
パリポリくんバス新田ルートを
平日限定運行に変更します
更新日:2025年3月1日
令和7年3月末まで試験運行中のパリポリくんバス新田ルートは、本格運行への移行基準である収支率を達成することができませんでしたが、
令和5年10月の改善運行以降、利用状況が改善傾向にあることから、試験運行期間を1年間延長します。
なお、令和7年4月1日以降は利用傾向を踏まえ、
平日のみの運行に変更します。
パリポリくんバスの運行を継続するためには、皆様の積極的な利用が必要です。ぜひ、パリポリくんバスの積極的な利用をお願いします。
注:運賃及び時刻の変更はございません。
草加市交通対策課・交通安全係・交通政策係
新田村(しんでんむら)は埼玉県の南東部、北足立郡に属していた村。
新田村
廃止日 1955年1月1日
廃止理由 新設合併
北足立郡草加町、谷塚町、新田村 → 草加町
現在の自治体 草加市
廃止時点のデータ
埼玉県 北足立郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 3,288人(国勢調査、1950年)
隣接自治体 北足立郡草加町、安行村、戸塚村
南埼玉郡越谷町、川柳村
新田村役場
所在地 埼玉県北足立郡新田村
座標 北緯35度51分05秒 東経139度47分32秒
1.地理
河川:綾瀬川
2.歴史
・1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、九左衛門新田(くざえもん)、
長右衛門新田(ちょうえもん)、清右衛門新田(せいうえもん)、
新兵衛新田(しんべえ)、金右衛門新田(きんうえもん)、篠葉村(しのはむら)、
東中曽根村(なかそね)、槐戸村(さいかち)、善兵衛新田(ぜんべえ)
が合併し北足立郡新田村が成立する。
※1879(明治12)年3月17日~
(埼玉)足立郡中曽根村 →
北足立郡東中曽根村(現・草加市)、西中曽根村(現・鴻巣市)
・1955年(昭和30年)1月1日 草加町、谷塚町と合併し草加町となる。
3.交通
3-1.鉄道
東武鉄道 伊勢崎線:新田駅
最終更新 2023年2月13日 (月) 23:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
草加市(そうかし)は、埼玉県の南東部に位置する市[1]。施行時特例市に指定されている。
人口は約25万人。さいたま市、川口市、川越市、所沢市、越谷市に次いで県内6位の人口を有する。旧北足立郡。1958年(昭和33年)市制施行。
都道府県 埼玉県
市町村コード 11221-6
法人番号 6000020112216
面積 27.46km2
総人口 250,502人(推計人口、2025年5月1日)
人口密度 9,122人/km2
隣接自治体 川口市、越谷市、三郷市、八潮市、吉川市
東京都足立区
市の木 マツ
市の花 キク
他のシンボル 市歌:想い出はいつも
草加市役所
市長 山川百合子
所在地 〒340-8550
埼玉県草加市高砂一丁目1番1号
北緯35度49分31秒 東経139度48分19秒
1.概要
草加松原や草加せんべいで知られる。江戸時代、日光街道で江戸から2つ目の宿場町である草加宿として栄え、その周辺部は水田地帯で稲作が盛んであった。
戦後当初は5万人にも満たなかったが、高度経済成長期における1963年に当時東洋一のマンモス団地と言われた松原団地の造成や、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)と営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線の相互直通運転開始により人口が爆発的に増大し、急激な都市化が進行した。
また、東武伊勢崎線は2003年3月19日からは半蔵門線・東急田園都市線との相互直通運転も開始され、都心への利便性が更に向上している。
