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2024年05月15日 イイね!

"先台車(せんだいしゃ)"

"先台車(せんだいしゃ)"先輪 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 先輪[1] (せんりん、leading wheel) は、機関車において動輪より前にある動力のない車輪である。通常、先輪の車軸は台車に配置されており、この台車のことを先台車(せんだいしゃ)という。
[写真・画像]
(上)蒸気機関車の先台車(2軸の先輪を持つ)
(下)車体前方に飛び出した先台車を持つ電気機関車(EF59形)
1.概要
 先輪は曲線における機関車の走行を容易にし、キャブ・フォワード型蒸気機関車の場合には運転室を支える働きをする。
 重要な点として、先台車は垂直な軸に沿って単純に回転するだけの動きをするわけではなく、わずかながら横方向の動きも許容しなければならない。そうでなければ、機関車はカーブに正確に沿って走ることができない。この動きを制御し、中心に戻ろうとする復元力を与えるために、通常スプリングなどを用いた機構が組み込まれている。この種のスライドする台車は、1865年にイギリスのウィリアム・アダムス (William Adams (locomotive engineer)) によって特許が取得された[2]。先輪を初めて使ったと一般に考えられているのはアメリカ合衆国のジョン・ジャービス (John B. Jervis) で、1832年に2軸の先輪と1軸の動輪を備えた機関車の設計に採用した。この車軸配置はジャービスと呼ばれている。ホワイト式表記法によれば、この機関車は4-2-0と表され、4輪の先輪と2輪の動輪を備え、従輪を備えていないということである。UIC式表記法では車輪の数ではなく車軸の数を数え、また動軸の数を数えるために記号を用い、ジャービス式は2-Aとなる。
 先台車を備えていない機関車は一般的に高速用には不適とみなされている。イギリスの鉄道検査官は、グレート・ウェスタン鉄道のダブルボイス駅 (Doublebois) で起きた2両の車輪配置0-4-4の機関車による事故を受けて、この慣例を1895年に宣告した[3]。しかしながら、他の技術者はこの慣例に反発し、ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道 (London, Brighton and South Coast Railway) の有名な車輪配置0-4-2のグラッドストンクラス (LB&SCR B1 class) 旅客急行用機関車は、1933年まで特に問題なく運行を続けていた[4]。先輪が1軸の場合(ポニー台車 pony truckと呼ばれる)でもいくらか安定性を向上する[5]が、2軸の先台車は高速運行にはほとんど必須である。
 1両の機関車に備えられた最大の先輪の数は6輪(3軸)で、車輪配置6-2-0のクランプトン機関車 (Crampton locomotive) や、車輪配置6-4-4-6のペンシルバニア鉄道S1型 (PRR S1) デュープレックス機関車 (Duplex locomotive)や車輪配置6-8-6のS2型 (PRR S2) 蒸気タービン機関車などがある。3軸の先台車はあまり一般的ではない。クランプトン機関車は1840年代の製造であるが、その後ペンシルバニア鉄道がS1型に採用するまで使用例が無かった。
2.脚注
[1]^ JIS E 4001:1999 には先輪の語はなく、先台車 leading bogie が登場するのみである。一方、普通鉄道構造規則第182条では「導輪」の語が用いられている。従輪には非駆動軸 non-driving wheel の意味もあることからの連想か先輪のことを先従輪と呼ぶ例があるが、先従輪は先輪と従輪の総称であって、先輪の意味で先従輪というのは誤りである。
[2]^ Simmons, Jack; Biddle, Gordon (1997). The Oxford Companion to British Railway History. Oxford: Oxford University Press. ISBN 0192116975
[3]^ Rolt, Lionel (1955). Red for Danger. London: The Bodley Head. ISBN 0715372920
[4]^ Gladstone at the National Railway Museum, York Archived 2006年10月15日, at the Wayback Machine. 2006年12月22日アクセス
[5]^ クラウス・ヘルムホルツ式先台車や島式先台車のように、1軸の先輪と第1動軸を結んで2軸先台車に近い作用を得る機構もあり、この種の機構を備えた機関車(オーストリア国鉄310形や日本国鉄8620形など)は1軸先台車でも概ね2軸先台車と同等の高速安定性を備える。
3.関連項目
・蒸気機関車の構成要素
・従輪
最終更新 2023年2月27日 (月)02:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)


≪くだめぎ?≫
 "蒸気機関車"の「動輪」は大きいため、その他の車体を支えるための台車とは区別しやすい。そのうち、動輪の前にある車輪を
先輪(せんりん)、または先台車(せんだいしゃ)である。

いわゆる、入れ換え作業員が使うデッキ付き台車、と言われれば分かり易いかな。デッキ付き台車自体が見受けられないから、レアと言われればそうだが・・。
Posted at 2024/05/15 09:13:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蒸気機関車史 | 趣味
2021年01月31日 イイね!

幻の蒸機『C63形』

幻の蒸機『C63形』国鉄C63形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国鉄C63形蒸気機関車(こくてつC63がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が計画・設計したテンダー式蒸気機関車の一形式である。国鉄最後の制式蒸気機関車として計画されながら、1956年(昭和31年)に設計図が完成したのみで、実際には製造が行われなかった。このため未成車両となり、幻の(蒸気)機関車とも呼ばれている。

[写真・画像]
京都鉄道博物館に展示されているC63 1のナンバープレート

1 計画の背景
 C63形が計画されたのは1955年(昭和30年)頃のことであった。当時は財政難などで電化も遅々として進まず、また気動車やディーゼル機関車の技術も未成熟であり、無煙化を着実に進めていける状況にはなかった。その一方で現有機関車には老朽化が進んでいるものもあり、輸送需要増加と合わせて機関車不足を招くことになるため、「手戻り」ではあるものの蒸気機関車の新製はやむを得ないとの判断が下された。

2 構造
 地方ローカル線での客貨両用目的での使用を前提とし、主として老朽化が特に深刻化していたC51形を置き換える目的で設計された。構造はC58形をベースにしているが、できるだけC51形に近い性能を得ることを目標とした。
 国鉄最後の新製蒸気機関車となるため、以下のような新設計を取り入れている。
・ボイラーを全溶接構造として圧力を従来の16kg/cm2から国鉄蒸気機関車最大の18kg/cm2(≒1.765MPa)に昇圧する。
・1軸従台車の台車枠をばね上装荷として乗り心地向上を図る[1]。
・下方の一部を切り取った形状のデフレクターを採用。従来の門鉄デフなどのようにランボードからアングル材のステーを突き出して支持する方式ではなく、ドイツで採用されたヴィッテ式と同様、煙室から支持部材を水平に突き出して固定する方式。
・テンダ台車へのコイルバネやオイルダンパを新規採用。
・軸受は動輪軸・先従輪軸も含めすべてローラーベアリングとする。ただし一部は戦後製のC59形・C61形・C62形と同様、動輪軸・先輪軸をプレーンベアリング、従輪軸と炭水車車輪軸をローラーベアリングとし、比較する。

 軸配置はベースとなったC58形と同じく1C1(ホワイト式:2-6-2、アメリカ式:プレーリー)となっていた。

3 製造中止
 こうして1956年(昭和31年)には設計図が完成したが、製造正式決定を前に、無煙化の進捗状況と機関車の需給が再検討され、現段階では蒸気機関車の製造が絶対必要とはいえないとの結論に達し、当分の間は製造を見送り、情勢を見守ることになった。そしてその後すぐ交流電化及びディーゼル機関車・気動車の技術が確立し、急速に電化・ディーゼル化が進むこととなった。[2]。
 さらに、国鉄は1959年(昭和34年)に「動力近代化計画」として、1960年(昭和35年)の会計年度より蒸気機関車を15年で全廃する計画を立て、実行に踏み切った(完了は予定通り1975年度の年度末となる1976年3月)。これにより、蒸気機関車が不足する懸念は全くなくなったばかりでなく、国鉄が蒸気機関車廃止の方針に転換したため、ついにC63形の製造決定が下されることはなかった。
 このC63形については、同じく製造中止となったEH50形電気機関車と同様に、製造中止後も数々の情報や資料が紹介されており、日の目を見ることのなかった悲運の形式として、鉄道ファンには広く知られている。もっとも、基本となったC58形には、各動軸が短軸距で台枠中央に集中して配されていて前後端のオーバーハングが大きく、高速走行時に著しいピッチングとヨーイングが発生する傾向があったことが知られていた。このため、ボイラーの燃焼効率改善を目的として火床面積の拡大を図った本形式の場合、C58形よりもオーバーハングが重く大きくなることからこの症状がさらに悪化し、実際に製造しても当初目標とされたC51形並の走行性能が得られなかった可能性が一部で指摘されている。
 これについては、高速走行が問題となった紀勢本線でも動揺が発生しない時期があったこと、他の路線では80km/h以上の速度でも軽快に走行していたことから連棒の短かさと保線軌道の悪さが原因であり[3]、製造されればC58形の素晴らしさを証明する幻の機関車であったと評されている。[4]
 本形式の模型を梅小路蒸気機関車館に保存することとなり、正式図面を基に鷹取工場にてC63 1として製作された[2]。その後郡山工場(現・郡山総合車両センター)では、若手職員への蒸気機関車関連技術の継承を主な目的に、設計図を元に1/5スケールのライブスチームが製作され、動態のミニSLとしてイベント時などに使用されている。
 なお、郡山駅1階には模型が展示されている他、京都鉄道博物館の展示室においても模型が展示され、朱色に塗られたC63 1のナンバープレートも同館に存在している。また、日本の鉄道模型メーカーであるマイクロエースがこのC63形をNゲージで発売している。また、一部の鉄道ファンが、イギリスのぺパコーンのA1の新造に触発されてC63の新造を目指して活動している。

4 脚注
[1]^ C62等と同様のデルタ式従台車であり、日本製で一軸式のものは満鉄機関車等に見られる。
[2]^『鷹取工場回想(創業100年の記録)』p.79
[3]^ 栄光の日本の蒸気機関車
[4]^ 国鉄機関車事典―蒸気・電気・ディーゼル機関車66形式

5 参考文献
・JR西日本神戸支社鷹取工場100年史編集委員会『鷹取工場回想(創業100年の記録)』JR西日本鷹取工場、2000年1月。
・交友社『鉄道ファン』1962年10月号(通巻第16号) 久保田博「幻の近代化蒸気機関車“C63”」
・JTBパブリッシング『幻の国鉄車両』 2007年発行

6 C63形蒸気機関車が登場する作品
・霞流一『スティームタイガーの死走』(角川文庫、2004年) ISBN 4-04-372902-2
最終更新 2021年1月3日 (日) 14:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)


≪くだめぎ?≫
 『国鉄C58形蒸気機関車』9600形が戦時体制により軍から大量供出(251両)により、代替製造された。線路が弱い地方ローカル線に始めから回すモノだった。また、戦後でも如何に地方ローカル線でも輸送力が求められていた証拠でもある。8620形・9600形以後の蒸機でも不調機やローカル線に合わないモノもあり、代替製造の意味もあろう。試験の結果、C58形のリピート生産も有っても良かったかも。
 いずれにしても、蒸機の国産新製は
1914年(大正3年)~1948年(昭和23年)の34年間だった。
Posted at 2021/01/31 20:44:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蒸気機関車史 | ニュース
2021年01月31日 イイね!

『国鉄8620形蒸気機関車』

『国鉄8620形蒸気機関車』国鉄8620形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

8620形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が導入した、旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車である。

[写真・画像]
(上左)花輪線で88620号機ほか8620形三重連が牽引する列車、1971年6月
(上右)国鉄C11形蒸気機関車のねじ式連結器。1934-1940年にかけ孤立してねじ式連結器を使用した紀勢中線用に、特に改造された事例
紀勢中線に新製配置されたC11 98 紀伊勝浦機関庫 1938年
(下)8620形の形式図、ねじ式連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体

 基本情報
運用者 鉄道院→日本国有鉄道
製造所 汽車製造、川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所
製造年 1914年 - 1929年
製造数 672両
主要諸元
軸配置 1C
軌間 1067 mm
全長 16765 mm
全高 3785 mm
機関車重量 48.83 t(運転整備)
44.54 t(空車)[注釈 1]
動輪上重量 41.46 t[注釈 2]
炭水車重量 34.50 t(運転整備)
15.50 t(空車)[注釈 3]
総重量 83.33 t(運転整備)
60.04 t(空車)[注釈 4]
固定軸距 2286 mm
先輪径 940 mm
動輪径 1600 mm
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 470 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 13.0 kg/cm2[注釈 5]
大煙管
(直径×長さ×数) 127 mm×3962 mm×18本[2]
小煙管
(直径×長さ×数) 45 mm×3962 mm×91本[2]
火格子面積 1.63 m2
全伝熱面積 110.9 m2[注釈 6]
過熱伝熱面積 28.8 m2[注釈 7]
全蒸発伝熱面積 82.1 m2[注釈 9]
煙管蒸発伝熱面積 72.0 m2[注釈 10]
火室蒸発伝熱面積 10.1 m2
燃料搭載量 6.00 t
水タンク容量 13.0 m3[注釈 8]
制動装置 真空ブレーキ→自動空気ブレーキ
最高速度 90 km/h[要出典][3]
出力 558 kW[要出典]
シリンダ引張力 89.2 kN[4]
粘着引張力 101.6 kN[要出典]
備考 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.226の諸元表の自動連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体のデータに拠り[5]、必要に応じて『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の同じく自動連結器付、455 ft3形石炭6 tタイプ炭水車付の機体のデータ[2]を注記。

