• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ディーゼルオート店のブログ一覧

2021年02月28日 イイね!

『DF50形』電気式ディーゼル機関車

『DF50形』電気式ディーゼル機関車国鉄DF50形ディーゼル機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 DF50形ディーゼル機関車(DF50がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)のディーゼル機関車の一形式である。

[写真・画像] 寝台特急「紀伊」 新宮駅へ回送中 新宮 - 三輪崎間 1979年

 基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造所 新三菱重工業・汽車製造・日本車輌製造・川崎車輌・東京芝浦電気・日立製作所[1]
製造年 1957年(昭和32年) - 1963年(昭和38年)
製造数 138両[2]
引退 1983年
 主要諸元
軸配置 B-B-B[3]
軌間 1,067 mm (狭軌)
全長 16,400 mm[4]
全幅 2,932 mm[5]
全高 3,987 mm[6]
 機関車重量
冬85.1 t / 夏81.2 t(基本番台)
冬84.5 t / 夏80.6 t(500番台)
 台車
DT102(両端台車)
DT103(中間台車)
動力伝達方式 電気式
 機関
直列8気筒直噴式 8LDA25A(基本番台)
V型12気筒予燃焼室式 V6V 22/30mA(500番台)
 機関出力
1,060 PS/800 rpm/125,600 cc(基本番台・連続定格)[7]
1,200 PS/900 rpm /136,778 cc(500番台・連続定格)[8]
主電動機 直流直巻電動機 MT48
 主電動機出力
100 kW 225 V 520 A(基本番台・連続定格)[9]
110 kW 250 V 520 A(500番台・連続定格)[10]
駆動方式 吊り掛け駆動
歯車比 4.235 (72:17)
制動装置 EL14A空気ブレーキ
設計最高速度 90 km/h
 出力
600 kW(基本番台)[11]
660 kW(500番台)[12]

1 開発の背景と構造
 非電化亜幹線の無煙化のため、1957年(昭和32年)に先行試作車が製造され、以後1963年(昭和38年)まで増備されたディーゼル機関車である。国鉄で初めて本格的に量産されたディーゼル機関車であった。
 開発当時は液体変速機の製造技術が未熟で、動力伝達方式には1953年(昭和28年)製造初年のDD50形同様、ディーゼルエンジン直結の発電機で発電した直流電力で主電動機を駆動する電気式が採用された。重連総括制御可能な点もDD50形と同様であったが、非力さから重連運転常用を前提に片運転台で製造されたDD50形と違い、本形式は亜幹線で一応単機運用ができることを主眼に設計され、両運転台となった。
 車体は普通鋼製の箱型車体で、貫通扉を有するやや後傾した妻面をもつ、同時期に製造されたED70形交流電気機関車と似た形状であった。
 線路等級の低い乙・丙線での使用を考慮し、軸重を14 t以下に抑えるため6動軸とし、さらに国鉄車両としては初めてB-B-B型軸配置を採用し、中間台車の横方向へのずれを許容して曲線通過時のレール横圧の軽減を図った[注 1]。このB-B-B型軸配置 は以後設計の日本の6動軸機関車の標準となった[注 2]。DD50形が暖房用蒸気発生装置をもたず、冬季の旅客列車牽引時に暖房車を必要として不便であったため[注 3]、本形式は暖房用のボイラー(蒸気発生装置)を搭載した。なお、1 - 7号機は量産試作車で、前面形状、中間台車中心位置、機器配置などが量産型とは若干異なっていた。
 エンジンは、当時の新三菱重工がスイスのズルツァー社と技術提携して製造した直列8気筒直噴式の三菱神戸ズルツァー 8LDA25A(連続定格1,060馬力、1時間定格1,200馬力)を搭載した基本番台と、川崎重工と日立製作所がそれぞれ西ドイツ(当時)のMAN社と技術提携して製造したV型12気筒予燃焼室式の川崎 MAN V6V 22/30mA、あるいは日立 MAN V6V 22/30mA(ともに連続定格1,200馬力、1時間定格1,400馬力)のいずれかを搭載した500番台とがあった[10] [14]。0番台に搭載された三菱神戸スルザー8LDA25Aは、DD50形に搭載された三菱神戸ズルツァー 8LDA25の過給機の一部を改造して高過給とし、燃料噴射ポンプ・プランジャ・ノズル・ピストンなどの変更を行って[15]2割弱の出力増強を実現したものであった。
 エンジン音はメーカー別に特徴があり、気筒数が少ない中速機関のズルツァー型は焼玉エンジンのような「ポンポンポンポン」というリズミカルな音、同じく中速機関ながら気筒数が多く、ズルツァー型よりやや高速な機関を搭載するMAN型は「ドドドドド」と連続した低音である。MAN型の中には、キハ181系のようなターボ音を発するものがあった。
 出力制御はDD50形で採用されていた、空気圧による遠隔制御方式[16]で、主機関の調速機や、主発電機の励磁機の界磁調整器を空気圧でコントロールし、機関回転数・発生電圧を制御する。運転台の主幹制御器は、電気的な要素はなく一種の可変空気調圧器に類する構成[16]で、制御空気圧の昇降を直接行い、電気的な制御は行わない[16]。近代化動力車では電磁弁を用いる遠隔制御が一般的であるが、1950年代中期の技術では、ディーゼル動力車の燃料噴射量を電磁弁で制御する場合、電磁弁の数をむやみに増やせず、電磁弁相互をリンク連結して連関動作を構成するなどの手法を用いても、細かい制御段数を得ることが難しかった。従って多段階のノッチが求められる大形機関車には必ずしも電磁弁制御方式は有利でなかった。アメリカ合衆国で一時、電気式ディーゼル機関車メーカーの一角を占めたウェスティングハウス・エレクトリックやフェアバンクス・モースでも空気圧式出力制御を用いており、DD50形、DF50形の出力制御もこの当時の流儀を踏襲したものであった[17]。
 機関車の出力制御は19段のノッチによるエンジンの回転数制御で行い、これによって発電電圧を上げ下げして主電動機の回転数を制御した。ただ、出力制御操作が空気圧による無段階的なものであることから、このノッチは出力を決める刻み段としての意味合い程度であり、主幹制御器で中間ノッチを使用することも可能である[16]。重連時の次位機関車の制御もこの制御空気圧で直接行う方式であり、このため車端部には総括制御用空気ホースが設けられている[16]。他に車端部にはジャンパ連結器もあるが、これは低圧回路接続用である。
 主発電機もDD50形で採用された「差動界磁付励磁機式発電機」が用いられた。これによって、主電動機に負荷がかかって回路電流が増大すると、自動的に発電機の界磁が弱まり、発電電圧が低下して、定出力特性が得られた。またエンジン自体への負荷増大もエンジンガバナーで感知し、発電機の他励界磁の回路に抵抗を加えて界磁を弱め、発電電圧を下げる方法もとられた[18][19]。なお、主発電機は出力は700 kW (450 V 1,560 A) 、500番台では780 kW (500 V 1,560 A) であった[10]。
 主電動機は吊り掛け駆動方式・出力100 kW(500番台では110 kW)の直流直巻電動機(MT48形)6基装備で、2台永久直列3回路であった。主電動機の直並列組合せ制御については、直並列の回路切替え(「渡り」)時の主機関の負荷変動が過大となることから、本形式では採用されていない[16]。全界磁での連続定格速度が17.5 km/h(500番台では19.5 km/h)[20]と極めて低速であったが、全軸駆動の6動軸で粘着力では有利であったことから、重量列車の引き出しは可能で、また50 %と30 %の弱界磁制御もできたため、軽負荷であれば90 km/hでの高速運転も可能であった。