都営日暮里・舎人ライナーの開通に伴い、遊馬町、柳島町などの市西部の最寄り駅は、見沼代親水公園駅(足立区)である。
毛長川を隔てて南側を東京都足立区と接しており、東京に通勤・通学する、いわゆる「埼玉都民」が多く、市内の広範に住宅地が広がる。
自動車での移動も、以前からあった南北を結ぶ国道4号に加えて、東京外環自動車道やその高架下を利用した国道298号も開通し、東西の移動が格段に向上した。
中心市街地(草加駅周辺)は、都心まで約15キロメートル、南部の谷塚では約10キロメートルという立地にありながら宿場町の面影を残す住宅地である。交通不便な市北東部以外は宅地化が進み、今後大規模な開発を行う余地が無いため、松原団地の建て替え事業(コンフォール松原)や草加宿を中心とした都市計画「今様草加宿」が進められている。2000年に彩の国中核都市に指定、2004年に特例市に移行した。
2.市勢
面積:27.46km2
総人口:250,225人
男性:126,603人
女性:123,622人
世帯数:120,033世帯
年間増加数:580人
年間増加率:0.23%
平均年齢:45.5歳
(2021年(令和3年)1月1日現在) 出典:草加市の人口
3.地理
関東平野のほぼ中央部に位置し、市域の大部分が自然堤防による微高地とその後背湿地からなる低地であり、海抜は約3メートルほどである[2]。そのため、集落は微高地に形成され、後背湿地は水田として利用されてきた。市内には綾瀬川をはじめ多くの河川が存在するために、江戸時代より各種の治水対策が施されてきたが、昭和40年代以降の急激な人口増、水田の宅地化により保水力が損なわれ、洪水に悩まされることになった。しかしながら、東京外環自動車道とともに計画された綾瀬川放水路の完成以降は、大規模洪水は激減した。 しかし、いまだに水害は多く市内の小中学校では避難方法などの教育活動が熱心に行われる。
綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説が有力である。
市南部の毛長川沿いの自然堤防上には弥生時代終末期から古墳時代前期のものと思われる古墳群が存在する。
草加駅東側は丸井、イトーヨーカドーを核として構成する都市再開発ビル群であるアコスや、西友といった大型商業施設がある一方、草加宿を中心とした商店街も広がり、江戸時代の面影を残す。駅西側は閑静な住宅街が広がり、埼玉都民のベッドタウンとしての一面を見せる。
市域の中央部は宅地化が進んでいるものの、一部に農地や屋敷林も残されている。
旧日光街道沿いにある「草加松原」、そして「百代橋」「矢立橋」は草加のシンボル。かつて舟運で隆盛を極めた綾瀬川、札場河岸。現在は舟着き場の石段を復元した公園として整備され、五角形の望楼のほか、この地を訪れた松尾芭蕉の像や高浜虚子、正岡子規の句碑なども建てられている。
東武伊勢崎線獨協大学前駅西口には、竣工当時「東洋一」と言われた松原団地が、旧日本住宅公団により造成されている。東西の長さは、獨協大学前駅から国道4号草加バイパスまで約1キロメートルあるマンモス団地である。しかし、建築から相当年数が経ち、建物の老朽化も著しいため、都市再生機構 (UR) により解体、再開発が行われている。
河川:綾瀬川、中川、古綾瀬川、伝右川、毛長川、辰井川、葛西用水路、八条用水、綾瀬川放水路、千疋幹線排水
4.歴史
古墳時代前期(およそ250年 - 400年)頃 - 草加市では遅くとも古墳時代前期には人の定住が始まっており、当時の遺跡として東地総田遺跡[3]や谷塚古墳群等が残っている。
1221年 - 北条義時、承久の乱の戦勝を祝して武蔵国矢古宇郷(現在の草加市周辺)の郷司職50余町(約50ha)を鶴岡八幡宮に寄進する(「吾妻鏡」)。
1573年 - 地名『草加』の初見。(八潮市「持昌院文書ほか」)