1 導入の経緯
 明治末期の1911-13年に急行列車牽引用の大型旅客列車用機としてイギリス・ドイツ・アメリカの各国から、車軸配置2Cの8700形・8800形・8850形および、2C1の8900形が輸入され、1912年6月にはこれらを使用して新橋 - 下関間に特別急行[注釈 11]が運行されるようになった。一方、当時の運輸状況ではこれらより若干小型で急行列車も牽引可能な旅客用機の需用が多かったため[6]、九州・関西・東北・奥羽の各線でも使用できる[7]機体として、8800形などを参考に日本の蒸気機関車国産化技術の確立を目的として本項で記述する8620形が導入された。汎用性を重視して、将来輸送量が増加した際には地方線区に転用することを考慮して設計された。
 ボイラーは、ベースとなった8800形などでは80.5 km/h(50 mph)での連続走行に対応した連続蒸発量を確保できる大型のものを搭載していたが、本形式の運行が想定された二級幹線の急行列車は連続走行速度64.4 - 72.4 km/h(40 - 45 mph)であり、8800形などの約8割程度の連続蒸気発生量のボイラー容量で十分とされたため、8800形などより二回り小型のボイラーを搭載することとした[8]。
 一方、走行装置は動輪直径を8800形と同じ1600 mm、シリンダー直径も同形式と同じ470 mmとして急行旅客用に使用できるようにしている[6]。また、十分な粘着重量を確保する[6]とともに、線形が悪く勾配も多い二級幹線での運用に対応するため[8]動軸を3軸とした一方で、当時の旅客用機は先台車を軌道に対する追従性を考慮して2軸ボギー式とすることが通例となっていた[7]ため、ボイラーの小型化による重量減への対応として本形式では車軸配置2Cの8800形から先輪を1軸少なくして車軸配置を1Cとしながら、1軸の先輪と第1動輪とを特殊な台車に装備して2軸先台車と同様の作用をさせていることが特徴となっている[6]。
 大正期における機関車の設計は、主要寸法を定める概要設計は鉄道院・鉄道省で行われ、詳細設計は鉄道省で実施する場合とメーカーで実施する場合の両方があり、例えば6700形やC51形は鉄道院・鉄道省で、9580形や9600形はメーカーで詳細設計を行っていたが、本形式はD50形などとともに一部を鉄道省、一部メーカーで行う方式としており[9]、鉄道省の津田鋳雄、汽車製造会社の池村富三郎が詳細設計を担当した[7]。
 また、製造は当初1913-19年度発注分は汽車製造会社が担当しており(一方で9600形は1917年度に汽車製造会社に発注されるまでは川崎造船所のみが製造している[10])、その後1920年度発注分から日立製作所[注釈 12]と川崎造船所が、1921年度発注分から日本車輌製造が、1924年度発注分から三菱造船[注釈 13]がそれぞれ製造に参加して1925年度までに計670両、間をあけて1928年度に2両が発注されている[11]。なお、このうちの日立製作所笠戸工場と三菱造船神戸造船所は第一次世界大戦終戦に伴う造船不況を契機に新たに機関車の製造に参入したものであり、日立製作所笠戸工場は当初鉄道省からの機関車の発注を得られなかったため、8620形を自主製造して製造能力を示してその後の受注につなげており[12]、神戸造船所は三菱鉱業美唄鉄道の2-4号機の製造実績があり、空気ブレーキ装置の製造所でもあったため受注を得ることとなっている[13]。

2 概要
2.2 走行装置
 車軸配置は1C(日本国鉄式)、2-6-0(ホワイト式)もしくは通称モーガルと呼ばれる配列で、当時の旅客用機関車で一般的であった2軸ボギー式台車を本形式では先輪と第1動輪を一体化した「省式心向キ台車」に置換えて曲線通過性能を良くしており、その最小半径は80 mで、後年のローカル線用タンク式蒸気機関車であるC12形と同等である[7]。また、走行装置の基本的な寸法は8800形をベースとしており、動輪直径、動輪軸間距離、シリンダー径×行程、ピストン弁径、シリンダー中心 - ピストン弁中心間距離、左右シリンダー中心間距離が同一となっている[注釈 16][14]。また、シリンダー引張力も同一の89.1 kNであるが、ボイラーは小型化となった一方で先輪が1軸少なくなったため、動輪上重量が39.76 t(1931年形式図で41.46tに修正[1])と8800形の39.76 tを上回って[14]粘着率が4.5となり[28]、これは後継のC50形は4.3 - 4.5と同等であるが、8620および9600の代替機のC58形の3.2 - 3.3[29]や勾配線区用の4110形の4.3[30]も上回っている[注釈 17]。動輪の粘着力がシリンダー出力を大きく上回るため、「絶対に空転しない機関車」ともいわれており、空転に苦慮していた乗務員からの信頼が厚く、本来の旅客用高速機という用途から外された後は勾配のあるローカル線での仕業や、入換仕業で力を発揮した[注釈 18]。終戦直後の混乱期には老朽化と戦中の酷使が深刻化した4110形の補充として、米沢機関区から1両の8620形と9600形が試用されたが、勾配区間(33.3パーミル)では空転が多く、4110形が最も安定していた[36]。

2.3 ブレーキ装置
 ブレーキ装置は当初自動真空ブレーキ、手ブレーキを装備しており、運転室下部にブレーキ用のピストン2基を搭載し、基礎ブレーキ装置は動輪3軸に作用する片押式の踏面ブレーキとなっている。また、制輪子は制輪子吊に直接取付けられる甲種[注釈 22]のうち、甲-9号を使用する[44]。
 1919年に鉄道省は全車両に空気ブレーキを採用することを決定し、1921年から1931年上半期にかけて全車両が空気ブレーキ化されており[45]、本形式も1923年度発注の68661号機以降は空気ブレーキを装備して製造された[22]一方でそれまでの機体も順次真空ブレーキから空気ブレーキに改造されている。蒸気機関車用の空気ブレーキはアメリカのウェスティングハウス・エア・ブレーキ[注釈 23]が開発したET6を採用しており、この方式はH6自動ブレーキ弁、S6単独ブレーキ弁、6番分配弁、C6減圧弁、B6吸気弁などで構成されるもので、その特徴は以下の通りとなっている[46]。
・構造が簡単で取付および保守が容易。
・非常ブレーキが使用可能。
・ブレーキ弁に連動して元空気ダメ圧力を2段階に設定可能。
・補助機関車もしくは無火回送時においても客車・貨車と同様にブレーキが作用する。

2.4 連結器
 連結器は当初、基本的にはねじ式連結器を装備していたが、北海道においては、道内最初の鉄道である官営幌内鉄道が1形(後の鉄道院7100形)に当初より並形自動連結器を使用して以降これを標準としていたため、本形式も1917年に最初に北海道に配置された18649号機以降がこれを装備していた[19]。なお、設置高さが後の鉄道省の自動連結器より低い660 mmであった[47]。
 1919年に鉄道省は全車両のねじ式連結器を交換する方針を決定し[48]、まず、北海道内の車両の連結器高さを878 mmに変更することとして、1924年8月13-17日に一斉に工事を実施している[49]。続いて北海道以外の車両については、九州以外は1925年7月16-17 日に 、九州は7月19-20 日に一斉にねじ式連結器から自動連結器への交換を実施している[50]。本形式においてもこれにともなって連結器の交換を実施しているほか、1925年発注の78694号機以降は自動連結器を装備して製造された[22]。なお、当初は解放テコが連結器右側のみに設けられるものであったが、1930年頃より両側から解放操作が可能なものに改造されている[51]。

2.5 その他
 外観は6700形以降D50形までの明治末期から大正期にかけての鉄道院・鉄道省の国産蒸気機関車の標準的なデザインとなっており、化粧煙突、前部デッキから歩み板にかけての乙形の形状が特徴であったほか、運転室側面裾部は8620 - 8643号機[52]が8800・8850形や9600形9617形までなどと同様のS字形、8644号機以降が8700形や9600形9618号機以降と同じ乙形の形状となっている[注釈 24]。また、空気ブレーキ装置を装備した1923年発注の68661号機以降は歩み板の後半部が一段高くなって運転室側面下部の乙字形につながる形状となっており、運転室裾部を炭水車台枠上部に揃えたものとなっている[54]。

2.7 付番法
 8620形の製造順と番号の対応は、1番目が8620、2番目が8621、3番目が8622、…、80番目が8699となるが、81番目を8700とすると既にあった8700形と重複するので、81番目は万位に1をつけて18620とした。その後も同様で、下2桁を20から始め、99に達すると次は万位の数字を1繰り上げて再び下2桁を20から始め…という八十進法になっている。したがって、80番目ごとに万位の数字が繰り上がり、160番目が18699、161番目が28620、…となっており、番号と製造順は万の位の数字×80+(下二桁の数字-20)+1=製造順という関係となる。
 例えば58654であれば万の位の数字が5、下二桁が54となるので、製造順は5×80+ (54-20) +1=435両目となる。

3 製造
 鉄道省で672両を導入したほか、樺太庁鉄道向けに15両、台湾総督府鉄道向けに43両、地方鉄道(北海道拓殖鉄道)向けに2両の同形機が製造されている。

3.1 鉄道省
 鉄道省では大正時代の標準形として1914年から1929年の間に672両(8620 ... 88651号機)を導入した。半数以上が汽車製造会社製造。のちに川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所も製造した。樺太庁鉄道の15両は、1943年の南樺太の内地編入に伴い鉄道省保有となり、88652 - 88666号機となっている。樺太向けの15両を鉄道省としての製造両数に含め、製造両数を687両と記載している文献もある。

3.2 樺太庁鉄道8620形
 樺太庁鉄道の8620形は鉄道省8620形の同形車で、15両 (8620 - 8634号機) が製造されて豊原機関庫、泊居機関庫、真岡機関庫に配置された[79]。8620 - 8623号機の運転室は当初は鉄道省の機体と同様のものであったが、後に運転室後部を炭水車前端部まで延長して幌で接続した耐寒構造の密閉型となり、その後の増備機は当初より耐寒密閉型で製造されている[80]ほか、連結器は鉄道省の当初北海道配属となった機体と同じ取付高さの低い自動連結器を装備している一方、ブレーキ装置は真空ブレーキを装備している[1][注釈 25]。1928年および1929年製の11両は、製造当初8万番台の番号 (88620 - 88630) であったが、すぐに既存車の続番に改番された。1943年4月1日の樺太の内地編入による樺太庁鉄道の鉄道省への移管と樺太鉄道局の設置に伴い、これらの機体も鉄道省の8620形に編入されて88652 - 88666号機となった[79]。なお、樺太鉄道局の車両は順次空気ブレーキ化されており、後述する樺太鉄道局へ転属した本形式も空気ブレーキを装備していたが、88652 - 88666号機は1944年1月末時点では全機が真空ブレーキのままであった[81]。

3.3 台湾総督府鉄道E500形
 E500形[82]は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省8620形の同形車で、1919年から1928年にかけて、43両 (500 - 542号機)が製造された。形態は歩み板1段、運転室側面裾部乙字形、真空ブレーキ装備、炭水車は455 ft3・石炭6 t形で、連結器は当初より自動連結器を装備していた[83]。1937年に形式がC95形に改称されたが、番号は変更されていない[84]。第二次世界大戦後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局が1947年にCT151形(CT151 - CT193号機)に改形式・改番している[84]。
 戦後、事故廃車となった2両(CT154, CT155号機)の部品を組み合わせ、一部を新製して、1両(CT194号機)が再製されている[要出典]。

3.4 北海道拓殖鉄道8620形
 北海道拓殖鉄道の8620形は、1928年9月に汽車製造で2両(8621 - 8622号機)が同社の開業[注釈 26]用に新製し、翌1929年1月に竣工し、同年7月に空気ブレーキを設置したもので[85]、民鉄向けに製造された唯一の8620形である。形態は歩み板1段、運転室側面裾部乙字形、炭水車は455 ft3・石炭6 t形、連結器は自動連結器で当初は真空ブレーキを装備していた[83]。8621号機は1960年7月に廃車解体、8622号機もその後廃車され、鹿追駅跡に保存されている[85]。

4 運用
 最初は東海道本線、山陽本線などの幹線を中心に配置されたが、より高性能な形式が投入されるにつれて幹線からローカル線へと転用された[要出典]。平坦で距離の長い路線に向き[要出典]、客貨両用に効率よく使えるという特徴をもって長く運用され、鉄道車輌史研究家の臼井茂信は「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」と評している[1]。
 8620形の初回ロットは8620 - 8637号機の18両で、1914年5月に最初の6両が九州鉄道管理局の鳥栖機関庫の配置となって鹿児島本線門司(現門司港) - 鳥栖間で急行列車や直行列車などの牽引に使用された[14]。初回ロットの残り12両は神戸鉄道管理局に11両、東部鉄道管理局に1両の配属となった[86]ほか、これらを含む以降の初期製造の機体は以下の各区間で運行されている[14]。
・奥羽本線:米沢 - 秋田間
・東北本線:宇都宮 - 白河間
・東海道本線:東京 - 沼津間
・関西本線:亀山 - 湊町間
・山陽本線:広島 - 下関間
・鹿児島本線:門司 - 鳥栖間

 1915年には東海道本線東京 - 沼津間で特別急行1列車および2列車を牽引しての8850形との性能比較試験[注釈 27]が実施され、本形式は8850形より石炭消費量が5 - 6 %少ないとの結果が出ている[19]。また、翌1916年には東京 - 国府津間で6760形との性能比較試験が実施され、本形式は6760形石炭消費量が8 - 12 %少ないとの結果が出ている[87]。
 また、1914年時点において、本形式の牽引トン数は10パーミル勾配において急行列車300 t(35 km/h)、客車列車350 t(30 km/h)、25パーミル勾配において旅客列車180 t(18 km/h)に設定されていた(本形式のベースとなった輸入蒸気機関車のうち、8900形の牽引トン数は10パーミル勾配において特別急行列車320 t(48 km/h)、急行列車340 t(45 km/h)、客車列車380 t(41 km/h)、25パーミル勾配において特別急行列車・急行列車で170 t(30 km/h)に設定)[88]ほか、10パーミル区間で貨物列車550 t、25パーミル勾配で貨物列車180 tに設定されている[35]。本形式はシリンダ牽引力と粘着力牽引力の比が小さく設計されていたため、勾配区間における牽引トン数は従来の機関車より高めに設定されていた[35]。
 その後1930年代に入り、近郊旅客用もしくは支線区の貨物用[89]C11形や旅客用のC55形・C57形、地方線区の旅客用もしくは小単位の貨物用[90]のC58形等の導入に伴い、本形式は地方線区や入換用に転用されている[91]。
 9600形のような日中戦争勃発に伴う軍からの徴発はなかったが、樺太の内地編入に伴い樺太庁鉄道が鉄道省樺太鉄道局に移管された1943年以降に14両が同鉄道局に転属している。1両は1944年に樺太鉄道局から転出したが、他の13両は樺太庁鉄道から移管された88652 - 88666号機とともに終戦時にソビエト連邦に接収され、以後の消息は明らかでなく、書類上は全機が1946年3月31日に廃車となっている[79][77]。
 樺太鉄道局への転属、転出の状況は以下のとおり。
・1943年10月:(転属8両)18638, 18665, 38620, 48629, 48655, 48658, 48691, 68624号機
・1944年2月:(転出1両)18665号機
・1944年6月:(転属3両)18640, 58670, 78640号機
・1944年9月:(転属3両)38630, 38661, 38675号機

