
丁度ね、クマが一番野球…プロ野球に興味を持っていた時代に中日を率いていた監督さんでした。
実はこの頃クマは巨人ファンでして…
特にこの74年の中日のリーグ優勝は非常に悔しい思いをした事を覚えております。
以下Yahoo!ニュースより転載
与那嶺要氏死去、
85歳=首位打者3回、
中日優勝監督
―プロ野球
時事通信 3月1日(火)19時56分配信
プロ野球の巨人で首位打者を3回獲得するなど活躍し、中日監督としても巨人の10連覇を阻んでセ・リーグ優勝を果たした与那嶺要(よなみね・かなめ、本名ウォレス・カナメ・ヨナミネ)氏が2月28日午後9時45分(日本時間1日午後4時45分)、前立腺がんのため米ハワイ州ホノルルのシニアホームで死去した。85歳だった。葬儀は今週末にホノルルで行われる予定で、後日、東京でお別れの会を開く。喪主は長男ポール氏。
米ハワイ州マウイ島出身の日系2世。アメリカンフットボールから野球に転向し、マイナーリーグを経て、1951年のシーズン途中に巨人へ外野手として入団。巧みな打撃と米国仕込みの果敢な走塁でファンを魅了した。
2年目から6年連続打率3割以上をマーク。54年に3割6分1厘で首位打者となり、56、57年も首位打者。57年は最優秀選手(MVP)にも選ばれた。
61年に中日へ移籍し、翌年引退した。通算1219試合で3割1分1厘、1337安打、82本塁打、482打点、163盗塁。
「ウォーリー」の愛称で親しまれ、引退後は中日、東京(のちロッテ)などのコーチを経て72年から6年間中日監督。74年には巨人の10連覇を阻止し、20年ぶりのリーグ優勝に導いた。その後も巨人、南海などでコーチを歴任。88年まで38年間もユニホームを着続けた。94年野球殿堂入り。
以上Yahoo!ニュースより転載
小学生だったこの当時…
「与那嶺」と言う初めて聞く苗字に興味を覚え、それが沖縄県に多くある苗字だと知ってそれ以来、この名前が漢字で出てくると「オレ、読めるもんね!」と得意になったものでした(大人には苦笑されていましたが…苦笑)
中日の監督を勇退なさってからもずっとコーチとしてご活躍なさっていたのは存じ上げていましたがいつしか記憶から消えることとなり…それでも「与那嶺」と言う名前を聞く度に
「ああそう言えば中日の監督で…」
と思いだしておりました。
英語訛りの日本語でインタビューなどに応えていたお声…
はっきりと思いだしました。
心よりご冥福をお祈り致します。
Posted at 2011/03/02 01:51:45 | |
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