
いつの頃だったか、日本人は「Noと言えない」と言われるようになった。
いや、それは昔からずっとそうだった訳で、いきなりそうなった訳ではない。ときとして「うまく濁す」ことを美徳としているため、はっきり物事を伝えられない、と言う意味のようだが、それ自体、悪い事だとは思わないし、逆に「俺はNo!と言うぞ!」なんていう輩も生み出してしまっているが、多くの場合、それは単なる我侭としてとらえられるだろう。当の本人は気がつかないだろうが。結局、重大な場面で、白黒はっきりつけろ!それ以外はケース バイ ケース!ということだろう。
いつかの新聞に、こんな記事が載っていた。とある教育実習生の投稿。
要約すると、こういう事。
とある幼稚園で、「Aちゃん VS Bちゃん」「Cちゃん VS Dちゃん」という園児の対立があったとする。
○Aちゃん VS Bちゃん
Aちゃんがいきなり、Bちゃんを叩いたと言う設定。
先生は、Aちゃんに「叩いちゃいけない。謝りなさい」と言う。Aちゃんは謝る。すると先生、Bちゃんに「Aちゃんは謝っているのだから、許してあげて」という。Bちゃんは許したくないが、先生が言うのだから仕方なく許す。いきなり叩かれたという理不尽さも、自分の中で無理矢理納得させ、その場を取り繕う(先生への体裁の)ため、「いきなり叩かれた」にもかかわらず、
「謝られたら無条件で許さなければならない」という事をその柔らかな脳に刷り込まれる。
○Cちゃん VS Dちゃん
CちゃんはDちゃんの持っているおもちゃで遊びたいと言う設定。
Cちゃん「Dちゃんのおもちゃであそびたい!」という。そこで先生「Dちゃん、そのおもちゃをCちゃんにも貸してあげて」という。Dちゃん「今遊んでいるからいやだ」という。すると先生「おもちゃはみんなのものなの。我侭を言わずに、Cちゃんにも貸してあげなさい!」という。Dちゃん「は〜い(トーンダウン)」。
ここで、
貸せと言われたら、自分が遊んでいても無理矢理相手に貸さなければならない。さも無ければ、先生から怒られる。即ち、体裁が悪くなると言う事を、これまた柔らかな脳に刷り込まれる。
いつになったら、No!という言葉を教えてくれるの!?と言う記事。
この教育実習生、かなり鋭い観点だと、数分間感心しきりの私。
この2件での教訓。
「人に何かされたら、まずは受け入れろ!」と言うこと。これを、この世に生まれて数年のうちに刷り込まれるのだ。
(海外は知らないですよ。くれぐれも。)
こうして大人になった僕ら。
昔からある伝統の自動車雑誌C○、モー○ーマ○ジン、etc・・・それぞれ、昔から欧州のクルマを誉め称えるが、自国のクルマ、特に巨大企業のクルマは卑下し続けてきた。そこにも、上記と同じような事が繰り広げられていたというのは簡単に推測される。
記事にする為には、記事にしたい該当車種を借りてインプレッションを書かなければならないが、その貸し手は輸入車ディーラーや、カーメーカーになる。それは同時にその雑誌の広告主、と言う事だ。雑誌など、読者によって成り立っている訳ではなく、多くの場合は広告料を収入源としている。要は、読者がその雑誌に載っている広告主の製品を買ったかどうか。それにより、広告主の企業が潤ったかどうかが問題なのだ。その為に試乗記など、面白おかしい記事を書く、と言うのが真の姿だ。近年(ここ十数年)では、立ち読みも多く、読者など大した収入源ではない(女性誌も含め、雑誌はそんなもの)。
これを踏まえて。
もし、借りてきたガイシャに乗ってみて「なんじゃこりゃ。走り出してすぐに、ダッシュボードがガタガタビビりまくって剛性感も何も無い。単なる粗悪品だ!しかも、真っ直ぐ走らない!」と思っても、貸し手(大手広告主)の手前、そんなこと言えない。「No!とは言えない」のだ。だって、収入源である広告主様から借りたクルマが粗悪品だなんて、決してジャーナリズム的に微妙でも、口に出しては絶対に言えない。しかもガイシャは、所詮輸入代理店を通して借りるものであり、輸入代理店は、そのカーメーカー本体ではない。企業体力として小さいと言う事。その記事が元でクルマが売れなくなったら、その輸入代理店は本国ドイツのカーメーカーに三行半を突きつけられ、つぶれるだろう。
