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2021年02月01日

『国鉄キハ81系気動車』

『国鉄キハ81系気動車』 国鉄キハ80系気動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

[写真・画像] キハ81形「はつかり」
青森からの特急「はつかり」が到着。キハ80系黄金時代の一コマです。

国鉄キハ80系気動車(こくてつキハ80けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道が開発した特急形気動車。系統としては、1960年(昭和35年)に量産先行車的要素で特急「はつかり」用として製造されたキハ81系グループ26両と1961年(昭和36年)以降に製造されたキハ82系グループ358両の総称で、基本構造の多くを共通とする。

 国鉄キハ80系気動車 基本情報
運用者 日本国有鉄道、北海道旅客鉄道、東海旅客鉄道
製造所 日本車輌製造・新潟鐵工所・帝國車輛工業・富士重工業・東急車輛製造・近畿車輛[1]・日立製作所[1]・汽車製造[1]・川崎車輌[1]
製造年 1960年(キハ81系)1961年 - 1967年(キハ82系)
製造数 384両
運用開始 1960年12月10日
運用終了 2002年10月14日
廃車 2009年3月31日
 主要諸元
軌間 1,067
最高速度 100 km/h
 車両定員
40人(キハ81) / 52人(キハ82)
72人(キハ80) / 48人(キロ80)
40人(キサシ80)
36人(キシ80)
 自重
42.2 t(キハ81)
42.0 - 44.3 t(キハ82)
40.2 - 41.2 t(キハ80)
41.1 - 42.3 t(キロ80)
38.2 t(キサシ80)
43.0 t(キシ80)
 全長
21,300 mm (キハ81)
21,100 mm (キハ82、キハ80、キロ80、キサシ80、キシ80)
全幅 2,903 mm
全高 3,910 mm
台車
DT27/TR67 → DT31B/TR68A(キハ81系)
DT31A/TR68(キハ82系前期)
DT31B/TR68A(キハ82系後期)
動力伝達方式 液体式
機関 DMH17H
 機関出力
180 PS / 1,500 rpm × 1基(キハ81、キハ82)
180 PS / 1,500 rpm × 2基(キハ80、キロ80、キシ80)
変速機 TC-2A/DF115A
変速段 変速1段・直結1段
制動装置 電磁自動空気ブレーキ (DARS)
保安装置 非常時交互点滅灯・ATS

1 概要
 日本における初の特急形気動車であり、1967年(昭和42年)までに384両が製造され、日本全国で広く特急列車に用いられた。
 1987年の分割民営化時には、北海道旅客鉄道(JR北海道)と東海旅客鉄道(JR東海)に継承され、一部はジョイフルトレインに改造された。
 JR東海所属車両が1992年(平成4年)まで特急列車として定期運用された後、約2年半の間は臨時列車で運用され、1995年(平成7年)1月が最後の運転となった。同年2月以降は美濃太田車両区で長らく4両が保存車として在籍していたが、2009年(平成21年)に在籍する全車が廃車となり形式消滅となった。
 四国を除く日本各地に配備され、その地方を代表する特急列車として長く運用されたことから、各地に静態保存車が十数両存在する。早期に廃形式となったキサシ80形以外のすべての形式が保存されており、営業当時の基本編成に近い状態で保存の例もある。

2 登場までの経緯
2.1 1950年代の国鉄特急列車網
 1912年(明治45年)に日本最初の特急列車が新橋 - 下関間に運転開始されて以来、国鉄の特急列車は東海道・山陽本線に限定される形で運行されてきた[注 1]。
 太平洋戦争終了後もその傾向は変わらず、1958年(昭和33年)までは東海道・山陽本線と鹿児島本線の一部に限って特急が運行されていた。
 1950年代までの「特急」の存在は、文字通りの「特別急行」であり、当時の意識では地方路線に運行すること自体が論外であった。戦後間もない時期は、旅客の速達需要そのものが21世紀初頭の現代に比べて遙かに低く、戦前から沿線に大都市を擁していた東海道本線を除けば、急行以上に速い特急列車を設定する必然性が低かった。
 また電化についても、1956年(昭和31年)に東海道本線が全線電化完成したほかは、幹線の長距離電化区間は1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)にかけて完成した高崎・上越線上野 - 長岡間に限られていた。したがって当時、多くの路線は蒸気機関車によって運行される非効率な状態であり、従前の急行列車に比して大きく速度向上する手段は、編成両数を極端に減ずるか、停車駅を減らす以外に方法はなかった。
 しかし需要が限られる以上、特急列車の運行の余地は少なく、少ない本数の急行列車で中距離客・長距離客いずれにも対応しなければならなかった。
 また1958年までは、特急用車両と急行用車両の明確な区別もされておらず[注 2]、明確に特急専用と評し得たのは、1等展望車と、一方向き固定の2人がけシートを備えた3等車(現・普通車)のスハ44系に限られていた。
 だがそれらも専ら東海道線昼行特急と山陽線特急「かもめ」[注 3]の限られた運用しか存在せず、1956年(昭和31年)から東京 - 博多間に運転を開始した戦後最初の夜行特急「あさかぜ」の3等車座席は急行列車並みの4人がけボックスシートであるオハニ36形・10系客車であり、その他寝台車・特別2等車(現・グリーン車)・食堂車についても急行列車との差異は見られなかった。

