
実はクマおやじ、農業高校の出身です。
在籍していたのは園芸科だったのですが、実習では園芸以外の野菜、花、畜産、農業機械等も経験していますし、授業(座学の方ね)でも上記の科目は必修でした。
従って当然、畜産系の授業も受けていましたし、つまりは
「口蹄疫」
がどんなに恐ろしい病気かそうしてそれがもたらす被害も存じているつもりです。
今、宮崎県の酪農家の皆さんがどんな想いで日々生活をされているかを考えると、大変心が痛いです。
でも、やはりこの病気…
我々の様に農業の現場から離れている者にとってはどうしても「他人事」の様に思えてはいないかな?と考えます。
そこで、大きなお世話かもしれませんが、この病気で何故東国原宮崎知事があんなにも必死の形相で支援を要請しているのか?
何故そんなにも深刻なのかを下に転載した文章によって知って頂きたく、今日の記事としたいと考えております。
長文ですが、是非一読頂ければと思います。
以下Yahoo!ニュースより転載
<口蹄疫>
東国原知事、
宮崎県内に非常事態宣言
5月18日11時59分配信 毎日新聞
東国原英夫知事は18日、家畜伝染病の口蹄疫問題で非常事態宣言を宮崎県内に発令した。知事は会見し「このままでは本県畜産の壊滅はもちろん、隣県や九州、さらには全国にも感染が拡大する可能性を否定できない」と理解を求めた。
非常事態宣言では、畜産農家には不要不急の外出を控え、一般県民にも農家訪問の遠慮や車の消毒、各種イベントの延期を求めた。口蹄疫ウイルスは人には感染しないが、人を介して偶蹄(ぐうてい)類に広がる可能性があるためだ。今回の非常事態宣言は法的根拠に基づくものではなく、協力依頼に当たる。
以上Yahoo!ニュースより転載
宮崎には県知事から自衛隊が「災害派遣」要請を受けて、出動しています。それは何故か?
と言う事が、恐らく下記の転載記事から読み取れると思います。
以下日経ビジネスオンラインから転載
口蹄疫、
「生き地獄」の現場から
好転の兆し見えない宮崎県川南町から町職員が報告
蛯谷 敏、河野 英樹
口蹄疫 宮崎県川南町 生き地獄 殺処分 埋設作業 消毒
口蹄疫(こうていえき)――。牛や豚、羊、ヤギなど蹄のある動物に感染する、ウイルス性の病気である。家畜が感染すると、発熱や口にできた水ぶくれなどの症状によって餌が食べられなくなり、肉量や乳量を激減させる。非常に伝染力が強く、蔓延を防止するためには、発生した農場で飼育された家畜はすべて殺処分するよう、法律では定められている。
家畜農家を震撼させるこの伝染病が、今年4月、宮崎県で見つかった。最初の感染が確認された都農町から、隣接する川南町、えびの市へ広がり、約4週間たった現在も、一向に収束する気配が見えない。
現場では一体、何が起きているのか。最前線で対応に当たる宮崎県川南町役場の河野英樹氏が、発生から現在までに至る経緯をまとめた手記をご覧いただきたい。(5月16日までの状況。蛯谷敏=日経ビジネス記者が再構成した)。
何気ない電話のやり取りで始まった
口蹄疫発生の日から25日以上が経過した。今もなお、収束の気配は見えないが、現在に至る宮崎県川南町の様子と、その間に私自身が体験した出来事などを中心に振り返りながら、今なお見えない相手と必死で戦い続けている川南町の現場の状況を記す。
この作業を通じて、真面目にコツコツと家畜を守り育ててきた農家が直面している状況を知っていただきたい。また、私たちの大切な故郷が、全国の方々に心から応援していただけるよう、環境を整えていきたいと思う。
■4月20日(火)
2010年4月20日早朝、私の携帯に知人からの電話が鳴った。
知人:「尾鈴農協内で何かがあったかもしれない…。農協主催の宴会が立て続けにドタキャンになったそうだ。今までにそんなことはなかったから、君なら何か知ってるんじゃないかと思って電話したんだけど。何か思い当たる節はない?」