1603年 - 草加地域の大半が江戸幕府直轄領となる。
1630年 - 江戸幕府、正式に草加宿を伝馬宿として認める(草加は日光道中の宿場町になる)。
1869年(明治2年)1月28日 - 武蔵知県事・河瀬秀治の管轄区域をもって小菅県が発足。小菅県の管轄となる。
1871年(明治4年)11月14日 - 浦和県・忍県・岩槻県の3県が合併して埼玉県が誕生。草加市域も埼玉県の管轄となる。
1879年(明治12年) - 足立郡の区域をもって行政区画としての北足立郡が発足。郡役所は浦和宿に設置。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制が施行され、南草加村・北草加村・谷古宇村・宿篠葉村(しゅくしのはむら)・吉笹原村・東立野村(ひがしたてのむら)・原島村(ばらじまむら)・与左衛門新田・弥惣右衛門新田・庄左衛門新田・太郎左衛門新田が合併し、北足立郡草加町が成立する。
1913年(大正2年) - 電灯が使用可能になる[4]。
1955年(昭和30年)
1月1日 - 草加町・谷塚町(やつかまち)・新田村が合併し、草加町となる。
8月1日 - 南埼玉郡川柳村(かわやぎむら)を編入する。
11月3日 - 旧川柳村の5つの大字のうち、伊原・上谷(うわや)・麦塚が草加町から分離し、越谷町に編入される(青柳と柿木は草加町側に残る)。
1956年(昭和31年)9月28日 - 南埼玉郡八条村のうち、立野堀が編入される。
1957年(昭和32年)5月1日 - 旧安行村の花栗・苗塚・北谷(一部)・原(一部)・小山(一部)が川口市から分離し、草加町に編入される。
1958年(昭和33年)11月1日 - 市制施行により、草加市となる。これに伴い、市内の大字を廃し、町名・町域変更が行われる。
彦右衛門新田 → 両新田西町
市右衛門新田 → 両新田東町
上谷塚 → 谷塚上町
中谷塚 → 谷塚仲町
下谷塚 → 谷塚町
東遊馬 → 遊馬町
原島 → 西町
南草加、東立野、庄左衛門新田(一部) → 氷川町
吉笹原 → 吉町
谷古宇 → 手代町、松江町、東町
宿篠葉 → 神明町へ編入
北草加、与左衛門新田、弥惣右衛門新田、太郎左衛門新田、庄左衛門新田(一部) → 栄町
立野堀 → 稲荷町
九左衛門新田 → 旭町(あさひちょう)
善兵衛新田 → 新善町(しんぜんちょう)
金右衛門新田 → 金明町(きんめい)
清右衛門新田 → 清門町(せいもん)
長右衛門新田 → 長栄町(ちょうえい、後に長栄)
新兵衛新田 → 新栄町(しんえい、後に新栄)
槐戸 → 八幡町(やはたちょう)
東中曽根 → 中根町(なかね、後に中根)
篠葉 → 弁天町(べんてん、後に弁天)
南青柳 → 青柳町
1965年(昭和40年) - 豪商浅古家(大和屋浅古質店)が所有する土地の一部を取得し、現市庁舎を建設する。
1967年(昭和42年) - 埼玉県草加保健所が設置される。
1968年(昭和43年) - 越谷市大字麦塚、大字千疋のそれぞれ極僅かな地域(麦塚:小字東、新田前耕地、蔵屋敷耕地、笹塚、山城耕地の各一部、千疋:小字九升田、庄権の各一部)を編入。(現在、越谷市では麦塚は川柳町(かわやなぎちょう)、千疋は東町(あずまちょう)と町名変更され地名が消滅してしまっているが、草加市に編入された部分の一部は、かなり狭小で無人の地区であるものの、柿木町内の一地区名として残っている。ちなみにこの千疋は、東京都中央区日本橋にある「千疋屋総本店」の屋号の由来となった創業の地である。)
1986年(昭和61年)4月1日 - 市町村防災行政無線運用開始(当時の夕方のチャイムは「夕焼け小焼け」)。
1990年(平成2年)4月1日 - 防災行政無線の夕方のチャイム「想い出はいつも」放送開始。
2004年(平成16年)4月1日 - 特例市へ移行。
2007年(平成19年)4月1日 - 防災行政無線放送等変更。
