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2013年10月12日 イイね!

Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」 満洲事変

Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」 満洲事変「太陽の帝国」 運命の瞬間 の続き。

自分の父方の祖父や伯父達は帝國海軍いたが母方の祖父は帝國陸軍に籍を置き上海、台湾、満洲と転任して終戦を華北で迎え、約1年後に小倉に復員した。

また軍人だけではなく 親戚が海運会社を経営していた関係で南満洲鉄道や華北交通などの運輸流通や満鉄病院など医療で外地に勤めていた方々がいる。


祖父の存命中には神戸にある祖父の知人の華僑が経営する支那料理店にもよく連れて行って貰い大陸の話しをよく聞いた。

祖父は戦中に何度となく死にかけたが、料理同様に支那や満洲が好きで懐かしんでいた。


また自分の元直属上司の父上が対ソ戦発動と三国同盟 日米開戦の反対を具申した侍従武官長 陸軍大臣 支那派遣軍総司令官と歴任し終戦前に広島で被爆した 畑俊六 元帥 陸軍大将であり 張作霖爆殺事件後に着任した関東軍司令官 畑英太郎 陸軍大将が叔父上だった元陸軍航空技術大尉からよく話しを伺って大陸・満洲に於ける日本の歴史は身近に感じる。

畑俊六 陸軍大将 寺内寿一 陸軍大将 二元帥、徐州にて   中国国民党 蒋介石 蒋緯国


自分は船員時代に天安門事件前、人民服の大連港やソビエト連邦時代から太平洋艦隊基地があるウラジオストク開港前のナホトカに入港、戦前と変わらぬ様な古い港湾設備と煉瓦作りの倉庫街並や深い森林と広がる大地を見て同じ北東アジアでありながらも日本とは全く異質な極東地域の風情に郷愁を感じた。 極東ソ連の事は、また今度書きたいと思う。


その遼東半島 大連や沿海州 ナホトカから奥入る、我々の先輩達が開拓開発した満洲とは、

満洲は現在の中国東北部、ロシア沿海州、内モンゴル東部の満州族、モンゴル族の支配故地

面積は日本の約3倍ある広大な地域で、北東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川の対岸はロシア、南東は鴨緑江を境に朝鮮半島、南は遼東半島を有し黄海と渤海に面し、西は大興安嶺山脈を隔てモンゴル高原、南西は万里の長城東端の山海関が華北との境界「関の東」と言う意味で「関東」とも呼ばれる。



太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、満洲、上海、日華事変から始まる。

その事変に至る経緯と史実は日清戦争以前まで遡らなければ正しく理解し判断できない。

満洲は中共やマスコミ左翼が言う様に日本が土足で侵略し漢民族から奪い盗ったのか。



ロシアの南下
1636年 少数民族の満洲族が満洲に清国を建国、多数であった漢民族の明朝を滅亡させて満洲地域及び中国内地全体を支配し、漢民族が満州に移入することを禁じた。

明や清の時代の一時期を除いて万里の長城の外側である満洲はチベットやモンゴルと同じく漢民族の絶対的統治領ではなかった。

17世紀になると南下を始めたロシアと清朝との間で紛争が発生、ネルチンスク条約により国際的に満州全域が正式に清朝の国土と定められたが、イギリスは阿片を蔓延させフランスと連合して弱体した清に軍を送り、不平等な天津・北京条約を結ばせ清の植民地化を図る。

これらの条約でイギリスは九竜半島と香港を手に入れ、調停に入ったロシアは清にアイグン条約を結ばせ外満洲地域(沿海州)を割譲してウラジオストクを開港する。

1894年 朝鮮で近代化を求め清国への事大政策と朝貢廃止を掲げた甲申政変に続き農民戦争が発生して日清両国は天津条約に基づき朝鮮に出兵、動乱終息後も清国は軍を撤退させず、日清の対立は激化し日清戦争に発展した。

威海衛港の清国北洋艦隊と基地を殲滅した帝國陸海軍に降伏する清国兵捕虜

日清戦争に勝利した日本は遼東半島、台湾、澎湖諸島を清から割譲して朝鮮を朝貢冊封体制から解放独立させ、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放させる日清講和・下関条約を締結する。

しかし仏・独・露の三国干渉と賄賂に拠り、ロシアは遼東半島南端の旅順港に艦隊を強制入港させ旅順・大連を租借して不凍港を獲得すると同時に万里の長城以北と満洲全域に勢力圏を拡大。

更にロシアは朝鮮半島北部の鉱山採掘権や森林伐採権、関税権などの国家基盤を朝鮮王朝から取得し、朝鮮での影響力を増して南下政策を取り続ける。

ロシアの南下政策に危機感を持っていた日本が朝鮮王の高宗が売り払った利権を買い戻して朝鮮の国権を回復させた。

1900年 清で義和団の乱(排外運動)が起こり欧米列国に宣戦布告、ロシアは満洲へ侵攻し全域を占領下に置いて満洲の植民地化の既成事実を企み、朝鮮半島も勢力権内に取込もうとするが、日英米がこれに抗議し為にロシアは撤兵を約束する。

しかしロシアは履行期限後も撤退するどころか駐留軍の増強を図り、旅順港に強力な艦隊を配置し旅順要塞も大規模に強化した。

西洋の大国であるロシア帝国が極東の新興小島国であった日本との外交交渉に耳を貸す事はなくロシアとの戦争を決意した日本は日英同盟を頼りに借金をして戦費を調達し、シベリア横断鉄道の全線開通とバルト海を出るバルチック艦隊が日本近海に到達する前にロシアとの開戦を準備する。

1904年2月8日 帝國海軍は仁川と旅順港奇襲攻撃を以って日露戦争の戦端を開いた。


帝國海軍連合艦隊は黄海海戦で旅順艦隊、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃退する。

日露戦争に於ける主たる陸海戦図

帝國陸軍は仁川上陸に始まる南満洲を主戦場にしたロシア帝国陸軍との会戦に勝利を重ねるが、旅順要塞攻略に苦戦し、奉天占領時には各師団の戦闘能力は既に限界を超えて戦費は底を着き武器弾薬の補充調達にも苦慮していた。

帝國陸海軍に包囲攻略された旅順港

一方のロシア帝国も国内で民衆に拠る反帝政の革命運動が高まり、各地での陸戦海戦に連敗し、日本海海戦に於いてもバルチック艦隊が連合艦隊に撃破され制海権も失っていた。


艦砲と海軍陸戦重砲、及び二八センチ榴弾砲の砲撃で大破して自沈、擱坐したロシア旅順艦隊


戦争継続能力を失いつつあった日露両国は米国の仲介により講和交渉のテーブルに着いた。



南満洲鉄道獲得、大陸進出
1905年9月4日 ポーツマス日露講和条約調印で南満洲鉄道を獲得し、遼東半島の旅順・大連の租借権など日本は大陸に於ける権益を得て朝鮮半島を保護下に置き、北緯50度以南の南樺太を奪還する。

同年、満州善後条約で日清両国間でも南満州鉄道及び附属地の権益と吉林への延伸、日露戦時に日本が建設した鴨緑江に至る安奉線の継続使用権、関東州租借権、日本軍常駐権、鉱山採掘権、森林伐採権、日本人の居留保障を確認、日露協約で朝鮮・満洲と内蒙古東部に於ける日本の権益を協約した。

しかしロシアから賠償金は取れず、戦費返済に苦しむ事になり日本国民は暴動を起こした。

1909年10月26日 ロシア蔵相 ウラジーミル・ココツェフとの会談の為に満洲を訪れていたアジア最初の立憲体制の生みの親であり、日本の初代内閣総理大臣、初代韓国統監を歴任した伊藤博文を朝鮮人の安重根がロシア権益のハルビン駅構内で襲撃し殺害した。

暗殺当時、伊藤は既に(同年6月)韓国統監を退任していた。

1910年8月29日 日本の寺内正毅 韓国統監と大韓帝国の李完用 首相により日韓併合条約が調印され大日本帝國が大韓帝國を併合した。

1912年 清国で辛亥革命が起こり、革命家孫文を臨時大総統として南京に臨時政府を置き共和制を敷く中華民国が誕生、清朝の第12代 皇帝 愛新覚羅 溥儀は北洋直隷軍閥の袁世凱に退位させられる。

君主制が終わり軍閥の勢力争いと1949年の国共内戦終結まで続く長い内乱が始まる。

1914年8月23日 日本は日英同盟に基づきドイツ帝国へ宣戦布告、連合国側で第一次世界大戦に参戦、帝国陸軍はドイツ権益の山東半島 青島要塞を攻略、帝国海軍はドイツ植民地の南洋諸島を攻略した。

1916年 満州 鄭家屯で中国軍が駐留日本軍将兵と警察官の殺害事件を起こし、長春で日中両軍が衝突した寛城子事件の勃発により日中関係は悪化する。

1918年 連合国はチェコ軍捕囚救出の名目でロシア共産革命政の権打倒と東部戦線への揺動にシベリア出兵を決定、日米主力の連合軍がウラジオストクに上陸した。

1919年4月 帝國陸軍は広がった外地領や大陸の租借地に内地から編入し駐屯守備隊を増強、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と同様に遼東半島と南満洲鉄道附属地の警備、邦人保護と治安維持を目的として関東軍を編成する。

1920年にはニコラエフスク(尼港)で赤軍パルチザンと中国海軍によって駐留日本軍が殲滅、領事一家以下在留邦人300人以上が惨殺され、住民 6000人余りが虐殺される尼港事件が引き起こされた。

1922年 ロシアでは内戦後ボリシェヴィキがソビエト連邦を樹立、全土が共産赤化する。

この頃より中国は排日に傾き、ソ連は南下政策を進め日本が正当に得た権益や居留民の生命財産が脅かされる事になる。

1924年 皇帝を退いた溥儀は軍閥のクーデターにより紫禁城からも強制的に退去させられ、各国の領事館に庇護を求めたが内政干渉になると拒否される。

関東大震災で溥儀から義援金を送られた日本政府は教師ジョンストンの申し出から彼を受け入れ、北京の日本公使館に保護された溥儀は後に天津の日本租界に移住する。


内地では工業化が進むも日本は依然として農業が主体で世界的な経済恐慌と冷害に因る飢饉は農村部へ大きな打撃を与え、日本政府は外地に活力を求める。


1929年 政府は外地統治の為に拓務省を新設して朝鮮総督府・台湾総督府・樺太庁・南洋庁の監督業務を行い、拓務省下に南満洲鉄道や東洋拓殖、南洋拓殖、南洋興発などの国策会社を設立する。


国策に沿って財閥民間企業も大陸や朝鮮、台湾に進出しインフラや産業は整備され、金融機関が集まり都市部は近代化が進んだ。


大陸都市部の新市街は広さやデザインに自由がありモダンで独創的な建築物が立ち並んだ。




支那軍閥と関東軍
関東軍は日露戦時に日本に寝返った満州の親日派馬賊 張作霖の奉天軍閥に軍事顧問団を送り 協力関係を保っていたが満洲を実効支配した張作霖は日本の意に反し関内へ南侵を始める。

張作霖は満洲南部に産まれ吉林で馬族になったが、漢族移民の子で満州族ではない。

安徽派や直隷派など他の北洋軍閥との戦の度に張作霖は関東軍に支援を求めながら朝鮮人安住や土地商租権など諸問題解決の約束は守らなかった。

欧米資本を取入れたい張作霖は欧米列強に追随し日本と距離を置き始め関東軍との関係も悪化、特に大陸政策に出遅れていた米国が接近し経済政治両面で積極的に張作霖を支援した。

1926年12月 山海関内、即ち中国国内に侵攻し北京に入城した張作霖は自ら大元帥に就任すると同時に中華民国の主権者であることを宣言する。

1927年3月 南京・上海を占領した中国国民革命軍内の共産党派が外国人と外国領事館を襲撃する南京事件漢口事件を起こした。

南京城内の中国軍に対して揚子江に停泊中の米英海軍艦艇が艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵の一方的な暴虐に遭い日本と欧米の外交官と宣教師が虐殺され婦女子が強姦された。

翌年4月には山東省 済南で居留民が北伐軍内共産党派に掠奪虐殺され、警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こす。

国民政府は日本軍の不法行為と宣伝したが、ニューヨーク タイムズや英国紙デイリー テレグラフの現地特派員は「日本人の忍耐にも限度がある。」と中国軍の掠奪虐殺を強く批難糾弾し、日本軍の行動は当然の自衛の為に必要最低限の正当防衛で今後の日本軍の治安維持活動に期待していると国際的に報じた。

蒋介石は武漢国民政府の左派勢力に対抗し国民党から共産主義者とソ連の顧問を排除追放して南京に国民政府を設立する。

奉天軍内への共産主義の浸透を危惧し満洲の共産化を警戒した張作霖は在北京ソ連大使館官舎を強制捜索、ロシア人と中国人80名以上を検挙、武器と機密文書、煽動紙等を押収した。

蒋介石から「山海関以東には侵攻しない」と言質を取った関東軍は張作霖を積極的に支援しなくなり蒋介石の北伐国民革命軍との戦いに敗れた張作霖 奉天政府の財政は破綻し満洲の支配力も衰え国民党に擦り寄って行く。

張作霖と旧知の仲である元満州軍参謀 田中義一首相は奉天軍閥と関係を維持しようとしたが勢力争いを続ける支那軍閥に頼る安定統治に限界を見た現地の関東軍高官は社会インフラを整備して親日政権国家樹立に拠る満洲の間接統治(満洲国建国)を考える様になる。


1928年6月4日 関東軍司令官 村岡長太郎 中将が発案し、高級参謀 河本大作 大佐が首謀して張作霖が乗った南満洲鉄道の特別列車を奉天近郊の皇姑屯を走行中に爆破、国民党軍の仕業に見せ掛ける偽装工作を行い張作霖を殺害する。

田中首相は陸軍と閣僚に押され事件を隠蔽上奏し、謀略を知った天皇陛下に叱責され田中は引責辞任して内閣は総辞職、陸軍は村岡司令官を依願予備役、河本大佐を停職に処した。

爆死した張作霖の後を引継いだ息子の張学良は青天白日旗を掲げ南京国民政府へ下り、蒋介石に満州の不干渉を確約させ北満からソ連の権益排除を画策する。

蒋介石は奉天軍閥 張学良の合流により北伐を完遂させ国内の共産勢力掃討に力を注ぐ。

翌年、コミンテルンの赤化工作の謀略を察知した蒋介石は張学良に命じ活動拠点であるハルピンのソ連総領事館を強制捜査させ領事と職員を逮捕、ソ連権益の中東鉄道に軍隊を配置して南京政府が接収、ロシア人管理職員を排除して中国人を任命した。