 戦後の1947年1月1日時点では、樺太の28両(樺太鉄道局からの編入15両・移管後の転属13両)と戦災により廃車となった3両 (48634, 68662, 78682号機) および戦前に事故廃車となった2両 (68640, 88628号機) を除いた654両が残っていて、釧路、帯広、池田、斜里、留萠、稚内、北見、渚滑、深川、小樽築港、室蘭、青森、尻内、盛岡、小牛田、郡山、弘前、東能代、秋田、米沢、新潟、新津、長岡、小山、高崎、大子、佐倉、成田、千葉、館山、勝浦、新小岩、品川、八王子、新鶴見、二俣、稲沢、米原、敦賀、七尾、梅小路、宮原、鷹取、竜華、王寺、奈良、豊岡、鳥取、米子、浜田、津山、新見、高松、松山、宇和島、小松島、高知、十日市、津和野、正明市、西唐津、早岐、伊万里、若松、吉塚、行橋、柳ヶ浦、大分、豊後森、南延岡、宮崎、都城、人吉、吉松の各区に配置されていた。
 1955年3月末には637両が残っていたが、中型ディーゼル機関車の実用化により、1960年3月末には491両、1961年3月末には380両、1962年3月末には333両とほぼ半減したが、その後主要幹線や亜幹線の電化もしくは無煙化が優先されたことや、地方ローカル線および入換用ディーゼル機関車の量産導入が進まなかったこともあり、かなりの数が蒸気機関車の末期まで残った。1964年3月末の在籍数は276両であったが、1968年3月末では138両であった。
 その後1972年3月末では41両と漸減し、7 kmにわたって33.3パーミルの上り勾配が続く花輪線での運用も1971年9月30日に終了した[92]。最後の運用は人吉機関区の48679号機および58654号機による湯前線の貨物列車であり、1975年3月9日が最後の運用となって[61]、48679号機は1974年12月1日休車、1975年5月6日廃車、58654号機が同年3月10日休車、3月31日廃車となった[93]。

6 保存機
6.1 動態保存機
6.1.3 鬼滅の刃と無限列車
 2020年に社会現象となるほど大ヒットした漫画『鬼滅の刃』、およびそこからのアニメ映画化『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に登場する無限列車は、この8620形に酷似した機関車である(話の舞台は大正時代)。このためJR九州では58654号機による旅客列車を2020年から当分の間、続いてJR西日本でも8630号機について館内のみだが時々、ナンバープレートを劇中の「無限」に付け替え、同作との相乗効果による集客に一役買っている。

7 脚注
7.1 注釈
[注釈 1]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は46.75 t/43.28 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 2]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は39.75 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 3]^ 1931年形式図で修正でも変更なし[2])
[注釈 4]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は81.25 t/58.78 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 5]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では12.7 kg/cm2[2]
[注釈 6]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では116.0 m2[2]
[注釈 7]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では27.6 m2[2]
[注釈 8]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では12.9 m3[2]
[注釈 9]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では88.4 m2[2]
[注釈 10]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では78.3 m2[2]
[注釈 11]^ 一等車・二等車のみ編成され、最後部には展望車を連結しており、関釜連絡船を介して中国・欧州などへの国際連絡運輸の一部となる「大陸連絡列車」とされていた。
[注釈 12]^ 1919年に日本汽船笠戸造船所として操業を開始し、1921年にこれを日立製作所が取得した。
[注釈 13]^ 1917年に三菱合資会社から造船事業を引継いだ三菱造船が設立され、その後1934年4月に社名を変更して三菱重工業となる。
[注釈 16]^ それぞれ1600 mm(5 fi 3 in)、第1 - 第2動輪間1767 mmおよび第2 - 第3動輪間2286 mm(6 ft 3 inおよび7 ft 6 in)、470 × 610 mm(18-1/2 × 24 in)、191 mm(7-1/2 in)、432 mm(17 in)、1683 mm(5 fi 6-1/2 in)
[注釈 17]^ 旅客用のC51・C54・C55・C57・C59形では3.2 - 3.8[31]、ローカル用のC10・C11・C12形では3.4 - 3.9[32]となっている。
[注釈 22]^ 乙種は制輪子に制輪子ホルダーが付き、そこに制輪子を取付ける。
[注釈 23]^ Westinghouse Air Brake Company, Pittsburgh(WABCO)
[注釈 24]^ 運転室側面下部の形状に関し、臼井重信、高木宏之、金田茂裕は8620-8643号機がS字形、8644号機以降が乙字形としている[52][23][24][22]一方で、川上幸義、浅原信彦は8620-8672号機がS字形、8673号機以降が乙字形としている[53]。
[注釈 25]^ 本形式の後継であるC50形も真空ブレーキ装備であったが、D50形(9600形同形機)は空気ブレーキを装備している。
[注釈 26]^ 1928年12月15日に新得 -鹿追間21.0 km、1929年11月26日に鹿追 - 中音更間23.7 km、1931年11月15日に中音更 - 上士幌間9.6 kmがそれぞれ開業している。
[注釈 27]^ 所要時間往路約200分、復路約210分、列車重量435 - 445 t、御殿場越えは補機として往路は9750形、復路は9850形を使用。

7.2 出典
[1]^ 『機関車の系譜図 4』 p.498
[2]^ 『8620形機関車明細図』 p.5
[3]^ 『追憶の蒸気機関車』
[4]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.42
[5]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.226
[6]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.178
[7]^ 『機関車の系譜図 4』 p.492
[8]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.26
[9]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.163
[10]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.23
[11]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.32
[12]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.70
[13]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.71
[14]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.28
[19]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.29
[22]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.31
[23]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.394
[24]^ 「”形式別・国鉄の機関車”補遺」『形式別 国鉄の蒸気機関車別冊 国鉄軽便線の機関車』 p.iii
[28]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.33
[29]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.197
[30]^ 『国鉄蒸気機関車史』.159
[31]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.83, 89, 129
[32]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.104, 110
[35]^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.117
[36]^ 「連合軍専用列車の時代」p.232
[44]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.420
[45]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.106
[46]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.115
[47]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.99
[48]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.96
[49]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.99-100
[50]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.101
[51]^ 『8620形機関車明細図』 p.87-88
[52]^ 『機関車の系譜図 4』 p.496
[53]^ 『ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車 I』 p.109
[61]^ “随時アップ:消えた車輌写真館 48679”. NEKO PUBLISHING (2011年11月14日). 2020年4月19日閲覧。
[79]^ 『機関車表』 p.14567-14659
[80]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.395-396
[81]^ 『全国蒸気機関車配置表』 p.62-63
[83]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.395
[85]^ 『機関車表』 p.5512
[87]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.30
[88]^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.114
[92]^ 『ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車』 p.133
[93]^ 『機関車表』 p.1178, 1186

8 参考文献
 書籍
・日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第4篇』日本国有鉄道、1958年。
・日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第5篇』日本国有鉄道、1958年。
・臼井茂信『機関車の系譜図 4』交友社、1978年。
・臼井茂信『日本蒸気機関車形式図集成 2』誠文堂新光社、1969年。
・川上幸義『私の蒸気機関車史 下』交友社、1981年。
・高田隆雄『蒸気機関車 日本編』小学館〈万有ガイドシリーズ 12〉、1981年。
・高木宏之作『国鉄蒸気機関車史』ネコ・パブリッシング、2015年。ISBN 9784777053797。
・沖田祐作『機関車表』ネコ・パブリッシング、2014年。ISBN 9784777053629。
・浅原信彦「ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車 I」『NEKO MOOK』第2682巻、ネコ・パブリッシング、2018年、 ISBN 9784777021826。
・徳永益男、松本謙一「全国蒸気機関車配置表」、イカロス出版、2018年、 ISBN 9784802204354。
・『蒸気機関車全史 (1)』学習研究社〈歴史群像シリーズ〉、2005年。ISBN 9784056041514。
・『8620形機関車明細図』鉄道史資料保存会、1994年。ISBN 9784885400896。
・金田茂裕『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』機関車史研究会、1986年。ISBN 4871126145。
・金田茂裕「”形式別・国鉄の機関車”補遺」『形式別 国鉄の蒸気機関車別冊 国鉄軽便線の機関車』機関車史研究会、1986年。ISBN 4871126153。

 雑誌
・寺島京一「台湾鉄道の蒸気機関車について」『レイル』第23巻、エリエイ出版部、1988年。

 その他
・近藤一郎「形式別 国鉄の蒸気機関車 正誤表」2020年。
最終更新 2020年12月26日 (土) 10:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 1914年(大正3年)~1929年(昭和4年)製造の急行旅客用であり、「キューロク」9600形と双璧をなす。
 「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」
 「絶対に空転しない機関車」
と後にローカル線に回されても客貨両用に活躍した蒸機だ。現在話題の『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に登場する無限列車は、舞台は大正時代であるため、この8620形に酷似した機関車であるそうだ。(秋に劇場に行った娘に聞いたが分からないそうだが・・)

 無煙化は地方ローカル線・入換用機関車が結果、後回しにされたため、国産初の量産機達が最後まで活躍することになった。
Posted at 2021/01/31 19:16:49 | コメント(1) | トラックバック(0) | 蒸気機関車史 | ニュース
2021年01月25日 イイね!

『動力近代化計画』

『動力近代化計画』[写真・画像] 国鉄キハ81形
大阪交通科学博物館において静態保存されているキハ81 2
作成: 2006年7月27日

動力近代化計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

動力近代化計画(どうりょくきんだいかけいかく)は、日本国有鉄道(国鉄)の保有する鉄道車両の動力を近代化する計画。具体的にはエネルギー効率が低く燃料費がかさむ上、大量の煙のために安全性や快適性に問題がある蒸気機関車を計画的に廃止・淘汰する(動力源の近代化)とともに、旅客車については原則として電車もしくは気動車に置き換える(動力方式の近代化)という内容。国鉄内部に設置された動力近代化調査委員会が1959年(昭和34年)6月20日に答申し、翌1960年(昭和35年)から実行に移された。また、鉄道関係者からは蒸気機関車の淘汰によって不快な煙から解放されることを意味する無煙化という表現もされた。

1 計画当時の状況
 明治時代から昭和初期にかけて建設された国鉄の路線は、ほとんどが蒸気運転であった。電化計画は明治時代より模索されており1919年には、主要幹線や勾配区間、水力発電を生かせる箇所などの大規模な電化計画が閣議決定されるなど、近代化と蒸気機関車の撤廃に積極的であった。[1][2]。しかし、関東大震災と昭和恐慌により予算が降りず、戦時下に突入すると電化に当時の陸軍幹部の根強い反対意見があり(変電所が被害を受けると列車が走れなくなる)、当初の構想に反して戦後においても1958年(昭和33年)の全営業キロ約2万 kmに対し、電化されていたのは2,237 kmに過ぎず、非電化区間の動力車は蒸気機関車が4,514両、ディーゼル機関車が118両、ディーゼルカーが1,486両であり、蒸気機関車が非電化区間の主力であった[3]。蒸気機関車の熱効率は約5 %で、1950年代のデータで電気機関車が約30 %、ディーゼル機関車が約20 %とそれらと比較すると著しく低い[4]。そのため運転に際し大量の石炭を消費し、単位走行キロ当たりの燃料費が高い。また走行距離に応じて給炭と給水が必要になるほか、石炭の燃えかすを排出する必要があるため長距離運転には不向きであり、これらにより1日当たりの走行距離も低く設定せざるを得ないため、所要機関車数が多くなる。これらはいずれも鉄道経営にとって大きなマイナス要因となる。下表でもディーゼル機関車の車両単価は蒸気機関車より高いが、燃費や必要車両数を考慮すると経営面ではディーゼル機関車が有利となる。更に大量の煤煙を発生するため、安全性や快適性において他の動力車に比べて大きく劣っていた。

・長大トンネルでは、トンネル内にこもったばい煙を適切に排除しないと酸欠状態になる。例えば、急勾配で出力が必要な篠ノ井線の冠着トンネルでは、特殊な排煙装置が装着されていたが、それでも運転関係者の窒息死事故が発生したことがある。
・窒息に至らなくてもばい煙は不快であり、トンネル内では真夏でも窓を閉め切る必要があった。当時の列車には一等車・食堂車などを除いて冷房はなかった。
・大量のすすによる汚染の問題

●DD51形ディーゼル機関車とC61形蒸気機関車の燃費と走行距離の比較(電化前の東北本線のデータ)[5]
 形式 DD51形 C61形
・走行km当たりの燃料使用量 3.5 17.4
・燃料単価(円) 13 5.7
・燃費(円/km) 46 99
・1日当たりの走行距離 357 284
・車両価格(万円) 6,300 3,300

2 計画の概要
 当時、イギリスやオーストラリア、アメリカなど発展先進国(第二次世界大戦の戦勝国)は蒸気機関車の淘汰を推進していた。日本でも国鉄の財政改善と安全性や快適性の向上を目的に、既存の電化路線に加えて15年計画で主要幹線5,000キロを電化し、残余はディーゼル化をし、蒸気運転を廃止する、電化は交流を原則とする計画であった。国会では20年計画案も持たれたが、先進諸外国と比較して遅すぎるという意見が多かったため、15年計画とされた。また、電化、ディーゼル化ともに旅客運行は機関車牽引ではなく動力分散方式主体になったが、諸外国からの批判も多かった[注 1]。予定された投資額は4,865億円だが、蒸気運転を継続した場合にも取替え改修費に3,640億円かかるため増加分は1,125億円となるが、上記のように無煙化により大幅な経費削減(年間310億円)が見込まれるため経営改善に大きく寄与すると想定された(金額は全て当時の価格[6])。
 計画の策定時期には下記の諸条件が計画の内容に反映された。

・ 当時フランスなどで進展していた交流電化に倣って、国鉄内部でも1953年(昭和28年)から交流電化調査委員会が設置され、1955年(昭和30年)の仙山線で交流電化の実験成功に続き1957年(昭和32年)から同線の実用電化が始まっていた[7]。
・電車化においては、カルダン継ぎ手を採用した新性能電車101系は試用中であったが、1950年(昭和25年)に登場した80系湘南型電車による東海道線での運用実績、特に終着駅での折り返しの容易さによる運用効率向上と運転速度の向上があった[8]。
・ディーゼルカーにおいては、液体型変速機を採用したキハ45000系気動車が1953年から量産され、特定線区の無煙化に貢献していた。

 日本の鉄道は山岳路線が多いことに加えて地盤が比較的軟弱で、機関車方式で高速化、輸送力強化を図るためには大きな軸重を支える軌道の強化に多大な資金が必要とされ、また曲線通過性能および登坂能力が劣る(機関車が空転すると立ち往生する)という問題があった。プッシュプル方式も、折返しは電車並に手際よく行なえても曲線通過の際の安全性に問題があるとの理由で採用されなかった。従って、動力分散方式の方が編成単位で5 %程度製造コストが割高になるものの、加減速性能が優れるために表定速度が10 %程度速くなるほか、機関車の付け替えおよび機回しが不要になるために運用効率が優れている(結果として運行コストが削減できる)ため、電化、ディーゼル化ともに動力分散方式が有利とされた(動力分散と高速鉄道も参照)。この方針に基づいて動力方式の近代化も併せて実施されることになった。