2008年(平成18年)
埼玉県草加保健所が越谷保健所及び吉川保健所と統合し、埼玉県越谷保健所草加分室に再編される。
9月1日 - 防災行政無線の子供の見守り放送開始。
2010年(平成22年)
埼玉県越谷保健所の再編が行われ、越谷保健所草加分室が埼玉県草加保健所に再度再編される。
4月1日 - 埼玉県越谷児童相談所草加支所が開設される。
2015年(平成27年)10月1日 - 草加市消防本部と八潮市消防本部が統合し「草加八潮消防組合」が設立される。
2016年(平成28年)
4月1日 - 草加八潮消防組合の業務が開始される。
10月3日 - 防災行政無線のデジタル化更新により、防災行政無線放送等変更。
2019年(平成31年)4月1日 - 児童相談所の機能強化に伴い、埼玉県越谷児童相談所草加支所が埼玉県草加児童相談所となる。
2023年(令和5年)5月8日 - 市役所新庁舎がオープン[6]。
2025年(令和7年)1月28日 - 埼玉県八潮市道路陥没事故が発生。市は下水道の使用を制限するよう呼びかけた[7]。
5.人口
草加市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 123,269人
1975年(昭和50年) 167,177人
1980年(昭和55年) 186,618人
1985年(昭和60年) 194,205人
1990年(平成2年) 206,132人
1995年(平成7年) 217,930人
2000年(平成12年) 225,018人
2005年(平成17年) 236,316人
2010年(平成22年) 244,062人
2015年(平成27年) 247,034人
2020年(令和2年) 248,304人
総務省統計局 国勢調査より
6.行政
6-1.主な公共施設
草加市立病院
谷塚サービスセンター
松原サービスセンター
新田サービスセンター
環境業務センター
勤労福祉会館
勤労青少年ホーム
スポーツ健康都市記念体育館
市民体育館
市民温水プール
市営総合運動場
歴史民俗資料館
中央図書館
草加市立中央公民館
原町コミュニティーセンター
瀬崎コミュニティーセンター
稲荷コミュニティーセンター
氷川コミュニティーセンター
八幡コミュニティーセンター
柳島コミュニティーセンター
谷塚ふれあいセンター
川柳文化センター
奥日光自然の家 - 栃木県日光市、草加市の保養施設
6-2.国の出先機関
法務省さいたま地方法務局草加出張所
国土交通省関東地方整備局北首都国道事務所
ハローワーク草加(草加公共職業安定所)
6-3.県の出先機関
草加保健所
草加児童相談所
越谷県土整備事務所神明排水機場
埼玉県企業局柿木浄水場(工業用水専用)
発達障害者就労支援センター「ジョブセンター草加」
埼玉県立そうか光生園障害者歯科診療所
6-4.その他機関
東埼玉資源環境組合第二工場(ごみ焼却施設、2016年4月から新工場が稼働)
6-5.広域行政
6-5-1.一部事務組合
・東埼玉資源環境組合:越谷市、吉川市、八潮市、三郷市、北葛飾郡松伏町とともに、可燃ごみ及びし尿処理を行っている。
・埼玉県都市ボートレース企業団:飯能市、加須市、本庄市、東松山市、狭山市、春日部市、羽生市、鴻巣市、深谷市、上尾市、越谷市、入間市、朝霞市、さいたま市とともに、戸田競艇の開催等に関する事務を行っている。
・草加八潮消防組合:八潮市とともに消防・救急業務、火薬類取締法・液化石油ガス法・高圧ガス保安法に基づく事務を行っている。
6-5-2.協議会
・埼玉県東南部都市連絡調整会議:越谷市、三郷市、吉川市、松伏町とともに公共施設の相互利用、図書館の広域利用、重症心身障害児施設中川の郷療育センターの共同設置、埼玉県東南部地域公共施設予約案内システム(まんまるよやく)の運営を行っている。また、政令指定都市移行を目標とした合併に関する会議を開催や構成する自治体の住民が参加できる事業を開催している。
