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2021年02月01日

『国鉄キハ55系気動車』

『国鉄キハ55系気動車』 国鉄キハ55系気動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 キハ55系気動車(キハ55けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が準急列車用に開発した気動車である。
 キハ55系の呼称は国鉄の制式系列呼称ではなく同一の設計思想により製造された形式を便宜的に総称したもので、具体的には新製車であるキハ55形(キハ44800形)・キハ26形・キロハ25形・キロ25形および派生形式のキユニ26形・キニ26形・キニ56形を指す。
 また本項では本系列の基本設計を踏襲して製造された私鉄向け同形車についても解説を行う。

[写真・画像] 海岸を走るキハ55系 準急「きのくに」 (1960年頃)
朝日新聞社 - 朝日新聞社編 日本国有鉄道監修『日本の鉄道』(1960年10月14日発行)

国鉄キハ55系気動車(共通事項)
 基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造所 新潟鐵工所・帝國車輛工業・富士重工業・日本車輌製造・東急車輛製造
製造年 1956年 - 1960年
製造数 486両
廃車 1987年
 主要諸元
軌間 1,067 mm
最高速度 95 km/h
全長 21,300 mm
全幅 2,928 mm
全高 3,890 mm[注 1]
車体 普通鋼
台車 金属ばね台車
DT19→DT22(動力台車)
TR51(付随台車)
動力伝達方式 液体式
機関 DMH17B (160→170ps/1500rpm)
DMH17C (180ps/1500rpm)
歯車比 最終減速比2.976
制動装置 自動空気ブレーキ
保安装置 ATS-S

1 概要
 優等列車向けとしては国鉄最初となる準急型気動車で、1956年から1960年にかけて486両が製造され、日本各地に配置された。
 在来の蒸気機関車牽引列車を走行性能で凌ぎ、客室設備面でもほぼ同等の水準に達した。勾配線区やローカル線でも高速運転を可能としたことから、日本全国に気動車準急のネットワークを作り上げる原動力となった。
 1950年代後期から1960年代初頭に本系列で運転開始された地方線区の準急・急行列車は、日本各地で運転される現行のローカル特急列車の前身となった事例が多数存在しており、それまで幹線主体であった優等列車サービスを、地方の支線級路線に拡大させた車両としての歴史的意義は大きい。
 最初に投入された準急「日光」にちなみ当初は『日光形気動車』とも通称されたが、その後同列車に投入された157系電車が「日光形電車」と呼称されたため、その後この名称は衰退した。

2 登場までの経緯
2.1 10系気動車とその2エンジン形車の展開
 日本国有鉄道(以下「国鉄」)は1953年に総括制御が可能な普通列車用キハ45000系[注 2]液体式気動車の量産を開始した。160PS級DMH17Bディーゼルエンジンを1基搭載し、平坦路線では蒸気機関車牽引列車を凌駕する走行性能を確保したが、勾配路線では出力不足であった。
 1954年には、出力強化を目的にDMH17Bを2基搭載としたキハ44600形(後のキハ50形[注 3])が2両試作され、急勾配区間のある関西本線での試用が実施された。結果は良好で、25‰勾配登坂の均衡速度は1エンジン気動車での23km/hから、44600形のみによる2エンジン車編成では41km/hへと劇的に向上した[1]。同形を用いて1955年3月から運転開始された準急列車[注 4]は、名古屋 - 湊町(現・JR難波)間約180kmを3時間未満で結び、従来に比して大幅な速度向上を実現した。同形には、通常型気動車に比べ全長が2m長いゆえに分岐器の安全装置作動の支障があったものの、キハ44700形(後のキハ51形)では全長を20.6mに抑えて分岐器問題を解決した。

2.2 10系気動車の問題点
 エンジン2基搭載車の実用化で走行性能面は改善されたものの、キハ10系は以下に挙げられるような、決して快適な車両とは言い難い課題を抱えていた。
・軽量化が最優先された基本構造のため、客車のようなデッキ仕切の設置は見送られた。また車体幅は標準的な客車・電車に比して20cmも狭く、天井も低くされた。
・暖房装置は、初期には戦前のガソリン動車同様に排気ガスの廃熱を利用した熱交換式排気暖房であった。排気暖房は非効率で性能不充分なため、途中から軽油燃焼式温気暖房装置への切替を余儀なくされた。
・初期型のクロスシートは肘掛けがなく、背ずりは低いビニール張りで当時のバス並みであった。後期型は背ずり高さが拡大され、表面も客車並みにモケット張りとなったが、背ずりの中身は枠と詰め物だけで仕切り板がなく、背中合わせの乗客同士で動きが伝わる作りの悪い構造であった。前述した関西本線準急列車では、競合する近畿日本鉄道(近鉄)特急に対して優位となったのは、名阪間直通運転[注 5]と速達性のみであった[注 6](近鉄特急史も参照)。
・台車は鋼板プレス加工により組み立てたDT19形を装着するが、乗り心地に重要な役割を果たす枕ばねを硬い防振ゴムブロックで代用した設計[注 7]で、充分に振動を吸収できず、特に軸ばね動作が制約されるブレーキ作動時には著しく不快な挙動を示した。

 上述問題点の中でも、ことに車内設備は普通列車用としても低水準だったことから、抜本的対策が求められた

2.3 キハ44800形(キハ55形先行量産車)の開発
 1955年に国鉄は、当時スイス連邦鉄道(スイス国鉄)で1,000両以上が量産されていた軽量客車(Leichtstahlwagen) を参考にした画期的な構造車体を備える10系客車の製造を開始する。同系列客車は、セミモノコック構造・プレス鋼板溶接組立台車・内装への軽金属やプラスチック等の採用により、在来車に比して寸法と定員は同一ながら30%の軽量化を実現した。
 そこで軽量化対策が最重要課題の一つであった気動車についても、この設計手法を応用することで居住性の改善が期待され、車体寸法や接客設備を従来の客車並みの水準まで引き上げた新形準急用気動車の開発が始まった。翌1956年には東武鉄道1700系特急電車による「日光特急」との競合で苦戦を強いられ、営業面からも抜本的対策が特に強く求められていた日光線準急列車向けとして先行量産車が投入されることとなった。これがキハ44800形 (44800 - 44804) で、三等車のみ5両が製造された。