2.2 特急専用車両の出現
 鉄道全体の近代化を推進してきた国鉄は、1958年秋に昼行特急用に20系(→151系 後の181系)電車と寝台特急用に20系客車の2種類の特急形車両を登場させた。この両系列は用途も外観も全く異なっていたが、いずれも全車両に冷房装置と空気ばね台車を備えた優秀な車両で、それ以前の国鉄車両とは隔絶した高水準の居住性と走行性能を実現していた。151系は新設の東京 - 大阪・神戸間特急「こだま」に、20系客車は「あさかぜ」置換え用に投入され、未曾有の成功を収めた。
 特急専用車である両系列の出現により、1等展望車をはじめとする在来型客車で運行されていた「つばめ」「はと」は陳腐化した存在となった。

2.3 特急「はつかり」と「日光型」準急用気動車
 一方、 1958年10月のダイヤ改正で、それまで特急列車が存在しなかった上野 - 青森間に、昼行の特急列車が1往復新設されることになった。戦後復興と高度経済成長に伴う東北本線自体の輸送需要の伸びもさることながら、当時は航空機による首都圏 - 北海道間の旅客輸送が確立されておらず、青森以北についても青函連絡船との連携により鉄道による高い輸送需要があったことから、特急を新設する素地があった。これが「はつかり」で、同年10月10日から常磐線経由で運転を開始した。「はつかり」は同区間で1949年から運行していた昼行急行「みちのく」を特急に格上げした列車で、この時点では前身の「みちのく」同様、蒸気機関車牽引の客車列車であった。
 並行して国鉄は1953年(昭和28年)から総括制御可能な液体式気動車のキハ45000系(→キハ10系)気動車を量産し、地方路線で無煙化・増発・速度向上・運行経費抑制などの成果をあげていたが、1956年(昭和31年)にはその技術の延長上にキハ44800形(→キハ55系)準急形気動車を開発した。
 キハ55系の最高速度は旅客用蒸気機関車同様95 km/hであったが、1両あたり2基エンジン搭載の強力仕様とされたことで、加速力と登坂力で蒸気機関車列車を完全に凌駕した[1][注 4][注 5]。煤煙を出さない事に加え、それ以前の気動車の弱点であった客室の居住性も車体の大型化と設備改善である程度の水準に達しており[注 6]、高速と相まって利用者から好評を博すことになった。これによって、規格の良くない地方の非電化路線でも気動車の投入で高速の優等列車を運転可能なことが立証されたのである。

2.4 アジア鉄道首脳者会議・特急形気動車開発へ
 アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference) 第1回会議は、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で1958年に東京で開かれた。電車特急「こだま」が運転を開始した時期でもあり、国鉄部内に特急「はつかり」を客車から気動車へ置換えて接客設備ならびに速度の向上を図るというプランが浮上し、1959年秋より開発がスタートした。
 1960年初頭には、同年10月にARC第2回会議を再び東京で開催することが決定。そこで新型気動車をお披露目し、アジア諸国に日本の技術力[注 7] をアピールすることが鉄道車両の輸出促進につながると期待された。そして特急「はつかり」への営業運転投入は同年12月に決定し、それまでに完成させるべく急ピッチで開発が進められることとなった。

3 キハ81系(1960年)
 1960年に9両編成2本と予備8両の合計26両が製造されたキハ81系[注 8] は、日本初の特急形気動車である。最初に投入された列車名にちなみ「はつかり形」とも呼ばれる。1961年第4回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。

3.1 車体外観
 全体のスタイルは、クリーム4号の地に窓周りが赤2号のツートンカラーの「国鉄特急色」に、銀色の屋根に並ぶキノコ形キセに収められたAU12形分散式冷房装置・遮音防振のための浮床構造車体[注 9]・複層ガラスによる固定窓・車端部1か所のデッキなど基本的に151系電車を踏襲している。ただし、非電化区間や交流電化区間の駅はホーム高さが低いため客用ドアにはステップを1段設置した。
 運転台を持つキハ81形は他に例のない独特のボンネット形デザインを採用したが、膨れて寸詰まりな形態は鉄道ファンの間から「犬顔」や「ブルドッグ」などの俗称でも呼ばれた(詳細は後述)。
 その他の特徴として、各車連結面間に車体断面に沿った「外幌」を設けた。同時期の151系電車が導入していた外幌と同じもので車両相互間でファスナーで連結された。空気抵抗低減の狙いがあったとされるが、在来線の速度では効果を発揮せず使い勝手が悪いことから、固定金具も含めて早期に撤去され、外幌と同じ素材の貫通路の幌も従来型に交換された。そのためキハ82形を含む1961年度以降の増備車も外幌は省かれ、貫通路の幌も従来型とした。