1929年7月18日 日本が厳正中立の立場をとり関東軍の不介入を確認したソ連は南京国民政府に国交断絶を宣告して赤軍が満洲に侵攻、張学良軍を撃破し中東鉄道全線を占領して中東鉄道の経営権と特別区の行政を握り、満洲に於けるソ連の影響力を反対に強める。



1928年7月19日 中華民国南京政府は国家継承に於ける条約継承否定説を採用、日清間で締結された諸条約無効を主張し一方的に日清通商航海条約の破棄を宣言していた。

ソ連に敗れた南京政府と張学良は矛先を日本の権益と日本人に向け排日に傾いて行く。

南京政府は南満洲鉄道と並行する鉄道新設の禁止等を定めた日清間の満洲善後条約締結を無視して新たに満鉄線に並行する鉄道路線を建設、安価な輸送単価で南満洲鉄道の経営の枯渇を狙い満鉄の付属地に柵を張り廻らし通行口に監視所を設け大連港から入る物品に輸入税を掛けて更に付属地から持出す物品に対し二重の税を掛けた。

また満洲善後条約では鉄道付属地外でも営業権は保証されていたが、中国の官憲による一方的な許可取消や事業妨害に林業、鉱業、商業等の日本人企業の経営不振が続出する。

満洲鉄道、及び東清鉄道の路線図

徹底的に排日を進める南京政府は日本人や朝鮮人に土地を貸売りした者を国土盗売者として処罰する「盗売国土懲罰令」を制定、多数の朝鮮人農民から土地を奪い抵抗した500人以上の朝鮮人が奉天監獄に投獄された。

更に「鮮人駆逐令」の発令により、迫害された朝鮮人農民は長春 西北の万宝山に入植しようとし、反発した中国人が朝鮮人農民を襲撃、日本領事館が朝鮮人農民保護の為に急行させた警察官と武装した中国人の暴徒が衝突する 万宝山事件が発生し、朝鮮排華事件が起こる。


1931年6月27日 南京政府の排日政策が続く中、対ソ戦に備えて陸軍参謀 中村震太郎 大尉が軍用地誌調査の命を受けて匪賊横行を理由に一方的に設定された蒙古興安嶺の日本人立入禁止区域に農業技師と身分を隠し井杉延太郎 退役兵曹長と白ロシア人、蒙古人の4名で調査旅行中に張学良配下の屯墾軍に拘束される。

中村大尉は護照を提示したが屯墾軍は無効として取り合わず、一行が多額の旅費を所持していた為に殺害し証拠隠滅に遺体を焼いて埋め、一行の金品、護身用ピストル、その他一切の物を隊長の関玉衡とその部下が略奪した。

これと時を同じくし日本人女学生数十人がピクニック中に集団強姦される事件も発生する。

各問題を奉天の日本総領事から外務省を通じて南京総領事が南京政府に協議解決を申入れるが無視され続ける。

事変前にはこの様な懸案が370件余りに達し、また関東軍も再三に渡って抗議するも南京政府から明確な回答は無かった。

日本政府の対中・英・米外交は頓挫し、無秩序状態が続く中華民国は国家ではなかった。


関東軍に作戦参謀として赴任した石原莞爾 中佐は満洲の地域自決・民族自決に基づく分離独立、満蒙領有計画を立案する。

南京政府の排日政策と満洲・東北の治安悪化に危機感を抱いた関東軍幹部達は本国の陸軍中央参謀本部に諮ることなく再び独断で軍事行動を開始した。



満洲事変
1931年9月18日 石原莞爾中佐は着任した高級参謀 板垣征四郎大佐と奉天近郊の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破して張学良東北軍の犯行に見せ掛けた柳条湖事件を起こし、特務機関の工作で吉林も不穏な状態に持込む。

これを理由に関東軍は軍事行動を開始、東北軍兵営 奉天北大営と奉天城を制圧する。

翌日までに奉天以外に長春、安東、鳳凰城、営口の南満洲主要都市の殆どを占領した。


19日午前10時 事態に日本政府は緊急の閣議を召集「事変不拡大」と決議した。

南次郎 陸軍大臣は政府の方針に留意して行動するよう本庄繁 関東軍司令官に訓電する。

陛下は参内した若槻首相に「事変不拡大を徹底するよう努力せよ」との御言葉を掛けた。


21日 朝鮮軍司令官 林銑十郎 中将は二個飛行中隊を増援、独断で混成第三十九旅団に越境を命じ旅団は鴨緑江を越えて関東軍 本庄繁 中将の指揮下に入る。

天皇陛下の勅裁を受けない皇軍の国外派兵は統帥権干犯であり、重大な軍紀軍律違反で死刑に値する重罪であったが事後に閣議決定承認され正式の派兵となった。


満鉄線路爆破は軍事行動の口実を作る三文芝居だが石原莞爾中佐ら関東軍の作戦参謀は事前に北満を偵察して準備周到に綿密な占領作戦を計画していた。

また関東軍作戦参謀は華北の国民革命軍 第13路軍を買収し反乱を起させ張学良軍の満洲駐留兵力 約23万の半数以上の大部隊を山海関内に誘出し、満洲を手薄な状態にする陽動工作も成功させる。

1931年10月8日 奉天を放棄した張学良が拠点を移し東北軍の兵力が多数集結していた錦州を石原莞爾中佐が司令機に搭乗して作戦指導を行い関東軍の爆撃機12機が空襲した。

1932年2月 越境した朝鮮軍の増援で管轄外の北部満洲に進出、ハルビンを制圧占領。


張学良が指揮する東北辺防軍の総兵力約45万に対して、関東軍は増援を含めて1万数千名程の兵力であったが、国共内戦の為に対日戦に兵力を割く余裕が無い張学良は日本軍の挑発と衝突を避けて殆ど抵抗せず、関東軍は僅かな兵力を以って難なく日本本土面積の3倍を有する満州・東北全域を制圧占領した。


袁金鎧の奉天地方自治維持会、煕洽の吉林省臨時政府、張景恵のハルビン東省特別区治安維持委員会の東北三区が中国国民党政府からの分離独立を宣言する。



満州国建国
1932年1月28日 中国国民党軍 第十九路軍が上海付近に進出駐留し、日本人僧侶襲撃事件や排日暴動から租界の日本人居留民を警護する日本海軍陸戦隊に第十九路軍が銃撃して陸戦隊に90数名の死傷者を出す第一次上海事変が勃発していた。


1932年3月1日 関東軍の石原莞爾主任参謀らの主導のもと「王道楽土」「五族協和」をスローガンに東北三区の政都として長春を新京と命名、満州族出身で清朝最後の皇帝 溥儀が国家元首として政務を執り、日本に国防・鉄道・通信の管理を委ねる親日国家 満洲国が建国される。


1933年3月 国際連盟創立以来の原加盟国で常任理事国でもあった日本は国連の総会で満洲を支那の一部分とする撤退勧告を受け国際連盟を脱退する。

その後、当時の国連加盟独立国は60ヵ国程でアジアやアフリカは欧米の植民地が殆だが、満州国は中華民国南京国民政府をはじめ植民地を除く23ヵ国から承認された。

1934年3月1日 満洲国は溥儀が皇帝に即位し満洲帝國となった。

独ナチス党や伊ファシスト党を強く批難し対立していた時のローマ法王 ピオ11世のバチカン市国は枢軸国のドイツやイタリアより早く1934年から満洲国を承認している。

1932年4月 満州国軍が創設され治安維持と国境警備に当たり、日満議定書により国防は関東軍が担い、日本人将校が満洲国軍の軍事顧問や教官を務め、部隊長等は日本軍から転籍した将兵が任官する事もあった。

当初、部隊構成は軍閥の配置を踏襲したが陸軍軍官学校が設立され将校を養成、満洲国国民の満州族、漢族、蒙古族、ウイグル族、白系ロシア、日本人、朝鮮人、台湾人が入学した。

後の韓国大統領 朴正煕(日本名は高木正雄)は新京の満洲国軍軍官学校を首席卒業後、東京の帝國陸軍士官学校を卒業、関東軍部隊に配属され見習士官として勤務した後、満洲国軍の少尉に任官奉職し中尉に昇進して終戦を迎えた。

また奉天の満州国軍軍官学校には丁一権や白善燁が入学し、後に彼らは韓国軍の主力中枢として朝鮮戦争で指導的役割を果し、韓国陸軍の第19代までの歴代参謀総長は全て旧日本軍若しくは満州国軍出身者で占められている。


嘗て国民党 蒋介石は日本に留学し帝國陸軍に籍を置き砲術や用兵を学び日本に亡命経験もある反共親日であった。

1936年12月 共産党と密かに接触していた張学良と楊虎城は西安で蒋介石を拉致監禁し息子の蒋経国も留学先のソ連に人質に捕られ、それまで日中友好と反共討伐の政策を推進して満洲国も黙認した蒋介石の国民党は共産党軍との内戦を停止、国共合作と排日抗日政策に転換する。


欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと民国政府や軍閥内に潜り込んだ共産党員は北・中支各地で日本軍を挑発して日中開戦を嗾ける。

1937年7月 北京 盧溝橋で通達済の夜間演習中に日本軍駐屯部隊を国民革命軍 第二十九軍の兵士が狙撃、抗議と解決協議中にも迫撃砲を撃込まれる 盧溝橋事件と中国人自治政府保安隊が在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した 通州事件を起こす。

同年8月 上海停戦協定を破り、非武装地帯にトーチカと強固な要塞線を構築したドイツ軍事顧問が指揮する最新装備で完全武装した3万の国民党中央軍の精鋭が上海国際租界の日本人居留区を包囲攻撃する 第二次上海事変 を起した。

ソ連の南侵を警戒する石原莞爾ら事態不拡大派の意に反して日中は全面戦争に突入する。




ノモンハン事件
満州国建国以来、満州・ソ連国境のアムール川(黒竜江)では越境上陸し乾岔子島を不法占拠したソ連軍に日・満軍が応戦してソ連軍砲艦を撃沈した乾岔子島事件や満州東南端の朝鮮に近接する豆満江とハサン湖間にある国境不確定な緩衝地帯の丘陵に陣地構築を謀り越境侵攻したソ連軍を日本軍が撃退した張鼓峰事件などの国境紛争が起り、満州・蒙古国境西部フルンボイル平原では哈爾哈(ハルハ)廟事件など国境哨戒中にモンゴル軍の侵犯挑発に拠る銃撃戦が頻発していた。

1939年5月11日 ハルハ河付近 ノモンハンの国境係争地で満州国軍 国境警備隊とモンゴル軍の交戦に端を発し、両国を支援する日本軍とソ連赤軍に拠る大規模な軍事衝突に発展する。

この突発的な武力衝突に即応してソ連軍 第57特別軍団は戦車、装甲車、自走砲、機関銃狙撃兵、モンゴル騎兵団を投入してハルハ河西岸に榴弾砲を据えて架橋した東岸に陣地を構築した。

日本軍は第23師団捜索隊、歩兵大隊、輜重輸送部隊、山砲、速射砲、重機関銃、満州国軍騎兵の混成支隊を送り、戦車を伴うソ連軍の装甲部隊と戦闘になる。

衝突直後は日本軍が戦闘に勝利して東岸に応急陣地を構築したが、日・ソ両軍ともに指揮通信の混乱から統制を失い組織的な展開や戦闘の連携がとれず、分散した各部隊が個々の判断で攻撃・防御と孤軍奮闘する。

ソ連軍に火力で劣る日本軍は夜襲を掛けて反撃、上空では九七式戦闘機が空戦でソ連軍機に圧勝を続けて日本軍航空隊が制空権を抑え機銃掃射や哨戒偵察、陣地爆撃で地上軍を航空支援した。

日本軍の増援攻勢を警戒した ソ連・モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退して5月の大規模な衝突は一時的に終息する。

第一次衝突の損害

日本軍 戦死傷者 約290名 装甲車 2輌 トラック 8台 乗用車 2台 速射砲 1門

ソ連軍 戦死傷者 約370名 戦車・装甲車 13輌 トラック 15台 火砲 3門



第二次ノモンハンの衝突

6月20日 戦車を伴う十数輌のソ連軍装甲部隊とモンゴル軍騎兵が越境し、集落内にある日本軍の宿営地を砲撃、日本軍は速射砲と機関砲で応戦し戦車・装甲車4輌を撃破、越境部隊を撃退する。

この頃、ソ連軍は日本軍飛行場への越境爆撃と小兵力の地上部隊を侵入させては威力偵察攻撃を繰り返し、452輌の戦車と装甲車旅団を投入する大規模な侵攻を準備していた。

ソ連軍を指揮するのは第一次衝突を観察分析酷評、二次侵攻を緻密に計画して地上及び航空戦力を増強して関東軍に挑み、後に屈強なドイツ第6軍をスターリングラードで包囲、モスクワ侵攻阻止、東部戦線からドイツ軍を駆逐し自らベルリンに入城、「ソビエト連邦英雄」の称号を受けて上級大将、元帥まで昇り詰めるゲオルギー・ジューコフである。

冷酷なスターリンが認める冷徹な司令官ジューコフは容赦なく自軍兵士を銃殺処刑の督戦を行い、勝利の為には兵の生命、兵力の消耗を厭わず間髪を容れぬ打撃重視の電撃戦を得意とする。


日華事変勃発で中国戦線に兵力を抽出していた日本陸軍中央の満・ソ国境紛争の不拡大方針に関東軍は第6軍と第23師団、第7師団の一部で衝突に対応するが、実際は一個師団程度の兵力であるのに対してモスクワの国防部は第57特別軍団にジューコフの要求以上の増援を送り込み、最終的にソ連軍は8個師団を投入した。


関東軍はソ連軍の火力と機動力に対して第1戦車団の戦車2個連隊を増派、自動車化歩兵大隊、歩兵1個連隊、独立野砲1個連隊、工兵連隊、砲兵・高射を含む戦車(戦車73輌・装甲車19輌)を主力とする機械化混成部隊を編成、第23師団の別動支隊とする。

 
日本軍 戦車隊・装甲機械化部隊は第23師団本隊に先行してハルハ河の前線に向かう。

夏期の辺境モンゴルの草原、砂丘でのソ連軍の戦車・装甲車旅団との戦闘になった、ノモンハンの第二次衝突が日本陸軍の戦車対戦車、両軍機甲部隊に拠る近代的な集団機甲戦の初戦となる。


