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2013年11月14日 イイね!

Rescue Operation of Leyte Gulf  レイテ湾へ

Rescue Operation of Leyte Gulf  レイテ湾へ14日、日本政府は、フィリピンの台風被害への国際緊急援助活動で、海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦「いせ」に揚陸艦「おおすみ」補給艦「とわだ」の3隻、CH47輸送ヘリ、C-130輸送機など約1000名の派遣を決めた。

国際緊急援助活動としては過去最大規模となる。

揚陸艦「おおすみ」は予定していた沖縄周辺海域での離島防衛訓練を急遽中止して救援派遣準備に入った。

現地では医療活動や防疫、輸送などの支援活動を想定
現在、先遣隊要員がフィリピン政府と調整を進めている

JMSDF DDH-182 ISE for Layte


We commiserate with you over your serious damage from the typhoon Yolanda.

今回の台風被害に遭われた被災者の皆様に、謹んでお見舞いを申し上げます。


11月8日 観測史上最大規模の猛烈な、台風30号 (Yolanda/海燕Haiyan)上陸時の中心付近気圧 895hPa、最大風速 87.5m/s、最大瞬間風速 105m/s が、フィリピン中部を襲った。


レイテ島周辺の被災地では道路が各地で寸断され救援活動は難航、食糧支援も思うように進まず、国連では死者は数千人、家を失った被災者は60万人を超えると見ている。


想像以上に被害は甚大で被災者の状況は深刻。 待っててね日本のオジサン達がスグ行くから





日本国海上自衛隊 災害派遣部隊  JMSDF Rescue Operation for Phillippines


ヘリ搭載護衛艦 「いせ」 DDH-182 ISE ひゅうが型 2番艦 基準排水量 13,950トン

全長 197m 全幅 33m ガスタービン 4基2軸推進 100,000PS 最大速力 30ノット
艦載機 SH-60K哨戒ヘリ 3機 MCH-101掃海輸送ヘリ 1機 最大積載機 11機
兵装 CIWS 20mm対空機関砲 2基 12.7mm重機関銃 7基 HOS-303 3連魚雷発射管 2基
97式短魚雷 対艦潜ミサイルMk.41 VLS 16セル 

艦名「いせ」は旧国名「伊勢」に由来し、帝國海軍 航空戦艦「伊勢」に次ぎ二代目。

本艦は従来の軽空母・強襲揚陸艦に匹敵する艦体に広大な全通甲板を配し、艦内容積により多数のヘリを同時運用できる強力な航空運用能力は、優れたゾーン対潜戦能力を実現する。

CICの後部に隣接設置された FIC旗艦運用司令部作戦室は艦隊個艦の戦闘統制用CDSと連接、衛星通信機能には米海軍の基幹指揮回線を併設し高度な日米共同作戦が可能。

優れた指揮旗艦能力は大規模災害時に自治体を迎える対策本部や海外派遣統合司令部の役割を果たし、艦内に集中治療室や手術室を備えた医療設備を有し、大型輸送ヘリや救難ヘリに対応する海上基地として機能し、本来用途である揚陸作戦以外にも災害派遣、国際平和活動や邦人救出等の多彩な任務を柔軟に遂行する。 乗員 360名



揚陸艦 「おおすみ」 LST-4001 OSUMI  おおすみ型1番艦 基準排水量 8,900トン

全長 178m 全幅 25.8m 2軸推進ディーゼル2基 26,400PS 最大速力 22ノット
搭載艇 LCAC-1 エアクッション型揚陸艇 2隻  兵装 CIWS 20mm対空機関砲 2基 

艦名「おおすみ」は大隅半島に由来し、日本海軍の慣例では特務艦に半島などを命名する。

本艦の全通甲板は複数のヘリ発着運用が容易で後部艦内に設置されたウェルドックに揚陸輸送用ホバークラフト2隻を搭載、岸壁使用時は大型戦車や作業車は艦体両舷サイドランプから車両甲板に直接搬入揚陸可能な優れた輸送能力はドック型強襲揚陸艦級。

陸上部隊 1個普通科中隊戦闘群(約330名と装備品)、民間人の輸送時は約1000名が収容可能で艦内に集中治療室や手術室を備える。 乗員137名(他、揚陸要員330名)


艦載 LCAC-1 エアクッション型揚陸艇
積載能力70トン 90式戦車1両積載可能 搭載最大限界 240名の揚陸を行う。

「おおすみ」は東日本大震災他に1999年のトルコ北西部地震では被災者救援に補給艦「ときわ」掃海母艦「ぶんご」を伴いスタンブールへ派遣出動、2002年 東ティモールへPKO部隊を輸送。
2004年 イラクへ、陸上自衛隊の軽装甲機動車や給水車等など車両70台を護衛艦「むらさめ」と共に輸送している。

また同型艦「くにさき」も、2004年のスマトラ沖地震被災地へ護衛艦「くらま」、補給艦「ときわ」と共に派遣され人道援助活動と援助物資輸送任務に従事した。



補給艦 「とわだ」 AOE-422 TOWADA とわだ型1番艦 基準排水量 8,100トン

全長 167m 全幅 22.0m 2軸推進ディーゼル2基 26,000PS 最大速力 22ノット
兵装 CIWS 20mm対空機関砲 2基 

艦名の「とわだ」は十和田湖に由来する。

艦船に対する洋上補給を行うことを目的とし建造、補給ステーションは片舷3ヶ所 計6ヶ所内4ヶ所は給油用・2ヶ所はドライカーゴ用。 給油速度は片舷当たり1分間 約11kℓ。

艦橋後方艦尾の大型ヘリコプター甲板は、MH-53Eクラスの大型ヘリの運用が可能。

また「とわだ」もカンボジア派遣海上輸送補給、インド洋給油活動には7回従事している。



1934年 日本は高い上陸戦遂行能力を持つ世界初のドック型揚陸指揮艦「神州丸」を建造

全長144m 全幅22m 吃水4.2m 基準排水量7,100t 航続距離7,000浬 
最高速力20.4kt 機関ボイラー2基 蒸気タービン1基 最大出力7,500馬力
対空指揮施設 兵装 7.5cm単高射砲11門 20mm機関砲6門 7.5cm野砲1門 
対潜水中聴音機 爆雷 12cm対潜用迫撃砲1門 
最大収容兵員約2,000名 冷房・医務設備 船尾泛水装置
搭載舟艇 八九式中戦車搭載可大発29隻・小発26隻・装甲砲艇4隻・高速偵察艇4隻
搭載航空機 九一式戦闘機・九二式偵察爆撃機 最大12機 搭載機射出カタパルト2基

1937年 帝國陸軍「神州丸」は日華事変勃発直後、天津河口の太沽上陸作戦を初陣に実戦運用を開始、第二次上海事変、マレー作戦と参加、荒天下の揚陸に活躍した。

1942年には航空機運用能力を向上した全通飛行甲板の強襲揚陸艦「あきつ丸」を建造

全長152.1m 全幅22m 基準排水量9,190t 九七式戦闘機13機 大発27隻搭載
対空指揮施設 兵装 7.5cm単高射砲8門 25mm機関砲12門 7.5cm野砲10門 
対潜水中聴音機 爆雷60個 12cm対潜用迫撃砲1門 


「あきつ丸」は「神州丸」と共に蘭印作戦にも動員されジャワ島の上陸制圧に貢献する。

また爆雷60個を搭載して対馬海峡で対潜哨戒輸送任務も就いた。

この先進的な2隻は後の「おおすみ型LST輸送艦」、「ひゅうが型DDH護衛艦」や強襲揚陸艦の運用にも影響を与えた。



空母機動部隊 第一航空艦隊 旗艦「出雲」

先日、進水した空母型護衛艦 DDH183 「いずも」 全長248.0m 基準排水量19,500トン

帝国海軍の正規空母「飛龍」「加賀」を凌ぎ、米海軍「ヨークタウン」とほぼ同じ規模。

太平洋の半分を欲しがり尖閣、沖縄南西諸島を狙って日本に仇なす国がガタガタ騒ぐな。 

中共には日本からのODAで買った カジノ型リサイクル蒸気空母が有るだろ。

輸送護衛艦「いずも」には零戦や九九艦爆、九七艦攻は搭載しない。

今日現在は何処から見ても対潜ヘリ母艦だ。


しかし日本の近海にコソコソと忍び込もうとする潜水艦には脅威となる。

太平洋戦争以来、正規空母機動部隊をまともに実戦運用したのは帝國海軍と米海軍だけだ。

戦前の軍縮条約で保有艦艇が制限されていた事から、大戦では貨客船や給油艦から改装された、空母「隼鷹」や「瑞鳳」などの改造空母が活躍し帝國海軍の貴重な航空戦力を支えた。

隼鷹型航空母艦1番艦「隼鷹」 同型姉妹艦「飛鷹」

「出雲丸」は日本郵船の北米航路用に新造した貨客船であったが、建造途中で航空母艦「飛鷹」に改装され、速力は正規空母の30kt以上に比較して遅く、鋼板が薄く防御能力も見劣りしたが航空機搭載能力は主力空母「蒼龍」に匹敵した。

「いずも型護衛艦」は大型機も収容可能なデッキサイド式エレベーターを装備し既に航空母艦としての素地が整っていて護衛空母に改装する事は技術的に容易ではあるが、固定翼艦載機の導入や操整訓練に早期警戒機を含め航空艦隊の遠征運用には時間が掛かる。

カタパルトやアレスターが不要なF-35BやAV-8B ハリアー II などSTOVL機を運用する場合も耐熱性や重量など飛行甲板の強化や改装が必要になる。

陸上基地から上げる早期警戒管制機(AWACS)のカバーでは遠征するにも限りがある。

また日本の防衛体制と戦術からシーレーン防衛にも空母の遠征運用より対潜、防空。

潜水艦隊や強襲揚陸艦の航空機運用能力の向上に防空護衛艦を増強してイージス艦や攻撃機に長射程巡航ミサイルを搭載する事が急がれる。

衛星やレーダーが発達した現代では先の大戦のように空母機動部隊が直接対峙する海戦の機会も無くなりつつある。

だが艦隊護衛や島嶼防衛・奪還時の制空権維持にエアカバー用の護衛空母は有用。

いずも型護衛艦を近接航空支援や航空戦能力を備えた軽空母に改装する意義は大きい。

攻撃能力の保持は先制攻撃をかける為ではなく、侵略軍を排除し自国領土を奪還する為だ。

四方の海に波風が立ち騒がず、日米同盟が有る限り、日本が再び高速空母機動部隊を編成して、航空艦隊旗艦のマストに、Z旗を掲げる事はない。




1944年10月23~25日 レイテ沖海戦

米海軍第7艦隊と米陸軍上陸部隊がフィリピン・レイテ島及び周辺島嶼の攻略作戦を開始。

帝國海軍連合艦隊はレイテ湾に集結する米海軍輸送部隊を叩き上陸作戦を阻止する為に出撃

第三艦隊 小沢治三郎中将揮下の空母機動部隊は囮となり、ハルゼ―大将揮下の空母機動部隊の北方誘致に成功する。

25日、エンガノ沖の航空戦で空母「瑞鶴」「瑞鳳」軽空母 「千代田」「千歳」を失う。

23日、一方、レイテ湾の米軍輸送部隊の攻撃に向かう 第二艦隊 栗田健男中将の第一遊撃部隊 旗艦の重巡「愛宕」と「摩耶」が米海軍ガトー級潜水艦2隻から雷撃を受けて沈没。

栗田中将は戦艦「大和」に移乗する。

24日、戦艦「武蔵」がシブヤン海で米機動部隊の空襲を受け沈没。

25日、西村祥治中将揮下の別動遊撃部隊はスリガオ海峡で待ち受ける米巡洋駆逐艦隊と会敵し、夜間戦闘で戦艦「山城」「扶桑」重巡「最上」が沈没、西村中将は戦死。
西村艦隊はレイテ湾を目前にして突入は失敗に終わった。

同日、栗田艦隊は針路反転を繰返し、サマール沖で米機動部隊と会敵、重巡「鳥海」「鈴谷」「筑摩」の3隻を失い、米軍輸送部隊を目前にレイテ湾に突入する事なく再び反転し敵主力の撃滅に向かうも会敵せず、ブルネイに帰投途中、米軍機の空襲を受けミンドロ沖で軽巡「能代」を失う。

一方、米海軍は空母「プリンストン」をはじめ、護衛空母3隻 駆逐艦3隻を喪失。

レイテ沖海戦には小沢機動部隊の前衛に航空戦艦に改装された初代「伊勢」も参加した。

また、この海戦が神風特別攻撃隊の初出撃でもあった。




Asian Friendship

アジアには日本の援助を必要としている国がある事を豊になった日本は忘れてはいけない。

東北地方太平洋沖地震でフィリピンは100余名と救助犬数頭からなる援助隊を派遣。

フィリピン医療協会は外科医、救急医療、麻酔医、小児科医など医療隊を編成派遣。

フィリピン沿岸警備隊は医療担当者やダイバーを現地に派遣。


経済的に苦しい国が日本の国難、大災害時に助けてくれた。 

日本は受けた恩をけして忘れない。

日本を護り戦う艦隊はアジアの人々を救援する艦隊でもある。



米国は既に在沖縄米軍基地から、約90人の海兵隊員と支援物資を乗せたKC-130輸送機2機とMV-22オスプレイ8機をフィリピンに派遣するなど支援を開始した。

米海軍 第7艦隊所属の空母 CVN-73 USS "George Washington" も寄港先の香港から巡洋艦、駆逐艦と共にフィリピンに急行している。


あれから70年、被災者救援の為に日米の艦隊が再びレイテ湾に向かう事になった。


日本の艦艇は因縁のレイテ湾で米海軍 第7艦隊 空母機動部隊と会する事になる。 


しかし今度は敵として対峙するのではなく、日米は友軍だ。  


日米両軍は協力して国際緊急援助活動を行う。 



中共は隣国フィリピンが苦しんでいる時に南沙や尖閣を盗みに来るな。


日米が艦艇を派遣すれば中共も海軍艦艇を差し向けたがるだろう。


中共よ、よく見ておけ、日米の揚陸能力を、環太平洋同盟の絆を。


日米はフィリピンを見捨てない。


平和を願い守る日本国自衛隊の活躍、奮闘努力を期待する。




「日米軍事力と米軍基地のアピールだ!」

左巻マスコミと反日反米左翼よ、こんな時にまで騒ぎ立てるな。

思想以前に人としての恥を知れ。


豊ではない国で起きた巨大災害は救助は難航させ復旧は長引く。

収穫前に田園や畑も全滅したフィリピンでは災害発生後も多くの人々が餓死、伝染病など命の危険に直面する。

人口の約半数が未成年であるフィリピンの被災者の多くが幼い無力な子供達だ。

自衛隊に任せきりにするのではなく、子供達に自分達も自分に出来る支援をしよう。

日本赤十字フィリピン台風救援金


一人でも多くの子供達が少しでも良いクリスマスを迎えられますように。



Posted at 2013/11/14 15:50:41 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年11月12日 イイね!

Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」 上海事変

Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」 上海事変前回の「満州事変」にも書いた日中戦争の続き。

「太陽の帝国」には、嘗て帝國海軍に奉職していた父方の祖父や伯父達の体験談と自分自身が船員時代に訪ねた南洋の戦跡の記憶から海軍艦艇や海戦史を書いて来たが、太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、満州、上海、日華事変から始まる。

母方の祖父は大戦前から帝國陸軍に籍を置き、香川県 善通寺 第11師団に所属、兵員輸送船勤務、上海、台湾、日本を往復、後再び上海、満州と転任、北支(華北)で終戦を迎え北京を経由して約1年後に北九州小倉に復員した。 



上海国際租界 Shanghai International Settlement

1842年の南京条約に拠り開港した上海には外国政府が行政自治権と治外法権を持つ外国人が居留する租界地が在り、自国居留民保護の為に北京議定書に基づき外国の軍隊や警察保安隊が駐留して市内を流れる黄浦江には列国海軍の警備艦艇が停泊していた。

1937年 上海 黄浦江 帝國海軍 軽巡洋艦「長良」 米海軍砲艦 USS ”Asheville”

日本の租界は天津 漢口 杭州 蘇州 重慶にもあるが特に上海は国際色豊かで華だった。 

上海にはイギリス、アメリカ、日本などが自治管理する共同租界とフランス租界があった。


揚子江の下流に位置する上海は中国とアジアの貿易と金融の中心となり、黄浦江西側にある租界の外灘(バンド)地区には外国資本の銀行や大手商社ビル、高級ホテル、百貨店、飲食店、映画館、劇場、ショッピングモールなどモダンな西洋高層建築物が建ち並ぶ。

まだ幼かった母は休暇で帰って来た祖父から、上海の珍しい靴やゴムボール、祖母はバッグや洋服と香水、台湾の砂糖キビなど土産を貰った事を嬉しそうに話していた。

装甲巡洋艦「出雲」から見た上海バンド(海岸通)  敷設艦「八重山」


租界には多国の様々な文化が溢れ、また中国政府や支那軍閥が行っていた思想の取締りはなく、自由に活動発言できた為に中国の思想家、学術者、音楽家、芸術家など多くの知識人達が集まり、図書館や美術館も建って、キャバレーにダンスホールなどの社交場や舞台や映画の製作も盛んに行われて活気に溢れ華やいだ国際都市上海は「東洋のパリ」と呼ばれた。

この自由な風潮に世界各地から迫害を逃れてきた多くのユダヤ人達も移住して来る。

その繁栄の反面、上海の街には麻薬や売春や賭博が横行、裏社会の中国人ギャング達が暗躍し貧困に餓死した中国人の死体が毎日の様に黄浦江に浮いては流れ「魔都」とも呼ばれる。



第一次上海事変

1932年 蒋介石の命令に服さない軍閥客軍が中国各地の租界や租借地で挑発や衝突を繰返し、上海事変は1月18日に上海共同租界で起きた日本人僧侶襲撃事件に対する暴動に端を発する。

江西省で共産党軍との戦闘を終えた中国国民党 第十九路軍 3個師 約3万の兵力が南京、鎮江、蘇州、常州など上海付近に進出駐留、排日暴動から租界の居留民を警護する為に日本海軍陸戦隊は黄浦江に停泊する警備艦艇から上陸させ2700名に増強した。

