2013年12月11日
火曜日の帰り道、ラジオを聞いていると、『指導死』という言葉が流れてきました。
意味としては、先生の指導によって肉体的、もしくは精神的に追い詰められて、
子どもが自殺をしてしまうことらしい。
そこで、教育現場を糾弾するようなトークが展開されたわけですが…
たぶん、一方通行のやり方では解決できないと思うんだ。
先生の指導の行き過ぎという問題は、
行き過ぎちゃった先生も悪いけど、
先生を行き過ぎさせる子どもも悪いんだと思う。
で、子どもが悪いということは、
とりもなおさず親の責任であると言えるはず。
だって、学校に行くまでに教育してたのは親なんだし、
親が教育を放棄して社会不適合な子どもを育てちまったら、
そういう子どもが学校に集まるわけで、そりゃ成り立たないですよ。
で、そこでもう一歩踏み込んだ。
なんで親が子どもをしつけきれないんだろう?と。
自分の子どもの頃を思い出してみたら、
両親以外にもいろんな人がいろんなことを教えてくれた。
友達のにーちゃんねーちゃんだったり、
近所のおじさんおばさんだったり、
自分のじーちゃんばーちゃんだったり。
そういう人たちの手も借りながら子どもはあれこれと勉強していく。
でも、核家族化が進み、近所との交流がなくなった昨今では、
しつけの負担が全部親にのしかかってくる。
それじゃあしんどいよね。
1つの問題が発生したとき、
その裏にはたいていの場合複合的な原因があると思う。
この前の僕が起こした事故も、
僕の安全確認の不足と、
前にいた車が僕の進路をふさいだことと、
バイクが前方不注意だったこと、
パッと考えただけでも3つも原因があります。
そんな風に、どれか1つ、どこか1か所に責任を全部押し付けちゃうと、
他にも存在している原因を見過ごすことにつながり、
結果としては問題を根本的に解決することができなくなっちゃうんじゃないですかね。
最初の指導死の問題でいえば、
先生だって人間なんだから、間違うこともあるし、感情的になることだってあるでしょう。
やりすぎたら当然責められてしかるべきですが、
やりすぎる原因を作ったのが子どもだとしたら、
その問題を引き起こした責任の一端は親にもあるはず。
だって、学校にいる時間が8時間とすれば、
先生が責任を持てるのは1日のうちの3分の1でしかないんです。
あとの時間は学校から離れてます。
そう考えれば、学校に教育の全責任を押し付けるのは無理があるでしょう。
その時、自分にも責任の一端がある。
お互い様だ、と思えれば、相手を一方的になじるようなことはできないでしょう。
相手にも落ち度があるけど、自分にもある。
そう思える世の中になれば、いわゆるモンペみたいなのも出て来なくなるかなぁ。
Posted at 2013/12/11 00:48:49 | |
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