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ディーゼルオート店のブログ一覧

2016年11月02日 イイね!

「新型トラックの開発」

「新型トラックの開発」 トヨタ自動車75年史  (2012年)
> 文章で読む75年の歩み
> 第2部 『自動車事業の基盤確立』
> 第1章 量産体制の確立と相次ぐ新型車の開発
> 第3節 新型車の開発・販売―フルライン体制の推進
> 第5項 新型トラックの開発

[写真 上左] トヨエース(PK20型、1959年)
[写真 上右] FA100型(1959年)
[写真 中左] ハイエース(PH10型、1967年)
[写真 中右] ハイラックス(RN10型、1968年)
[写真 下] ダイナ(RU10型、1969年)

1960年代に入ると、ユーザーの要求も次第に多様化し、さらに高度化した。自動車の総合メーカーとして、トヨタはトラックについても大型から小型まで数多くの車両を開発し、世に送り出した。

1959(昭和34)年3月、トヨエースのモデルチェンジを実施した。新型トヨエース(SK20型)は従来型の面影を残しながらも、斬新なスタイルを採用した。

シャシー関係ではフロント・スプリングの枚数を減らし、簡易型のショック・アブソーバーを採用するなど、乗り心地の向上に努めた。また、かねてから開発を進めていたP型エンジンを同年10月から搭載し、トヨエースはPK20型となった。

1959年6月、トヨペット・トラックは、新しい愛称としてボンネット・タイプをスタウト、キャブオーバー・タイプをダイナに決定した。1960年7月にスタウトをモデルチェンジし(RK45型)、1963年3月にダイナをモデルチェンジし(RK170型)、両車とも足まわりの強化と居住性の向上を図った。また、1963年9月にはスタウトのホイール・ベースを縮めたライトスタウト(RK40型)も発売した。

1964年9月、トヨタは大型トラックのモデルチェンジを実施した。新型トラック(FA100型、DA100型)は、外観、内装ともに高速時代にふさわしいダイナミックなものとなり、性能も一段と向上した。

流通形態の多様化、市街地における交通事情の悪化もあって、その後、トラックの需要は小型で機動性に優れたものに移っていった。また、自動車市場における乗用車のウェートが高まるにつれ、輸送を主体としたトラックにも乗用車ムードを持った商用車が望まれるようになった。

1967年10月、キャブオーバー・タイプの商用車ハイエースを発売した。ハイエース(PH10型)は乗用車と同等の居住性や操縦性を持ち、デリバリーバンを基本車型に、1トン積みトラック、9人乗りワゴン、コミュータと名付けた12人、15人乗りバスなど、使用目的に合わせた豊富なバリエーションを提供した。

同年11月に500㎏積み小型トラックのミニエース(UP100型、キャブオーバー・タイプ)を、1970年11月にライトエース(KM10型、キャブオーバー・タイプ)を新たに発売した。

ライトエースは、ハイエースとミニエースの中間車種として市場の要求に合致するとともに、安定した品質によって販売台数は順調に増加し、トヨタ車体とダイハツ工業に委託した車両組付も順調に進んだ。

1968年3月、トヨタは新たにハイラックス(RN10型)を発売した。ハイラックスは1トン積みボンネット・タイプのトラックを強化するため、ライトスタウトとブリスカを統合し、車両組立を日野自動車工業に委託した。2R型エンジン(1,500cc)を搭載し、斬新なスタイル、小型トラックとして初のカーブド・ガラスの採用、居住性を考慮した広い室内スペースなど、乗用車イメージを強く打ち出したトラックとなった。輸出にも力を入れ、1969年には米国向け3R型エンジン(1,900cc)を搭載し、その優れた性能と品質、手ごろなサイズと価格で輸出台数は順調に増加していった。

1969年2月、2トン積みキャブオーバー・トラックのダイナのモデルチェンジを実施した。新型ダイナ(RU10型、JU10型)はデザインを一新し、高速走行時代に備えてブレーキ性能を強化し、フロントタイヤを前方に移動させて乗降性と居住性を改良した。

また、ダイナ・シリーズの一環として好評を博してきたトヨタ・ライトバスを改良し、トヨタ・コースター(RU18型、JU18型)として発売した。さらに同年6月、H型ディーゼルエンジンを搭載した3トン積みダイナを発売した。

1969年9月には、新4トン積みのマッシーダイナ(QC10型)を発売した。マッシーダイナの設計は、エンジン、クラッチ、トランスミッションを日野自動車工業、キャビン、リヤデッキをトヨタ車体、フレームをトヨタが分担した。


≪くだめぎ?≫
 「FA100型大型トラック」は 『70系ランドクルーザー(ピックアップ)』の8トン車版に見えなくもない。「日野自動車との提携」により、

 1.国内の需要多様化に対応して車種系列を充実し、フルライン体制を確立する。

と唱ったが「トヨタディーゼル店」「日野店」、両店の充実に繋がったとは思えない。消防車だけでなく、除雪車など4WD大型トラックとして「トヨタL&F店」に特装車として投入もあったかもしれない、と思えるのは私だけか。