警備を増強する列強軍との衝突を回避したい蒋介石の国民党中央は十九路軍に撤退を勧めるが、蒋介石に疑心を抱く第十九路軍 軍長 蔡廷は給与未払いを理由に首都南京以上に繁栄していた上海周辺の支配を狙い、撤退を拒否する。

1月28日 日本海軍陸戦隊に第十九路軍が銃撃し陸戦隊に90数名の死傷者が出た。

帝國海軍は空母「鳳翔」「加賀」 重巡「那智」 軽巡「阿武隈」「那珂」「由良」 駆逐艦「沖風」「峰風」「沢風」「矢風」を派遣し航空支援を行う史上初の正規空母の実戦参加であった。  

帝國海軍 第一艦隊 第一航空戦隊 空母「鳳翔」

日本政府は陸軍部隊派遣を決定、金沢 第9師団、久留米 第12師団の2個師団を動員。

これに対抗し中国国民党軍は約3個師からなる第五軍を増強した。

2月18日 上海に到着展開した第9師団 師団長 植田謙吉中将は更なる軍事正面衝突を避ける為に中国側へ国際租界から20Km後退を要求したが、第十九路軍 軍長 蔡廷は要求を拒否。

2月20日 日本軍は中国軍に対し総攻撃を開始、上海の戦闘は拡大する。

3月1日 帝國陸軍は増援の善通寺 第11師団と宇都宮 第14師団の2個師団を加え上海派遣軍を第十九路軍の背後、揚子江沿岸 七了口に上陸させ撃退した。

3月3日 十九路軍の敗退に日本軍は戦闘の中止を宣言、日中の全面戦争には至らなかった。

5月5日 英米仏伊4カ国列強の仲裁により上海停戦協定が成立し日本軍も内地へ帰還した。



第二次上海事変

中独合作・上海包囲

第一次大戦で敗北して多くの植民地と租借地を失ったドイツは中国から資源を得ており、北伐統一を完遂した蒋介石の国民党を経済と軍事の両面で支援していた。

蒋介石は日本政府の戦争不拡大方針を逆手に取り、上海停戦協定に違反して郊外の非武装地帯にトーチカと強固な要塞線をドイツの軍事顧問の指揮指導に拠り構築する。

1937年 中国国民党中央軍 最強の精鋭部隊 第87師、第88師が上海付近に集結。

ドイツ・チェコ製最新装備で完全武装した3万の中国兵が上海共同租界の日本人居住地区を包囲、市内の保安隊と警察に工作兵を紛れ込ませ対日戦闘を準備、上海周辺の無錫や蘇州に20万以上の中国国民革命軍が攻撃命令を待ち倦ね、更なる兵力増強に各地で進撃体制を整えていた。

ドイツ軍事顧問 ファルケンハウゼン中将が指揮する ドイツ式精鋭部隊 国民党軍 第87師と第88師、中独合作の兵士はドイツ製モーゼルM98歩兵銃やチェコ製機関銃で武装する。

また国民党と内戦停止・一致抗日を訴える共産党との国共合作も成立し、共産党の八路軍も加わり中独共合作で増強された国民革命軍の兵力は充実し士気は高く抗日戦闘意欲も旺盛であった。


上海市街戦
8月9日 中国保安隊が日本海軍特別陸戦隊の中隊長 大山中尉と斎藤一等水兵が運転する車両を共同租界内の自由通行路上で待伏せて銃撃、 2名を惨殺する事件を起こした。

これまでにも共同租界では巡洋艦「出雲」から上陸し安全区域内で買物散歩中の日本人水兵4名が便衣兵と思われる数名の中国人に銃撃され死傷する事件が起きており大山中尉殺害事件と中国軍の不穏な動静に共同租界の警備に駐留していた海軍陸戦隊は警戒を厳にする。



当時、上海を包囲した3万以上の中国兵に対し共同租界の邦人居留民 約2万数千人を守れるのは帝國海軍上海特別陸戦隊に艦付を含めた2400名と在泊中の第三艦隊旗艦司令部である旧型の装甲巡洋艦「出雲」と軽巡「川内」他、揚子江警備任務に就く軽駆逐艦と特務艇数隻のみ。

第三艦隊旗艦司令部 装甲巡洋艦「出雲」 上海 黄浦江




8月13日 海軍陸戦隊陣地へ包囲していた中国軍が突然、機銃掃射を浴びせる。


上海停戦協定を守ろうとする海軍陸戦隊は応戦するも極力交戦を回避し防御戦闘に徹していたが、中国軍の砲撃を伴う総攻撃に已む無く反撃を開始、日中両軍は市街戦に突入した。



上海空襲
同日、中国軍の軽爆撃機21機が黄浦江に停泊中の日本艦艇を狙い空襲、キャセイホテルやパレスホテルが並ぶ繁華街と婦女子の避難所である大世界娯楽センターに爆弾を投下。

約3000人の市民が犠牲になり、租界に関係する各国は中国側に空爆の抗議を行った。

またフランス租界上空の中国軍機に対してフランス駐屯軍も高射砲の一斉射撃を行なう。


「出雲」「川内」は艦載の九五式水偵を上げ迎撃、艦高射砲とで応戦し中国軍機3機を撃墜する。

イギリス海軍 重巡洋艦「カンバーランド」と米国アジア艦隊 旗艦 重巡洋艦「オーガスタ」も日本艦と誤認され標的にされたが、中国軍爆撃機2機の急降下爆撃は失敗に終る。

中国軍機から爆撃を受ける米海軍重巡洋艦 USS ”Augusta”

標的を大きく逸れた中国機の爆弾は欧米商社の倉庫と石油タンクを炎上させた。


渡洋爆撃・航空支援
8月14日 帝國海軍は渡洋爆撃を開始、台北、台南、済州島、長崎大村の海軍航空隊各基地から、九六陸攻爆撃隊が東シナ海を横断、南昌・南京・広徳・杭州・蘇州など上海周辺の中国軍飛行場を空襲して大戦果を上げたが、航続距離の短い援護戦闘機を伴えない強襲は爆撃隊にも多大な損害を出した。

帝國海軍 九六式陸上攻撃機 電波航法で 1000海里以上の基地と大陸間を往復する。

8月15日 第二航空戦隊の空母「加賀」、22日には第一航空戦隊「鳳翔」「龍驤」の3空母が参加して九六式艦上戦闘機隊が加わり中国軍が有利であった上海周辺の制空権を掌握した。

第二艦隊 第二航空戦隊 空母「加賀」


中国軍は第15師、第118師、17日には第36師も参戦、上海は7万の中国兵に包囲された。

8月18・19日 横須賀、呉、佐世保から特別陸戦隊の増援2400名が上海に到着する。


上海派遣軍
海軍は上海の不穏な情勢に危機感を持ち、陸軍部隊の派遣を要請していたが、既に北支方面にも兵力を取られ、中支方面での戦火の拡大を危惧する陸軍参謀本部は最小限の兵力の派遣を決め、名古屋の第3師団と第一次上海事変に動員した善通寺 第11師団に再び命令が下り上海派遣軍を編制、松井石根大将が司令官となる。


8月23日未明、派遣軍2個師団が揚子江から上海北部に艦砲援護射撃下に敵前に強襲上陸を開始、沿岸で敵の抵抗を排除しながら第3師団は呉淞鎮に第11師団は川沙鎮に上陸する。

両師団は敵に包囲され揚陸を阻まれながらも、翌24日までに 戦車1個大隊、軽装甲車1個中隊、機関銃1個大隊、野戦重砲1個連隊、迫撃砲1個大隊、工兵1個連隊、防空隊、衛生病院隊などの主力と装備の揚陸を完了させ進撃を開始した。


既に兵力を15個師に増強し迎え撃つ中国軍の優勢な火力に派遣軍は苦戦を強いられる。

9月6日 第3師団の後続部隊、歩兵1個大隊、山砲1個中隊編成の飯田支隊が戦車1個小隊を伴い公大飛行場周辺の敵を強撃、支隊長を失うも飛行場の制圧奪取に成功。

2日後には海軍 第12・13航空隊が進出、陸軍の地上戦を航空支援の陸上基地として運用を開始以降、公大飛行場は重慶など内陸部への爆撃隊基地として機能する。

また同時期に第3師団は宝山城攻略に成功、第11師団 天谷・浅間支隊は月浦鎮に突入占領し、第3師団は上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐し、第11師団と連結する。

8月13日の中国軍の包囲攻撃から約3週間に渡り海軍特別陸戦隊は2400名の陸戦隊増援だけで殺到する10倍の最新装備の敵精鋭部隊を相手に大損害を出しながらも孤軍奮闘して共同租界の日本人居留区を死守した。

しかしドイツ軍軍事顧問 ゼークト大将の指導に拠り、郊外に構築された トーチカと水路を利用した要塞線は兵力を増強され依然頑強で激しい戦闘に消耗しながらも僅か2個師団で戦う上陸部隊の戦死者は既に2560名 負傷者7560名に昇り、揚子江岸近くに釘付けにされた派遣軍は大規模な増援を陸軍参謀本部に要請する。

9月28日 急遽、台湾守備隊から増援された重藤支隊を編入した第11師団は攻撃方向を転換して強力に抵抗する敵陣を突破し羅店鎮を占領した。

10月8日 東京 第101師団、金沢 第9師団、高田 第13師団の3個師団が加わった上海派遣軍は攻勢を開始、頑強な要塞線を突破して要衝の大場鎮を占領。 第一次上海事変の停戦協定ラインの蘇州河 南岸まで敵を追いやるが、中国軍も上海周辺へ逐次、兵力を増強し続けていた。

10月20日 戦線の膠着が続く上海周辺の戦況を打開する為に、熊本 第6師団、久留米 第18師団、宇都宮 第114師団、広島 第5師団 歩兵第9旅団(国崎支隊)が、第10軍として新たに編成され、苦戦する上海派遣軍の増援に動員が決定された。


10月31日 上海の南側から中国軍の脅威を排除する為に第3師団、第9師団、第101師団が個々に蘇州河の渡河を開始するも対岸には敵の強力な野戦機関銃陣や強固なトーチカがあり、渡河作戦は激烈を極めながら成功する。

第9師団は南進を続けて、第3師団は租界地南側の龍華を占領して南市まで進み、第101師団は黄浦江東岸付近の激しく抵抗する敵兵を掃討、上海国際租界の安全は一時的に確保された。


8月23日の揚子江上陸開始から続いた激戦で上海派遣軍の死傷者は約2万名に達していた。


杭州湾・白茆口 二面上陸作戦
11月5日 第6師団と第18師団は杭州湾 金山衛に上陸成功、第18師団は敵の退路遮断に西進、第6師団と国崎支隊は北上し金山鎮、8日 黄浦江を渡り国崎支隊は松江を攻略する。


11月7日 上海派遣軍と第10軍、上海方面の全作戦を統括指揮する「中支那方面軍」が創設され、上海派遣軍の松井石根大将が司令官を兼任する事となり、中支那方面軍の任務は従来の居留民の保護から敵掃滅に拠り戦争終結の動機を得る事に変更された。

しかし戦線拡大を望まない陸軍参謀本部は作戦地域を蘇州ー嘉興の線迄を制令線と定めた。

11月9日 第10軍に拠る退路断絶に大きく動揺した中国軍は一斉に退却し始める。


第6師団は蘇州河に向けて前進、後退中の敵を追撃して損害を与えながら 14日に平望鎮を占領、15日には崑山を占領した。

11月13日 中国軍の後方、揚子江の上流に位置する白茆口に重藤支隊と北支方面から増援された京都 第16師団が上陸、強固な敵陣地への攻撃を開始する。


上海・南京追撃戦
上海派遣軍と第10軍は平行追撃戦に入り、第101師団は13日 嘉定を奪取して更に前進を続け、第13師団は14日に劉河鎮を攻略、第3師団と第11師団は並進し14日に太倉を占領、第9師団は滬寧鉄道沿に前進して15日に崑山を占領した。

11月19日 第9師団は蘇州を第13師団は蕭家橋と謝家橋を第11師団は莫城鎮を占領、白茆口に上陸した第16師団は常熱を奪取、杭州湾に上陸した第18師団は嘉興を占領、南西方面への敵の退路遮断に成功する。

第10軍は独断で揮下兵団に南京攻略作戦を発動、蘇州ー嘉興の制令線を越え進撃を開始。

陸軍参謀本部では制令線を越えた部隊を全て後退させる強い意見も出たが、24日に参謀本部は作戦地域の制限を解除、但し南京方面へ進撃しないよう打電する。

現地の中支那方面軍から「敵の継戦意志を粉砕する為に南京攻略が必要である」との意見具申が通り、28日 参謀本部は南京攻略作戦を追認した。


上海派遣軍と第10軍は戦機を逃さず攻勢に敗走する中国軍を追って南京攻略に向かった。



兵力60万の中国国民革命軍との戦闘に帝國陸海軍が25万の兵力を投入した第二次上海事変は日中の本格的全面戦争の緒戦となった。

結果、日本軍は陸海軍合わせ約1万名が戦死、日露戦争の旅順攻略以来の損害を出した。

最終的に北中支への動員兵力は16個師団にも及び、内地に残る常設師団は禁闕守護の任を負う帝都 近衛師団と札幌 第7師団のみとなり、日本は莫大な戦費を出費困窮した。


蒋介石は虎の子の精鋭部隊と兵力25万を失い暗躍したコミンテルンと共産党を喜ばせた。

力を失った蒋介石と国民党は後の国共内戦再発で大陸を追われ小さな島に渡る事になる。




盧溝橋の銃弾と侵略戦争

「軍拡と侵略戦争を計画準備した帝國主義日本が土足で中国に押し入った。」

「上海を先制攻撃した軍国主義日本が中国の首都南京で30万人大虐殺した。」


アホか。

日本の敗戦を良い事に満洲事変や第一次上海事変の前1927年に中国国民革命軍共産党派が起こした日本や欧米の領事館を襲撃して外国人居留民を暴行殺害した 南京事件漢口事件などの中国に拠る暴挙を全く無かったことにするな。

揚子江に停泊中の米海軍と英海軍艦艇は南京城内の中国軍に艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵に一方的暴虐に遭い多くの日本人と外国人が殺害され婦女子が強姦された。

当事者である各国の領事館員や目撃した新聞記者も事件を中国を批難糾弾し日本軍の治安維持の介入に期待していると国際的に報道された。

翌年4月には山東省 済南で北伐軍内の共産党派が掠奪を働き、居留民を虐殺して警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こした。

南京事件の当時に領事館付陸軍武官少佐で後に駐蒙軍司令官となる根本博 中将は領事館内で発砲され銃剣で突き刺されて重傷を負った経験から終戦時に停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下す。

駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍も抑え、4万人の在留邦人が内蒙古から天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い避難民を守り抜いた。



「盧溝橋のたった一発の銃弾から日中戦争が始まった。」


違うな。

盧溝橋の支那駐屯軍 夜間演習部隊は中国兵の挑発狙撃に応戦せずに冷静に撤収し抗議したが、事件発生と同時に中国軍は城門を閉鎖して日本軍の増援を阻止し飛行場を占拠、電話線を切断、交渉中も銃撃を続け、非常呼集した日本軍に迫撃砲を撃込み一斉射撃を浴びせた。




「最初に撃ったのは誰だ。 日本軍の陰謀だ。」 

誰が最初に撃とうが謀略であろうが偶発であろうが日中戦争に大きな捩れは生じない。 

狙撃されたのはサラエボの皇太子でもハルビン駅の首相統監でもない。


盧溝橋の弾丸は、最初の一発ではない。

溢れそうになったコップに落とした最後の一滴だった。

国共独合作後の南京政府には強い対日戦争の意思があり、戦争準備さえ整えば何時か何処かで日本軍の兵力分散を狙い陽動誘出の蛇口を開く。



1937年7月7日 盧溝橋事件に始まった一連の戦闘は不拡大方針で処理に当たる支那駐屯軍が関東軍からの増援を断り折衝を重ね、駐屯軍司令官 香月清司中将に中国第二十九軍の親日的な軍長 宋哲元が謝罪を行い停戦協定が結ばれた。


15万の北支中国軍に対し僅か4個中隊に拠る通達済の夜間演習を日本軍の挑発と言うな。

1935年12月頃から共産党配下の第二十九軍幕僚は日本軍を敵として作戦計画を立案、頻繁に演習を実施、盧溝橋一帯の兵力を増強して機関銃陣や野砲陣地、散兵壕を構築した。

更に日本軍の演習を偵察して周到な対日戦準備を整え、中国軍営地の射程内接近時には射撃を指示して日本軍の火網包囲を画策していた。


廊坊事件、電話修理の通信隊と軽装備の護衛中隊で、中国軍の一個旅団 数千名、且つ 重装備の兵営を襲撃するか。

天津への通信線は度々中国軍に拠って切断され、日本軍は中国側に事前通知し折衝を終えてから電線修理を始めたが、中国軍兵営から機関銃と迫撃砲の攻撃を受けた。

広安門事件では、北平城内の駐営地へ戻る日本軍部隊の通過中に中国軍が城門を締めて隊列を分断し、手榴弾と機関銃の猛射を浴びせた。

何れの事件も中国 第二十九軍が停戦協定を破り日本軍に待伏せ攻撃を仕掛けてきた。

この一連の流れから中国側の一方的な挑発攻撃であり、日本政府が戦争不拡大方針であった事は明白である。

7月29日 第二次上海事変の10日前に中国人保安隊が北京で在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した通州事件まで無かったように揉み消すな。



「他国で戦ったから侵略戦争だ」とバカを言うな。 

ならば鴨緑江を越えた中ソ赤軍も沖縄と朝鮮で戦った米軍やPKO部隊も侵略軍になる。

第二次上海事変は日本が領土侵略を目論み始めた戦闘ではない。

中隊長と運転手の水兵と二人で車に乗り拳銃で中国保安隊が警備する飛行場を襲うか。

兵力20万の中国中央軍を相手に計画も無く、2400名の海軍陸戦隊で侵略を始めるか。

上海包囲攻撃は対日強行政策とドイツ軍事顧問の綿密な作戦立案指導に拠るものだ。

3年掛けて要塞線を構築し兵力60万を移動させて日本軍を誘き出し待伏せ攻撃を企んだ。

攻防兵力比 3対1の法則、常識を考えろ、上海で日本軍はドイツ軍とも戦った事になる。

戦争は大量の物資を投じる経済力の消耗戦である。

内地に2個師団しか残せず、戦費もない日本は戦争不拡大を望んでいた。

上海の日本軍は不拡大方針に基づき可能な限り交戦回避の努力を行い、戦闘が国際区域に拡大させぬよう防衛的戦術に限定し、低空で侵入する中国軍機に対しても爆撃を受けるまでは対空防御を行わなかった。