2 製造と運用
 0番台が新三菱重工業・汽車製造・日本車輌製造で65両、500番台が川崎車輌・東京芝浦電気・日立製作所で73両、計138両が製造された。
 本線での客貨運用が可能な最初の実用的ディーゼル機関車で、北海道を除く[注 4]日本各地の非電化亜幹線と一部非電化幹線で特急列車から貨物列車まで幅広く運用された。特にトンネルの多い路線では、蒸気機関車の煤煙から解放される無煙化の効果が大きかった。なお、旧線時代の奥羽本線の矢立峠越えの区間(秋田・青森県境)などの急勾配区間では、補機として使用されたケースも多かった。
 しかし本形式は日本のディーゼル機関車としては過渡期の存在であり、幹線の主力機関車として運用するにはエンジン出力が低すぎるという根本的弱点を抱えていた。主電動機の広範な弱界磁制御により、限られたエンジン出力を低速から高速までの広い速度領域で有効に使い、全車軸を駆動軸として動輪上重量を大きくとり、勾配でも空転を起こさずに登坂できたが、出力不足(基本番台の電動機出力は600 kWであり、1950年代に製造された72系電車とほぼ同じだった)ゆえ、著しい速度低下をきたし、D51形蒸気機関車の代替にはならなかった[22]。当時の機関車の性能について1965(昭和40)年度実績の比較表を示す[23]。

代表形式 機関車全重量 (t) 最大馬力 (HP)  最高速度 均こう速度 動力費(円/km)
・(旅客・蒸気)C62 145 1620 100 54 120
・(旅客・直流電気)EF65 96 3460 110 78 47
・(旅客・ディーゼル)DF50 81 1200 90 38 67
・(貨物・蒸気)D51 126 1280 85 20 230
・(貨物・電気)EF15 102 2650 75 40 90
・(貨物・ディーゼル)DD51 84 2200 95 24 136
(速度に単位がないのは原文ママ、蒸気機関車の「全重量」はテンダーを含む。)
 均こう速度は旅客と貨物で条件が異なり、旅客が450トン、貨物が1,000トンを引いて10/1000(10 ‰)の上り勾配を走る際の最高速度。
 動力費は均こう速度の条件で1 kmの距離を走るに要する金額。

 また、客貨兼用の設計だったことから平坦区間でも加速性能は低く、C57形蒸気機関車程度に留まった。しかし当時の技術では、軸重14 tの電気式ディーゼル機関車に、これ以上の出力のエンジンを搭載することは不可能であった[24]。
 このように牽引性能が不十分であったことに加え、エンジンに外国メーカーのライセンス品を使用せざるを得なかったため調達コストが高く、動力近代化のための大量増備に適した機関車とはなれず、技術提携で製作された部分は図面もない[25]ため故障が非常に多く[26]、後続の液体式 ディーゼル機関車DD51形の登場までのつなぎ役に留まった。
 1962年(昭和37年)には1,000馬力級エンジン2基を搭載した純国産の幹線用ディーゼル機関車DD51形が登場したため、本形式の製造はその翌年の1963年限りで終了し、その後は主要幹線から順次DD51形が導入され、本形式は比較的軽負荷な運用の多い亜幹線に転用された。昭和50年代に入ると電化の進展もあって多くが廃車となった。
 その中で日豊本線では、北部からの電化進展に伴って運用域は年々狭まったものの「富士」や「彗星」などの寝台特急運用で1979年(昭和54年)の全線電化直前まで非電化区間の牽引を務めた。最後まで残った寝台特急運用は、紀勢本線の寝台特急「紀伊」の牽引であった。しかし、同年6月には上り列車のみDD51形に置き換えられ、下り4003列車の亀山 - 紀伊勝浦間およびその回送である回4003列車の紀伊勝浦 - 新宮間についても亀山機関区配置機の運行終了直前の1980年(昭和55年)2月にDD51形に置き換えられた。
 最後まで主力車として残った四国でも、1981年(昭和56年)10月に定期旅客運用を離脱し、同時にMAN型の500番台が全廃された。1983年(昭和58年)9月には貨物運用も終了した。同月25日に運転された、臨時急行列車「サヨナラDF50土佐路号」をDF50 1+DF50 65の重連で牽引したのを最後に運用を終了。1985年(昭和60年)1月21日付で、最終貨物列車を牽引したDF50 34が廃車されたのを最後に、3両の保存機を除いて完全に消滅した。

3 事故廃車
・10号機:1964年(昭和39年)6月25日・紀勢本線 多気発九鬼行き135列車牽引中に大曽根浦 - 九鬼間の土砂崩れにより崖下へ転落、炎上により廃車。[27]
・35号機:1977年(昭和52年)12月26日付で老朽廃車されているが、実際は事故後そのまま復旧されずに廃車されたようである。
・39号機:1969年(昭和44年)1月24日・紀勢本線 名古屋発天王寺行き921列車を牽引中に紀伊日置駅付近で脱線、7 m下の水田に転覆し廃車。[28]
・45号機:1972年(昭和47年)7月5日・土讃本線繁藤駅で土砂崩れ(地すべり)に巻き込まれ川へ転落し廃車。車両は現地解体。車体の一部はその後も穴内川に埋没した状態で残されている[注 5]。[29]
・569号機:1978年(昭和53年)3月22日・予讃本線 高松発松山行き下り普通列車を牽引中、高瀬 - 比地大間の踏切でクレーン車と衝突し助士席側を破損する。本形式の置き換えが進んでいたこともあり廃車。

なお、1962年11月29日の羽越本線列車衝突事故で前頭部が粉砕されて炎上し、転覆した548号機はまだ車齢が若かったため土崎工場で修復された。その後米子機関区に転属し、1977年に廃車されるまで山陰本線で運用された[30]。

5 脚注
5.1 注釈
[注 1]^ 日本以外の国ではイタリアの電気機関車が同じ理由で1940年のE636形からB-B-B配置が基本になっている[13]。
[注 2]^ 信越本線 碓氷峠越え用のEF62は軽量化のためC-C軸配置を採用したが、唯一の例外である。
[注 3]^ そのため晩年は専ら北陸本線米原 - 田村の交直接続区間での貨物列車牽引に使用された。
[注 4]^ 寒冷地対策を施した33号機が1959年2月3 - 13日に北海道・夕張、追分地区で寒冷地対策試験を施行した[21]。
[注 5]^ 同機のナンバーと製造銘板は、現地解体時に取り外され、JR四国多度津工場PRルームに保管されている(工場公開時などに見学可能)

