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2021年01月31日

『国鉄8620形蒸気機関車』

『国鉄8620形蒸気機関車』 国鉄8620形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

8620形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が導入した、旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車である。

[写真・画像]
(上左)花輪線で88620号機ほか8620形三重連が牽引する列車、1971年6月
(上右)国鉄C11形蒸気機関車のねじ式連結器。1934-1940年にかけ孤立してねじ式連結器を使用した紀勢中線用に、特に改造された事例
紀勢中線に新製配置されたC11 98 紀伊勝浦機関庫 1938年
(下)8620形の形式図、ねじ式連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体

 基本情報
運用者 鉄道院→日本国有鉄道
製造所 汽車製造、川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所
製造年 1914年 - 1929年
製造数 672両
主要諸元
軸配置 1C
軌間 1067 mm
全長 16765 mm
全高 3785 mm
機関車重量 48.83 t(運転整備)
44.54 t(空車)[注釈 1]
動輪上重量 41.46 t[注釈 2]
炭水車重量 34.50 t(運転整備)
15.50 t(空車)[注釈 3]
総重量 83.33 t(運転整備)
60.04 t(空車)[注釈 4]
固定軸距 2286 mm
先輪径 940 mm
動輪径 1600 mm
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 470 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 13.0 kg/cm2[注釈 5]
大煙管
(直径×長さ×数) 127 mm×3962 mm×18本[2]
小煙管
(直径×長さ×数) 45 mm×3962 mm×91本[2]
火格子面積 1.63 m2
全伝熱面積 110.9 m2[注釈 6]
過熱伝熱面積 28.8 m2[注釈 7]
全蒸発伝熱面積 82.1 m2[注釈 9]
煙管蒸発伝熱面積 72.0 m2[注釈 10]
火室蒸発伝熱面積 10.1 m2
燃料搭載量 6.00 t
水タンク容量 13.0 m3[注釈 8]
制動装置 真空ブレーキ→自動空気ブレーキ
最高速度 90 km/h[要出典][3]
出力 558 kW[要出典]
シリンダ引張力 89.2 kN[4]
粘着引張力 101.6 kN[要出典]
備考 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.226の諸元表の自動連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体のデータに拠り[5]、必要に応じて『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の同じく自動連結器付、455 ft3形石炭6 tタイプ炭水車付の機体のデータ[2]を注記。