3 計画の進展
 この方針に沿って電化およびディーゼル化が進められ、当初計画どおり15年後の1975年(昭和50年)度をもって、国鉄の営業用車両から蒸気機関車は、すべて引退することになった。蒸気運転による定期列車の運行は1975年12月で終了、構内の入換用に残った蒸気機関車も1976年3月ですべて仕業を退いた。蒸気機関車の全廃は早い方が経営への効果は大きいことから、1967年の国鉄常務会では予定を繰り上げて昭和48年度末(1974年3月)での全廃が定められたが、国鉄の財政難による車輌製造の遅延等により、その後の計画の見直しで結果的には当初の予定どおりの無煙化達成となった[9]。
 国鉄向けの蒸気機関車の新製は、1949年(昭和24年)のE10形を最後に中止された。また電化やディーゼル化の進展は幹線から行われたため、地方の路線では大正生まれの8620形などが老朽化の問題を抱えながらも使い続けられることになった。その間にも8620形の後継機としてC63形の構想や計画もあったものの、設計図を作成した段階で計画そのものが中止された。この問題を解決するために、幹線で働き場所のなくなった大型蒸気機関車の軸重を軽減して地方路線に投入できるようにする改造が行われ、C59形の改造でC60形が誕生するなどした。しかしながら、大型の蒸気機関車は石炭の消費量が大きい(燃費が悪い)という問題があってあまり歓迎されず、こうした改造は少数に終わって、大型で新しい蒸気機関車よりも小型の古い蒸気機関車が最後まで働き続ける結果となった。

3.1 計画開始時の問題点
 1955年(昭和30年)に実施された仙山線での交流電化試験が予想以上に好調だったため、1957年(昭和32年)から始まった北陸本線の電化計画は急遽交流方式へ変更された。1960年(昭和35年)から始まった動力近代化計画では、電化は交流方式を原則とするが、直流との境界は適正に定めると明記された。交流電化は実用化検討中に開始されたため、技術的には不十分な点も多く、1957年の北陸本線の交流電化のED70形では初期故障が多発し、1959年の東北本線黒磯-福島間の交流電化のED71形でも運転の安定化までにかなりの期間を要した[10]。交流用車両において必要とされる整流器の本命とされたシリコン整流器が本格的に採用されたのは1961年に製造を開始したEF70形から[注 2]で、動力近代化計画策定時点ではまだ存在していなかった。
 またディーゼル機関車についても当時の本線用主力機は電気式のDF50形が中心であったが、蒸気機関車D51よりも非力であるため強力な後継機が必要であった。本命となったDD51形の登場は1962年(昭和37年)であり、このため、本計画では電化区間と非電化区間、直流区間と交流区間を適正に設定するために必要なコスト計算の根拠があいまいであったとされる。その影響もあってか、1961年(昭和36年)から1964年(昭和39年)に電化された山陽本線(倉敷 - 下関間)では全区間直流方式とされた[11]。

4 計画の推移
 幹線および亜幹線区間の電化は、全体的にはほぼ予定どおり進行した。直流電車はカルダン継ぎ手を採用した101系に続き、1958年には151系特急電車「こだま」が実用化され、その後は直流電化区間の電車化が進展した。交流区間は1961年に北陸本線用に生産されたEF70形がシリコン整流器を搭載して量産され、続いて交流機の標準型とされるED75形が大量生産された。その後これらの機関車に搭載されたシリコン整流器を電車に搭載した交流電車や交直両用電車が中距離電車から特急電車まで大量に生産された。ディーゼルカーは液体変速機搭載の一般型に続き、特急用キハ80系気動車が1960年に、急行用のキハ58系気動車が1961年に登場し、非電化区間の気動車化に大きく貢献した。機関車では本線用のDD51形が1962年に登場して貨物列車や客車の牽引を蒸気機関車から引継ぎ、中型機として1966年にDE10形が誕生して支線区間の無煙化推進に当たった。蒸気機関車が最後まで残った閑散ローカル線用には1971年にDD16形を製作して無煙化を完成させた。
 ただし、当初計画されていた交流電化区間の電車化および非電化区間の完全気動車化は資金面、運用面(当時は鉄道による郵便荷物輸送が行なわれていた[注 3])の問題および組合側の反対(入れ替えおよび機回しに係わる職員が不要になる)により、国鉄時代は実現されなかった[注 4]。これらの問題によって無煙化直後に50系客車など当初の方針と矛盾するような車輛を新造することを余儀なくされ続けた。

●車両在籍数推移[12]
 年度 1955年 1960年 1965年 1970年 1975年 1980年
・蒸気機関車 4,897 3,974 3,164 1,601 15 5
・電気機関車 522 794 1,369 1,818 2,051 1,856
・ディーゼル機関車 6 245 582 1,447 2,204 2,109
・客車 11,330 11,412 10,362 8,711 6,725 6,176
・電車 2,969 4,534 9,084 12,481 16,502 17,696
・ディーゼルカー 785 2,227 4,595 5,371 5,326 5,038
・貨車 105,843 118,729 142,258 149,485 120,597 99,562

 その後、直流区間との直通運転の関係で製造コストが割高な交直流電車が普及したため、交流電化の経済性に大きな疑問が持たれた。そのため、北陸本線富山以東及び鹿児島本線荒木以南の電化時には見直しが検討されたが、運転取扱いが至難であることと直流切替への改修費が莫大であることを理由に結局交流方式のままとされた経緯がある[13]。しかし、その後の山陽新幹線博多開業及び東北新幹線開業によりJR発足以降も交直両用方式を必要としているのは、長距離の旅客列車に関しては特急ひたちと特急サンダーバード、特急しらさぎ、特急いなほ系統と数少なくなっている。ただし、貨物列車においてはこの限りではない。
 国鉄時代の交流専用電車は711系や781系等数少なかったが、JR発足以降は複数の会社に乗り入れる列車が削減されたことから、新開発された交流専用車の方が交直両用車より圧倒的に上回っている。一方、貨物列車を牽引する電気機関車においては、逆に国鉄時代は交流専用機が多数を占めたが、民営化後は複数の旅客鉄道会社に乗り入れる列車が増えたことからほとんどが交直両用車の製造となり、交流専用機の製造は北海道新幹線の開通に伴う海峡線の架線電圧昇圧への対応用であるEH800型の20両のみである。
 電化計画路線のうち長崎本線や佐世保線、日豊本線南宮崎 - 鹿児島間、千歳線、室蘭本線沼ノ端 - 室蘭間は1975年(昭和50年)の動力近代化計画終了時に電化が実現しなかったが、1980年(昭和55年)までに順次電化された。また函館本線函館 - 五稜郭間はJR発足後津軽海峡線の一部として1988年(昭和63年)3月に電化された。
 21世紀に入ってからも電化は続き、筑豊本線黒崎 - 桂川間も篠栗線と共に2001年(平成13年)10月6日に電化された。また、電化計画路線にあげられている宗谷本線の旭川 - 永山間のうち、旭川 - 北旭川間(移転した旭川運転所構内)については車両基地への電車の回送列車のみであるものの、2003年(平成15年)3月に電化された。函館本線の五稜郭 - 新函館北斗間は、2016年(平成28年)3月の北海道新幹線(新青森 - 新函館北斗間)開業時にあわせて電化された。
 しかし、電化計画路線にありながら函館本線新函館北斗 - 長万部間と室蘭本線東室蘭 - 長万部間および沼ノ端 - 岩見沢間、筑豊本線の通称:若松線の電化は現在でも実現していない。これはエネルギー革命に伴って石炭の輸送量が減少したことと関係している。その反面、水戸線、御殿場線、外房線、内房線[注 5]、桜井線等、計画になかったが、電化が実現した線区も存在する。
 なお、高山本線は地元の陳情により、本計画直前の1958年(昭和33年)にディーゼル化が推進され、1980年(昭和55年)には全線の電化工事も起工されたが、国鉄の経営悪化により1985年(昭和60年)頃に中断し、キハ85系をはじめとする気動車による高速化を実施した。

4.1 客車列車の廃止および淘汰
 動力近代化計画のもう一つの柱である客車列車の電車化・気動車化は無煙化が終了した1976年(昭和51年)の時点で、優等列車に関しては(静粛性等の点で客車が優位とされた)夜行を除いてほぼ完了していた[注 6]ものの、前記のとおり普通列車には地方線区を中心に多くが残存し、その状態がしばらく継続した。しかし、客車普通列車の存続理由の一つであった郵便荷物輸送の衰退、地方線区で機関車を共用する機会のあったヤード集結形貨物の全廃(1984年2月1日国鉄ダイヤ改正)、長編成低頻度から短編成高頻度への運行形態の転換、および新幹線開業によって余剰となった急行形電車・気動車などの優等列車用車両の転用により、昭和57年11月15日ダイヤ改正より機動性に勝る分散動力車両への置き換えが段階的に進められた。1986年11月1日国鉄ダイヤ改正で荷物輸送(郵便郵送は改正の1か月前に終了)が一部の例外を除いて終了したこと、国鉄分割民営化に際して客車の置き換えに反対する組合員の多くがJR旅客鉄道会社に採用されなかったこと、機関車は旅客鉄道会社と日本貨物鉄道が個別に保有する形になったこと[注 7]でその動きが加速した。2002年に津軽海峡線の快速「海峡」の廃止により、昼間の定期列車から客車は完全に撤退した。以降は夜行の優等列車のみに客車の定期運行が残ったが、利用者の航空機・高速バスなどへの移行による利用の低迷やさらなる新幹線の開業に伴って夜行列車の削減が進んだ結果、2016年3月に急行「はまなす」の廃止によって、JRの定期列車から客車の運行が消滅した。さらにJR東海においては機関車牽引の列車そのものが事業用列車も含めて全廃され、完全に動力分散方式に移行している。
 計画において目指された旅客列車動力方式の近代化は、開始から56年をかけて実現したことになる。

5 脚注
5.1 注釈
[注 1]^ 実際、上記諸外国においては今日においても機関車牽引やプッシュプル方式などの動力集中方式が主流である。
[注 2]^ 1960年製造のEF30形もシリコン整流器であるが、関門トンネル連絡用の特殊設計で交流では全出力を発揮しないものであり、整流器の容量が小さい
[注 3]^ 荷物・郵便輸送においては、大都市部ではこれらの車両のみで編成される専用列車が多かったが、地方部では専用列車を運行するほどの需要がないため旅客列車に荷物車・郵便車を混結していた。これらの車両はそのまま幹線系の荷物列車に連結して継送するため直通運用を行う線区の郵便・荷物輸送は客車で行う必要があった。
[注 4]^ 動力の種類によって動力車操縦者の免許、整備資格、配置区(主に一般形と急行形の気動車は機関区に、電車は電車区に配置される)が異なる。動力方式の切り替えや新形車の導入のたび、合理化(職場や人員の整理)を推進したい本社や各鉄道管理局と、それによって雇用が脅かされるとする労働組合が対立し、折衝に多大な時間と労力を要するようになっていた。
[注 5]^ 内房線、外房線の電化は、需要の他に鹿野山測地観測所の地磁気観測に影響があることから、この時点では直流電化は不可能とされていた。
[注 6]^ 1975年3月10日国鉄ダイヤ改正の時点で、定期の昼行優等列車で客車を使用していたのは、函館本線の急行「ニセコ」1往復のみであった。
[注 7]^ 民営化後の旅客鉄道会社が営業列車運行用に製造した機関車は、JR東日本によるEF510形15両と、JR九州がななつ星in九州のために製造したDF200形1両のみである。

5.2 出典
[1]^ 「日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで」pp62.65
[2]^ 「日本の鉄道史セミナーpp98.99
[3]^ 『日本の鉄道史セミナー』 171頁。
[4]^ 『鉄道車両を知りつくす』 川辺謙一 学習研究社 76頁。
[5]^ 『日本の鉄道史セミナー』 177頁。
[6]^ 『日本の鉄道史セミナー』 172頁。
[7]^ 『日本の国鉄』 168頁。
[8]^ 『日本の国鉄』 169頁。
[9]^ 浅原信彦「国鉄蒸気機関車略史」『Rail Magagine』2015年5月号(No.380)、ネコ・パブリッシング
[10]^ 『日本の鉄道史セミナー』 168頁。
[11]^ 石原米彦「山陽・鹿児島本線の電化方式について」『交通技術』第13巻第10号、交通協力会、1958年。
[12]^ 『日本の鉄道史セミナー』 179頁。

6 参考文献
・『鉄道ジャーナル』1996年11月号
・久保田博『日本の鉄道史セミナー』グランプリ出版、2005年
・原田勝正『日本の国鉄』岩波書店<岩波新書>、1984年

7 関連項目
・交流電化
・SLブーム
・日本の鉄道史
・ヨンサントオ
・鉄道の電化
最終更新 2020年12月29日 (火) 12:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


鉄道車両の歴史
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11 動力分散と高速鉄道
 一方、蒸気機関車を単純に電気機関車・ディーゼル機関車に置き換えるのではない、別の無煙化の道が日本で実施された。日本では、軟弱な地盤の関係もあり線路の制限軸重が厳しく、重量のある機関車を高速走行させることは難しかった。このため、編成全体に動力を配置した動力分散方式を用いた電車・気動車方式を中心として発展させていく方針が採られた。コスト面では動力集中方式に劣ると見込まれたが、運用効率がよいことでカバーできると考えられた。
 1950年から、東京 - 沼津間に80系が投入され、湘南電車として運転を開始した。それまで短距離の通勤・通学目的の列車に限定されていた電車が、初めて客車列車を置き換える目的で投入され、120 km以上の長距離を客車列車並みの長大編成で運転されるようになった。車内の設備も客車と遜色がない設備が用意された。
 1958年には151系が投入され、東京 - 大阪の電車特急「こだま」として運用を開始した。大戦前のイタリアでETR200型が長距離特急用に開発されていたことに次ぐものである。これにより長距離の優等列車でも電車が積極的に用いられることになった。
 気動車の面でも開発が進められ、1961年にはキハ81系が投入され、上野 - 青森間に「はつかり」として運転を開始した。これにより、気動車もまた長距離優等列車として用いられるようになった。
 こうした動力分散方式の車両開発のひとつの到達点として、1964年に東海道新幹線が世界最初の高速鉄道として開業した。東海道新幹線は、全電動車方式の0系を用いている。200 km/hを超える最高速度での営業運転やその列車本数の多さ、在来線と完全に独立したシステムなど多くの点で世界で初めてで特徴的なものであった。
 日本における高速鉄道の成功は、航空機と自動車に押されて鉄道が斜陽化しつつあったヨーロッパに大きな影響を与え、まずフランスで高速化の取り組みが始まり、当初は在来線の列車の200km/h走行から始まって、1981年には新幹線よりも最高速度の速いTGVが開業した。しかしTGVでは動力集中方式が採られ、日本の動力分散方式まではヨーロッパに波及しなかった。1991年にはドイツでICEが運転を開始している。
 当初は電車に直流電動機を使用していたため、保守に手間が掛かることがヨーロッパで動力分散方式が嫌われた大きな理由となっていた。しかし1990年代に入りVVVFインバータ制御が実用化されると電車に交流電動機が用いられるようになり、保守の手間はあまり問題とならなくなった。また回生ブレーキの技術が用いられるようになると、さらに動力分散方式が有利となり、ドイツでは2000年にICE 3が電車方式で開発された。動力集中方式に拘っていたフランスでも動力分散方式のAGVが開発されるなど、次第に動力分散方式が普及する傾向になっている。