5.2 出典
[1]^ 沖田祐作 編『機関車表 国鉄編II 電気機関車・内燃機関車の部』(ネコ・パブリッシング RailMagazine 2008年10月号 (No.301) 付録CD-ROM)
[2]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[3]^ 野本浩「DF50型機関車開発の背景と効果」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.13 2018年
[4]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.24 2018年
[5]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.24 2018年
[6]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.24 2018年
[7]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[8]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[9]^ 服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[10]^衣笠敦雄「ディーゼル車両の歩みとDF50の誕生」『鉄道ピクトリアル』31巻6号 p.12 1981年
[11]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[12]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.25 2018年
[13]^フランコ・タネル『ヴィジュアル歴史図鑑 世界の鉄道』黒田眞知・田中敦・岩田斎肇訳 株式会社河出書房新社 2014年 ISBN 978-4-309-22609-5 p.229
[14]^岩成政和「戦後ディーゼル機関車発達史の論点、争点、疑問点」『鉄道ピクトリアル』64巻7号 pp.50 - 52 2014年
[15]^野元秀昭「戦後の電気式ディーゼル機関車」『鉄道ピクトリアル』31巻6号 p.47 1981年
[16]^寺内良和 「鉄道車両系列シリーズ (13) DF50型ディーセル機関車」『鉄道ジャーナル』1979年12月号 (No.154) pp.79 - 86
[17]^竹村伸一(日立製作所)「最近のディーゼル電気機関車制御方式について」『日立評論』別冊第20号(日立評論社)1957年11月 pp.29 - 37
[18]^衣笠敦雄「ディーゼル車両の歩みとDF50の誕生」『鉄道ピクトリアル』31巻6号 p.13 1981年
[19]^野元秀昭「戦後の電気式ディーゼル機関車」『鉄道ピクトリアル』31巻6号 p.48 1981年
[20]^石井幸孝『DD51物語』p.191 JTBパブリッシング 2004年
[21]^交通技術14巻8号増刊(通巻162号)鉄道技術の進展1958-1959 pp.3, 33 - 34 1959
[22]^石井幸孝『DD51物語』p.102 JTBパブリッシング 2004年
[23]^安田朋正・小椋康夫「機関車と電車」、『原色現代科学大事典 10-機械』、代表・窪田雅男・菊池誠、学研、昭和44年第3版、p.140 表2
[24]^石井幸孝『DD51物語』p.103 JTBパブリッシング 2004年
[25]^http://www.jrea.or.jp/jrea/data/1961/JREA_1961-5.pdf#page=29
[26]^http://www.jrea.or.jp/jrea/data/1963/JREA_1963-3.pdf#page=20
[27]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.38 2018年
[28]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.38 2018年
[29]^服部朗宏「DF50型機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』68巻8号 pp.38 2018年
[30]^資料:『レールガイ』1977年11月号

6 関連項目
・JR貨物DF200形ディーゼル機関車 - 1992年(平成4年)から量産が開始された電気式ディーゼル機関車
最終更新 2021年2月13日 (土) 07:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


国鉄DF40形ディーゼル機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 DF40形は、かつて日本国有鉄道(国鉄)で試用された電気式ディーゼル機関車である。
1 製造の背景
 国鉄がディーゼル機関車の開発を模索していたころ、国内の車両メーカーは国鉄および海外への売り込みをはかるべく、独自の機関車を設計・試作した。これらの機関車は、合計9形式が国鉄に借り入れられ、40代、のちに90代の形式を与えられて試用された。一部の形式は国鉄が正式に購入した。 それらの試作機関車のうち、本線用として製造されたのが、本形式である。
 1955年に神戸の川崎車輌兵庫工場で1両が製造された。
 本形式はのちにDF91形(2代)と改称されるが、それ以前にも同じDF91形を名乗る機関車が存在した。

2 車体
 車体は箱形で全体的に丸みを帯びており、円形の側窓が特徴的である。屋根上の明かり取り窓も円形である。落成当初は、前面は非貫通式2枚窓構成[1]であったが、1964年にDF50形との重連総括制御が可能なように改造されてジャンパ栓が追加設置され、さらに翌年貫通式に改造されてDF50形に準じた前面形状とされている。
 登場当時の車体色は水色に裾部が橙(黄色に近い)の帯、のち同じ塗り分けで茶色と白の帯(スカートは黄色と黒のいわゆるゼブラ模様)、そして朱色とグレーのツートンカラー(正面は金太郎塗り分け。貫通式となった直後もほぼ同様)を経てDF50形と同様の塗装とされた。

3 主要機器
 エンジンは川崎車輛がドイツのMAN社との技術提携によりライセンス供与を受けて製作したV6V22/30形(V形12気筒、バンク角45°、シリンダ内径220mm、行程300mm、連続定格出力1,200馬力/900rpm)である。このエンジンはMAN社が第二次世界大戦後船舶用として量産していたVV22ディーゼルエンジンシリーズの1機種で、機種・使用条件によるが1,200馬力~1,900馬力程度の出力が可能な設計であった。
 同系の川崎/MAN V6V22/30ATLは1960年代に計画・建造された海洋観測艦あかしをはじめとする何隻かの川崎造船所/川崎重工業製海上自衛隊向け補助艦艇に、16気筒構成に拡張した川崎/MAN V8V22/30mALは青函連絡船の津軽丸 (2代)をはじめとする津軽丸型の初期3隻などにそれぞれ搭載され、また日立製作所とMAN社の提携によって製作されたV6V22/30ATLはコンゴ国鉄向けDELに搭載して輸出されるなど、この系列の機関は1950年代後半から1960年代にかけて船舶・鉄道向けとして日本で多くの製作実績を残している。また、後述するように本形式での運用実績から川崎と日立が製作したV6V22/30mAがDF50形500番台に採用され、同番台は73両が量産されている。
 動力伝達方式は電気式を採用した。主発電機としては川崎車輌自社製のK4-730A[2]を1基搭載し、全車軸にK4-1453Aと称する同じく川崎製の吊り掛け式主電動機[3]を装架する。
 制御は先行するDD50形等と同様、エンジン回転数の調速と一段弱め界磁制御によって行う方式で、竣工当初は重連総括制御非対応であった。
 台車は、鋳鋼製台車枠を備える3軸ボギー台車を2組装備し、軸配置はC-Cである。動輪直径は1,000mm。
 軸箱支持機構は通常のペデスタルを用いる軸ばね式で、第1(4)・第2(5)軸および第2(5)・第3(6)軸間にそれぞれ設けられた揺れ枕を線路方向に長い重ね板ばねで連結・支持し、この上部に側受を置いて車体の荷重を支える構造であった。[4]
 この3動軸構成の台車は通常の2動軸構成の台車を3組備えるのと比較して軽量化が可能であったが、その反面、曲線通過時に中間軸が線路側面に与える横圧が大きいという問題があった。
 本形式ではこの点が試験運用開始後に問題となり、土讃線を管轄する四国鉄道管理局(当時)がディーゼル機関車の運行を大々的に宣伝していたにもかかわらず直ちにメーカー返送・改修を余儀なくされ[5]、さらには運用線区である土讃線へのタイプレート設置などの軌道強化が必要となった[6]。
 本形式でのこうした横圧過大の問題露呈を踏まえ、川崎車輌にとってライバルであった新三菱重工業が開発したDF50形では軸配置B-B-Bとし、さらに中間台車にTリンク装置と呼ばれる特別な吊りリンク機構を採用することでC-C配置の台車で発生しやすい横圧過大の問題を回避し、制式採用を勝ち取っている。
 また、本形式試験運用時の手痛い教訓は、本形式と同様にC-C軸配置を採用したが中間軸について厳重な横圧低減対策を施したDF93形や、軸重の制約などから3動軸台車を一方に装着したがA-A-A配置として各軸の遊動を可能とすることで側圧低減を図ったDE10・DE11・DE15・DE50形など、本形式以後に日本国内で設計された3動軸台車を備えるディーゼル機関車で中間軸の横圧過大に特に留意した設計が行われる契機ともなった。