当時ニューヨーク・タイムズ上海特派員は「日本軍は中国軍の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し数日間全ての日本軍部隊を兵営の中から一歩も出さなかった。 但しそれに拠り日本人の生命と財産を危険に曝した。」と記して「中国軍が上海で戦闘を無理強いして来たのは疑う余地は無い」と他紙も報じている。

満洲国を承認してナチスやファシストを批難し対立していたローマ法王ピオ11世は「日本軍の行動は侵略ではない。日本はシナを守ろうとして共産主義を排除する為に戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会信徒は遠慮なく日本に協力して下さい。」と言う声明を出した。

鉄道付属地や租界など国際条約で保証された日本の権益や邦人居留民達の生命や財産を武力で脅かされ、日本軍が応戦反撃して守った事を侵略と言うな。

第二次上海事変も中国軍の包囲攻撃に始まった自衛戦闘であった。

当初、これら全面戦争に繋がる中国軍の日本軍への挑発攻撃はアメリカでさえ批難した。

欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと民国政府や軍閥内に潜り込んだ共産党員が北・中支各地で日本軍を挑発して開戦を嗾けた。

サイクス・ピコにヤルタ密約、中立不可侵条約を一方的に破棄し宣戦布告前に大挙して満洲や千島など他国の領土に攻め込み占領したソ連の対日参戦こそが侵略戦争である。


だが戦争は勝ち負けが全てだ。 

卑怯な陰謀でも自衛の為に始めた戦闘であっても負けた者が悪くなる。


問題はコミンテルンや中共、戦勝国のプロパガンダを多くの日本人が鵜呑みにし史実を無視し検証もせず教育者やマスコミ解説者が「上海事変は日本が中国に仕掛けた侵略戦争だ」と真顔でバカを言いながら日本の侵略を前提にアホがテレビで朝まで熱く語っている事だ。



「日本が大陸に行った事が間違えだ」と言う者がいる。

日本が日清、日露、第一次世界大戦の戦役で権益を得て国際条約や協定に基づき、満州や租界に行った事は間違いではない。

大陸には英、仏、米、独、露他、多くの国から来た外国人が居留生活し事業を行っていた。

日本が馬賊の奉天軍閥や南京政府、ソ連が条約を守ると思った事が間違いの元だった。

中共の条約・契約軽視は今に始まった事ではない、中国は昔から約束を守らない国である。

日本は同盟協力の相手に張作霖や上海の包囲攻撃を主導したドイツを選んだのも間違いだ。

米英もやっていたからと言って、日本は中国に欧米列強と同じ振舞いをしてはいけない。

革命家 孫文も、知日派 汪兆銘も中国から逃れ支援を求め日本で亡命生活をしていた。

蒋介石は日本に留学し帝國陸軍で砲術や用兵を学び孫文と亡命して来た反共親日だった。

周恩来も留学していた日本には同じ東洋人にしかできない支援協調政策の選択肢があった。

倒閥した軍閥を武装解除し旧態に復すれば足元を掬われ国際世論を敵に回す事もなかった。

空母「加賀」艦載機日本海軍パイロットは450 トンの小さな河川砲艦に爆弾を命中させる。

中立国である米海軍砲艦「パナイ」の誤爆撃沈事件は米国民の対日感情を悪化させた。




暴支膺懲

「暴支膺懲 南京政府の反省を促す。」

悪い奴を懲らしめ成敗倒閥する。 気持ち良い言葉だ。

南京まで殴りに行くのは良い、敗軍も放置すれば体制を立て直し反撃攻勢に出てくる。

しかし正統な理由で始めた自衛戦闘も支那の横暴と味方の犠牲に怒り過剰防衛になった。

近衛内閣は「国民党政府を対手とせず」と声明を出したが、それを言ってはお終いだ。

文民統制、シビリアンコントロールは万能なブレーキではない。

中国は軍事力の後ろ盾の無い外交交渉が通じる相手ではない。

だが外交力の無い軍事力の行使はブレーキが壊れた暴走機関車になる。

叩いて弱った交渉相手は潰さず残すべきだ。

陸軍参謀本部は戦争不拡大方針をとり、蒋介石の国民党を交渉相手と認めていた。

「暴支膺懲」とマスコミは国民世論を煽動して戦争を支持させた。

近衛内閣は戦争遂行の予算をとり、全面戦争に消極的だった軍部のケツを叩いた。

これは軍上層部や現地派遣軍だけの過ちではなく、民主主義に拠る文民統制の結果だ。


中国兵を殺しても南京政府は反省せず、反省を促す為に日本兵を死なせてはならない。

殺せば殺すほど敵対心と殺意は募り、敵兵ゲリラの志願者は増える。

民心を掴む事が大切だ、当時、日本人に対し敵意を抱く中国人ばかりではなかった。 

戦闘になれば降伏するまで叩くのも良いが停戦講和は勝っている方が申入れるものだ。

また停戦交渉は降伏勧告ではなく、休戦協定は最後通牒ではない。

大陸の安全を確保しないまま、欧米列強の喧嘩を買ってはいけない。

中国で戦闘を続け、多勢の連合国軍を相手に太平洋で戦端を開いたのは大間違いだ。



「日本帝國主義がアジアの平和を脅かした。」と言われる。 

外国に覇権を求め進出、アジア、アフリカ、南米を植民地支配する列強は全て帝國主義だ。


支那軍閥は勢力争い国共内戦に明け暮れ分裂、義和団は再び青龍刀で居留民を襲った。

民国は国の体をなさず、条約協定を破り武力挑発を続け国際共同租界を包囲攻撃した。

欧米列強は大陸に近い新興島国の台頭に大陸権益の危機感を抱き日本の排除を考えた。

米英は香港・仏印・ビルマからの援蒋ルートを使い軍需物資を輸送して蒋介石を支援した。

英軍は仏領シリア・レバノンを攻撃占領しながら、許可を得た日本の仏印進駐を抗議した。

日本を包囲、経済封鎖した米国の海兵隊は日本陸海軍を仮想敵として強化されていた。

米国は日本に消耗させ日英同盟を四ヵ国条約で妨害しチャーチルはハルノートを書かせた。

ノモンハンで仕掛けたソ連は日中米の衝突消耗を謀り、中共を支援し南下の隙を伺った。

戦闘で負け戦略で勝ったイギリスはアヘンで手に入れた香港を97年まで返還しなかった。



「日本は中国に宣戦布告をせず、戦争を「事変」と偽り、国民を騙した」と左巻は言う。

日本が布告しなかったのは中立国アメリカから石油や物資の輸入ができなくなるからだ。

武器弾薬を輸入に頼る中華民国が国際法上、戦争当事国になれば軍需物資の調達が困難になる故に蒋介石も宣戦布告をしなかった。

日本が米英に宣戦布告した翌日の12月9日、蒋介石は日本に対して宣戦を布告した。



日清間で締結、中華民国にも継続された日清通商航海条約の破棄を一方的に宣言した。

「列強が押付けた不平等条約だ」と中国が言う。

長年に渡り不平等な朝貢強制で周辺国を搾取支配して来た中国が言うな。

当時、欧米列強や戦争に勝った者と負けた者が平等の条約を結べなかった。

列強との不平等条約を甘んじて受けて来た貧国弱兵だった日本は富国強兵に努力した。

「政権政府が変わったから以前の条約は無効だ。」と言う道理が通れば条約に不満を持つ国は何度でも国名党名を変更して条約や協定を破棄すれば良い事になる。

前者から権利は相続したが義務は知らん。 と言う身勝手な言い分は通用しない。



「日本軍が捕虜を虐殺した。」

上海戦敗退後も多くの中国軍敗残兵が民間人を襲い、食糧や服を奪い便衣兵となり避難民に紛れ込み日本軍や民間人を襲撃していた。

敗残中国兵がフランス租界の重要機関に放火、フランスの警備隊も避難民に紛れた便衣兵に対して銃撃戦を行っている。

多くの敗残兵が強盗匪賊となり日本軍に処刑されたが、便衣兵は捕虜と見なさない。

「隠れ戦闘員」便衣兵は捕虜とは異なり、国際法である陸戦法規の保護を適用されない。

戦場では殺るか殺られるか、躊躇すれば己が死ぬ。

観測兵や狙撃兵が身を隠し、反撃や狙撃の拠点になりうる家屋や建物は初隊の通過時に調査して潰しておくものだ、撃たれてからでは遅い。 


しかし掠奪や強姦は軍律に反し人として失格だ。 

愚かな兵により、国と軍旗に泥を塗る犯罪が無かったと言わない。

戦陣訓を読め、強姦するような愚か者が外交官を殴る。 



上海派遣軍司令部周辺に毒ガス弾を撃込んだ中国軍は対日戦だけでなく内戦や民衆の鎮圧にも毒ガスを使用した。

国民党軍の督戦隊は自軍兵士の逃亡防止にトーチカに錠を掛け離脱兵を処刑、前線から後退した部隊を銃撃して何度も同士討ちを起こした。

中国軍は追撃する日本軍の足止めに焦土作戦を行い長沙の街に放火して市民2万人を焼殺、黄河の堤防を決壊氾濫させ農作物に被害を与え100万人を水死と飢餓、疫病で苦しめた。

日本軍は進撃を停止して数万人の黄河流域の避難民を救助し住民と共に堤防修理や流路誘導を行い、後の大飢饉でも軍糧を放出して被災地で救援活動を行った。

大洪水を起こしたうえに農民から牛や食糧を徴発する国民党軍から離反した民衆は日本軍を支持、大陸打通作戦時に河南省では民衆の自主的な協力を得て6万の日本軍が30万の中国軍掃討戦に成功し、国民党は漢奸狩りで自国人民を日常的に処刑した。


南京、武漢と二度も首都を失った蒋介石は民衆の支持まで失い共産党分子を増殖させた。


共産党軍は長春包囲戦で国民党軍と長春市民を合わせて33万人を餓死させている。

国民党軍も共産党八路軍も各地で外国人居流民だけでなく多くの中国人を虐殺した。




帝國海軍はスラバヤ・バタビア沖海戦で撃沈した連合国艦艇の漂流する米英壕将兵800名以上を敵潜水艦から雷撃される危険を顧みず救助した。

一方で日本軍はビルマやタイで連合軍捕虜を泰緬鉄道建設に役使しバターン半島では収容所への移動中に多くの捕虜を死亡させた。

日本はジュネーブ条約には加入していたが捕虜の待遇に関する条約(全97条)に批准していない日本軍では捕虜の扱いの教育が統一徹底されず、また自軍の食糧、医療品確保や補給も充分できなかった為に多くの捕虜を病死させ、B・C級戦犯として軍事裁判で裁かれた。


では連合国は日本人捕虜をジュネーブ条約やハーグ陸戦協定に則り正しく扱ったのか。

ソ連赤軍はポツダム宣言受諾後も停戦せず南侵を続け満州で多くの民間人を殺害し略奪と強姦を繰返し日本人をシベリアに抑留し劣悪な環境下で強制労働させ34万人を死亡させた。

豪軍は移送中の輸送機から後手に縛った日本人捕虜全員を突き落とし殺害し、カウラ収容所から脱走した545名の内235名を射殺、ナウル島では降伏投降した700名の捕虜に水も与えず行進させて殺したが、これは一部であり戦闘後の虐殺が日常的に続いた。

米軍はルソン第一捕虜収容所で食事を与えず日本兵捕虜 1万2千名が栄養失調で死亡した。

白い船体に赤十字を明示した病院船「ぶえのすあいれす丸」はラバウルから傷病兵を乗せてパラオに回航中にB-24に爆撃され沈没、その後も来襲した米軍機が海面を漂う負傷者や看護婦、医師、乗員の救命艇へも機銃掃射を掛けて殺害した。

この7ヵ月前、同船は香港近海でも米潜水艦 SS-275の雷撃を受け7名が負傷者した。 

犠牲者174名を出した非情な攻撃を日本は抗議したが米国は「赤十字の表記不明瞭による誤爆で抗議は筋違い」と回答、同船には条約規定以上に標識が追加され連合国籍の病院船と同じ表記がなされた何処から見ても病院船だった。

史実から連合軍がハーグ陸戦条約を遵守せず日本人の命と尊厳を軽視していた事が分かる。

この他にも雷撃沈没させた日本艦船の乗員を米潜水艦は浮上して機銃を撃込み殺している。

日本本土で米戦闘機は非戦闘員と目視確認できる低空から婦女子を機銃掃射で殺害した。

日本人を人とは見ず東洋の黄色い猿として首を刈り、捕虜を捕らない事を自慢する部隊が米壕軍に存在し、両手を上げ投降する無抵抗の日本兵を嬲り殺して楽しみ民間女性を強姦して殺した。

人間から金歯や手首、頭蓋骨を集めていたのはアウシュビッツのナチスSSだけではない。

こうして多くの日本人 WIAやPOWは、MIAやKIAになった。


しかし戦勝国の米英豪中ソ軍の蛮行は、一例も戦犯として裁かれる事は無かった。
 
戦うなら絶対に負けてはいけない。

侵略、大虐殺、戦犯、敗者が悪となり、勝者が正義を騙り裁く戦争に勧善懲悪など無い。


また日本軍の多くが玉砕し民間人が自決した理由は戦陣訓や軍上層部の強要だけではない。

降伏しても殺されるなら、最後まで応戦して死ぬ事を多くの将兵が選んだからだ。

戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」は捕虜にならず自決せよ。 と言う意味ではない。


栗林忠道中将 率いる小笠原兵団の硫黄島での戦いを見よ。

島民を強制疎開させ敵の艦砲射撃と爆撃に曝される水際の防御戦を採らず、地下要塞を構築して無意味な肉弾突撃や自決を厳禁とし、最後の総攻撃まで敢闘、栗林中将は戦死した。




軍紀と戦陣訓

自分の元直直属上司で元陸軍航空技術大尉の父上、畑俊六 元帥陸軍大将の日記より

支那派遣軍も作戦一段落とともに軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは、此際、召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、 また上海方面にある 松井大将も現役者を以て代らしめ、また軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。

畑俊六 陸軍大将 寺内寿一 陸軍大将 二元帥、徐州にて   中国国民党 蒋介石 蒋緯国 ドイツ軍装


畑俊六 大将は松井石根 大将の後任で中支那派遣軍司令官になり徐州・武漢作戦を指揮。

大陸打通作戦を完遂、元帥府、教育総監、広島で原爆に被爆する。


畑俊六 大将は戦後に下記の日記を残している。


昭和十三年二月、私は松井石根 大将の後を受けて上海に到着した。

私は直接には兵団と関係がなかったので、各郷土の特質についてはあまり良く知らないが、上海に到着するまで、南京の虐殺と言う事は夢にも考えていなかった。

南京に到着してみても、なんの痕跡もなかった、人の耳にも入ってない。

ところが、東京裁判が始まると南京虐殺の証拠が山の様に出された。

それが為に松井石根 大将は、ついに悲惨な最期を遂げられた。

それも運命と思えば諦められないこともないが、今にして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。

けれどもこれは戦場という特種の環境の下で働いた心理作用のなせる業で平静に帰った時、これを責めるのも無理だと思っている。

元々、この裁判の遠因が、所謂、復讐の為の裁判だったのだから止むを得ないことだろう。



左翼が畑俊六 大将の日記を引用、編集し、南京大虐殺が有った証拠だと喚く。


日記の何処にも大虐殺が有った、大虐殺を見たと書いてない。


南京で処刑はあったのか。   答えは「YES」だ。

南京大虐殺はあったのか。   答えは「NO」だ。


南京も他の戦場と同じように便衣兵掃討、敗残兵捕虜の虐殺が起こっても不思議ではない。

しかし上海派遣軍参謀の通達また下令に拠る民間人の大量虐殺は行なわれなかった。

大量虐殺の現場を見た証言者はおらず、証拠の写真とされる物も捏造や通州事件で中国保安隊が起こした物と擦換えられ、また戦闘前25万だった南京の人口が攻略後5万人増加している。


だが右翼も全く虐待虐殺が無かったと言うな、虐待虐殺の無かった戦争など無い。


盧溝橋事件、大山中尉事件、廊坊事件、広安門事件、全て中国軍が仕掛けた戦闘だ。


上海市街爆撃、南京虐殺、長沙大火、黄河決壊など中国は自軍の掠奪虐殺の蛮行を常に日本軍の暴挙として喧伝した。


戦後、中共と日本国内の左巻連中が史実を隠蔽し、70年経った今でも南京事件は捏造水増しされ反日のプロパガンダに都合良いツールとして利用している。



「天皇崇拝と戦陣訓が日本人を人殺しにして玉砕を産んだ。」とバカが言う。

天皇陛下の御心は常に友好と安寧を望んでおられた。

戦陣訓を曲解するな。

戦陣訓は教育総監を務め旧会津藩士 畑俊六 大将が陸軍大臣時代に皇軍軍紀の乱れを憂い戒める為に発案した。


戦陣訓 本訓 其の三 第一 戦陣の戒

一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。 常に備へ厳に警めざるべからず。
   敵及住民を軽侮するを止めよ。 小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。 
   不注意も亦災禍の因と知るべし。

二 軍機を守るに細心なれ。 諜者は常に身辺に在り。

三 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ一隊の軍紀を代表す。
   宜しく身を以て其の重きに任じ厳粛に之を服行すべし。
   哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。

四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。 
   皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、
   進んで皇道の宣布に勉むべし。

五 流言蜚語は、信念の弱きに生ず。 惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。 
   皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。

六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。 
   徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。

七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。

八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ皇軍の威信を損じ、
   奉公の身を過るが如きことあるべからず。
   深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。

九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。
    一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
   軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。
   常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、
   仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。


  第二 戦陣の嗜

一 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。  
   「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。

二 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて
   死後を清くするの嗜を肝要とす。
   屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。
   縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。

三 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。  
   特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。