・埼玉県南4市まちづくり協議会:川口市、蕨市、戸田市とともに、4市で共通する広域的な行政課題の連絡調整、図書館の相互利用、災害時における避難場所の相互利用、健康づくりをテーマとした各種のスポーツ交歓大会等の各種事業を開催している。また、埼玉県東南部都市連絡調整会議同様 県南4市(川口市・蕨市・戸田市・草加市)と合併する計画もある。
・東埼玉消防指令業務共同運用協議会:越谷市(越谷市消防局)、三郷市(三郷市消防本部)、吉川松伏消防組合(吉川市・松伏町)、春日部市(春日部市消防本部)、草加八潮消防組合(草加市・八潮市)とともに各消防本部で行っていた119番通報の受付及び各消防署等への通信指令業務を令和8年4月に統合する予定。
7.経済 産業
総じて、第3次産業が中心である。しかしながら、工業団地(草加・八潮工業団地)では製紙工場もあり、第2次産業もある。
日本を代表する米菓であるせんべいが名産である。「草加煎餅」として全国に知られる地域ブランド(地域団体商標)でもある。1932年(昭和7年)に組合が組織されると組織的なPRが展開された。第二次世界大戦中は原料米の統制により一時衰退したが、戦後間もなく復興した。1970年(昭和45年)ごろ最高の売上げと全国的な知名度が普及し、市域に約120店舗を数えた。その後、他地区から類似品の大量生産品が普及するようになり、売上げが減少している。
しかしながら、現在でも旧草加宿を中心に市域で約60店舗がある。手作り感の強い、醤油味がベースの丸い素朴な米菓である。東京都と隣接するため「東京みやげ」と扱われることも多く、同様なものとして、千葉県浦安市にある東京ディズニーランドのみやげ物がある。
幕末から晒(さらし)業や浴衣(ゆかた)染めが市域南部を中心に栄えていた。浴衣染めは、かつては長板中型が行われていたが、大正期に導入された注染が主流となった。1960年頃には出荷額も最高に達したが、その後水質汚染などから規模を小さくしている。
1935年(昭和10年)ごろから、三河島付近から皮革業者が広い土地と豊富な水資源を求めて市域中央部に進出し、それとともに同業者が集積してきた。第二次世界大戦中は一時衰退したが、朝鮮戦争を契機になめし業を中心に発展した。1970年(昭和45年)ごろから水質・悪臭汚染でなめし業は縮小したが、製靴や鞄製造など皮革加工業が市域に広く点在する。
1958年(昭和33年)の市制施行ごろから、市域に工場進出が目立つようになった。1963年(昭和38年)から埼玉県が造成した草加工業団地の完成と、引き続き造成が行われた1967年(昭和42年)の草加八潮工業団地の完成により、60社余りの企業が進出した。また、中小企業が市域に広く点在している点も特長といえる。
かつては全市的に稲作が盛んであったが、宅地化の波に押されて、市域北東部の柿木町・青柳付近を除き、急激に耕地面積を小さくしている。
市域北部を中心にハスやクワイも収穫され、またキクを中心に花の栽培が行われるが、第1次産業は当市においてはかなり少数で、専業農家はごく少数になる
8.文化
●草加市民憲章(1988年11月1日 告示第235号)
わたくしたち草加市民は、綾瀬の流れと松原をシンボルとして、おおきな夢をはぐくんできました。人の心をたいせつにし、自然をいかした住みよいふるさとをめざして、ここに憲章をさだめます。
わたくしたちは、
1. 平和を愛し、文化的で、ゆたかなまちをつくります。
1. きまりを守り、安全で、せいけつなまちをつくります。
1. 健康に努め、親切で、さわやかなまちをつくります。
●草加市歌「想い出はいつも」
1988年(昭和63年)制定。
●相撲
草加市青少年相撲振興会の寄贈などにより、市内のほぼ全ての小学校に土俵が設置されている。また、大相撲追手風部屋が市内に部屋を構えている(以前は尾車部屋も設立当初は草加市に部屋を構えていた)。