3 構造
 10系客車同様のセミモノコック構造を採用し、電車・客車同等の車体断面大型化を実現しつつも重量増大を抑制。居住性を大きく改善した。

キハ44700形・キハ44800形 全長x全幅x全高比較(単位mm)
・キハ44700形(キハ51形) 20,600x2,740x3,710
・キハ44800形(キハ55形) 21,300x2,928x3,890[注 1]

 21.3mの全長は電車・客車を凌ぎ、カーブや分岐器通過に支障のない限界一杯値[注 8]に設定された。以後この全長は、国鉄在来線旅客車における最大基本規格として現在のJR各社まで踏襲されている。

3.1 初期形の特徴
初期生産車はキハ44700形を一回り大きくしたような外見と以下の特徴を持つ。
・側窓は従来と同様に上部をHゴム支持の固定窓としたスタンディングウインドウ(いわゆるバス窓)であるが、車体構造の改善で窓下のウインドシル(補強帯)が廃された。
・運転台はキハ45000系同様の貫通型であるが、運転台窓はキハ45000系用窓ガラスを流用したため従来同様の小型タイプで、車体断面の拡大が際立った。
・塗色は全体を淡い黄色とし、雨樋と窓下に細い赤帯(二等客室部分は青(青1号)帯)を入れた。一般に汚れの目立ちにくい濃色を好んだ当時の国鉄では異例の明るい塗装である。
 ・1959年からは151系特急形電車同様のクリーム色に窓回りを朱色とする塗り分けに変更されたが(当時は前面の塗り分け線も後の急行色とは異なっていた)、1960年代半ば以降にキハ58系と共通した急行気動車色(クリーム4号+赤11号)に移行した。1980年代に入り、ローカル線普通列車で運用されるようになってからは一般形気動車と同じ朱色5号単色塗りに変更された車両も存在する。

3.2 接客設備
 客室は客車同等の大型クロスシートを配置し、窓側壁面には10系客車同様のビニール製ヘッドレストを設けた。車内照明は竣工の段階では従来通り白熱灯が採用された[注 9]。
 トイレも10系客車同様にデッキ車端寄りに設置した。トイレ対向部には水タンクを設置。客用ドアはやや狭幅でデッキと客室の間には仕切扉が設けられたが、縦型シリンダエンジン搭載で客室床にエンジン点検蓋が残されたため、エンジンからの騒音や臭気の完全遮断には至っていない。
 排気管は車体中央部両側壁面に立ち上げられた形状となった。このため当該部分は、遮熱・遮音のためのカバーが太い柱のようになり、ボックスシートの背ずり同士の間にデッドスペースが生じた[注 10]。

3.3 主要機器
DMH17Bエンジン (160PS/1,500rpm) とTC-2形液体変速機を搭載する、台車はゴムブロックを枕ばねに使用するDT19形を装着する。
・同台車は上述のとおり乗り心地が劣悪であったが、開発時点では国鉄気動車に使用し得る量産台車が他になく、やむを得ず採用された。

4 新製形式
 等級については製造開始時に準ずる。

4.1 キハ55形
 2エンジン形三等車。本系列の基本形式である。
●1次車 (1 - 5)
 1956年製。当初はキハ44800 - 44804の車両番号が付与されたが、1957年4月の気動車称号改正で改番した。側窓はスタンディングウインドウ、正面窓は小窓。車内灯は白熱灯。前位戸袋部は2人掛けのロングシートであり、前後デッキ部には折りたたみ式の補助イスが各2人分設置された。後位側車端部隅にもRが付いている。
●2次車 (6 - 15)
 1957年に製造されたスタンディングウインドウ車。蛍光灯照明となり、DMH17Bは小改良が実施され出力が170PSに向上した。後部デッキ水タンク横に簡易洗面所を設置したことから、この部分の補助イスは廃止された。前位側のロングシートは運転席側戸袋窓部のみとなる。前面運転席窓の大型化と雨樋縦管が車体に埋め込まれたことで、1 - 5と判別が可能である。
●3次車 (16 - 46)
 1957年末から製造されたスタンディングウインドウ車。台車を新型のウィングばね式台車であるDT22形に変更し、乗り心地が改善された。その後、それ以前のDT19形装着車についても順次DT22系への振り替えが行われた。このグループから、車端部が完全な切妻となった。
●4次車 (101 - 270)
 1958年から製造された最終形で、側窓はスタンディングウインドウから大型の一段上昇窓に変更された。エンジンはDMH17C に変更され180PS/1,500rpmに出力が増強された。その後はDMH17B搭載車についても順次DMH17Cへの変更が行われた。

4.2 キハ26形
 キハ55形は急勾配区間でも必要な性能を得るために2エンジン方式で製造されたが、1950年代後期は1エンジン気動車で十分な性能が得られる平坦路線でも非電化区間は多かった。このため製造コスト抑制による気動車化促進を目的に、キハ55形の平坦線向け仕様として1958年から製造された1基エンジン三等車が本形式である。エンジン回りを除いた仕様は、室内設備から台枠まで共通化されており、キハ55形への改造も可能である。
●1次車 (1 - 22)
 1958年製造の初期形。キハ55 16 - 46に準じ、側窓はスタンディングウインドウで台車はDT22形動力台車・TR51形付随台車を装着する[注 11]。
●2次車 (101 - 272)
 1959年から製造の改良型。キハ55 101 - 270に準じ、一段上昇窓となった。本グループから2両が事故廃車されている。