4 運用
 1955年12月に川崎車輌兵庫工場で製番14[7]として落成したが、この時点では無番号で濃い青を基調に車体裾部に黄帯を巻いた姿であった。
 翌1956年度より国鉄が借り入れ、最高力行速度が75km/hであったことから当時の試作機関車形式で最高速度85km/h以下の車両に割り当てられていた40番台の形式称号が付与され、DF40 1と命名された。
 借り入れ開始後は手すりの追加など運用上必要な手直しを実施の上で1956年4月に高松機関区へ配置され、土讃本線にて各種試験に供された。この際の試験の結果、前述のとおり一度川崎車輌へ戻されて改良工事が実施されている。1956年10月に高松機関区へ再配置され、同年11月のダイヤ改定では準急「南風」上り列車の牽引を受け持つなど土讃線の旅客列車[8]、貨物列車に使用された。
 1957年3月には新製配置されたDF50 1・2と入れ替わりに再度川崎車輌へ返送され、警笛の交換や元空気溜めの増設など修繕と改造工事をうけ、同年6月に四国へ戻され、翌1958年3月には高知機関区へ転属となった。この時期には性能を安定的に発揮可能であったとされる。
 この間、1958年4月からは本形式と同系のV6V22/30mA(連続定格出力1,200馬力)を搭載するDF50形500番台が川崎車輌と日立製作所、それに東芝の3社によって量産開始され、スルザー8LDA25Aエンジンを搭載する0番台車と並行して1963年までに73両が生産されている。
 これにより試作車としての役割を果たし終えた本形式であったが、1958年8月に国鉄が購入、1961年10月の称号改正でDF91形と改称された。
 その後は四国に多数配属されたDF50形と共通運用され、1963年7月に朱色4号を基調として窓周りをねずみ色1号として、さらに前面はいわゆる金太郎塗りとした二色塗り分けに車体塗装が変更され、1964年2月には重連総括制御化改造を施工されてDF50形との重連運用が可能となった。
 もっともこの時点では車体前面が非貫通構造であったため、重連運用時の乗務員移動の便を図る必要から1965年10月にDF50形と類似の貫通扉を妻面中央に設置した運転台構造へ改造された。さらにこの直後には塗装が通常のDF50形と共通のデザインに変更された。
 本形式は元々DF50形500番台と同系列機関搭載で保守部品の調達が比較的容易であり、しかも軸配置こそ異なるもの性能はほぼ共通でダイヤ上限定運用とする必要がほとんどなかった[9]こともあって長らく高知機関区配置として土讃線で暖房用蒸気発生装置を必要としない貨物列車運用を中心に使用され、結果として1950年代から1960年代にかけて国鉄で試用された車輌メーカー製試作ディーゼル機関車群の中ではもっとも長く営業運転に使用された形式となった。
 なお、前面貫通化改造後、時期は不詳であるが当時の四国に配置されていた気動車・ディーゼル機関車で広範に施工されていた踏切事故対策としての前面強化改造工事を施工されている。
 1975年2月28日に廃車となり、その後多度津工場で解体処分されている[10]。

5 主要諸元
 ・全長:15.4m
 ・全幅:2.7m
 ・全高:3.75m
 ・運転整備重量:75t
 ・機関:川崎重工業V6V22/30形ディーゼル機関1基
 ・軸配置:C-C
 ・連続定格出力:1200PS/900rpm
 ・動力伝達方式:電気式
 ・主発電機:K4-730A
 ・主発電機出力:730kw/900rpm
 ・主電動機:K4-1453A
  ・出力:108kw/500rpm
 ・連続定格引張力:10800kg/21.4km/h
 ・最大運転速度:75km/h

6 脚注
[1]^ 窓周りの構造はEH10形電気機関車に類似する、上部が後退し車体内側に落ち窪んだ形状となっていた。
[2]^ 端子電圧480V時連続定格出力730kW、1,520A、900rpm。
[3]^ 端子電圧480V時連続定格出力108kw、252A、500rpm。
[4]^ 当初の構造は、ヨーロッパの標準軌車両では一般的な、車体荷重を全て側受で負担する構造であり、枕梁を大幅に軽量化可能なためほぼ同時期の東急5000系電車や国鉄10系客車などでも類似の設計が広く用いられていた。
[5]^ これに伴いディーゼル機関車運行の公約を守る必要に迫られた四国鉄道管理局は、急遽敦賀第一機関区からDD50形4号機を借り入れて優等列車中心に運用している。
[6]^ 横圧過大の原因は、調査の結果車体の重量をすべて台車の側受で支持していて摺動面の抵抗が大きく、曲線通過時に台車の旋回が円滑に行えなかったためであったことが判明した。そのため、本形式は一旦川崎車輌に戻されて台車の改造工事を受けている。改造後は曲線通過時に線路側面に与える横圧は著しく低下し、当時の土讃線で主力であったD51形蒸気機関車以下の範囲に収まるように改善された。
[7]^ これは川崎車輌の内燃機関車としての通算製番である。同社では、前身である川崎造船所時代から蒸気機関車や電気機関車など車種毎に異なった製番を割り当てていた。
[8]^ ただし暖房用蒸気発生装置を搭載していないため、冬季の旅客列車運用時には暖房車の連結が必須であった。冬季の「南風」牽引時にマヌ34形暖房車を連結していたことが記録されている。
[9]^ もっとも、1両だけの少数形式であったため乗務機会が少なく、しかも台車構造の制約からブレーキシリンダーの数が1両で8基と少なく、12基のブレーキシリンダーを備えるDF50形と比較してブレーキの効きが悪いため、乗務員からは敬遠されがちであったとされる。また、同じくブレーキ性能の問題から重量列車への充当には配慮が必要とされるなど、運用面にも若干の制約があったといわれる(出典:レイルロード 車輌アルバム5「国鉄DF40・90」)。
[10]^ 同機のナンバーと製造銘板(川崎14号)は、解体時取り外され、多度津工場で保存された。国鉄時代の工場開放時に展示されたこともあったが、現在は詳細不明。
最終更新 2019年9月6日 (金) 09:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 国鉄時代の量産型電気式ディーゼル機関車である。ただ、500番台で1,200 PSはSL置き換え性能には成らず、しかし138両製造された。当時の輸送状況・使用状況で事故廃車・老朽不良で意外と"自然消滅"もあるが、でも「DD50形」の様に機関車余り・有休余剰もある車両数だ。現在なら"エンジン換装""動力モーター交換"もあるのかな・・。
Posted at 2021/02/28 10:38:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | ニュース
2021年02月25日 イイね!