7月2日 ハルハ河東岸に進出した日本軍戦車連隊はソ連 第11戦車旅団の戦車・装甲車と交戦、ソ連軍戦車20輌、装甲車12輌、トラック20台を撃破しながら、西岸の砲兵陣地から強力な榴弾砲の激しい砲撃に前進出来ず釘付けにされた歩兵第64連隊を支援、ソ連軍の防御陣地を突破して東岸の野砲陣地を蹂躙し無力化する。

一方、ハルハ河の渡河作戦に成功し西岸に進出した歩兵中心とする砲兵、工兵の第23師団主力もソ連軍 第11戦車旅団、第8、第7装甲車旅団の攻撃を受け、戦車67輌、装甲車41輌を撃破撃退したが、東岸での戦闘で日本軍戦車隊も戦車30輌を喪失、関東軍司令部は前線から戦車連隊を後方支援部隊まで後退させた。

7月4日 第23師団は弾薬枯渇と退路遮断の危険性から橋を渡りハルハ河西岸から撤退を開始、以降、東岸での対戦車戦、砲撃戦、空中戦、空爆、夜襲、白兵戦、塹壕戦、高地攻防戦など激しい戦闘は 9月15日の停戦合意まで続いた。


第一次、第二次の参加兵力

日本軍 約30,000名 戦車73輌 装甲車19輌 歩兵中心の機関銃・野砲混成部隊

ソ連軍 約70,000名 戦車438輌 装甲車385輌 戦車主力の機甲・機械化部隊

加えてソ連軍は機動兵力だけでなく支援火砲でも圧倒しながら更に増派増強していた。


日本軍の損害 戦死傷者 約19,000名 戦車 約30輌 航空機 約160機

ソ連軍の損害 戦死傷者 約26,000名 戦車 約250輌 航空機 約360機


過去、ノモンハン事件はソビエト連邦が崩壊してソ連側の正しい情報が公開されるまで「ソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」と言われてきた。

関東軍から増派も僅かな第23師団に対してソ連赤軍 第57特別軍団のハルハ河での開戦布陣は戦車輌数2倍、装甲車13倍、榴弾重砲3倍、野砲も優勢で歩兵と航空機数は互角。

戦力で日本軍を圧倒しながらソ連軍は自軍の戦車兵の逃亡を防ぐ為に乗員ハッチを外から施錠し、戦線を離脱した兵の処刑督戦に火炎放射器まで使い、戦車1個旅団と装甲車1個旅団を損耗壊滅させて戦車2個旅団、装甲車3個旅団、化狙撃兵3個師団、空挺1個旅団の30,000名以上の増援を受けて、疲労した一個師団に勝てないならジューコフも赤軍政治将校も無能である。

戦車・装甲車が8倍以上のソ連軍に日本軍は軽装甲に小口径搭載砲の戦車戦、速射砲や機関砲に拠る正確な接近射撃と死力を尽くした肉薄戦の火炎瓶、地雷、手榴弾でソ連軍戦車250輌を撃破、多勢に無勢の空戦でも360機を撃墜した。

これは精神論ではなく、兵力、火力、装備の物理的な劣性に銃砲弾薬も不足する辺境最前線での日本軍歩兵、戦車兵、騎兵、砲兵、工兵、整備兵、航空兵達の技能技術を応用駆使した奮戦敢闘は称賛されて然る可きである。

尤も敵を侮り万策を講じず、最前線からの情報や意見具申を無視した上に己の失策と用兵の責任を部下に押付け腹を切らせる無能な軍司令官や師団長、作戦参謀などは万死に値する。

このような軍上層部の体質がポートモレスビー、ガダルカナル、インパールなど南方作戦で失う必要がない多くの皇軍兵士の命を失わせた。


1941年10月15日 停戦後の国境画定交渉に於いてノモンハン以北は従来の国境線、南方地区は停戦前の日本軍の占領地は満州国の領土とする満州国に有利な議定書がハルビンで調印され モンゴルは1,140㎡を領土を失うと言う結果になった。

日本は政府が関与せず、外地駐屯軍の一師団が対応し、ソ連が国家的な対日戦争として対応したノモンハンの領土争奪戦は日本の勝利に終わる。


「ノモンハンはソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」は共産主義左翼のプロパガンダである。


1945年 ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連赤軍が大挙し満洲に侵攻した。


1905年にポーツマス条約で南満洲鉄道の権益を獲得して以来、日本人が満蒙開拓開発を続けて40年の歳月で重工業を発展させ、辺境の荒野は近代的産業地域に生まれ変わった。

極東の近代国家満洲國は日本の敗戦まで13年間続いた。

旧満洲国 大慶で深々度の大油田が発掘されたのは日本の敗戦後であった。



関東軍の功罪
日本人は努力して匪賊が横行する無法地帯に産業を発展させ近代都市を作り、満洲は急速な発展を遂げたが、満洲の中国人や朝鮮人は支那軍閥政府の圧政に苦しめれていた。

条約や外交により権益を保証されるのは当然だが、相手が約束を守らない中露であるうえに内戦で混乱中の一時的短命政権とは条約も外交も機能不全に陥いり、大陸では権益や家農地などの資産どころか人権や生命の安全すら保障されなかった。


五族協和を謳い満洲国の建国を目指した石原莞爾は日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきで国民党の蒋介石と共闘し中国共産党軍を抑えソ連の南下を阻む為に中国戦線不拡大を主張した。


皇軍を裁可無く、軍事行動に使った関東軍高級参謀らの独断先行は正当化できない。

しかし中ソは条約を破り、日本が日清・日露の戦役で多大な犠牲を払い正当に得た権益を脅かし、移住した日本人と朝鮮人に危害が加えられ満洲鉄道警備と邦人保護を目的として派遣されていた治安維持軍である関東軍が指を咥え放置する事はできなかった。

古来、山海関 即ち万里の長城東外の関東・満洲は漢民族の土地ではなく、軍閥は徴税収奪しても保護統治せず、民国政府の施政権下にも無かった。

満洲国には漢族に反目する満洲族をはじめ赤化の圧政から逃れた来た白系ロシア人やユダヤ人、ソ連に抵抗する蒙古人、台湾や半島から移住してきた台湾人や多くの朝鮮人がいた。

満洲国に人種差別が無かったとは言わない、日本人の中にも職業や貧富の差別はあった。

大陸の覇権に出遅れていたアメリカも満洲の利権を狙い、ソ連は中国赤化による領土侵略を企み、支那軍閥と左右思想、民族間の勢力争いに中国人同士が殺し合っていた。

荒野を開発し満洲の産業発展と近代化に努力した日本は搾取する悪の帝国にされている。


果たして関東軍が行動を起こさなければ、居留民達は満洲で安全に暮らせたであろうか。

現地の居留民や関東軍からの緊迫する訴えに国際連盟常任理事国であった日本政府は南京政府や欧米列強の思惑に対し北京議定書、日清通商航海条約、満州善後条約、日英同盟に基づき国連や二国間交渉で政治的に大陸の権益を守る外交戦略を尽力すべきであった。

日本は例え再び三国干渉されても国際連盟を脱退したのは大間違いだ。



ソ連赤軍の侵攻に日本軍は邦人居留民を置き去りにして逃げた言う論調がある。

1945年8月9日 越境侵攻してきた圧倒的な兵力と重装備で優勢なソ連赤軍と中国兵に対して、日本軍はただ敗走したのではない、陸軍は南方方面の作戦に兵力を転用され、兵員不足に火力も不十分ながら各師団は最後まで抗戦し多くの連隊、部隊が全滅している。


ポツダム宣言受諾後、日本軍は一切の武力行動禁止が命じられたが領土拡大を企むソ連赤軍は侵攻を止めなかった。

千島・占守島では陸軍 第91師団、満洲から転出した戦車第11連隊と海軍警備隊が強力に抵抗しソ連赤軍を撃退して、日魯漁業の女子従業員達の脱出後に停戦、降伏した。


また北支・内蒙古の警備に当たっていた駐蒙軍司令官 根本博 中将は1927年の南京事件の際に無抵抗の命令を受けた日本軍が防御戦闘を行わなかった為に外国人と日本人が入城した中国軍の一方的な暴虐に遭い、婦女子は強姦され南京領事館付武官であった自身も領事館内で発砲され銃剣で突き刺されて重傷を負った経験から根本中将は停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下し駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍の攻撃も抑えて、4万人の在留邦人が内蒙古から避難し天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い避難民を守り抜いた。

1946年8月 終戦から一年後、北支那方面軍司令官を兼任していた根本中将は在留邦人の帰国と北支那方面の将兵35万の内地復員を終わらせた最後の船で帰還した。

1949年 根本中将は在留邦人と将兵の復員帰国協力また国体護持への恩義を蒋介石に返すべく台湾に渡り金門島の戦いを指揮し殺到する中共軍を撃破して台湾の独立に貢献する。



撤退には、優勢な敵に陣地や防衛線を突破された際、抵抗しつつ味方の損害を最小限に抑え戦線を後退する退却戦、または局所的な攻勢に出て敵の進撃速度を低下させる遅滞戦と急速に部隊を拠点まで撤退させ戦力を整える迎撃戦がある。

撤退に付いて行けない落伍兵や民間人が犠牲になる事は欧州戦線に於いても多くあった。

1946年4月迄、有効な日ソ中立条約を破って侵攻したソ連はクソであるが、条約を当てにし不穏な動きを察知しながら、居留民の夫人子供を退避させなかった政府と軍にも責任がある。


関東軍の罪は独断で軍事行動を起した事と条約を守らない強盗ソ連赤軍と蛮族支那兵に対し邦人の安全が確保される前に停戦を受入れ武装解除に従った事だ。

張作霖の爆殺は張学良の個人的な恨みと不信感を強め、より反目するようになった。

奉天軍閥を倒閥、武装解除し旧態に復すれば国際世論も敵に回す事もなかったであろう。

また早い時点で反共、北伐の蒋介石と手を結び、反ソ的な張学良との仲介も可能であった。


日本の歴史番組や左巻きが偏った思想で作った映画の中では日本政府と財閥や帝國陸海軍、特に関東軍は悪役にされ中共軍やパルチザンは正義と人民の味方である様に描かれている。

帝國陸軍は民間人を凌辱虐殺し、八路とソ連赤軍や朝鮮パルチザンは兵隊だけを殺したか。

日本降伏後の満洲を見よ

蛮族は葛根廟事件敦化事件小山克事件通化事件牡丹江事件麻山事件を起こした。

敗戦の結果、内地の農村で貧困に喘ぎ、満州・大陸に夢と希望を求めて移住した人々は家財総てを失い家族や命まで失う事になった。

帰国出来た人達は幸運であり、無事に日本に帰れなかった方々が沢山いる。


戦勝国を名乗る中ソの蛮行は、一例も戦犯として裁かれる事は無かった。

戦後、中共と日本国内の左巻連中が史実を隠蔽し、70年経った今でも南京事件は捏造水増しされ反日のプロパガンダに都合良いツールとして利用している。

全てを日本の侵略悪業にして共産主義者と偏狭左翼は尼港事件も無かった事にするな。

共産主義とは分け合うのではなく他人から奪い盗り恥ずかしげも無く嘘をつく事か。

祖父は停戦命令に拠り武装解除され、八路に外套、時計、万年筆など私物を身ぐるみ剥がれたが、まだましであった。

近所の叔父さんは火事場泥棒のソ連赤軍の捕虜となり終戦後に8年間もシベリアに抑留され強制労働させされラーゲリで足先を失い痩せ細って帰還した。

ソ連は約107万人を終戦後に抑留し強制労働させ、約34万人の日本人を殺している。


「武装解除に応じず最後まで戦って死んだ方が良かった。」

叔父さん達はシベリアの冷たく固い土を掘り戦友の亡骸を埋めながら涙を流した。

帝國軍人は戦場で戦って死ぬ覚悟をする。

しかし火事場強盗のソ連に強姦され、扱使われて命と領土まで盗られる覚えはない。

日本人なら帝國と陸海軍を一方的で阿漕な侵略者と決めつけず史実と経緯を検証すべきだ。



欧米列強は支那の植民地化を企み中国人に阿片を売りつけ中毒にして奴隷の如く搾取した。

支那軍閥は権力勢力争いに明け暮れ国家を分割破壊して山賊の如く庶民から略奪し農民から糧を徴収し殺し犯した。

日本は満洲鉄道支線を延長し鉱山を開発、ダム、工場、農場を作り産業を発展させ雇用を産みだしインフラを整備し、銀行、学校、図書館、病院などの公共事業施設を街に創り未来に投資した。


日本やドイツ、現在の韓国、フィリピンはアメリカの傀儡国家なのか。

満洲国を傀儡と言うならば、他国の力を借りて独立し保護された国は皆、傀儡国家になる。


独立主権国家であっても援助支援を受ける国の影響を受け傾倒するのは当然の事だ。

親日、親米、親ソ、親中国家になり、同盟、連邦を構成し、自治州に取込まれるという形もある。

戦後、NATOとワルシャワの条約機構で東西に別れ資本主義と共産主義は互いに牽制してきたが、東側共産主義陣営の縛りは厳しいものであった。


中共は自治州・解放と言う欺瞞と武力で統治し、チベットやウイグル自治区に独立を絶対に認めず、思想粛清と人権弾圧を行ない独立運動を潰し他国からの暴力的弾圧に対する抗議を内政干渉だと跳ねつける。

戦前、大日本帝國、大英帝國、ロシア帝国、帝政を敷く国だけでなく、国外に覇権を求めて植民地を持つ国は総て帝國主義であり、列強と並び日本も国際連盟常任理事国であった。


敗戦で日本は帝國主義侵略国家と呼ばれ続け戦後、多大な賠償と国際貢献をして来たにも拘らず中露の政治戦略的な妨害により未だに敵国扱いされ国連常任理事国になれないでいる。



民主主義独立主権国家である日本が何時まで戦犯国扱いされるのか。




太陽の帝国 上海事変 に続く。


日本の近代史・戦史を書いたブログ

Empire of the Sun 1   「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

Empire of the Sun 2   「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

Empire of the Sun 3   「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 4   「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 5   「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 6   「太陽の帝国」その6   大和出撃

Empire of the Sun 7   「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 9   「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件
Posted at 2013/10/12 17:39:41 | コメント(1) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年09月11日 イイね!

TOKYO 2020  7年後の日本

TOKYO 2020  7年後の日本9月7日 ブエノスアイレスで開かれた IOC総会。

2020年のオリンピックは東京に決まった。

ライバルのイスタンブール、マドリードも、それぞれに政情、経済不安の弱点は有った。

東京には震災からの復興と言う強みと同時に放射能汚染と言う不安がIOC委員達には有った。



IOC総会直前の6日に韓国政府は福島など8県産の日本の水産物の輸入禁止強化を発表

韓国メディアは「世界に迷惑を掛けている日本は五輪を辞退するべきだ」と批難した。


東京の勝因は日本の国際信用と熱心なロビー活動の積重は勿論のことである。

最終プレゼンテーションも決め手となった。

昔から猪瀬都知事は好きになれないが、高円宮妃久子様のスピーチを始め、アスリート達の体験談やスポーツへの熱い思いが伝わった。


IOCのオッサン達は流暢なフランス語で話す、滝クリの「オ・モ・テ・ナ・シの笑顔」でイチコロだ。

「私は日本人度が強いです。」

と自ら語る自分の地元神戸出身の彼女は日本人に生まれた事に誇りを持っている。


そして今福島第一原発の事故に拠る汚染の心配を払拭させたのは日本国政府が責任を持ち東京の安全を保障確約すると言う、首相自らの公約、力強く自信に満ちたプレゼンだった。

プレゼン後の質疑応答でIOC代表委員から出た「安心の科学的根拠説明」の求めに対して

「under control」はオーバートークに聞こえるが「uncontrollable」とは言えない。

「situation is」であり「radioactive contaminated water」放射能汚染水とは言っていない。

IOCは7年後の2020年に東京で開催される場合の選手団やスタッフ、観光客、運営の安全と安心を確認したのであって「今日、現在の原発周辺での安全を保障しろ。」と言っているのではない。

これで消費税が上げ易すくなった、五輪で潤うのは企業だけ庶民には恩恵が無いだと?

小さいな。


東京が落選しても、何れ消費税は上がる。

今、増税したくないのは、デフレ脱却、経済再生を第一目標としている安倍内閣だ。

また日本の首相は消費税を上げる為に原発事故の処理を放置し復興を蔑ろにして五輪招致応援に遥々ブエノスアイレスまで出掛けたのではない。

寧ろ世界に対し事故処理と被災地の復興を日本の首相として公言し約束したのではないか。


国が、国は、国に・・・己は何もせず、文句ばかりタレる。

揚げ足を取って批判し、皇室の政治利用だとぬかす。


アホか。

英国、スペイン、デンマーク、世界の王室は自から五輪招致運動に熱心に参加している。


しかし陛下を己と中共の為に政治利用した小沢民主の非礼は許されない。


経済効果を産む五輪もサッカーもF-1も利益が生じる催しには政治が関わって来るもの。


これまでの不甲斐ない日本の歴代首相達に比べ、ハッキリ主張する安倍首相は良い。



DDH-181 護衛艦「ひゅうが」の飛行甲板上に人文字と日本に仇なす国が忌み嫌う旭日旗。
 

海上自衛隊も [ TOKYO 五輪 2020 ] を応援している。



日本国民なら、2020東京オリンピックを歓迎し、素直に喜んで欲しい。


五輪は単にスポーツの祭典ではない、開催中は世界中の目が日本に集まる。

東京でのオリンピック開催は経済効果と都市発展のみならず、スポーツの活性化や多国文化交流など子供達の視野も広げ、日本のイメージUPにも繋がる。


オリンピックには涙と感動がある。


スポーツでも祭典でも人が希望と目標を持ち、成功を目指し努力する事は悪い事ではない。


日本が前向きなり、上を向いて歩こうとしてる時に水を差して、何がしたいのか。



中韓が安倍首相を叩くのは勝手だが、日本人が日本の将来を叩くな。




勿論、五輪招致成功に浮かれていろと言っているのではない。

56年前と経済成長率も基盤も違い、五輪効果だけで日本経済が再興できるものでもない。

日本には解決しなければならない問題が目の前に山積している事は首相も解かっている。


チャイナリスク

今日、9月11日で沖縄県・尖閣諸島の国有化から丸1年となる。

国有化以降10日までに中国公船の領海侵入は63日(延べ216隻)

これを含め領海外側の接続水域への進入は259日(延べ1051隻)に上っている。

台風やシケがなければ中国公船はほぼ毎日尖閣周辺を航行し10日には今年4月と並び過去最高となる8隻が領海侵犯した。

海保は尖閣を管轄する第11管区に全国から応援の巡視船を派遣してきたが対応には限界がある為に海上保安官を増員し、2015年度末に600人規模の「尖閣専従チーム」を発足させる。

今年から、この専従チームに配属となる1000トン級以上の巡視船12隻の新造・整備に着手、平成16年度に掛けて別に10隻の新造船も見込まれる。

また国有化から今年6月末迄の9ヵ月間で中共軍機に対応する空自のスクランブルは306回に上り 前年同期(88回)の3.5倍に達し、ロシア軍機への対応数を上回っている。

今月9日には挑発を繰返す中共軍の無人偵察機が尖閣諸島の北東約200キロまで接近しており、防衛省は戦闘機と早期警戒機の部隊を強化する方針だ。

日本の防空識別圏に対抗し中共が防空識別圏を一方的に設定、主張して来る可能性が高い。

無論、領有を主張している尖閣諸島上空も含まれる。

また中共は五輪開催を楯に取り、尖閣に領土紛争を仕掛けて来る可能性がある。

以前、書いたように日本は粛々と尖閣、南西諸島をはじめ日本列島全体の対空対艦ミサイル配備、防空レーダー網の整備強化と陸上兵力の高機動化と海兵旅団編成を急ぐべき。


領海空侵犯など挑発に拠る五輪開催妨害にも充分に注意を払わなければならない。

同時に2020年の東京大会に向け、日本本土への入国管理、防疫、テロ対策、セキュリティーも強化すべきだ。



韓国は88年ソウル五輪開催に日本が10億ドルも資金援助したにも拘らず東京招致の妨害。

日本がやること全て反対妨害する韓国は他国の五輪に干渉する前に己の行く末を心配しろ。

北の核弾道ミサイルによる朝鮮半島有事に雪の無い冬季五輪など洒落にならん。

2018年の平昌冬季オリンピックに経済効果がある日本は協力しろ。と言うな。

韓国は経済危機に陥っても二度と日本に擦り寄って来るな。

韓国がFIFAを買収して無理やり日韓の共同開催にしたワールドカップの悪夢は御免だ。  

反日は自由だが下らん反則と放射能汚染などケチな嘘を拡散、誹謗中傷して妨害するな。


「ロ・ク・デ・ナ・シ・」

原爆投下や自然災害を称賛、不幸な放射能漏れ事故など被災者への嫌がらせを外交カードにする下劣な民族に正義など無い。



「オ・コ・ト・ワ・リ・」w

フェアプレイと言う言葉も知らぬ韓国、が東京大会をボイコットしたければすれば良い。

韓国には素晴らしい皇室も、優れた政治家も、滝川クリステルもいない。


紛争、災害、経済危機・・・7年後の2020年まで何が起るか分らない。










Posted at 2013/09/11 23:22:24 | コメント(8) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年08月15日 イイね!

End of War    終戦の日

End of War    終戦の日1941年12月8日 帝國陸海軍は真珠湾攻撃とマレー作戦を開始

日本はアメリカをはじめとする連合国との太平洋戦争の戦端を開いた

今から68年前の今日1945年(昭和二十年)八月十五日 

4年近く続いた太平洋の戦いは日本の降伏で終戦を迎えた。

1937年(昭和十二年)7月7日の盧溝橋事件を発端として始まった

支那事変、中国大陸の戦いは、既に8年間に及んでいた。

日本の敗戦は、第二次世界大戦の終わりでもあった。


多くの民間人を巻込み、敵味方の兵士の血を流した先の大戦を美化するつもりはない。



日本軍将兵は、祖国日本の正義と勝利を信じ、戦友と助け合い、極寒の北方、大陸、険しい山岳、猛暑の南方の地で過酷な任務、行軍に耐え、果敢に戦い銃弾と飢餓、風土病に倒れた。



そして多くの将兵が海に沈み、空に散り、遠い異国の土となり、生きて故郷の地を踏む事が出来ず愛する家族との再会を果たせなかった。

多勢に無勢の玉砕、十死零生 一殺必中を期し爆弾を抱いて航空特攻、水上特攻に赴く若者達。


「靖国で会おう。」 

今、貴方達は英霊となり靖国で戦友達と再開し、愛した日本を見守り静かに眠っている。


自分は国と家族の為に戦い命を捧げた貴方達を誇りに思い感謝し、貴方達を絶対に忘れない。



戦闘に巻込まれた方、空襲に焼かれ方、敵味方に関係なく、この戦争で亡くなった総ての方々の

御冥福を心から御祈り致します。




Posted at 2013/08/15 21:44:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年08月09日 イイね!

Empire of the Sun 9 「太陽の帝国」 運命の瞬間

Empire of the Sun 9 「太陽の帝国」 運命の瞬間「太陽の帝国」 大日本帝國 の続き。

帝國海軍技術士官であった氏を偲んで生前にお聞きした話を故人の手記より抜粋し数回に分けて書いている。

故人の回顧録、戦争・第三部「大和出撃」の続き。

戦争・第四部 「運命の瞬間」

1945年(昭和20年)8月9日 
その日、私は大村海軍航空基地の岸壁で佐世保より到着した機材の陸揚げを監督していた。

当時、佐世保工廠造船部の部員だったが同じ鎮守府である海軍大村航空基地での作業を支援する任務を与えられ部下を連れて出張していた。


実はこの機材は昨日到着の予定であったが部下の不手際で一日遅れ今日になったのだった。

お陰で作業は遅れ、また今日も長崎へ出張する予定が延び延びになってしまった。と口の中でブツブツ言いながら海の彼方を眺めていた。
 
その時だ、ピカリと黄色い一閃、続いてドーンと強烈な響きを体に感じて、ハッとして地に伏すと南の岬の彼方、長崎の方角に真っ白いキノコ状の雲が立上がり、その真ん中に火の柱が紅に巻き上がり続いて地を這う土煙が、じわりじわりと盛り上がっていった。

それは短い一瞬であったが時系列を追ったパノラマの動きは、五十年たった今日でも、色鮮やかに脳裏に焼き付いている。

「これは6日に広島に落とされた原子爆弾だ」と直感した。

しかしその時は、まだ長崎が被災地だという実感は無く、この瞬間、これでまた多数の人が命を失っただろうという、憤りと虚無感を抱いて私は呆然と立ち竦んでいた。

あの土煙の下、数万の人命が失われた事を後で知った。

長崎が直撃されて、地獄の惨状だという情報が入ったのは数時間たってからだ。

予定通りにこの日、長崎へ出張しておればその中に巻き込まれたはずだ、それが部下の不手際で伸び、悲運が一瞬ずれたと知った時、私の運命を左右する「何か」の存在を感じた。


「被災者救済」
その夜、佐世保鎮守府の命により長崎から大村駅に運ばれる負傷者を配下の工廠のトラックで大村海軍病院へ送る作業に従う事になり、駅に出向き列車の到着を待ったが、なかなか来ない。

漸くにして駅に着いた客車と貨物の寄せ集めの列車にはケガ人が、ぎゅう詰めに溢れて連結部から機関室までも負傷者がしがみ付いていた、その人達を労りながらホームに降ろす。 

殆ど皆、裸に近くシャツらしいものを纏っていても短冊、あるいはボロボロに裂けていた。

裸の人の背中が真っ赤な色だと思って見ると皮膚が剥けて海藻のように垂れ下がっている。

「痛い、痛い」と辛さを訴える呻き声、「水をくれ、水を」と言う幽かな声。

まさに駅の周辺は地獄の様相、残酷で虚しい夜だった。

この人達を海軍病院へ運んだが、後で聞くところによると、このケガ人の殆どは亡くなったという。

 
「長崎行」
一日おいて、被爆の日より三日目、トラックで長崎に向かった、人を尋ねてである。

当時、佐世保工廠から長崎の刑務所に、船舶用の小型構造物の製作を委託していた。
その指導監督が私の責任であり、部下の技師二名を刑務所に派遣していたのだ。

あの日、その状況を見に長崎へ行く予定になっていたが佐世保の部下の手配の不手際の為に中止せねばならないことになり、生死のすれ違いという運命が生じた次第だ。

部下の二名の安否が心配で、それを確かめに、長崎へ行くことを独断で決めた。
大村から長崎までは、車で三十分の南下行と予想される行程である。

長崎の街が近づくにつれ周りの雰囲気に何か異様な気配を感じ、ふと振り返りハッとした。
それまで青々と見えていた山の斜面が、首を回して反対側から見ると、赤茶けている。

つまり長崎に向いた面が赤い、長崎側が焼き焦がされているのだ。
これは落とされた爆弾の熱風に拠るもので、原子爆弾なる物の凄まじさを感じさせられた。

街に入ると、その凄さは増々強まった。
今まで佐世保、北九州都市の空爆被害の跡を見ている。
そこには焼落ちた残骸、鉄骨建築の名残、嘗てここに街が在ったと思わせる物があった。

だが此処の原爆の跡は違う。

街の爆芯地に入ると、そこにあるのはただ瓦礫、一望の間、瓦礫の原っぱ。
全てが完全に破壊されたという印象で、ここに街が在ったとこと想わせる物は何も無い。

人の遺骸がまだ放置されており、焼け焦げた牛が腹を膨らませて転がっていた。

漸く刑務所の跡を探し充て、其処で部下の一人を見つけた。
怪我をしたが何とか生き延びたと言う。

仲間の遺体を焼いた、しの夜、彼と遺骨と共に佐世保へ帰った。

それから数日後、日本は敗北を宣言した。

その数日後、原爆の下をどうにかを生き延びた部下も死んだ。


「数年後」
終戦後、私は神戸の造船所にいた、業界は昭和三十年代に輸出船ブームを迎える。

それに先だつ時期に我々技師は英語会話の勉学に追われ、キリスト教会の牧師の指導する英会話グループに通った。 と言っても、立派な教材や、テープ・レコーダの無い時代だ。