●ハープ
「国際ハープフェスティバル」や、若手ハーピストの登龍門、「日本ハープコンクール」を毎年開催している。
●美術
公益財団法人美育文化協会が草加市吉町に拠点を設置している。
●体操
コナミスポーツ体操競技部の練習拠点であるコナミ体育館が市内にあり、地域・社会支援活動の一環として、体操教室や演技発表会が行われている。2016年リオデジャネイロオリンピックには、当市に在住している内村航平、田中佑典、加藤凌平 が出場している。
9.地域
■行政地名
当市域では、1958年の市制施行時に大字が全廃され、市域全体が「町」となった。町村合併と地名変更の詳細については、「歴史」の節を参照。
市内の現行行政町名の「町」はすべて「ちょう」と読み、「まち」と読むものはない。
市域の大部分は旧北足立郡のうちであるが、旧八条村・川柳村の区域のみは旧南埼玉郡である。
●旧草加町
・神明(しんめい)一・二丁目 ・住吉(すみよし)一・二丁目
・高砂(たかさご)一・二丁目 ・中央(ちゅうおう)一・二丁目
・吉町(よしちょう)一 - 五丁目 ・手代町(てしろちょう)一 - 三丁目
・草加(そうか)一 - 五丁目 ・栄町(さかえちょう)一 - 三丁目
・学園町(がくえんちょう) ・松原(まつばら)一 - 五丁目
・松江(まつえ)一 - 六丁目 ・西町(にしちょう)
・氷川町 (ひかわちょう)
1955年の2町1村合併以前の旧草加町には11の大字があったが、1958年の市制施行時に大字は全廃されて「町」となり、地名も大幅に変更している(本記事の「歴史」の項参照)。
上記の現行行政地名のうち、西町、氷川町は住居表示未実施地区で、他は住居表示実施済みである。
市制施行時の「栄町」(丁目設定なし)には、現在の栄町一 - 三丁目のほか、松原一 - 五丁目の大部分、草加一 - 五丁目の一部、学園町が含まれていた。
学園町は1987年の住居表示実施によって成立した町で、町域の全てが獨協大学の校地であり、世帯数・人口はゼロとなっている。街区符号・住居番号も「1番1号」しか存在しない。
市制施行時には東町(あずまちょう)という町名があったが、1966年に廃止されている(現・中央及び住吉のうち)。
●旧谷塚町(やつかまち)
・谷塚町(やつかちょう) ・谷塚上町(やつかかみちょう)
・谷塚(やつか)一 - 二丁目 ・谷塚仲町(やつかなかちょう)
・瀬崎(せざき)一 - 七丁目(旧・瀬崎町の全域)
・両新田東町(りょうしんでんひがしちょう)
・両新田西町(りょうしんでんにしちょう)
・柳島町(やなぎしまちょう) ・新里町(にっさとちょう)
・遊馬町(あすまちょう)
1955年の2町1村合併以前の旧谷塚町には9の大字があったが、1958年の市制施行時に大字は全廃されて「町」となり、地名も一部変更している(詳細は「谷塚町」の項参照)。当地区は住居表示未実施の町が多い。両新田東町と両新田西町の境界は複雑で、多くの飛地がある。なお、2011年7月18日をもって、上記の谷塚町の一部と谷塚上町の一部で住居表示を実施し、「谷塚一丁目・谷塚二丁目」に町名が変わった。また同時に瀬崎町の全域が「瀬崎(一 - 七丁目)」として住居表示を実施した。
●旧新田村
・旭町(あさひちょう)一 - 六丁目 ・金明町(きんめいちょう)
・新善町(しんぜんちょう) ・清門(せいもん)一 - 三丁目
・長栄(ちょうえい)一 - 四丁目 ・新栄(しんえい)一 - 四丁目
・弁天(べんてん)一 - 六丁目 ・中根(なかね)一 - 三丁目
・八幡町(やはたちょう)