『DD50形』電気式ディーゼル機関車

『DD50形』電気式ディーゼル機関車国鉄DD50形ディーゼル機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

DD50形ディーゼル機関車(DD50がたディーゼルきかんしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)に在籍した電気式ディーゼル機関車である。

[写真]
(左)ECAFE(国連アジア極東経済委員会)鉄道展覧会にて展示中のDD50形
鉄道図書刊行会 - 『鉄道ピクトリアル』1954年12月号 通巻41号 鉄道図書刊行会、1954年。
(右)1975年 米原機関区にて。

 基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造所 新三菱重工業
製造年 1953年 - 1954年
製造数 6両
 主要諸元
軸配置 Bo-Bo
軌間 1,067 mm
全長 11,800 mm
運転整備重量 60.0 t
動力伝達方式 電気式
 機関
三菱重工製8LDA25形(直列8気筒、4サイクル、単動過給式)×1基
主電動機出力 130 kW/730 rpm×4基
歯車比 1:4.56 (16:73)
最高運転速度 90 km/h

1 製造の背景
 米国や西ドイツにおける非電化幹線のディーゼル化(無煙化)の進行に刺激され、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)ごろから国鉄でも幹線用ディーゼル機関車の研究が進められた。日本では戦前に製造されたディーゼル機関車はいずれも入換用の小形機関車であり、幹線用ディーゼル機関車の製造・使用実績は皆無であった。
 その研究の成果として1953年(昭和28年)から製造された、日本初の幹線用ディーゼル機関車が本形式である。

2 構造
 エンジンはスイスのスルザー社と新三菱重工業の技術提携により製造された、縦形(直立シリンダー)直列8気筒、直噴式で1,050 ps(1時間定格)の新三菱スルザー・8LDA25である。このエンジンは1930年代に開発された直列6気筒の6LDA25を基本に、8気筒化して出力の増強を図ったもので、日本への導入当時既にフランスの植民地向け機関車などで多数の製造実績があった、スルザー社の標準設計品の一つである。構造自体は手堅く堅実であったが、工作精度の基準が高く、新三菱側は苦労したという。日本での国産化に当たっては後のDF50形でも、三菱重工業が製造を担当した0番台に採用されている。 動力伝達方式は幹線用機関車の世界的な標準である電気式を採用した。
 本形式は、運転台が片側にしかなく、常に2両を背中合わせに連結して重連運転することを前提として製造された。単機でも列車牽引に使用することは可能であったが、折り返し時に転車台による方向転換が必要なことや、非力で牽引力が不足ぎみであることから単機での列車牽引には制約があった(単機での出力は520 kWであり、昭和初期に製造されたモハ53形電車とほぼ同じだった)ため、実際の運用では重連で使用されることが殆どであった。重連で使用した際の性能は、D52形・C62形蒸気機関車並みとされている。
 運転台側の前面形状は国鉄80系電車とよく似た2枚窓半流線形のいわゆる「湘南形」である。特に1次型は車体幅が狭く、天地寸法の大きめな前面窓と、連結器付近まで延びた前面外板による面長でのっぺりとした印象から、「海坊主」なるあだ名を当時のファンからもらっていた(当時のディーゼル機関車の標準塗装である茶色塗装も海坊主のイメージに拍車をかけていた)。2次車では前面窓の比率が横長となって、窓隅のRも小さくなり、前面に排障器が装着されたこともあって、1次型より垢抜けたスタイルとなっている。
 外部塗装はぶどう色2号に白色の帯であったが、1964年(昭和39年)ごろに上半が朱色4号、下半がねずみ色1号のツートーンカラーで、間に白帯を配した塗装に変更された。

3 製造
 まず1953年に1次車3両が新三菱重工業三原製作所で製造された。エンジン製作は新三菱重工業神戸造船所が、電気部分は三菱電機が製造した。性能上は問題ないことが確認され、1954年(昭和29年)に2次車3両が同じく新三菱三原で製造された。1次車と2次車では車体形状が若干異なっており、2次車では前面排障器が車体と別部品になっている。
 量産を見据えた設計であったが、2両重連使用のため製造費が高くなったうえ、軸重が重く、蒸気暖房装置を搭載していないことから冬期の旅客列車の牽引には別に暖房車が必要となるなどの問題点があり、これ以後の製造はなされなかった。その後の幹線用ディーゼル機関車としては、出力を上げて単機運転を可能とし、蒸気暖房装置を搭載したDF50形が開発され、1957年(昭和32年)から量産されることとなる。

4 運用
 6両とも当初は敦賀機関区(後・敦賀第一機関区→現・敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室)に配置され、北陸本線米原駅 - 敦賀駅間で使用された。この区間はトンネルと急勾配が連続しており、蒸気機関車の運転が非常に困難であったことから本形式の運用線区に選ばれたのであった。
 製造当初は「日本海」「北陸」などの急行列車にも用いられたが、1957年にDF50形が製造されてからは主に貨物列車に使用されるようになった。また、北陸トンネルが完成する前の杉津越えでは、DF50形ともども補機としても重用された。その後、北陸本線の電化により富山機関区を経て米原機関区(現・米原列車区)に転属し、米原駅 - 田村駅間で直流電気機関車と交流電気機関車の中継に使用されたが、1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正のころより休車が発生し、1977年(昭和52年)12月26日付で全車廃車となった。
 休車後も長い間米原機関区構内に留置されており、東海道新幹線の車窓からその状態を見ることができた。その後全車解体され、現存車はない。
 なお、4号機は1957年ごろDF40形が改造工事を受けている間、四国に渡り、土讃本線(当時)で運用されていたことがある。
最終更新 2020年12月8日 (火) 04:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 初の"幹線用ディーゼル機関車"であり、現行機関車の原型となった「電気式ディーゼル機関車」だ。当時から幹線用機関車の世界的な標準である電気式を採用したカタチ。
 対して、「DD13形」は液体式ディーゼル機関車でディーゼルエンジンを液体変速機を介して動力に使うタイプであり、ディーゼルカーと同じである。

 運転台が片側にしかなく、
「常に2両を背中合わせに連結して重連運転することを前提として製造」され、"1ユニット"で
「D52形・C62形蒸気機関車並みの性能」
であり全部で6両、後継機DF50形開発のため事実上の"試作機"だった。

 それだけ。北陸トンネル開通前は輸送力・安全上も逼迫していた訳である。また、後年の機関車余り・有休余剰も見た機関車にもなった。
Posted at 2021/02/25 12:01:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | ニュース
2021年02月23日 イイね!