四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、
   馬匹を愛護せよ。

五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、
   宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。 「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。 
   雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。

六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
   他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。

七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。

八 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
   国際の儀礼亦軽んずべからず。

九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し、
   言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。



帝國軍人は兵士である前に、武士、紳士、人として己を戒め高めよ。と言うことだ。



日本兵が中国の子供達と遊び笑顔で話している写真。

左翼は侵略戦争を隠す為に日本軍がやらせで撮った宣伝だと言う。 

米兵がガムを配る写真も原爆や焼夷弾を落とした無差別爆撃を誤魔化すプロパガンダか。



「日本軍は弱かった。 八路軍は強かった。」

大陸で日本兵は旧式装備と劣勢な兵力で300万の中国軍を相手に8年間も連戦連勝した。

上海戦で敢闘精神ある中央精鋭部隊の壊滅後、中国兵は局所を襲撃しては逃げ回った。

幾つ都市を落とそうが中国軍は殲滅できない、国府軍は都市を死守して決戦全滅はしない。

そもそも、街や田畑に放火して黄河の堤防を壊す中国兵には領地領民を守る意識がない。

日本軍に負ければ便衣兵になり良民に紛れ込み、農民から牛や食糧、衣服を強奪する。

武器弾薬など軍需物資を外国の援助に頼る中国の都市産業に重爆撃を加えても効果は薄い。

日本軍は英米からの援助物資の輸送路である援蒋ルートを遮断する為、仏印に進駐した。



インパール作戦は中盤まで完全に日本の勝利の連続だった。と言う者がいる。

敵の放棄地帯への進撃を勝利と言うな。

防御戦闘をとりながら後退する英軍に攻撃限界点まで引込まれ兵站は延び切り疲弊した。


ディマプールさえ落とせば英軍の食糧が手に入ったはずだ。と言うアホもいる。

占領軍部隊は占領地の放棄退却時、食糧、燃料弾薬を敵に残さず処分するのが鉄則だ。

敵の糧食、燃料を当てにする作戦を無謀と言う。 

日本軍はディマプール攻略どころか陥したコヒマの維持も不可能な状態だった。


陸軍最強と謳われた菊兵団 久留米 第18師団は友軍の53師団から糧食武器を強奪した。

最強兵団も飯と弾がなければ戦はできぬ、強い軍隊には強い兵站補給が必要だ。

戦争に強い精神力は必要だが精神力だけでは勝てない。

兵站を無視したインパール攻略は400km後方のメイミョウいた牟田口の無責任な妄想。

味方の兵を殺す無謀な作戦を立案強行した無能な高級参謀や指揮司令官こそ戦犯である。


日本軍は追撃殲滅戦を繰返し兵站補給線は延び消耗を続け南方へも兵力を抽出した。

広い大陸で兵站を陸路鉄道に頼っては勝てない、大陸の行動には機動空輸力が必要。

戦線を延ばす事は難しくないが、拡大した占領警備地域の安全と兵站維持は難しい。

広い敵地、アウェイである中国大陸での戦いは大きな肥溜に嵌ったも同然だった。

奪取占領した点と線は翌日から糞の中に沈み始める。


だが海軍特別陸戦隊は兵力10倍の包囲攻撃から共同租界を守り抜き、上海派遣軍は兵力10倍の敵要塞線の防御を撃破、日本軍は攻防兵力比 3対1の常識を破った。

ノモンハンの戦いでは関東軍 第23師団は戦車・装甲車輌数8倍の圧倒的優勢なジューコフのソ連赤軍第57特別軍団の戦車250輌・装甲車70輌を撃破、戦死傷者約2万6千名の損害を与えた。

マレーの虎 山下奉文中将はマレー半島上陸から95回の戦闘に勝利し55日間で1,100kmを走破進撃、一週間でシンガポール要塞を攻略、英軍13万名を捕虜にした。

栗林忠道中将は参謀長として僅か18日で九龍要塞を落し香港を攻略、英軍1万1千名を捕虜にし硫黄島の戦いでは米軍の戦死傷者はノルマンディー上陸時を上回る約2万8千名に達した。




「八路軍が日本軍から中国を解放した」と中共と左翼が言う。


八路も上海で国府軍と共に日本軍を包囲攻撃したが、形勢不利になると真っ先に逃げた。 

国共独合作の結果は記した通り、上海はおろか上陸した3個師団に首都南京まで奪われた。

日本が連合軍に降伏し、停戦命令を受け武装解除された祖父は、八路に外套、時計、万年筆など、私物を身ぐるみ剥がれたが、戦闘で八路に負けた事は一度も無い。

日本軍が戦闘初段で八路に不意討ちを食らう事は1,2度あるが全て反撃撃退している。


1945年のソ連参戦以前に八路軍が戦闘で日本軍から奪回した街は一つも無い。

有ると言うなら都市の名を上げてみろ、聞いた事もない百人に満たない村の名を言うな。

内戦停止、一致抗日を訴え国共合作を叫んだ共産党は国民党軍と日本軍を戦わせておきながら、己は逃げ回り、ちょこちょこ山から降りて来て散発的な襲撃を繰返した。

最後には美味い話しで農民を騙し、国府軍の足を掬って飯と大陸を手に入れた。

通化事件、いったい何処が解放軍だ。

人民解放軍と名乗る毛沢東の八路は独立国チベットに解放と嘯き侵攻 して武力で征服する。 

漢民族解放軍は国民の軍隊ではない、人民解放軍は中国共産党の私兵だ。

人民解放軍はポルポトの虐殺に手を貸し、親ソ国であったベトナムにも侵攻した。


ベトコン NVAは強い、仏米との終戦4年後、兵力6倍の人民解放軍と戦い負けなかった。

たとえ敵であっても祖国の為に勇敢に戦う将兵には敬意を持つべきだ。

インドシナに駐屯していた帝國陸軍 第38軍 第34独立混成旅団 参謀 井川省少佐ら高級将校から下士官、兵卒に至る 約600余名の日本人志願兵が祖国の降伏後も復員帰国せず植民地ベトナムとフランスとの間に勃発したインドシナ独立戦争に参加した。

インドネシア、ビルマ、ベトナム、マレーで独立戦争で数千名の日本兵が戦死した。




「日本は反省もせず、新しい国際秩序へ挑戦している。」と中共の報道官が嘯く。

「新しい国際秩序」 狂った様に軍拡し海外覇権を狙う中共に都合の良い言葉だ。

共産主義を捨てた覇権主義中華帝国はチベット、ウイグル族など少数民族を搾取虐待し周辺諸国に対して嘘と挑発による侵略を今日現在も行なっている。


大陸から復員して起業した祖父は華人の友人や取引相手が多く中国が好きだった。

片言ながら中国語を話せた祖父は記したように南京攻略には参加していない。

漢奸だと言われれば、それまでだが平穏時は日本軍衛生兵が中国人を診る事もあった。

祖父は日本兵が虐殺や強姦する現場を見た事はない。

満州や北支でも祖父と中国人との関係は敗戦まで悪く無かったと聴いた。

自分の華僑の友人や上海、大連の海運会社の知合いは日本と日本人が好きだ。 

全中国人の行儀が悪いわけではなく生れ育った環境や思想知識は人格形成に影響する。

頭が回る左は人民を洗脳、粛清し邪魔者を消す。 

頭の悪い左は他国に利用され祖国を売り滅ぼす。

感情的な左は革命に酔いテロと内ゲバで市民も仲間も殺す。

狡く賢い左は共産主義を騙り、独裁と搾取で私腹を肥やす。

平気で嘘を並べ他人の物を欲しがる中国共産党を自分は信用しない。


戦後、中国と友好条約を結んだ日本は再び中国に行った。

日本は中国に莫大な資金援助を行い空港や地下鉄、港湾設備を整備し工場やプラントを作り、惜しみなく技術を教え、中国は物を作れる国になり消費を楽しむ国になった。

中共は抗日と建国を援助した米国を裏切り、紅い同志ソ連も裏切った恥知らず恩知らずだ。

経済的に繁栄すると共産党は歴史・領土問題を持ち出し反日を指導し排日運動を煽動した。

「我が中国は豊になった、小日本鬼子は出て行け。」

中国大陸に赴いた在留邦人が再び襲われた。

排日を叫ぶ暴徒達は日本企業の工場や店舗に火を放ち日本車を壊し日本大使を襲撃した。

青龍刀や銃こそ使わないが、やっている事は義和団や事変の便衣兵と変わらない。

「愛国無罪」・・・・・ 上海租界や通州の中国保安隊か。 

チベットやウイグル、天安門では容赦ない武警や公安が反日排日暴動は傍観している。





負けても強い国

再び中国は横暴になり南シナ東シナ海で無法を繰返し尖閣や沖縄を狙い米軍と日米安保の弱体化を工作、朝鮮半島の利用を企み、対日長期戦を想定し挑発と罠を仕掛ける。


時に感情的な振りをする事も必要だが国家が感情で行動していけない。

戦いは冷静な者が勝つ、相手の真の意図とリスクを分析しなければならい。 

武力に拠る正面衝突だけが戦争ではない。

勝者が正義を騙り、敗者を悪とする戦争に正義はない。

衝突を回避し、軍事と経済力を後ろ盾にした外交努力が最優先。 

だが掛る火の粉は払わねばならない、戦わざるを得ない時、絶対に負けてはいけない。


戦わねばならぬ時は全力で戦い負け戦を美化せず、検証反省しなければ同じ過ちを繰返す。

過去に学んで未来に活かす。 

自分は祖父や伯父が陸海軍にいたからと言って擁護や欲目、左右思想で歴史を見ない。

日本は敗戦を反省しなくてはならないが必要以上に自虐的になる事は無い。 

今に生きる日本人は祖国の歴史事実を知っておくべきだ。


米・英・壕・中・ソ他の連合軍を敵に回し、8年間も戦った島国など世界の何処にも無い。

連合国から袋叩きに遭い、原爆を2発も落とされ人類初唯一の被爆国となり、敗戦した資源も無い日本は焦土から這い上がり産業を復興し、僅かな歳月で世界有数の経済技術大国になった。

自分は国と家族の為に戦った日本軍将兵を誇りに思い感謝し、絶対に忘れない。


日本人は一度、戦争に負けた事で誇りと自信まで失ってはいけない。 


負けても立ち上がる国が本当に強い国だ。



「太陽の帝国」 兵に告ぐ 二・二六事件 に続く。

Posted at 2013/11/12 23:03:09 | コメント(3) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年10月29日 イイね!

Red Dawn  赤い夜明け 「若き勇者たち」 

Red Dawn  赤い夜明け 「若き勇者たち」 最近、ブログのタイトルが「赤いシリーズ」になっているが、自分は百恵ちゃん、左翼、共産主義のファンではない。

1989年、東西イデオロギーの対立が終結するまで冷戦時代には「Fire Fox」や「Red October」など東西冷戦を題材とした多くの小説が書かれ、「Top Gun」などの映画も作られた。

皆さんは「Red Dawn」と言う映画を覚えているだろうか。

この映画が公開されたのは1984年、東西冷戦最潮期の頃。

最近、この映画がリメイクされた、先ずは原作から。



物語はアメリカ合衆国 コロラド州 ロッキー山脈の麓にある小さな田舎町を舞台に始まる。

ある秋の晴れた日、授業中の高校グランドに国籍不明の空挺部隊がパラシュート降下した。

迷彩ジャンプスーツに身を包んだ兵士達は生徒の目の前で教師を撃ち殺し教室に向け発砲

一般市民にも容赦なく自動小銃を浴びせ、RPG対戦車ロケットで車や建物を破壊し始める。



この急襲混乱の中、地元の若者ジェドとマットのエッカート兄弟と高校フットボールチームの仲間達はジェドが運転するピックアップに飛び乗り命辛辛、町を脱出する。

ジェド達は町外れにある仲間の父が経営するGSストアに駆け込み、店主から「何を見聞きしても、迎えに行くまで決して山から降りてくるな。」と言われ食糧と必需品を掻き集めてロッキーの山中へ逃げ込んだ。


この傍若無人な空挺部隊の急襲に対し空軍は戦闘爆撃機を飛ばし州軍もヘリで応戦する。

だが圧倒的な兵力の奇襲に無防備な町は制圧され呆気なく占領されてしまう。


これはソビエト連邦とキューバ、ニカラグアから成る混成部隊の共産国同盟軍が米国本土に侵攻を開始した第三次世界大戦の始まりであった。


最初、共産軍は民間機を装い米国領空へ侵入、中西部に大規模空挺部隊を送り込むと同時に米国各地のレーダーと通信施設、ミサイルサイロを戦術核兵器の精密攻撃に拠り無力化。

メキシコからキューバ・ニカラグア軍の陸上部隊が侵攻北上し主要空軍基地を制圧する。

ソビエト陸軍はベーリング海を渡り、アラスカ、カナダに60個師団を投入して来ていた。


彼らはストアで言われた通り、手持の食糧を頼りに猟銃で狩りをしながら山中で時給自足の生活を数週間送っていたが、どうしても親親戚が気になり町の様子を3人で見に降りる。

町にはロシア語やスペイン語を話す侵攻軍兵士が溢れ、ソ連製の戦車や装甲車が走り回り、町の中心広場には自走対空機関砲が据えられ、市庁舎は占領軍の司令部に接収されていた。

本屋の娘からジェド達の行くえを KGBが探している事と父親の居場所を教えて貰う。

占領に反抗的な市民、彼の父親達は再教育キャンプと言う名の収容所で虐待を受けていた。

父に再開して山に戻ったジェド達だったが、偶然ロシア兵に見つかり兵士を殺してしまう。



占領軍は逃走潜伏中のジェド達の高校フットボールチーム”Wolverines”を抵抗ゲリラと断定

これまで起きた襲撃や兵士殺害を彼らの仕業と考え、彼らの親兄弟親戚をゲリラへの協力者として見せしめに銃殺処刑する。


親兄弟を殺され復讐に燃える彼らは、殺した占領軍兵士の武器を手にゲリラ戦を始める。

戦車兵を罠に嵌め、銃殺隊を銃殺、電話線を切り工兵を誘き出し、次々と占領軍を襲撃して行くが、それに対する市民への報復処刑も繰返されて行く。


エスカレートする襲撃と報復にニカラグア、エルサルバドル、アンゴラの抵抗側で同じ光景を嫌ほど目にして来たキューバ軍のベラ大佐は「大衆の支持を得る事が占領政策に大切では」とブラチェンコ将軍に訴えるが「戦況は膠着し士気が下がっている、兵を安全地域外に出すな、忌々しいゲリラの事などスグに忘れる」と、ブラチェンコが言った矢先に米ソ友好センターが爆破される。

彼らは空戦で撃墜され脱出した米空軍 F-15 イーグルドライバーのタナー中佐と出会う。


中佐から、これまでの戦況説明と「一世紀に、二度も大戦を経験したヨーロッパは静観し、イギリスは参戦したが長くなく、興奮した中国の人口は6億に減り、米国本土占領後は米ソ両軍が戦術核兵器の使用を中止、戦線は膠着状態が続いている。」と現状を聞かされる。


彼らと行動を共にし装甲輸送部隊の待伏せ襲撃を見たタナー中佐は作戦計画を立て弾薬庫と飛行基地を爆破して収容所に捕われている市民を解放し武器を渡す事に成功する。

「殺せは抵抗が募る」元ゲリラだったベラ大佐の具申をブラチェンコ将軍は聞き入れない。

やがてロッキー山脈に冬が訪れる。 

タナ―中佐は戦いに暮れる彼らを説得して、米軍勢力下の「自由アメリカ」に連れて行こうとするが米ソ両軍が対峙する最前線を超える時、対戦車戦闘に遭遇して戦死してしまう。


タナー中佐と仲間を失った彼らは山に戻って行く。

一方、ジェド達の襲撃に手を焼く占領軍にゲリラ掃討殲滅のプロであるストレルニコフ大佐が率いる精鋭特殊部隊スペツナズが送り込まれて来る。


着任したストレルニコフ大佐は将兵らを前に「同士諸君、君達はニワトリを盗んだキツネの姿を見ていたブタを殺すか?無能丸出しだ、今後は一切、民間人への報復は行なわない。 有能なハンターはキツネの住処を探し出し殲滅する。 諸君はキツネになれ」と訓示して、ジェド達 ”Wolverines” を狩り始める。


特殊部隊の執拗な追跡に仲間は次々と銃弾に倒れ、ジェド達は次第に追い詰められていく。



戦いに疲れきったジェドとマット。


エッカート兄弟は仲間と別れ二人だけで父への復讐、最後の戦いに向かう。






公開当時、左翼から「米国の愛国心と国威高揚映画」「反共宣伝映画」などと批判を受けていたが、自分は人間ドラマとして見て結構好きな映画だった。

左翼が騒ぐほど政治色も強くなく、また共産軍側の将校や兵士達の人間牲も描かれていた。

映画にデタントは必要ない、見る者が見る映画を選べばよい事だ。

侵略軍にとっては一つの占領地だが、占領民には生れ育った唯一の故郷であり大切な家族。

愛国心や反共、思想主義に関係なく、大切な家族や町、領土や自由を奪われ思想を強制されれば誰でも戦うと言う事であり、自ら家族や国を護るその権利が自衛権だ。

冷戦全盛期、東西陣営は互いに敵視し不信に陥り、多くの人々が第三次大戦勃発の恐怖と核戦争の脅威に怯えていて、こうした冷戦を題材にした小説や映画が作られた。

だが以前、「赤いキャビア」にも書いた様に実際に自分が1984年にソ連に行った時には既にアフガンで疲れた社会主義国家に局地的領土紛争は兎も角、ソビエトには第三次大戦を起こす様な経済も国民や兵士にも気力すら無かった。

ソ連崩壊後、ワルシャワ条約機構軍は解散、NATOに押されロシアの同盟軍も弱小だった。

現在のロシアに領土拡大の意欲はなく、経済と軍事に於いても旧ソビエト圏諸国を繋ぎ止める事に苦慮している状態で日露の関係改善は極東の安全保障安定に重要な役割を果たす。