4.3 キロハ25形
 本系列登場当時は、一部の準急列車で二等車の需要もあったため、当初それらの列車には10系気動車の二・三等合造車であるキロハ18形を充当していた。キロハ18は二等座席のシートピッチ拡大や洗面所装備など優等車としての設備を整えてはいたが、元来が狭幅車体の10系在来車では根本的な居住性に難があった。これを代替する車両として1958年から製造されたのが本形式で、全車新潟鉄工所が製造した。この時点では全室二等車とするほどの需要が期待されなかったこともあり、キロハ18形を踏襲した二・三等合造車となった。
 本形式はエンジン2基搭載のキハ55形との混結が前提とされたことから、エンジン1基搭載とした上でキハ26形を基本とした片運転台2デッキ構造を採用したが、以下の点で特異性がある。
・運転台寄り前半分が同時期に製造されたサロ153形に準じた回転クロスシートを設置した二等客室、後半分がキハ55形に準じた固定クロスシートと戸袋窓部は1人掛けのロングシートとした三等客室とされた。
・客室窓は二等側は座席一列ごとの一段上昇式狭窓、三等側は1次車がスタンディングウインドウ、2次車が一段上昇窓。
・トイレ・洗面所は運転台直後に設置。トイレはスペースを採れる助士席側に通常のレイアウトで設置されたが、洗面所はスペースが限られる運転席側に、窓側に向かう配置でシンクを置いた。
・二等客室から騒音源を遠ざけるためキハ26形とは床下機器の配置を逆転させ、後位側(運転台のない三等側)にエンジンを搭載するほか、排気管は二等・三等客室間仕切部に設置。

 一等車[注 12]としては、冷房装置がなく座席がリクライニングシートでないなどアコモデーションが陳腐化したことから1965年以降にキロ28形への置き換えが行われるようになり、1967年 - 1969年に車体・座席には全く手を加えることなく全車が車両番号を原番号+300としキハ26形への格下げ編入が実施された。
●1次車 (1 - 5)
 1958年製造。キハ55 16 - 46グループに対応する。エンジンはDMH17Bを搭載しDT22形・TR51形台車を装着する。
●2次車 (6 - 15)
 1960年製造。キハ55 101 - に準じた後期形。エンジンはDMH17Cに変更。

4.4 キロ25形
 気動車準急の運用領域拡大に伴い二等座席の需要も増加したことから、全車が帝国車輛で1959年から製造された[注 13]国鉄気動車初の全室形二等車である。
 本形式はキロハ25では輸送力の足りない列車に充当する目的があったが、当初は新設された準急に充当され増備に伴って本来の目的を達成した。
 座席はキロハ25形の二等室同様回転クロスシート。トイレ・洗面所は通常通りの連結面側配置である。
・キロハ25形ではエンジン上部を三等室として二等室の静寂性を確保したが、全室二等車の本形式では騒音を抑える配慮から、コルク材とリノリウム板で加工された床面とされた。しかし、エンジン点検蓋を設ける必要があり、そこから騒音が漏れ出す弱点を対処するまでには至らなかった。

 キロハ25形同様にアコモデーションの陳腐化から、1967年 - 1969年に車内はそのままの状態で全車が車両番号を原番号+400としキハ26形への格下げ編入が実施された。
●1 - 61
 キロハ25形二等席部同様の一段上昇形狭窓を装備。DMH17Cを搭載する[注 14]。

5 改造形式・番台
5.1 キハ26形300番台
 キロハ25形を1967年から1968年にかけて全室普通車に格下げし、原番号+300の改番を実施したものである。車内設備はキロハ25形時代そのままで使用されたが、1973年から1975年にかけて郵便荷物車キユニ26形へ13両、キニ26形に2両が改造され消滅した。

5.2 キハ26形400番台
 キロ25形を1967年から1969年にかけて普通車に格下げし、原番号+400の改番を実施したものである。車内設備はキロ25形時代そのままで主に急行列車の普通座席指定車として使用された。その後キハ58系の冷房化進捗に伴い、普通列車での運用が多くなり座席モケットをエンジからブルーに張り替えた車両も存在する。また地域により座席回転機能を存置した例と、向かい合わせで固定した例とがあった。
 1976年 - 1977年に21両が後述のキハ26形600番台に改造されたほか、1976年 - 1980年にかけて7両がキユニ26形に改造された。本区分番台は1980年 - 1986年にかけて廃車された。

5.3 キハ26形600番台
 通勤輸送用としてキハ26形400番台の座席全部または一部をロングシート化したもので、1976年 - 1977年に小倉工場(現・JR九州小倉総合車両センター)および鹿児島車両管理所(現・鹿児島車両センター)で21両に改造施工された。
 落成後は、601 - 616が東唐津気動車区に配置され筑肥線で運用された。1977年改造の617 - 621は、中央部に16名分のクロスシートを残存させ鹿児島地区に投入された。晩年は塗装も一般形気動車と同じ朱色5号の一色塗りに変更され、1983年から1986年にかけて廃車された。
・キハ26 434・425・427・445・419・448・441・436・440・432・442・447・412・420・416・452・411・410・438・460・444 → キハ26 601 - 621

5.4 キユニ26形
 1973年 - 1980年にキハ26形25両を郵便荷物車に改造したものである。種車は、キハ26形の各タイプに渡っており、改造年次・施工工場による形態変化が見られる。また投入線区も北海道から九州まで日本全土に渡る。1984年 - 1986年にかけて廃車され形式消滅した。
・キハ26 301 - 303・310・312・305・311・306・19・308・309・314・315・22・433・459・313・169・453・451・424・446・1・413・118 → キユニ26 1 - 25
●1 - 8・10 - 13・17
 キハ26形300番台を種車としたもので、1973年 - 1976年に松任・名古屋・後藤・多度津の各工場で13両が改造された。このうち1 - 3・6は、1次車が種車のためスタンディングウインドウが残存する。郵便室(荷重4t)は前位側に、荷物室(荷重5t)は後位側に設置された。
●9・14・18・23・25
 キハ26形0番台・100番台を種車としたもので、1975年 - 1980年に旭川・苗穂・後藤・幡生・多度津の各工場で5両が改造された。このうち9・14・23は、0番台からの改造車でスタンディングウインドウが残存する。郵便室(荷重3t)が前位側に、荷物室(荷重5t)が後位側に設置された。
●15・16・19 - 22・24
 キハ26形400番台車を種車としたもので、1976年 - 1980年に旭川・苗穂・五稜郭・幡生の各工場で7両が改造された。郵便室(荷重4t)を前位側に、荷物室(荷重5t)を後位側に設置された。

5.5 キニ26形
 1973年 - 1975年に後藤・名古屋の各工場においてキハ26形4両を荷物車に改造したものである。荷重は13t。種車は300番台と1次量産車0番台。1984年までに廃車となった。
・キハ26 304・307・3・7 → キニ26 1 - 4