3.2 設備
 基本構造は、既に大きな成功を収めていた151系電車を全面的に踏襲することになった。全車両に冷暖房を搭載する空調完備の状態を前提に客室窓は複層ガラスによる固定式とし、冷暖房や食堂車調理室は全て電気式となった。食堂車の調理用熱源は石炭レンジに代わり、強力な電熱コンロを採用する。また、乗り心地の改善のため車体間ロールダンパも採用した。
 屋根上に電気式冷房装置を搭載し、座席下配置の電気暖房方式[注 10] を採用。いずれもディーゼル発電機を電源とするもので、客室内に限っては電車と区別が付かない仕上がりとなった。ただしコストダウン目的から、食堂車を除きカーテンは151系電車で採用された横引き式ではなく巻き上げ式とし、1等車通路の絨毯も省略されるなど若干グレードは落とされた。151系電車同様、天井内張りに吸音効果を期待した多孔板を採用した。
 座席は2等車(現・普通車)が回転クロスシート、1等車(現・グリーン車)がリクライニングシートであるが、2等車用は背面にメッキの縁取りと小型テーブルを装備する。表皮は特急型電車同様のロイヤルブルーであるものの、全面モケット張りの電車用とは異なりコストカットの見地から背面はクリーム色のデコラ仕上げとした。
 なお、設計開始当初は3等車と2等車で計画されていたが、落成直前に3等級制から2等級制へと移行したため、2等車と1等車に変更して落成した。よって、本系列は新2等級制になって初めて落成した新形式の国鉄車両となった。
 トイレ・洗面所は各車に、キロ80形は洋式トイレも設置した。
 エンジンのエキゾーストマニホールドは一部車両を除き車端部に移され、客室からは隠された。

3.3 主要機器
 当初キハ60系を試験車として開発を進めていた400 PS級となるDMF31HSエンジン[注 11] の搭載を想定していたが、DW1形変速1段・直結2段液体式変速機共々試験結果は思わしくなく、不具合の問題解決を行う時間的余裕がなかったこともあり搭載を断念した。
 代替案としてキハ55系などで実績のある定格出力180 PS級のDMH17系エンジンを2基搭載して必要な出力を確保する従来からの手法を採用した。客室内の防音・防振を重視して浮床構造を採用したことから、客室床面の点検蓋を廃止せざるを得ず、DMH17Cまで採用されていた垂直シリンダー式をやめ、床下側面から整備できるように水平シリンダー形へ設計変更したDMH17H[注 12] を搭載した。過給機の取り付けについては見送られた[注 13]。また機関ブレーキは未装備[注 14] である。
 走行用エンジンを2基搭載するのは中間車のキロ80形・キハ80形のみである。先頭車のキハ81形はボンネット内に電源用エンジンを搭載するため走行用エンジンは1基、食堂車のキサシ80形は厨房用水タンクと電源用エンジンを搭載するため無動力の付随車となった。
 変速機も従来からの標準型である液体式のTC2AもしくはDF115Aを搭載するが、最高速度を向上させる目的から逆転機内の最終減速歯車比を一般形の2.976から2.613に変更し、最高速度は100 km/hとなった。
 台車は新規開発されたDT27(動力台車)・TR67(付随台車)が搭載された。これらはキハ55系3次車以降で採用されたDT22の枕ばねをベローズ式空気ばねに変更してボルスタアンカーを付加したもので、151系電車に採用されたDT23系台車の気動車用に相当する。ブレーキは従来通りのDA1系自動空気ブレーキが採用された。しかし、片押し式の踏面ブレーキであったため高速域からの制動力が不足気味であり、制動時に鋳鉄製制輪子の火花から引火する車両火災事故も発生した。「はつかり」運用終了後は、改造車も含め全車ディスクブレーキ仕様のDT31B・TR68Aに新製交換された(詳細は後述)。
 電源エンジンはDMH17H形と基本構造を同じくするDMH17H-G形[注 15]三相交流発電機を駆動し、1基で食堂車1両と座席車2両分、または座席車4両分の電源供給が可能である。「はつかり」では9両編成中3両に計3基の発電セットが搭載された。
 当時の国鉄気動車は運用上の制約を避けるために制御回路はKE53形ジャンパ連結器2基による両渡り構造を採用していたが、本系列では一般車では片渡り構造とし、食堂車のみ両渡り構造で制御回路をクロスさせる方式を採用したほか、制御回路用にKE62形2基、冷房制御用にKE61形1基[注 16]、冷房用三相交流440 V引き通し用にKE4形を新開発し搭載した。

3.4 初期故障
 鉄道界と沿線の注目のうちに運転を開始したが、故障が続出した。
・開発されたばかりの水平シリンダー式DMH17Hは、従来の垂直シリンダーに比べ潤滑不均一など多くの弱点を持ち車重増加にも関わらず歯車比を下げたこともあり、750 kmもの長距離の高負荷運転を課せられる中でエンジントラブルを続出させた。
 ・無動力のキサシ80形を含んだ編成は元々非力であったが、これに加えて時には複数のエンジンがダウンしている状態(エンジンカット)で走行せねばならず、その過負荷に東北本線奥中山越え(十三本木峠)の連続勾配で登り切れずに立ち往生する事態やエキゾーストマニホールドの過熱破損による発火事故が発生した。そのため1961年6月から奥中山越え前後にある御堂・小鳥谷の両駅で点検停車を実施した。
 ・同様の症状がキハ82系の試運転でも発生したため国鉄は急遽当該箇所の設計変更を行い該当車両の改善工事を施工した[注 17]。
・発電用エンジンも不調が多く冷暖房ダウンがしばしば生じた[注 18]。また取扱の不慣れにより、配線溶断による逆転機故障・制御装置不調もたびたび発生した。

 あまりのトラブル続出により利用者からは不評を買い、マスコミからも揶揄された[2][3]。問題が続出した要因として、製造メーカーが9社に及んだために性能が安定しないこと[2] に加え、開発を急ぎ過ぎたために新規採用された水平シリンダーエンジンや長距離高速運転などの問題点を洗い出す十分な熟成作業が行われなかったこと[注 19] が挙げられた。

3.5 新造車
 本系列の製造は車両工業界全体のPRの意味も込め、気動車を手掛けることの少ない電車・客車メーカーも参集して、前述したアジア鉄道首脳者会議開催に伴う技術デモンストレーションの意味合いから日本車輌製造・新潟鐵工所・帝國車輛工業・富士重工業(現・SUBARU)・東急車輛製造・近畿車輛・日立製作所・汽車製造・川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)と当時国鉄に旅客用車両を納入していた9社全てが参加した。9社が担当したのはキハ81系のみで、国鉄気動車製造の実績がなく電車(川崎・汽車・近畿)や客車(日立)を担当していたメーカー各社はそれぞれの得意とする分野を考慮の上で担当形式の製造を施工した。
・改良型のキハ82系からは一般形・急行形気動車製造を担当した日車・新潟・帝車・富士・東急の5社が製造した。

 先行製造車落成後に一部設計変更が実施されたため以下のような差異がある。
キハ81形
・先行製造車の1は運転台の機器配置が異なり記録装置付速度計を運転席側に搭載。
・先行製造車ではメーカー(近車・帝車)で差異があった連結器カバーの形状を統一。
・タイフォン[注 20] は、先行車が151系電車同様スカート裏に、他車はボンネット下部に設置したほか、雪の侵入を防ぐため吹鳴時に跳ねあがるナス形の特殊な形状を採用したカバーも先行車では準備工事とされたが、他車は装着した状態で落成した。
各形式共通(キサシ80形を除く)
・客室内クーラーの吹出口カバーは一部の先行車が初期型、他車は改良型を採用した。ただしキサシ80形は全車初期型である。

3.5.1 キハ81形 (1 - 6)
 本系列の先頭車となる片運転台付2等車で定員は40名。エンジンは走行用を床下に1基、枕木方向に対して横置きするサービス電源発電セット用をボンネット内に1基搭載する。
 ボンネットは大半がエンジンフードとされ、メンテナンスの観点から大きく開く構造を採用した[注 21]。
・デザイン意図としては151系電車の流れを汲んだものではあるが、発電セット搭載とタブレット[注 22] 授受の観点から低く抑えた運転台形状により、裾絞りを小さくし幅を広くしたため151系電車のそれからはほど遠い寸詰まりかつ本形式独自なスタイルとなった。

 前照灯は屋根上2基搭載のみで、両脇に緊急停車時用赤色交互点滅回路[注 23] を内蔵した標識灯を、通常の尾灯はボンネット腰下部分に設置する。
 車内レイアウトは、運転台後部から常に1.800 rpmという高回転で運転される発電セット用エンジンの騒音対策とボンネット内のスペース問題からラジエーターなどを床上搭載する機器室[注 24]・トイレと洗面所・客室・売店[注 25]と物置・客乗降用出入台の順で設置する特異なものである。
 屋根高は、運転台 - 機器室間が後位側に比較すると一段高くされており、ラジエーター保護と換気目的から機器室部位車体側面に設置するルーバーの位置も高くされた。
 非貫通かつ総括制御ならびに冷房電源引き通し用ジャンパ連結器を前面に搭載しないため編成中間に組込不可で定員が40名と少ないことから、先頭車がキハ82形に製造移行後も「はつかり」で限定運用され続け、1968年の「はつかり」電車化後は奥羽本線特急「つばさ」2往復中1往復(下り・上り2号)に充当された。
・「つばさ」転用では、板谷峠区間で補機となるEF71形を連結する制約から先頭部連結器カバーを取り外し、連結時の作業性改善を目的にスカートへ切り欠き加工が施工されたが、切除部寸法を統一しなかったために形状が多様化した。連結器カバーは、後述する転用後も廃車まで再装着はされていない。なお6は運転席部分窓枠上部に棒状の手摺溶接を同時施工した。
 1969年10月には秋田機関区(現・秋田車両センター)に転出し、羽越本線経由の「いなほ」と間合い運用の常磐線特急「ひたち」に転用。
 1972年10月には「いなほ」「ひたち」の電車化により和歌山機関区(現・吹田総合車両所日根野支所新在家派出所[注 26])に再転出し紀勢本線特急「くろしお」名古屋 - 天王寺間運転の下り5号・上り2号の名古屋方基本編成(7両・天王寺方先頭車はキハ82形)ならびに天王寺方付属編成(3両)の先頭車で限定運用。翌1973年10月からは基本編成のみが紀伊勝浦発着の臨時「くろしお」にも投入された。
 しかし、老朽化に加えて前面非貫通で座席数もキハ82形と異なるなど運用面でも使いづらいことから、1976年10月1日のダイヤ改正で1・2・4・6の4両が休車となり天理駅に留置ののち1977年12月23日付で廃車。3・5は引き続き付属編成に組込まれていたが、1978年10月の紀勢本線新宮電化によって余剰となりさよなら運転の後休車。翌1979年7月に5が、10月に3が廃車され形式消滅した。