13 参考文献
・久保田 博『鉄道工学ハンドブック』グランプリ出版、1995年、初版(日本語)。ISBN 4-87687-163-9。
・伊原 一夫『鉄道車両メカニズム図鑑』グランプリ出版、1987年、初版(日本語)。ISBN 4-906189-64-4。
・『最新 電気鉄道工学』電気学会電気鉄道における教育調査専門委員会、コロナ社、2000年、初版(日本語)。ISBN 4-339-00723-4。
・江崎 昭『輸送の安全からみた鉄道史』グランプリ出版、1998年、初版(日本語)。ISBN 4-87687-195-7。
・齋藤 晃『蒸気機関車200年史』NTT出版、2007年、初版(日本語)。ISBN 978-4-7571-4151-3。
・齋藤 晃『蒸気機関車の興亡』NTT出版、1996年、初版(日本語)。ISBN 4-87188-416-3。
・『鉄道電化と電気鉄道のあゆみ 創立30周年記念』鉄道電化協会、鉄道電化協会、1978年、初版(日本語)。
・青木 栄一『鉄道の地理学 鉄道の成り立ちが分かる事典』WAVE出版、2008年、初版(日本語)。ISBN 978-4-87290-376-8。
・ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史 19世紀における空間と時間の工業化』加藤二郎訳、法政大学出版局、1988年、初版(日本語)。ISBN 4-588-27641-7。
最終更新 2020年4月15日 (水) 00:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


鉄道の電化
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鉄道の電化(てつどうのでんか)とは、鉄道の動力を電気にすることである。
4.2 日本
 電気軌道では、路面電車系統では1895年(明治28年)に京都市で京都電気鉄道が開通しているが、一般の鉄道では甲武鉄道(現在のJR中央本線)が1904年(明治37年)に飯田町 - 中野間を電化したのが始まりである。当時の電化には、600V(京都電気鉄道などのように500Vの所も一部存在)の直流饋電が採用されていた[1](というより用いないといけなかった[注釈 17])。甲武鉄道は1906年(明治39年)に国有化され国有鉄道初の電化区間となった。以降、大正期は山手線など東京都市圏での通勤電車の走行を目的に実施され、昭和初期には城東線(現在の大阪環状線)など大阪都市圏でも実施された。
 一方私鉄では蒸気機関車運行だった南海鉄道(後の南海電鉄)が1907(明治40)年から電化を始め、1911年(明治44年)には60㎞以上の区間の電化を完成させるなど国有鉄道より長大な電化区間が誕生し、この時期国有鉄道にもなかった総括制御付きのボギー車(電2形、1909年)や、貫通扉や便所のある電車(電3・電附1形、1911年)導入など、この当時は私鉄の方が電化に関しては先進的な面が強かった[30]。
 もっとも国鉄側も手をこまねいていたわけではなく、1912(明治45)年に煤煙問題に悩まされていた碓氷峠を電化し、初の電気機関車の導入、1914(大正3)年には、京浜線(現在の京浜東北線)の電車運転開始に際し輸送量増加に伴う電圧降下防止に昇圧されることになり、当時の技術などを考慮した結果それまでの600Vから1200V(ちょうど2倍の電圧なので電動機の直列並列を切り替えれば従来の600V区間との直通もできた)が使用され、その後技術向上もあってさらに電圧をあげられるようになり、1922年(大正11年)に出された東海道本線の全線1500V電化の計画[注釈 18]に先立って試験を行い、その結果を私鉄にも公開した所、同年の大阪鉄道が私鉄で初めて1500V直流電源を採用(河内長野-布忍間)し、東海道線電化以後開業の私鉄は基本的に1500Vを採用するようになり、国鉄も京浜線・中央線・山手線を1931年(昭和6年)までに1500Vに昇圧した[31]。
 時系列的に少し戻るが、昇圧のきっかけとなった東海道本線電化計画は試験機関車が来る前[注釈 19]から丹那トンネルの開通まで見越して(実際の開通は1934年)東京から国府津まで1500V直流で電化(1925年)したが、その後は東海道線の電化は一時考えないで大阪付近の輸送量が多い地域の電化や清水トンネル・仙山線といった長大トンネル付近の電化を優先的に行い、手間取っていた丹那トンネルの工事完了後は再び東海道線電化も考えられたが戦争が起こり電化工事は戦後まで持ち越されている[32]。 (これら以外では関門トンネル(1941年(昭和16年))、外地の朝鮮総督府鉄道京元本線の福渓 - 高山間(1944年(昭和19年)なども電化)
 こうした限られた部位のみの電化は当時の軍部が国有鉄道を建設・運営する鉄道院・鉄道省に対し、戦時に変電所を攻撃されると運転不能になることを理由に、基本的には非電化とすることを主張していたと言われているが[注釈 20]、国鉄の技師であった朝倉希一によると電化の遅れについては軍隊の話は一切出ず「イギリスから輸入した電気機関車のトラブルとそれに伴う高コストが電化を遅らせた」としている[注釈 12]
 なお、一から路線を作る予定だった「弾丸列車計画」(後に東海道新幹線として帰結する)でも東京-静岡・名古屋-姫路の2か所のみを直流3000Vで電化し、ここ以外は当面非電化による蒸気機関車牽引予定で[33]、そのために大型の蒸気機関車の設計がいくつか行われていた[34]。
 この時期は私鉄でも電化工事が進み、1927年には小田原急行鉄道で82km、そして1929年・1930年には関東の東武鉄道と関西の参宮急行電鉄で立て続けに、130kmを超す当時としては異例の長距離電車が運行され[注釈 21]、目黒蒲田電鉄・宮城電気鉄道・富山電気鉄道など当初より電気軌道の利便性を兼ね備えた電気鉄道の開業が相次いだ。 (外地も含めると金剛山電気鉄道の鉄原 - 内金剛なども長大電化区間になる)
 こうした大手の私鉄と異なり中小私鉄では戦前は電化ではなく内燃動車で効率を上げたところも多かったが、太平洋戦争の影響でガソリンなどは配給制(闇市場でも高騰)になったため内燃動車に頼れなくなり、蒸気機関車が復帰を始めるも、戦争末期から石炭も品質が低下し数量確保さえ困難な時代[注釈 22]に成ったため、石炭産地の北海道と九州以外の非電化私鉄は燃料の確保に支障をきたすようになった。
 これに反し電気事業の進歩は著しく発電力は戦前以上に進んだため、中小私鉄でさえ多少の投資をしてでも電化した方が採算が合うと電化に踏み切ったところが多かった。
(特に昭和21年から26年(1946 - 1951年)は電化の件数が多く、1946年1月の近江鉄道八日市線から、1951年12月の長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の大半まで、(既存電化区間有無にかかわらず)一部分の電化や軌道・貨物線も含めると24社[注釈 23]もあり、大半は十数km程度の電化だったが、大井川鉄道39.5km、長岡鉄道31.6km(翌年残り2kmも電化)と30km以上も一度に電化している鉄道も存在している[注釈 24]。)
 しかし、その後はドッジ・ラインによる金融引締めが始まり電化工事の資金繰りが困難になった事、さらに燃料事情が好転、石油類の安定供給ならびに気動車の普及に伴い、非電化路線の電化事例は1954年(昭和29年)の三岐鉄道を最後に、約20社程度に留まった[注釈 25][注釈 26]。
 国鉄でも組織内部のみならず参画院方面からも鉄道電化が要望されることとなり、十河信二が国鉄総裁の時、3000kmの順次電化計画のため電化委員会が設けられ、蒸気運転の状態において電気と蒸気の経済比較の結果、直流1500Vでも十分電化運転が有利で、交流なら(地上設備を減らせるので)なお有利となった[注釈 27]、1950年代以降、多くの路線が電化されていき、東海道本線については1956年(昭和31年)11月19日、米原 - 京都間を最後に、支線を除く全線の電化が完了した。これを記念し、1964年(昭和39年)に鉄道電化協会がこの日(11月19日)を「鉄道電化の日」に制定した(→日本の鉄道史・1956年11月19日国鉄ダイヤ改正も参照)。
 また、直流饋電は多くの地上設備が必要でありコスト高となるため、電化が遅れていた東北、北陸、九州、北海道の電化を今後進めることも見越して、1954(昭和29)年から仙山線で商用周波数による交流電化の試験が開始され、1957年には同じく交流電化試験を行った北陸本線と共に、仙台 - 作並間 (50 Hz) と、田村 - 敦賀間 (60 Hz) での営業運転がはじまる[1]など実用化され、その後北海道・関東の太平洋側と東北・北陸(新潟周辺除外)・九州などに広がった[注釈 28]。戦後の電化は東海道本線を皮切りに、山陰地方を除く本州と九州で進められて行ったが、一方で北海道と四国の電化区間は短区間に留まった。特に四国では国鉄時代は国鉄分割民営化直前に本四備讃線開業に合わせて香川県内の一部区間で実施されたに過ぎない。 分割民営化後も引き続き電化区間の延長が実施されているが、内燃動車の性能向上により必ずしも電化の必要はなくなっている。2018年現在、JRの在来線は北海道、東北、北陸、九州を中心に交流2万V(海峡線は交流2万5千V)饋電が行われているほかは直流1500V饋電、新幹線はすべて交流2万5千Vである[1]。

6 脚注
6.1 注釈
[注釈 12]^ 原文「東海道線電化の一部として東京-国府津間の電化のために一括してイギリスに注文した機関車の品質が悪く、安全運転さえできなかった。(中略)多くの改造の結果使用に耐える状態になったが、電化論者の主張は完全に裏切られ、電化は高価であることを事実上に示した。これが国鉄の電化の実施を遅らせた大きな原因となった。」((朝倉1979-11)p.104)
[注釈 17]^ 当時の「電気事業取締規則及び電気鉄道電機取締規則」で電気鉄道は直流電圧600V以下という制限があり、これ以上の高電圧が使えなかった。
[注釈 18]^ 「東海道線全線を大正17年までに電化する」というような計画が出され閣議決定、東京-国府津の東海道本線と、国府津-熱海の熱海線がまず電化されることになっていた。((福原2007)p.62)
[注釈 19]^ なお、電気機関車無しでも電気動力運行を始めるつもりだった証拠として、すでに国産技術が確立した電車で100㎞近い長距離に対応できるようにしたデハ43200形が計画だけではなく実際に製造されている。(ただしデハ43200形は関東大震災による被災復旧に回され、実際にこの目的には使用されないまま終わっている。)
((福原2007)p.62-63「1-13 木製電車の最後を飾った伝説の名車」)。
[注釈 20]^ 東海道全線即時電化論者の内田信也は鉄道大臣時代に東海道本線の電化を目論み、東久邇宮稔彦王に陸軍を押さえるよう頼んだが、押さえることはできなかった。『喜安健次郎を語る』1959年、34-36頁
[注釈 21]^ なお、戦前日本で最長の距離を走る電車列車は1912年(昭和12年)より豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道をまたがって運行された豊橋-辰野間の196㎞。
(ただし、伊那電気鉄道は他と架線電圧が異なり1200Vなので、戦後の1955年に昇圧を行い電動車も直通可能になるまでは付随車だけ乗り越しで電動車は天竜峡駅で交代。)
同区間は戦中の1943年(昭和18年)に国有化されて飯田線になっているので、国鉄でも戦後80系電車に更新されるまではここが最長の「電車列車の運行区間」であった。
((福原2007)p.108「戦前期の最長距離電車運転」)
[注釈 22]^ 『交通年鑑』昭和25年版161 - 163ページによると、昭和22年時点の石炭の質は戦争の影響がほぼない昭和11年と比較して熱量が「6450kcal/kgから5350kcal/kg」、完全燃焼前にボイラーから出て熱量の損失になる粉炭率が「37-38%から70%」に悪化。そしてここまで低質になったにもかかわらず価格はインフレもあり282倍に高騰した。
[注釈 23]^ 電化順に近江鉄道・富山地方鉄道・淡路交通・福井鉄道・栃尾鉄道・大和鉄道・弘南鉄道・三重交通・土佐電気鉄道・下津井鉄道・大井川鉄道・北陸鉄道・流山鉄道・小坂製錬小坂線・秋田中央交通・遠州鉄道・住友別子鉱山鉄道・伊予鉄道・東濃鉄道・栗原鉄道・相模鉄道・十和田鉄道・松尾鉱業鉄道・長岡鉄道。 なお、相模鉄道が大手私鉄扱いになったのは1990年からで当時は含まれない。
[注釈 24]^ どちらも水力発電所が盛んな地域の鉄道である。
[注釈 25]^ ドッジライン自体は昭和24年から開始だが上記のデータは電化工事完了日時なのでずれがある。(『交通年鑑』昭和27年度版、交通新聞社、p.350・351)
[注釈 26]^ なお、茨城県ではそれとは別に石岡市柿岡にある気象庁地磁気観測所での地磁気観測への影響回避のため直流電化ができないから非電化が多く残っている。
[注釈 27]^ なお、これにかかわった朝倉希一によると、この時には「蒸機・電機共に機関車を新造する」という前提で計算したため、厳密には現状の機関車を使用できる蒸気運転はもう少し低コストに見積もるべきで、1921年にミルウォーキー鉄道に調査に行った際「電化で不要になった蒸気機関車を全部下取りに出すから電気機関車購入のコスト(同鉄道では全電化費の半分)は実質半分ですむ」というそこまで中古の機関車が高く売れるのか怪しい情報を聞かされたのを思い出したほか、電化の進展が速くなると蒸気機関車の他地域の転用ができなくなるのでそこまで楽観視するべきかどうかと指摘した所、部外の委員がこの調査でよいと言われて承認することにしたという。((朝倉1979-5)p.118)
[注釈 28]^ なお、既存直流区間も「(地上設備を減らせる)3000Vに昇圧させるべきではないか」という案が1975年頃から出たが、わが国で多い電車方式では(イタリアに3000Vで電車使用例があるので不可能ではないものの)高電圧の絶縁が厳しくなること、改造する車両数と電力設備が莫大なことから見送られた。((持永2012)p.32)

6.2 出典
[1]^ 宮本昌幸著、『鉄道の科学』、講談社、2006年6月20日初版第1刷発行、ISBN 4062575205
[30]^ (福原2007)p.48-49「1-7 ボギー車の連結運転と阪和間の運転(南海電1~3形)」
[31]^ (福原2007)p.65-66「1-14 架線電圧の変異と黎明期の電灯電力供給事業」
[32]^ (朝倉1979-5)p.117
[33]^ (齋藤・杉田2007)p.39
[34]^ (齋藤・杉田2007)p.32-37

7 参考文献
岩・沙克二・菅建彦『鉄道の百科事典』鉄道の百科事典編集委員会、丸善出版株式会社、2012年、p.1-58、第1章「鉄道学入門」1.1「鉄道の起源と発展史」。ISBN 978-4-621-08462-5。
フ・ランコ・タネル『ヴィジュアル歴史図鑑 世界の鉄道』黒田眞知・田中敦・岩田斎肇訳、株式会社河出書房新社、2014年。ISBN 978-4-309-22609-5。
福・原俊一『日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで』JTBパブリッシング、2007年。ISBN 978-4-533-06867-6。
持・永芳文・他『鉄道技術140年のあゆみ』持永芳文・宮本昌幸、株式会社コロナ社、2012年、p.23-188、第2章「電気鉄道と電力供給の変遷」第3章「鉄道車両の変遷」。ISBN 978-4-339-00832-6。
デ・イビット・ロス『世界鉄道百科事典』小池滋・和久田康雄訳、悠書館。ISBN 978-4-903487-03-8。
齋・藤晃・杉田肇『幻の国鉄車両』岡田秀樹、JTBパブリッシング、p.30-37「幻の広軌新幹線(弾丸列車)計画に登場する蒸気機関車」(齋藤)・38-43「幻の大陸連絡広軌新幹線(弾丸列車)の電気機関車」(杉田)。ISBN 978-4-533-06906-2。
朝・倉希一「技術随筆 汽車の今昔5「6.鉄道の電化」」『鉄道ファン』第19巻第5号(通巻217号、雑誌06459-5)、株式会社交友社、1979年5月1日、 112-118頁。
朝・倉希一「技術随筆 汽車の今昔11「11.広軌改築論、12.蒸気機関車を送る」」『鉄道ファン』第19巻第11号(通巻223号、雑誌06459-11)、株式会社交友社、1979年11月1日、 p.102-105。
大・塚和之「ジーメンスの電気機関車第1号」『鉄道ファン』第19巻第11号(通巻223号、雑誌06459-11)、株式会社交友社、1979年11月1日、 78-86頁。
最終更新 2021年1月11日 (月) 16:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 「東京・大阪間を結ぶ高速旅客列車にガソリンカーをあてる構想もあった」ことから、戦前から動力分散化が始まっていた、と言えるかもしれない。"ガソリンカー"から「ディーゼルカー」に変わるのは以後の歴史の通り。
 戦争末期から石炭不足になり、1949年(昭和24年)のE10形を最後に国鉄向けの蒸気機関車の新製は行われていない。以後は既存の蒸機を改造しただけである。私鉄に至っては大手私鉄は初期から電車運転、戦後一時期に地方私鉄は電化ブームになった。
 1953年から『国鉄キハ10系気動車』(キハ45000系)が量産されて、これでスタートして既存の電化路線に加えて15年計画で主要幹線5,000キロを電化し、残余はディーゼル化をし、蒸気運転を廃止する(1975年昭和50年)とゴール地点が決められた様なモノ(1960年(昭和35年)から実行)。私はスケジュール的に無理な「ディーゼル機関車・ディーゼルカー」の開発が、新幹線開発と同時に行われたことが"国鉄赤字"の一つだと今でも思う。
Posted at 2021/01/25 16:24:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蒸気機関車史 | ニュース
2018年11月27日 イイね!

『国鉄C58形蒸気機関車』

『国鉄C58形蒸気機関車』[写真・画像] SL銀河運行開始! 2014年4月12日

4月12日から釜石線花巻駅~釜石駅間で、SL銀河が営業運転を開始しました。
沿岸の復興につながるよう、運行してまいります。
JR東日本 盛岡支社

国鉄C58形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 国鉄C58形蒸気機関車(こくてつC58がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省、運輸通信省、運輸省が導入した蒸気機関車である。
 ローカル線用の客貨兼用過熱式テンダー式蒸気機関車で、8620形の速度と9600形の牽引力を兼ね備えた共通の後継機として設計され[1]、1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)にかけて、431両(国鉄向け427両(樺太庁鉄道向け14両含む)、天塩鉄道・三井芦別鉄道向け各2両)が製造された。愛称はシゴハチである。

国鉄C58形蒸気機関車
基本情報
運用者 鉄道省→日本国有鉄道
製造所 汽車製造、川崎車輛
製造年 1938年 - 1947年
製造数 413両
愛称 シゴハチ
主要諸元
軸配置 1C1
軌間 1,067 mm
全長 18,275 mm
全高 3,900 mm
動輪上重量 58.70 t
総重量 100.20 t
動輪径 1,520 mm
軸重 13.50 t(第3動輪)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ(直径×行程) 480 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 16.0 kg/cm2
大煙管(直径×長さ×数) 133 mm×4,580 mm×22本
小煙管(直径×長さ×数) 51 mm×4,580 mm×71本
火格子面積 2.15 m2
全伝熱面積 137.6 m2
過熱伝熱面積 40.7 m2
全蒸発伝熱面積 96.9 m2
煙管蒸発伝熱面積 96.9 m2
火室蒸発伝熱面積 10.0 m2
燃料 石炭
制動装置 自動空気ブレーキ
最高運転速度 85 km/h
最大出力 1,097 PS
定格出力 880 PS
シリンダ引張力 12,570 kg
粘着引張力 10,130 kg


1 構造
 国鉄のテンダー式蒸気機関車では唯一の2-6-2(1C1。プレーリー)型車軸配置を採用している。設計主任は細川泉一郎で、島秀雄は課長の立場で担当している[2]。形態的には、煙室上部の煙突の前に装備された給水暖め装置など、D51形量産型に似ている。
 国鉄の蒸気機関車としては、初めて密閉型の運転室が採用され、床部後方に延長して炭水車に接する部分に扉を設けている。一番動揺の激しい炭水車との接続部が床になったことで、機関助士の労働環境は大きく改善されたが、温暖な九州では扉を外して使用したものもあった。
 太平洋戦争の戦況悪化により、戦前・戦中の製造は1943年(昭和18年)発注分で中止され、D51形などのような木製デフレクター(除煙板)やカマボコ型のドームを装備したいわゆる戦時型は製造されず、戦後は1946年(昭和21年)から製造が再開された。
 戦後製造分(C58 383以降)は、ボイラー径の拡大(1,364mm → 1,396mm)、炭水車を6-17型(石炭6t・水17t)から10-20型(石炭10t・水20t)型に拡大、無台枠の船底型に変更、台車の変更(軸ばね形プレート式 → まくらばね形鋳鋼製)とするなどの設計変更が行われている[3]。

2 製造
 本形式は、汽車製造と川崎車輛の2社で製造された。運用上の問題を抱えるC50形の代替と、9600形が大量(251両)に供出されたことから、増備は急ピッチで進められた。鉄道省向けのほかに樺太庁鉄道向けや民鉄向けにも製造されている。

製造年次ごとの番号と両数は次のとおりである。

1938年 - C58 1 - 50, 78 - 103, 105(77両)
1939年 - C58 51 - 77, 104, 106 - 198(121両)
1940年 - C58 199 - 259(61両)
1941年 - C58 260 - 309(50両)
1942年 - C58 310 - 329(20両)
1943年 - C58 330 - 351(22両)
1944年 - C58 352 - 368(17両)
1946年 - C58 383 - 407(25両)
1947年 - C58 408 - 427(17両)

製造所別の番号と両数は次のとおりである。

汽車製造(219両)
C58 1 - 10(製造番号1578 - 1587)
C58 78 - 196(製造番号1623 - 1642, 1648 - 1655, 1664 - 1671, 1694 - 1701, 1727, 1728, 1739 - 1760, 1772 - 1786, 1795 - 1809, 1820 - 1834, 1845 - 1850)
C58 275 - 289(製造番号2060 - 2074)
C58 310 - 329(製造番号2171, 2168, 2162 - 2167, 2169 - 2181)
C58 340 - 349(製造番号2332 - 2341)
C58 383 - 427(製造番号2519 - 2563)
川崎車輛(194両)
C58 11 - 77(製造番号1974 - 2003, 2022 - 2031, 2037 - 2041, 2062 - 2068, 2074 - 2088)
C58 197 - 274(製造番号2225 - 2234, 2245 - 2251, 2257 - 2262, 2277 - 2283, 2304 - 2310, 2316 - 2324, 2394 - 2410, 2480 - 2485, 2504 - 2512)
C58 290 - 309(製造番号2567 - 2576, 2594 - 2603)
C58 330 - 339(製造番号2781 - 2785, 2803 - 2807)
C58 350 - 368(製造番号2923 - 2932, 2938 - 2946)

 2.1 樺太庁鉄道C51形
 本形式は、樺太庁鉄道向けに製造された鉄道省C58形の同形機で、1941年から1943年にかけて14両が製造された。当初はC51形と称したが、後に鉄道省に準じたC58形に改称され、さらに1943年の南樺太の内地化に伴う樺太庁鉄道の鉄道省への編入により、C58 369 - 382となった。1943年製の4両は、樺太庁鉄道が発注したものだが、落成時はすでに鉄道省への移管後となっており、直接鉄道省籍に編入された。形態的には、新製費節減のため給水加熱器を省略しているのが特徴である。

これらは、1945年(昭和20年)、日本の敗戦とともにソ連に接収された。その後は、使用中の姿が写真で伝えられるなどしたが、詳細はよくわかっていない。

製造年次ごとの番号と両数は次のとおりである。

1941年 - 樺太庁鉄道C51 1 - 5 → C58 1 - 5 → 鉄道省C58 369 - 373(5両)
1942年 - 樺太庁鉄道C51 6 - 10 → C58 6 - 10 → 鉄道省C58 374 - 378(5両)
1943年 - (樺太庁鉄道C58 11 - 14) → 鉄道省C58 379 - 382(4両)

製造所別の番号と両数は次のとおりである。

汽車製造(3両)
C51 3 - 5(製造番号2077 - 2079)
川崎車輛(11両)
C51 1, 2(製造番号2424 - 2435)
C51 6 - 10(製造番号2656 - 2660)
C58 379 - 382(製造番号2815 - 2818)

 2.2 天塩炭礦鉄道
 天塩鉄道(1959年に天塩炭礦鉄道に改称)開業用として、1941年11月に1, 2の2両が汽車製造で新製(製造番号 2075, 2076)されたものである。樺太庁鉄道向けのものと同様、給水暖め装置は装備していない。それ以外は鉄道省向けのものと同じである。客貨両用として、1967年の廃止まで使用された。

 2.3 三井芦別鉄道
 三井鉱山芦別鉄道(後の三井芦別鉄道)が、1947年12月に汽車製造で新製(製造番号 2591, 2592)したもので、C58-1, C58-2の2両が導入された。購入は、同鉄道の地方鉄道移行後の1949年(昭和24年)で、汽車製造が見込み生産したものといわれている。形態は国鉄C58形の戦後製のものと同様であるが、やはり給水暖め装置は装備していない。C58-1は1967年(昭和43年)3月5日に廃車され、C58-2は1971年(昭和46年)3月31日に廃車後、旭川市の旭川通運トラックターミナルに保存された[4]が、同市内のニュー温泉に移設後、2014年(平成26年)3月に解体された。

3 運用
 戦前から各地のローカル線や都市部の入換用として使用された。特に千葉、和歌山、四国全域では主力であった。
 陸軍から250両の拠出命令を受け[5]、実際に第一陣として太平洋戦争中の1944年には、50両 (C58 37 - 46, 49 - 58, 64 - 73, 89 - 96, 130 - 141) が軍に供出されることになり、6月から11月にかけて省の工機部(工場)で1m軌間に改軌され、実際に25両 (C58 37, 38, 40, 42 - 45, 53 - 55, 67, 68, 73, 91, 93 - 96, 130, 131, 133, 134, 136, 138) が南方に送られた。使用地はマライといわれるが、定かではない。この時期には、日本軍は既に制海権を失っており、そのほとんどが輸送中に沈没したようである。戦後、タイ国有鉄道において、4両 (C58 52, 54, 130, 136) が761 - 764として使用されているのが確認されているが、同地では軸重が大きすぎ、構内入換用以外の使途がなかったようである。未発送となった25両は復元され国鉄に復帰した。
 戦後の新造が落ち着いた1948年7月1日には、本形式は388両が在籍した。鉄道局別の配置は、札幌36両、仙台75両、東京60両、名古屋43両、大阪72両、広島51両、四国32両、門司19両であった。

主な使用線区は、

札幌局管内 石北線、釧網本線、根室本線、札幌近郊の函館本線
仙台局管内 大船渡線、山田線、釜石線、横黒線、陸羽東線、陸羽西線、仙山線、磐越東線、磐越西線
東京局管内 水戸線、総武本線、山手線、横浜線
名古屋局管内 七尾線、小浜線、高山本線
大阪局管内 関西本線(奈良 - 湊町(現・JR難波)間)、紀勢西線、城東貨物線、伯備線
広島局管内 芸備線、宇品線、山口線、美祢線、山陰本線西部
四国局管内 予讃本線、土讃本線
門司局管内 久大本線、豊肥本線

である。このうち比較的輸送量の多い釜石線、横黒線、磐越西線では比較的早くにD50形やD60形により置き換えられた。

 1949年に2両 (C58 238, 343) が廃車となったが、1963年までは1両の廃車も発生しなかった。
 1955年ごろには、本形式を近代化しC51形に匹敵する性能を持たせたC63形が計画されたが、動力近代化の推進により、結局1両も製造されることなく終わった。