1 導入の経緯
 明治末期の1911-13年に急行列車牽引用の大型旅客列車用機としてイギリス・ドイツ・アメリカの各国から、車軸配置2Cの8700形・8800形・8850形および、2C1の8900形が輸入され、1912年6月にはこれらを使用して新橋 - 下関間に特別急行[注釈 11]が運行されるようになった。一方、当時の運輸状況ではこれらより若干小型で急行列車も牽引可能な旅客用機の需用が多かったため[6]、九州・関西・東北・奥羽の各線でも使用できる[7]機体として、8800形などを参考に日本の蒸気機関車国産化技術の確立を目的として本項で記述する8620形が導入された。汎用性を重視して、将来輸送量が増加した際には地方線区に転用することを考慮して設計された。
 ボイラーは、ベースとなった8800形などでは80.5 km/h(50 mph)での連続走行に対応した連続蒸発量を確保できる大型のものを搭載していたが、本形式の運行が想定された二級幹線の急行列車は連続走行速度64.4 - 72.4 km/h(40 - 45 mph)であり、8800形などの約8割程度の連続蒸気発生量のボイラー容量で十分とされたため、8800形などより二回り小型のボイラーを搭載することとした[8]。
 一方、走行装置は動輪直径を8800形と同じ1600 mm、シリンダー直径も同形式と同じ470 mmとして急行旅客用に使用できるようにしている[6]。また、十分な粘着重量を確保する[6]とともに、線形が悪く勾配も多い二級幹線での運用に対応するため[8]動軸を3軸とした一方で、当時の旅客用機は先台車を軌道に対する追従性を考慮して2軸ボギー式とすることが通例となっていた[7]ため、ボイラーの小型化による重量減への対応として本形式では車軸配置2Cの8800形から先輪を1軸少なくして車軸配置を1Cとしながら、1軸の先輪と第1動輪とを特殊な台車に装備して2軸先台車と同様の作用をさせていることが特徴となっている[6]。
 大正期における機関車の設計は、主要寸法を定める概要設計は鉄道院・鉄道省で行われ、詳細設計は鉄道省で実施する場合とメーカーで実施する場合の両方があり、例えば6700形やC51形は鉄道院・鉄道省で、9580形や9600形はメーカーで詳細設計を行っていたが、本形式はD50形などとともに一部を鉄道省、一部メーカーで行う方式としており[9]、鉄道省の津田鋳雄、汽車製造会社の池村富三郎が詳細設計を担当した[7]。
 また、製造は当初1913-19年度発注分は汽車製造会社が担当しており(一方で9600形は1917年度に汽車製造会社に発注されるまでは川崎造船所のみが製造している[10])、その後1920年度発注分から日立製作所[注釈 12]と川崎造船所が、1921年度発注分から日本車輌製造が、1924年度発注分から三菱造船[注釈 13]がそれぞれ製造に参加して1925年度までに計670両、間をあけて1928年度に2両が発注されている[11]。なお、このうちの日立製作所笠戸工場と三菱造船神戸造船所は第一次世界大戦終戦に伴う造船不況を契機に新たに機関車の製造に参入したものであり、日立製作所笠戸工場は当初鉄道省からの機関車の発注を得られなかったため、8620形を自主製造して製造能力を示してその後の受注につなげており[12]、神戸造船所は三菱鉱業美唄鉄道の2-4号機の製造実績があり、空気ブレーキ装置の製造所でもあったため受注を得ることとなっている[13]。

2 概要
2.2 走行装置
 車軸配置は1C(日本国鉄式)、2-6-0(ホワイト式)もしくは通称モーガルと呼ばれる配列で、当時の旅客用機関車で一般的であった2軸ボギー式台車を本形式では先輪と第1動輪を一体化した「省式心向キ台車」に置換えて曲線通過性能を良くしており、その最小半径は80 mで、後年のローカル線用タンク式蒸気機関車であるC12形と同等である[7]。また、走行装置の基本的な寸法は8800形をベースとしており、動輪直径、動輪軸間距離、シリンダー径×行程、ピストン弁径、シリンダー中心 - ピストン弁中心間距離、左右シリンダー中心間距離が同一となっている[注釈 16][14]。また、シリンダー引張力も同一の89.1 kNであるが、ボイラーは小型化となった一方で先輪が1軸少なくなったため、動輪上重量が39.76 t(1931年形式図で41.46tに修正[1])と8800形の39.76 tを上回って[14]粘着率が4.5となり[28]、これは後継のC50形は4.3 - 4.5と同等であるが、8620および9600の代替機のC58形の3.2 - 3.3[29]や勾配線区用の4110形の4.3[30]も上回っている[注釈 17]。動輪の粘着力がシリンダー出力を大きく上回るため、「絶対に空転しない機関車」ともいわれており、空転に苦慮していた乗務員からの信頼が厚く、本来の旅客用高速機という用途から外された後は勾配のあるローカル線での仕業や、入換仕業で力を発揮した[注釈 18]。終戦直後の混乱期には老朽化と戦中の酷使が深刻化した4110形の補充として、米沢機関区から1両の8620形と9600形が試用されたが、勾配区間(33.3パーミル)では空転が多く、4110形が最も安定していた[36]。