2003年12月に米国陸軍がイラクで行ったサダム・フセイン捜索作戦の「Operation Red Dawn」はこの映画のタイトルからとり命名されている。


2013年10月に 1984年の作品をリメイクした映画「Red Dawn」が日本で公開された。

東西冷戦の脅威が去った今、何故 「Red Dawn」が再び米国で製作公開されたのだろうか。


時代は近い将来、舞台はワシントン州に移され、エッカート兄弟の兄ジェドはイラクから休暇で戻った海兵隊員に変更、撮影開始時は米国本土を侵略して来る敵は中国人民解放軍だったが中国政府と在米華僑団体の圧力と中国での興行収入を考え急遽、朝鮮人民軍に変更されている。

「Red Dawn」2012




朝鮮人民軍に変更した為、ロシアが長距離空輸を支援し侵攻を後押したストーリーに変更され中共を筋書から完全に取り除く前置や編集に苦労した跡も窺えるが北朝鮮の血盟守護国は中共で東欧や旧ソ連邦エリアに関係無い対米戦争にロシアが積極関与する可能性は低い。


自分には朝鮮人民軍と言うより、韓国軍に見える。

中共は自国TV映画業界でアホな反米反日映画を山程作らせて他国に干渉する。

米国映画業界、ハリウッドの言論も既に中国資本に侵略統制されていると言う事だ。

安ジェリーナ・女リーは中共に飼われ、アホで露骨な捏造反日映画を作る。

米国民主党政権内や米官僚内にも親中チャイナコネクションは存在する。


映画は全米ライフル協会が喜びそうな内容になっているが、中韓朝の近くに住む日本人より遠くに住む共和党系アメリカ市民の方が中共や北朝鮮を敵として警戒しているのだろう。

この様に相手国を名指しするテレビや映画の製作は日本では難しい、口撃されておしまい。

実際には中共露の後盾も無く、朝鮮人民軍が日米両軍の防衛網を破り、米国全土を制圧占領する事は有り得ない。


日本が中国にとって主要貿易相手国の上位であり続け、中共指導部が資本主義経済を理解し戦争に拠るリスク計算も出来ない程の大バカでない限り、全面戦争は仕掛けて来ない。

しかし日本の領土に対して中韓朝が絶対に侵攻して来ないと言う考えは甘過ぎる。

絶対に攻めて来ないと言う保証も無いにも拘らず日本には自衛権放棄を叫ぶバカがいる。

1950年に越境南侵、2010年に哨戒艦を雷撃沈して延坪島を砲撃しながら核弾道ミサイルを欲しがる北朝鮮が絶対に暴走暴発しない。と誰にも断言できない。


「平和」 それは清らかで心地よい言葉だ、平和と正義を愛さない日本人はいない。

「9条が有れば戦争はない、日本に軍がなければ何もしない、中韓朝は友好を望んでる」

「米軍基地が元凶」「集団自衛権は米国追従」「改憲は平和放棄」「秘密保護は言論統制」

拉致は創作と嘯き捜査妨害し弾道ミサイルを衛星と称賛し祝電を送り制裁と迎撃に反対、

核・化学兵器開発を続ける北朝鮮を擁護する売国とバカのハイブリッド政党が日本にある。

一部マスコミと左翼政党は嘘と工作の臭いがする宣伝をタレ流し続けている。

日本人が偽りの平和に溺れて喜ぶ国がある、偽りの平和に溺れた者には掴む藁をも無い。


外交、安全保障に於いて最も忌むべきものは偽善と欺瞞だ。

現実、米民主党オバマ政権は対中関係を重視し北朝鮮の核開発を放置する。

日本は日米同盟だけを当てにし過ぎると痛い目に遭う。

もし尖閣で有事が起った場合には自衛隊が先ず防衛の為に交戦しなければならない。

日米安保条約に拠って自衛隊が米軍の支援を受けるには、是が大前提である。 


経済力や発言力、防衛力の弱い国の領土を武力侵攻し、少数民族から権利を奪い盗る。

国際社会からの批難や抗議を無視して強行に居座るのが、レッドチャイナのやり方である。

中共は尖閣を盗る気が有るから行動を起こし止めない、実効支配すれば絶対に返さない。

日本に対して中共は米国や国際社会の反応を窺いながら、少しづつ盗み取ろうとしている。

尖閣、南西諸島、沖縄が浮かぶ東シナ海は、日中が睨み合う、敵対水域になっている。


1952年、韓国は軍事境界線「李承晩ライン」を一方的に設定し竹島を武力で強奪占領した。

日本漁船 328隻が拿捕、日本人44人が死傷(内 5人が死亡)3,929人が数年間に及び、劣悪な抑留生活を強いられ海上保安庁巡視船も16隻が銃撃を受けている。

これが韓国が日本を恐れ仮想敵国にしている理由であり、竹島周辺も日韓の敵対水域だ。



映画ではなく現実世界では東シナ海と日本海、朝鮮半島を舞台に日米環太平洋同盟と中華圏同盟の両陣営による新しい冷戦が既に始まっている。


尖閣や竹島が米国やロシア領なら武力紛争になっていた。

日本人が大人しいのを良い事に嘘をでっち上げ並べ立て、中共はバカな挑発を仕掛け、南北朝鮮はアホな挑戦を繰返して来る。 



同じ北東アジアにある日本は、いい近所迷惑だ。





Posted at 2013/10/29 18:54:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年10月23日 イイね!

Red October  部長の真っ赤な十月革命

Red October  部長の真っ赤な十月革命この度、拠所無い事情で、艦隊司令部を移設した。

規模は約10㎡程縮小されて自分専用の作戦会議室が無くなり長年愛用したガラステーブルとソファーセットは友軍部隊に引取られ遊び行った時に座る事になった。

これまでは、みんカラの友達や知人が来て車遊びの会話や友軍と作戦会議を開いて来たが、これからはみんカラなどのブログやコメントもゆっくり出来なくなった。

新司令部はビル1Fの元ギャラリーで表正面は電動防爆シャッターと防弾ガラス貼。

壁面は石と鏡貼でコンセントやジャックが無く、照明も間接かスポットのみで通常の事務所より電気やネットワークの工事改装が大変だった。

ただバリ島のジャングル絵の Kakatua は、スポットライトに照らされ元気になった。

旧艦隊司令部は震災前より、20年近く機能した為に半端ではない資料書類がある。

移設先は近所で移動は楽な様に思えたが、規模縮小の為に行場の無くなった保管書類整理に時間が掛かり、処分する書類と出て来た車のパーツを格納庫まで何度もピストン輸送した。

が、ウルトラスーパー部長は机の私物をダンボール箱に詰めて「引越終了♪」と宣言。

引越の前々日は定時で帰り、前日の日曜は15時に出社した部長は自分とチャーリー二等兵が備品を格納庫に運搬している間に「何も無ので、帰りま~す。」と電話を掛けて来た。

「何かする事が有るやろ」と自分は言ったが、「いいえ、もう自分はありません」と断言。


「佐藤浩市 引越部長、帰ってよし!」


遊び半分、ヤル気のない引越部長を帰らせ、自分は深夜まで書類整理と箱詰をした。

引越当日、新オフィスに入らないデスクやタイプライターなど旧型事務機器を処分した。

計画した配線ネットワーク通りのレイアウトに机やFAXなどを順序よく並べて行く。


突然、 引越部長が「僕はココより、こっちに机を置いて座りたい」と我儘を言い出す。

諦めが悪い部長に配線を理解させ諭すのに時間が掛かり、電気工事が遅れた。

この日、部長とチャーリーも22時位までいたが、自分は徹夜で整理収納片付けた。



引越が終わると同時に義父が病院に運ばれ危篤状態になる。

未だ新司令部の整理片付けが終わらない数日後、88歳で亡くなった。


義父は海軍で20歳の時に終戦を迎え負傷する事なく生き残り、終戦後も船に乗り続けた。

船から上がった岸壁で脳梗塞を起こし倒れるまで海で生き、海しか知らない人であった。

生前、無口だった義父は自分には何時も「婿殿、婿殿」と気さくに話し掛けてくれていた。

だが義父との会話は終始、唯一の共通点である海と船、上陸した港の話しだけだった。


自分は義父への手向けに出棺時に「海ゆかば」を葬送曲として流す様に葬儀場に頼んだ。


葬儀は親戚だけで身内以外に仕事関係や部下達に会場の場所も時間も知らせなかった。


葬儀当日の朝、事務所は通常通りに業務させた。

礼服で超爆音A4で葬儀場に行く根性がない自分はチャーリーに車で葬儀場まで送らせた。

そのまま二等兵は昨日、落として壊した携帯電話の修理に向かい、部長が会社の留守番。


午前10時、近県から会葬した顔見知りの親戚身内だけで、静かに葬儀が始まった。

坊さんが御経を上げ始めた時、誰かが遅れて来て息をきらせて自分の斜め後ろに座った。

どなたかな?と思い横目で見る・・・・・・何処かで見た事ある、風体と黒い顔である。


黒いネクタイに礼服を着て、真面目な顔して座っている。

ウルトラスーパー部長であった。


「え、何で?!・・・留守番部長が何しに来た!?」とは、葬儀中に言えないOrz



御経を上げている坊さんの足元を見た時、自分は別の異変に気付いてしまった。

坊さんが履いている草履が、何と、真っ赤なスリッパ、おまけにラメ入りである。

多分、慌てていたのだろう、普段履きか、それとも会場のトイレのスリッパだろうか? 

澄まし顔で読経するラメ入り赤スリッパの坊主が壊れた様に同じフレーズを繰返す

佐藤 葬儀部長は悲しくもないくせに神妙な顔を作る、そして緊張した空気・・・・・


アカン。 

もう、ダメだ、自分の限界である。

咳で誤魔化しながら、笑いを堪えるが、肩の振えが止まらない。

我慢に我慢を重ね、力を入れた腹が痛過ぎて、義父の葬儀で自分が死にそうである。


しかし、ここで爆笑すれば、全ての親戚から、自分は人としての信用を失う事になる。

耐え難きを耐え、不謹慎にも「早く終ってくれ」と願うも、辛く長い御経は続いた。

実は、この坊さんは、自分の中学校時代の同級生である。 

この日は喪に服し何も言わず、四十九日の楽しみに良い戒名を付けてくれたので許す。


葬儀の終わり、部長は一度も会った事もない義父の棺の中に神妙な顔をして花束を飾る。

何故だか部長は親戚の男子達に混じり、義父の棺を抱えようとしている。

そして悲しみを堪えるかのように流れる葬送曲「海ゆかば」に合わせてゆっくり行進した。


「この人、一体誰?」と


棺を抱えながら親戚男子達は皆会った事もない部長を見て不思議そうな顔をしている。


自分は義父を霊柩車に乗せて「有り難う、誰もいないから、すぐに事務所に帰ってくれ」

と言ったが、オフィスの電話は自分に転送されたままになっている。


火葬が終わり、式場に戻り親戚との会食している間も、自分の携帯は鳴り続けていた。

葬儀部長が自宅に帰り、平服に着替えて会社に現れたのは、午後遅くであった。


翌日、部長に「何故、突然に案内もしてない親戚だけの葬儀に来たのか?」と尋ねる。

「朝、嫁さんに話したら、「あんたも行け」と言われたから」と部長は照れながら答えた。


義父さん、人生最後の出港が変な見送りになり、本当にすみませんでした。




それから数週間、業務免許の変更など事務的な処理と決算、新事務所の装備などの買物。

自分は疲れて血圧はオーバーシュート、フルブースト状態になった。

クソ忙しい決算時期に態々引越しなければならなくなったのも、偏に部長の功績であった。


久々にやっと休日が取れ自宅でゆっくり寝ていた。

電話が鳴った、ウルトラ料率スーパー保険部長からである。 

悪夢がフラッシュバックする。 出たくなかったが、しつこく電話が鳴った。

部長「もしもし、佐藤です。 お休み中スミマセン、今、大丈夫ですか?」

自分「どうぞ。」・・・自分は部長の声と口調から、またまた寒い知らせだと直感した。

部長「プジョーから煙が出て、変な臭いがします。」

自分「無言」・・・またかい。と思い言葉も出ず、この間も部長は一方的に話しを続けた。

部長「聞こえてますか?ボンネットから煙が出て変な臭いがしてエンジン止めました。」

自分「電話して来る前に、ボンネット開けて調べて見たか?」

部長「やって見たけど分らないです、ボンネットって、どうやって開けるんですか?」

自分「無言」・・・この間も、部長は一方的に話しを続ける。

部長「外車のボンネットを開けるヤツって、何処に付いているんですか?」

自分「前に教えたし、月一くらいは、オイルと水を見てやってくれって言ってたやろ。」

部長「無言」・・・・・

プジョーを渡して、もう何か月なるのか? 今頃、部長は何を言っているんだ?

メンテナンス部長は今まで一度も、水、オイルを見てないと言う事である。

自分「助手席側のグローブボックスの周辺を見てみ、レバーがあるやろ?」

部長「う~ん、分りません。」

埒が明かず、部長に電話を切って待つ様に指示して自分は休みを返上し服を着替えた。

友人の自動車工場に引取に行って貰う電話したが、今日は人も積車も忙しくていない様。

已む無く自動車保険会社の積車サービスを使う事にした。


プジョーを引取るレッカー業者に詳しい現在位地を教える様に部長に電話で指示した。

だが部長は自分の現在位置の住所が説明できない。と言う。

自分は「カーナビを見ろ。」と指示した直後。

部長「アカン!アカン!ガン!って大きな音がした!もっと臭いと煙がー!怖い怖い!」

自分「早よエンジン切れ! ナビを見ろ。と言ったが、誰がエンジン掛けろって言った!」


この後、部長に積車に乗せるまで見届け、写真を撮って事務所に帰る様に言ったが・・・

何故だか部長はレッカーに一緒に乗り、用事の無い遠い友人の修理工場まで行った。

煙を出して病院に運ばれるプジョー。  写真部長の撮影


修理工場から電車に乗って駅から歩いて帰って来た レッカー部長はひとりで怒っていた。

自分「プジョーを積車に積んだら、真っ直ぐ会社に帰って来いって言ってたやろ?」

部長「足が無いし、レッカーの運転手さんが「一緒に乗って行きますか?」って言ったから

社長の指示だと思って僕は一緒に乗って行ったんですよ!」と、逆ギレしていた。


社長の指示?・・・意味が解からん。 勝手に自分の都合の良い方に何でも解釈するな。


プジョーは案の定、オイルはローレベル、煙と音の原因はプーリーダンパーが切れていた。

アンダーガードに脱落したプーリーとベルトを交換して早目に車検も受ける事にした。

二等兵が時々307を洗車するが、部長殿は洗車せずホイールを洗った事など一度も無い。

部長には前担当車ビスタの冷却水を補充せずオーバーヒートとオイル切れさせエンジン焼付寸前、人民解放軍自転車兵と衝突を起こしフェンダーも大破させた前科がある。



一方、パッソは9月末にエアコンが壊れコンプレッサーを交換した。

車検も終えた数日後、今度はチャーリー二等兵がパッソのエンジンが掛からない。

と電話があり駐機場に見に行った。

バッテリーの比重は充分でオルタネーターの電圧も充分、オルタに不審を持ちながらも、念の為にバッテリーを交換した。

たまに自分がパッソに乗り、キーを捻ると大音量で心臓が止まりそうになる。

エアコン全開で自称、元ミュージシャンの二等兵がスピーカーが割れる程のアホな大音量で音楽を聞いている事はバレている。 


機関停止やアイドリング状態でコレを毎日やられると小さなバッテリーは悲鳴を上げる。




9月から色々有り過ぎて血圧のオーバーシュートだけではなく脈拍もオーバーレブの連続。

自分の心体はブロー寸前、悲鳴を上げた。

主治医に診て貰うと、過労と心労だ、ゆっくり休めと言われ、思い当たる原因を訊かれた。


原因?・・・・貴様ら~! 一度、頭を診て貰え、脳ミソの点火時期が絶対、狂っとる。  



士官は、士官たる自覚を持ち見聞知識を広げ常に情報と大局を見て分析、判断すべし。

士官は、資格長の責任に於いて兵の指揮を執り、臨機応変に行動し責務を全うせよ。


兵は、兵の命ぜられた業務内に於いて工夫し、指令に忠実に任務を完遂し報告せよ。

兵は、命令外の独断先行をせず、先ず多く経験知識を積み、予知判断能力を養うべし。

これは陸海空、業種を問わず同じである。


情報に関わる稼業では口の軽さは己だけでなく組織全体に致命傷を与える、深く反省せよ。

見苦しい嘘は必ず捲れ、言い訳は己を貶めるだけである。

最近、壁の前に並んで立たせて、銃殺する夢を見る様になったOrz.



司令部移転、工事、葬儀、登記免状と船舶免許の書換更新、相次ぐ車の修理車検、料率が上がった保険料他、今月、一気に支払う、予算もよそに大赤字に転落で鼻血が止まらない。


10月の収支は恐ろしいほど真っ赤、 レッド オクトバー である。




移設から少し落ち着いてきた頃、元パラグアイ軍の友人から電話があり「今度は結婚した」と昼間、オフィスに一回り若いロシアの奥さんを連れて遊びに来た。

奴が以前、ウクライナ美人と一緒に住み結婚すると言っていた事は今の奥さんには内緒。


普段、外国の友人が遊びに来ても知らぬ顔をする部長が妙にソワソワしてチラ見している。


洋ピン部長の金髪好きは知っているが、俺の友人の奥さんをイヤらしい目で見るな。

以前、スペイン人のマリアが来た時にも「部長さん イヤらしい目で私を見る」と言われた。


夫婦二人は英語が得意ではない、奴はロシア語を話せず、彼女はスペイン語を話せない。

夫婦間の会話、共通語は関西弁であり、日本が大好きな二人は、正式に日本人になった。

彼らの様に真面目で誠実な人間が、日本を愛してくれて日本人になる事は大歓迎である。


3人が日本語で話していると、部長が聞き耳を立てて、接近、彼女をガン見する様になる。

日本に来て3年、ロシア語の先生をしている彼女はプーチン大統領と同じ レニングラード。

現在のサンクトペテルブルク市の出身で、彼女には独身で美人のお姉さんがいる。

サンクトペテルブルクには、男性がとても少なく女性は結婚相手を探すのに苦労している様で日本人の独身男性が向こうに行けばモテモテで若くて綺麗なロシア美人と結婚できると。

冗談半分で話をしていると・・・「マジでぇ~!」と、

急速にロシアに興味を持った パルナス部長は目を輝かせ身を乗り出し話しに加わって来た。

おい、冗談をマジに取るな、バツ3になって レニングラードでマークXに乗るつもりか。


ナターリア、姉さんや友達の写真は見せないでくれ。

アホな妄想する部長に冗談は通じない。



それから数日後、卒業以来、始めての小学校同窓会に誘われ出席した。

会場の中華料理店のエレベーターで懐かしい顔に会い元気だったかと互いの近況を話す。

同級生「長い間、Mikkola君には会わなかったが神戸にいたの?」と言う質問に

自分「今年の8月に出所したとこや」と冗談を言うと・・・

同級生「Mikkola君も苦労してるんやなぁ俺には何も出来んけど、お互いがんばろう」って


おい!冗談やろ。 

同級生の多くは頭も薄くなり冗談も通じなくなっている様である。


すぐに昔を思い出し楽しい時間は過ぎて行く、ある仲が良かった女子に名刺を渡した時。

女子「私、このビル、よく知ってる! 最近、引越したでしょ?!」って・・・

自分「何で知ってるの!?」って引越したばかりで、男の同級生も知らぬのに・・・

何故に女子が?と不思議に思い彼女に聞いた。

女子「高校の時の同級生だった佐藤浩市君から聞いたよ」って


何で部長が、こんなところまで・・・

女子「佐藤君とは今でも、よく会っているの」・・・

部長は自分の同級生の人妻と逢ってる様だった。


普通、30年以上も前の高校同級生の女子としょっちゅう会わんやろ?!