私:「はあ? 全く知りませんよ。もしかして…、農協職員が不正な経理をしていた、なんてことじゃないでしょうね(笑)。まあ、宴会のドタキャンが連続したのはただの偶然でしょう。とりあえず情報持ってそうな人に探りを入れてみますね」
当時は、この友人との何気ない電話のやり取りが、大きな問題のスタートになるとは、思ってもみなかった。
「沈静化するだろう」大きな危機感はなく
友人:「隠したってすぐ判るから言うけど…。隣の都農町(つのちょう)で、口蹄疫に感染した牛が発見されたんだ…。家畜伝染病の口蹄疫が…。」
私:「本当に!? 本当に口蹄疫に感染したのか?」
友人が言ったとおり、その数十分後には、検索サイト「Yahoo!」のトップニュースで、「宮崎県で口蹄疫に感染した牛が見つかる!!」といった内容の記事がアップされていた。
宮崎県では10年ほど前、口蹄疫が発生したことがある。だが、当時は事態が速やかに収束した。このことが頭の中にあったため、今回も「適切に対応すれば蔓延せず、沈静化するだろう」と大きな危機感も持たなかった。若干の心配を感じながらも、どこかで「きっと大丈夫!」という気持ちでいた。
■4月21日(水)
午前8時30分、役場応接室において緊急の「課長会議(役場組織内の代表者会議)」が召集された。
私は、早朝から宮崎市に出張していた上司(課長)の代わりとしてこの会議に出席した。会議の内容は、「口蹄疫」に感染した牛が、川南町でも発見されたので、ついては、その後の処置対策に役場全体で取り組んでいく、というものだった。
対策は、各課から男性職員を中心にした班体制を編成し、農場付近を中心に消毒ポイントを設け、立ち入りを規制する監視業務を24時間体制で実施するものだった。これによって、蔓延防止に取り組むという趣旨だった。
立ち入り規制、監視という初仕事
見渡すと、召集された各課長の表情が一斉に厳しくなっていった。「何としても蔓延防止に全力で努めなければならない」、との決意がそれぞれの表情にも現れていた。
その一方で、「大丈夫、大丈夫。冷静に、確実に、適切に対処していけさえすれば、絶対に蔓延することなんかないって」と互いに声をかけあいながら励ます姿もあった。その言葉を自分に言い聞かせているようにも感じた。
この会議が終了すると私はすぐさま職場(町民課)に戻り、会議で発表された内容の報告とともに、当日の午後2時から24時間体制で急遽対応しなければなくなった「家畜防疫業務の割振り」などを整え、通常業務は残ってもらう職場のスタッフにお願いし、あわただしく現場に向かったのであった。
私の職場である「町民課」に与えられた仕事は、当該農場並びにその付近への立ち入りを規制する監視業務である。監視時間は、午後2時から午後10時まで。この時期には珍しく、夕方から冷たい雨が降りしきっていた。口蹄疫対策は、寒さに耐えながらのスタートになった。
この時は、まだ被害の急拡大など予想する人は誰もいなかったと思う。やがて、日付が変わる度に「口蹄疫発生農場」が次々と発表され、殺処分する牛や豚の埋設作業などが当初の計画(県から派遣された人員数など)では追いつかない状態となった。そして、役場職員までもがそこに出向かなければならない状態となった。
「畜産のため、川南町のためじゃかいね」
■4月23日(金)
この日は、午前6時から午後2時までの8時間、人や車両の通行を制限する監視業務にあたった。
発生から3日目を迎え、近隣の方々は不便な状況に少し慣れた様子だった。とはいえ、予告も無く突然実施された通行規制などの措置に、戸惑いや不満もあったことだろう。そんな不満をおくびにも出さず、「畜産のため、川南町のためじゃかいね(だからね)、遠回りになるけど協力せにゃいかんもんね(しないといけないもんね)」と、見ず知らずの私に対して、優しい言葉で語りかけてくださった。地域の方々に、深く感謝をせずにはいられなかった。地域の絆を感じた業務であった。