国鉄DD13形ディーゼル機関車

国鉄DD13形ディーゼル機関車国鉄DD13形ディーゼル機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国鉄DD13形ディーゼル機関車(こくてつDD13がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が製造した入換用液体式ディーゼル機関車である。

[写真]
(上左)八戸臨海鉄道 DD56 1(1994年)
(下左)品川機関区の「主」的存在であった1号機(2007年5月26日 大宮総合車両センター)
(上右)DD15 37(小樽市交通記念館)作成: 2007年7月26日
(下右)JR東日本DD14形ディーゼル機関車327号機と332号機 作成: 2012年2月24日
 基本情報
運用者 日本国有鉄道
製造所 汽車製造・日本車輌製造・新三菱重工業・三菱重工業・川崎重工業・日立製作所
製造年 1958年 - 1967年
製造数 416両
引退 1987年
主要諸元
軸配置 B-B
軌間 1,067 mm
全長 13,600 mm
全幅 3,772 mm
全高 2,846 mm
機関車重量 56.12 t
動輪上重量 56.12 t
動力伝達方式 液体式
機関
直列6気筒ディーゼル機関 30,536cc
DMF31S×2 (1~110)
DMF31SB×2 (111~)
駆動方式 歯車減速及び推進軸
歯車比 3.143
制御方式 機関回転数及び液体変速
制動装置 DL14B 空気ブレーキ、手ブレーキ
最高速度 70 km/h
定格出力
740ps / 1,300rpm (1~110)
1,000ps / 1,500rpm (111~)
最大引張力
14,000 kgf (1~110)
16,800 kgf (111~)

1 製作の経緯
 ヤード構内での車両入換作業に用いることを主目的として開発された機関車である。本形式が製造される以前、車両の入換作業には明治・大正時代から戦前にかけて製造されたB6形や、9600形、8620形等の古豪蒸気機関車が使用されていたが、都市部では煤煙による周辺環境への悪影響が、国鉄部内でも機関車自体の老朽化、動力費と人件費の増加などが問題視され始めていた。しかし、その当時、国鉄が保有していた入換用ディーゼル機関車は、DD11形およびDD12形(アメリカ製)の10数両のみで、それらはいずれも出力は300ps級にとどまっており、ヤード構内での入換には力不足であった。
 そこで、動力近代化計画の一環としてDD11形より出力を増強し、入換用として適切な出力を備えたディーゼル機関車が計画された。こうして1958年(昭和33年)から製造されたのが本形式である。入換のほか、支線などでの小運転に用いることも想定された。
 蒸気機関車を置き換える入換機関車の決定版として量産されたが、規模の大きなヤードで使用するには不向きである[注 1]こと、軸重が14 tとローカル線(丙線)での運用には大き過ぎるうえ、客車暖房用の蒸気発生装置を持たないという欠点もあり、DD20形の試作を経て、1966年(昭和41年)にこれらを解消したDE10形が、さらにこれを基に入換用途に特化したDE11形が開発されたことから、1967年(昭和42年)をもって製造が中止された。
 なお、運用に際して上記の欠点が問題とならない私鉄や臨海鉄道向けには、その後も同類機が継続的に製造された(後述)。

2 構造
 外観はDD11形およびDD12形と同様に、2台のエンジンの間に運転室を設けた凸形のセンターキャブ形状である。ディーゼルエンジンは、1937年(昭和12年)に試作されたキハ43000形電気式気動車用 DMF31H(横型 = 水平シリンダー、直列6気筒、排気量31リットル、渦流室式。連続定格出力240ps/1,300rpm)をベースに、国鉄・新潟鐵工所・振興造機・ダイハツ工業(現・ダイハツディーゼル)で共同開発したDMF31S形(縦型 = 直立シリンダー、直列6気筒、排気量31リットル、予燃焼式、連続定格出力370ps/1,300rpm)を2基搭載する。変速機は液体式で、振興造機が開発した変速2段、直結1段のリスホルム・スミス式シンコー DS1.2/1.35 を2基搭載しており、DD11形のTC2、DF115の変速1段、直結1段よりも伝達効率が高められている。両端のボンネットには、機関とそれに装備された液体変速機が搭載されており、動力の伝達は、両端のボンネットに搭載された2つの機関からの出力軸を、一旦運転席床下に設置された逆転機に集められ、前後の台車に推進軸で動力を振り分ける方式を採用しているが、片側のエンジンだけを使用して運転することも可能である。
 110号機までは前照灯が各エンドに1個ずつ設置され、両ボンネット前面のラジエーター用ルーバーは、冬季のオーバークール対策からシャッター機能付きとされ、エンジンも連続定格出力 370ps/1,300rpm の DMF31S 形であったが、111号からは、排気過給機(ターボチャージャー)が装備され、連続定格出力が500PS/1,300rpmに増強されたDMF31SB 形エンジンとなり、従来クランク軸によるベルト駆動であった冷却ファンは、静油圧駆動に変更となり、ボンネット上面に設置された。前面は通風口が廃止され、前照灯がシールドビーム2個となり、外観が一変した。

3 形態区分
 1958年から1967年まで基本番台264両、300番台83両、500番台18両、600番台51両の計416両が汽車製造・日本車輌製造・新三菱重工業・三菱重工業・川崎重工業・日立製作所[1]で製造されたが、後述の912形への改造のため、全416両が同時に存在したことはない。1961年(昭和37年)製造の111号機からは大規模な仕様変更がなされ、外観・エンジンが一新されている。

3.1 基本番台
 基本番台(0番台)は264両製造されたが、製造時期により構造・外観に差異がある。

3.1.1 1 - 84
 1958年から製造された初期型。外観的にはDD11形2次車を発展拡大したようなスタイルだが、白熱灯1灯の前照灯はボンネットに半埋め込みとなり、排気量拡大による煙突の設置、サイドロッド式駆動台車を廃し、台車内部でシャフトとギアにより2軸駆動するつりあい梁式DT105台車を採用するなど、各部の仕様に新しい試みがなされた。後年、41号機がDD14形との重連運転用に「半重連」方式の総括制御機に改造された。また、13両が912形に改造された。

3.1.2 85 - 110
 台車が新設計のウイングばね式DT113に変更された。元空気溜めが運転席下から台車側方に移設され、燃料タンク容量が1,000リットルから2,000リットルに拡大された。

3.1.3 111
 1961年に製造された試作的要素をもった車両。エンジンが出力増強形のDMF31SB形 (500ps/1,500rpm) となり、機関車全体の出力は従来の740psから1,000psに強化された。
 車体の形状も変更され、機関出力増加に伴う発熱量の増大に対応するため、ボンネット前端側面にラジエーターを移設、同時にラジエーター用送風ファンがボンネット上に設置された。前照灯も従来の白熱灯1灯からシールドビーム2灯になったため、外観的には別形式のような変化がある。
 この111号機は試験的に運転席が2組向かい合わせになっていて、安全確認などに都合のいい側を選んで運転が可能だった。制御系統としては、トランジスタを使用したエレクトロニクス方式を採用し、主幹制御器やブレーキ弁の代わりにハンドルの付いた新方式の制御台が2組設置された。またノッチ扱いに自動進段式が導入され、逆転機がボタン操作式になった他、騒音低減のための排気消音器、各部に自動で潤滑油を補給する自動給油装置を備え、空気ブレーキ装置にも新しい技術が採用された。
 しかし、機関士が運転中に機関助士が誤って機器を操作した場合、機関士の操作が無効になる場合があり危険と見なされたこと、制御ハンドルと機関車用ブレーキハンドル、列車用ブレーキハンドルの3本が全く同じ形でわかりにくいこと、従来の機関車とは逆にブレーキハンドルを左に回すとブレーキがかかる仕組みが乗務員の戸惑いを生むなど、現場からは不評だった。特にブレーキハンドルの操作方法がこうなった理由として「人間の身体は緊急の場合に反射的に収縮するので、人間工学上理にかなった設計」となっていたが、説明された乗務員が「機関士は非常の場合は何をおいても非常ブレーキをかける。お猿さんじゃあるまいし……」と憤ったというエピソードがある。
 新製後は品川機関区に配置されたが、1973年に量産機と同等にする改造が行われて苗穂機関区に転属し、1977年に912形に再改造された。
 これら同機での試作要素はのちのDD20形・DE10形の設計に活かされている。