5.6 キニ56形
 1971年 - 1978年に大宮・長野・多度津の各工場においてキハ55形4両を荷物車に改造したものである。荷重は15t。種車は3のみがキハ55形二次車(0番台)でスタンディングウインドウに後妻の隅にRを持つ。そのほかは100番台車である。1986年までに廃車となった。
・キハ55 141・216・14・159 → キニ56 1 - 4

6 運用
 1956年10月、予定通り日光線準急「日光」に先行試作車が投入され運用を開始した。
・「日光」は上野 - 日光間を方向転換必須な宇都宮1駅のみ停車で運転されたが、東北本線内では上野 - 宇都宮間106.1kmを急行停車駅の赤羽・大宮・小山をすべて通過する特急並み扱いのノンストップ81分で走り切り(区間表定速度78.5km/h)、日光線内は連続勾配区間にも関わらず2エンジン車の登坂力を発揮してこちらも40.5kmをノンストップ41分(登坂のある下り列車。区間表定速度59.2km/h)で走破した。全区間では宇都宮の2分停車も含め146.6kmを2時間4分で走破、表定速度70.8km/hに達した[注 15]。
・競合する東武鉄道は、やや利便性の悪い浅草をターミナル駅にしており、上野を起点とする国鉄列車はそれに大きな打撃を与えることに成功した。翌年「日光」は東京駅始発となり、さらに利便性が向上した。しかし1958年には同線の電化が行われ、翌年の改正で「日光」は157系電車に変更し、本系列の日光線での運用を終了した。

 しかし、「日光」での成功は大きな実績となってこれ以降も本系列の量産は続けられ、全国各地でキハ55系を用いた準急列車が新設されていった。
 耐寒耐雪構造ではないが、北海道でも1960年から翌年にかけて函館本線急行「すずらん」で運用された。厳冬期には本系列は本州に戻され、二等車は一般形車両のキハ22形で代替したが[注 16]、代替車のないキロ25形は酷寒の中でも無理をおして運用された。また後年、耐寒設計でないにもかかわらず少数の本系列が苗穂機関区(現・苗穂運転所)など北海道内に配備され、室蘭本線・千歳線の急行「ちとせ」や道央圏の普通列車運用に充当された。
 当時としては優秀だった高速性能を生かし、1958年4月には不定期ながら国鉄初の気動車急行列車「ひかり」が九州地区で[注 17]、さらに同年9月には初の気動車定期急行列車「みやぎの」も運転開始され、本系列が充当された[注 18]。
 しかし、1961年からは急行列車用のキハ58系が製造開始され、居住性に劣る本系列の優等列車での運用は徐々に縮小された。1966年3月には、100kmを超えて走行する準急はすべて急行列車とする制度改正を実施。1968年10月のダイヤ改正で準急列車が全廃され、本系列における本来の用途は失われた。
 その後はキハ58系とともに急行列車でも運用されたが、キハ58系に比べ車体幅が狭く冷房化も施工されなかったことによる接客設備の見劣りから、1970年代以降は優等列車運用が減り[注 19]、地方ローカル線の普通列車運用に転じ[注 20]、国鉄分割民営化直前の1987年2月までに全車が廃車となった。保存車はない。

7 私鉄向け同系車
 本系列は比較的長く国鉄で運用されたこともあり、私鉄への払下げ車は存在しない。ただし、私鉄独自に同形車を新造した例が南海電気鉄道と島原鉄道の2社に存在する。
 いずれも国鉄の準急列車への併結を目的に新製されたもので、国鉄車との総括制御が可能であり、基本的に接客設備も同等とされているが、国鉄車には存在しない両運転台車・空気ばね台車・冷房改造など各社の独自性が散見できる。

7.1 南海電気鉄道キハ5501形・キハ5551形
 南海電気鉄道では、戦前の南海鉄道時代より鉄道省からの借り入れ客車を自社線内は電車で牽引、和歌山からは鉄道省の客車列車に併結するという形態で紀勢西線への直通運転を実施していた。戦後は自社発注で国鉄制式客車と同等のサハ4801形客車を新造してこの直通運転を再開した。
 その後、1959年に国鉄紀勢本線が全通すると南海本線からの直通列車の需要増が予想された。このため、新たに設定された紀勢線気動車準急「南紀」に併結して南紀方面への直通運転を実施すべく、キハ55形に準じたエンジン2基搭載車を自社発注で新造することとなった。これが片運転台車のキハ5501形と両運転台車のキハ5551形である。
 基本的に国鉄キハ55形100番台と共通設計であるが、座席指定列車として運行される関係でキハ5501形と定員を同一にすることが要請された。このため両運転台のキハ5551形は出入台部とその座席配置に独自設計が施されており、国鉄車にはないトイレなし仕様とされた。
 そのほか共通した特徴としては、窓下部の2か所に南海所有車であることを示す行灯式表示が装備され、車両限界の小さい南海線内での運行に備え、側窓の下部に保護棒が設置された。塗装は当初は全体を淡い黄色とし、雨樋と窓下に細い赤帯を入れたいわゆる準急色で竣工したが、のちに併結相手である「南紀」・「きのくに」の急行格上げでクリーム4号+赤11号の急行色に変更された。
 1959年7月にキハ5501・5502 、同年9月に検査予備を兼ねるキハ5551がそれぞれ堺市の帝國車輛工業で新製されたが、キハ5501・5502は新潟鐵工所で国鉄向けに製造中であった構体を購入して、南海用に仕立てあげたものである。その後利用客が増加したことから増便[注 21]が図られ、1960年にキハ5503・5504 ・5552、1962年にキハ5505・5553・5554が増備され、両形式合わせて9両が製造された。
 運行開始時には当初計画から予定が繰り上げられた結果、南海社内での乗務員養成が間に合わず、南海本線(難波 - 和歌山市間)については1959年8月20日までの約1か月間が、同じく国鉄乗り入れ用として使用されていたサハ4801形客車同様、エンジンをアイドリング状態にして2001形電車3両で牽引した。
 南海線内は特急扱いとして2両あるいは3両編成で単独運行され、東和歌山(現・和歌山)からは天王寺発着の準急→急行列車に併結されて全席座席指定車扱いで白浜口(現・白浜)あるいは新宮まで運行された[注 22]。
 キハ5505が踏切事故のため僚車に先駆けて1973年に廃車され、関東鉄道に譲渡されてキハ755となったほかは、その後も南紀直通急行「きのくに」で運用された。
 国鉄側の急行列車は1961年以降キハ58系に代わり、1969年以降は冷房化も順次進められたのに対して、キハ5501形・5551形は全車エンジン2基搭載[注 23]で発電セット搭載スペースがないため冷房化できない事情もあり、紀勢本線和歌山 - 新宮間の電化が完成して特急「くろしお」が381系電車化・増発された1978年10月ダイヤ改正以降、難波発着の「きのくに」は減便が順次実施された。南海でも一時期485系電車を購入して本形式の後継車として使用するという報道がなされたことがあった[2]が、和歌山市駅構内にある南海・国鉄の連絡線を電化させる必要があり、利用実態と費用面を考慮した結果断念している[注 24]。
 その後1985年3月ダイヤ改正で、当時気動車急行のまま残存していた「きのくに」が485系電車[注 25]の投入により特急「くろしお」に格上げされたことで併結対象列車が消滅。この結果南海が自社線内で運行していた特急列車のダイヤ整備に伴う運行休止[注 26]を名目に南海難波発着の「きのくに」を廃止。用途喪失後の2形式は同年5月に全車廃車され、解体処分された。