 1956年4月1日時点での配置区と両数は、釧路12両、北見14両、苗穂13両、盛岡4両、宮古8両、釜石4両、一ノ関18両、黒沢尻(現・北上)4両、小牛田12両、仙台7両、郡山6両、小山4両、高崎第一4両、新小岩5両、千葉11両、佐倉6両、品川4両、高島9両、八王子8両、稲沢第一5両、美濃太田10両、高山9両、敦賀13両、七尾10両、竜華9両、王寺17両、奈良6両、和歌山14両、紀伊田辺18両、新宮8両、新見23両、浜田11両、備後十日市(現・三次)14両、津和野6両、正明市(現・長門市)5両、高松10両、多度津16両、高知10両、大分19両(計386両)である。

 1957年9月5日からED45形を嚆矢とする交流電気機関車が仙山線で営業運転による試験を開始したが、これらD級交流電気機関車は当初客車への暖房供給設備を持たなかったため、冬季は専用の暖房車を必要とした。しかし、この暖房車確保が間に合わなかったことから、仙台および小牛田のC58形が代替暖房車として(動力車としては使用せず)しばしば連結された。ところが、これら初期の交流電気機関車は量産形式であるED71形に至っても水銀整流器を由来とする故障が絶えなかったため、その際にC58形がそのまま救援機に転身して運行を続ける事態がしばしば見られた。利用客からは、代替暖房車(C58形)が連結されていた場合、「当たり」と判断されたという。
 1962年、岡山県内山陽本線での貨物列車脱線事故発生による赤穂線迂回運転において、C58形が151系「つばめ」「富士」「うずしお」を牽引した。
 動力近代化計画の推進により計画的な廃車がされるようになり、1970年4月1日時点では234両となっていたが、新たな配置区として、鷲別区に苗穂区から2両、五稜郭区に九州・山陰地区から8両、八戸線用に尻内区へ10両、二俣線用に遠江二俣区に9両、長野区へ入換用として2両、亀山区へ草津線・関西本線用として4両、山陰本線東部用として福知山区に3両、豊岡区に5両、西舞鶴区に2両、津山線用として津山区へ14両などがある。九州では志布志線用として同線管理所へ3両が移っている。
 本形式は定期特急の先頭に立つことはなかったが、北海道では急行「大雪」の編成そのままの北見 - 網走間の普通列車を牽引した。
 臨時の運用としては陸羽東線で、奥羽本線の不通に伴って迂回運行した特急「あけぼの」、急行「津軽」、「おが」などの牽引に当たったことがある。20系寝台列車を前部補機付きの重連で牽引した。優等列車牽引はこの程度で数少ない。この「あけぼの」牽引は1973年4月12日に最後の事例が発生している。
 お召し列車牽引にも何度も抜擢されたことがあり、安定した扱いやすい機関車であったことはここからも読み取れる。ただし、高速性能については難があり、紀勢本線での準急列車牽引時では乗務員が危険性を感じるほどの動揺を生じたといわれている[6]。

4 保存機
 客貨両用の万能機ゆえに全国各地で活躍していたことから、梅小路蒸気機関車館をはじめ各地で静態保存されており、そのうちの3両が動態保存とされた。2014年現在で、動態保存としての運転が行われているのは2両である。

 4.1 動態保存機
  4.1.1 C58 239
 C58 239は1940年6月に川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)で新製。名古屋鉄道局に配属[7]。1941年に奈良機関区所属を経て1943年5月に宮古機関区へ転属した。1970年2月28日の山田線無煙化記念列車を牽引した後、盛岡機関区へ転属し八戸線などで運用された1973年5月1日に廃車となり、同年から岩手県営運動公園内交通公園にてオハ35 2001および有蓋車「ワム187953」と連結された混合列車の状態で、ともに静態保存された。
 交通公園内では、車両上部を覆う屋根が掛けられ風雨や積雪から守られていた。付近の道路からも見える位置に置かれ、公園内でも立入や近寄りを禁止する柵はなく間近で見ることができ、客車に至っては(学校などの行事などで見学の申し出をすれば)車内に立ち入ることもできるなど、静態保存車でありながらも住民にとっては身近な存在であった。 保管中は、元SL運転士らの団体が定期的に清掃を行い、あわせて可動部分などへ給脂を行うなど、静態保存車としては厚遇されている個体でもあった。
 JR東日本は、東日本大震災からの観光復興を後押しする目的で、2013年度冬以降の営業運転開始を目指して当機を復元させる予定であることを2012年10月に発表した[8]。同年12月4日に復元のために大宮総合車両センターへ向けて陸送され[9]約1年に渡る復元工事を実施。2013年12月12日に火入れ式が実施され、1972年5月の廃車以来41年ぶりに当機のボイラーに火が灯された[10]後、翌週の12月20日から数日間に渡って構内試運転が行われた[11]。2014年1月6日に盛岡車両センター所属として車籍復帰し、翌7日に同所を出場した[12]。尚、本機の復活に併せて、機関区跡地に放置されていた転車台も復活しており、こちらも話題となった。
 当機は大宮総合車両センター出場後、ATS-P形の作動状況や急勾配の登坂性能を確認するために、まず高崎車両センター高崎支所に回送され、同所での構内試運転および上越線・信越本線での本線試運転を行った後、同1月末に盛岡車両センターへ回送され、1年2か月ぶりに故郷へ帰還した。2月2日に盛岡駅での展示会を実施後、本格的な本線試運転が開始された。3月7日に、フジテレビの企画『みちのくSLギャラクシー』で団体臨時列車として旅客を乗せた営業運転に復帰し、同4月12日より「SL銀河」として一般営業列車としての運行を開始した。
 「SL銀河」としての定期運行は、年間80日程度(釜石行き・花巻行き各40日)とされ、東北地方を中心に他路線への出張運転も計画されている。また、この際に必要となる牽引客車に関しては、北海道旅客鉄道(JR北海道)からキハ141系気動車(キハ142-201・キサハ144-101・キサハ144-103・キハ143-155)を購入してジョイフルトレインに改造の上、使用する。ただし、キハ141系は釜石線内での急勾配区間に対応するため、動力機構は撤去せず自走可能な状態で使用する。この客車の内外装デザインは奥山清行が担当し、外装は宇宙空間をイメージした濃青色で包み、内装はモダンな大正・昭和ロマンの客室にプラネタリウムを用いたギャラリールームを設けた車内となっている。また、車番はジョイフルトレイン化に伴い、それぞれキハ142-701・キサハ144-701・キサハ144-702・キハ143-701と改番された。
 当機は宮古機関区に在籍していた頃の姿をイメージとし、復元後の外観の変化としては、まず炭水車の重油タンクが新製され、それまでの特徴的な重油タンクと置き換えた上、炭水車内部に埋め込まれ、C57 180と同程度のすっきりとした外見に変更された。先に復活したC61 20と同様、運転室の窓枠はニス塗りとなり、LEDによる標識灯が追加、ヘッドライトは主灯・副灯の2灯装備で、2灯とも東北地方のC58形の標準的なスタイルだったシールドビームのLP405形が装備された(静態保存時、主灯は大型のLP403形であった)。なお、主灯が通常の大型のものを使用せず、小型のLP405形を採用した現代の復活機としては当機が初めてであり、この点においては賛否両論含め大きな話題を集めることになった。炭水車のライトについては、保存時のLP403形をそのまま流用して装着された。煙室の扉ハンドルもかつての黒色塗装となり、飾り帯の設置もない、往年の蒸気機関車の姿を髣髴させるスタイルとなった。なお、当機が現役時代宮古機関区に所属していた際に取り付けられていた郡山式の集煙装置については、大きな課題となっていた急勾配区間かつ長大トンネルが存在する陸中大橋 - 足ヶ瀬間での運転環境がキハ141系の導入によって大きく改善されているため、外見美化の維持を含めて新製・設置は見送られている。また、スノープラウについては、静態保存時のスノープラウは長い鋭角型で、そのままでは機関車前部で他の車両と連結が出来なくなることと、カーブ等で先輪に接触する恐れがあったため、C61 20と同じタイプの角度が浅めのスノープラウを新製し取り付けている(現役時代の当機は、このタイプのスノープラウを装着して運用されていた)。復元後の使用用途は東北地方での運用が中心であるものの、関東圏でのイベント運行にも使用出来るように、新型の保安装置であるATS-P形とATS-Ps形に変更・追加装備された。また、これに合わせて防護無線装置はデジタル無線を導入した。ATS-Ps形設置に伴い、JR東日本所有の他機と同様、備え付けられていた機械式速度計から電気式速度計への載せ替えも実施された。
 なお、外観については復活後の2014年夏に、一時的であるが給水温め器に金色の飾り帯を設置し、シリンダー排気口も金色化されたが、1か月ほどですべて元の黒色塗装に戻された。しかし2年目のはそれらに加え、煙室扉ハンドルを金色化したものに取り替え、空気圧縮器にも金帯が設置された。さらに、ヘッドライトの入れ替えが行われ、主灯として取り付けていたLP405形が炭水車のライトとして、炭水車のライトとして使用していたLP403形が主灯として使用されている。ちなみに、煙室扉ハンドルの締め位置は現在のD51 498とは反対向きにしており、異色を放っている。ただしこれも1年間のみで、3年目の運行では元の姿に戻されている[13]。

  4.1.2 C58 363
 1944年(昭和19年)2月19日に川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造された(製番2941)。同年4月2日に釜石機関区(現・釜石線営業所)に配置され、5か月後の9月5日に仙台機関区(現・仙台総合鉄道部)に転属した。1950年(昭和25年)11月1日に長町機関区(現・仙台総合鉄道部)に転属してからは、主に入れ換え作業に使用された。1965年(昭和40年)10月22日には陸羽東・石巻線管理所(現・小牛田運輸区)、1966年(昭和41年)2月12日には郡山機関区(現・郡山総合車両センター)、同年8月24日には新庄機関区(現・新庄運転区)に配置され、廃車になるまで主に東北地方で使用された。1972年(昭和47年)10月2日に累計走行キロ数1,054,826kmで廃車となり、1973年5月31日から国鉄からの貸与という形で埼玉県北足立郡吹上町(現・鴻巣市)立吹上小学校に展示された。
 廃車から15年後、国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月6日に、翌年に開催された'88さいたま博覧会の目玉として復活することが決定し、車籍を復活[14][15]。同年3月26日に高崎運転所(現・高崎車両センター)に配置され、そのまま東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。車籍復活後、大宮工場(現・大宮総合車両センター)や大阪府のサッパボイラでの復元工事を実施し、同年12月26日に工事が完了[16]、同年12月28日付けでJR東日本から除籍され[17]、動態保存を行う秩父鉄道に移籍。1988年(昭和63年)2月22日から同鉄道で試運転が開始され、同年3月15日から秩父本線熊谷 - 三峰口間で「パレオエクスプレス」として運転を開始した。
 当初は埼玉県北部観光振興財団の所有であったが、2000年(平成12年)に同財団が解散したため一時的に秩父市が所有した後、2003年(平成15年)からは秩父鉄道の直接所有となっている。以前はJR東日本の線区でも走行することもあり、上越線ではD51 498との重連運転も実際された。しかし、現在はJR東日本に積極的に貸し出していた先述の財団が解散したことで所有移譲先との使用条件が変わってしまったことやATS-P形やATS-Ps形、デジタル無線などJR線を走行するための最新保安装置が未搭載であることから、近年はJR東日本線区で運転される機会は滅多にない。ただし、定期検査はJR東日本高崎車両センター、重要部検査・全般検査は大宮総合車両センターに委託しており、試運転は上越線高崎 - 渋川・水上間で実施される。
 2012年(平成24年)4月4日に上越線敷島 - 津久田間で試運転中に車両故障が発生し自力走行不能となった[18][19]。直後に救援列車が手配され秩父鉄道へ回送され[20]、復旧作業実施後の同月9日までに秩父鉄道での試運転を実施[21]21日には予定どおりに2012年の運行が開始された[22]。しかし同年8月6日午前9時32分ごろに広瀬川原車両基地で入れ替え中に脱線[23]。車軸折損ならびに車輪歪みなど損傷が発生。各部点検整備や復旧時に切り離した炭水車との再結合などを含んだ車体の組立作業に約半年かかるため、秩父鉄道では同年度に予定されていた運行をすべて電気機関車牽引運行に変更。2013年3月20日より運行再開している。

   4.1.2.1 復元後の当機の装備と容姿
 「パレオエクスプレス」として運転を開始した当初は、当機の車体には装飾が施されており、車体前面(当初は「給水暖め器囲い」、その後「ボイラー扉」)に「PALEO EXPRESS」の文字が描かれ、炭水車側面部にも「PALEO EXPRESS」の文字とロゴマークが描かれていた。ただし、これはパレオエクスプレスを運転する時のみの装飾で、秩父鉄道以外の運転では装飾のない姿で登場している。
 2009年(平成21年)11月21日から29日には、除煙板を「門鉄デフ」仕様に変更された。なお、現役時代に東北地方で活躍していた同機に門鉄デフを装備したことはない。また、同機に取り付けられた門鉄デフそのものも現役蒸機時代には存在しなかった"K-7型"門鉄デフをベースとした秩父鉄道オリジナルタイプであり、これを「"CH-1型"門鉄デフ」と命名した。2010年(平成22年)3月にも3日間限定でこの門鉄デフが取り付けられた。同年10月から11月にかけても門鉄デフが取り付けられたが、この時はかつてC58 112が装備していた「"K-9型"門鉄デフ」を装備した。2013年5月には、かつてC58 33が装備していた、中央にJNRのロゴが入った「"G-2型"後藤デフ」仕様に変更して、6月30日までこの仕様で運転された[24]。
 ナンバープレートは通常は黒地に形式名入りのものが使用されているが、イベントによって色とりどりのナンバープレートに交換することがある。2004年の秋には同機の製造60周年(還暦)を記念して赤地のものに変更され、その後も何度か赤地のものが使用されている。また、2008年の3月には「パレオエクスプレス」のファーストランを記念して、緑地のものに変更され、2009年の10、11月にも緑地のものが使用されている。2010年7月31日から8月31日の間は、形式名が入っていない戦後型[25]ナンバープレートが使用された。同年秋の運転でも戦後型ナンバープレートが使用されたが、このときは前述のとおり除煙板を"変形"門鉄デフに変更していたため、非常に珍しいスタイルでの運転となった。2011年の春にも戦後型ナンバープレートが使用されている。なお、同機が戦後型ナンバープレートを装着したのは過去にも存在しており、2003年11月21日から同23日の3日間にかけて戦後型ナンバープレートが装着されている。
 秩父鉄道の所有物ではあるが、同機の区名札はJR東日本高崎車両センターを示す「高」の区名札が使用されている。