3.1.4 112 - 264
 111号機から試作的要素を取り除き、外観の変更や機関出力の増強はそのまま採用して新たな一般型として1961年から1965年(昭和40年)にかけて製造された。111号機では運転台が2組設置されていたが、本グループ以降は再び1組に戻っている。142・143号機はDD14形との重連に使用すべく、「半重連」方式の重連総括制御仕様で落成している。1963年度製造分 (171 - ) 以降は、塗色が従来のぶどう色2号と黄1号の帯から、上部ねずみ色1号、下部朱色4号、その境目に白帯を配した新しいディーゼル機関車塗色に変更になった[注 2]。2両は912形に改造された。

3.2 300番台
 1966年(昭和41年)から翌年にかけて83両製造されたもので、車軸に取り付けてある減速機の曲り歯傘歯車(ハイポイドギア)を破損防止のため従来品からDD51用に変更、組み合わせる斜歯(はすば)歯車も911形のものに変更した。そのため歯数比(減速比)も0番台とは異なるもの[注 3]となった。台車も改良が加えられ、形式がDT113形からDT113E形になった。これらの改良により、従来機とは互換性がなくなったことから既存機と区分するため300番台とされている。

3.3 500番台
 基本番台の 112 - 264 のグループをベースに重連総括制御仕様としたもので、300番台よりも早く1965年から18両が製造された。制御機器が重連総括制御対応に変更されたほか、車端部に制御回路引き通し用ジャンパ栓受、釣合管等の増設が行われた程度で外観的に基本番台(112号機以降)と大きな変化はない。

3.4 600番台
 300番台の重連総括制御対応版である。台車には300番台と同様の変更が加えられて台車形式がDT113形からDT113E形に変更になったため、新たに600番台に区分されたもの。他に変更はない。
 1966年から翌年にかけて51両が製造された。

4 運用
 製造当初はヤードでの入換や小運転に用いられたが、DE10形が登場してからは専ら入換用あるいは貨物支線用となった。ごく一部に旅客列車の牽引を行った事例(水郡線・清水港線・福知山線(尼崎港支線)・和田岬線)や重連で本線貨物列車を牽引した事例(羽越本線)も存在する。なお、水郡線では冬季の暖房用に暖房車も配置されていた。
 国鉄末期、貨物列車の減少と赤字増大による貨物輸送システムの改革により、ヤードや貨物支線が廃止されたことで余剰となったため1979年(昭和54年)以降急速に廃車が進み、JR各社には912形に改造されたものを除き1両も継承されることなく、国鉄最後の日である1987年(昭和62年)3月31日までに全車廃車となった。但し全国各地の私鉄・臨海鉄道では譲渡車や同一設計車が国鉄消滅から30年以上経つ現在も現役で活躍しており、21世紀に入ってからも本形式をベースとした新車が登場している。
 その用途から、地味な存在ではあったが、後にDD51形の開発において、本形式で得られた経験はすべて生かされており、国鉄が液体式ディーゼル機関車で成功を収めることができた事実から、日本の鉄道車両史におけるマイルストーンとして記憶されている。

5 保存機
6 派生形式
・DD14形-本形式の駆動系を踏襲した除雪用機関車(ロータリー車)で1960年 - 1979年に43両が製造された。
・DD15形-本形式の内外仕様を基本に、専用の諸設備を付加した設計の除雪用機関車(ラッセル車)で1962年 - 1966年に50両が製造された。
912形
東海道新幹線における工事用車両の牽引、および開業後の補修車両牽引用にDD13形を標準軌化改造した車両。開業前の4桁形式番号[注 4]では2000形と称した。1963年 - 1977年にかけて、種車の基本番台を改造した基本番台16両と、1975年に600番台を改造した重連総括制御対応の60番台4両がある。60番台4両は山陽新幹線新関門トンネル内での救援用として改造されたもので、自動連結器に加え新幹線電車と同じ密着連結器も装備している。同連結器は車両端部に設けられたU字型のフレームに取り付けられており、使用する際はこのフレームを下げて使用する。工事用車両の牽引時はフレームを上げて、並型連結器を使用する。2011年度に全車廃車され、形式消滅した。

廃車となった後に先頭のボンネット周辺部分のカットモデル(912-64)が交通科学博物館に搬入され、ブルーシートが掛けられて保管されていた。その後、2016年4月29日にオープンした京都鉄道博物館で展示されている。
番号の新旧対照は次の通り。
DD13 42・48・68・69・54・51・76・56・57・73・44・45・47・111・132・183→912-1 - 16
DD13 642・643・630・629→912-61 - 64

7 譲渡車・同系車
 中小規模の地方鉄道・臨海鉄道などにおいては、本形式の汎用性の高さと仕様・性能の適合から、同系の自社発注車両や国鉄からの譲渡車が多数導入された。国鉄では既に淘汰された形式であるが、2020年現在においても多数の車両が構内の入換作業や小運転などの用途に重用されている。
本形式および自社発注による同系車両の使用歴を有する主な事業体を以下に示す。

太平洋石炭販売輸送
雄別鉄道→釧路開発埠頭
三井芦別鉄道
旭川通運
夕張鉄道
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線
羽幌炭礦鉄道
苫小牧港開発株式会社線
八戸臨海鉄道
岩手開発鉄道
秋田臨海鉄道
同和鉱業小坂鉄道→小坂製錬
DD130形 - DD131 〜 133
小坂鉄道DD130形(DD133号)
小坂鉄道の自社発注機。花岡線の輸送力増強を目的として1967年 - 1968年(昭和43年)に汽車製造で製造。比較的長距離を運転する必要から、運転台を前後に各1席独立して設けており、妻面に向かって右側の運転台側前面窓が拡大されたことで右側乗務員扉が省略されており、入換での使用を重視した国鉄向けとは異なる。途中駅でのタブレット通過受け渡しがあったことから、運転台側面にはタブレット防護枠が設置されている。塗色は赤に白帯。総括制御が可能なため三重連で貨物列車牽引にあたることもあった。
DD13形 - DD13-556
1978年、同和鉱業片上鉄道から移籍。DD130形とは異なり総括制御装置を装備していないことから通常は予備機の扱いであり、重連で使用する際は協調運転での取扱いとなっていた。塗色は片上鉄道時代のままで変更されなかった。