無茶苦茶にしゃべって度胸を鍛えるのが唯一の勉強だ。
この教会で「英語スピーチ大会」が行われる事になり、私も応募した。

演題は、「That Tragic Day」 あの長崎被爆の悲しく忘れる事の出来ない日々の体験談。

未だに脳裏にコビリついているキノコ雲、火の柱、大村駅に辿り着いた悲惨な被爆者の群。

皮膚が垂れ赤く剥げ、水を求める幽かな声、瓦礫と化した長崎の街、荼毘に立ち上る煙。

瓦礫野でやっと見つけた部下のことなど忘れられない悲憤を私はブロークンな英語で語り、最後に「如何なる者に他の人種を悪魔の原子爆弾に拠って殺戮する権利ありや」と結んだ。

スピーチの後、「You’re very brave」と言って、握手を求めてきた外国人がいた。

それが何れの国の人だったか、残念ながら覚えていない。

思えば、まだ原爆を大っぴらに非難する事が出来なかった時期だった。

次の日、会社へ米国情報局CIAの職員が訪れ人事部長に面談を求めて来た。

「Kawashima という Communist を出せ!」 と、居丈高に迫ったという。

「川嶋はいるが、Communist (共産主義者)ではない彼はNavy Officer (海軍士官)だ。」と言ったら黙って帰ったよ」と、学生時代に相撲部の主将だったという人事部長は豪快に笑った。


私が部下の不手際で予定が延び悲運とすれ違ったのは、運命を左右する「何か」の存在がある。と前段に書いたが、実はこの様に紙一重でのすれ違いの体験は戦争中、この他に何度もあった。

その様な環境の中で私を生かした、この存在とはなんだろう。

宗教心強い人なら、神様、仏様のお陰と、信仰の世界にのめり込んで行くだろう。

しかし私にはそれがない。 

だが私は、一口に言えないが、「何か」”Something Great”と言うものがあると思っている。

その存在が私の下に「出来の悪い部下」を配し、それが一連の運命的な結果を生み出した。

戦後、色々な仕事に従い多くの部下を持ったが出来の悪い部下ほど大事に扱ってきた。

被爆三日目の放射能が残る長崎に入り、終日過ごしたが、二次的な放射能障害が無かったのか、と聞かれるが機能障害を患う事なく八十余歳の今日まで生き延び頭の毛も残っている。

それは、あの日、長崎へ出発する時に宿舎の寮母さんが大きな握り飯と満杯の水筒を持たせてくれた、私は、それで終日過ごし、現地の水や炊出しに触れなかったからだと思う。

聞く処に拠ると直後に現地入りした応援の医者や看護婦は被曝した現地の水や食糧を喫し、二次的放射能障害を被ったという。 

これも ”Something Great”が、命じたものか。 私は人生を振り返った。


・・・・・以上、故人の回顧録より。 





68年前の今日 昭和20年8月9日 広島に続き二発目の原子爆弾が長崎に投下された。

改めて亡くなられた総ての戦没者の方々の御冥福を心からお祈り致します。





1945年8月9日 日本の空

大戦末期の頃、帝國は日本周辺の制空海権を失い本土上空も既に日本の空ではなかった。

米軍は「飢餓作戦」をB-29長距離戦略爆撃機で日本全国の軍港、貿易港、瀬戸内海や関門海峡に12,000個以上の磁気と音響機雷を投下、潜水艦の通商破壊と共に日本の海上閉鎖を行っていた。

威力偵察、制空戦闘目的で飛来したP-51 マスタング、F4F ワイルドキャット、F6F ヘルキャットなどの米戦闘機は鉄道や工場等を空襲しただけではなく、非戦闘員と目視確認できる低空から婦女子を機銃掃射で殺害した。 


この日、原爆投下の第一目標を小倉、第二目標を長崎として爆弾搭載機である 「Bockscar」観測機「Great Artiste」、天候偵察機(小倉)「Enola Gay」、天候偵察機(長崎)「Laggin' Dragon」、撮影機「Big Stink」、爆弾搭載予備機「Full House」(硫黄島待機)計6機の Silverplate B-29 Superfortress が、米軍占領下の北マリアナ諸島 テニアン島 ノースフィールド飛行場の滑走路を飛び立った。

(テニアン島の米軍上陸占領 B-29の配備に至るまではテニアンの戦い に書いている。)


07:40 新型爆弾搭載機 「Bockscar」と観測機「Great Artiste」は屋久島上空の合流地点に到着して、40分待機したが撮影機「Big Stink」と会合できず、已むなく2機編隊で作戦を続行した。

7月に神戸に2回の空襲を行い、6日の広島への原爆投下に参加したスウィーニー少佐らの爆撃隊は前回の広島と同様、味方護衛戦闘機を伴っていない。

敵戦闘機の接近銃撃を阻む火器管制装置に拠る優れた防御火力と重厚な防弾・防爆力を備える スーパーフォートレス「超空の要塞」B-29は強力なインタークーラー付ツインターボ4発エンジンで対空砲火射程外の高々度を旧型戦闘機を上回る高速巡航で侵入する。

1942年4月に空母「ホーネット」から初めて日本本土空襲した ドーリットル中佐のB-25 Mitchell や B-17 Flying Fortress とは全く別世代の長距離戦略爆撃機である。

このB-29の性能に対して日本には優れた防空監視レーダー網が無く、迎撃に上がる帝國陸海軍の1段2速式スーパーチャージャー搭載の単発戦闘機は高々度で会敵、要撃するだけでも苦労し、第二撃や追撃は困難であった。


銀色の悪魔は、精神力では墜せない。

しかも悔しいことに、「超空の要塞」B-29は米国の標準、量産型であった。

空戦も既にパイロットの腕ではなく、科学技術と工業力の優位が勝敗を決した。

しかし高々度からの爆撃は精度を下げ戦果を得られ難い為、米軍は中低空爆撃に戻した。

帝國は機体と燃料、熟練搭乗員の不足に加え、陸海軍指令部は本土決戦に備えて戦力を温存して出撃を控える中、震天制空隊が武装を撤去し軽くした古い機体を使って体当り攻撃を敢行したが、多勢に無勢、然したる戦果は上がらなかった。


09:40 スウィーニー少佐の原爆搭載機「Bockscar」は、大分・姫島方面から投下目標である小倉の陸軍造兵廠上空へ到達する。

「Bockscar」は爆撃航程を繰返すも、前日の八幡空襲で発生した残煙が小倉上空に流れ込み靄に覆れていた為、爆撃手が投下目標の目視確認に3度失敗して45分間燃料を費やす。

結果、小倉上空の天候は徐々に悪化、更に「Bockscar」の燃料系統に故障も発生する。

また築城の零戦や芦屋の五式戦の迎撃戦闘機発進情報が確認され対空砲火も激しくなる。

10:30 投下目標を小倉から第二目標である長崎に変更、爆撃編隊は小倉上空を離脱した。



途中、「Bockscar」が急旋回して「Great Artiste」と空中衝突寸前のニアミスを起こした。

10:50 小倉を離れた爆撃隊は約 20分後には長崎上空へ侵入、戦闘機による要撃も対空砲火も無かったが高度1800m~2400m間が90%近く厚い積雲で覆われていた。

爆撃隊は「目視爆撃が不可能な場合は、太平洋に原子爆弾を投棄せよ。」と厳命を受けていたが、已むを得ず命令違反であるレーダー爆撃に切替ようとした時に雲の切れ間から一瞬、眼下に広がる長崎の市街地を確認、直ちに爆撃手の自動操縦に切り替え高度 9000mから手動投下した。




11:02 目標の長崎市街中心部工業地帯から約 3km 逸れた信仰心の厚い人が集まる平和な町である浦上地区の上空、高度約503mで、Mk.3 核爆弾ファットマンは炸裂。

この時、浦上教会の天主堂に礼拝に訪れていた多くのカトリック教徒全員が亡くなった。



原爆投下後「Bockscar」は衝撃波を避ける為、機体を北東に向けて急旋回と急降下を行い、後方の「Great Artiste」は爆発圧力、熱温度等を計測するラジオゾンデ3個を落下傘投下。

「Bockscar」と「Great Artiste」の2機は暫く長崎上空を旋回し被爆状況を観測、テニアン基地に爆撃報告を送信した。

14:00 残燃料が僅かになった2機は占領下の沖縄 読谷飛行場に緊急着陸、スウィーニー少佐らは日本本土爆撃と北アフリカで昇進したドーリットル中将に沖縄で面会する。

17:00 燃料補給と整備を終了し離陸 23:06にテニアン島に帰還した。


この様に様々の要因が絡んだ結果、長崎に原子爆弾が投下される事になった。


もし平地が広がる小倉市に投下されていた場合、北九州一帯と関門海峡を挟む下関市まで威力は及び、死傷者と家屋建築物への被害は広島の規模を超えていたと考えられる。

また原爆の投下目標として広島、長崎、小倉以外に京都、横浜、新潟も検討されていた。




帝國の落日

祖母は「おじいさんは国の為に戦い亡くなった」と話すが、「アメリカに殺された」とは言わない。

近所の叔母さんは、不可侵条約を平気で破り日本の降伏の混乱に火事場泥棒に来て、大陸にいた叔父さん達を長い間、シベリアに抑留し強制労働させて殺したソ連の事を「嘘つきの泥棒、共産主義は信用できない。」と言うが病院船や市民に機銃掃射を掛け焼夷弾で神戸の家を全焼させた米軍の事は悪く言わない。

アメリカに正義があった訳でもなく、GHQに洗脳されたのでもない。

それは戦争に敗れながら援助を受けた敗戦国である日本のアメリカに対する負い目と反省であり、「負けたから仕方ない。」と言う諦めだったのかも知れない。


広島と長崎でウラニウム型とプルトニウム型のそれぞれ別タイプの原子爆弾を使用したのは都市部で新兵器の威力を比較し放射能による影響を生きている人間で実験する為だ。


この時、既に3月26日から3ヵ月に及んだ沖縄戦で民間人 約10万人が亡くなっていた。

敗戦寸前の日本の都市への原子爆弾投下を連合国軍総司令官 マッカーサーやアイゼンハワーは「核爆弾を使わなくても勝てる、日本は降伏準備を始めている」と強く反対した。

独系・伊系米国人には触れず日系米国人だけを収容所に入れて日本に対し原子爆弾使用を考えたルーズベルトの後を継いだ民主党大統領トルーマンは反対意見に耳を傾けず、ポツダム宣言の前に政治判断で原爆投下を決定した。

広島・長崎の原子爆弾使用は本土決戦を唱える日本の降伏を早める為だけではなく、次の敵となるソビエトに対する威嚇であり米国の軍事力を大戦後の世界に誇示する目的もあった。


数年後、朝鮮戦争で越境攻撃を行っては旧満州に逃げ込む中国共産軍に対して原爆使用を求めたマッカーサー元帥をトルーマンは解任した。

トルーマンは、原爆の残虐性や中国人の命や倫理を考えた言う。

では何故、敗戦目前 虫の息だった日本の人口密集地に二度も核を使い多くの市民を殺した。

威力を見せ戦意を喪失させる事が目的ならば民間人の少ない島に投下すれば済む事である。

ルーズベルトは人種差別主義者でトルーマンは臆病な偽善者だ。 

彼の政治判断とは、中共・ソビエトとの戦線拡大を恐れただけだ。

もし日本で原爆を使っていなければ中ソは本格的に南侵し米国は躊躇なく核兵器を使う。


現場を知らぬ臆病な政治家が政治判断と称しボタンを押し兵隊と民間人が血を流す。


原子爆弾に拠る 広島の死者 約20万人 長崎 約15万人  


重慶やドレスデンと同じく戦時国際法で明確に禁止されている非戦闘員への無差別爆撃。

1945年(昭和20年)3月10日夜の東京大空襲では325機のB-29が来襲。

38万1300発 1783トンもの焼夷弾を投下して10万人の東京都民を殺した。



「火垂るの墓」 


1945年(昭和20年)神戸大空襲 罹災者54万人、死者8千人、負傷者1万7千人

当時、祖母と幼い母と2才の妹は葺合区から叔母の家に移り東灘区の本山で生き延びた。

母達は三ノ宮駅から岡山に疎開、終戦後に神戸に戻り、母方の祖父は大陸から復員した。

三ノ宮・阪急電車・布引・御影公会堂・石屋川・酒蔵・夙川・回生病院・神戸の街と言葉。

三ノ宮駅には母と同年齢で親を亡くし行き場のない戦災孤児が多く居た事を母に聞いた。

空襲と疎開、駅で置引きに遭い優しい巡査、防空頭巾を肩に掛ける母の写真は節子の様。

自分にとって「火垂るの墓」は他人の話しではなく、幼い節子が不憫で何十回も泣いた。

海軍に奉職した父方の祖父は南方方面で消息不明、音信不通となり帰って来なかった。

清太の父が乗る重巡洋艦「摩耶」は1944年(昭和19年)10月 レイテ沖海戦に於いて

フィリピン・パラワン水道で米潜水艦の雷撃を受け沈没している。

清太も駅で衰弱死、ドロップの缶に納められた節子の小さな遺骨は駅員に投げ棄てられた。





これら日本本土への戦略無差別爆撃は紛れもない国家に拠る民間人の大量虐殺だった。 

原子爆弾はキリスト教徒も捕虜となり広島や長崎にいた味方の連合軍将兵も焼き殺した。

こんな悪魔の兵器を作り使用する世界一の超大国に極東の新興島国が勝てるわけがない。



原爆投下後、間もなく帝國は降伏を受け入れる。

しかし仮に枢軸国が先に原爆製造に成功していたならば、日本やドイツも間違いなく使う。

国家が国益、道義や正義を理由に武力を行使して組織的に民間人の大量虐殺を起した。 


それが戦争だ。


太平洋戦争での日本軍将兵の戦没者 174万1千人 民間人 39万3千人

日本人 213万4千人の命を失い、 太陽の帝國は落日のように終焉を迎えた。


連合国・占領国の死者 約1900万人。

これほど多くの命を犠牲にしてまで戦い取る価値がある植民地、資源など世の中には無い。




戦争責任と正義

帝國は日本の領地権益維持と経済封鎖を破るべく、欧米列強の植民地支配下にある南方資源地帯の確保を目指して米英との戦端を開いた。

帝國陸海軍上層部には勝てないと解かっている対米戦を始めない理性と勇気が必要だった。

二・二六事件以降、皇道派を締め出した統制派軍部が統帥権を楯に大善を騙り軍政を敷く。

「君臨すれども統治せず。」

既に御前会議は大本営の立案を追認されるだけの形式的なものであったが、二・二六事件の決起部隊討伐発言に責を感じられた昭和天皇は国政により口を閉ざす様になられた。

米国の国力を知る山本五十六や栗林忠道ら駐米武官を経験した陸海軍の将官達は三国同盟締結と対米英参戦に強く反対したが、軍部は広い視野と国際感覚を持つ戦争不拡大派を中枢部から遠ざける。

開戦前、北進を唱え対ソ戦に備えていた陸軍は米領フィリピンやグアムを攻めなければ米国は出て来ないと踏んでいた。

近衛内閣と世論に押され中国大陸での戦線を拡大し泥沼に嵌っていた陸軍は蒋介石との和平交渉が潰れ、ドイツのフランス占領を期に悩みの種であった援蒋ルートの遮断を目的に仏ヴィシー政権政府と仏印総督の許可を得て仏領インドシナに進駐する。

蘭印・仏印の両植民地本国をドイツが占領した事は三国同盟を進める大きな要因となった。

また仮想敵を米海軍とし、一方的に軍縮条約を破棄して大型艦艇を次々と建造した海軍内で多数を占めた対米英強行艦隊派も日米開戦を望んだ。

仮想敵としながら石油と鉄の殆どを米国に依存していた海軍が艦隊を燃料の縛りなく運用するには南方石油資源地帯が必要であり輸送ルート上に位置するフィリピンの攻略が不可欠であった。

日本軍の南部仏印への進駐に対する米国の対日資源禁輸制裁による艦隊への燃料調達の困難と真珠湾作戦遂行上、冬季北大平洋の天候不利を理由に海軍軍令部は早期開戦を進言した。


日米開戦を憂慮した昭和天皇は三国同盟に反対であった海軍大臣 米内 光政を総理大臣に陛下が信頼する畑 俊六の陸軍大臣留任を強く勧められ、米内内閣が組閣任命された。

しかし陸軍部内開戦派の圧力によって畑 俊六は陸軍大臣を単独辞職、海軍大臣 吉田善吾は病気で辞任し、陛下が信任、期待された米内内閣は半年で解散に追い込まれる。


「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世になど波風の 立ちさわぐらん。」

陛下は御前会議で開戦に明確に反対する御心を明治天皇が詠まれた御製で表された。

軍部は外交交渉に期限を限り、1941年11月26日 野村駐米大使がハル・ノートを受取る前日、連合艦隊の空母機動部隊は真珠湾に向け単冠湾を出撃する。


12月2日1700 発 聯合艦隊司令長官  宛 機動部隊指揮官 
本文 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 開戦は12月8日 と決定された。

12月6日 ルーズベルトから親電が発せられたが、故意に留め置かれ陛下の手元に届けられたのは真珠湾攻撃の30分前であった。


戦略なき戦術に戦局は次第に悪化したが大本営は陸海軍の大敗を国民に隠し嘘の戦果戦況を流し続け、自分達が見捨てた皇軍部隊の全滅を「玉砕」と美化して言論統制を厳しくする。

また陸軍参謀本部と海軍軍令部は互いに作戦失敗の責任を擦り合い互いの情報まで隠した為に、多くの作戦遂行に大きな支障を来した。

日米開戦に走った大本営作戦部中枢の無能なエリートは戦争を終わらせる方策は全く持たず、何処を戦争終結点にする目標もなく漠然と兵の命と国力を消耗し戦争を続けて行く。

それでも師団、艦隊末端の将兵は作戦に矛盾を感じながらも最前線で必至に戦い続ける。

大本営は沖縄占領、原爆を投下されて尚も徹底抗戦、本土決戦、一億玉砕を主張していた。

最後の御前会議で軍部の「国体護持」を求める抗戦派を諌め、ポツダム宣言を受諾し降伏を促されたのは開戦を憂慮し、軍政軍令一体に懸念を示され国民の将来を憂う陛下の御聖断であった。


終戦前日の8月14日 ポツダム宣言と終戦決定を受入れず本土決戦を主張する陸軍の若手参謀らが、近衛第一師団師団長 森赳中将と第二総軍参謀 白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令書を作成、警備の近衛歩兵第二連隊に宮城を占拠させ玉音放送を阻止する為にNHK放送会館に近衛歩兵第一連隊を派遣した宮城事件を起こす。

この宮城事件の朝にも陛下は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べられておられる。

阿南惟幾陸軍大臣は敗戦と宮城事件の責任をとり終戦の日に陸相官邸で自刃した。


しかし「軍部」と、一括りには出来ない。 

満州事変を画策した石原 莞爾は中国戦線不拡大を唱え、早期和平を望み日米開戦と三国同盟に反対した。

終戦に貢献した米内 光政は蒋介石の南京政府との和平交渉の打切りを強く主張して、日中戦争の泥沼化を招いた。

また中国戦線拡大と対ソ対米英の両面戦を主張した東條 英機は天皇絶対忠信者であり、陛下から戦争回避に力を尽くすように直接指示されると、それまでの開戦論姿勢を直ちに改め対米協調路線に変更、外交交渉に全力を尽くすも開戦を避けられず陛下に泣きながら詫びる。

開戦前から帝國陸海軍の軍部に於いても、それぞれ主張の違いと紆余曲折があった。

善悪正誤は一人物に存在するもので、戦犯も然り、誰が良い悪いと決める事は出来ない。

温厚篤実または好戦的な提督や将軍が実戦に於いて、必ずしも軍事戦略に長け戦果を上げる秀でた武人、優れた闘将だとは限らない。

軍人が戦争回避の為に意見具申、進言する事は良いが、政治外交に介入してはならない。

しかし開戦の責任すべてを陸海軍上層部だけに押付てはいけない。


日本を三国同盟と対米戦争へ進ませたのは一部の軍人だけではなく、ドイツのヨーロッパ電撃侵攻に靡き破滅行きのバスに飛び乗った政治家、マスコミ、財閥をはじめとする経済界と貧しかった国民自身だ。

戦争は麻薬である。

満州建国の夜、真珠湾攻撃の朝、ラジオの臨時ニュースに国民は喜び沸き万歳三唱する。

国民は総力を結集し家族の為、お国の為に死ぬ事に、一致団結した。


刀は抜くより、収める方が難しい、戦争を精神論と失業対策で始めてはいけない。


マスコミは開戦を煽り、無知故に翻弄される者、金儲けに走る輩の世論が戦争に加担する。

何時の時代も戦端を開かせるのは、過去、現実、未来を正しく見ない愚者達だ。

右翼は不必要に国威を発揚し、無責任な日和見リベラルと左翼の売国奴が国を売り滅ぼす。



欧米列強との地資源争奪戦に日本は敗れた。

アジアを侵略し現地民を奴隷の様に扱い搾取した白人連合国に正義が有った訳ではない。

新興小国日本の首を絞め上げ、アジアで植民地支配を続けた列強にも責任の一端は有る。

戦前の台湾、朝鮮、南満州鉄道及び付属地、樺太、千島列島、南洋群島は国際社会から認められた大日本帝國の正当な領土、及び統治権益地で武力により侵略したのではない。


支那軍閥は勢力争い国共内戦に明け暮れ分裂、義和団は再び青龍刀で居留民を襲う。

民国は国の体をなさず、条約協定を破り武力挑発を続け国際共同租界を包囲攻撃した。

スターリンはノモンハンで仕掛け日中米の衝突消耗を謀り中共を支援し南下の隙を伺った。

ブラウナウの伍長はドーバーを渡れずロシアの冬に泣き、日本に英印に出兵を要請する。

ルーズベルトは援蒋ルートで物資を送り、経済制裁と包囲で日本の首を絞め追い詰める。

英軍は仏領シリア・レバノンを攻撃占領しながら、許可を得た日本の仏印進駐を抗議した。

チャーチルはハルノートを書かせ米国参戦を画策し、日本海軍の真珠湾攻撃に歓喜した。

太平洋戦争には、それぞれの思惑があった。


国際連盟常任理事国であった日本は南京政府や欧米列強の思惑に対して北京議定書、日清通商航海条約、満州善後条約、日英同盟に基づき、国連や二国間の交渉で政治的に大陸の権益を守る外交戦略に尽力すべきだった。

日本は再び三国干渉されても国際連盟を脱退すべきではなかった。


クリミア半島で行われたヤルタ会談はミュンヘン会談から続く連合国の占領エゴ協定だ。

ルーズベルト、チャーチル、スターリンのヤルタ密約は東西冷戦と現在の領土問題を産む。

戦後も米国が沖縄返還を盾に日露の平和条約締結と北方領土の返還交渉に圧力を掛けた。



連合軍占領統治下の東京での極東軍事裁判に戦犯を裁く判決は有ったが正義は無かった。

中立国からの判事は一人も選ばれなかった。

連合国軍による無差別爆撃、病院船の雷撃、婦女子への機銃掃射、民間人や捕虜の虐殺と暴行はジュネーブ条約やハーグ陸戦協定に明確に違反しているが裁かれる事はなかった。

戦勝国側の行為はすべて不問した勝者に拠る、正義の無い報復の儀式は裁判ではない。

証拠証言も認めず一方的に裁いて決した戦犯、日本人は戦争責任、犯罪を裁けなかった。

戦争は善悪正義の有無、思想や精神力では勝てない、技術力と物量、戦略で勝敗が決る。


パール判事曰く「戦争の勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」正論である。






爆撃で亡くなった幼い弟を背負い、姿勢を正し唇をかみ締める少年の凛とした立ち姿。

日本人なら誰しも、この少年の悔しさと悲しみが分るはずだ。


あの時代、日本は少年だった。




終戦の日

毎年、8月になるとマスコミは先の大戦と原爆の悲惨、悲しみと過ちの反省を一斉に流す。

お盆と言う事もある、しかし戦没者が亡くなったのは暑い夏だけではない。

極寒のアリューシャン、千島、シベリア、中国、極暑熱帯の密林に山岳、南洋の孤島。

毎日、何処かで多くの日本軍将兵、大陸、沖縄、本土の空襲で民間人が亡くなられている。

過去を反省検証する事は絶対に必要だ、日本人は、この時期に感傷的、自虐的になる。

日本軍を鬼畜扱いした戦史にドラマや憲法改正と自衛隊を危険視する番組を放送する。


そして敗戦記念日には、靖国神社への参拝をマスコミは騒ぎたてる。

1985年に朝日新聞が書きたて間違った認識を煽るまでは靖国神社への参拝に言い掛かりはなく、日韓に慰安婦問題など存在もしなかったうえ、韓国人に拠る否定の証言もあった。

兵力、輸送力も不足する日本軍が慰安婦20万人 約10個師団を強制連行したと嘘を吐く。

しかも日本帝國軍には自ら志願した朝鮮人の軍人軍属 24万2,341名が含まれる。

帝國陸軍に自ら志願し戒厳令まで敷き日韓基本条約を締結した朴正煕大統領は売国奴か


上海市街爆撃・南京虐殺・黄河決壊、支那は自軍の蛮行を常に日本軍の暴挙と喧伝した。

南京の死者数は大量水増し捏造されているが、日本軍による殺害があった事は否定しない。

南京には民間人を装い日本人を襲う便衣兵も多くいた、国民党軍や八路も中国人、日本人を虐殺し朝鮮戦争、ベトナム、ボスニア、イラク、アフガンで東西両陣営の兵士は多くの民間人を殺した。

虐殺が行なわれなかった戦争など無い。

兵士による民間人の殺害は、今現在も発生している大きな問題である。

日本だけが70年前の事で反日国に内政を干渉され参拝を控える必要など何処にもない。

政治家に限らず明治以降、国に殉じた人に感謝し慰霊するのは日本人としての心の問題。


中韓は史実を捏造、改竄し、故意に外交の手段にしている。

日本は尖閣など領土侵略と同じ様に、中韓に対応すればよい。

参拝を控えても、中韓は盗みを止めない、通州事件を起こした蛮族に言われたくない。


外交や安全保障問題は他国の干渉や過去に捕らわれず、現状と未来を冷静に考えるべき。




日本の核武装と原子力平和利用

核兵器廃絶には賛成だが、しかし世界中の核兵器を総て廃絶する事は難しい。

核兵器は強力な軍事的抑止力になり、また核兵器を持たなくても平和にはならない。

貧しい国々、第三世界は通常兵器・兵力より遥に安上がり故に核兵器を欲しがる。

パキスタンはインドに怯えインドは中国を警戒し中国はアメリカやロシアに対抗する。

北朝鮮は長年苦労し嘘を吐き続け制裁を受けてまで一度手にした核兵器を手放さない。

当然、核弾道ミサイル東風を日本の都市に照準を合わせている中国もオホーツク海に戦略原潜を潜ませるロシアも核兵器を放棄しない。

北の核武装を阻止できないなら日本も核武装する。と言うのは中露に対して効果がある。

核兵器廃絶により軍事的均衡が崩れ、世界各地で紛争が起こり易くなる現実がある。

愚かにも人類の平和は核に拠って保たれて来たのが現状であると言っても過言ではない。


核兵器がなければ、いや人類に広島と長崎の惨劇の歴史が無ければ東西冷戦は熱い戦いとなり、米ソ代理戦争から直接戦争、第三次世界大戦、即ち核戦争に至っていた可能性は高い。



核武装を言うならば先ずは核弾頭つまり弾丸より、発射できる銃である弾頭を運ぶ巡航ミサイルや中長距離ミサイルはじめとする対遠隔地攻撃能力が必要。


自分は抑止の上で日本の核武装に強行に反対しないが非常に慎重だ。

また「目には目を」と言う、安易な考えと勢いだけで核兵器を構えてはいけない。

仮に日中が戦端を開き、人口14億の広大な国土に日本が数発の核ミサイルを撃込んでも中共軍は生き残り報復の核攻撃で日本は消滅する。

敵より早く多くの都市を攻撃破壊し、少しでも敵より多く生き残り更に報復する。

東西冷戦下の米ソに拠る核戦略には勝者はない。

軍用施設だけをピンポイントで狙える最新小型戦術核搭載の対地巡航ミサイルでも広島型の数倍の破壊力があり、戦術核の使用は外交交渉で話が付かない核保有国が相手なら倍返し以上の報復反撃を受ける覚悟がいる。

