
24日(土)は、愛知県は新城市に行ってきた。
数年前に長篠城は訪れていたのだが、今回は、長篠の戦いの決戦地である「設楽原」をゆっくり回るつもりで伺いました。
最初に向ったのは、「新城市設楽原歴史資料館」

長篠の戦いをお勉強させてもらいます。
長篠の戦いの背景と結末ですが、簡単にまとめると、、、、
・武田信玄は、1572年頃、甲州だけでなく、信州と駿河国を所領していた。
・信玄は、1572年に、徳川家康が所領していた三河国を攻める。
この時、長篠城は信玄の城となる。
・信玄は、三方が原の戦いで家康を破り、三河国を手中におさめかけたが、病死してしまう。
甲州へ武田軍が撤退する間隙を縫って、家康は長篠城を攻め落とす。
・1575年、信玄の家督を継いだ勝頼は、信玄の遺志を継ぐべく、三河に侵攻する。
同年5月、長篠城を包囲する。 ここから長篠の戦い。
・家康は、勝頼の長篠城攻めに対し、織田信長の援軍を得て、設楽原に布陣。
・家康・信長連合軍は、馬防柵と土塁を築き、背後の鉄砲隊で、武田騎馬軍団を撃退。
・勝頼は、武田24将に数えられる歴戦の兵を多数失う大敗をしてしまう。
◎真田丸のお父ちゃん 真田昌幸は、この戦いに「武藤喜兵衛」として参加していました。
昌幸には、信綱、昌輝という兄が居たので、武藤家に養子に出ていたのです。
信綱が真田家を継いでいたのですが、長篠の戦いで、2人の兄が戦死してしまいました。
結果、お父ちゃんは真田昌幸として、真田家を継ぐことになりました。
大河ドラマ「真田丸」は、この後の家康が信濃に侵攻するところからはじまりましたね。
それはさておき、まずは、「信玄塚」
「大塚」

武田軍の戦死者を埋葬したのだそうです。
「小塚」

こちらは、織田・徳川軍の戦死者を埋葬したのだとか。
「天王山陣所」
内藤昌豊の本陣があり、勝頼が戦地で指揮をした場所です。
「武田勝頼指揮の地の碑」
「内藤昌豊の碑」
「山県昌景の墓」

このあたりに、山県昌景が、布陣していたようです。
後で出てくる、決戦地や家康の物見塚が見通せます。
意外な近距離に布陣していたことに、驚かされました。
「馬防柵」

もちろん復元です。
信長は、馬防柵を作るための木材を、尾張からの行軍の際に足軽に運ばせたのだそうです。
武田騎馬軍団の脅威に対して用意周到に臨んだのだと、思わされます。
「決戦地の碑」

近くにある、「家康 物見塚」

その裏手にあるのが、「家康本陣跡」である八剱神社
最後は、「織田信長戦地本陣跡」

家康の陣からすると、はるか後方に陣を張っていたのですね。
残念ながら、ここから設楽原を見通すことはできませんでした。
往時は、木が無くて見通せていたのでしょうね。

この日は、一般道を使って茶臼山公園まで車で行って、そこから登りましたが、
新東名高速道路の設楽原PA(下り)からも登ってこられます。
これ以外にも、途中で、あちこちの碑やらお墓やらを巡って歩いたのですが、長くなるので省略。
昼も過ぎて、お腹が空いたのでお食事。
「こんたく長篠」の焼き肉レストランで、「鳳来牛」を頂きます。

産地のJAさんがやっているお店とのことで、お値段以上のお肉で、
久々に、上質な国産牛を堪能させていただきました。
次は、すぐ近くの「長篠城」
鳥居強右衛門(すねえもん)の立て看板が迎えてくれますが、

ここの見所は、深い堀と土塁です。

2方を川で削られた崖に守られているので、のこりの2方を深い堀と土塁で固めたお城です。
時間前後しますが、途中で立ち寄った「道の駅 もっくる新城」にこんな旗が、

来年の大河ドラマゆかりの地なんですね。
長篠城を出た後は、一般道を使って浜松に向ったので、
まさに 直虎ゆかりの井伊谷を通過したのですが、
あちこちに、旗やら看板やらが沢山立っており、早くも大河ドラマ色になっておりました。
浜松でショッピングして、夕食を頂き、帰途に着きました。
前日の名古屋も含めた、走行距離 約720km 燃費計 14.4km/L
一般路をそれなりに走ったので、燃費もそれなり。
Posted at 2016/12/29 22:53:57 | |
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