3.5.2 キハ80形 (1 - 12)
 本系列の基幹形式となる走行用エンジンを2基搭載する中間2等車で定員72人。
 キハ81とキハ82で形状をまったく異にした先頭車と異なり、以後の増備車でも形状にほとんど変化がなく、取り扱いもその後の改修でほぼ同一とされた。このため「はつかり」用として製造されたグループでは長く営業運転で運用され、10は1983年に廃車されるまで1960年の新造以降23年間車籍を有していた。

3.5.3 キロ80形 (1 - 5)
 走行用エンジンを2基搭載する中間1等車で定員48人。
 トイレと洗面所を客室前後位の2箇所に設置するが、6以降の増備車と異なり屋根上の水タンクはない。「はつかり」では屋根上に水タンクのある1961年以降製造のキロ80形を1両連結している写真が多く見られた。

 座席は2人掛けの回転式リクライニングシートで以下に示す特徴を持つ。
・表皮はえんじ色でクッションは左右独立とした。
・長時間乗車の疲労軽減を目的として、可動式のフットレストとヘッドレストを備えることが特徴である(増備車にも踏襲)。ヘッドレストは上下にスライドできた。
・テーブルは取り外し式[注 27]。
 ・増備車ではテーブルが小型の肘掛格納式となり座席背面の小物入れは網製となった。
・屋根上にはラジオ受信用アンテナが設置された。
 ・「はつかり」運行当初は、座席にシートラジオのスイッチとイヤホンジャックが設置されていたが、消毒作業などのメンテナンス難を理由に早期に撤去された。
 後に3両が後述の普通車化改造を施工されたが、キロのまま残存した2両はキハ81形とともに秋田→和歌山と転属。1977年12月に廃車となった。

3.5.4 キサシ80形 (1 - 3)
 気動車としては日本初の食堂車。付随車で食堂定員は40人。
 構造と間取りは同時期に開発されたサシ151形に準拠しており外観も非常に似通っている。完全電化の厨房と空調を装備する。
 食堂側車端の扉上には151系電車でも装備された列車位置表示器が、本形式でも設置された[注 28]。
 床下には、大型水タンク3個のほかに発電用に燃料噴射特性を変更したDMH17H-GエンジンとDM63形発電機を組み合わせた発電セットを搭載している。それらの搭載スペースのために走行用エンジンは搭載されておらず、車重は38.2トンと全形式中で最も軽い。ただし動力分散方式の付随車としては重い部類となる。後に走行用エンジンを搭載しキシ80形900番台へ改造された(詳細は後述)。

3.6 改造
 本項では「はつかり」運用開始後に施工された機能性向上や改良を目的とした改造、「はつかり」電車化による余剰と車種間の需給調整からキロ80形3両の普通車化ならびに付随車のため不足する編成出力問題解決と転配時自由度を確保する観点からキサシ80形3両の動力車化の形式間改造にわけて解説を行う。

3.6.1 機能性向上や改良を目的とした改造
キハ81形
・先行製造車(1・4)のタイフォンを他車同様ボンネット下部に移設しタイフォンシャッターを設置。
・1961年頃に単線区間での通過駅におけるタブレット交換時の窓ガラス破損対策として乗務員室扉の窓下部に保護棒を追設。
・1964年頃から運転室用AU14形冷房装置を順次増設。
・三河島事故を契機に常磐線でVHF150MHz帯を使用する列車無線を導入したため対応する無線機の搭載と屋根上に円筒状のアンテナを設置。後の「くろしお」転用で和歌山区転出時に無線機とアンテナは撤去されたがアンテナ台座は残存。

各形式共通
・メンテナンスの難しいファスナー付ラバー製二重幌および外幌用固定金具の撤去と一般型貫通幌への交換。施工後のキハ80形・キロ80形はキハ82系と共通運用となった。
・動力系異常時に点灯する白色灯を追設。未施工車両もあり。
・キハ82系と同様に妻面に尾灯設置用のステーを追設。

「はつかり」運用終了後は一部車両を除き以下の改造工事を施工。
キハ81形
・黒磯駅通過用列車選別装置の搭載。和歌山区転出の際に撤去。
キロ80形
・料金のモノクラス制移行により一等車ステンレスロゴの撤去とグリーン車マークを貼付。
各形式共通(キサシ80形を除く)
・デッキ側天井にダクトを追設。
・台車を踏面ブレーキのDT27・TR67からディスクブレーキのDT31B・TR68Aに新製交換。捻出されたDT27・TR67はキハ58系に転用。捻出されたDT22・TR51は改修工事後DT19・TR49を装着していたキハ10系に転用。改造車も台車交換を実施。
・客用ドアにステンレス製ガイドレールを1本追設。
・行先表示・号車番号・座席種別のサボ受け移設。