2.3 ブレーキ装置
 ブレーキ装置は当初自動真空ブレーキ、手ブレーキを装備しており、運転室下部にブレーキ用のピストン2基を搭載し、基礎ブレーキ装置は動輪3軸に作用する片押式の踏面ブレーキとなっている。また、制輪子は制輪子吊に直接取付けられる甲種[注釈 22]のうち、甲-9号を使用する[44]。
 1919年に鉄道省は全車両に空気ブレーキを採用することを決定し、1921年から1931年上半期にかけて全車両が空気ブレーキ化されており[45]、本形式も1923年度発注の68661号機以降は空気ブレーキを装備して製造された[22]一方でそれまでの機体も順次真空ブレーキから空気ブレーキに改造されている。蒸気機関車用の空気ブレーキはアメリカのウェスティングハウス・エア・ブレーキ[注釈 23]が開発したET6を採用しており、この方式はH6自動ブレーキ弁、S6単独ブレーキ弁、6番分配弁、C6減圧弁、B6吸気弁などで構成されるもので、その特徴は以下の通りとなっている[46]。
・構造が簡単で取付および保守が容易。
・非常ブレーキが使用可能。
・ブレーキ弁に連動して元空気ダメ圧力を2段階に設定可能。
・補助機関車もしくは無火回送時においても客車・貨車と同様にブレーキが作用する。

2.4 連結器
 連結器は当初、基本的にはねじ式連結器を装備していたが、北海道においては、道内最初の鉄道である官営幌内鉄道が1形(後の鉄道院7100形)に当初より並形自動連結器を使用して以降これを標準としていたため、本形式も1917年に最初に北海道に配置された18649号機以降がこれを装備していた[19]。なお、設置高さが後の鉄道省の自動連結器より低い660 mmであった[47]。
 1919年に鉄道省は全車両のねじ式連結器を交換する方針を決定し[48]、まず、北海道内の車両の連結器高さを878 mmに変更することとして、1924年8月13-17日に一斉に工事を実施している[49]。続いて北海道以外の車両については、九州以外は1925年7月16-17 日に 、九州は7月19-20 日に一斉にねじ式連結器から自動連結器への交換を実施している[50]。本形式においてもこれにともなって連結器の交換を実施しているほか、1925年発注の78694号機以降は自動連結器を装備して製造された[22]。なお、当初は解放テコが連結器右側のみに設けられるものであったが、1930年頃より両側から解放操作が可能なものに改造されている[51]。

2.5 その他
 外観は6700形以降D50形までの明治末期から大正期にかけての鉄道院・鉄道省の国産蒸気機関車の標準的なデザインとなっており、化粧煙突、前部デッキから歩み板にかけての乙形の形状が特徴であったほか、運転室側面裾部は8620 - 8643号機[52]が8800・8850形や9600形9617形までなどと同様のS字形、8644号機以降が8700形や9600形9618号機以降と同じ乙形の形状となっている[注釈 24]。また、空気ブレーキ装置を装備した1923年発注の68661号機以降は歩み板の後半部が一段高くなって運転室側面下部の乙字形につながる形状となっており、運転室裾部を炭水車台枠上部に揃えたものとなっている[54]。

2.7 付番法
 8620形の製造順と番号の対応は、1番目が8620、2番目が8621、3番目が8622、…、80番目が8699となるが、81番目を8700とすると既にあった8700形と重複するので、81番目は万位に1をつけて18620とした。その後も同様で、下2桁を20から始め、99に達すると次は万位の数字を1繰り上げて再び下2桁を20から始め…という八十進法になっている。したがって、80番目ごとに万位の数字が繰り上がり、160番目が18699、161番目が28620、…となっており、番号と製造順は万の位の数字×80+(下二桁の数字-20)+1=製造順という関係となる。
 例えば58654であれば万の位の数字が5、下二桁が54となるので、製造順は5×80+ (54-20) +1=435両目となる。

3 製造
 鉄道省で672両を導入したほか、樺太庁鉄道向けに15両、台湾総督府鉄道向けに43両、地方鉄道(北海道拓殖鉄道)向けに2両の同形機が製造されている。

3.1 鉄道省
 鉄道省では大正時代の標準形として1914年から1929年の間に672両(8620 ... 88651号機)を導入した。半数以上が汽車製造会社製造。のちに川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所も製造した。樺太庁鉄道の15両は、1943年の南樺太の内地編入に伴い鉄道省保有となり、88652 - 88666号機となっている。樺太向けの15両を鉄道省としての製造両数に含め、製造両数を687両と記載している文献もある。

