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2021年05月05日

「電気式気動車」と『DMH17形』ディーゼルエンジン

「電気式気動車」と『DMH17形』ディーゼルエンジン 日本の電気式気動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[写真・画像]
急行「きのくに」の先頭に立つキハユニ16
きのくに11号 椿行き 杉本町駅-浅香駅 
1978年1月

 電気式気動車(でんきしききどうしゃ)は、自車に搭載したディーゼルエンジン等の内燃機関(ICE)で発電機を駆動し、その発生電力で台車の主電動機を駆動して走行する気動車である。原動機の種類により、「ガス・エレクトリック方式」、「ディーゼル・エレクトリック方式」、「ターボ・エレクトリック方式」に大別される。
 日本の鉄道は狭軌が主体で、線路や路盤も脆弱であったことから、重量が大きくなりがちな電気式気動車の導入には不利で、その類例はきわめて少なく、1950年代までで廃れていた。しかし、21世紀初頭からの技術開発により、ハイブリッド式気動車という新しい形態で復活をとげて再認識され、その後、ハイブリッドシステムを省略した電気式気動車も登場している[1]。

1 機械式気動車の問題
 日本の気動車は、1920年代に登場して以来、ローカル線の小規模輸送を中心に使用されてきた。
 このため、複数車輛の連結運転に必要とされる総括制御(リモートコントロール)技術はそれほど必要とされず、変速装置には総括制御不能だが構造が簡易で済む「機械式」[2]が用いられた。
 機械式気動車で2両編成以上を組む場合は、各車両に運転士を一人ずつ乗せ、先頭車運転士が鳴らす汽笛やブザーに合わせて、後続車運転士が変速やスロットル操作を行っていた。タイミングを合わせるのが大変難しいため、3両編成程度[3]が実用の限界だった。このような運転方法では高速運転も輸送力のある長大編成運転も困難であるし、1両ごとに運転士が一人ずつ必要になるため、気動車本来のメリットである合理化にも逆行するものであった。

2 戦前の電気式気動車
 エンジンで発電機を回し、その電力でモーターを駆動して走行する「電気式(発電式)」気動車・ディーゼル機関車は、欧米で1920年代から登場し、高速列車の分野でも成果を上げていた(ドイツのフリーゲンダー・ハンブルガーなど)。この方式の走り装置は電車と同じで変速機が不要なため、基本的にエンジンの回転数調節だけで速度調節ができ、総括制御も簡単だった。発電には直流発電機が使われた。
 欧米での成功に刺激されて、第二次世界大戦前の日本でも以下のような試みが行われている[4]

2.1 鉄道省キハニ36450形
 鉄道省が1930年(昭和5年)にキハニ36450・キハニ36451の2両を試作した20 m級の大型ガソリンカーで、日本初の電気式気動車である。1920年代にアメリカの鉄道に出現していた、「ガス・エレクトリック」もしくは「ドゥードゥルバグ」と呼ばれた電気式ガソリンカーを国鉄流に模したものであった(ただし、ドゥードゥルバグは機械式気動車の場合もある)。
 片側の運転台直後を機関室として、その床上に艦船向けの発電用エンジンを転用した池貝製作所製の直列6気筒、排気量24.376 l、連続定格出力200 HP / 1250 rpmのガソリンエンジンを搭載して、芝浦製作所製の135 kW / 750 Vの発電機を直結駆動、その発生電力で、客室側の2軸ボギー台車(TR14類似のこの形式専用のもの)に装備した三菱電機製 80 kW / 600 VのMT26モーター2個を駆動するシステムである。機関室側の付随台車は3軸ボギー式(TR72類似の専用のもの)で5 kW電動機での強制通風ラジエーターを屋上装備するなど、極めて独特な外見の車両であった。機械室には暖房用に小型ボイラーを据え付け、荷重1 tの荷物室を持つなどフル装備であった。
 キハニ36450が日本車輌製造で、キハニ36451が川崎車輛でそれぞれ製造され、1931年から東海道・北陸線の彦根-長浜間区間列車として運転を開始し、これにあわせて、この区間内に2両編成分の長さのホームを持つ坂田と田村の2駅が新設された。また、1936年には木造電車改造の制御車(キクハ16800形)と編成を組み、総括制御を実現している。
 本形式は故障こそ少なかったものの、電気式であることによる重量増に加え、製作費を抑える関係で車体に客車用の部品を流用したり、外板厚も当時の電車と同じ2.6 mmとしたため、自重が49.1 t、運転整備重量が50 tときわめて重いものとなっていた。結果、性能は平坦線では75 km/h(キクハ牽引で68 km/h)、12.5 ‰の勾配で40 km/h(同26 km/h)と(キハニ5000の平坦線での55 km/hよりは高いものの)十分といえるものではなく、重軸重(付随台車で10.159 - 10.439 t)であったこともあり、ローカル線での使用という本来の目的を達することはできなかった。
 結局、鉄道省は一時電気式気動車の開発を中断し、機械式の軽量ガソリンカー(キハ41000形など)の開発に重点を置くようになる。
 本形式は電車に改造される計画もあったが、太平洋戦争中に走行休止となり、動力系を撤去して国鉄工場職員の短距離通勤輸送の客車代用や大井工場事務室代用に用いられた時期もあったが1949年に廃車、のち解体された。なお、2軸台車が北陸鉄道ED301に、モーターが東武鉄道日光軌道線ED611に転用された。