7.2 島原鉄道キハ26形・キハ55形
 島原鉄道(島鉄)では、1958年からキハ20形(自社発注車)を使用して長崎本線諫早 - 長崎間への直通運転を実施していたが、国鉄の準急列車への併結を実施するため1960年に国鉄キハ26形・キハ55形に準じた気動車を製造した。これが島鉄のキハ26形・キハ55形[注 27]であり、1960年にキハ26形2両 (2601・2602)が新三菱重工業(現・三菱重工業)で、キハ55形4両が帝國車輛工業(5501・5502)・富士重工業(現・SUBARU、5503)・新三菱重工業(5505)で[注 28]、1963年にキハ55形1両(5506)、1964年にキハ26形1両(2603)がともに川崎車輌(現・川崎重工業車両カンパニー)で新製され、国鉄準急や急行「出島」・「弓張」に併結し、博多・小倉への直通運転を実施した。
 いずれも両運転台車であり、キハ26形には座席定員をキハ55形と同一に保ちつつ、苦しい配置ながらもトイレが設置された。1960年製造車は空気ばね台車を装着。最終増備車となった1963・1964年製車は、国鉄キハ58系並みに前照灯をシールドビーム2灯式に変更し、前面上部左右に振り分けて設置したほか、台車も国鉄向け同系車と共通のDT22形・TR51形相当に変更された[注 29]。
 1970年代に入ると併結相手となる国鉄側の急行気動車の冷房化が進捗したこともあり、引き続き博多直通の急行列車として使用するキハ26形に対しては、1972年に3両全車が電源エンジンとAU13形分散式冷房装置[注 30]を搭載する改造を施工されたが、1980年10月のダイヤ改正で国鉄直通が廃止となったため以後は自社線内のみで運用された。一方キハ55形は非冷房かつ2エンジン車のままで、国鉄線の急行列車の冷房化が完了した1973年以降は長崎直通の普通列車の運用に充当され、国鉄直通が全廃された1980年以降はこちらも自社線内運用に充当された。
 1994年からキハ2500形の増備により廃車が開始され、キハ26形は1997年に、キハ55形は2000年[注 31]に全廃された。

7.3 関東鉄道キハ755形
 前述の南海電気鉄道キハ5505を譲り受けたものである。譲渡時に西武所沢車両工場で座席のロングシート化と客用扉の増設が施工されたが、車体中央部に排気管が存在したため3扉化できず幅1,300mmの両開き扉を排気管を避けて車体中央部に2か所増設し、1975年に竣功した。このため、気動車としては異例の片側4扉車となった。
 元小田急キハ5000形気動車のキハ751形などとともに2エンジン車であることから、常総線でトレーラー車のキクハ1形・キサハ65形などと編成を組成して運用されたが、1989年に廃車された。

