
自分の部屋にはいつの頃からか2枚の地図が掛かっています。
一つは、現代の日本地図を発泡スチロールの粘着パネルに貼ったモノ。
そのままだと窓と天井の隙間の空間に収まらなかった為、パズルのように切り貼りし本来より大きく傾けて貼付けました。
(だから方形にならず変なカタチ・・・ヤニで真っ茶っちゃで撮影前にKUREマルチクリーナーで洗浄してみましたが、黄ばみが取れんじゃないか・・・・)

▲長年のいろりの煙で燻されていているので天然色ではお見せできません。
もう一つは、日本の古地図を発泡スチロールの粘着パネルに貼ったモノ。

▲たしか江戸時代の初の日本地図。
(つくば市の国土地理院に行った時、ホンモノにお目にかかれると期待しまいしたが、レプリカでした。)
小学生の頃から地図帳が好きで、休み時間にも地図帳をなぞり、等高線と地図の配色と地名を見ては、どんな景色なんだろうと想像を膨らませておりました。
そんな自分が浪人時代、原付バイク(MTX50R)を手に入れて(父が鈴鹿製作所勤務だったので従販で)、今まで見た事のない「向こう側」を手に入れる道具を持ちました。
最初はタラスブルバのデイバッグを背負い、熊野の綺麗な海や、高山に出掛けました。
ダンロップのテントとモンベルのシュラフも購入し、リアシートに荷物を括り付け、デイバックに赤い琺瑯カップ、ハンドルバーに針金でステイを自作しクシタニの小さなカバンを付けられるようにしてタンクバック代わりとし、ロングツーリングにも出掛けました。

▲今なら畏れ多くて被れない(笑)
Joey Dunlop直筆サイン入りヘルメットと共に大崎上島。
(浪人中のある夏休み、書き置きを残し四国に放浪の旅に出掛けた時は捜索願いを出された事もありました。 7万円ほど財布にいれ四国に野宿ツーリング。 仁淀川で野宿していたらモンベルのスタッフがキャンプしていたので「mont-bell」のステッカーが欲しい!と言うとダンロップのテントを使っているのに???と言われ、タフバックを取り出し反撃しました(笑)←帰宅後大阪からMマークのステッカーが届きました。 その前の年に乗鞍で知り合った広島の人の事務所に訪れて広島を満喫、マツダのデザイナーの方を紹介され厳島の海で水上スキーも初体験しました。資金を借りて再度四国へ渡り、阿波踊りの翌日交番で・・・・)
原付で旅していた頃は、一県に一人づつ友人を作れば日本中を巡った時、それぞれの県にベースキャンプが出来るなぁと目論んでおりました(笑) (あの頃出会った方で阿蘇は一宮と東村山のライダーとは未だに親交が途絶えません)
その後、XR250R(オーストラリア仕様)、TW200、R-1150GSへと。
県外に頻繁に旅するようになった頃、地図の上にビニールを貼り、通った道をペイントマーカーでなぞれば、いつしか全道路制覇は無理にしても、地図を外しても毛細血管のように経路だけが残り、面白いのでは????と思いつき、毎年いろんなところに行っては、旅の締めくくりはアルバム作りとマーカー入れが自分の財産になっていきました。
30歳を越え、所帯を持つまでは単車一本で行くと決めていたのに、父にだまされて自分名義でローンを組まさされてやって来たのがロゴでした。
MTの面白さと、雨の夜でもテントを張る場所を探さなくても車内泊が出来、何より義理の弟のお下がりのミシュランのスタッドレスがシーズンオフでの遠出も可能になり、守備範囲が大きく、広がりました。
訳あってGSは手放さるを得ず、手元にはCT110しか残りませんでしたが、ロゴとは32万5000kmほど想い出を作りました。
消去法によりインサイトになって、ますます走るのが楽しく、かつ足が伸び、ハッチに寝袋を積んでは週末は仕事が終わると家にも帰らず県外を目指しました。
しかし・・・インサイトには中古でやって来た時に既にナビが付いていました。
それまで、「ナビなんて地図の読めない軟弱なヤツが使うもの」と決めてかかっていましたが、使ってみると便利です。
しかも、分かれ道でクルマを停めて地図を見るという行為が激減し、停車しない分、燃費にも優しくなりました。
が・・・・・。
ナビで旅すると、帰ってきて旅の行程を振り返ろうとしても、ルートが昔ほど鮮明に残らないのです。 また、カメラがAE1の50mmレンズしか無かった時代は、被写体に自分自身が近づいたり遠のいたり、意図的に広角っぽくとか、望遠っぽくとか工夫していたハズなのに、フィルムがデジカメになった途端、お手軽に広角~ズームとなって自分が苦労しなくなり、かつ、旅の終わりの手作りの道中地図とアルバムコラージュもやらなくなって行きました。
なにより、昔ほど、感動と共にシャッターを押す瞬間が激減して行きました。
なんで、こんなに感動しなくなってしまったんだろう?と思い続けて数年経ちます。
目が悪くなりマニュアルでピントが合わせられなくなり、オートフォーカスに頼るようになったのも関係あるのなかぁ。
なにより、現像から帰ってき、封筒を開けるドキドキの瞬間が無くなってしまいました。
ん??? なにを書こうと思ってたんだろう・・・。
そう、梅雨時の夜長(とはいわないか)、あの頃のように、日本地図にマーカーを入れる儀式を、復活させてみようと思い立ったのです。