片や国産巨大企業のクルマは、そのメーカーの広報を通さずとも容易にクルマを借りる事ができ、誹謗中傷ともとれる内容を記事にしてもつぶれる事は無い。だって国産車ってこんなに売れてるじゃん、でしょ!?という、あまりにも短絡的な思考回路により、国産車は卑下され続けてきた。しかし、リーマンショック以来、景気は低迷を続け、国産車もほとんど売れなくなってきた(もう15年くらい前から、T社もクルマは国内向けでは作っていないが)。しかも、インターネットの普及により、実はかなり昔から海外では日本車が大人気じゃん!なんて言う事が明るみになって、クルマ好きではない人まで、こうした事実を知るようになってからと言うもの、
アホなマスコミと言う名の雑誌は「最近のレクサスはドイツ車に近づいてきた」とか、白々しいコメントが目立ち始めた。
「確かにドイツ車は造りがしっかりしていますが、「消耗品」の考え方が日本車とは全く違うので、いろんな所が日本車よりも多く、しかも短い頻度で交換しなければなりません。くれぐれも、故障ではありません。それに、こまかな事を大陸の方は気にされないので、室内はガタピシ言いますし、オイルも滲みますが、漏れではないので問題ありません。漏れた場合には、本国メーカーが保証修理します。いつかきっと。」
雑誌社は、始めからそう明言すべきだったのだ。そんな「Noと言えない」体質のせいで、いつまで経っても勘違いした輸入車好きがいたりする。
そう言う人にお勧めなのが、国産車の輸出仕様車だ。そりゃもう、アウトバーンを200キロで走ったって平気なチューニングが施された国産車がいっぱいありますよ。ショックからブッシュから、足回りのセッティングがユーロチューンされた日本車。これを乗らずして、輸入車絶対主義を名乗る事なかれ。
片やドイツメーカーは、極東の小国、日本ごときの為に専用のクルマなど作っていないので、足回りはほぼ自国仕様のまま。右ハンドルだって日本だけじゃないし。イギリス、ニュージーランドなどなど。自動車評論は、定量的な判断基準は無く、どこまでいっても官能評価でしかない。だから、これほど曖昧なものは無い。
初めてガイシャに乗るとする。風潮的、伝統的に言われ続けてきた事が自分の感覚と違うということに「No!」と
言えず、また言う勇気を持てず、自分の感覚の「誤差?」を修正してまで「さすが輸入車」と言ってしまう諸氏もいるのでは。確かに、剛性感はあるかもしれない。剛性「感」。でもそれ、そんなに必要ですかと問われれば、どうしても必要な人も少ないだろう。それを、クルマの絶対評価基準にしてしまっているのも雑誌が原因ではないか。もちろん、剛性感の高さは安心にも繋がり、安心は安全運転に繋がるので、必要ないとは言わないが。
ものつくりというカテゴリーの中で、「品質」が高いのは、もう20年以上も昔から日本車だ。高速走行安定性が高いのは、ドイツ車かもしれないが、それだって、アライメントは調整し直さないと、酷い。それにひきかえ、輸出仕様の日本車はかなりのレベルだ。ただ、装備面では、輸出仕様の国産車は廉価版であること(やっすい仕様)が多いから、日本車ではあるものの、日本人は満足しない仕様かも。ブランドにやられ過ぎですよね。NO!と言えない日本人。
イタリア車は・・・1割の工芸品と9割のポンコツしか無いと思ってます。今でも。しかもそれはメーカーごとではなく、1台ごとの差。でも、そこがいいんでしょ。品質云々ではなく、機械なのに人間味を見いだせたときの歓び。これこそイタリア車。服だって革製品だってイタリア製はしょぼいですよ。しょぼすぎ。材質とデザインだけ。縫製は小学生の家庭科レベル。だから経済も破綻寸前なのでは。ブランドにやられ過ぎですよね。NO!と言えない日本人。
新車購入後、年に半年間はディーラーに預けないと初期トラブルの修理が完了しない人もいるというベントレー。お金をいかにドブに捨てるかを競い合うのがセレブなのでしょう。
本当に良いモノ。それを知るのは、それを買うセレブじゃない。モノを作っている現場の人間だろう。
でも、本当に良いモノかどうかって、実はどうでもいいのかも。その人が満足なら。
しょぼい満足感でも、夢見心地になれるなら、何でも良いのだろう。
No!という必要のある時以外でも、No!と言った方が、実は正解が多いのかもしれない。
いや、No!の連続で真実が見えてくるのかもしれない。
そろそろ、国産、ガイシャの壁を取り除いても良いのではないだろうか。なんて.思う今日この頃。
Posted at 2014/09/13 23:02:12 | |
じどうしゃ学 | 日記