部長は会って何をしとるのか・・・・


女子「私と仲良し同級生が同じ職場で頑張ってるんだ、佐藤君は仕事、どんな感じ?」

どんな感じ?って、自分は俺のブログを読め!と言いたかったが一応、不倫部長の顔を立て

自分「彼は、うちのウルトラスーパー部長だ」とだけ言って濁した。

女子「ウルトラスーパー部長? へえー 佐藤君って凄いんだ」って・・・・もう知らん。


この後、二次会に行き、

「Mikkola君に川に落とされて泳いだ」とか「ラブホの入口に閉じ込められて泣いた」

「しつこくピンポンダッシュしたMikkola君の代わりに捕まってメッチャ怒られた」

「爆弾作って実験した風呂場が滅茶苦茶に壊れた」「水道蛇口を壊して公園が水浸」

「車に乗っていて国道で話し掛けたら、ナイトライダ~!って叫びながら走り去った」

と言う身に覚えの無い話を沢山聞かされ自分は一滴も飲んでないのに頭が痛くなった。


で、この前の日曜日は、みんカラお友達の hayaltoさん が九州の帰りに神戸に寄られた。

「おい、アホなA4見せろや!このクソ野郎!」とスーパーチャージャー付A6に乗せられ

無理矢理、エロイ話をいっぱい聞かされて、中華とお好み焼きを食べて帰られた。


9月からの激務の連続で体重が 6kg も激減してCMみたいにズボンが緩々になる。

良い事も有ると思っていたが・・・・重なった外食が原因なのか?ストレス太りなのか?

6kg 激増して結果 +-ゼロ。 Orz




これまでになかった、革命的な赤字と体重まで激動した 十月である。







This blog is dedicated to the memory of Father and Capt. Marko Ramius.

50年間 海で戦ってきた義父と マルコ・ラミウス艦長に捧ぐ。





Posted at 2013/10/23 20:25:13 | コメント(4) | トラックバック(0) | 稼業 | 日記
2013年10月16日 イイね!

Кра́сная икра́ 赤いキャビア 極東安全保障経済戦略

Кра́сная икра́ 赤いキャビア 極東安全保障経済戦略前回の「満州事変」にも少し書いた極東アジアの続き。

自分は船員時代に鉄のカーテンの向側、即ち東西冷戦下の東側共産主義圏の数ヶ国に何度か寄港した事がある。

近くて遠い国であるソビエト社会主義共和国連邦の東部に位置し旧満洲に接する沿海州ナホトカの記憶を辿り、私達日本人が暮らしながらも普段は忘れ勝ちな極東地域の歴史と領土問題、エネルギー安全保障を考える。


冷戦時代、ソ連極東最大の港湾都市 ウラジオストク にはソビエト海軍太平洋艦隊の基地があり機密保持の為に外国人とソ連国民でも許可者以外の立入を厳しく制限禁止する閉鎖軍港都市で外国船の入港を拒む不開港だったが現在は極東ロシア最大の国際自由貿易港である。

地名「Владивосто́к」 ヴラジ ヴォストーク は「東方を支配する」という意味がある。

1860年 北京条約で清国から沿海州(外満州)を割譲した帝政ロシアは東方の不凍港に造船鉄鋼所や海軍の関連施設と商業施設を建設し移住を進め、その名通りウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる。

冷戦時代に閉鎖軍港のウラジオストクに代わりソビエト連邦極東最大の貿易商業拠点となったのがウラジオストクの東隣、ピョートル大帝湾の東端に位置するナホトカ港だった。

因みに「Находка」ナホートカはロシア語で「幸運な発見・発掘・掘出し物」を意味する。



大韓航空機撃墜事件

1983年9月、アラスカのアンカレッジ空港を出発した大韓航空 KE-007便 Boeing 747型旅客機が予定コースを逸脱してソビエト連邦領空を侵犯、「民間機に偽装したスパイ機」と認識したソ連極東防空軍のSu-15TM 戦闘機が迎撃、樺太(サハリン)南西沖の日本海上空で同機が発射した空対空ミサイルにより撃墜され乗員乗客269名全員が死亡した。

自分が初めてナホトカ港に入港したのは事件の翌年 まだ夜明けも遅い初春のことだった。

当時、撃墜現場付近の海域ではブラックボックスを既に回収したソ連海軍は捜索活動を装い続け隠蔽され事実を知らぬ日米両軍の艦艇が半年以上も必死で捜索を続けていた。

本船は空船で東京晴海を出港、浦賀水道を出て 速力15.5kt スティーミング約58時間、野島崎を経て三陸沖を北上、津軽海峡を通過後、針路285度に変針、日本海は天気晴朗波穏やかなり。 

ナホトカ港 ETAは予定通り。


入港前の未明、当直中の事である、まだソ連の領海外にいる本船のレーダー60マイルレンジに真方位030度位から高速で接近する機影あり、船長がブリッジに上がって来て自分は目視確認の為に右舷側のサイドブリッジに出て煙草の先に火をつけ暗闇を視る。

暫くすると、まだ仄暗い北の低い空から高いターボプロップエンジンの音が聞こえて来て間も無く大型哨戒機らしき航空灯が超低空で接近、爆音で本船を威嚇するように船首マスト直上を横切る。

Tu-142M3ベアか。 

暗くて機種は確認できない。

引かれて自分も左舷側に移り、目で追っていると哨戒機は取って返し今度は船尾を横切り、爆音と航空灯は北の暗い空に飛び去っていった。


国際船舶無線電話で何度、呼び掛けても ナホトカ Port Radio は応答せず、局長が焦る。

本船の外板は洋上荷役での接舷傷が目立たない軍艦色だが登録変更して度々北洋に上がる為にポンツーンハッチカバーと外板には国際呼出符号 コールサインが大きく記されている。

緊張するブリッジでは皆が「どんなド近眼の奴にでも見えるはずだろ」「航海灯は切れてないな?」と、言うように言葉で対空防御を始めた。

自分が「奴らは民間ジャンボ旅客機でも領空侵犯機は躊躇なく撃墜するソビエト極東防空軍

ソ連太平洋艦隊なら貨物船の一隻や二隻を沈めるくらいは朝飯前の軽いお散歩でしょう。」

と言うと船長は「ダー ダー」と頷き、VHFの受話器を握り締めていた局長は増々焦った。

「エージェントが入港通報を忘れて領海侵犯で撃沈。」

と自分の軽い冗談にブリッジは沈黙・・・・・

時期が時期だけに仕方ないが、笑える時に笑っておこう。

足掻いても死ぬ時は死ぬものだ。 


本船の船位は捜索グリッド外にあって哨戒機はルーティンのパトロールとも思えるが撃墜事件以来、極東ソ連軍はピリピリしている。


入港の約30分前、やっとVHFにナホトカの航路管制から応答があり、局長が話す。

しかし緊張し焦っているからなのか・・・局長の英語が全く向こうに通じない。

ロシア訛の英語は聞き取り難い、局長に頼まれ自分が代わって航路管制と通話した。 

海図にあるナホトカ湾入口航路浮標の №1ブイに向かい、管制に指示された針路を進む。

だが肉眼で確認できるはずの距離になってもブイは一向に見えて来ず、今度は自分も焦る。 

船長、いやキャピタンはチャートを見て「ニェット ニェット」と首を横に振るが笑えない。 

レーダーで湾の地形を確認しながら針路速力はそのままブイらしき反応に向かい直進する。


湾入口付近まで来てブイを視認できたが、点灯しているはずの灯浮標は真っ暗だった。

全く発光していなければ、どんなに目を凝らしても見えるはずがないOrz。


これが超大国ソビエト連邦極東最大の国際商業貿易港の入口なのか。

日本では経験がない事に首を傾げながら減速してナホトカ湾内の指定された描地に向かう。

指定描地に投錨後、主機を停止をする間もなく小型警備艇一隻がやって来て本船に探照灯を照射しながら一周したが臨検せずに帰って行った。


暗闇と爆音に緊張した長く騒がしい夜であった。



ブリッジの操舵・レーダー機器を落とし、航海日誌を書き終わると東の空が白み始めた。




極東共産圏の赤い夜明けである。



日出と共に甲板手が本船レーダーマストの最も高い所に赤いソビエト社会主義共和国連邦の国旗と検疫要請の黄色いQ 旗を揚げ、船尾マストに日章旗を掲揚した。

船内の日本時間と極東ソ連の時差が2時間ある為、早目に朝食を済ませてギャングウェイを降ろし書類を揃えて検疫と入港手続を待つ。

荷役デリックとハッチの準備も済ませて待つが、官庁職員もエージェントもやって来ない。


昼前になり、やっと入税関と代理店が乗船して来てサロンで入港尋問と検査手続を始める。

入港手続の最後にコーヒーを飲みながら航路ブイが不灯だった事を官庁職員達に告げたが、

彼らは笑らいながら「問題無い、何時か治る」と、答えて終った。


「何時か治る」・・・・・意味が解からん。


航路管制官も寝ていたのか?と疑いたくなる。


「Да, нет」  彼ら、ソヴィエツキィの回答は何時もテキトーであった。

彼らは持参して来た空のスーツケース一杯に暗黙に要求した高級酒やタバコなどの戦利品を詰め込んで満面の笑顔で下船していった。

社会主義超大国と称する USSRの公務員も東南アジアの後進国と同じスタイルである。



暫く待ち古いタグボートで大柄のパイロットが乗船、本船はアンカーを揚げて岸壁に向う。

ナホトカ港の港内には小型のフリゲート艦と警備艇が数隻が並んで停泊している。

ウラジオの様に潜水艦や大型ミサイル巡洋艦は見当らないがナホトカにも海軍基地がある。

ウラジオストクの太平洋艦隊艦艇

ソビエト海軍の水上艦艇は対艦巡航ミサイルや対潜ロケットの多連装発射筒と対空兵装の重装備に乗組員が多いブリッジやハウス周辺の大きさが特徴を持ち、トップヘビーな艦影は洋上で会しても一目で判る。


本船は古い大きな倉庫の前に接岸したが、ニコニコ愛想の良いパイロットは「祝いの乾杯」を求めて酒が出るのを待って帰ろうとしなかった。

хорошо。 本船の司厨長は用意が良い。

パイロットは嬉しそうに出された洋酒をキャピタンと自分にも勧めて「カンパイ!」と煽るように一気に飲み干し、司厨長に熱い抱擁をして機嫌良くブリッジを降りていった。 


ナホトカ湾内には日本の経済援助でコンテナバースや木材埠頭が新たに建設されているようだが、本船の積荷「икра」イクラは市街地に近い旧港の冷蔵倉庫の中にあった。


この旧港の港湾設備やシベリア鉄道支線であるウラジオストク~ナホトカ間の鉄道施設建設に多くの日本人抑留者が使役されナホトカには生きて帰れなかった日本人の墓地もある。



春の沿海州は、まだ寒い。

本船の舷門下には東側軍の特徴的な大きな制帽を被り裾の長い外套を着た国境警備隊の兵士が自動小銃を背負い24時間立って本船のクルーと荷役作業員の出入りを監視している。

自分はタラップを降りて幼さを残す固い表情の若い兵に話し掛けたが彼は英語を話せない。

陽が暮れ寒くなり、「タバリシチ、ホーロドナ」と彼に暖かいコーヒーやタバコを勧めた。

彼の固かった表情は笑顔に変わったが、彼はイャポーニェツから何も受取らなかった。


自分は「同志は真面目だな君らの上官は皆美味しい事をしているぞ」とは言えなかった。

そんなことは言えない空気もあるが、自分のロシア語力では「同志の頭は、とても美味しいです。」としか言えなかったからであるOrz。



Интернационал  СССР урааа!


党指導のスローガンを掲げた古い倉庫、クレーン、鉄道貨車、トラックなど総てが旧時代。

今や映画の中でしか見られない戦前と幾分変わらぬ港湾施設や東欧的な古い街並はノスタルジーを感じさせると同時に自分が目にした現実は、この国が世界一の戦略核弾道ミサイルと原潜保有国であることを俄には信じ難く、核の管理体制にも不安を覚えた。


本船に乗込んで来た夜荷役の作業員達が寒い寒いと言っては酒を要求してくる。

アルコールを大きな薬缶に入れて、ステベのリーダーに渡すがスグに無くなる。

本船のホールドは外より遥に寒い、熊の様な体格のギャング達はウオッカを水の様に飲む。

因みにタリー検数員は頭にスカーフをして太った白熊みたいな可愛いオバちゃんだった。


2日目の夕刻、荷役当直が終わり、自分は一人で街の散歩に出た。

ナホトカの街はノンビリして他のアジアの港街とは違う何とも言えぬ風情には郷愁がある。

漢字の看板やアジア人は見掛けず住民の殆どが白系スラヴ人で東洋であることを忘れる。


束の間のタイムスリップから帰船して間もなく、自分の船室ドアを誰かがノックした。

ドアを開けると先程デッキで少し会話をした大柄な作業員のリーダーが立っている。

彼は被っていたソビエト軍兵士が真冬に使うような大きな毛皮の帽子を自分に差出して片言の英語で何か物品と交換して欲しいと言った。

この国の一般市民はルーブルなら兎も角、円やドルなどの外貨は持っていない。

高価なミサイル原潜や対潜哨戒機、また多少の金が有っても街には物が無かった。

自分は買い置きしている私物のインスタントコーヒーや紅茶、タバコにライター、石鹸やシャンプー、チョコレート、お菓子など彼が欲しがりそうな物をベッドの下の棚から出した。

彼は大喜びし「アリガトウ」を何度も言い、渡した袋に入れずポケットや服の下に隠した。

日本では高そうな毛皮の相場など知らない自分は差し出してきた帽子を受け取らなかった。

彼はニッコリ笑い、大きな帽子にも物を入れ頭に載せて右手を伸ばし握手を求めてきた。


「礼はいいから、北方領土を返せ。」とは言わず自分は笑顔の彼と握手をした。

ただ内緒の意味で自分の口に人指し指を当て船室を出て夜荷役中のデッキに向かう。

固く断られても毛皮の帽子を何度も差し出す彼にはロシア人としてのプライドがあった。

だが、これを絶対に他の後進国でやってはいけない、クレクレタコラの行列ができる。




翌朝、自分と2/E、局長の3人で上陸、埃を捲き上げながら街を走る丸々太ったオバちゃんが運転する床に穴が開いて道が見えるオンボロ公営バスに乗り、Seamens Club に行った。

この国の女性が皆、毎日じゃがいもとカーシャを食べて太ったオバちゃんばかりではない。

少しダサいが若い娘は目一杯にお洒落をして歩く、この国のオネーちゃん達はキュートだ。

運転手、港湾労働者、時間が止まった街の人達は皆、素朴で親切、バスは無料である。


海員クラブの暗いロビーでマトリョーシカの横にイズベスチアやプラヴダと一緒に並べ置かれていた確か「ロシアの大地で幸せに暮らす日本人妻」というような表紙のソビエト共産党が発行した日本人向けの広報誌を読んで、そのプロパガンダの大嘘とアホらしさに吐き気がした。

紅茶を飲みながら接待してくたクラブの若い女性はロシア語と英語しか話さなかった。

すると暫く英語で会話した後に彼女は恐ろしいほど達者で流暢な日本語で話し始める。

自分の制服の胸にある漢字で書れた名札の職席と日本人でさえ難しい自分の氏名をスラスラ簡単に読んだ彼女はロシア訛も全く、日本の新聞雑誌も総て読めると言う。 

なら初めから日本語で話せ。

自由主義西側陣営である日本の新聞雑誌を自由に読める立場にいると言う彼女はKGBだ。 

この国では日本語でも 迂闊な事は話せないと言う事である。


国を守る空軍が269人を乗せた民間旅客機を撃墜した事など、この街の人達は知らない。


国家の監視対象は自分のように外国からやって来た西側自由主義圏の船員だけではない。

国家に忠誠を誓い機密に触れる軍人や官庁職員以外の工場や港湾労働者など一般国民も情報が統制され言論や行動が監視される。

ゴルバチョフが廃止するまで シベリアには政治犯が送られ強制労働させる強制収容所があったが、1984年の日本から来た自分にはソビエト連邦全体が閉鎖都市その物で国民全てが巨大な収容所、ラーゲリにいる様に思えた。


海員クラブを出てテクって帰船する途中、入港時に湾内で見た海軍艦艇の乗組員らしい若い水兵達に街で出会ったが、デカイ帽子とセーラー服が可愛いウィーン少年合唱団に見えた。