8 脚注
8.1 注釈
[注 1]^ 6以降は全高を3,925mmに拡大。
[注 2]^ 1957年の称号規程改正によりキハ17形へ改称。
[注 3]^ 後年にキハユニ17形へ改造された。
[注 4]^ 当時は列車愛称なし。1958年より「かすが」の愛称が付帯した。
[注 5]^ 当時の近鉄は大阪線と名古屋線で軌間が異なるため、伊勢中川駅での途中乗換が必要とされた。
[注 6]^ 近鉄特急電車は快適な2人掛け転換座席を持つだけでなく、1957年には冷房装置や列車電話・ラジオの搭載を実現した。
[注 7]^ 1952年に開発された直角カルダン駆動方式で揺れ枕が設置できなかった電気式気動車用DT18形台車の設計をそのまま踏襲していた。
[注 8]^ 初期形では大事を取って後位側の隅にもRがつけられていた。
[注 9]^ 客室設備設計のモデルとされた10系客車の蛍光灯化が1957年のナハ11形以降であることから、当時の国鉄標準仕様にそったものであり、気動車故にことさら旧式設計が放置されていたわけではない。蛍光灯化に必要な交流電源を電動発電機で比較的容易に出力可能な電車とは異なり、蓄電池による直流電源を用いる気動車や客車の蛍光灯化は技術的な面で難易度が高かったことも要因のひとつである。
[注 10]^ DMH17系縦型シリンダエンジンを搭載し屋上排気を行う国鉄車に共通する特徴であるが、設計上必ずこの位置に排気管を設置する必要はなく、雄別鉄道キハ49200Y形や津軽鉄道キハ24000形など後に私鉄で独自設計されたDMH17C縦型エンジン搭載車では車端部設置とした例もある。
[注 11]^ ゆえにキハ26形にはDT19系台車を装備した車両は存在しない。
[注 12]^ 1960年の二等級制への移行に伴い二等席から変更。
[注 13]^ 帝国車輛は戦前の旧・梅鉢鉄工所以来の客車・電車製造のノウハウがあり、中堅メーカーながら同業他社に比しても車体内外装の仕上げ能力が優秀で、とりわけ外板歪みの少ない鋼製車体を作る技術に長けていた。このため国鉄からも複数形式の車両を製造する際、特に美観に優れることの望ましい優等車製作に抜擢されることがしばしばあった。
[注 14]^ DMH17C制式化後の製造のため本形式では製造時期による構造差異は存在しない。
[注 15]^ 「日光」の東北本線内での運転について当時の乗務員は「(時速)93kmぐらいで飛ばさないと定時運転できない」と証言していた(『鉄道ピクトリアル』73号(1957年8月)掲載のT記者「(気)日光→上野に乗って」より)。また当時の東北本線該当区間の制限速度は95km/hである。
[注 16]^ キハ22形はデッキ部分の洗面台の有無以外は本系列と車内設備的には遜色がなかったため道内においては普通列車のみならず準急・急行列車でも数多く運用された。
[注 17]^ ただし、すぐに定期準急列車へ格下げされたほか、鹿児島本線で蒸気機関車牽引の特急列車をも上回る高速運転を行ったことが知られる。
[注 18]^ この時に急行気動車用標準塗装(クリーム色4号と赤11号)が登場したが、塗り分けについては窓回りの赤帯が前面と側面で繋がる形状でキハ58系に準拠したその後の塗り分けとは異なる。
[注 19]^ それでも1980年頃までは、お盆・ゴールデンウィーク・年末年始など繁忙期に増結車や臨時列車として急行列車に充当された。
[注 20]^ 本系列は客用ドア幅が狭く、ラッシュ時運用に難があった。
[注 21]^ 全盛期には最大で定期3往復+不定期1往復の4往復が運行された。
[注 22]^ 両運転台型のキハ5551形は、短期間ではあったが南海線内で単行で営業運転された実績がある。
[注 23]^ 2エンジン搭載としたのは南海線内での高速運転の必要性(南海の特急電車と同一所要時分にするためならびに線内最高速度が国鉄車の95km/hを上回る100km/hであった)によるもので、非力なDMH17Cでは1エンジン車での運行は加速力や勾配区間(特に孝子峠越えの22‰連続勾配区間)における高速性能などが不足し、運行困難なダイヤであった。
[注 24]^ 和歌山市駅を発着する列車は全て電車であるが、現在もこの連絡線のみ電化が行われていない。
[注 25]^ 東北・上越新幹線開業に伴う在来線特急の整理などで発生した大量の余剰車の全国的な転配と中間車への運転台取り付け改造などにより定数が充足された。詳細は「国鉄485系電車#分割民営化前・短編成化」を参照のこと。
[注 26]^ 特急「四国」および急行「きのくに」の廃止と10000系の投入による特急「サザン」の運行開始を主軸とする。なお「四国」の廃止と「サザン」の運行開始は1985年11月1日のダイヤ改正にて実施。
[注 27]^ 島鉄がエンジン2基搭載車を導入した理由は、国鉄線内の勾配区間での余裕時分確保と島鉄線内での付随車(主に郵便車。島鉄は古い気動車からエンジンを下して改造した郵便荷物車を多く保有した)牽引の必要があったため。
[注 28]^ 5504は忌み番として欠番。
[注 29]^ 増備車の金属ばねへの変更は、ベローズ式空気ばね台車の特徴的な揺れ方が、島鉄線内で却って不評であったことによる措置とされる。
[注 30]^ 本系列およびその派生車で唯一の冷房化事例。
[注 31]^ 2エンジン車の高出力を買われて工事列車牽引の機関車代用にキハ5502が残存していた。

8.2 出典
[1]^ 吉田正一(鉄道技術研究所)「過給機付ディーゼル動車試験の概要」(『交通技術』1955年8月号 p13-16)
[2]^ 『南海「ひばり」に食指』 朝日新聞大阪版1982年7月10日朝刊

9 参考文献
・寺田裕一 「私鉄気動車30年」 - JTBパブリッシング ISBN 4-533-06532-5(2006年)
・電気車研究会『鉄道ピクトリアル』No.729 特集「キハ55系」

10 関連項目
・国鉄キハ60系気動車
・準急列車
最終更新 2020年11月19日 (木) 03:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)


国鉄キハ60系気動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 キハ60系気動車(キハ60けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1960年(昭和35年)に製造した大出力ディーゼルエンジン搭載の試作気動車である。目的上は急行列車用であった[1]。
 エンジン以外にも、液体変速機や台車・車体などに数多くの新機軸を盛り込んだが、目的を達せず量産化には至らなかった。

1 開発の経緯
 キハ60系の開発は、それ以前の国鉄気動車用の標準エンジンであったDMH17系エンジン(150 - 180 PS)の非力さが問題になっており、その対策が求められたことが発端となっている。

1.1 DMH17系エンジン
 DMH17系エンジンは、国鉄の気動車用標準形ディーゼルエンジンの1つで、排気量17リットル、水冷・直列(または水平直列)8気筒・OHV・自然吸気・副燃焼室(予燃焼室または渦流室)式ディーゼルエンジンである。
 第二次世界大戦前、鉄道省時代の1935年(昭和10年)に、鉄道省の要請により新潟鐵工所・池貝製作所(現・株式会社池貝、株式会社池貝ディーゼル)・三菱重工業の3社が競作した150 PS級エンジンがDMH17形の原型である。その実績に基づき、鉄道省では戦時中の1942年(昭和17年)までにDMH17の原設計を完成していた。戦中・戦後の中断をはさみ1951年(昭和26年)から量産に移された。
 国鉄にとって初の量産型高速ディーゼル機関となったため、冒険を避け余裕を持たせた設計に腐心しており、重量や排気量の大きさの割に出力が低いという欠点が早くから明らかであったが、その性能の安定性故に重用された。フリークエンシー向上・無煙化・高速化など、1950年代後半からの気動車の普及は地方国鉄線区の輸送改善に大きく寄与したが、DMH17系エンジンの信頼性が大きな支えとなっていた。
 DMH17とは国鉄式の呼称で、"D"iesel "M"otor "8気筒"(アルファベットで8番目はH)"17"リットルの意。改良を受けた順にサフィックスとしてA・B・Cが付加される。また、「横形」といわれる、シリンダーを水平配置としたものには、サフィックスの前にH(Horizontal <水平の> の意)が付加される。この他、過給機(スーパーチャージャー)付きモデルはサフィックスの前にSが、中間冷却機(インタークーラー)付きモデルはサフィックスの前にZが付加されるが、国鉄向けとしては過給器・中間冷却器付きモデルは存在しなかった[注 1]。
 燃焼室・噴射ポンプ・噴射ノズル・噴射特性により各タイプに分類される。さらに1960年からは横形(水平シリンダ型)が加わり、以降の主流となった。1951年から1969年(昭和44年)までの長きにわたり、国鉄一般形気動車はもとより、特急形を含むすべての量産形式に搭載された他、特急形気動車のサービス電源(発電セット)用としても採用された。その後も私鉄においては1977年(昭和52年)まで新規製造による採用が続き、21世紀に入ってからもなお少数が旧型気動車に使用されている。