仙台臨海鉄道
福島臨海鉄道
関東鉄道→鹿島鉄道

DD902
1968年日本車輌製造製。関東鉄道が発注した国鉄DD13形ディーゼル機関車の同型車。関東鉄道が4路線で構成されていた1965年6月1日 - 1979年3月31日における、事実上でも名義上でも唯一の新造車である。DD902となったのは同出力機のDD901が存在し、その続番の形をとったため。DD13形類型機であるが、台車が軸バネ式のNL8Bで、運転台下の燃料タンク・空気溜に相違点が見られる。当初から鉾田線(後の鹿島鉄道)に配属され、塗色は濃い茶色に白帯であったが、2005年11月に朱色に変更され、同年の鉄道の日イベントでは目玉車両となった。側面の社章は関東鉄道時代のままであった。2007年(平成19年)2月、鹿島鉄道線の廃線を待たずに日本製鋼所室蘭製作所に売却された。
その後、1986年と1988年に鹿島鉄道ではDD13形を2両 (171・367) 譲受したが、こちらは塗装をDD902に揃えた他は、形式・車両番号を変更することなく使用していた。

鹿島臨海鉄道
真岡鐵道
京葉臨海鉄道
神奈川臨海鉄道
新潟臨海鉄道
神岡鉄道
名古屋臨海鉄道(ND552形)
江若鉄道
DD1351
DD13形の基本設計に参加した汽車製造は、同形式量産に先立つ1957年(昭和32年)12月に江若鉄道へDD1351と呼称する車両を納入した。これは国鉄DD13形の準同級機で、事実上その試作車と位置づけられる。
国鉄籍の基本番台車とほぼ同様の性能であったが、排気管やボンネット前面のルーバーがなく、車体各部の細部寸法や台車心皿間距離が異なり、前照灯はボンネット前面に突き出した台上に独立した灯具が乗せられ、ボンネット側面にほぼ全長に渡る手すりが設置されるなどの外観上の相違の他、前後のDMF31Sエンジンの出力をそれぞれシンコーDS1.2/1.35液体式変速機によって直下の台車に伝達する、B型機関車2台を背中合わせにしたような単純な駆動システムを備えるという、機構上の大きな相違があった。
これにより、機関1基停止で370ps級B型機関車相当として使用可能とされたが、本線運用時には通常、オハ27形2763 - 2765やオハ1957 - 1960といった自重30 - 35t級の自社所有客車や国鉄オハ35系客車などの借り入れ客車、あるいは国鉄線直通貨車等で構成される長大編成の旅客・混合・貨物列車牽引に充てられており、実際には常時機関2基使用で運用されたという。路線廃止まで、夏の水泳客輸送を中心とする多客時に大きな威力を発揮した。
DD1352
1962年に汽車製造に発注された増備車。こちらは同時期に量産されていた国鉄籍の112 - 264と同一仕様で製造されている。

近江鉄道
別府鉄道
DD1351
江若鉄道の廃止時に同社の同番号機を譲受したもの。白帯を省略し、水色一色の塗装で全線廃止まで使用された。

片上鉄道
DD13 551 - 553・555・556
片上鉄道の自社発注機である。1960年-1968年に5両が日本車輌製造で製造された。本線使用を目的とした点では同和鉱業小坂鉄道DD130形と同様であるが、ボンネットの形状やラジエターグリルのサイズなど相違点も見られる。機関はDMF31SBI (600ps) を搭載し、台車は軸バネ式のNL8Bを装着する。塗色は国鉄ディーゼル機関車標準色に準拠。
線内の客車列車・貨物列車の牽引に使用され、1両 (556) は1978年に小坂鉄道に移籍、2両 (553・555) は1988年に廃車された。1991年の鉄道廃止まで使用された残存2両が以下のとおり保存されている。
DD13 551 - 柵原ふれあい鉱山公園(岡山県久米郡美咲町)※ 動態保存車
DD13 552 - 旧片上鉄道片上駅跡地(岡山県備前市西片上)

岡山臨港鉄道

105→DD1351
国鉄籍の85 - 110と同一仕様で汽車製造にて製造された。江若鉄道廃止時に同級のDD1352を譲受した際に、DD1351と改番され、同社線廃止まで主力機として本線貨物牽引に重用された。
DD1352
江若鉄道DD1352を譲受したもの。DD1351と共に廃止まで重用された。路線廃止後は機関等の部品取り用として近隣の水島臨海鉄道へ譲渡され、長期間に渡って保管されていた。

8 脚注
8.1 注釈
[注 1]^ 大規模ヤードでのハンプ作業のような低速・長時間運転は変速機の性能・効率が良くない上に変速機油の油温上昇による変質を招きやすかった。さらに従来の入換用蒸気機関車は炭水車の台車を含めて6 - 8軸で制動をかけられたが、本形式は4軸のため、重量のある列車の入換では作業時間が延び、不向きとされた。
[注 2]^ 初期には試験塗色としてオレンジ色に白帯となった8号機が存在した。
[注 3]^ 0番台:3.14→300番台:3.196
8.2 出典
[1]^ 沖田祐作 編『機関車表 国鉄編II 電気機関車・内燃機関車の部』(ネコ・パブリッシング RailMagazine 2008年10月号(No.301)付録CD-ROM)
最終更新 2021年1月15日 (金) 16:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 740ps版(1~110)が一次型、1000ps版(111~)が二次型と言うと思うが。当地では二次型しか見たことがないが、新幹線912形に一次型の一つライト(白熱灯1灯の前照灯)の存在で初めて知り、740ps版があることに驚いた。つい最近まで異形のDD14形除雪用機関車(ロータリー車)が現役であったことから、1000ps版二次型の登場で長生き出来たりではないか。
 それだけ、特に都市部での貨車操車場入換機関車の無煙化が急務だった訳だ。ただ、『ワム80000』有蓋貨車など"最高運転速度75km/h"の単車貨物車をコンテナ化して、"フォークリフト"作業に転換した方が、鉄道貨物全体の一歩進めたCO2削減に成るのは、後年から見たエゴか・・。一次型がもっと少なく製造できたと言いたいのだが。
Posted at 2021/02/23 19:03:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | ニュース

プロフィール

「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

      12
345 6789
1011 1213141516
171819 2021 2223
242526 27282930
31      

リンク・クリップ

新明和工業・特装車事業部 
カテゴリ:鉄道・バス
2016/09/29 08:29:33
 
マイナビ ニュース 
カテゴリ:マスコミ
2013/02/20 15:01:45
 
都道府県タクシー協会 
カテゴリ:鉄道・バス
2011/01/06 11:50:45
 

愛車一覧

ダイハツ ハイゼットカーゴ ダイハツ ハイゼットカーゴ
"MT車"、9.8万キロ走行、である。 前車ハイエースを年末に買取りしてもらう。 ほぼ、 ...
トヨタ ルーミー 「タンク」顔の"ルーミー" (トヨタ ルーミー)
[写真・画像] 6/25(日)10:37 青森トヨタ・ネッツトヨタ青森 TwiN pla ...
スバル サンバー スバル サンバー
母の嫁入り道具、父は車持ってなかった。後に事故廃車。
トヨタ マークIIバン トヨタ マークIIバン
事故廃車したため、購入。コロナバンがなかった・・。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation