲しみが分るはずだ。
あの時代、日本は少年だった。
終戦の日
毎年、8月になるとマスコミは先の大戦と原爆の悲惨、悲しみと過ちの反省を一斉に流す。
お盆と言う事もある、しかし戦没者が亡くなったのは暑い夏だけではない。
極寒のアリューシャン、千島、シベリア、中国、極暑熱帯の密林に山岳、南洋の孤島。
毎日、何処かで多くの日本軍将兵、大陸、沖縄、本土の空襲で民間人が亡くなられている。
過去を反省検証する事は絶対に必要だ、日本人は、この時期に感傷的、自虐的になる。
日本軍を鬼畜扱いした戦史にドラマや憲法改正と自衛隊を危険視する番組を放送する。
そして敗戦記念日には、靖国神社への参拝をマスコミは騒ぎたてる。
1985年に朝日新聞が書きたて間違った認識を煽るまでは靖国神社への参拝に言い掛かりはなく、日韓に慰安婦問題など存在もしなかったうえ、韓国人に拠る否定の証言もあった。
兵力、輸送力も不足する日本軍が慰安婦20万人 約10個師団を強制連行したと嘘を吐く。
しかも日本帝國軍には自ら志願した朝鮮人の軍人軍属 24万2,341名が含まれる。
帝國陸軍に自ら志願し戒厳令まで敷き日韓基本条約を締結した朴正煕大統領は売国奴か
上海市街爆撃・南京虐殺・黄河決壊、支那は自軍の蛮行を常に日本軍の暴挙と喧伝した。
南京の死者数は大量水増し捏造されているが、日本軍による殺害があった事は否定しない。
南京には民間人を装い日本人を襲う便衣兵も多くいた、国民党軍や八路も中国人、日本人を虐殺し朝鮮戦争、ベトナム、ボスニア、イラク、アフガンで東西両陣営の兵士は多くの民間人を殺した。
虐殺が行なわれなかった戦争など無い。
兵士による民間人の殺害は、今現在も発生している大きな問題である。
日本だけが70年前の事で反日国に内政を干渉され参拝を控える必要など何処にもない。
政治家に限らず明治以降、国に殉じた人に感謝し慰霊するのは日本人としての心の問題。
中韓は史実を捏造、改竄し、故意に外交の手段にしている。
日本は尖閣など領土侵略と同じ様に、中韓に対応すればよい。
参拝を控えても、中韓は盗みを止めない、
通州事件を起こした蛮族に言われたくない。
外交や安全保障問題は他国の干渉や過去に捕らわれず、現状と未来を冷静に考えるべき。
日本の核武装と原子力平和利用
核兵器廃絶には賛成だが、しかし世界中の核兵器を総て廃絶する事は難しい。
核兵器は強力な軍事的抑止力になり、また核兵器を持たなくても平和にはならない。
貧しい国々、第三世界は通常兵器・兵力より遥に安上がり故に核兵器を欲しがる。
パキスタンはインドに怯えインドは中国を警戒し中国はアメリカやロシアに対抗する。
北朝鮮は長年苦労し嘘を吐き続け制裁を受けてまで一度手にした核兵器を手放さない。
当然、核弾道ミサイル東風を日本の都市に照準を合わせている中国もオホーツク海に戦略原潜を潜ませるロシアも核兵器を放棄しない。
北の核武装を阻止できないなら日本も核武装する。と言うのは中露に対して効果がある。
核兵器廃絶により軍事的均衡が崩れ、世界各地で紛争が起こり易くなる現実がある。
愚かにも人類の平和は核に拠って保たれて来たのが現状であると言っても過言ではない。
核兵器がなければ、いや人類に広島と長崎の惨劇の歴史が無ければ東西冷戦は熱い戦いとなり、米ソ代理戦争から直接戦争、第三次世界大戦、即ち核戦争に至っていた可能性は高い。
核武装を言うならば先ずは核弾頭つまり弾丸より、発射できる銃である弾頭を運ぶ巡航ミサイルや中長距離ミサイルはじめとする対遠隔地攻撃能力が必要。
自分は抑止の上で日本の核武装に強行に反対しないが非常に慎重だ。
また「目には目を」と言う、安易な考えと勢いだけで核兵器を構えてはいけない。
仮に日中が戦端を開き、人口14億の広大な国土に日本が数発の核ミサイルを撃込んでも中共軍は生き残り報復の核攻撃で日本は消滅する。
敵より早く多くの都市を攻撃破壊し、少しでも敵より多く生き残り更に報復する。
東西冷戦下の米ソに拠る核戦略には勝者はない。
軍用施設だけをピンポイントで狙える最新小型戦術核搭載の対地巡航ミサイルでも広島型の数倍の破壊力があり、戦術核の使用は外交交渉で話が付かない核保有国が相手なら倍返し以上の報復反撃を受ける覚悟がいる。
しかし日本周辺近海での通常兵器に拠る防衛戦闘に於いて日本は中共に負けない。
そして日米安保条約が有効な限り、中共は日本に対し核兵器を使えない。
戦略核は複数目標弾頭一発で100万人都市を消滅させる広島型の数十倍の威力がある。
例え憎むべき敵とは言え、核兵器を使い無差別大量に市民を殺す事など自分には出来ない。

核兵器を持つと言う事は、一瞬にして非武装市民を大量に殺し、殺される覚悟が必要。
覚悟もなく無責任に核武装を唱えるのは、広島・長崎に投下を決めた政治家達と同じ。
日本の核武装化に慎重なのは、自分に責任能力も多くの良民を殺す覚悟も無いからだ。
また核は抑止力になる反面、公言すれば相手に先制核攻撃の口述を与える事にもなる。
核武装を可能にする設備や技術体制を自ら「保持している。」「いない。」を公表する必要はない。
つまり核弾頭搭載可能な中長距離弾道ミサイルやトマホークなどの巡航ミサイルとミサイル潜水艦を近海に配備するだけで中身は通常弾頭であっても抑止力は上がる。
日米同盟が盤石で核の傘がある限り、結局は持っていても使えない核兵器ならば持つ必要はなく、抑止力だけなら持っている振りをするだけで良い。
しかし原子力=核兵器ではない、原発と原爆、被曝と被爆は違う。
日本は原子力の平和利用、技術研究は核廃棄物処理を含め続けるべきだ。
何時でも核武装が可能な潜在能力を保持する国であると周辺国に知らしめる必要がある。
原発を無暗に増やせと言っているのではない、それを言う政治家も今の日本にはいない。
地震と津波による未曾有の自然災害と設計や管理など人的ミスが重なり低脳政権が被害を拡大した今回の原発事故は「神の啓示」などではない。
原発即時全廃を言う者は、安全ではなく、安心を求めている。
やがて枯渇する化石燃料を使い、CO2の排出を続ける事に反対していた偽善エコロジストも批難の矛先を原発に変えた。
「原発を推進してきた国が悪い、責任をとれ。」・・・
これまで経済成長、安定電力供給の恩恵に俗して来た者達が澄まし顔で言うな。
先の大戦の石油禁輸、通商破壊戦、中東戦争にオイルショックを忘れたか。
エネルギーの自給力は資源を他国に求める国とって生存を掛けた死活問題になる。
空気より重たい航空機は空を飛ぶ危険な凶器か。
ドクターヘリもジャンボ旅客機も墜ちる時は墜ちる、自衛隊機や米軍機だけを叩くな。
軽自動車と戦車の事故死亡者数を比べても無意味、文明の利器は使い方次第で凶器になる。
火を恐れて使わない原始の猿人に未来も進歩も無い、使いこなした者だけが人類になれる。
原発を責める前に原発の安全確保とメタンハイドレートなど日本周辺の海底資源開発に国力を注ぐべきだ。
海外にエネルギー資源を依存するなら尚更シーレーン防衛に力を入れなければならない。
68年前、長崎で原爆の被害を目の当たりした海軍技術士官であり造船工学博士だった伯父さんは戦後、日本初の原子力船の研究開発の推進に携わった。

原子力実験船「むつ」
少資源国日本の未来を開く技術研究実験は無知なマスコミに潰された。
1974年、青森県沖太平洋上で行われた初原子力航行試験中、原子炉出力を約1.4%に上げた時にストリーミングに因る極微量(0.002ms/h)の放射線漏れが検知され警報が鳴った。
この単なる実験試験過程に想定される極微量の放射線漏れを朝日新聞は大声で騒ぎたてた。
当時、試験航海に同乗した記者3人は「我々が乗ってなかったら事故は隠蔽されただろう。」と、今も自慢している。
「0.002ms/h?」「放射能漏れ?」「事故?」「隠蔽?」 お前らの脳ミソが放射脳だ。
「むつ」の真実については、また別の機会に書きたいと思う。
日本人の歴史認識
>私の下に「出来の悪い部下」を配し、それが一連の運命的な結果を・・・
伯父さんの回顧録には、現在の自分の個人的な立場や環境を再考させる話もある。