1955年の2町1村合併以前の旧新田村には9の大字があったが、1958年の市制施行時に大字は全廃されて「町」となり、地名も大幅に変更している(詳細は「新田村」の項参照)。上記のうち、旭町一 - 六丁目、弁天一 - 六丁目、中根一 - 三丁目は住居表示実施済み。他は未実施であるが、2014年11月22日に、新栄町、長栄町、清門町の全域で町名変更が実施され、それぞれ新栄一 - 四丁目、長栄一 - 四丁目、清門一 - 三丁目となった。
●旧川口市安行から編入
・原町(はらちょう)一 - 三丁目 ・北谷(きたや)一 - 三丁目
・北谷町(きたやちょう) ・苗塚町(なえづかちょう)
・小山(こやま)一・二丁目 ・花栗(はなぐり)一 - 四丁目
北谷町と苗塚町は住居表示未実施。北谷町は、北谷一 - 三丁目の住居表示実施後の残余。
●旧八条村から編入
・稲荷(いなり)一 - 六丁目
住居表示実施済み地区。
●旧川柳村
・柿木町(かきのきちょう) ・青柳(あおやぎ)一 - 八丁目
・青柳町(あおやぎちょう)
柿木町と青柳町は住居表示未実施。青柳町は、青柳一 - 八丁目の住居表示実施後の残余。
●住宅団地
・コンフォール松原(旧草加松原団地) ・新栄町団地 ・草加旭町団地
・草加稲荷住宅(稲荷) ・草加花栗住宅(花栗) ・草加原町住宅(原町)
・草加原町第三住宅(原町) ・草加原町第二住宅(原町)
・草加新善町住宅(新善町) ・草加青柳住宅(青柳)
・草加柳島住宅(柳島町) ・草加遊馬住宅(遊馬)
・UR草加団地(中央、1960年7月 1棟のみ現存 全面建て替え 旧日本住宅公団関東支所)
10.旧松原団地跡地の大規模再開発~WELL BIND(ウェルバインド)
草加市、獨協大学、UR 都市機構、東武鉄道(株)、トヨタホーム(株)の5者は、獨協大学前広域における産官学連携によるまちづくりについての協定を2024年5月9日、締結した。 まちづくりのために必要な協議組織の構築および明確な将来像の策定を進める。また、各者が所有する施設の活用、多世代の共生およびコミュニティ活動の推進、教育や研究活動、まちづくり推進拠点の開設などを推し進めていくものである。[12]
旧松原団地は1964年に完成し、その総面積約54haに及んだ。完成から約半世紀が経過した2003年より草加市、獨協大学、UR都市機構の3者が協定に基づく連携により、団地の再生など構造・設備を中心に住環境改善に取り組んできた。 2024年5月9日の新たな協定に基づき東武鉄道とトヨタホームを加えた5者により、多世代の繋がり、学び、誰もが活き活きと暮らせる未来を育む「WELL BIND(ウェルバインド)」をコンセプトに連携が実現したのである。 トヨタホームは東武鉄道と連携し、街区整備による373区画の大規模な戸建住宅地を開発。それに伴ってクラブハウスを整備するなど、地域住民の防災拠点とコミュニティ形成機会創出を図る。また、戸建住宅地内に憩いの場となるテーマの異なった3つのポケットパークを整備していくことになる。[13]
11.脚注
[12]^ 産官学5者による連携協定締結
[13]^ [ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1590018.html Impress Watch]
最終更新 2025年7月1日 (火) 13:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
≪くだめぎ?≫
"トヨタホーム"も入って2024年5月より旧松原団地を再開発している様である・・。
今回は北足立郡新田村(しんでんむら)。
1955(昭和30)年1月に谷塚町(やつかまち 1940年11月~)と供に草加町に合併、
1958(昭和33)11月に市制施行し、旧新田村も含めて、地名も大幅に変更された。
東武鉄道伊勢崎線の谷塚・草加・新田の各駅は明治~大正期に設置され、
東京都足立区の北隣りであり、いわゆる「埼玉都民」の住宅地である。
『クレヨンしんちゃん』では、しばしば登場する
"ブリブリ左衛門"は住所を揶揄するお言葉と思われるが。