3.6.2 形式間改造
3.6.2.1 キハ82形900番台
 大宮工場(現・大宮総合車両センター)で施工された普通先頭車化改造である。客室窓は1等車時代の狭窓のままでシートピッチと合っていないものの定員はオリジナルのキハ82形と同一であるが、片側のトイレ・洗面所・一部の客席部分を運転室・機械室に改装し車掌室・荷物保管室を撤去するほか、走行用エンジンを1基とし発電セットを搭載するなど大掛かりな工事である。
 901は「はつかり」運用終了後の1968年12月に改造され向日町運転所に配置。1972年3月15日ダイヤ改正で「いなほ」「ひたち」が9両化[注 29] されるために902と共に秋田区へ転出。7か月後の10月には羽越本線電化により「いなほ」「ひたち」が485系電車化され余剰となったために札幌運転区(現・札幌運転所)へ再転出。「北斗」「オホーツク」「北海」で運用された。1981年(昭和56年)10月のダイヤ改正で余剰となり同年12月25日付で廃車。サボ受けの移設は行われていない。
 902は「はつかり」運用終了後もキロ80 5のまま1969年10月に秋田へ転出。翌1970年2月に改造され鹿児島運転所に配置。同年9月に和歌山機関区に転出。1972年3月の秋田再転出後は901と同様な経歴を持つが、1982年6月11日に石北本線で脱線事故のため同年7月6日付で廃車。

3.6.2.2 キハ80形900番台
 1968年に土崎工場(現・秋田総合車両センター)で施工。前位の車掌室・荷物保管室と後位のトイレ・洗面所を撤去して、座席を回転リクライニングシートから回転クロスシートに交換。キハ82形900番台同様に客室窓は1等車時代の狭窓のままでシートピッチと合っていないが、定員はオリジナルのキハ80形と同一とされた。
 向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)へ配置後に秋田機関区を経て鹿児島運転所(現・鹿児島車両センター)に転出し、日豊本線特急「にちりん」・肥薩吉都線特急「おおよど」などで運用された。

3.6.2.3 キシ80形900番台
 キサシ80形から床下の発電セット・水タンクを撤去し、走行用エンジンを2基搭載するキシ80形化改造であるが、冷蔵ケースの位置が新製車では調理室側車端なのに対し、本番台区分では食堂側車端となったほかに乗務員室もないなどの差異がある。また本改造工事では以下の変更も施工された[6]。
・台車をディスクブレーキ付のDT31Bに交換
・食堂側車端のテーブルを1列2卓撤去して定員を32名に減じ捻出したスペースに水タンクを床上搭載
・列車位置表示装置の撤去
・食堂の縮小に合わせ屋根上のクーラー位置を移動
・調理室側車端部小トイレ丸窓右横に縦長窓を設置
・車両重量が約5トン増加

 また改造に至るまでの経緯が901・902と903では異なり、901・902は「はつかり」運用終了後も尾久所属のままとなったキサシ80 2・3を1968年12月9日に高砂工場で改造。1969年10月1日に秋田機関区へ転出となり「いなほ」「ひたち」運用に投入されたが、1972年10月1日に向日町運転所へ再転出。
 903は耐寒工事が施工され1968年9月9日に函館運転所(現・函館運輸所)に転出したキサシ80 1が種車で、約1年間「北斗」で運用後の翌1969年12月27日に五稜郭工場(現・五稜郭車両所)で改造され、施工後も函館所属のまま運用された。
 全車とも余剰から1976年2月までに廃車となった[4]。

5 運用
5.1 「はつかり」への就役
 1960年9月15日付けでキハ81系先行製造車9両(1編成)が落成し尾久客車区(現・尾久車両センター)に配置された。同日には川越線で18日から23日にかけて営業運転と同様に常磐線・東北本線でPR映画の撮影が行われた。この映画は映像ソフト化されており、現在でも視聴が可能である。翌10月には、アジア鉄道首脳者会議でお披露目され、国鉄の意図通り会議参加者の注目を集めた。特別に1等車を連ねた編成が組まれ東京 - 日光間を往復した。
 12月10日から上野 - 青森間特急「はつかり」に就役した。運転開始時は客車列車時代と同一の所要時間となるダイヤ設定であったが、前述した故障のため客車列車による運行もあった。翌1961年3月ダイヤ改正で初の気動車ダイヤが組まれ、同年10月の改正では10時間半を切り客車時代と比べて約1時間短縮する大幅なスピードアップが図られたほか、82系グループのキハ80形・キロ80形も「はつかり」編成に組み込まれた。
 編成は以下の9両である。
← 上野 青森 →
1.キハ81 2.キロ80 3.キロ80 4.キハ80 5.キハ80 6.キハ80 7.キハ80 8.キハ80 9.キハ81

 「はつかり」は1963年(昭和38年)4月20日のダイヤ改正から、キハ80が1両増車され10両編成となった [10]。
 東北本線経由となる1968年10月1日のダイヤ改正を前に、9月9日から上野発下り9001M、翌10日から青森発上り9002M(10月1日から下り1M、上り2M)[11]で583系電車に置き換えられることになり[注 40]、「はつかり」運転最終日の9月8日の上野発下り1D、翌9日青森発上り2Dの編成は前後ヘッドマークに紅白の花による縁取りが施され、8日の尾久客車区から上野駅までの回送と9日の上野駅から尾久客車区までの回送では先頭車両に「ディーゼル特急ご苦労さんでした」のプレートが取り付けられ[12]、到着後同所で記念式典が行われた[13]。

5.2 1961年10月ダイヤ改正
5.2.1 食堂車2両付の特急
5.3 特急網形成後の各車両基地と充当列車
5.4 分割民営化後
5.4.1 JR北海道
5.4.2 JR東海

6 事故廃車
キハ82 59・902
キハ80 9・76
キロ80 35
キシ80 4
 1982年6月11日「オホーツク」で運用中に石北本線留辺蘂 - 相内間で枕木交換作業中の現場に進入し脱線事故を起こし編成ごと現場で解体。同年7月6日付で廃車となっているが、これは本系列唯一の事故廃車である。この編成にはキハ81系グループとして特急「はつかり」用に導入した1960年(昭和35年)製の車両・改造車両(キロ80 5→キハ82 902・キハ80 9)2両が含まれていた。

7 エピソード
・耐寒強化車両とは言い難い本系列の酷寒の北海道での冬期運用は厳しいものがあり、車体腐食・凍結・着雪による故障も続発した。しかし検修担当者により、水タンクを鋼鉄製に変更するなど多数の改善策が施され、長期間運用された。
・「ひだ」運用は1975年3月改正で金沢運転所から名古屋機関区に車両を転属させ移管しているが、当初は同改正により381系電車化で余剰となった同区配置のキハ181系「しなの」充当車を転用させる計画があった。これは高山本線が勾配線区であることから出力に余裕のあるキハ181系が妥当という判断のほか、当時は1980年(昭和55年)に高山本線が電化予定されていたためである[注 63] 。しかし、名古屋機関区はキハ181系「しなの」で故障やトラブルが相次いでいたために検修員が転用に難色を示したことで、「しなの」捻出車は四国地区の増発に充当された。また同年11月に電車化された「つばさ」捻出車の一部も「ひだ」への転用が予定されていたが、こちらは「おき」充当へ変更して捻出された本系列を名古屋区に転入させ増発に充てた。

9 脚注
9.1 注釈
[注 1]^ 戦前の例外としては、1942年の関門トンネル開通に伴い、特急「富士」が下関から長崎まで延長運転され、九州島内の鹿児島・長崎本線を経由した例が存在するのみであるが、戦況の悪化に伴い1944年に廃止された。
[注 2]^ 当時は特別2等車でさえ特急と急行の双方に混用されていた。
[注 3]^ ただし、 「かもめ」については、3等車のスハ44系のみが連結されたが、いわゆる三角線回しを回避する目的で「あさかぜ」登場後に3等車をオハニ36形・10系客車に変更されている。
[注 4]^ 試験では、25 ‰上り勾配での均衡速度が、160 PSエンジン1基搭載の気動車で23 km/hであったのに対し、2基エンジン気動車のみの編成では41 km/hに向上した。
[注 5]^ それまで非電化の路線では、線路規格の低さに加えて蒸気機関車の性能の限界が重なり、高速運転は困難だった。急勾配路線であれば、たとえ急行列車であっても、平均速度は40 km/hに満たない鈍足にならざるを得なかった。
[注 6]^ 同じく準急用の80系電車や、急行用軽量客車であるナハ10形と比較しても遜色が無い程度まで改良されていた。
[注 7]^ 当時日本の鉄道技術は、世界的には開発途上であったもののアジアにおいては比較的高水準にあった。またアジア諸国に対する車両輸出も盛んに行われており、将来的にも有望な分野であった。
[注 8]^ 本系列の登場時の呼称で「はつかり」用として製造された車両のグループを指す場合にも用いる。国鉄としては初の特急形気動車である。キハ80系の事実上の試作車両としての役割を担い、その運用データは以後の国鉄特急形気動車の設計に大きな影響を与えた。
[注 9]^ 浮床構造は効果が少ないため、1964年度以降の増備車では省略された。
[注 10]^ 温気式あるいは温水式暖房方式を用いた従来の気動車では暖房カバーが窓側足下にスペースを取っていたが、キハ80系気動車ではこれを廃した電熱式となり、電熱線は座席下に収めた。
[注 11]^ 直列6気筒の過給器付き予燃焼室式ディーゼルエンジン。元来はDMF31Sとして国鉄DD13形ディーゼル機関車用として開発が進められた機関の設計を基本に、シリンダーを水平配置に変更し、シリンダーブロック・クランクケース・燃料噴射系など、多くの設計変更を実施して燃料系・冷却系・潤滑系をこれに対応させたもの。
[注 12]^ HはHorizontal:水平の意。連続定格出力180 PS / 1,500 rpmのスペックは以前から変化はない。また改良型ではあるが、燃料噴射ポンプとシリンダーの潤滑など機構の大部分は新設計に等しい部分があり、短い開発期間と相まってトラブル頻発につながった。
[注 13]^ 水平シリンダーエンジンについては「横置き」という表現が使われることが多いが、これは単に縦型のエンジンを90度倒して置いただけのものではなく、これに対応してエンジンブロックの設計を一新し、燃料と潤滑油の供給系統も設計変更されている。なお、水平シリンダーエンジンも、クランクシャフト自体は在来型エンジン同様車体の前後方向に縦置きされており、枕木方向に搭載する「横置き」の意味ではない。
[注 14]^ 変速機が直結段にある場合にノッチオフするとエンジンブレーキの状態となるが、機関や動力伝達系の保護のためそのような取り扱いは認められておらず、もし使用しても重量が大きく走行抵抗も少ないことから自動車のような抑速効果や減速度は望めない。
[注 15]^ GはGenerator:発電機の意味。定格出力160 PS / 1,200 rpm。
[注 16]^ KE61・62形共に19芯であるため誤差込防止キーの位置が異なる。
[注 17]^ 高負荷時の燃焼室からの火炎によるマニホールド過熱のほか、潤滑油量や油隙間(クリアランス)の管理が悪いと排気に含まれた多くの潤滑油がマニホールドや排気管内に溜まり、温度が上がった時点で発火する場合があった。これはキハ58系でもたびたび見られた。
[注 18]^ サービス電源系統のダウンは本系列全体の慢性的トラブルの一つであり、後年に至っても原因不明で、一例として冷暖房電源のブレーカーが遮断されてしまうため車掌が割り箸をブレーカーにくくりつけ、引き外しばねが作用しないようにする強引な手段で電源確保するような事例もあったという。
[注 19]^ 国鉄設計陣と現場技術者は、問題解決に数か月の時間をかけて改善を図り、一定の信頼性を確保した。以後もDMH17Hは1960年代の国鉄気動車の主力エンジンとして大量に製造されることになるが、「5ノッチ5分」(フルノッチでの運転は5分以内とする)の厳守など高負荷時の取り扱いは後年まで徹底されている。
[注 20]^ なお6両とも151系電車に付いていた空気笛は装着されず、国鉄時代の気動車車両の警笛はタイフォンのみである。
[注 21]^ 京都鉄道博物館所蔵のキハ81 3ではエンジンフードが半開きにされ、内部を見ることができる。
[注 22]^ 当時の非電化路線ではタブレットによる非自動閉塞路線が多数であった。
[注 23]^ キハ82形・キハ181形にも踏襲されたが、後のATS搭載により実際に使われることは殆どなかった。
[注 24]^ このレイアウトは、後のキハ82形・キハ181形・キヤ190・191形・キハ183形初期型にも踏襲された。
[注 25]^ 「はつかり」1号車の2等客が1等車の2・3号車を通って食堂車の4号車へ行かなくても手軽に食事を済ませるように設置されたが、「くろしお」転用後は殆ど使用されない状況であった[5]。
[注 26]^ 和歌山機関区→和歌山電車区→和歌山列車区新在家派出所→新和歌山車両センター→日根野電車区新在家派出所→吹田総合車両所日根野支所新在家派出所と変遷。
[注 40]^ ダイヤ改正は10月1日であったが、本系列の改造予定車のスケジュールならびに転配の点から前倒しされた。

9.1.1 出典
[1]^『交通技術』鉄道技術研究所
[2]^ 朝日ニュース ワイドの眼「事故ばっかりの特急『はつかり』」
[3]^『鉄道ファン』1991年12月号「キハ80系・キハ181系特集」、読売新聞1961年7月18日付記事「特急『がっかり』」
[4]^『形式キハ80・181系』p64-73 キハ80/181系 全車両の履歴
[5]^『形式キハ80・181系』p82-83 時代がつくったキハ81の売店
[12]^ “気動車「はつかり」最終日”. 鉄道ホビダス. わが国鉄時代 (ネコ・パブリッシング). (2010年3月30日) 2017年8月22日閲覧。
[13]^ ディーゼル特急「はつかり」引退式 - ZAKZAK 2012年1月5日(インターネットアーカイブ)
最終更新 2021年1月17日 (日) 01:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 1960年(昭和35年)に量産先行車的要素で特急「はつかり」用として製造されたキハ81系グループ26両である。
「東京・大阪間を結ぶ高速旅客列車にガソリンカーをあてる構想もあった」
を実現させたようなモノ。ただ、東京-大阪より長い「上野-青森」である。平坦部・東京-盛岡、勾配区間・盛岡-一戸の様に分けてもっと長期試験を行っても良かったと思うほど。C62・C61などの蒸機がまだまだ存在していた時に。1年間遅らせてでも、他のディーゼルカーも含め、余剰車を増やさなかった方法も有ったと思うが。1959年秋より開発がスタートし、1960年(昭和35年)12月10日から上野 - 青森間特急「はつかり」に就役は、バタバタである。
ブログ一覧 | 新系列旅客車 | ニュース
Posted at 2021/02/01 13:17:53

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この記事へのコメント

2021年2月1日 20:59
ご無沙汰しております。
親父が山形県庄内地方出身ですので幼少時代に特急「いなほ」、それもこのブルドッグに乗った記憶があります。
食堂車でカレーライスを食べながら笹川流れを見た記憶、まだ現役でSLも走っていた記憶もありますよ。
懐かしいナァ…
コメントへの返答
2021年2月2日 20:58
お久しぶりです。
現役時代のブルドッグキハ81に会えたなんて超羨ましいです。キハ17・キハ22・キハ40・キハ58など一般型と言えるモノはいつも見られる環境でしたが、特急型はなかなか見る機会が無かったです。S43.10以前のSL貨物を見ることが出来たのは、今と成っては凄く良かったと思いますが・・。

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