3.2 樺太庁鉄道8620形
 樺太庁鉄道の8620形は鉄道省8620形の同形車で、15両 (8620 - 8634号機) が製造されて豊原機関庫、泊居機関庫、真岡機関庫に配置された[79]。8620 - 8623号機の運転室は当初は鉄道省の機体と同様のものであったが、後に運転室後部を炭水車前端部まで延長して幌で接続した耐寒構造の密閉型となり、その後の増備機は当初より耐寒密閉型で製造されている[80]ほか、連結器は鉄道省の当初北海道配属となった機体と同じ取付高さの低い自動連結器を装備している一方、ブレーキ装置は真空ブレーキを装備している[1][注釈 25]。1928年および1929年製の11両は、製造当初8万番台の番号 (88620 - 88630) であったが、すぐに既存車の続番に改番された。1943年4月1日の樺太の内地編入による樺太庁鉄道の鉄道省への移管と樺太鉄道局の設置に伴い、これらの機体も鉄道省の8620形に編入されて88652 - 88666号機となった[79]。なお、樺太鉄道局の車両は順次空気ブレーキ化されており、後述する樺太鉄道局へ転属した本形式も空気ブレーキを装備していたが、88652 - 88666号機は1944年1月末時点では全機が真空ブレーキのままであった[81]。

3.3 台湾総督府鉄道E500形
 E500形[82]は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省8620形の同形車で、1919年から1928年にかけて、43両 (500 - 542号機)が製造された。形態は歩み板1段、運転室側面裾部乙字形、真空ブレーキ装備、炭水車は455 ft3・石炭6 t形で、連結器は当初より自動連結器を装備していた[83]。1937年に形式がC95形に改称されたが、番号は変更されていない[84]。第二次世界大戦後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局が1947年にCT151形(CT151 - CT193号機)に改形式・改番している[84]。
 戦後、事故廃車となった2両(CT154, CT155号機)の部品を組み合わせ、一部を新製して、1両(CT194号機)が再製されている[要出典]。

3.4 北海道拓殖鉄道8620形
 北海道拓殖鉄道の8620形は、1928年9月に汽車製造で2両(8621 - 8622号機)が同社の開業[注釈 26]用に新製し、翌1929年1月に竣工し、同年7月に空気ブレーキを設置したもので[85]、民鉄向けに製造された唯一の8620形である。形態は歩み板1段、運転室側面裾部乙字形、炭水車は455 ft3・石炭6 t形、連結器は自動連結器で当初は真空ブレーキを装備していた[83]。8621号機は1960年7月に廃車解体、8622号機もその後廃車され、鹿追駅跡に保存されている[85]。

4 運用
 最初は東海道本線、山陽本線などの幹線を中心に配置されたが、より高性能な形式が投入されるにつれて幹線からローカル線へと転用された[要出典]。平坦で距離の長い路線に向き[要出典]、客貨両用に効率よく使えるという特徴をもって長く運用され、鉄道車輌史研究家の臼井茂信は「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」と評している[1]。
 8620形の初回ロットは8620 - 8637号機の18両で、1914年5月に最初の6両が九州鉄道管理局の鳥栖機関庫の配置となって鹿児島本線門司(現門司港) - 鳥栖間で急行列車や直行列車などの牽引に使用された[14]。初回ロットの残り12両は神戸鉄道管理局に11両、東部鉄道管理局に1両の配属となった[86]ほか、これらを含む以降の初期製造の機体は以下の各区間で運行されている[14]。
・奥羽本線:米沢 - 秋田間
・東北本線:宇都宮 - 白河間
・東海道本線:東京 - 沼津間
・関西本線:亀山 - 湊町間
・山陽本線:広島 - 下関間
・鹿児島本線:門司 - 鳥栖間