1.2 DMH17系の低出力問題
 DMH17系機関の低出力という欠点は、気動車を急勾配路線で運行する際に顕著で、1エンジン気動車は登坂性能で蒸気機関車牽引列車に劣るケースも見られた。DMH17形に代わる強力なエンジンもなく、編成出力の増強策として1両にエンジンを2基搭載する方法が採られ、その後の標準となった。
 1954年(昭和29年)に2エンジン試作車としてキハ44600形(後のキハ50形)が落成。大柄な直列8気筒のDMH17B形と、その補器を2組分搭載するには床下スペースが不足し、苦肉の策として、台車中心間距離を標準より2 m長い15.7 mとすることで搭載スペースを確保した。しかし、これにより多くの路線で分岐器や曲線通過に支障を来すこととなり、やむなくキハ44600形は線区限定運用とされ、気動車本来の弾力的な運用は諦めざるを得なかった。
 このため、これを教訓として1955年(昭和30年)から造られた改良型のキハ44700形(後のキハ51形)では、床下機器の寸法と配置を見直し、台車中心間距離を14.3 mまで縮小することで、運用の問題を解消している。これで一応は出力が確保され、必要な性能は実現されたことになり、以後特急形までこの方法を踏襲することとなった。
 とはいえ2エンジン車は問題点も抱えており、出力や駆動力は1エンジン車の倍になるが、エンジン・変速機・逆転機も2組ずつ必要となり、製造・保守のコストも倍になってしまうのである。また排気マニホールドの過熱防止のため、主幹制御器の「5ノッチ」段による全出力運転時間は短時間に限られた[注 2]ことや耐久性の面で過給器を装備できないことなどから、これ以上の性能向上に対する余力に乏しいことは明らかであった。
 この点を最も痛感していたのは国鉄自身であり、そのため、DMH17系機関の性能向上を諦め、早くからDMF31系の気動車転用試験が行われることになった。

1.3 DMF31系エンジン
 鉄道省は、1937年にキハ43000形電気式気動車を試作した。この際、島秀雄を中心とする鉄道省の技術者の主導により、国内のエンジンメーカー3社によって専用に競作開発されたのが、出力240 PSの「DMF31H形」と総称されるディーゼルエンジンである。
 排気量31リットルの直列6気筒機関であるが、1気筒あたりの排気量はDMH17形の優に2倍以上という巨大なエンジンで、シリンダーを垂直に立てると気動車の床下に収まらなかった。やむなく水平に寝かせるレイアウトとなり、水平シリンダーを意味する「H」の1字が機関形式の末尾に付いた。結果は惨憺たるもので、クランクシャフト折損などの致命的な故障が多発した。設計や工作技術が未熟であった故とみられる。
 当時すでに日本は日中戦争で相当に国力を疲弊させ、石油燃料の不足が問題になっていた上、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、根本的な改良を行う余地はなくなってしまう。さらに、キハ43000形そのものが空襲で失われてしまった。
 戦後になって、このDMF31系機関の設計をディーゼル機関車のエンジンに再利用する動きが持ち上がった。シリンダーを垂直化されるなど大幅な刷新を受け、過給機の搭載で370 PSを発生するに至ったDMF31S形エンジンは、標準型の量産制式エンジンとして、1957年に開発された入換用機関車DD13形に搭載され良好な成績を収めた。
 DMF31S形はのちに強化形のDMF31SB形に発展し、500 PSにまで出力向上した。またこの設計を元に2倍のV型12気筒としたDML61S系エンジンは、のちインタークーラーの付加で1,100 PS - 1.350 PSの出力を発生するに至り、DD51形や、DE10形といった液体式ディーゼル機関車のエンジンとして、一定の成功を収めている。
 かように好調なDMF31S形エンジンを、気動車用に活用することが考えられた。ただし垂直シリンダー形では気動車の床下搭載は不可能で、当然ながら再度水平シリンダーに設計変更された。過給器装備はそのまま、チューニングを変更して出力400 PSとした。これがDMF31HSA形エンジンである。
 キハ60系気動車は、このDMF31HSA形エンジン (400 PS / 1,300 rpm) を1基搭載する車両として、1959年末から試作され、1960年初頭に完成した。

2 キハ60系の特徴
 当時における次世代の大出力気動車であり、最高速度は110 km/hを計画していた。これは在来形気動車の最高速度95 km/hを大きく上回るもので、当時国鉄最速であった151系電車と同等である。
 車体外観はキハ55系(キハ55形・キロ25形)に酷似しているが、キハ・キロとも外吊り式の客用扉を採用しているのが大きな特徴である。水平機関を用いるため、床面の点検蓋は廃止され、特急形電車並みの浮床構造を採用[注 3]して防振・防音を図っている。
 エンジンは前述のDMF31HSAを1基搭載、これに新たに開発した充排油式の液体変速機を組み合わせた。この変速機は直結段を従来の1段から2段に増やして、駆動効率の改善を図っている。
 駆動台車は大出力に対応するため2軸駆動となった。また高速運転に備え、ブレーキは油圧作動のディスクブレーキとした。このブレーキに関する限り、当時の特急電車並である。