■4月25日(日)
殺処分した牛の埋設作業は終了した。だが、発生農場は飼育する際に使用した(使用する予定だった)飼料や家畜の糞尿、関係用具類も地中に埋設しなければならない。そのための追加的な作業に初参加した。
例年よりかなり涼しい日々が前日まで続いていたのだが、作業当日は天候が良く気温も上がったため大量の汗を流した。慣れない作業にかなりの疲労を感じた。
新たな作業班の拠点を作るため、川南町で最初に発生が確認された農家(最初の対応だったので殺処分、埋設、施設消毒など、すべて終了していた農家)の自宅前まで屋外テントを取りに行った。すると、そのお宅の方々が、片付けを続けているところに遭遇した。
真っ赤に腫れ上がった農場主の目
その農場主は深々と頭を下げられた。「ご迷惑をおかけします、我が家の牛の殺処分などでは本当にお世話になりました。本当にありがとうございます」。
その時の農場主の真っ赤に腫れ上がった目を、私は忘れることができない。
それは何日も眠らずに作業を続けてこられたことも理由の1つではあるだろうが、法律で定められているとはいえ、大切な牛たちを一度に処分しなければならない悲しみから人知れず泣き続けたであろう、充血の瞳であった。
「真面目に酪農に取り組んでこられた人々が、なぜこんな被害に遭遇することになったのか、こんな苦しい思いをしなければならないのか」。その姿を目の当たりにした私たちは、すぐには何もできない無力さに、歯がゆさ、辛さを感じた悔しい1日となった。
■4月28日(水)、29日(木)
2日間にわたり、殺処分された牛の埋設作業に従事。
今回は、大規模肥育農場での発生であったために、処分された牛の量もこれまでよりもかなり多く、大変な作業の連続となった。そして、この頃から、大きな問題が浮上するようになった。発生農場が所有し、埋設場所とする土地が近くにないケースが出てきたのである。埋設場所を探す新たな事務的な作業や必要になった。
家畜を殺処分することが決定していても、埋設場所が確保できていないと、農家は土地が見つかるまで飼育し続けなければならない。「いずれ殺すと分かっている家畜に、餌を与え続ける」という行為は、農家にとっては想像以上の負担である。
また、殺処分を待つまでの間、感染した家畜が周辺農家へ新たな感染を引き起こす可能性も否定できない。今回の感染が当初の予想以上に広がっている1つの原因はここにあると思う。
5月2日(日)
当初の予定では、私は「休み」であったが、電話がかかってきて、急遽、役場に出勤するように、との命令があった。
発生が続いていた地域以外(比較的離れた地域)で、口蹄疫の発生が確認されたのである。これに伴い、「新たな消毒ポイントを増設せざるを得ない状況になったので、その人員配置を至急するように」との指示を受けた。
喧嘩腰で怒鳴られ、残念な気持ちに
すぐさま、町の対策本部から割り振られた時間帯等に職員を配置し、「その日に(連休中に)対応できるか」「予定をキャンセルできるか」などの連絡・調整に入った。町民課の職員は、連休前に「今回の連休は無いものと考えていてほしい」との伝言をしていたので、この指示をスムーズに受け入れてくれたのであった。
限られた役場の人数なのにも関わらず、また新しい作業の割当てが増えた。あまりの忙しさ、大変さから当初は考えてもみなかったことである。猫の手も借りたいとはこのことだろう。
■5月3日(月)
前日、新たに設置された「消毒ポイント」で、午後2時から午後10時までの間、消毒作業に従事した。ここのポイントは、比較的町の中心部に近いところであったため交通量が多い。