 1915年には東海道本線東京 - 沼津間で特別急行1列車および2列車を牽引しての8850形との性能比較試験[注釈 27]が実施され、本形式は8850形より石炭消費量が5 - 6 %少ないとの結果が出ている[19]。また、翌1916年には東京 - 国府津間で6760形との性能比較試験が実施され、本形式は6760形石炭消費量が8 - 12 %少ないとの結果が出ている[87]。
 また、1914年時点において、本形式の牽引トン数は10パーミル勾配において急行列車300 t(35 km/h)、客車列車350 t(30 km/h)、25パーミル勾配において旅客列車180 t(18 km/h)に設定されていた(本形式のベースとなった輸入蒸気機関車のうち、8900形の牽引トン数は10パーミル勾配において特別急行列車320 t(48 km/h)、急行列車340 t(45 km/h)、客車列車380 t(41 km/h)、25パーミル勾配において特別急行列車・急行列車で170 t(30 km/h)に設定)[88]ほか、10パーミル区間で貨物列車550 t、25パーミル勾配で貨物列車180 tに設定されている[35]。本形式はシリンダ牽引力と粘着力牽引力の比が小さく設計されていたため、勾配区間における牽引トン数は従来の機関車より高めに設定されていた[35]。
 その後1930年代に入り、近郊旅客用もしくは支線区の貨物用[89]C11形や旅客用のC55形・C57形、地方線区の旅客用もしくは小単位の貨物用[90]のC58形等の導入に伴い、本形式は地方線区や入換用に転用されている[91]。
 9600形のような日中戦争勃発に伴う軍からの徴発はなかったが、樺太の内地編入に伴い樺太庁鉄道が鉄道省樺太鉄道局に移管された1943年以降に14両が同鉄道局に転属している。1両は1944年に樺太鉄道局から転出したが、他の13両は樺太庁鉄道から移管された88652 - 88666号機とともに終戦時にソビエト連邦に接収され、以後の消息は明らかでなく、書類上は全機が1946年3月31日に廃車となっている[79][77]。
 樺太鉄道局への転属、転出の状況は以下のとおり。
・1943年10月:(転属8両)18638, 18665, 38620, 48629, 48655, 48658, 48691, 68624号機
・1944年2月:(転出1両)18665号機
・1944年6月:(転属3両)18640, 58670, 78640号機
・1944年9月:(転属3両)38630, 38661, 38675号機

 戦後の1947年1月1日時点では、樺太の28両(樺太鉄道局からの編入15両・移管後の転属13両)と戦災により廃車となった3両 (48634, 68662, 78682号機) および戦前に事故廃車となった2両 (68640, 88628号機) を除いた654両が残っていて、釧路、帯広、池田、斜里、留萠、稚内、北見、渚滑、深川、小樽築港、室蘭、青森、尻内、盛岡、小牛田、郡山、弘前、東能代、秋田、米沢、新潟、新津、長岡、小山、高崎、大子、佐倉、成田、千葉、館山、勝浦、新小岩、品川、八王子、新鶴見、二俣、稲沢、米原、敦賀、七尾、梅小路、宮原、鷹取、竜華、王寺、奈良、豊岡、鳥取、米子、浜田、津山、新見、高松、松山、宇和島、小松島、高知、十日市、津和野、正明市、西唐津、早岐、伊万里、若松、吉塚、行橋、柳ヶ浦、大分、豊後森、南延岡、宮崎、都城、人吉、吉松の各区に配置されていた。
 1955年3月末には637両が残っていたが、中型ディーゼル機関車の実用化により、1960年3月末には491両、1961年3月末には380両、1962年3月末には333両とほぼ半減したが、その後主要幹線や亜幹線の電化もしくは無煙化が優先されたことや、地方ローカル線および入換用ディーゼル機関車の量産導入が進まなかったこともあり、かなりの数が蒸気機関車の末期まで残った。1964年3月末の在籍数は276両であったが、1968年3月末では138両であった。
 その後1972年3月末では41両と漸減し、7 kmにわたって33.3パーミルの上り勾配が続く花輪線での運用も1971年9月30日に終了した[92]。最後の運用は人吉機関区の48679号機および58654号機による湯前線の貨物列車であり、1975年3月9日が最後の運用となって[61]、48679号機は1974年12月1日休車、1975年5月6日廃車、58654号機が同年3月10日休車、3月31日廃車となった[93]。