しかし日本周辺近海での通常兵器に拠る防衛戦闘に於いて日本は中共に負けない。

そして日米安保条約が有効な限り、中共は日本に対し核兵器を使えない。

戦略核は複数目標弾頭一発で100万人都市を消滅させる広島型の数十倍の威力がある。

例え憎むべき敵とは言え、核兵器を使い無差別大量に市民を殺す事など自分には出来ない。

核兵器を持つと言う事は、一瞬にして非武装市民を大量に殺し、殺される覚悟が必要。

覚悟もなく無責任に核武装を唱えるのは、広島・長崎に投下を決めた政治家達と同じ。

日本の核武装化に慎重なのは、自分に責任能力も多くの良民を殺す覚悟も無いからだ。

また核は抑止力になる反面、公言すれば相手に先制核攻撃の口述を与える事にもなる。

核武装を可能にする設備や技術体制を自ら「保持している。」「いない。」を公表する必要はない。

つまり核弾頭搭載可能な中長距離弾道ミサイルやトマホークなどの巡航ミサイルとミサイル潜水艦を近海に配備するだけで中身は通常弾頭であっても抑止力は上がる。

日米同盟が盤石で核の傘がある限り、結局は持っていても使えない核兵器ならば持つ必要はなく、抑止力だけなら持っている振りをするだけで良い。





しかし原子力=核兵器ではない、原発と原爆、被曝と被爆は違う。

日本は原子力の平和利用、技術研究は核廃棄物処理を含め続けるべきだ。

何時でも核武装が可能な潜在能力を保持する国であると周辺国に知らしめる必要がある。

原発を無暗に増やせと言っているのではない、それを言う政治家も今の日本にはいない。

地震と津波による未曾有の自然災害と設計や管理など人的ミスが重なり低脳政権が被害を拡大した今回の原発事故は「神の啓示」などではない。

原発即時全廃を言う者は、安全ではなく、安心を求めている。

やがて枯渇する化石燃料を使い、CO2の排出を続ける事に反対していた偽善エコロジストも批難の矛先を原発に変えた。


「原発を推進してきた国が悪い、責任をとれ。」・・・

これまで経済成長、安定電力供給の恩恵に俗して来た者達が澄まし顔で言うな。

先の大戦の石油禁輸、通商破壊戦、中東戦争にオイルショックを忘れたか。

エネルギーの自給力は資源を他国に求める国とって生存を掛けた死活問題になる。


空気より重たい航空機は空を飛ぶ危険な凶器か。

ドクターヘリもジャンボ旅客機も墜ちる時は墜ちる、自衛隊機や米軍機だけを叩くな。

軽自動車と戦車の事故死亡者数を比べても無意味、文明の利器は使い方次第で凶器になる。

火を恐れて使わない原始の猿人に未来も進歩も無い、使いこなした者だけが人類になれる。


原発を責める前に原発の安全確保とメタンハイドレートなど日本周辺の海底資源開発に国力を注ぐべきだ。

海外にエネルギー資源を依存するなら尚更シーレーン防衛に力を入れなければならない。


68年前、長崎で原爆の被害を目の当たりした海軍技術士官であり造船工学博士だった伯父さんは戦後、日本初の原子力船の研究開発の推進に携わった。

原子力実験船「むつ」 

少資源国日本の未来を開く技術研究実験は無知なマスコミに潰された。

1974年、青森県沖太平洋上で行われた初原子力航行試験中、原子炉出力を約1.4%に上げた時にストリーミングに因る極微量(0.002ms/h)の放射線漏れが検知され警報が鳴った。

この単なる実験試験過程に想定される極微量の放射線漏れを朝日新聞は大声で騒ぎたてた。

当時、試験航海に同乗した記者3人は「我々が乗ってなかったら事故は隠蔽されただろう。」と、今も自慢している。

「0.002ms/h?」「放射能漏れ?」「事故?」「隠蔽?」 お前らの脳ミソが放射脳だ。

「むつ」の真実については、また別の機会に書きたいと思う。




日本人の歴史認識

>私の下に「出来の悪い部下」を配し、それが一連の運命的な結果を・・・

伯父さんの回顧録には、現在の自分の個人的な立場や環境を再考させる話もある。


歳月が流れ、最近は実際に戦争を体験された方から貴重な話を伺う機会が少なくなった。

陸海軍にいた祖父や元上司から聞いた話は沢山ある、また一般市民である祖母、叔母に母の体験も参考になる。

戦争の悲惨さを後世に伝えなければならないと言う使命感を持って話される方もいる。

しかし戦争の体験も階級や所属、戦局、戦線、戦場、兵科、交戦相手に拠って異なり、それぞれ違った戦争観があり、また戦後受けた思想信条に拠っても表現は変わる物でもある。

仕事柄、滅多に旅行では行けない太平洋の激戦地にも行き、現地の老人から話も聞いた。

元米軍や元帝國軍人の韓国軍将校であった人とも知合い、色々と話ができた。


多くの方が亡くなった太平洋戦争の史実をドラマチックに脚色するのは映画TVだけでよい。

頭の中で作られた武勇伝も偏った左翼思想も必要ない、ただ事実だけを知っておくべきだ。 



天皇陛下に非礼な謝罪を要求し「原爆は神の懲罰」だと低脳が妄想する。

歴史を捏造し真実を捻じ曲げて嘘の証言を並べ賠償を要求する国が近隣にある。

日本にも自分で碌に史実を調べ検証もせず、反日国の虚言に同調して、日本の右傾化と騒ぎ自脳の左傾化に気付かない者がいる。

核兵器廃絶と原発即時全廃、日米同盟と戦争参加を一緒にして左翼は沖縄を利用するな。


紅い核は綺麗な核か。 

鉄道も安全に運行できず事証を土に埋め、無造作に原発、核兵器を増やす国には黙んまり。

中共は人民日報に「沖縄独立の勢力を育成する」との記事を掲載したが既に実行している。

日本の弱体化を画策して、核軍拡、侵略、原発増設、環境破壊、少数民族弾圧、言論統制を続ける中共の手先だ。

「原爆はいけません」「人殺しはいけません」「戦争はいけません。」

そんな事は小学生でも判る当り前の事だ、日本の学校は戦争の正体を教えなかった。

はだしのゲンも学校で先生に読まされた「天皇は人殺し、日本兵は悪魔、朝鮮人は善人」

一作者の漫画を平和教育と称し教師がついでに偏狭な思想まで子供に摺り込むな。

思想に関係無く描かれた「火垂るの墓」を一度見て欲しい。


戦は人類の歴史でもあった、石器時代から近代まで古来、人は様々な理由で戦をした。

人類は戦争に学び反省し、科学は進歩し、手にする武器や戦う理由も規模も変化して来た。

自由、平等、友愛などの美辞麗句を並べ臭い物には蓋をし歴史的検証もせず何を教えた。

学校と教師が考えない右へ倣えのバカや議論も出来ないアホな日本人を作ってどうする。

その結果「大量虐殺の侵略戦争を日本は猛省すべき」「アジア解放の為に始めた大東亜戦争」などと左右両極端な感情論を日本の戦後世代は持つ様になった。

近代史に無知な故に国策プロパガンダを伴う中韓からの謝罪要求に言いなりに謝罪する。

潔く非は認めて同じ轍を踏まないのが日本人だが、理不尽な要求に謝罪する必要はない。

ある一面だけを見て、戦争と歴史の全体を判断し国防安全保障を考えてはいけない。




日本の安全保障とアジアの平和

富国強兵が悪い訳ではない、独立主権国家として当然の権利である。

今の日本は国連会議場を退席したりしない。

日本が強い防衛力を保持しアジア諸国と協力して国民と地域の平和を守る事は正しい。 

これは戦争する為ではなく、大国からの侵略戦争を抑止防衛する為にも必要な事だ。


中共は機関紙人民日報に「尖閣のみならず沖縄も日本の領土でない、日本が不法占拠している」「サンフランシスコ平和条約は中国に拘束力を持たない、米国が勝手に沖縄を日本に戻す権利はない」と報じ、人民解放軍高官は必ず日本から沖縄を奪還すると発言している。

中共の対日強硬策を「先に日本が火を付けた。」「中国国内向けだ。」「単なる威嚇だ。」などと安易に決めつける左翼は己の発言に責任を取らず、沖縄の安全も保障しない。

現在も東シナ海・沖縄はシーレーン及び防衛上、日中にとって重要な要衝である。

しかし日本は二度と沖縄への侵攻を許し、市民を犠牲にする事はできない。



憲法が平和を守るのか

改憲は危険だ、改悪だ、軍になれば戦争を始めて人殺しに出掛ける、歯止めが効かない。

日本は右傾化して戦争をしたがっている!


そんな奴は日本人ではない。

中共の報道官に左に倣えの日本国内の左翼。

防衛力の強化と法整備を単純に同盟国の紛争に追従参戦、徴兵制度に結びつけるな。


戦後、日本人は憲法9条に縛られ、9条が有ったから戦争をしなかったのではない。

日本人が平和を愛し日米安保条約に拠る核の傘と自衛隊や米軍に守られていたからだ。 

日本は自国の防衛以外は、二度と戦争をしないと誓った国だ。

例え、憲法 9条が無かろうが軍隊を持とうが日本から戦闘を仕掛ける事はない。

しかし9条が有っても、攻めて来れば国民と領土を守る為に交戦する。

9条が有れば戦争にならないと思うな、平和と安全はタダではない。


日本国憲法は日本国民のものであり、宗教でもなく国際条約協定でもない。

日本国憲法は国民の権利を保障し、政治権力を縛る。 しかし外国には全く通用しない。

「戦争は怖いから先ず対話、外交で解決しよう。」 

外交努力をするのは当前の事だ、子供の喧嘩ではない。

「仲良くしよう、どんな国でも話合えば判るよ。」 

他国の領土を欲しがる強盗は軍事力の後ろ盾も無い話し合いが通じる相手ではない。


高級ブランド腕時計と服のポケットに札束を突っ込み背中に「日本人」と書いて外国を歩いてみろ


自分は「軍備を最優先せよ」などとは一度も言っていない。

賢い政治外交力と強い経済力が日本に一番必要だと言う事を大前提にしている。

己の安全運転だけでは事故は防げない、整備不良の車に保険も無く公道を走る奴はバカだ。

安全保障条約は万が一に備え加入する任意相互保険である。


集団的自衛権、俺が危ない時は助けてくれ、お前が危ない時は助けない。 

そんな虫の良い友情、友好条約、同盟関係はない。

何もアメリカが自国の国益の為、勝手に売った喧嘩を日本が買えと言うのではない。

集団的自衛権であり集団的攻撃義務ではない、自衛以外の戦闘攻撃に付き合う必要はない。

また友人ならば喧嘩しない様に止めるのが真の友情である。


隣国の軍事力と戦争に対する脅威が軍備を拡大させ、不信感と驕りから引鉄を引く。

他国の軍拡に合わせる軍事力の強化には限がない、無駄な出費に付き合う必要もない。

しかし、横暴な隣国に変な気を起こさせず、好き勝手にさせない為に、日本の身の丈に合った強力な抑止防衛力の保持と効果的な米国・アジア諸国との同盟関係とは必要だ。


国連は世界平和を守る正義神ではなく、侵略戦争や紛争を押える権力権限はない。

米国も世界の警察官ではなく、安全保障条約を結んだ自国益を優先する日本の同盟国だ。

どんなに優れた宗教、主義、憲法、条約、協定も、人が作った物は人によって破られる。 

自国の平和は他国の慈悲により与えられる物ではない。

年中、毎夜、枕を高くして寝られるのは、誰かが起きて守っているからだ。



新しい国日本

今の日本は開国以来、多くの人達の犠牲の上に成り立っている事を忘れてはいけない。

生き残った人達は敗戦の焦土から僅かな時間で日本を世界有数の経済技術国に復興した。

私達は、あの戦争で亡くなった全ての人達に恥ずかしくない日本にしなければいけない。

彼らの子孫、後輩である私達にも出来ると信じたい。

そうしなければ、日本の未来を信じ、国の為に命を捧げた人達に顔向けできない。

日本国は1952年 サンフランシスコ平和条約で主権を承認され生れ変わった新しい国。

戦後、新しい日本に生まれた今の世代、これからの日本人に過去の戦争責任はない。

これまで日本は反省し賠償責任を果たし迷惑を掛けたアジア諸国にも充分に貢献してきた。

極東の小さな島国であった日本はアジアで唯一、欧米列強の植民地支配に抗い、先進国白人連合を相手に国土が焦土と化すまで精一杯戦った。



何時まで日本人は敗戦を引き摺り、頭を垂れて歩かなければならないのか。


戦後 68年に及ぶ長過ぎる自虐的な懲役は、もう終らせるべきだ。


日本は何時までも、少年のままではいられない。



「太陽の帝国」 満州事変に続く。



日本の近代史・戦史を書いたブログ

Empire of the Sun 1   「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

Empire of the Sun 2   「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

Empire of the Sun 3   「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 4   「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 5   「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 6   「太陽の帝国」その6   大和出撃

Empire of the Sun 7   「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 9   「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件
Posted at 2013/08/09 12:27:57 | コメント(5) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年08月06日 イイね!

Ultra Super Manager  部長と女子中学生と無人島

Ultra Super Manager  部長と女子中学生と無人島暑い、とても暑い、今年も日本の夏は暑い。

日本列島の端から端まで真夏だというのに寒いお話し。

難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ、己の恥を書きませう。

先日、参院戦が終わり艦隊が移設を予定していた転進先の拠点から某候補者の選挙事務所が撤退した。

自分は移設先で設営隊や通信隊の工兵達と今後の作業と工程の打合をしていた時、しつこく電話が鳴った。

おい、仕事中にキャンデーを舐めるな。




うちの佐藤浩市(仮名)スーパー部長からだった。 

人物の再説明:彼は、超ド級のナルシストでマークXに乗りたがるが運転は超ドヘタだ。



部長「もしもし佐藤です。 全然、電話が繋がらなかったですが、今、大丈夫ですか?」

自分「どうぞ。」・・・・自分は部長の声と口調から、寒い知らせだと直感した。


部長「スミマセン、国体道路で事故しました。 プジョーが自転車とブツかりました。」


自分「無言」・・・・

「またかい。」と思い言葉も出ないが、この間も部長は一方的に話しを続けた。

部長「聞こえてますか? 交差点で中学生の女の子二人を跳ねてケガさせました。」

以前、書いた、「部長とオカマと裁判と選挙」 の事故から未だ日も浅い。

「また部長は、ヤリよるな」と、予想はしていたが早過ぎる。 

しかも人身事故とは寒い。 寒過ぎる。

自分「女の子を二人も跳ねたって、ケガの程度は?救急車と警察は呼んだか?」

部長「中学生と話をしてたら、おっちゃんが呼んで救急車と警察が来て終わりました。」
    
自分「無言」・・・・この間も部長は一方的に話しを続ける。

部長「ケガは足を擦り剥いたくらいですが・・・・・後、どしたら良いですか?」


事故は既に処理され、引き揚た後で部長もオフィスに帰っていた。

どしたら良いですか?って・・・・・保険会社に報告せんかい。

部長「車は、あんまり凹んでないです、このままでも平気、全然、気にならないです。」

自分「無言」・・・部長は一方的に話を続け、自分は相手の被害を査想した。

部長「女の子のケガは軽いと思うけど自転車は少し曲がったかも・・・

自分「女子中学生の親には連絡したのか?