その影響からか、車両の消毒に対して協力的でない一般の方々もおり、消毒作業やその作業の説明に苦労する場面が数回あった。中には、「俺のような一般人の車を消毒しても意味ねーだろうが!」と喧嘩腰で怒鳴る人もいた。残念な気持ちである。
■5月4日(火)
殺処分された牛の埋設作業に従事した。その光景は「壮絶」の一言と言っていい。
この現場は、私が見てきた中で一番大きな埋設穴であった。縦が約100メートルで横が約10メートル、深さ4メートルほどもある。その底に石灰をまんべんなく振り撒き、ビニールシートをかける。これで埋却処分の穴が完成する。そこに、殺処分された家畜を次々クレーンで吊るしては並べていく。
何度聞いても慣れないのが、専用車両で運ばれてきた牛の死骸がクレーンの前の通路となっている鉄板に落とされる音だ。1度に十数頭分がトラックの荷台から流れ落ちてくる。その時、「ゴツーン」「ゴツーン」という何とも表現しがたい鈍い音がする。それもそのはず。出荷手前の牛ともなれば、1頭で1000キログラム近くにもなるのである。もちろん、既に殺処分されている牛なのだが、その音は牛の悲鳴にも聞こえるのだった。
この作業を初めて体験する者は、まずその鈍い音に耳を塞ぎ、牛の大きさに驚く。そして、クレーンでつり上げるために両足を縛る際、嗅ぐことになる生々しい死臭に閉口する。しかし、作業の手を休めるわけにはいかない。すると、数分も経つと、この「非日常的な体験」に慣れてくるのである。
熱中症にかかってダウン
後輩のある役場職員も複雑な胸の内をこう語る。「毎日、毎日見続けているからでしょうか、家畜の死体が、今ではただのモノに見えてきました。慣れてはいけないはずの作業に慣れてしまいました」。
牛の埋設作業は役場が専門的に担っていたが、この前日から、宮崎県庁の職員と、陸上自衛隊の職員が加わって、共同で作業を行なうようになった。ほとんどが初めて埋設作業を行なう方々ばかりだ。
恥ずかしながら私は、作業途中に熱中症にかかって倒れてしまった。気温も非常に高いうえに、慣れない作業で参加してくださった方々もとても疲れた様子だった。現場の担当者の気力、体力ともに限界に近づいている。
■5月5日(水)
作業の割り当てが私にはなく、久しぶりの「休日」をちょうだいした。だが、この日は口蹄疫の影響が子供たちの生活にまで及んでいることを知らされる。
午前11時頃、私の子どもが通う小学校の父母(畜産農家2件)から相談の電話がかかってきた。私がPTAの会長をしているからである。
1件の内容は、「被害が蔓延しつつある地域にある小学校に、我が子を通わせることが妥当なのか非常に悩んでいる」というもの。この酪農家と養豚農家のお宅では、幸いなことに口蹄疫は発生していない。通学中や学校の生活の中で、そのウイルスを持って帰ってくるかもしれないという不安があるのだという。
もう1件の相談は全く逆だった。現在、症状は出ていないが、感染している可能性は否定できない。感染に気づかず子どもを学校に通わせ、ほかの農家の子どもにウイルスを持って帰らせたら大変なことになる、と気にされていた。ほかの農家を思いやる複雑で切実な心境を相談されたのであった。
本当に、本当に、無念でならない
私は、この相談に対して町の教育委員会のトップである教育長と、学校長らに電話で相談した。農家の子どもさんらが、前述のような理由で自主的に学校を欠席する際には「欠席」扱いにしない配慮をお願いしたのだ。それとともに、事態が収束した後に出席して来た生徒への学習面や精神面での様々なサポートをしていただきたい、と申し上げた。
教育委員会としては、「可能な限り要望に対応していく」、とのありがたく心強い回答をちょうだいした。本当にうれしかった。早速、この結果を相談されてきた農家の方々に回答。この回答に対して、両家族ともとても喜び感謝された。