6 保存機
6.1 動態保存機
6.1.3 鬼滅の刃と無限列車
 2020年に社会現象となるほど大ヒットした漫画『鬼滅の刃』、およびそこからのアニメ映画化『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に登場する無限列車は、この8620形に酷似した機関車である(話の舞台は大正時代)。このためJR九州では58654号機による旅客列車を2020年から当分の間、続いてJR西日本でも8630号機について館内のみだが時々、ナンバープレートを劇中の「無限」に付け替え、同作との相乗効果による集客に一役買っている。

7 脚注
7.1 注釈
[注釈 1]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は46.75 t/43.28 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 2]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は39.75 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 3]^ 1931年形式図で修正でも変更なし[2])
[注釈 4]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は81.25 t/58.78 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 5]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では12.7 kg/cm2[2]
[注釈 6]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では116.0 m2[2]
[注釈 7]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では27.6 m2[2]
[注釈 8]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では12.9 m3[2]
[注釈 9]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では88.4 m2[2]
[注釈 10]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では78.3 m2[2]
[注釈 11]^ 一等車・二等車のみ編成され、最後部には展望車を連結しており、関釜連絡船を介して中国・欧州などへの国際連絡運輸の一部となる「大陸連絡列車」とされていた。
[注釈 12]^ 1919年に日本汽船笠戸造船所として操業を開始し、1921年にこれを日立製作所が取得した。
[注釈 13]^ 1917年に三菱合資会社から造船事業を引継いだ三菱造船が設立され、その後1934年4月に社名を変更して三菱重工業となる。
[注釈 16]^ それぞれ1600 mm(5 fi 3 in)、第1 - 第2動輪間1767 mmおよび第2 - 第3動輪間2286 mm(6 ft 3 inおよび7 ft 6 in)、470 × 610 mm(18-1/2 × 24 in)、191 mm(7-1/2 in)、432 mm(17 in)、1683 mm(5 fi 6-1/2 in)
[注釈 17]^ 旅客用のC51・C54・C55・C57・C59形では3.2 - 3.8[31]、ローカル用のC10・C11・C12形では3.4 - 3.9[32]となっている。
[注釈 22]^ 乙種は制輪子に制輪子ホルダーが付き、そこに制輪子を取付ける。
[注釈 23]^ Westinghouse Air Brake Company, Pittsburgh(WABCO)
[注釈 24]^ 運転室側面下部の形状に関し、臼井重信、高木宏之、金田茂裕は8620-8643号機がS字形、8644号機以降が乙字形としている[52][23][24][22]一方で、川上幸義、浅原信彦は8620-8672号機がS字形、8673号機以降が乙字形としている[53]。
[注釈 25]^ 本形式の後継であるC50形も真空ブレーキ装備であったが、D50形(9600形同形機)は空気ブレーキを装備している。
[注釈 26]^ 1928年12月15日に新得 -鹿追間21.0 km、1929年11月26日に鹿追 - 中音更間23.7 km、1931年11月15日に中音更 - 上士幌間9.6 kmがそれぞれ開業している。
[注釈 27]^ 所要時間往路約200分、復路約210分、列車重量435 - 445 t、御殿場越えは補機として往路は9750形、復路は9850形を使用。