歳月が流れ、最近は実際に戦争を体験された方から貴重な話を伺う機会が少なくなった。
陸海軍にいた祖父や元上司から聞いた話は沢山ある、また一般市民である祖母、叔母に母の体験も参考になる。
戦争の悲惨さを後世に伝えなければならないと言う使命感を持って話される方もいる。
しかし戦争の体験も階級や所属、戦局、戦線、戦場、兵科、交戦相手に拠って異なり、それぞれ違った戦争観があり、また戦後受けた思想信条に拠っても表現は変わる物でもある。
仕事柄、滅多に旅行では行けない太平洋の激戦地にも行き、現地の老人から話も聞いた。
元米軍や元帝國軍人の韓国軍将校であった人とも知合い、色々と話ができた。
多くの方が亡くなった太平洋戦争の史実をドラマチックに脚色するのは映画TVだけでよい。
頭の中で作られた武勇伝も偏った左翼思想も必要ない、ただ事実だけを知っておくべきだ。
天皇陛下に非礼な謝罪を要求し「原爆は神の懲罰」だと低脳が妄想する。
歴史を捏造し真実を捻じ曲げて嘘の証言を並べ賠償を要求する国が近隣にある。
日本にも自分で碌に史実を調べ検証もせず、反日国の虚言に同調して、日本の右傾化と騒ぎ自脳の左傾化に気付かない者がいる。
核兵器廃絶と原発即時全廃、日米同盟と戦争参加を一緒にして左翼は沖縄を利用するな。
紅い核は綺麗な核か。
鉄道も安全に運行できず事証を土に埋め、無造作に原発、核兵器を増やす国には黙んまり。
中共は人民日報に「沖縄独立の勢力を育成する」との記事を掲載したが既に実行している。
日本の弱体化を画策して、核軍拡、侵略、
原発増設、環境破壊、少数民族弾圧、言論統制を続ける中共の手先だ。
「原爆はいけません」「人殺しはいけません」「戦争はいけません。」
そんな事は小学生でも判る当り前の事だ、日本の学校は戦争の正体を教えなかった。
はだしのゲンも学校で先生に読まされた「天皇は人殺し、日本兵は悪魔、朝鮮人は善人」
一作者の漫画を平和教育と称し教師がついでに偏狭な思想まで子供に摺り込むな。
思想に関係無く描かれた「火垂るの墓」を一度見て欲しい。
戦は人類の歴史でもあった、石器時代から近代まで古来、人は様々な理由で戦をした。
人類は戦争に学び反省し、科学は進歩し、手にする武器や戦う理由も規模も変化して来た。
自由、平等、友愛などの美辞麗句を並べ臭い物には蓋をし歴史的検証もせず何を教えた。
学校と教師が考えない右へ倣えのバカや議論も出来ないアホな日本人を作ってどうする。
その結果「大量虐殺の侵略戦争を日本は猛省すべき」「アジア解放の為に始めた大東亜戦争」などと左右両極端な感情論を日本の戦後世代は持つ様になった。
近代史に無知な故に国策プロパガンダを伴う中韓からの謝罪要求に言いなりに謝罪する。
潔く非は認めて同じ轍を踏まないのが日本人だが、理不尽な要求に謝罪する必要はない。
ある一面だけを見て、戦争と歴史の全体を判断し国防安全保障を考えてはいけない。
日本の安全保障とアジアの平和
富国強兵が悪い訳ではない、独立主権国家として当然の権利である。
今の日本は国連会議場を退席したりしない。
日本が強い防衛力を保持しアジア諸国と協力して国民と地域の平和を守る事は正しい。
これは戦争する為ではなく、大国からの侵略戦争を抑止防衛する為にも必要な事だ。
中共は機関紙人民日報に「尖閣のみならず沖縄も日本の領土でない、日本が不法占拠している」「サンフランシスコ平和条約は中国に拘束力を持たない、米国が勝手に沖縄を日本に戻す権利はない」と報じ、人民解放軍高官は必ず日本から沖縄を奪還すると発言している。
中共の対日強硬策を「先に日本が火を付けた。」「中国国内向けだ。」「単なる威嚇だ。」などと安易に決めつける左翼は己の発言に責任を取らず、沖縄の安全も保障しない。
現在も東シナ海・沖縄はシーレーン及び防衛上、日中にとって重要な要衝である。
しかし日本は二度と沖縄への侵攻を許し、市民を犠牲にする事はできない。
憲法が平和を守るのか
改憲は危険だ、改悪だ、軍になれば戦争を始めて人殺しに出掛ける、歯止めが効かない。
日本は右傾化して戦争をしたがっている!
そんな奴は日本人ではない。
中共の報道官に左に倣えの日本国内の左翼。
防衛力の強化と法整備を単純に同盟国の紛争に追従参戦、徴兵制度に結びつけるな。
戦後、日本人は憲法9条に縛られ、9条が有ったから戦争をしなかったのではない。
日本人が平和を愛し日米安保条約に拠る核の傘と自衛隊や米軍に守られていたからだ。
日本は自国の防衛以外は、二度と戦争をしないと誓った国だ。
例え、憲法 9条が無かろうが軍隊を持とうが日本から戦闘を仕掛ける事はない。
しかし9条が有っても、攻めて来れば国民と領土を守る為に交戦する。
9条が有れば戦争にならないと思うな、平和と安全はタダではない。
日本国憲法は日本国民のものであり、宗教でもなく国際条約協定でもない。
日本国憲法は国民の権利を保障し、政治権力を縛る。 しかし外国には全く通用しない。
「戦争は怖いから先ず対話、外交で解決しよう。」
外交努力をするのは当前の事だ、子供の喧嘩ではない。
「仲良くしよう、どんな国でも話合えば判るよ。」
他国の領土を欲しがる強盗は軍事力の後ろ盾も無い話し合いが通じる相手ではない。
高級ブランド腕時計と服のポケットに札束を突っ込み背中に「日本人」と書いて外国を歩いてみろ
自分は「軍備を最優先せよ」などとは一度も言っていない。
賢い政治外交力と強い経済力が日本に一番必要だと言う事を大前提にしている。
己の安全運転だけでは事故は防げない、整備不良の車に保険も無く公道を走る奴はバカだ。
安全保障条約は万が一に備え加入する任意相互保険である。
集団的自衛権、俺が危ない時は助けてくれ、お前が危ない時は助けない。
そんな虫の良い友情、友好条約、同盟関係はない。
何もアメリカが自国の国益の為、勝手に売った喧嘩を日本が買えと言うのではない。
集団的自衛権であり集団的攻撃義務ではない、自衛以外の戦闘攻撃に付き合う必要はない。
また友人ならば喧嘩しない様に止めるのが真の友情である。
隣国の軍事力と戦争に対する脅威が軍備を拡大させ、不信感と驕りから引鉄を引く。
他国の軍拡に合わせる軍事力の強化には限がない、無駄な出費に付き合う必要もない。
しかし、横暴な隣国に変な気を起こさせず、好き勝手にさせない為に、日本の身の丈に合った強力な抑止防衛力の保持と効果的な米国・アジア諸国との同盟関係とは必要だ。
国連は世界平和を守る正義神ではなく、侵略戦争や紛争を押える権力権限はない。
米国も世界の警察官ではなく、安全保障条約を結んだ自国益を優先する日本の同盟国だ。
どんなに優れた宗教、主義、憲法、条約、協定も、人が作った物は人によって破られる。
自国の平和は他国の慈悲により与えられる物ではない。
年中、毎夜、枕を高くして寝られるのは、誰かが起きて守っているからだ。
新しい国日本
今の日本は開国以来、多くの人達の犠牲の上に成り立っている事を忘れてはいけない。
生き残った人達は敗戦の焦土から僅かな時間で日本を世界有数の経済技術国に復興した。
私達は、あの戦争で亡くなった全ての人達に恥ずかしくない日本にしなければいけない。
彼らの子孫、後輩である私達にも出来ると信じたい。
そうしなければ、日本の未来を信じ、国の為に命を捧げた人達に顔向けできない。
日本国は1952年 サンフランシスコ平和条約で主権を承認され生れ変わった新しい国。
戦後、新しい日本に生まれた今の世代、これからの日本人に過去の戦争責任はない。
これまで日本は反省し賠償責任を果たし迷惑を掛けたアジア諸国にも充分に貢献してきた。
極東の小さな島国であった日本はアジアで唯一、欧米列強の植民地支配に抗い、先進国白人連合を相手に国土が焦土と化すまで精一杯戦った。
何時まで日本人は敗戦を引き摺り、頭を垂れて歩かなければならないのか。
戦後 68年に及ぶ長過ぎる自虐的な懲役は、もう終らせるべきだ。
日本は何時までも、少年のままではいられない。
「太陽の帝国」 満州事変に続く。
日本の近代史・戦史を書いたブログ
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