部長「いいえ、でも女の子のお父さんが病院に来こらて治療費の話をされたので

『こちらの責任で治療費を出すので免停にしないで下さい』と確り頭を下げて謝って

お父さんに『スグに病院代が要る』と言われて1万円を渡しました。」


前回の事故より部長も少しは成長した様に思われたが、それは自分の錯覚であった。


自分「事故の状況を初めから詳しく説明してくれ」と事故を把握する為、話しを聞いた。


部長「めっちゃ雨が降っていて・・・

傘をさした女の子二人乗りの自転車が左側の坂道から交差点の真ん中に飛び出して来て

思い切りブレーキ踏んだけど自転車がプジョーのバンパーの左側の前に当って扱けました。

めっちゃ雨に濡れて自分の服もビショビショになりました。 

相手のお父さんはヤンキー風でしたけど良い人です。」


自分「相手の親の風体は関係無い。部長はどんな運転して何キロくらい出していた?」    

スーパー部長の「良い人です。」は、何時も充てにならない。

部長「この前、タクシーと事故したばかりだから、慎重に運転していました。

急ブレーキでブツかる瞬間は5キロくらいだったから女の子もスリ傷くらいで済んでます。

もしチャーリーが運転していたら、もっと大事になっていると思う」と続けた。


自分「部長は、いったい何処を見て運転してたのか? 

自転車が目の前に来るまで気付かないのは信号を見てなかったのか?

それとも黄色信号で突っ込んだのか?ステア操作でも回避したのか?

今、ヘタクソなチャーリーの運転技術は、どうでもいい。」 と問い正した。


部長「ブレーキ踏むだけで精一杯で雨の日にハンドル切ったら怖いし余裕もないし。

でも絶対に信号無視してません、信号は完璧に青でした!

事故を見ていた工事のガードマンのおっちゃんが救急車と警察に連絡してくれたんです。」


自分「それなら青信号の交差点を直進通過中の部長に中学生は傘さして自転車2人乗り

坂道を下って来て赤信号を無視して交差点に突っ込んで来たという事なのか?」


部長「そうですよ、おっちゃんに聞いて貰ったら僕が悪くない事は分ります。」

自分「無言」・・・・・

部長は自分に「僕は安全運転をしていた」と事故の弁明を続けていた。

自分「じゃあなんで部長は悪くないと思ってるのに相手に「こちらが責任を持ちます」

「免停にしないで下さい」って頭を下げ金まで渡したんだ。」と少し怒り気味に聞いた。

部長「社長に何度も電話したけど全然繋がらないし・・・

前の事故の時、社長にきちんと相手に謝罪しろって言われたし!

免停にされたら困るから謝ったんですよ!!」て・・・逆ギレ口調に。

あのなぁ・・・・・

自分は、また目眩がしてきて倒れそうになり言葉を失ったが気を取り直し部長に話した。

自分「今日、部長から着信履歴は無いぞ。

前の事故は信号で停止中のタクシーにオカマ掘った部長が悪い100/ゼロの事故やろ

しかも相手はタクシーで今回は全く状況が違うぞ。」

部長「でも車と自転車が事故したら、車が悪くなるなるでしょ、免停にされたら困るし」

自分「あのなぁ、確かに車と自転車が事故したら免許制の車が不利になる。

でも軽車両の自転車にも道交法を守る義務がある。

罰金は裁判所、行政処分の決定は公安委員会で相手の親に決める権限はないぞ」

部長「僕、そんな事、知らんかったし、法律に詳しくないし・・・」って 

は?、コレは法律云々より、世間の常識、大人の知識やろ・・・Orz。

自分「こちらに速度違反も薬物飲酒も整備不良も無いし目撃者もいる。

赤信号無視で突っ込んで来られて仮に人身事故で送検されても不起訴になる。
    
目撃者のガードマンさんは現場に来た警官に証言して調書に記載されてるのか?」

部長「警察が来た時、おっちゃんは昼飯に行っていなかったから、分らないです。」

自分「おっちゃんの名前住所と電話番号を聞いているか?」

部長「いいえ。」

自分「今からスグ現場に戻って、おっちゃんに会って話して来い」

部長「それで、どしたら良いですか?」って・・・・Orz、Orz、Orz、Orz、Orz。

自分「おっちゃんの名前住所と電話番号を聞いて、現場の警官に事故の状況を説明したのかを確認して、もし説明してなかったら、もう一回、警察を呼ぶか、おっちゃんに頼んで仕事が終わるのを待って一緒に警察署に行って事故調書に証言を記載させんとアカンやろ。」


部長「はい、分りました行ってきます。 免停になったら困りますから」

自分「相手の方が青信号だと主張して診断書を出したら免停より先に送検、裁判になる。

そうならない為に、目撃した第三者の証言は大事になる。

それから警察に行った時に相手の事を被害者さんとか自分が責任を取るとか言うなよ。

加害者としてではなく、人として相手の見舞いには一度行って来い。

でも賠償しますとか、こちらに過失が有る様な話し方や免停の話しも二度と口するな。

相手がまた賠償の話しをして来たら「保険会社から電話させます」以外はもう喋るな」    

・・・・マジで疲れる。




車は動いている限り相手が自転車や歩行者なら例え相手の赤信号でも過失を問われる。

判例では、0:10ではなく、1:9~2:8の過失割合になる事が多い。

こちらは相手の通院費と自転車の修理代の過失割合分を支払わなければならない。

また自転車の後ろに乗っていた子への責任は自転車を運転していた者にもある。

そして、こちらの車の修理代も過失割合分を支払って貰わなければならない。

今回は任意保険を使う心算はなく、気の毒だが相手には自賠責を請求して貰う。

しかし相手の親が自分の子供をきちんと叱り、おかしな要求や虚偽の事故申告をしなければ自分はプジョーの修理代を請求はしない。


恥を忍んで事故部長の事を書いたが、神戸では自転車をブツけてお年寄を寝た切りにさせてしまった母子家庭の少年と保護者に対し裁判の判決で多額の賠償支払い命令が下された。

自転車に乗る、お友達の皆さんや御家族は充分、安全に注意して下さい。

今時は自転車にも高額補償する対人対物保険があるので加入するのも良いと思う。




「大丈夫、ケガはないから。と言ってくれて、とても良い人です。」

と部長から聞いていた前回の事故相手のタクシー運転手は一ヶ月以上経った今でも通院請求をして来ると保険会社から報告があった。

それを聞いて「マジで~!?」と言った部長はスマホを新しく買い替えはしゃいでいた。

自分は彼に「このオカマ事故で、また保険の料率が上がったぞ。」と告げた。 

しかし、彼は保険料率どころか、強賠と任意保険の違いも知らなかった。



この事件で自分は彼を、スーパー部長から、ウルトラスーパー部長に昇進させる事にした。



翌日、ウルトラスーパー部長と二人で事故現場を見に行った帰り道の事。

海技士船舶免許更新で途中にある写真屋さんに自分の証明写真を撮りに寄った。

部長「小型船舶免許は何年更新ですか? ジェットスキーの免許は難しいの?」

自分「5年更新、ジェットだけなら今は特殊小型船舶で乗れると思う。 

小型なら一級でも学科や実技も簡単だが・・・何で? ジェットスキー買うのか?」



部長「買わないけどジェットスキーは旅行先でレンタルするにも免許は要るでしょ?

いくらくらいで取れるかなぁ? 何人乗れるの?」って、目を輝かせた。


自分「講習は5,6万で有るんじゃないか、2,3人乗りが多いな。

けどジェットで誰と遊ぶんだ?」


部長「嫁や子供を後に乗せてやったら喜ぶでしょ、遠い無人島にツーリング行きたいなぁ」



嘘こけ。  

部長の目は一段と輝き、明らかに家族から遠く離れた南海の楽園を想像していた。


自分「水上バイクは沿岸から2マイル以上、沖に出られんから遠島への旅行は無理。」


部長「2マイルって何キロ? どうやって岸からの距離を測るの?

ガソリンをいっぱい持っていったら大丈夫と違うの?」


自分「1海里は1.852m、距離は1時間に一度、停船して岸からタコ糸を張って測る。

燃料と3日分の水食糧を積まないとツーリングは認められず、保安庁に逮捕される。」

と、自分は面倒臭いので嘘八百馬力を言った。


部長「マジで~?結構ややこしいなぁ。この前、遭難した辛坊ちゃんは免許は持ってたの?

太平洋横断は勇気とお金がいるねぇ。 休みもいっぱいいるし。」


ううううう・・・・・

部長の話しを聞いていると、ガリガリ君5個を一気に食べた時より頭が痛くなる。

自分は「彼は特殊中型船舶と元局アナだから一級無線通信士と放送局免許も持ってるよ。」

と、テキトーに答えて話しを強制終了した。




事故った次の日に無謀な企てを俺に話すな。

ジェットにはブレーキは付いてない。

ステアとスロットル、荷重移動で障害物を回避しなければならない。 

水上バイクの操縦は部長には無理だ、衝突、転倒してケガするか遭難する。 

先ず陸上をマトモに走れる様になってから言え、日本の海上保安庁は暇ではない。


「御迷惑をお掛けしました、この国に生れて本当に良かった。」

なんて部長の口から聞きたくない。




先日、チャーリー2等兵の資格取得の為になる無料講習会の案内があり、本人が行きたいと希望したので、事務所から申し込んで2日間の講習会に行かせた。


チャーリー は「講習会に行ったので、代休を取らせて貰います。」って・・・


貴様ら~!。。。



資格講習は組織の研修会ではない、資格や免許は個人の物で個人の財産になる。

普通は「仕事を休んで講習会に行って宜しいですか?だろうが??」と言って聞かせたが、

チャーリーは遠慮なく、別の出勤日に休んだ。

どんな理由でも休みは前もって申請すれば必らず認めて来たが、この神経には首を傾げる。

これまで自分も色々な免許資格を取って来た。

しかし、仕事を休んで自分個人の免許取得試験や講習、更新に行って代休を要求した事など一度も無いし、そんな奴を見た事もない。

出勤扱いにして貰えるだけでも、有り難い事だった。




ウルトラスーパー部長は夏休みも冬休みも、誰よりもウルトラ スーパーロングに楽しむ。
 
突貫工事と移設、登記変更、免許変更、決算、事故処理、裁判と仕事はいくらでもある。

だが二人とも頭の中は既に夏休みである。

「何か私にも出来る事はありませんか?」と言う言葉を、たまには聞いてみたい。

「仕事は自分から探して作るものだ」と話したが誤りだった。 

撤回するから、もう要らん仕事ばかり作るな。 

上司が真剣に仕事の話しをしている時くらいは、オネーちゃんのケツを目で追うな。



以前は「少数精鋭」「臨機応変」「弱音は敗北の始まり」等が自分のモットーであった。

船を降りて陸に上がり様々な業界で従事し、自営隊長としても多くの部下を率いて来た。

部下が宗教習慣の違う全員外国人だった事もあるが職務遂行や意思疎通に障害はなかった。

その頃より、今の彼らと仕事する方が日本語を使わない外人部隊にいる様だ。

自分の知りうる限り彼らはある意味に於いて間違いなく「最強の兵士」「最強の2トップ」

実は、もう一人、業務班に特殊部隊出身の「最強のコマンド」トニー・アルカイダがいる。

これが我部隊の「爆弾三銃士」である。

彼らの会話と行動は、人の頭をおかしくして社会の常識を覆す、彼らは無敵だ。

毎日、地雷を踏む彼らと一緒に戦場には行けない。

背中を撃たれそうで前方の敵より、後衛の味方に脅威を感じる。

密林で未開人を率い行動を共にしたカーツ大佐の統率力とカリスマ性、孤独が理解できた。

優秀な部下を持ちクールに仕事ができる、キャステロ主任が羨ましい。

 


ソフトはハードを超える事は出来ない。 人の能力は車のチューニング同じ。

人には越えられない壁がある。 残酷な悲しい現実である。

 


やれたら、やり返す、倍返しだ。 

しかし、やられて自分の部下に倍返しするような上司は、部下より無能だ。


部下の恥は上司の恥、部下のミスは上司のミス、職員要員は組織の看板であり鏡。


愚将の元には優れた兵は集わない、これ総て本職の不徳の致すところである。



「そんな奴、おらんやろ~ アホか~w」と、よその兵なら笑っておしまい。

だが、自分の部下は笑い飛ばせない。 


要員が変われないなら、組織が業種を変えるしかないのか。

しかし、お笑い芸能事務所にしても、ボケばかりでは漫才にもならない。 

未開の彼らには何か隠された能力が有るかも知れない。

彼らの覚醒を待ち能力を引出そうとう思った。


が、「それは無い。100%絶対に無い。」

と祈願する神様に僅かな可能性も完全に否定された。

うちの部隊には、BもCもなく、伝説の「特攻野郎 Aチーム」しかいない。

8月末の部隊転進移設を考えると、頭が猛烈に痛くなる。 


関連企業は既に真珠湾に向け出発したが、自分は今年も内地で「日本の夏、緊張の夏」





皆さんは楽しい夏休み、大切な御家族を交通事故や水の事故から守ってあげて下さい。



追記 ウルトラスーパー部長の伝説は真っ赤な十月革命に続く。
Posted at 2013/08/06 12:10:47 | コメント(6) | トラックバック(0) | 稼業 | 日記

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「朝、伸び過ぎた髭も剃らずにお出掛け。
「お誕生日おめでとうございます♡」と言って
くれたのは交通安全協会のおネエちゃんだけ。
自費で5年前と同じ免許証入れのプレゼントw
毎回、焦りまくりボタン連打の深視力検査ww
今年もなんとか運転免許更新を無事にクリア。」
何シテル?   05/25 16:15
元・気楽な海上サラリーマン  現・厳しぃ陸上自営隊  時々・トランスポーター 
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