2.2 満鉄ジテ1形
 日本の資本・技術によって運営されていた南満洲鉄道(満鉄)が、1935年に名古屋の日本車輌製造本店で製作した電気式流線型ディーゼル列車である。ジテは編成中の手荷物重油動車の形式であるが、編成を指した通称としても用いられている。同社はこれ以前から主として機械式の気動車を導入しており、電気式気動車としては1931年に重油動車ジハ1形2両と監査用ガソリン動車スペキ1形1両を自社工場において製作・使用した実績があった。
 編成一端の手荷物重油動車床上に中速型の500馬力級ディーゼル発電機を搭載し、編成の両端台車に駆動用モーターを装架したもので総括制御可能、客車は連接構造であった。ジテ1+ロハフ1+ハフ1+ハフセ1の4両で編成され、合計6編成が製造された。4編成はスイス・スルザー (Sulzer) 社の6VL25型予燃焼室式エンジン、2編成は新潟鐵工所のK6D型直噴式エンジンを搭載した。カタログスペックはほぼ同等だったが、新潟製は約3割重量が重く、スルザーの方が実際の成績も良かったようである。
 総重量に比して低出力ではあったが、平坦で駅間距離の長い満鉄線では致命的な問題とはならなかった。大連近郊の近距離・中距離普通列車に用いられた。設計時よりハフセを省いて2編成を連結する配慮(この運用法の場合はジテの従台車をハフセの動力台車と交換して出力を維持した)がされており、1943年にはこの編成でノンストップ高速試験運転を行って奉天 - 新京間 (304.8 km) を2時間58分で走破した。
 本形式は中華人民共和国成立後、他の満鉄動車とともに電車に改造されて撫順炭鉱の通勤列車に転用された。

2.3 相模鉄道キハ1000形
 日本の私鉄史上唯一の電気式気動車であり、戦前の私鉄では数少なかったディーゼル動車の一つである。現在のJR相模線を経営していた当時の相模鉄道が汽車製造会社東京支店との共同で1935年に開発した。
 側面から見ると「完全な台形」の奇抜な形状[5]を持つ13 m級2ドアの小型気動車で、床下にはドイツ・ユンカース社の水平型120 HPディーゼルエンジン(5-4TV形、対向ピストン式2ストロークユニフロータイプ)を搭載。342 V・70 kWの発電機を駆動し、発生電力で永久直列に配線された52 kW主電動機2個を駆動した(電装部品は東洋電機製造製)。総括制御可能な設計とされていた。
 ユニークなのは抵抗器を車載して強力な発電ブレーキを常用していたことで、なおかつその廃熱を車内暖房にも利用するというアイデアを日本で初採用している。この抵抗器暖房のアイデアは1950年代に一部私鉄電車で再び用いられたが(当の相鉄でも試用された)、発熱量の調整が難しく、すぐに廃れた。さらに空気ブレーキ系統はドラムブレーキ式として、通常の踏面ブレーキを持たない。
 この形式は小形軽量化構造の車体で自重17.5 tと大きさの割に高出力で俊足でもあり、非常に優秀な成績を上げた。キハ4両のほか1938年に付随車サハ1100形1両も増備され、2 - 3両編成を組んで鉄道省横浜線八王子駅へ乗り入れた実績もある[6]。
 旧・相模鉄道は1944年に運輸通信省により戦時買収を受け、国鉄相模線となるがキハ4両は買収対象にならず、前年の1943年に合併していた旧・神中鉄道(現在の相鉄本線)の区間へ転属した。サハについては書類上省籍を得ているが実車はキハ同様転属したとされる。戦中・戦後の混乱期に直流600 V電化区間用の電車に改造されたが、時期は諸説ある。東京急行電鉄経営委託期間に同線の架線電圧が全線直流1,500 Vに昇圧されたが、主電動機の結線が永久直列との構造から昇圧不可能な本車は、当時直流600 V電化であった東横線に転属した。新車割当の代替供出として1948年に日立電鉄(2005年廃止)に譲渡され、改装を受けつつ長く使用されたが、1997年までに廃車となった。

2.4 鉄道省キハ43000形
 鉄道省が、アメリカやドイツの電気式気動車による高速列車に刺激を受け、1937年にキハ43000形キハ43000・キハ43001、キサハ43500形キサハ43500の合計3両を試作した流線型気動車。メーカーは神戸の川崎車輌である。
 流麗な車体形状の3両編成で、水平シリンダー形の240 PSディーゼルエンジン「DMF31H形」を床下搭載した20 m級車のキハ43000形が、17 m級付随車のキサハ43500形を挟み込む構成である。エンジンは新潟鐵工所、池貝鐵工所、三菱重工業が各1台製造したうちからキハに各1台を搭載し、交換して試験を行った。キハにはキハニ36450形と同様のMT26を主電動機として一方の台車に2基ずつ吊り掛け駆動方式で装架・駆動していた。鉄道省では幹線の都市間連絡列車に用いることを想定していたといわれる。
 本形式は総括制御可能であるのみならず、常に3両編成で運転することを前提に設計されていた。小型の自動式重油ボイラーをキサハ43500に搭載し、3両すべての暖房をまかなう構造だったのである。またキサハには、国鉄の制式気動車としては初設置となるトイレも設けられていた。
 意欲作であったが、当時としては大型のエンジンに部品破損などのトラブルが頻出して十分な成績を収められず、量産はされなかった。ほどなく戦時体制下に入り、燃料供給にも問題が生じたため、走行休止となった。
 本形式は1945年、浜松工場で米軍機の爆撃により被災し、キハ43000形2両が復旧しないまま廃車された。キサハ43500形のみ電車・気動車の付随車として戦後も飯田線・関西線で使用されたが、1960年代に廃車された。
 このように太平洋戦争以前、まとまった両数の電気式気動車を営業運転に供したのは、南満洲鉄道と相模鉄道だけであった。
 1938年以降の戦時体制下では燃料不足によって気動車そのものの運行が困難となり、電気式気動車の開発も十分な成果を見ないままに頓挫した。
 しかしこの間にもディーゼルエンジンの研究は進められており、1935年から開発が行われた鉄道省の気動車用150馬力級ディーゼルエンジンは、1942年に設計を完了している。このエンジンは、のちにDMH17形と呼ばれることになる。

