
亜幹線ってどういう意味ですか?
- Yahoo!知恵袋
ベストアンサー 2014/12/5 11:14
要は幹線ではないが、地方交通線(ローカル線)よりは重要な路線、という意味でしょう。
国鉄時代は、幹線用と亜幹線用の車両を厳格に分けていたそうです(違ったらごめんなさい)。例えば山陰本線で出雲、日豊本線で富士・彗星を牽引したDF50は亜幹線用とされましたから、日豊本線は亜幹線と認識されていたでしょう。
DD91形ディーゼル機関車(DD91がたディーゼルきかんしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)が試用した液体式ディーゼル機関車である。
1.製造の背景
国鉄がディーゼル機関車の開発を模索していたころ、日本国内の車両メーカーは国鉄および日本国外への売り込みをはかるべく、独自の機関車を設計・試作した。これらの機関車は、合計9形式が国鉄に借り入れられ、40番台、のちに90番台の形式を与えられて試用された。一部の形式は国鉄が正式に購入した。それらの試作機関車のうち、本線用として製造されたのが、本形式である。
2.構造
エンジンは西ドイツ(当時)から輸入されたマイバッハ (Maybach) 社製のMD870形(DOHC 6バルブ/ヘッド V型16気筒 1,820馬力/1,500rpm)である。このエンジンは当時のスペイン国鉄 (RENFE) 向け340形本線用液体式ディーゼル機関車[1]に搭載されていたものと同系であり、ほぼ同時期にイギリス国鉄もクラス35 液体式ディーゼル機関車用[2]として同系機関を採用するなど、各国に輸出されたベストセラーモデルの一つであった。
動力伝達方式は液体式を採用した。液体変速機は同じく西ドイツのメキドロ製でK184U形と称した。この液体変速機は機関の出力を1つのコンバータを介して爪クラッチ、そして常時噛合式の全4段のギヤへと伝えるもので、直結段を持たず切り替え時の衝撃吸収機構を搭載するなど、自動車の4速オートマチックトランスミッションに近い、極めて複雑な構造であり、DD51形などが採用した3つの液体式変速機を速度に応じて切り替える充排油式とは大きく異なったシステムであった。他にも多数の西ドイツ製部品を使用している。この他、旅客列車牽引時の客車暖房用の蒸気発生装置 (SG) を搭載する。
車体は箱形で非貫通構造。車体中央に軸重軽減のために1軸付随台車がある。
これらの構造は、のちのDD54形に引き継がれた。DD54形では、エンジンや液体変速機をはじめ、ほとんどの部品をライセンスを受けたメーカーが日本国内で製造した。
[1]^ 西ドイツ国鉄V200形(マイバッハ製V型12気筒エンジンを搭載)をベースにMD870の2,000馬力モデルを2基搭載した、強力機であった。
[2]^ こちらは1,700馬力のモデルが採用されていた。
3.製造
1962年(昭和37年)に新三菱重工業で製造され、6月に国鉄が借り入れる契約を交わした。
4.運用
福知山機関区に配置され、山陰本線と福知山線の旅客列車に使用された。1965年(昭和40年)返却。
5.主要諸元
全長:16.0 m
運転整備重量:70 t
機関:マイバッハ製MD870形ディーゼル機関1基
軸配置:B-1-B
出力:1,820 ps/1,500 rpm
動力伝達方式:液体式
最大運転速度:95 km/h
最終更新 2025年11月6日 (木) 12:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
DD54形ディーゼル機関車(DD54がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1966年(昭和41年)から設計・製造した液体式ディーゼル機関車である。
[写真・画像] DD54形32号機
: 1978年3月28日 山陰本線和田山駅構内に停車中
基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造所 三菱重工業
製造年 1966年 - 1971年
製造数 40両
引退 1978年6月18日[1a]
廃車 1978年12月1日
投入先 福知山機関区(下記以外)
米子機関区(16・17・30 - 37のみ、後に福知山機関区に転属)
主要諸元
軸配置 B-1-B
軌間 1,067 mm(狭軌)
全長 15,300 mm
全幅 2,932 mm
全高 4,050 mm
空車重量 約62 t
運転整備重量 約70 t
台車 DT131B(動力台車)TR104(付随台車)
(DD54 1 - DD54 3)
DT131E(動力台車)TR104A(付随台車)
(DD54 4 - 40)
固定軸距 1,800 mm