ただ残念なことは、相談されたどちらのお宅からも、その数日後に「口蹄疫」の感染が確認された、との情報が入ったことである。
本当に、本当に、無念でならない。
■5月8日(土)
埋設作業に従事するため出勤した。ところが、「埋設する土地の取得調整が難航している」との情報が改めて伝えられ、その約1時間後、今日の作業班(8人)は「解散」となった。
なお、この日は、長きに渡る外遊から農林水産大臣が帰国された日でもあった。
■5月10日(月)
午後1時から午後6時まで、また新たに増設された消毒ポイントの消毒作業に従事した。朝から降り止まぬ雨は、私が担当する時間中も降り続いた。
「いつになったらこんな作業が終わるのだろう」。先が見えない我が町の状況を物語るような雨の中の作業であった。
この日、初めて国の対策本部長である農林水産大臣が来県した。
大臣は現場である我が自治体などにはおいでにならず、県庁などで東国原知事をはじめ、口蹄疫対策で苦労し続ける当該自治体の首長や、関係農業団体等のトップらを呼び出し、現状を聞くなどの対応だったそうだ。
■5月11日(火)
私の実質的な口蹄疫に関する作業はなし。
当然役場での通常業務をする日を与えられた。ただ、普段の当たり前の業務をしているのに、役場の駐車場に集合して今日の埋設作業などに向かう方々の姿を見ると、なぜだか後ろめたい気持ちになっている自分に気付いた。
■5月13日(木)
私と同じラグビークラブ「川南クラブ」に所属する後輩の実家が口蹄疫の被害を受けた。5月9日に聞いていたのだが、今日が殺処分の日になったという。心配になって後輩に電話した。
電話では元気な様子だったが、後で送られてきたメールには「爺さんの代からコツコツ増やしてきた牛を、こんな形で失うなんて正直悔しいですが、俺はあきらめません、また復活します」と書かれてあった。返す言葉がなかなか見つからなかった。
現場の対策は、今、この瞬間も続いている
■5月16日(日)
「同じラグビークラブのメンバーに被災したメンバーが出たのであるから、休日にでも何か自分たちでできる行動をしよう!」と、この日に参加できるメンバーが集まり、町内の2つのスーパーで「募金活動」を実施した。
「被災した農家さんのための支援金をお願いします。この集めたお金は川南町の口蹄疫対策本部の口座に入金します」と、買い物客に呼びかけた。
お客さんからは「暑い中ご苦労様。がんばってくださいね。口蹄疫に負けないでください。1日も早い終息を願っています」などと励ましのお声をかけていただき、この日だけで23万円ほどの寄付金が集まった。来週も同じように取り組もうと、全員で決めた。
◆ ◆ ◆
今、川南町は「生き地獄」の状態と言っても過言ではない。
役場の駐車場には「災害支援」という表示をつけた陸上自衛隊の物々しい車両が並んでいる。全国から集められた獣医師や、県や町、農業関係団体の職員、陸上自衛隊員らが毎朝、集結する。そして、全身白装束の防護服を身にまとい、殺処分や埋設処分の作業へと向かっていく。こんな光景は、恐らく町民の誰もが見たことのないものだっただろう。
苦悩するこの地域の状況を少しでも多くの人に知ってもらいたい。そして、日本有数の食糧供給拠点と自負する「川南町」の畜産、農業を応援してもらいたい。この切なる思いが少しでも伝われば、うれしく思う。
町長以下、町をあげた現場の対策は、今、この瞬間も続いている。
2010年5月17日
宮崎県川南町役場町民課住民係長 河野英樹
以上日経ビジネスオンラインから転載
如何でしたでしょうか?
宮崎県の切迫した状況がご理解頂けましたでしょうか?
これは、地震や火災の様な「災害」であると思います。
私如きが生意気な記事を作ってしまうようなレベルの話ではないのですが、敢えて作成してみました。
私の文章が不快に思われましたらお詫び致します。