7.2 出典
[1]^ 『機関車の系譜図 4』 p.498
[2]^ 『8620形機関車明細図』 p.5
[3]^ 『追憶の蒸気機関車』
[4]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.42
[5]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.226
[6]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.178
[7]^ 『機関車の系譜図 4』 p.492
[8]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.26
[9]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.163
[10]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.23
[11]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.32
[12]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.70
[13]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.71
[14]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.28
[19]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.29
[22]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.31
[23]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.394
[24]^ 「”形式別・国鉄の機関車”補遺」『形式別 国鉄の蒸気機関車別冊 国鉄軽便線の機関車』 p.iii
[28]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.33
[29]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.197
[30]^ 『国鉄蒸気機関車史』.159
[31]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.83, 89, 129
[32]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.104, 110
[35]^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.117
[36]^ 「連合軍専用列車の時代」p.232
[44]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.420
[45]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.106
[46]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.115
[47]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.99
[48]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.96
[49]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.99-100
[50]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.101
[51]^ 『8620形機関車明細図』 p.87-88
[52]^ 『機関車の系譜図 4』 p.496
[53]^ 『ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車 I』 p.109
[61]^ “随時アップ:消えた車輌写真館 48679”. NEKO PUBLISHING (2011年11月14日). 2020年4月19日閲覧。
[79]^ 『機関車表』 p.14567-14659
[80]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.395-396
[81]^ 『全国蒸気機関車配置表』 p.62-63
[83]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.395
[85]^ 『機関車表』 p.5512
[87]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.30
[88]^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.114
[92]^ 『ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車』 p.133
[93]^ 『機関車表』 p.1178, 1186

8 参考文献
 書籍
・日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第4篇』日本国有鉄道、1958年。
・日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第5篇』日本国有鉄道、1958年。
・臼井茂信『機関車の系譜図 4』交友社、1978年。
・臼井茂信『日本蒸気機関車形式図集成 2』誠文堂新光社、1969年。
・川上幸義『私の蒸気機関車史 下』交友社、1981年。
・高田隆雄『蒸気機関車 日本編』小学館〈万有ガイドシリーズ 12〉、1981年。
・高木宏之作『国鉄蒸気機関車史』ネコ・パブリッシング、2015年。ISBN 9784777053797。
・沖田祐作『機関車表』ネコ・パブリッシング、2014年。ISBN 9784777053629。
・浅原信彦「ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車 I」『NEKO MOOK』第2682巻、ネコ・パブリッシング、2018年、 ISBN 9784777021826。
・徳永益男、松本謙一「全国蒸気機関車配置表」、イカロス出版、2018年、 ISBN 9784802204354。
・『蒸気機関車全史 (1)』学習研究社〈歴史群像シリーズ〉、2005年。ISBN 9784056041514。
・『8620形機関車明細図』鉄道史資料保存会、1994年。ISBN 9784885400896。
・金田茂裕『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』機関車史研究会、1986年。ISBN 4871126145。
・金田茂裕「”形式別・国鉄の機関車”補遺」『形式別 国鉄の蒸気機関車別冊 国鉄軽便線の機関車』機関車史研究会、1986年。ISBN 4871126153。

 雑誌
・寺島京一「台湾鉄道の蒸気機関車について」『レイル』第23巻、エリエイ出版部、1988年。

 その他
・近藤一郎「形式別 国鉄の蒸気機関車 正誤表」2020年。
最終更新 2020年12月26日 (土) 10:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 1914年(大正3年)~1929年(昭和4年)製造の急行旅客用であり、「キューロク」9600形と双璧をなす。
 「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」
 「絶対に空転しない機関車」
と後にローカル線に回されても客貨両用に活躍した蒸機だ。現在話題の『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に登場する無限列車は、舞台は大正時代であるため、この8620形に酷似した機関車であるそうだ。(秋に劇場に行った娘に聞いたが分からないそうだが・・)

 無煙化は地方ローカル線・入換用機関車が結果、後回しにされたため、国産初の量産機達が最後まで活躍することになった。
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Posted at 2021/01/31 19:16:49

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