車輪径 860 mm
軸重 14 t
燃料搭載量 4,000 L
水タンク容量 3,400 L(SG用)
動力伝達方式 液体式
機関 V型16気筒ディーゼル機関
85,973 cc
DMP86Z
機関出力 1,820 PS (1,339 kW) / 1,500 rpm
変速機 DW5 (入力1,660 PS)
歯車比 4.482(減速比)
制動装置 DL14A形
自動空気ブレーキ・手ブレーキ
保安装置 ATS-S
最高速度 95 km/h
最大引張力 16,800 kgf (164.8 kN)
備考 製造時期により外観に差異
32 - 37は元空気溜管引き通し装備
出典:三菱重工業「三菱重工技報」Vol.3 No.5(1966年)「国鉄向けDD54形液体式ディーゼル機関車」pp.113 - 115。
[1]^ a 交友社『鉄道ファン』1978年9月号RAIL NEWS「DD54定期運用終わる」p.118。
1.概要
亜幹線の無煙化を推進するため、すでに登場していたDD51形とDE10形の中間を担う客貨用機関車として製作された。
新三菱重工業にて1962年(昭和37年)に試作したDD91をベースとし、1966年に3両が試作機として製造された。その後、1968年(昭和43年)から1971年(昭和46年)までの4年間に37両が量産車として製造された。
エンジンや変速機などの主要機器は三菱重工がライセンス契約を結んだ西ドイツのメーカー(後述)の提携品を使用していたが、度重なる機器類のトラブル発生からいずれの車両も法定耐用年数(18年)を終えず運用を離脱した。結果、失敗機関車との烙印を押され、国鉄の資産運用について国会で質疑応答が行われる事態にまで発展した。
製造は全車三菱重工業が担当しており、製番は順に1389 - 1391・1485 - 1489・1631 - 1640・1738 - 1744・1750・1751・1753・1765 - 1776となる。製番が細分化されたのは、当時の三菱重工業三原製作所が国鉄向けの他形式の機関車も国鉄から受注・生産していたため[注 1] であり、欠落部分の番号の大半はそれらに割り当てられている。
[注 1]^ DD54形製造期間中には三原製作所ではED75・ED76・ED77・EF71形やEF30形・EF81形、それにDD51形といった国鉄機関車各形式を並行して生産している。
2.車両概説
2-1.車体
車体は前後に運転台を配した「箱形」[注 2] である。試作車にあたるDD91形ではいわゆる湘南形の2枚窓構造の運転台を備えた構造・形状であったが、本形式に先行して設計・製造されたED72形・ED73形交流電気機関車および新幹線911形ディーゼル機関車と同様に窓下を突出させた「くの字」状の前面形態が採用され、車体断面も側板の上半分を内側に傾斜させた、ヨーロッパ調の独特のデザインとなっている。
総括制御による重連運用を考慮していないため正面貫通扉は装備せず、総括制御に必要な釣り合い管や制御用ジャンパ線受などを設置していない。
製造時期により外観は前灯の位置と前面窓の形状が異なるほか以下の相違点がある。
・DD54 1 - 3(量産試作機)
ステンレス窓ガラス支持・前灯窓上・サイドエアフィルター形状・動輪輪芯形状
・DD54 4 - 24[注 3]
ステンレス窓枠・前灯窓下・連結器解放テコ先端形状・砂箱形状
・DD54 25 - 40
窓ガラスHゴム支持・前灯窓下・車体溶接構造の変更
大別で上述3タイプ、各部仕様で細分すると1 - 6次車に区分される。
[注 2]^ これは背の高いDMP86Zを収めるためでもあった。
[注 3]^ DD54 12は公式側排障器にSGホース掛けを装備する。
2-2.主要機器
西ドイツのメーカーからのライセンス供与を受けて製作されたエンジン・変速機を搭載するが、動力台車や蒸気発生装置、それにブレーキシステムは同時期製作のDD51形や、DE10形などとの部品の共通化が図られている。
なお、ライセンス生産となったエンジンや変速機については契約上、日本側での設計変更や改造は改良を含めて認められておらず、あくまで製造のみが認められていた。この契約事項が同機関車の運命を決定づける要因になった。
2-2-1.動力台車
本形式は軸重上限の低い亜幹線での使用を前提とし、動軸重軽減のため軸配置を B-1-B とした。
一般的なアウトサイドフレーム(外側台枠)式の軸ばね台車を装着していたDD91形とは異なり、2軸インサイドフレーム(内側台枠)式台車であるDT131B(DD54 1 - DD54 3)あるいはDT131E(DD54 4 - DD54 40)を装着する。