▲原付で旅した四国。原付で旅しているといろんな方から話しかけられ
四国という土地柄からか何件かのお宅に泊めて頂きました。
クルマで、ある特定の場所の景色に立ち会うと、「ん? これはあの夏、単車で巡った景色じゃないか。」とか。 青春の日々を懐かしんでいるつもりはないのですが、インサイトでドライブしていて、ふと、こんなスタイルでいいのか? オレ??? と想う瞬間があるのです。(原付で巡ったドキドキ感をもう一度と)
正直言って、燃費計と生涯燃費の呪縛からは逃れられない体質にはなってしまいましたが、
単車に立ち返るべきなのでは・・・・と。
19の夏、自分を演出する為に(汗)、平屋の家なのに、裏の家との渡り廊下の屋根に梯子をかけて、炎天下の瓦の上にアチっと言いつつ寝転がり、汗を掻きつつ読んだ
「振り返れば地平線」。
北海道にはとうとう単車では行く事ができず、20年経ってクルマで訪れましたが、憧れの開陽台には真冬の為、テント村は存在しませんでした。(というかテントすら・・・)
でも、稚内のパーキングエリアには、大晦日の極寒の中、単車の奴らも自転車の奴らもテント村(まさしくそれはテント村でした!)を設営していました。
真冬の開陽台の駐車場でホテル・インサイトした夜にSNSのブログにアップしたら、宮崎に住む友人から「多和平というもっと地平線のよく見えるスポットがあるよ。」と教えられ、翌日の早朝に訪れてみたりもしました。(そこは確かに開陽台よりも雄大な景色ではありました。 が・・・思い入れの度合いからすると20年以上想い続けて来た場所には叶いませんでした。 ただ、ネットというものは便利だなぁと)

▲この旅で根子岳の神秘的な魅力に取り憑かれました。
以後、阿蘇周辺は数年に一度は吸い寄せられるようになり。
で、単車&クルマで巡ったルートをアルバムを引っ張り出して来ては、夜な夜な地図の上にトレースする日々が続きました。(ツーリングマップルをなぞりながらやっていると、あの年、あの年、記憶が蘇って、トリップしてしまいました。)

▲初めての社会人での社員旅行は空港からいきなり単独行動に走りレンタルバイクやへ・・・。
なぜかグーズ350(笑)、ネーミングがすばらしい。←できればネックも。
(人生で唯一のSUZUKI)
なんとかルートはトレースしたものの、全体表示して眺めてみると、20代で妄想していたような人体模型のような血管にはほど遠く・・・・。
かと言って、道路制覇の為に通りたくもないルートを辿るより、お薦めルートばかり選んで来た傾向が判明致しました。
とりあえずトレースが終わったので、せっかくなのでアップしてみました。
(毎晩2時間ずつくらいトレースしつづけ出来た頃には梅雨明け宣言が出されてました。)
原寸だと綺麗なのですが、A4にプリントしたものをスキャンしたら、線がめっちゃ潰れてしまってます(涙)
ひと月の努力が・・・とりあえず時間のある方はメインの画像をクリックしてみて下さい。
まぁいいや、次回の旅からは このデータに新たなキセキを書き込むようになります♪

▲Do you have a HONDA?を外してみました。
※単車に復帰と書きましたが、生涯燃費に縛られない自分を取り戻せば解決するのかも知れません。
※お願い。
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