   4.1.2.2 運行履歴
 前述のとおり、同機は秩父鉄道の「パレオエクスプレス」としての運転以外にも、JR東日本管内の様々な路線で出張運転を行ったことがある。また、1998年(平成10年)にC11 325が、翌1999年(平成11年)にC57 180がそれぞれ復活するまではD51 498の故障や検査入場時の代走に用いられたこともあった。2001年(平成13年)以降は機関車貸し出しに伴う条件変更や上記のC11 325などの登場により、当機のJR線上での営業運行は極めてまれな事例となった。

1990年(平成2年) - 1996年(平成8年)1月 など - 上越線高崎 - 水上間「SL重連奥利根号」
1996年(平成8年)7月 の運転では旧型客車を牽引。
2000年(平成12年)3月16日には、試運転のみであるが12系ジョイフルトレイン「やすらぎ」を牽引。往路は同機が先頭に立った。
1996年(平成8年)、1997年(平成9年)2月など - 上越線高崎 - 水上間「SL奥利根号」
全区間で後補機としてEF58 89(既廃車)やEF64 1001などが連結されていた。
1997年(平成9年)3月 - 磐越西線新津 - 津川間「SLえちご阿賀野号」
D51 498の故障による緊急代走。
1998年(平成10年)2月 - 水郡線水戸 - 常陸大子間「SL奥久慈号」
1998年(平成10年)12月12・13日 - 大糸線松本 - 信濃大町間「SL北アルプス号」
復路はEF64形電気機関車が牽引し、当機は最後尾に有火状態で連結されていた。
2000年(平成12年)12月24日 - 上越線高崎 - 水上間「SLC58やすらぎ号」
前述の「やすらぎ」を牽引、全区間で後補機としてEF60 19を連結。
2001年(平成13年)1月 - 高崎線・上越線上野 - 水上間「ELSLみなかみ物語号」[26]
当機の牽引区間は高崎 - 水上間、上野 - 高崎間を牽引したEF58 61を次位に従えての重連運転[26]。
客車はSLばんえつ物語で使用している12系客車を使用[26]。
同列車の牽引が埼玉県北部観光振興財団解散前最後の貸し出しとなった。
2011年(平成23年)9月24・25日 - 上越線高崎 - 水上間「SL重連レトロみなかみ号」
9月24日はD51 498と約11年ぶりの、25日は新たに復活したC61 20と初の重連運転が実施された。客車は旧型客車6両で、上述の保安装置の不備により、2日間とも次位(本務機)としての運用だった。

 このほか、2009年1月18日「さよならEF55横川号」が運転されたが、高崎駅での出発時にEF55形電気機関車と有火状態の当機が並べられた(ボイラー故障で長期に渡り運用を離脱していたD51 498に代わっての登場であった)。

  4.1.3 過去の動態保存機
 梅小路蒸気機関車館にて保存されていたC58 1が1979年(昭和54年)、C57 1とともに山口線にて復活した。詳細は以下のとおり。

1938年(昭和13年)8月4日に汽車製造で製造され(製番1578)、新鶴見機関区(大宮機関区名義)に配置された。当初は横浜線の貨物列車に使用された。1949年(昭和24年)4月1日に千葉機関区に転属してからは、房総西線(現・内房線)・房総東線(現・外房線)の旅客・貨物列車に使用されていた。しかし、C57形の入線により、同年7月6日に北へ送られることになり、1950年(昭和25年)5月30日に北見機関区に転属した。1972年(昭和47年)9月16日に梅小路蒸気機関車館で収蔵されるが、1978年(昭和53年)12月に全検切れとなった。しかし、山口線での蒸気機関車牽引列車の運行が正式に決定されることになり、1979年(昭和54年)に鷹取工場で検査を受け、同年8月31日に山口線で試運転が実施された。1980年(昭和55年)1月5日に同線で団体列車を牽引し、C57 1の予備機となった。同線運転期間中は緑地や赤地のナンバープレートを装着し、集煙装置を取り付けて運行された。同年6月1日にC57 1との重連で運転された。その後も、C57 1との重連運転が時折行われ、旧型客車をC57 1との重連運転で牽引した実績もある。山口線以外での運行例は、1980年(昭和55年)6月13日から6月15日に横浜港開港120周年記念事業として横浜臨港線を走行し、1981年(昭和56年)12月6日から12月12日には日豊本線別府 - 豊肥本線三重町間において、「SL豊の国号」が運行された。
しかし、国鉄末期の財政難やボイラー老朽化による故障の連続発生などの事情から復活後最初の全般検査が実施されず、1984年(昭和59年)1月3日の初詣列車牽引を最後にSLやまぐち号牽引から撤退した。さらには1987年3月、梅小路蒸気機関車館保存機整理により車籍も失い、以後静態保存機として現在に至る。
 北見機関区時代は、旋回窓やバタフライスクリーンなど北海道所属機特有の装備を施されていたが、除煙板については将来の保存を見越して切り詰め工事が行なわれず原形に近い姿[27]を保っていた。現在はお召し列車牽引時を想定した姿となっており、除煙板には金色の鳳凰が描かれた装飾が施され、ランボードに金色の手すりが追加されている。なお当機は、現役時代一度もお召し列車を牽引した実績を持っていない。また、2003年(平成15年)ごろにC56 160が全般検査に入場した際、汽笛の鳴り具合が悪かったことから当機のものと交換が行われ、現在のC56 160はこのC58 1が使用していた汽笛を吹鳴している。

 4.2 静態保存機
北海道地方
C58 98 - 北海道深川市「深川市桜山公園」(旧・桜山温泉パラダイス)
C58 106 - 北海道釧路市「幸町公園」
C58 119 - 北海道北見市「SL広場」
C58 82 - 北海道網走郡美幌町「スポーツセンター」
C58 139 - 北海道紋別郡湧別町「計呂地交通公園」(旧・湧網線計呂地駅)
C58 33 - 北海道斜里郡清里町「児童遊園」

東北地方
C58 103 - 岩手県一関市「文化センター」内、一関市立一関図書館脇
C58 342 - 岩手県北上市「展勝地公園」レストハウス脇(北上市立博物館)
C58 365 - 宮城県宮城郡利府町・東日本旅客鉄道新幹線総合車両センター
C58 354 - 宮城県宮城郡利府町「森郷児童遊園」(鉄道公園)
C58 228 - 宮城県石巻市「北上公園」
C58 114 - 宮城県大崎市「城山公園」
C58 356 - 宮城県大崎市・東日本旅客鉄道中山平温泉駅前
C58 19 - 宮城県大崎市・東日本旅客鉄道西古川駅前
C58 304 - 山形県新庄市「金沢公園」
C58 231 - 山形県上山市「上山市民公園」
C58 244 - 福島県南会津郡只見町「開発センター」
C58 215 - 福島県河沼郡会津坂下町「坂下小学校」

関東地方
C58 275 - 茨城県笠間市「石川児童公園」(市民体育館)
C58 5 - 栃木県下都賀郡壬生町「とちぎわんぱく公園」
C58 217 - 千葉県旭市「中央児童公園」(西の宮公園)[28]
C58 407 - 東京都豊島区「大塚台公園」
C58 395 - 東京都羽村市「羽村市動物公園」

中部地方
C58 212 - 福井県敦賀市「本町第3公園」
C58 171 - 福井県小浜市「中央児童公園」
C58 280 - 岐阜県美濃加茂市「古井小学校」
C58 322 - 静岡県三島市「楽寿園」
C58 49 - 静岡県掛川市「中央公園」
C58 389 - 静岡県浜松市天竜区「SL公園」

近畿地方

C58 359 - 三重県亀山市「亀山公園ますみ児童園」
C58 51 - 三重県松阪市「中部台運動公園」
C58 414 - 三重県度会郡玉城町「お城広場」(旧・田丸小学校)
C58 1 - 京都府京都市「京都鉄道博物館」(旧梅小路蒸気機関車館)

2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定。

C58 48 - 京都府京都市右京区「ジオラマ・京都・JAPAN」
C58 56 - 京都府福知山市「福知山鉄道館ポッポランド2号館」
C58 113 - 京都府舞鶴市「市営グランド」(中舞鶴駅跡)
C58 390 - 京都府与謝郡与謝野町「加悦SL広場」
C58 66 - 大阪府大阪市中央区「大阪城公園」レストランcafe「GORYO」横休憩場
C58 170 - 兵庫県豊岡市「日高小学校」
C58 353 - 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町・那智勝浦町役場

中国地方
C58 36 - 山口県美祢市「美祢市立図書館」

四国地方
C58 12 - 香川県高松市「高松市番町二丁目公園」
C58 295 - 香川県坂出市「御供所公園」
C58 333 - 香川県仲多度郡多度津町・四国旅客鉄道多度津工場 - 準鉄道記念物
C58 335 - 高知県高知市「交通安全こどもセンター」

なお、蒸気機関車復活の意向が四国四県にはあり、C58形の復活が期待されているが、資金調達の目処が立たず進んでいない。

九州地方
C58 277 - 宮崎県小林市「緑ヶ丘公園」
C58 112 - 鹿児島県志布志市「志布志線大隅線記念公園」(旧・志布志駅跡)

保存後解体
C58-2(三井芦別鉄道) - 北海道旭川市「ニュー温泉」
2012年秋に閉館した後、施設ともども2014年3月に解体された。
C58 16 - 宮城県本吉郡南三陸町「松原公園」
2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波で数十m内陸に流され、横転大破。※2012年7月現地解体

C58 65 - 山口県光市「市民ホール」※2011年4月解体
C58 122 - 宮城県栗原市「薬師公園」 ※2008年3月解体
C58 140 - 石川県羽咋市「今浜海浜児童公園」
※1995年解体、動輪および形式プレートは2008年より金沢駅にて展示。

C58 312 - 愛媛県喜多郡五十崎町(現・内子町) ※元SLホテル。2007年5月解体
C58 325 - 石川県河北郡宇ノ気町(現・かほく市)「金沢鉄道学園」 先輪・動輪・ロッドのみ現存 ※1989年ごろ解体
C58 328 - 福島県田村郡三春町「緑地公園」 第3動輪1対・ロッドの一部・煙室扉のみ現存 ※2009年3月解体
C58 418 - 三重県熊野市「下平公園」 ※2010年2月10日ごろより解体

5 注釈・出典
[1]^ 『決定版 日本の蒸気機関車』278ページ。C50形の代替も兼ねた。
[2]^ 『新幹線を作った男 島秀雄物語』20ページ
[3]^ 『決定版 日本の蒸気機関車』280ページ
[4]^ 沖田祐作『機関車表 フル・コンプリート版』2014年、ネコ・パブリッシング刊 ISBN 978-4-7770-5362-9
[5]^ 『決定版 日本の蒸気機関車』280ページ
[6]^ 久保田博によると、これについて保線軌道が悪いのと本形式の主連棒の短かさが原因とされたが、高木宏之は試験データなどから本形式の動輪が台枠の中央部に集中して前後のオーバーハングが大きかったのと先輪の復元力が小さいのが原因と結論を出している。
[7]^ 当機の落成日・初配置機関区は不明。次番のC58 240は6月27日落成、稲沢機関区配属。
[8]^ 東北でSLが復活します!〜SL銀河鉄道(仮称)〜
[9]^ C58 239が搬出・陸送される
[10]^ 「「SL銀河」で火入れ式 復興支援、東北で運行へ」 47NEWS 2013年12月12日
[11]^ 「釜石線で復活予定のSL試運転」 テレビ岩手 2013年12月20日
[12]^ C58 239、高崎へ
[13]^ 厳密には、ナンバープレートの交換が行われており、より現役時代に近いものが復元されている。
[14]^ 『全国保存鉄道』22ページ
[15]^ 『私鉄機関車30年』55ページ
[16]^ 『私鉄機関車30年』55ページ
[17]^ 鉄道ピクトリアル1989年5月臨時増刊号 (No.512) 「新車年鑑1989年版」
[18]^ JR東日本:列車運行情報 2012年4月4日17時13分
[19]^ 「SL 運転中ストップ」 上毛新聞 2012年4月5日
[20]^ 「試運転のSLが故障、在来線が不通に 群馬」 日テレNEWS24 2012年4月4日
[21]^ 「SL:山々に響く汽笛 秩父鉄道で試運転」 毎日新聞埼玉版 2012年4月10日
[22]^ 「復活から四半世紀 秩父鉄道SL、今年の運行スタート」 朝日新聞 2012年4月21日夕刊
[23]^ 「広瀬川原熊谷工場内SL機関車入換作業中の脱線について」 秩父鉄道HP
[24]^ 「C58 363号機が後藤デフに変身」鉄道ホビダス 2013年5月15日
[25]^ 秩父鉄道側では「原型」と言っているが、実物は戦後に制定された規格である。本当の原型は形式と車番に隙間がないもので、それは鉄道博物館玄関脇のD51426前頭部などで見られる
[26]^ a b c 御子貝正仁、2001、「RAILWAY TOPICS - JR東日本 上越線で<ELSLみなかみ物語号>運転」、『鉄道ジャーナル』(通巻414号)、鉄道ジャーナル社、2001年4月 p. 96
[27]^ 北見機関区時代にはバイパス弁点検窓が設置されていたが、梅小路に移ってからは窓が埋められている。
[28]^ 1941年公開の映画「指導物語」の様々なシーンで使われた実績がある。ロケ地も千葉県内の国鉄線であった。

6 参考文献
『決定版 日本の蒸気機関車』(講談社・宮澤孝一) ISBN 4062690527
『全国保存鉄道』(JTB(現・JTBパブリッシング)・白川淳) ISBN 4533019722
『私鉄機関車30年』(JTBパブリッシング)・寺田裕一) ISBN 4533061494
『新幹線を作った男 島秀雄物語』(小学館・高橋団吉) ISBN 4093410313

7 関連項目
・SL銀河

最終更新 2018年11月14日 (水) 12:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 蒸気機関車を取り上げているのは、『SL銀河』号である。
 「C58」239号機は1972年(昭和47年)10月八戸線SLさよなら列車運転した蒸気機であり、当地で廃番になった。尻内駅周辺で未舗装路に灰滓が蒔かれており、子供ながら近年まで蒸気機の活動が読み取れた。
 客車は50系であった「キハ141系700番台」である。1993年(平成5年)まで50系の"学生列車"が東北本線から鮫駅まで乗り入れられていた。
 東北本線でも昼間でも2~3両をED75やEF81牽引の12・50系客車普通列車が運行されていた。
 八戸線でもDE10牽引普通列車を久慈駅まで運行できたと思えるほどたった。蒸気機淘汰を急がなければ、"昭和"まで「C58」が活躍できたはず。また、50系客車のエンジン搭載できていれば、キハ40系投入が抑えられたかも。
Posted at 2018/11/27 09:53:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蒸気機関車史 | その他

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