この国では海軍の艦隊勤務はエリートなのであろう、皆育ちが良い賢そうな顔をしている。

だがAKを背に暗い顔で無口に行進する警備隊列と擦れ違った時、先軍共産社会主義国家の先は短いと感じた。

主義と党を信じる赤いネッカチーフのピオネールの可愛い少年少女達の将来が気になった。



軍事施設周辺以外の観光は制限付き自由だったが、無暗やたらに写真を撮りまくるとスパイ容疑で拘束され取調べられフィルムは没収される。


入港4日目の夕刻、本船は腹一杯にイクラの箱詰を満載し日本に向けナホトカを出港した。


出帆祝いの乾杯をしたパイロットはウオッカを煽ってタラップを降りた До свидания。


ダスヴィダーニヤ СССР   さよなら ロシア また来る日まで。







当時、自分達と反対にソ連船員の外地、特に西側諸国での上陸行動はソ連政府から厳しく制限されソビエト海軍艦艇と同じく、FESCO(ソ連極東海運)の商船にも船長と同等以上の権限を持たされた共産党の政治士官「Political Officer」が配乗され乗組員達の行動を監督監視していた。  

これは中共の国営公司の商船も同じであった。

ソ連船乗組員が外国の港に上陸する際は必ず数人で集団行動させて亡命や裏切逆スパイ活動を阻止する為に乗組員同士が互いに監視し帰船後に政治士官、政治局員に行動を報告する。

また電子技術の知識も金も無い下級船員がメモを片手に日本製の電子部品を買い漁っていたのはCOCOM規制の下、日本から持出を指示された政治局員からの下令によるものだ。

自分はエージェント時代に万引で取調を受けたソ連船員を神戸で下船させ、在大阪ソビエト領事館に立寄り富山新港に入港中のソ連船に転船させ本国に送還した事がある。

年配の彼は入管を出てソ連領事館に着くまで怯え、領事館員は自分を笑顔で迎え入れた。

だが彼は別室へ連れて行かれ、その後は車や列車の中でも終始口を開かず、自分が勧めても何も飲まず何も食べず、富山で船長に引渡した時も黙り込み蒼ざめていた。

例え万引であろうが日本の官憲に取調を受け、連邦の顔に泥を塗り無駄な外貨を使わせた。

祖国ソビエト連邦に帰れば、重罰が待っているのであろう。


自分は東側共産主義圏の国に寄港する度に小中学校でソビエトを理想の国家、ユートピアと称賛し共産社会主義は素晴らしいと子供に説いた担任の先生達の顔を思い出した。


今の若い人達は共産主義シンパ、日教組の悪行を知らない。

学校の図書室にはマルクスやレーニンを始めロシア革命、戦艦ポチョムキンの叛乱、独ソ戦の勝利を讃えるレニングラードやスターリングラード攻防戦、ホロコースト、南京大虐殺や八路軍と毛沢東、白骨街道インパール、広島と長崎、沖縄戦、抗日パルチザンと朝鮮戦争、キューバ革命、ベトナムの父ホーチミン、ガガーリンとテレシコワ、文学はトルストイと蟹工船が目立つ場所に並べられていた。


今思えば一体、何処の国の学校なんだ。

全部読んだが平壌や北京、モスクワ放送を聴いていたバカなイワンには免疫があった。

また芸術作品と称しては学校の講堂で何度もソビエトの国策映画を何度も見せられた。

それも淀号、浅間山荘、テルアビブ空港乱射、ドバイ、ダッカとバカが暴れている際中に。

朝鮮戦争は米国の後押しで韓国軍が朝鮮人民共和国を攻撃して始まったと嘘を吐いた。

左翼は休戦協定後も北朝鮮は衣食住の心配がない「地上の楽園」と大嘘を吐き続ける。

米国のベトナム介入を人殺しと批難したがプラハの春やソ連のアフガン侵攻は知らぬ顔。

柳条湖とトンキン湾の二度目の攻撃は軍事介入の謀略だが共産勢力の南浸テロが原因。

反戦人権を言う、ベ平連はKGBからの司令と工作資金で活動していた共産主義工作員だ。


社会科の授業「ソ連の人は真面目に並びデパートの包装にも新聞を使い節約している。」


共産圏では物が無く人は並び、包装紙も無い故に何の役にも立たない新聞を使うのだ。

毒性が強いスローガンやプロパガンダで埋まる共産党機関紙など危なくてケツも拭けない。


「軍国主義の日本が土足で平和な中国に押し入って首都南京で中国の人を虐殺した。」

開戦を嗾けたのはコミンテルンと南京政府や軍閥に潜り込んだ左翼共産主義者どもだ。


1927年の南京事件、漢口事件、盧溝橋事件、大山中尉事件、廊坊事件、広安門事件、

これら全て支那軍閥内の共産党派が日本軍に仕掛けた戦闘だった。


「八路軍やソ連赤軍、パルチザンは人民の味方で敵だった日本人にも優しかった。」


何を眠たい戯言をほざいているのか? 寝言は寝て言え。

偏った認識と歪んだ己の思想を日本の公立小中学校で子供たちに吹き込むな。  


ソ連兵や共産匪賊に連れ去られ犯され殺された日本人婦女子の遺族や墓前で言ってみろ。

尼港事件葛根廟事件敦化事件小山克事件通化事件牡丹江事件は教えない。

赤く気触れるにも程がある、無責任な思想洗脳や刷り込みは放課後に独りでやれ。


国旗国歌を疎かにし祖国の文化伝統に誇りを持たずして憲法9条に誇りを持てと言うな。

左巻教師が憧れた名ばかりの共和国は「地上の楽園」などではなく、中ソ紛争、柬越戦争、アフガン侵攻、中越戦争、ユーゴ紛争、ミャンマー内紛、チベット、ウイグル、平和と平等共存を謳いながら、共産社会主義国は少数民族の弾圧と周辺国とも戦争を繰返している。


20世紀、共産主義は人類に拠る大規模な生体実験、大量虐殺と血の粛清を繰返した。

21世紀、共産主義は独裁者と偽善者、貧困ビジネス利益集団の隠れ蓑になった。

信じる者は救われる。と言うウイルスや伝染病を撒く共産社会主義は20世紀の新興宗教。

一部の党幹部党員が大部分の人民を搾取する上下階級社会が一党独裁共産主義国の実態。

人間の個人個性を見ず、細胞や階層、集団と見て人を家畜化する共産主義に未来はない。


共産主義を信奉する日教組な先生方は子供達の教育を受ける権利よりも労働者として権利を主張し公務員と教育者、大人の義務を放棄し、己の給与や待遇改善の為に労働争議を起こしストライキを強行して自分達子供に小中学校を休ませた。

それを指摘した自分を担任の先生は真っ赤になって怒り教室から出して廊下に立たせた。

小生意気な反動反革命分子を修正した心算か。 

ブルジョワな独身BBA教師のヒステリーな言論統制、ただの口封じだ。

小中学生すら口で説得できぬ無能教師が強権共産社会主義国家を理想郷などと言うな。


共産主義は思想ではなく、人を無視した科学、カルト宗教、伝染病である。



極東ソ連で水揚げされたサケ、イクラ、ニシン、カニなどの豊富な水産物も殆どが外貨獲得の為に輸出され一般家庭の食卓には並ばず滅多にソビエト国民の口に入ることはなかった。


イクラ丼も食い飽きた数航海後、再びナホトカに寄港したが航路浮標は壊れたままだった。

哨戒機を飛ばし警備艇で出迎える金が有るならバスの床と航路ブイの故障くらい修理しろ。

過大な軍事力と最低限の衣食住と公共事業、何ともバランス感覚に欠ける国だと思った。

2度目のナホトカ入港時は撃墜事件は終息して警戒体制は解かれ軍事費の余裕も無くなったのか、派手な出迎えは無かった。

この頃は既にソビエト連邦には共産党政府の言葉を信じる人民は殆どいなかった。



8年後、ペレストロイカはベルリンの壁を壊し東西冷戦は第三次世界大戦に発火する事なく

1991年 СССР ソビエト連邦は崩壊、地上から消滅した。


しかし、これは社会主義経済体制が自爆したのであり、東側が西側に軍事的に降伏したのでなく、ワルシャワ条約機構軍は解散したが当然、NATO軍に拠る武装解除ではない。

また一部を除き、ソ連邦から離脱した国々に於いても、旧ソビエト軍の主力装備はロシア連邦軍が、引継いだが、ソ連からロシアに変わっても依然、国の経済状態は苦しく、肥大した軍は予算も取れず兵器の整備はおろか兵士の給料にさえ事を欠く。

1976年、ソビエト連邦極東防空軍の若き将校ヴィクトル・ベレンコ中尉(29歳)が、祖国を捨て当時ソ連空軍最新鋭迎撃戦闘機 MiG-25Pでウラジオストク北東チュグエフカ基地を離陸し函館で亡命を求めた時、既にソビエト連邦の腐敗は進んでいた。

1992年にはウラジオ近郊のルースキー島にある海軍兵営が孤立して上官が数ヶ月もの間食糧を補給することを怠っていた為、兵士4名が餓死し、数百名が入院する事件も起きた。

精鋭偵察部隊、スペツナズも上官の怠慢と餓えには勝てない。

ソ連邦最後の書記長、初代大統領 ミハエル・ゴルバチョフは冷戦を集結させ西側では人気があるがロシア国内では評判が悪い。

あの時、故障したナホトカの航路ブイを「何時か治る」と言った意味が解かる。 

当初、灯火管制とも考えたが、社会主義で国際経済競争力と政治的影響力を先軍政治体制の失策で財政資金を失ったソビエト連邦は極度の金欠状態に陥っていた。

だがソ連の軍人や官庁職員達が国には金が無い給料も未払いだと外国人には言えない。

当時、日本が経済支援して北方領土を取り戻す機会は絶対に今しか無いと自分は思った。



東西両陣営が必然的に軍縮に向かうのは喜ばしい事であったが核兵器や艦用原子炉の解体には更に多額の予算が必要であり、米国をはじめ西側諸国がこれを支援する事になった。


ロシア海軍に引継がれた Soviet Navy Akula class nuclear attack sub アクラ級 攻撃型原潜

冷戦時代からソ連邦は日本海や北海などに老朽化した原子炉と放射性核廃棄物を大量に投棄して現在、把握しているだけでも過去に10隻以上の原潜を世界中の海に沈め、核弾頭装備のSLBMと核魚雷も50発以上が回収不能であり少なくとも日本海に2基、オホーツク海に1基の艦用原子炉が投棄されている。

冷戦が終結した今日現在も日本海やオホーツク海ではロシア海軍のミサイル原潜が攻撃目標に照準を定め艦隊司令部からの発射命令に備え行動している。


1985年8月 ウラジオ港外での原子炉爆発事故を起こした エコーII級 巡航ミサイル原潜 K-431


1986年10月 ミサイルベイの爆発火災事故で沈没した ナヴァガ級 弾道ミサイル原潜 K-219 


これまで海底に放棄された核弾頭や原子炉は人為的に起爆させない限り核爆発は起こさないが、水圧に拠る圧壊や腐食により大量の放射線物質が漏れ出している可能性は非常に高い。

現在、中朝の技術で多装ミサイルベイを持ち深く静かに潜航する近代艦の建造はできない。

例え廃艦同然の旧型でもロシア海軍のミサイル原潜と技術を中朝に譲渡させてはならない。


ロシアは大きな原発事故を経験しながら原発を増設し、鉄道ですら安全に運行できず埋めてしまう中共は90基以上の原発稼働を目指している。

旧ソ連型の原発はチェルノブイリだけではなく、旧東側諸国には、多くの旧型原子炉が稼働残存し、これまで旧東側諸国やフランスをはじめ欧州の原発所有国も汚染水を流している。

韓国政府は福島など8県産の日本からの水産物輸入を禁止強化し「世界に迷惑を掛けている日本は五輪を辞退するべきだ」と日本を批難した。

これまで何度も原発の故障に拠る緊急停止やメルトダウン寸前の事故を起こして、有害化学物質を含む大量の産業廃棄物も海洋投棄しておいて澄まし顔で韓国が言うな。

だがこれら日本にも影響する隣国の事実について福島に粘着するマスコミは何も言わない。

タロー・ヤマモトよ、貴様が安心して住めると言う場所は地球上に存在しない。





新しい極東の安全保障経済戦略

中国は北朝鮮との血盟共闘を謳いながら停戦休戦を自国の覇権に政治利用してきた。

中共は尖閣・沖縄・台湾などの諸問題を有利に進める為に北朝鮮は金王朝が滅亡するまで

必要悪として中共の国益都合に合わせ外交の駆け引きの条件や交渉材料に使う。

北朝鮮の核問題の解決を直接協議する6カ国協議の議長国を中国にさせたのが大間違い。

元締の中華マフィアの親玉が子分の組員を厳しく監視して更生させるなど悪い冗談である。


2013年現在、ロシアのハサン~北朝鮮の羅津間の直通鉄道(同ゲージ)が開通した。

ロシアは最終的には韓国まで直接乗入れたいと考えているはずである。

また北の若い三代将軍も中共とは距離を置き、ロシアと日本への接近を謀ろうとしている。

これは父、金正日の「中国は歴史的に我々を最も苦しめてきた国であり、南朝鮮と手を結ぼうとする最も警戒すべき国となる中国を今後は信用し利用されてはならない」の遺言の警告に従っている。

ソ連は北朝鮮の実母で中共は北を育て援助して来た御母だったがソ連は他界した。

核弾道ミサイルと潜水艦技術を持つロシアを北朝鮮に必要以上接近させてはならない。

暴走をやめないバカ息子 北朝鮮の抑制に近しい義母ロシアの協力が必要となる。



ロシアのプーチン大統領は時に親中的な発言もし、アムール川を渡して中国国内の黒竜江省までガスパイプラインも敷くが親中ではない。

露中国境のアルグン、ウスリー川 中島はロシアが実効支配し長年に続く露中間の領土問題。

ロシア国内で反対デモが起こったにも関わらず、プーチンが中共に譲歩する形で島を割譲し国境線を確定したのは、1969年にウスリー川の中州でソ連国境警備隊と中国人民解放軍部隊が武力衝突を起こした中ソ国境紛争(ダマンスキー島事件)や尖閣諸島と同様に中共が「沿海州は元来中国の領土であり、ロシアが清国から不平等条約で盗んだ。」と言い始めたこともある。

緩衝地帯であった満州国をソ連の支援により、支配下に置いた中共は長く国境線を接する事になり、冷戦下の中ソ対立は終わった様に見えるが、中露は互いに警戒している。

また極東ロシアに在留する中国系と新たに流入した中国人の人口が増え続け白系ロシア人の地位と自治を脅かし始めプーチンは沿海州がチェチェンの二の舞になる事を危惧している。

やがて中共は欧州への西進路上にある中央アジアの旧ソ連衛星各国の覇権取込みを謀る。

極東だけではなく、シベリヤ・中央アジアへの中共資本や中国企業の進出をプーチンは歓迎しない。

海洋覇権を狙う現在の中共にはロシア南下のトラウマから背後の軍事力が脅威になる。

北朝鮮の中共離反とロシア親密化は極東地域に於いて中共への有効な抑止牽制手段だ。

一党独裁の中共が急激に軍拡を続け周辺諸国と領土紛争を起こしている現状に於いて朝鮮半島の南北にロシアが影響力を増し中共への集権を牽制するのは悪い事ではない。


現在、ロシアは天然ガスパイプラインを敷く事も南北朝鮮と協議している。

日本へのガス輸入を朝鮮半島経由で強力に進めようとする議員と企業が日本にいる。


アホか。


我儘と上から目線の気分次第で元栓や中継バルブを締める国に頼り、日本の首を絞めるな。

天然ガスはロシアから直接日本に輸入すべきである。

以前も書いてきたが日本が天然ガスをロシア一国に依存するのは危険であり、これまでもロシアは自国国益の為に幾度となく約束を破ってきた国であると言うことを前提に極東・北東アジアの安定と中共の覇権を抑える為にも日本とロシアは公平な経済関係構築を目指すべき。

今回、カナダを訪問した安倍首相がシェールガス輸入をカナダと合意した事はロシアと他輸出国への価格競争を促進する事にもなる。

産出国と勘違いする朝鮮半島経由より、冷却液化して太平洋を運ぶ方が、まだ安心できる。

2016年頃にはパナマ運河の拡張工事が完了して米国産シェールガスの輸送コストが削減。

またロシアも北極圏ヤマル半島のLNG基地から砕氷大型タンカーによる東回り北極海航路の運航を目指している。

更に米国アラスカ北部ノーススロープ産の天然ガスをパイプラインを使い不凍港のアラスカ南部のニキスキーまで送りプラントでLNGに液化積出する基地が完成すれば、日本への輸送距離はロシアを除き最も近距離のLNG仕出港となる。

同時に日本は日本周辺領海内の海底資源採掘と実用化を一日も早く始めるべきだ。




環太平洋同盟 対 中華圏同盟

現在、米国民の半数以上が朝鮮半島の南北有事に不介入を支持している。

南は休戦に胡坐をかき堕落したが、北は戦時臨戦体制で核ミサイル開発を続けている。

共和国が余程のバカでない限り、やがてICBMもSLBMも核弾頭の小型化も成功させる。

半島有事の際、米韓同盟下の在韓米軍基地や駐留陸上兵力は大きな被害を受ける。

また戦時作戦統制権が米韓連合司令部から独立し韓国軍は韓国軍司令部に移管される。

在韓米軍司令部は実戦で韓国軍司令部と共同で米韓連合軍を指揮するのは御免である。

朝鮮人民軍に特別な動きが無い限り、在韓米陸軍主力は朝鮮半島から退き海空支援と限定機動的な陸上支援に移行する。

事実上の防衛ラインを対馬まで下げる事になり、韓国の政権は中共に擦り寄るのは明らか。

冷戦下ではない韓国経済を米中が、どれだけ支えるかで事大半島の南政権は未来を決める。

ロシアは再び南下政策を経済的に始め、古来、南北朝鮮半島の扱いをよく心得ている中共は韓国に経済という飴をぶら下げ煽て多くの工作員が韓国国内で反日米・親中に動く。

鴨緑江を渡り人民義勇軍に50万以上の戦死者を出した毛沢東より、習近平は狡猾だ。

利用価値が衰えた北朝鮮より経済成長した韓国を取込み日米韓同盟関係を崩そうとする。

事大主義と反日から抜け出せない韓国の現政権は宗主国、中華圏への回帰に益々走る。


環太平洋同盟と中華圏同盟との冷戦は再び朝鮮半島を舞台に既に始まっている。

中共の海洋覇権拡大、制海空権確保、資源領土欲から東シナ南シナ海での対決も深まる。

最近、中国海軍は東シナ・南シナ海だけではなく、小笠原周辺海域でも動きを活発化させていたが、今年7月には参院選の隙を覗う様に対馬海峡から日本海に入りウラジオストク沖でのロシア海軍の演習に初参加後、宗谷海峡からオホーツク海に入り、択捉海峡を通過、中国海軍の水上艦艇が初めて日本列島を一周回航した事を自衛隊も確認対応している。

中共は朝鮮半島情勢も睨み新しいシーレーンとなる北極海航路への干渉力を強めて来る。

これは単なる中国国内外向けにアピールする航海訓練などではなく、日本列島の防衛力偵察を兼ねた洋上補給訓練を伴う艦隊回航演習であり、有事の際には当然、日本周辺海域に展開し日本本土に陽動攻撃を掛ける作戦を中国海軍が立案していると言う事である。



これらの結果、極東の勢力図と時代は、日清戦争以前に巻き戻される事になる。

明朝時代から朝鮮半島は極東の火種、火薬庫であったが未だに、それは続いている。

明、清、露、日、米、何処の国も半島に関わると碌な事が無かった。

これまで地政と安全保障戦略上の要衝であったが朝鮮半島には、それ以上のリスクがある。 

盧武鉉が言う「韓国は北東アジアのバランサー」などではなく、アンバランサーだ。


韓国は米中の間に立っているのではなく、立たされていると言う事に全く気付いていない。

そればかりか韓国は立場を踏まえず、反日に奔走し日本を外しを米国に呼び掛け、米中間の架橋、つまり韓国が北東アジアを動かす基軸国になったと上から目線の勘違いをしている。

米韓の軍事同盟が日米軍事同盟と同等以上に重要な同盟関係には成り得ないと言う現実現状を韓国政府も韓国国民も、その特異な国民性からミスリードしている。

米国は朝鮮戦争休戦後、韓国を守る為に陸上兵力を配置したのではなく、朝鮮半島を主戦場とし、防共の際前線、隔離海峡、地政学軍事的要衝と見ている事を韓国は理解すべきだ。

東西冷戦の終結以降、それは如実に表れ共産主義に対する橋頭堡としての価値は下がり、中国や北朝鮮は一党独裁国家であって共産主義とは言えず思想的同調者もいない現状がある。

米軍兵士の血を流し多大な経済的損失を出しながら、単なる同民族間の対立になりつつある半島の北から南を守る義理もメリットもないと経済状況も厳しい米国民は考え始めている。

仮に血を流し守り抜いても、北に中に掌を返す蝙蝠国である事も理解出来たのだろう。

韓国は北が動くか中国経済が停滞すれば、またこちらへ擦り寄って来るのは間違いない。

また中共が横暴露骨になり、韓国国民自身が中華圏に吸収される事への危機感を持ち始めれば、再び日米に頼って来るのは必至、また韓国政府高官が日本の集団的自衛権行使に反対しないのは北朝鮮と中共の軍事力に怯えているからだ。

中共と歴史問題を共謀して日本外し二股外交を続ける韓国政府に対して米国政府は間もなく日本との関係改善を厳しく要求する。

しかし日本は日本を貶める国に対し、日本から手を伸ばし接近する必要はない。

日本政府は「韓国は史実を学び、これからは日本の内政に干渉するな。」と言えば良い。

何れにせよ、すぐに陣営復帰限界点が来る韓国は併合以来、再び決断を迫られる事になる。

日米政府の過ちは安全保障と同盟関係を重視するあまり韓国のおかしな言い分や身勝手な行動に頭から反論せず沈黙、また容認して来た事である。


中ソ対立、南北対立が激しかった冷戦の終結までは日韓・日中関係も良好であった。

東西イデオロギーの対立に代わり、遺伝的民族思想主義の対立が始まっている。

緊箍児を外された猿の様に縛りから放たれた中韓は義理や援助国の支援も忘れ暴走する。

日本や西洋列強は小さな国土と貧しさ故に外地に活力を求めたが、中華は西洋とは違う。

古来、中国は富と力を手に入れるほど野心と欲を外へ膨らませて来た国である。

中華思想の一党独裁国家に対し、経済的な関係だけでは良好な友好関係は築けない。

米国が安全保障問題で同盟国日本を裏切る事はない、しかし経済は別問題だ。

資本主義国家である限り米国は自国の経済利益を最優先にする。

米国は軍事費削減、また通商経済の観点から中共や中東に対して、これまで通りの強い態度では望めなくなり、その影響力を弱めている。

米国民主党政権内や国防部内にも親中チャイナコネクション、パンダハガーは存在する。 

日本は米国だけでなくアジア諸国やインド、中東、豪州、欧州と経済、安全保障交流を深めるべきだ。

中共は南シナ海、台湾、尖閣を諦めず経済と政治で米国と台湾を内部から浸食し続ける。

台湾が陥ちれば尖閣・南西諸島もドミノ倒し日本の生命線であるシーレーンが失なわれる。

地域経済戦略と切り離して日本は賢い安全保障戦略は立てらない。



新しい日露関係


日本に対し友好協調的な発言をしているロシア連邦共和国ウラジーミル・プーチン大統領

プーチンは柔道を愛好しているが日本を特別に愛しているのではない。

彼は通商と安全保障のパートナーまた商談相手として日本を認識し理解しようとしている。


プーチンは自分を首相に指名したエリツィンを信奉せず、ソ連崩壊までゴルバチョフを尊敬していた元共産党員の秀才で優秀な諜報ビジネスマンで武道を心得え文武両道を実践する戦略家。

KGB、FSB出身、レニングラード産まれの彼は強いロシア復活を願う生粋の愛国者だ。

「ソ連が恋しくない者には心がない、ソ連に戻りたい者には脳がない」それを表す彼の言葉

ソ連邦崩壊後、汚職腐敗が更に進んだロシアには、多少独裁的であっても信念を曲げない賢く強い指導力が必要であり、プーチンはこれまでロシアの長老指導者達にはいないタイプの新世代指導者でロシア人として強いプライドもある。

「強いロシア」 資源エネルギーを制する者が勝利する事を彼は良く理解し実践している。

だが技術開発や工業製品生産を疎かにし資源輸出だけを柱にする経済では国は発展しない。

プーチン自身も資源エネルギーと軍需産業に依存するだけでは真の強国にはなれない事を理解し、ロシアの工業を発展させ国内生産に注力し産業経済の構造改革を行おうとしている。

西方から東方にシフトを進めるロシアの民需産業育成に日本からの技術協力と経済援助や日本への資源エネルギー安定供給と収入をプーチンは歓迎する。

ただ多種多様な兵器を中共にライセンス提供しているロシアは中共をライバル視しながらも日本が取込む事は容易ではなく、また日露の友好関係に中共が横槍を入れて来る事は必至である。


またプーチンは大統領就任以来、日本とグルジアを除くロシアと周辺諸国間にある殆どの領土問題を解決し、日本との領土問題解決にも柔軟な姿勢を見せている。

ただ、どんな人間でも長く権力の座に座れば思考も変わるものだ。

今日現在のロシアには領土拡大の意欲はなく、ワルシャワ条約機構軍の解散後はNATOに押され続けたロシアの同盟軍は弱小化され東欧や黒海・コーカサス地域では経済軍事両面で投資を行ってきたウクライナやグルジアなど旧ソビエト圏諸国を繋ぎ止める事に苦慮している状態である。



北方領土


日本北東端、北海道根室半島の沖合に位置する自然豊かな歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島 これらの島々の総称、四島の合計面積は5,003 km² 福岡や千葉県に匹敵する。


1945年8月8日、ヤルタで密約を交したスターリンは8月6日に広島に原子爆弾を落とされ講和を模索する日本に対し日ソ中立条約を破り、対日参戦を決定し宣戦を布告、終戦の僅か6日前の8月9日に樺太・千島・満州・朝鮮に侵攻を開始する。

日本のポツダム宣言受諾後もソ連赤軍は停戦せず南侵を続け多くの民間人を殺害して略奪と強姦を繰返し、同年9月5日迄の間に北方四島の総てを侵攻占領した。 


終戦当時、北方領土にロシア人は一人も居住しておらず、四島には約1万7千人の日本人が住んでいたが、翌1946年にソ連は北方四島を一方的に自国領に編入し、1949年までに総ての日本人を強制退去させて以来、今日に至る迄までロシアによる不法占拠・実効支配が続いている。


北方領土を自分が初めて実際に目の前にしたのは今から約30年前に水産庁チャーター船に乗船し北海道沿岸に長期漂泊し水産資源を調査していた時だった。

ソビエト連邦時代の当時、多くの日本漁船がソ連の国境警備隊艦艇に頻繁に拿捕や銃撃されており海上保安庁の巡視船が日本漁船とソ連の警備艇の間に割って入るなどして注意喚起し拿捕や銃撃から漁船を守っていた。

実効支配されてから拿捕数 1302隻 9023名以上 沈没・放棄 26隻 死亡30名


戦後、捕虜にした約80万の日本人をシベリアに抑留し強制労働で酷使して10万人を殺したうえ北方領土を盗んだ火事場泥棒のソ連が連合国、戦勝国側で日本を戦犯として裁き、更には国連の安保理事国になったのはおかしな話である。

戦前の南樺太、千島は国際社会から認められた大日本帝國の正当な領土及び統治権益地であり、日本が武力により侵略したものではなく、また択捉島以南の北方四島は一次大戦以降に武力に拠る占領や国際条約で日本が得た領土ではない。

北方四島は開国前より日本の施政下に置かれていた日本固有の領土である。

また1855年の日露和親条約に於いて択捉島と得撫島間に日露の国境線が確定され、帝政ロシア及びソビエト連邦領であった事は一度もない。


ポツダム宣言 「日本が国民多数に拠る平和的政権を成立すれば連合軍は日本から撤退する」

北方領土に居座るロシアはカイロ宣言の条項を引き継ぐポツダム宣言にも明白に反する。

カイロ宣言 「日本は1914年の第一次世界大戦以降に占領した太平洋の全島を失う」


1875年の樺太・千島交換条約に於いて日本は樺太の権益を放棄し、得撫島以北、占守島までの千島18島をロシアが日本に譲渡し、更に1905年のポーツマス条約でロシアは樺太の北緯50度以南(南樺太)の領土を永久に日本へ譲渡した。

厳密に言えば、日本は歴史事実や条約に基づき北方四島の領有権を主張するだけではなく、樺太の南半分の返還も要求しなければならない。


しかしソビエト連邦が崩壊した際に領土返還の機を逃したのは日本政府の怠慢もある。

ヤルタで密約を交わした米国も沖縄返還を盾に日露条約締結と返還交渉に圧力を掛けた。

現在は大日本帝國とソビエト社会主義共和国連邦、東西イデオロギーが対立する冷戦下ではない。

ソ連邦政府に拠る計画的な移住であっても戦時下でない平時に於いて多く島民を強制的に追出し、新生国家ロシアに旧ソ連邦の全責任を負わせ、四島一括返還要求を飲ませるのは困難である。

如何に歴史が歪曲され条約違反があろうが外交も軍事上も実効支配している側は強い。

日本に多くの犠牲を払いフォークランド紛争シーズン2を始める覚悟や対価があるか。

安保理常任理事国でもある軍事大国ロシアはアルゼンチンのようにはいかないない。

日露有事の際、日本列島へのロシアの軍事的な直接脅威はシベリア極東のIC・IRBM、オホーツク・日本海・北太平洋に潜む原潜のSLBMやミサイル巡洋艦及びTu-22M3 バックファイア中距離爆撃機やTu-95MS ベアなど戦略爆撃機が遥か彼方、日本の防空圏外から一斉射される多数発の核巡航ミサイルである。

また日本とロシアと領土を争えば中共の思う壺、中共は必ず尖閣で動きを見せる。

東シナ海とオホーツク海とで両面戦を強いられ、先の大戦の轍を踏むのは愚かなことだ。

それはロシアも同じで西方で燻ぶり経済が辛くなれば、東方に安定と収入を求める。

北極海航路と太平洋への進出、尖閣諸島を狙う中共は北方領土返還を妨害している。

頑なに四島一括返還を要求する事はロシアを外交交渉の場から逃がすも同然である。


ロシアは共産主義国家から表向きは資本主義国になった。

現在、ロシア国内でのプーチン大統領の人気は高いが何時か政権は終わり、指導者が変わっても長く維持できる関係を日本は構築するべき。

北方領土の返還交渉は具体的且つ速やかにプーチンが大統領在任中に開始しなければ次の機会は何時になるか先は見えない。

内圧に弱い大統領が国民を諭し反対を押切って実効支配している領土を返還する事はない。

領土問題解決を前提にした日露平和条約は安倍・プーチン政権下でしか締結できない。


しかしプーチン大統領も四島を返還する心算は無く、特に択捉島は絶対に手放せない。

沖縄本島より広い択捉島には嘗て真珠湾攻撃に帝国海軍の空母機動部隊が集結した天然の良港 単冠湾やレアメタル等の地下資源があり、ロシア政府は択捉島をサハリン州のクリル管区に編入、国後・歯舞・色丹の南クリル管区と行政府を切り離して公共投資を行い水産業や金鉱業に力を入れ国際空港も建設している。


東西冷戦以降、オホーツク海の地勢的な価値、戦略上の重要度は格段に上がっている。

何より択捉島はロシア太平洋艦隊にとり水上艦艇が威嚇無しにオホーツク海から太平洋に出る為に重要な水道海峡要衝であり、オホーツク海周辺の制海空権を握る極東防空軍の最東端の防空基地として機能しているからである。

だがロシアは欧米NATOとの確執、旧ソ連邦地域での影響力維持に国力を削がれ極東地域にこれ以上多額の投資を行えない。

東方シフトを加速させたいロシアも北方四島を自国領土として実効支配は維持できるが極東地域、樺太・千島列島の開発発展には外国資本の経済技術協力が必要になる。

特に北方四島の開発協力は中韓ではなく、必ず日本政府・企業の手でやらなければならい。


プーチン大統領が「引き分け」と言った言葉の意味を1956年の日ソ共同宣言の条文に記載された平和条約締結後の歯舞・色丹の二島返還の事だと日本側は解釈しているが、四島同時返還に拘りロシア側にも利益も考え無ければ交渉協議は難航する。

ロシア政府が開発を進める択捉・国後とは違い、歯舞・色丹の劣悪な道路整備状況やインフラ投資の度合を見ればソ連時代から最近まで二島は返還に応じる意思があったことが判る。



では日本政府はどう動くべきか。

先ず日本は北方領海に深く突き刺さる歯舞・色丹・国後と豊かな漁場、水産資源の一部を取り戻すと同時に日露で日本海以北の安全保障を確保する。

自分は国後水道を分割して国境を確定し国後は非武装地帯、日露の経済協力と文化交流の特区とすることが落とし処だと考える。

国後を明確な日本の領有施政権下に置きインフラ整備と自然保護やリゾート観光への投資を行い、ロシア人島民には在留資格・永住権を与え希望者には日本国籍の取得も認める。

現在、在日駐留米軍がいるように択捉島に限り在日駐留ロシア軍を認める方もある。

択捉と他サハリン州や沿海、ハバロフスク地方などロシア極東地域の資源共同開発や産業や漁業に協力参入する。

安全保障面では海保とロシア国境沿岸警備隊、自衛隊とロシア軍との合同訓練や安全会議などの現場間交流を増し連絡網と信頼関係を構築、領土・領空・領海での緊張緩和を目指す。

領土問題解決と平和条約を締結は日露両国にとって共通の利益となることをロシア国民にも充分に理解させることが重要である。

朝鮮半島全域、東シナ、南シナ海全域を勢力圏下に吸収しようとする新中華圏の覇権主義に対抗する日米にはロシアの協力が必要になる。

その為にも日本は北方領土の返還を要求しつつ、ロシアとの経済・軍事の協力関係強化への意欲を示すべきであろう。

日露の関係親密化は日本の同盟国の国益、即ち米露関係にもプラスに働き、北東アジアの安定に繋がることを米国政府にも理解させることも必要だ。



遥か国後に白夜は明ける。

だが東京とモスクワは7,484km 約4,041海里の距離と6時間の時差がある。

ソ連時代より速くなったとは言え日本とロシアでは時の流れ方の違いを忘れてはならない。

軍事力行使の決断は速いロシアも外交交渉による国境確定や条約締結には時間を掛ける。

柔道のように日本が一歩詰めれば、一歩引くのがプーチン・ロシアの外交交渉の形である。

ロシア外務省の国粋主義官僚、対日強硬派の古参、政治家ではない外相セルゲイ・ラブロフは平然と大嘘を吐く癖者だ。

日本人がロシアを信用出来ないようにプーチンも米国の影響下にある日本を信用出来ない。

産業改革なくして資源の切売だけではロシアの経済発展はなく、中共の二軍に成り下がる。

当然、中共と日露米国内の親中派も日露平和条約決裂を画策し、安倍プーチン叩きをやる。



故郷の島を盗まれ今でも北方四島に帰りたい高齢になった島民の方達には気の毒である。

だが戦後70年も待った日本は長い目で未来を見よ。

日露に平和条約締結は必要でも今さら日本が焦り間違った妥協終結をすべきではない。



この複雑な北東アジアにある日本。

日本は何時までもロシアを旧ソ連や北方領土など局所的視点だけで見ていてはいけない。

我々は日本の将来を長い目で見て真の国益に叶うものは何かを考えなければならない。

ソ連時代から日本と国境を接しながらも近くて遠い国であったロシア。

日露が外交や安全保障、経済交易、市民レベルの文化交流でも真に近しい国になる。

日露平和条約の締結は互いの国益に叶い極東地域の安定にも好ましいことである。

一番の問題は昔からソ連もロシアも政府が平然と嘘を吐き約束を守らないことだ。





うちのウルトラスーパー パルナス部長とロシアの美人妻ナターリアの話しは、また今度。



極東の領土・外交・エネルギ―・安全保障問題を書いた 過去ブログ

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

38th parallel Military Demarcation Line  38度線 休戦協定破棄 「朝鮮戦争 1950 KOREA」
Posted at 2013/10/16 21:21:12 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記

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