2.1 キハ60形
 1960年に1・2の2両が製造された三等車(すぐに2等級制移行で二等車となる)。1は東急車輛製造、2は帝國車輛工業で製造された。片運転台で、外観は同時期のキハ55形に酷似しているが、外吊り式客用扉で見分けられる。80系電車クハ86形やのちの50系客車のようにデッキ部に出入口を配したトイレはあるが洗面所がなく、客用扉は連結面側に寄っている。車内の座席は通常の固定クロスシートである。
 台車は標準型のDT22形に類似したコイルばね式の2軸駆動台車DT25形(付随台車はTR61形)である。気動車においてギアドライブ式の本格的な2軸駆動台車を採用した先例は、留萠鉄道キハ1000形(1955年製、のち茨城交通に転じて廃車)などがあるが、国鉄では最初の試みであった[注 4]。
 2両とも久留里線で運用[2]され、試験終了後は予備車となり、房総地区各線で海水浴シーズンに付随車代用で使用された後、1965年(昭和40年)にDMH17H (180 PS / 1,500 rpm) 1基搭載・1軸駆動に改造された。DMH17Hへの換装改造後もキハ26形に編入されることはなく、形式は廃車まで大出力エンジン搭載車を表す「60」のままであった。

2.2 キロ60形
 1960年、キハ60形と同時に1両のみ新潟鐵工所で製造された二等車(すぐに2等級制移行で一等車となる)。片運転台で、外観は狭窓が並び、同時期のキロ25形に酷似しているが、外吊り式客用扉で見分けられる。トイレ・洗面所を備え、車内の座席もキロ25形同等の回転クロスシートである。
 台車はやはり2軸駆動であるが、国鉄の気動車用としては初めての空気ばね台車となったDT25A(付随台車はTR61A)。DT25の枕ばねのみをベローズ式空気ばね[注 5]としたタイプである。
 キハ60形とともに、試験終了後の1962年(昭和37年)にDMH17H形1基搭載・1軸駆動に改造された。さらに1968年(昭和43年)には二等車に格下げされてキハ60 101に改番された。こちらもDMH17Hへの換装後もキロ25形に編入されることはなく、廃車まで「60」のままであった。

2.3 キハ60系の挫折
 完成したキハ60系は早速テストに供されたが、試験運転してみると、水平シリンダーの大排気量エンジンは必ずしも好調ではなかった。水平シリンダーは、垂直シリンダーに比して潤滑が難しかったのである。更に、一気筒当りの排気量が気動車用には大き過ぎたのも、新エンジン開発の足枷となった[注 6]。
 また肝心の大出力対応型変速機は、適切に作動させることができなかった。ことに直結の低速段・高速段間の切り替えは、トルクコンバータの滑りを利用できないため回転差のショックが激しく、ついにこれを克服し得なかった。
 当時は電子制御技術以前の時代で、コントロールはエンジン・変速機とも機械式ガバナーに頼るほかなかったが、いずれも細やかな制御は不可能だった。当時の日本の技術水準では、大排気量エンジンと直結2段変速機をスムーズかつ緻密に同調させることができなかったのである。
 キハ60系における大出力エンジンと直結2段変速機の試みは、結局失敗に終わった。同系列の機器はDMH機関と通常型の変速機に載せ替えられ、外吊り式客用扉も後に通常の引戸に改造されキハ55系と大差ない体裁となり、準急列車や久留里線での普通列車運用を経て1978年までに廃車された。保存された車両はない。
 しかし、ディスクブレーキ装備の空気ばね台車だけは、のちにキハ82系特急形気動車に採用され、高速域からの優れた制動能力を発揮して所期の成果を挙げた。

3 脚注
3.1 注釈
[注 1]^ 過給器付きモデルは、走行用機関に限定しなければ、マヤ20形の2次車(マヤ20 10 - 12)に搭載された電源用機関のDMH17S-Gが存在する。マヤ20形の詳細については、「国鉄20系客車#改造」を参照のこと。
[注 2]^ 現場では「5ノッチ・5分」という厳しい条件が課せられていた。
[注 3]^ キロ60とキハ60 2に採用。キハ60 1は木根太を使用した二重構造。
[注 4]^ 戦前には地方鉄道にチェーンによる2軸駆動車が導入されたものの、耐久性や駆動力の円滑さに難があって普及しなかった。導入された車輌ものちにはほとんどがチェーンを撤去して一軸駆動になった。
[注 5]^ 当時、気動車における空気ばね台車の採用は端緒に就いたばかりであった。前年の1959年に常総筑波鉄道(現・関東鉄道)が18 m級気動車キハ500形の一部を空気ばね台車仕様で新製しており、また1960年には、島原鉄道が国鉄キハ55形・キハ26形と同仕様で製造した両運転台車のキハ55形(5501 - 5503・5505)・キハ26形(2601・2602)に装備されている。いずれも揺れ枕吊り式のコイルばね台車をベースに、枕ばねのみベローズ式空気ばねとしたタイプで、空気ばね台車としては古い形態である。
[注 6]^ 6年後の1966年(昭和41年)に製造されたキハ90系では、排気量はほぼ同じながら気筒数が倍のDML30HSA形180°V12エンジンが最終的には採用され、高出力気動車キハ181系・キハ65形のベースとなっている。

3.2 出典
[1]^ ネコ・パブリッシング『公式パンフレットに見る 国鉄名車輛』p.110
[2]^ 『鉄道ダイヤ情報』2012年12月号、交通新聞社 車内写真あり。
最終更新 2020年6月7日 (日) 08:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。



≪くだめぎ?≫
 1953年(昭和28年)から量産された10系気動車は、本来は普通列車用車両だが快速・準急にも使用された。こちら「キハ55」は始めから準急用車両として開発されて1956年(昭和31年)から運用が始まった。『C63形』が幻に終わった原因でもあろう、こちらも試験期間が必要だったから。これが、「C58形」のリピート生産だったら、もっと余裕ある輸送力向上もあったかもしれない。
 急行列車用試作車の次世代大出力エンジンの開発が間に合わず、「DMH17系エンジン」シリーズが生産されていくことになる。
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