3 国鉄における戦後の展開
 戦後も燃料事情の悪さから気動車の活用はままならなかったが、これが改善された1950年以降、戦前の気動車の再生措置や、新規の気動車製造が、本格的に開始される。だがこれらはすべて機械式気動車であった。
 日本国有鉄道は1950年に80系電車を開発して東海道本線に投入、従来機関車牽引の客車列車が主力であった中・長距離列車の分野について、電車で代替できることを証明した。電車に代表される動力分散方式は、加減速性能や線路への悪影響の少なさで、機関車方式より有利であり、80系電車は戦後の国鉄近代化の尖兵となった。
 しかし、当時の日本では鉄道の電化区間自体が少なく、多くの路線は主要幹線も含め、維持と運行に経費のかかる蒸気機関車がほとんどすべての列車を牽引していた。このような非電化路線の近代化には、ディーゼル動力の採用が不可欠だった。
 蒸気機関車を排除してディーゼル動力に切り替える「無煙化」は、乗客・乗員や沿線への煙害を無くすとともに、列車速度の向上、エネルギー効率の改善、保守・点検の効率化等、鉄道の抜本的な体質改善に寄与するものである。
 だが1950年代初頭の日本では、鉄道用ディーゼルエンジン技術が十分な発達を見ていなかった。ことに大型蒸気機関車を代替できるような大型ディーゼル機関車の開発は、大出力エンジンの開発困難によって阻害されており、本格的な大出力機関車は1960年代まで出現しなかった。
 相前後して、1936年から1940年にかけて試験途上に在った気動車用液体式変速機の実用化開発が1951年以降台上試験から再開され、同年からキハ42500形に搭載しての実用化試験が開始されていた。
 液体式のレイアウト自体は機械式気動車の変速機のみをトルクコンバータ動力伝達に置き換えたような構造である。絶対的な動力伝達効率は電気式に劣るものの、低出力車の場合は電気式より低コストかつ軽量に仕上がり、総合的には効率が良い。総括制御についても、戦前の鉄道省時代、既に液体式変速機開発と並行して専用の電磁遠隔制御システムが開発されており、この面での障害もなかった。
 このため、国鉄工作局動力車課の技術陣は液体式を戦後形気動車システムの本命と考えて開発を進めており、実用化目標を1952年中と計画していたが、実際には計画どおりに行かず、1951年から1952年にかけての試験でトラブルが続いており、速やかに量産化して実用投入できる状態になかった。
 一方で気動車用のディーゼルエンジンとしては、DMH17形 (150 PS / 1500 rpm) が1951年より量産され、機械式気動車に搭載されて好成績を収めていた。既に使えるエンジンがあるという情勢下、国鉄上層部では、総括制御可能な編成運転のできる気動車の早急な実用化を、気動車開発陣に強く要求した。
 やむなく動力車課では、液体式が使用可能になるまでの「当座の実用になる総括制御気動車」として、DMH17系エンジンを利用し、開発が比較的容易な電気式気動車、それも比較的簡略なシステムのモデルを先行製作することを決定した。その産物がキハ44000形気動車である[7]。
 当時の開発担当者であった北畠顕正は晩年のインタビューで44000形の開発について「電気式を実用化させようとは思っていなかった」「総括制御気動車を求める上層部へのポーズのために作った車両」とまで語っている[8]。
 かつて日本の気動車の歴史では、1950年代初頭の時点で国鉄によって電気式と液体式が比較され、液体式の優位性が実証されたためこちらが採用された、という理解が為されてきたが、北畠証言が事実であれば、国鉄は戦後の総括制御気動車開発の再開時点で、既に電気式気動車の将来性に見切りを付けていたと解するべきであろう。

4 国鉄キハ44000形
4.1 試作車
 電気式気動車の試作車として1952年に日本車輌製造東京支店・汽車製造でキハ44000 - キハ44003の4両が製作された。1両では営業運転できない片運転台車であり、2両以上で総括制御を行うことを前提とした設計である[9]。
4.1.1 外観・車体構造
 片運転台、ステップ付片開き3扉構成の20 m級・半鋼製車である。
 非電化区間における80系電車的なスタンスで設計されただけに、正面形状は80系電車に酷似した2枚窓の「湘南形」であった。ただし80系と違って運転台直後ドアのステップから前面全周までスカートのように外板が回り込んでおり、この「顎」から連結器やジャンパ栓が飛び出していたため、やや面長な容貌であった。のちにこれらの初期試作車4両は「顎」の部分を切り落としている。
 外板は機械式気動車同様の1.6mm鋼板で、屋根に至るまで鋼板張りとした。台枠は側梁・中梁・横梁を150mm溝形鋼で組んだが、機関吊部は横梁の強化で軽量化を図り、内装は内張に木造車鋼体化客車同様、薄手の10mm合板を用いた。床も機械式気動車同様の木張りであるが、この上にリノリウムを敷いている。車幅は通常の国鉄車両より20 cm近く狭い2.6 m級(車体実幅2,660mm、手すりを含めて2,728mm)で、屋根も浅い。これはそれ以前の気動車と同様で、軽量化技術が未発達だった時期のやむを得ない重量削減策であった。
 側窓は同時期の80系電車に類似した1段上昇式で、窓下にはウインドウシル(補強帯)が通されている。850mm幅の客室扉は当時の機械式気動車から変わらず手動式であったが、材質には耐食性アルミ合金を採用し、軽量化を図った。
4.1.2 車内設備
 車内は車幅が狭いためあまりゆとりはなかった。座席は軽量化のため、従来別体であった腰掛け受けを背ずり枠と一体に鋼板プレスした骨組みに、当時新素材として利用が始まったビニール生地を張った粗末なもので、座り心地は良くなかったという。また暖房装置も戦前形気動車同様に、ヒートエクスチェンジャーによる排気ガスの廃熱を利用して温風を座席下から流す簡易なもので、十分な暖房性能は得られなかった。
 車内灯は40W白熱灯であるが2列配置とし、当時の新型客車・電車に倣った光量向上を図っている。吊革はドア付近にのみ設置、扇風機はなく、客車・機械式気動車同様のガーランド式通風機を装備した。
4.1.3 台車
 台車は新開発の軽量台車である軸距2,300mmのDT18である。プレスした鋼板部材を溶接して組み立てる近代的な構造で(横梁のみ鋳造)、軸ばねも先進的なウイングばねとなり、個々のばね内側には(初歩的な片利き式ながら)オイルダンパーを仕込んだ。制動力の面でも有利な両抱き式ブレーキ構造を採用した。さらに、軽量化とタイヤ緩みの防止が期待できる一体圧延構造の車輪を国鉄で初採用、軸受けも従来の円すいころ軸受に代わって、よりメンテナンスの容易な複式円筒ころ軸受けを導入するなど、以後標準化する新しい技術を導入していた。
 しかし(当時は正確に認識されていなかったが)本来乗り心地確保には十分な柔らかさが必要な枕ばねに、軽量化・単純化、さらに後述の駆動シャフト貫通スペース確保のため、当時新たな素材として取り上げられていた防震ゴムブロックを本格採用したことが、実用では災いした。最高速度90km/h程度を想定すればこれでも十分と見切られたのであるが、ゴムブロック単体は在来型の板ばね以上に硬質な素材で、あまりの硬さに乗り心地は惨憺たるものとなった。特に両抱き式基礎ブレーキが作動すると、車軸の揺動を許容する軸ばね機能が殺されてしまうため、その際の振動はすさまじかったという。
 このゴムブロックによる枕ばねは、後続の液体式気動車用台車であるDT19でも本質的改良を伴わないまま無批判に踏襲され、欠陥もそのまま引き継がれてしまった。
4.1.4 動力装置・駆動装置・ブレーキ
 車体中央にはステップや戸袋を持つ中央扉があり、強度面で不利なため、車体中央から運転台側に寄った床下に重量のある発電セットを搭載している。渦流室式燃焼室を持つDMH17A ディーゼルエンジン (150 PS / 1500 rpm) で直結したDM42直流発電機(300 V・100 kW)を駆動し、発生した電力で後位側台車に架装したMT45主電動機(端子電圧300 V/定格出力45 kW)2基を駆動した。
 このMT45は、日本初の量産型カルダン駆動方式主電動機である(直角カルダン駆動方式)[10]。
 当時カルダン駆動電車は、私鉄各社でも開発途上であり、「『電車』ですらない」キハ44000形への採用は、通常では考えられない異例の措置であった。この背景には、試作車としての技術試験の意味合いと、軽量化の一手段としての面があったと推定される。
 なお、国鉄はその後の在来線電車では中空軸平行カルダン駆動を標準とし、標準軌間の新幹線ではWN駆動方式を採用したので、直角カルダン方式に対応する国鉄制式モーターはMT45が唯一である。
 制御システムはドイツで考案された「ゲブス式」と呼ばれる、複巻界磁回路による比較的簡易化されたシステムで、ドイツのフリーゲンダー・ハンブルガー用気動車などでも採用されていた。エンジン回転は、力行時1,500 rpmの最大連続定格、アイドリング時500 rpmでそれぞれ一定とする調速装備装備、高速走行時には主電動機の弱め界磁制御も行う。これら一切は電磁弁で遠隔操作が可能であるため、総括制御が実現された。主幹制御器は専用の「MC17」が装備され、徐行・ノッチオフ・全界磁・弱界磁の切り替え可能となっている。
 なお、キハ44000形とその派生形の電気式気動車、そして同時並行で開発された液体式試作車キハ44500形は、在来の機械式気動車同様に排気ガスがすべて床下排気方式で、古い形態を残している。また連結器も、キハ17形以降で標準となる小型の密着自動式ではなく、容量25tの軽量型ではあったが並形の自動連結器であった。もっとも、これは日本製鋼所による一連の密着自動連結器開発が未成の時期[11]の計画であったことによるもので、過渡期の車両らしい特徴である。
 ブレーキ装置は、既に国鉄の客車・電車で標準となっていたA動作弁による自動空気ブレーキを、気動車用に手直しした新開発のDA1型である。機械式気動車で長らく使われてきた直通ブレーキ・自動ブレーキ切り替えのGPSブレーキに比して長大編成に対応できるようになり、その後液体式気動車にも採用されて、国鉄末期まで採用例が見られる息の長いシステムとなった。ブレーキに使用する圧縮空気は、キハ42000形から採用されている機関ベルト駆動型3気筒のC600空気圧縮機で供給したが、こちらも液体式気動車に至るまで長年用いられた。ブレーキシリンダは、80系電車同様な1両2シリンダ仕様となり、保安性能を強化した。
 燃料タンクは、後年の気動車に比べてやや小型な300Lとされた。
4.2 増備形
 キハ44000形試作車は房総東西線等で試験運転され、一定の成績を収めた。
 この結果をもとに、翌1953年、日本車輌東京支店・新潟鐵工所・東急車輌製造にて、キハ44004 - キハ44014の11両が増備された。基本は試作形に準じているが、鈍重な印象を与える「顎」が廃され、同時に側窓が当時のバスで流行していた「バス窓」となった。これは上段窓をH断面のゴムで支持した固定式とし、下段を上昇式とした、2段窓の一種である。採光と車体強度確保両立の一手段であるが、キハ44000形の場合は強度確保よりも当時の流行に合わせたという感が強い。結果、デザインは大いに軽快になった。
 キハ44000形は当初、主に房総地区の路線で2・4両編成を組んで普通列車に使用された。

5 国鉄キハ44100形・キハ44200形
 キハ44000形増備形の兄弟形式と言うべきグループである。1953年(昭和28年)に3両編成5本15両が製造された。
 キハ44100形・キハ44200形の外観・性能は、44000形増備車と共通のバス窓タイプだが、中央扉を廃して2扉車となっており、3扉構造のキハ44000形よりも車体強度と重量の面で有利になっている。なお、2扉・バス窓という形態は、後の45000系液体式気動車に引き継がれている。
 画期的な特徴として、気動車で初めての自動扉が採用された。これに際しては電車用標準型ドアエンジンのTK4Dを装備したことから、その仕様に合わせ、客室扉の幅は通勤電車並みの1,000mmとなった。これに応じ、扉閉確認のため車側の戸袋窓に隣接して赤色信号灯が設けられた。
 中央扉に付随するステップと戸袋が廃されたことで台枠の切り欠きも不要となり、強度や艤装上の制約が減ったことを活かし、キハ44000形ではエンジンと発電機を運転台側扉と中央扉間の床下にずらして搭載していたのに対し、キハ44100形・キハ44200形では前後ボギー台車の中間に配置して、重量バランスを改善している。燃料タンクは運行距離が長くなることを考慮して400Lに増強された。
 キハ44200形は基本的にキハ44100形と同形だが運転台の無い中間車に便所を設置しており、水タンクは通路をはさんだ反対側の床上配置とした。ただしスペースが余ったため、水タンクと客室扉の間に、便所側を向く形で2人分のロングシートが配置された。
 キハ44100+キハ44200+キハ44100という、Mc-M-Mcの3両固定編成を組み、登場当初、鹿児島本線の門司港駅 - 久留米駅間で主に快速列車に用いられた。

6 電気式気動車のその後
 電気式は総括制御が容易という長所はあったが、低出力エンジンと効率の低い直流発電機の組み合わせでは、十分な性能は期待できなかった。これは150 PSで30 t超級のキハ44000系にも当てはまる弱点であった。キハ44000の自重は35.0t、それより軽いキハ44100/44200でも33.97t/33.76tで、同じDMH17Aエンジンを積み、1両あたりの収容力もほぼ同等な機械式キハ42500と比較して25%程度の重量増を来していた。
 急勾配にも弱く、当初重点配備された房総地区においては、房総東線(現・外房線)大網駅 - 土気駅間の上り勾配において時速が 10 キロメートルを下回り、海水浴シーズンなどの多客時には自然に停車してしまうことすらあったという[12]。また、地元の国鉄工場に電車技術に関するノウハウのなかった九州では[13]、キハ44100形・キハ44200形の主電動機など電装系のメンテナンスに難渋をきたすという、意外な面からの障害もあった[14]。
 エンジンやモーターの出力が低かったこともあるが、キハ44000系グループ自体、開発陣にとっては「液体式実用化までのつなぎの形式」として政策的理由から急造した存在に過ぎず、開発過程自体が消極的であったことも、芳しからざる成績の背景であったとも言える。
 一方、本命たる液体式変速機開発での変速機油漏れやクラッチ滑りなどの問題は1952年中に解決し、1952年12月には既に戦前に開発済みであった液体式気動車用総括制御システムを用いて、試作変速機を装備したキハ42500形での2両連結運転試験が成功していた。
 こうして1953年3月、キハ44000系の後を追うように、キハ44000形増備車と同スタイルの液体式試作気動車キハ44500形が竣工、試運転に供され、実用水準に達したことが実証された。その結果を受け、1953年後半からはキハ45000系(のちのキハ10系)が液体式気動車の量産形式として大量に増備されるに至った。
 少数派となったキハ44000系電気式気動車は、のち液体式化されるなどして以下のような経緯をたどり、最終的にはキハ10系液体式気動車の傍系グループに吸収されることになる。
 これらの液体式化改造の際に、台車をDT19に換装したものと、DT18からモーターをおろし、逆転器を装備して流用したものとがある。またエンジンも、DMH17B (160 PS) かDMH17C (180 PS) となり、連結器も密着自動式に交換されるなど、量産型キハ10系に準じる内容への改造が図られた。
6.1 キハ44000形(15両)
 1957年4月の気動車形式称号改正によりキハ09形(初代)キハ09 1 - キハ09 15となるが、同年から翌1958年にかけて液体式化され、運転台側の車体半分を郵便室・荷物室とした合造車に改造して、キハユニ15形キハユニ15 1- キハユニ15 15となった。
 1、4、11、14の4両は、後に運転台側を貫通型に改造している。
6.2 キハ44100形(10両)
 1956年末から1957年初頭にかけて液体式化され、運転台側の車体半分を郵便室・荷物室に改造して、キハユニ44100形キハユニ44100 - キハユニ44109となった。
 1957年4月の称号改正でキハユニ16形キハユニ16 1 - キハユニ16 10に改番された。キハユニ16 3は後に貫通型に改造された。キハユニ16 4は1971年にキハユニ16 601に再改造され、アコーディオンカーテンを車内に設けて簡易荷物室部分を拡大した。
 1、5、6、9の4両は、1965年と1970年の2度にわたり再改造され、客室を廃した郵便荷物車キユニ16形キユニ16 1 - キユニ16 3、キユニ16 10となった。
 ・キユニ16形キユニ16 1・キユニ16 2(元キハユニ16形キハユニ16 1・キハユニ16 2) 1965年改造。前半分を郵便室、後部を荷物室とし、便所を設置。
 ・キユニ16形キユニ16 3(元キハユニ16形キハユニ16 6) 1970年改造。便所付だが1・2とは郵便室・荷物室の配置が逆。
 ・キユニ16形キユニ16 10(元キハユニ16形キハユニ16 10) 1965年改造。1・2に準ずるが便所はない。
6.3 キハ44200形(5両)
 1956年から1957年にかけて中間車のまま液体式化された。1957年4月の称号改正でキハ19形キハ19 1 - キハ19 5となった。
 1964年には常磐線の荷物輸送に充当する目的で、キハ19 1・キハ19 3 - キハ19 5が片運転台全室荷物車のキニ16形キニ16 1 - キニ16 4に改造された。しかし、電化路線で列車密度の高い常磐線では、停車頻度の多い荷物列車運用へ充当するには、非力なDMH17C 180馬力級エンジンを1基搭載するのみの、この時期に一般的であった仕様の気動車では明らかに性能不足であった。そこで、4両は直ちに2エンジン搭載のキニ55形が改造・投入されて本形式は運用を外れ、翌1965年には4両すべてが郵便荷物合造車のキユニ19形キユニ19 1 - キユニ19 4に再々改造されて、房総地区に転用された。
 唯1両残ったキハ19 2は、1966年にキニ19形キニ19 1に改造され、四国で使用された。キニ16形とは、後位側への事務室新設などの差異がある。
 これらの元電気式気動車30両は、1970年代に入ると老朽廃車が始まり、1980年までにすべて廃車された。

7 電気式への回帰とその趨勢(ハイブリッド気動車・新世代の電気式気動車)
 JR各社では2000年代以降、電気式気動車の可能性を模索する動きが見られるようになった。それは蓄電池を搭載したハイブリッド気動車に始まり、やがてそれよりも低コストな(ハイブリッド方式を採らないタイプの)電気式気動車導入の試みに発展している。
 日本で電気式気動車が顧みられるようになったことには、次のような背景がある。
 ・性能面 ディーゼルエンジン技術向上によるエンジンの軽量・高効率化が進み、ステンレス素材等による車体の軽量化も進展する一方、軽量な交流モーターや発電機が鉄道車両用に実用化され、電気式気動車が液体式気動車と遜色ない性能を得られるようになった。
 ・液体式気動車に対する総合的な優位性 液体式気動車における専用機器類として、液体変速機、変速機と台車間の推進軸(プロペラシャフト)、駆動力を台車内で直角に方向転換する減速機といった装置が挙げられる。これらは日本国内の限られた気動車向けに比較的少数が供給されているに過ぎず、コスト高の原因となっている[15]。加えて、走行中に角度を変えながら高速回転する推進軸回りは脱落事故のリスクが付きまとい、安全上問題であった。電気式気動車は、台車および主電動機、動力伝達装置を電車と共用でき、制御装置や補助機器類についても電車と共通化させやすい。電車の駆動系機器は液体式気動車のそれより格段に量産規模が大きく、台車内でパッケージ化されていて安全性・信頼性にも優れるため、その採用はコスト、メンテナンス面で得策である。
 ・技術的拡張性 電気式気動車は、エンジンと駆動系が機械的に切り離されているため、電車同様、システム全体のモジュラー化が容易となる。これにより、ハイブリッド方式の採用や、発電ユニットをエンジンから燃料電池に置き換え得るなど、技術の進展に合わせた拡張性に優れる。
7.1 JR東日本
7.1.1 開発
 東日本旅客鉄道(JR東日本)は鉄道総合技術研究所(JR総研)と共同で2003年(平成15年)、シリーズ方式ハイブリッド気動車キヤE991形(愛称:「NEトレイン (New Energy Train)」)を試作した[16]。システム的には電気式気動車に大容量の蓄電池を設けた構造であり、日本における半世紀ぶりの電気式気動車とも言える。
 キヤE991形の電装品や台車などはE231系電車のものをベースとしており、小型高出力ディーゼルエンジン、ステンレス製の軽量車体、効率的なパワーエレクトロニクスという有利な条件を具備している。また将来の燃料電池動車の導入もシリーズ式を採用した理由の一つとなっており、実際にキヤE991形は2008年(平成20年)に燃料電池動車に改造され、クモヤE995形となった。なお、同車は燃料電池動車としての試験終了後、2009年に蓄電池電車に再改造されている。
 キヤE991形による試験の後、JR東日本によって世界初の営業用ハイブリッド気動車キハE200形が製造されることになり、2007年夏より小海線に3両を投入し、営業運転との並行で長期試験を行った[17]。
7.1.2 量産化
 ・HB-E300系・HB-E210系 - キハE200形の発展型としてHB-E300系を2010年から、HB-E210系を2015年から運用開始。
 ・TRAIN SUITE 四季島 - 2017年5月に運用開始。電化区間では架線集電、非電化区間ではエンジン発電機の電力でモーターを駆動する方式[18]。
 ・GV-E400系 - 2019年8月に運用開始[19]。
7.2 JR北海道
 北海道旅客鉄道(JR北海道)では、2007年にキハ160形気動車を改造して試作車とするなど、蓄電池を用いつつも機械式気動車の一種にあたるモーターアシスト方式ハイブリッド気動車[20]の開発を行っていた[21]。試作車で開発された技術を取り入れた車両としてJR北海道キハ285系が製作されたが、JR北海道管内で不祥事が続発する中で「現状としては、『安全対策』と『新幹線の開業準備』に限られた『人』『時間』『資金』等を優先的に投入する必要がある」と判断、「コストとメンテナンスの両面から過大な仕様であること」「速度向上よりも安全対策を優先すること」「従来形式での車両形式の統一によって、予備車共通化による全体両数の抑制と機器共通化によるメンテナンス性の向上が図られること」として、試作車落成直前の2014年9月10日に開発の中止が発表された[22][23]。
 モータアシスト方式を断念したJR北海道では方針を転換し、既存の液体式一般型気動車の置き換えにあたってはJR東日本で導入される電気式気動車(GV-E400形)と同型の試作車(量産先行車)となるH100形(車両愛称:DECMO[24])を製作し、走行試験等による冬期の検証を2年行った上で2019年度以降に量産車の製造に入る予定となっている[25]。
7.3 JR西日本
 西日本旅客鉄道(JR西日本)では、2017年春に運行を開始した「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」(87系気動車)でシリーズハイブリッド方式を採用した。
7.4 JR東海
 2017年6月、東海旅客鉄道(JR東海)ではキハ85系気動車の置き換え用となる特急用新型気動車においてシリーズハイブリッド方式を採用することが発表された。形式名はHC85系で、2019年末に量産先行車が日本車輌製造豊川製作所で落成した[26]。長期試験後の2022年度に量産車を投入する計画となっている[27]。
7.5 JR九州
 2018年1月、九州旅客鉄道(JR九州)が「(非電化区間における)次世代車両」として蓄電池搭載型ディーゼル・エレクトリック車両(ハイブリッド気動車)YC1系を導入することが発表された[28]。2018年6月に川崎重工業兵庫工場で試作編成が落成、納入されている。

8 脚注
[1]^ 国鉄・JR以外での電気式ディーゼル機関車では、GE(ゼネラル・エレクトリック)の輸出向けナローゲージ用ディーゼル機関車であるU10B形を、1970年に日本車輌でノックダウン生産した55 t機が、釧路市の太平洋石炭販売輸送で2019年の同社線運行終了まで稼働した。
[2]^ 日本国外においては機械式の総括制御運転が実用化されていて、液体式に比べ伝達効率が高いため、エネルギーの損失が少ないという特徴を発揮している。デンマークでは実用化に向け200 km/hでの試験走行も行われている。
[3]^ 機械式で4両編成を組んだ私鉄の例もあるが、その場合最後尾の1両はエンジンをアイドリングさせた状態で牽引されるトレーラー扱いとなることが多かった。
[4]^ 初期の電気式動力伝達車両が出現し始めて間もない1933年(昭和8年)時点で日本の学会誌にも、海外文献(1932年11月)翻訳による情報が紹介されている。(「内燃動車の電気式動力傳達方法に付て」機械學會誌193号(1933年5月)p345-347)。この翻訳ではレオナード式、レンプ式、ゲブス式といった欧米諸国で実用化された直流電源制御各種が、既に配線つなぎの略図、基礎理論とともに列挙されている。
[5]^ 車端部の運転席横まで座席があり、「先頭部で窓を開けて立ち上がればそのまま頭が窓から突き出す」と評されるほどであった。
[6]^ ただし、湯口徹『日本の内燃動車』(成山堂書店 2013年)p74では同車の総括制御の目論見について「成功はせず、単行走行に徹し」と、その試みが失敗に終わったことを示唆する。湯口説が正しければ、付随車サハ1100は完全なトレーラとしての運用のみで、配線引き通しによる中間車としては運用できなかったと考えられる。
[7]^ 横堀章一(当時、国鉄鉄道技術研究所次長 のち東急車輛製造に移籍)は1951年後期時点で記述されたと思われる「鉄道に関する展望」(「日本機械学會誌」396号 1952年1月1日発行 p10-17)で「ディーゼル機関車と内燃車両」の項目において「『電気式ディゼル動力』の44000形式(2車編成)と、45000、45500形式(3車編成)が新たに制作されている」と記述しており、電気式気動車製作の企画は1951年中の早期から始まっていた模様である。横堀の記述における「3車編成」用の2形式は、のちのキハ44100・44200の両形式を指すものと見られる。なお横堀の記述では、ヨーロッパで流体式(液体式)動力伝達が研究されていることは言及されているものの、1951年時点では技術的安定・完成に至っていなかった国鉄自身の液体式気動車開発については一切言及されていない。
[8]^ 以上の経緯は、岡田誠一『キハ07ものがたり(上)』(2002年 ネコ・パブリッシング)P.36、北畠自身の証言による。岡田は服部朗宏とともに、1950年代当時国鉄運転局車務課に所属していた西尾源太郎に2007年にインタビューを行っている(『国鉄の気動車1950』2007年 鉄道図書刊行会)が、ここで西尾は、1952年当時の総括制御気動車研究における電気式・液体式並立の頃について、北畠ら国鉄工作局陣営が三菱電機の協力の下に電気式44000形を開発し、これに対し運転局列車課長の石原米彦(のち帝都高速度交通営団副総裁)ら運転局陣営が液体式導入を推進したと説明している。しかし、運用に当たる運転局の技術のみでは工作局の動向と無関係に液体式変速システムを導入することは実際問題として不可能で、裏付けとなる検証が求められるところである。
[9]^ 以下44000・44100・44200の記述については、平石大貴『キハ17系ディーゼル動車のあゆみ』(鉄道ピクトリアルNo.980(2020年12月)p52-88)に基づく。
[10]^ 1953年までの短期間に30両もの車両に搭載され、1950年代後半までの数年間ではあるが本格的な一般営業運用に供された。一定の運用実績を残した早い事例と言える。
[11]^ 日本の私鉄向け車両では、1953年4月竣工の京阪1700系電車(第3次車)より日本製鋼所NCBII小型密着自動連結器の採用が開始されている。国鉄キハ44000形第2次車、キハ44100形、キハ44200形およびキハ44500形の4形式はいずれも1953年3月竣工となっており、この新型連結器の完成がぎりぎり間に合わなかったことになる。
[12]^ 白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』、崙書房、105 頁
[13]^ 九州の国鉄で当時電化されていたのは関門トンネルを挟む下関駅 - 門司駅間だけで、しかも電気機関車牽引列車のみであった。因みに九州に国鉄の電車が初めて運行されるのは、1961年の門司港駅 - 久留米駅間電化の時である。
[14]^ 房総地区は国電運行区間に接し、東京駐在の開発技術陣との連携も取りやすかったため、この面での障害は小さかった。
[15]^ 鉄道ジャーナル誌の検証では近年の実情につき「日本鉄道車両工業会が明らかにする近年の鉄道車両の国内生産実績において、気動車生産の両数は2011年度8両、2015年度67両、ある程度の置き換え需要があった2019年度ですら106両。このような数字ではもはや産業として成り立つ状況にない」と評する。(鉄道ジャーナル編集部「続々登場、『電気式気動車』は電車か気動車か」東洋経済オンライン 2020年8月24日[1])
[16]^ 参考までに日本ではないが、営業用でない(試作車・デモンストレーション車)ハイブリッド気動車では、2000年にアルストムなどが製作した、ドイツ鉄道の618型気動車「コラディア・リレックス」 (Coradia LIREX) の事例が存在する。こちらは電池ではなく、フライホイールにエネルギーを蓄えるシステムである。また、燃料電池の搭載も可能としている。2000年に開催された鉄道技術見本市「イノトランス」で実車が出展された。
[17]^ 営業車として世界初のハイブリッド鉄道車両の導入 -キハE200形式- (PDF) - JR東日本 プレスリリース(2005年11月8日)
[18]^ 「日本を楽しむあなただけの上質な体験」を感じる旅が始まります。 ~ クルーズトレインの新造について ~ (PDF) - JR東日本 プレスリリース(2013年6月4日)
[19]^ 八戸線および新潟・秋田地区への車両新造計画について (PDF) - JR東日本 プレスリリース(2017年7月4日)
[20]^ 同社の呼称は『鉄道車両用モータ・アシスト式ハイブリッド駆動システム(MAハイブリッド駆動システム)』
[21]^ 世界初の環境に優しい『モータ・アシスト式ハイブリッド車両』の開発に成功! (PDF) - JR北海道 プレスリリース(2007年10月23日)
[22]^ “新型特急車両の開発中止について” (PDF) (プレスリリース), 北海道旅客鉄道, (2014年9月10日) 2014年11月28日閲覧。
[23]^ “JR北海道、新型特急車両の開発を中止 - 当面はキハ261系気動車の製作を継続”. マイナビニュース. (2014年9月10日) 2014年11月28日閲覧。
[24]^ Diesel Electric Car with MOtorsの略称。
[25]^ 新型一般気動車の試作車(量産先行車)について (PDF) - JR北海道 プレスリリース(2017年7月12日)
[26]^ “東海旅客鉄道(株)殿向け HC85系”. 日本車輌製造. 2020年9月19日閲覧。
[27]^ “ハイブリッド方式の次期特急車両の名称・シンボルマークの決定について (PDF)”. 東海旅客鉄道 (2019年10月28日). 2019年11月3日閲覧。
[28]^ “九州を明るく照らす次世代の車両が誕生します!!” (PDF) (プレスリリース), 九州旅客鉄道, (2018年1月26日) 2018年1月28日閲覧。

9 関連項目
・電気・ディーゼル両用車両
・気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式
・鉄道車両におけるハイブリッド
・電気車の速度制御
最終更新 2021年5月4日 (火) 13:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 1951年2月から量産開始した「DMH17形」ディーゼルエンジンだったが、2両以上を一人で運転出来る"総括制御"可能な編成運転のできる気動車の早急な実用化が迫られていた、まだ各車に運転手が必要だったから。
 その点、「電気式気動車」は"ディーゼル発電機を搭載した「電車」"であるから、開発は早かった。1952年にキハ44000形が製作・試験運転が始まった。後に増備形と言えるキハ44004 - キハ44014、そして兄弟形式のキハ44100形・キハ44200形も製作されたが、総勢30両で打ち止めとなった。平行開発されていた「液体式気動車」試作車が試験成功し実用の目処が立ったから。結局、1956年から"液体式気動車"の改造が始まり、"電気式気動車"としては極めて短期間の使用されたに過ぎない。写真の様なキユニ16形ディーゼルカーとして事実上『キハ10系』の一員としての期間が長い。
 「電気式気動車」は車両が重く、急勾配にも弱く、「液体式気動車」様な性能が出せなかったから。"液体式気動車"は2エンジン搭載の「強力型」も製作されて、以後は猛烈な勢いで量産・無煙化が図られることになる。
ブログ一覧 | 新系列旅客車 | ニュース
Posted at 2021/05/05 08:01:08

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