これらは1965年設計のDD53形用DT131の派生機種にあたり、最終減速機の歯数比も、本形式と同じ1966年に設計されたDE10形試作車(DE10 1 - 4)用DT131Cと同じ4.482となっているなど、極力他形式と共通の部品を採用することで保守の合理化を図っている。
なお、量産車が装着するDT131Eは、DE10形基本番台(DE10 5以降)および500番台などに採用されたものと全く同一品であり、試作車もDD54 2は後述する脱線転覆事故での修理に際し事故で破損した1位側台車をDT131Eに交換している[2]。
[2]^ ふちい萬麗「DD54の時代考証」プレス・アイゼンバーン『レイル』No.54 P.80 - P.81
2-2-2.中間台車
2台の動力台車の間にTR104(DD54 1 - 3)あるいはTR104A(DD54 4 - 40)と呼称する、リンク機構により横動を許容される構造の1軸中間台車を装着する。量産車は、試作車用のTR104で台車装架であったATS車上子が車体床下装架に変更になった事に伴う設計変更を反映したものである。この中間台車の装着により、本形式は自重約70 tの大型機でありながら軸重は約14 tに抑えられ、4級線への入線が可能となっている。
2-3.機関・変速機
使用予定線区の実輸送量に鑑み、DD51形よりやや出力を抑えた設計もDD91形から継承された。
搭載機関は西ドイツマイバッハ社(Maybach=現・MTUフリードリヒスハーフェン)設計によるMD870を三菱重工業がライセンス生産を行ったDMP86Z[注 4]、液体変速機は爪クラッチを介在させた4段変速機構をもつDW5で、マイバッハ社のMekydro(メキドロ)K184Uのライセンス生産品である。この変速機構のため、力行中の変速進段時に一旦エンジン回転数が下がる変速音を発しながら加速するという独特の走行音であった。なお、1次車でシリンダーの水漏れトラブルが発生し、その対策をしたことから2次車の落成が遅れた。
[注 4]^ DOHC6バルブ、バンク角60°V型16気筒、ボア185 mm×ストローク200 mm、排気量85.973 L、最大出力2000 hp / 1600 rpm
2-4.ブレーキ
同時期の国鉄ディーゼル機関車で標準となっていた、DL14Aブレーキ装置を搭載する。
2-5.蒸気発生装置
旅客列車牽引運用への対応として、全車が列車暖房用蒸気発生装置(SG)を搭載する。
SGはDD54 1 - 3がDD51形初期車と共通のSG4、DD54 4 - 24がこれを改良して蒸気発生量を増大させたSG4A、そしてDD54 25 - 40がSG4Aを完全自動運転方式に改良したSG4A-Sをそれぞれ搭載する。
いずれも同時期製造のDD51形に搭載されたものと同一設計品で、縦型水管式ボイラーを備える機種である。
3.性能
1968年(昭和43年)6月28日、山陰本線鳥取 - 湖山間の岩吉踏切付近で、急行「おき」を牽引中だったDD54 2の推進軸(ユニバーサルジョイント)が突如破損落下し、横転する事故が発生した。続く1969年(昭和44年)11月にも、山陰本線浜坂 - 久谷間の勾配力行中などのDD54 11、14が、落下した推進軸を原因とする床下からの出火事故を起こした。全般検査から間もない時期にも関わらず推進軸に起因するトラブルが続発したことから、福知山機関区では一斉点検を行いつつ同年12月以降鷹取工場へ順次入場、推進軸の強化や脱落防止加工を施工した[注 5][3]。
1972年(昭和47年)に急行列車からの格上げで新設の寝台特急「出雲」牽引用として、前年に8両が新製配置された米子機関区所属車の中からDD54 32 - 37(6両)が同列車の牽引機に指定されたが、当時「出雲」に使用される20系客車は全車が110 km/h運転に対応するために応答性の高いAREB増圧装置付電磁自動空気ブレーキへ改造済で、電源車以外の全車が圧縮空気の消費量の多い空気ばね台車を装着することから、牽引にはブレーキ増圧装置・空気ばねへの空気圧供給用元空気溜管(MRP)引き通し[注 6]・妻面腰板部中央にヘッドマーク装着固定用金具を追加搭載・設置する改造工事を施工した。
また、試作車のDD54 1 - 3には1970年度の全般検査で動輪輪芯や砂撒き管の形態を量産車と同じ仕様に、さらに前面手すりの増設や屋上に出ている煙道の形状変更といった改造を実施、量産車の中でも初期に製造されたDD54 4 - 8に対しては同時期にDD54 9以降に準じた手すりや砂撒き管の改造が行われた。さらに1974年以降も稼働していたDD54 2とDD54 4 - 8に対しては、SG室部分の側面にあった通風フィルター[注 7]を外側から鉄板で閉塞する工事を行っている[4]。
[注 5]^ 工事は1970年1月まで集中的に実施され、一時的に機関車不足を招いたため、代機としてはC57形やD51形を他区から借り入れて蒸気機関車による運用が復活する事になった。
[注 6]^ 最高速度は95 km/hのため同時期のEF65形500番台(P形・F形)などのような電磁自動空気ブレーキ指令用ジャンパ連結器設置や応速度編成増圧ブレーキ装置搭載は未施工。
[注 7]^ 冬期の低温対策としてDD54 9以降では廃止している。
[3]^ 前里孝「福知山区のDD54改造顛末記」交友社『鉄道ファン』1970年4月号 No.107 P.112
[4]^ ふちい萬麗「DD54の時代考証」プレス・アイゼンバーン『レイル』No.54 P.80 - P.83
4.運用の変遷
1966年に先行試作車であるDD54 1 - 3の3両が福知山機関区(現・福知山電車区)に新製配置された。先行試作車は試運転や性能試験を経て主に山陰本線の京都 - 福知山間と福知山線の普通列車をC57形に代わって牽引する運用に投入、1967年11月には米子鉄道管理局管内へ初の試運転を行い、以後1968年から量産車が順次落成し、運用区間も急行「おき」や貨物列車の牽引で山陰本線米子以東に拡大、1969年以降も増備は続き1971年までに全40両が出揃い、DD54 1 - DD54 29・DD54 38 - DD54 40の32両が福知山機関区に、DD54 30 - DD54 37の8両が米子機関区[注 8](現・米子運転所)に、それぞれ配置された。
本形式はその新製時の計画通り、当時山陰本線(浜田以東)・播但線・福知山線などの列車牽引運用に用いられていたC57形・C58形等の蒸気機関車を置換え、周辺の舞鶴線・伯備線(新見以北)・大社線にも入線し1972年末には一部の列車を除き山陰地区東部の全面的なディーゼル化を達成するなど当該路線群における無煙化を促進した[5]。
1968年10月6日にはDD54 1(本務機)・DD54 3(前補機)の2両が、福井国体開催に合わせて運行されたお召し列車の牽引に供された。重連運用[6a]された理由は、DD54がトラブルで動かなくなる可能性を想定したためと一部では指摘されている[7a]が、本形式に限らず1970年代までのディーゼル機関車牽引によるお召し列車運転に際しては万全を期すためその多くが重連運用であった[8]。
1969年末より、重大なトラブルを招いていた推進軸の交換を進める。これ以降、初期のような致命的トラブルは発生しなくなっていった。
1972年3月15日からは京都 - 浜田間で、米子機関区配置車6両による特急「出雲」牽引が開始された。しかし、この頃からエンジン本体や液体変速機側での故障が頻発し、本形式の牽引する列車をより旧式のディーゼル機関車であるDF50形や当時残存していたC57形蒸気機関車が救援する、といった事態すら発生するようになっていた。「出雲」牽引機6両のうち5両は、おおむね良好な稼働状況であったが、他の仕業との関係で[注 9]「出雲」への充当は1年半で終了し、1973年秋からは同じく米子機関区が担当していた夜行急行「だいせん」の運用共々DD51形へ置き換えが実施され、米子配置車も1974年に全車福知山機関区へ転属となった。
[5]^ 大田裕二「DD54投入と無煙化の足跡」交友社『鉄道ファン』1977年5月号 No.193 P.52 - P.53
[6a]^ “悲運の機関車DD54が大役を任された日”. 朝日新聞デジタル 2017年12月3日. 2018年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月10日閲覧。
[7a]^ 両丹日日新聞 (2017年7月10日). “悲運の機関車DD54(2) トラブル続きで次々解体”. WEB両丹. 2020年3月29日閲覧。
[8]^ 星山一男「お召列車50年の記録」交友社『鉄道ファン』1976年12月号 No.188 折込付表
[注 9]^ 「出雲」牽引指定機についても、急行「だいせん」やその他の一般列車も牽引することがあった。
最終更新 2026年4月1日 (水) 00:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(上記2項目)
≪くだめぎ?≫
今となっては、『DD54』(40両製造)は"試作機"である。この"40両"が「量産」されたことが「国会」で取り上げられた。最短で5年弱で廃車になったのだから当然。
DD51形1968年~の「完全重連形」がJRに引き継がれた、約3/5が余剰廃車され、たったの259両に過ぎない。こちらのDD51形も約3/5が逆に"試作機"のされた様なモノ。
運転整備重量は亜幹線基準の14 tとする為、84t。結果、
84tのDD51形が、70tの『DD54』を置き換えた。それだけ、
DD54が亜幹線のエースとして期待していたし、
急いでいた訳である。