 2.資本自由化に対処するため、200万台体制を当面の目標とした量産体制の確立と、それによるコストダウンを目指す。"

"高度経済成長"「大衆車ブーム」200万台体制にトヨタが注力・専心したのだろう。それでも、日野がボンネット大型トラックをトヨタから引き続いて開発し、「トヨタディーゼル店」「日野店」を管轄する余裕が無かったのか・・。
Posted at 2016/11/02 08:05:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタ自動車 75年史 (2012年) | クルマ
2016年11月02日 イイね!

「パブリカ店(のちのカローラ店)の設立」

「パブリカ店(のちのカローラ店)の設立」 トヨタ自動車75年史  (2012年)
> 文章で読む75年の歩み
> 第2部 『自動車事業の基盤確立』
> 第1章 量産体制の確立と相次ぐ新型車の開発
> 第5節 国内販売体制の拡充と海外市場の開拓
> 第1項 パブリカ店(のちのカローラ店)の設立

[写真2] パブリカ販売店の人々(パブリカ発表会、1961年)

トヨタは初代パブリカの発売を前に、その量販体制を確立するため、既存の販売店チャネルとは別に、パブリカ専門の販売チャネルを新設する方針を決め、1960(昭和35)年秋に準備に入った。

パブリカは本格的な大衆車であり、大量に販売していくためには多くの地域にくまなく販売店を設置する必要があった。そのためには多数の小規模販売店を自由に競争させる米国式のディーラーシステムが効果的であり、消費者にとっても好ましいと考え、パブリカ店の設立と運営方針を次のように決定した。

1.地元の新資本と人材を集める。
2.販売店の数はできるだけ多く、規模は小さくてもよい。
3.大府県には複数の販売店をおき、同一販売地域(同一府県内)で同一車種を複数の販売店が販売する本格的な複数販売店制(オープンテリトリー制)を採用する。
4.卸売りはCOD(キャッシュ・オン・デリバリー)方式[1] とする。

大都市では大衆車販売に関心を示す事業家も多く、パブリカ店の設置は比較的順調に進んだ。しかし、地方の県では販売店設置は必ずしも思うようには進まなかった。結局、パブリカ発売の1961年6月末までに、パブリカ販売店として東京7店、大阪5店、愛知3店、神奈川2店、京都、神戸、静岡、広島、北九州各1店、計22店の設立を完了した。また、ディーゼル店9店でもパブリカを取り扱うこととした。1961年6月、これら各店で一斉に発売した。パブリカ発売1年後の1962年6月までに、主な地区にパブリカ販売店の設置を終え、その店数は52店に達した。

しかし、パブリカの売れ行きは期待に反して伸び悩み、発売当初に定めた月販3,000台、近い将来に月販1万台という目標には届かなかった。発売の翌年に入っても売れ行きは伸びず、4月と5月にかろうじて2,000台を超えたのみで、同年の月平均販売台数は1,600台程度で低迷した。その原因は、理想的な大衆車販売網づくりを追求したが、理想を追うあまり市場の現実とのギャップに気づかなかったことにあった。

その後、パブリカ店設立・運営の当初方針を変更していく。1962年2月、東京に直営のパブリカ朝日株式会社(現・トヨタ東京カローラ株式会社)を設立した。小規模販売店方式の変更を意味する直営大規模販売店の設置であった。また、同年3月には、COD(キャッシュ・オン・デリバリー)方式の一部緩和を行い、その後もCODを漸次縮小し、全面的に卸手形方式に切り替えていった。

結果的に言えば、同一府県内複数販売店制(オープンテリトリー制)は時期尚早であった。訪問販売を中心とする当時の日本では、オープンテリトリー制で販売に力を入れると、市場での競合を激化させ販売店経営に悪影響を及ぼしたのである。

その後、初代カローラを販売していく準備を進めた。発売時までに大衆車販売網を強化するため、1966年4月から10月までの約半年の間にパブリカ店を18社増設し、パブリカ店は計86店となった。カローラは同年11月5日、全国のパブリカ店86社、ディーゼル店2社から一斉に発売された。各販売店で行われた発表会の来場者は実に130万人を数え、マイカー時代の本格的な幕開けを感じさせた。

こうして、パブリカ店で販売されたカローラは、大衆車市場におけるベストセラー・カーとなったのである。パブリカ店は1969年、カローラ店に名称変更した。

注.[1] 代金の支払いのあった分についてのみ、商品(車両)を出荷する方式。


≪くだめぎ?≫
 "パブリカ"は結果トヨタが作った「軽自動車」である、軽がパブリカに追い着いたと言うべきか。後継の「サイオン・パブリカ店対決」カローラ店・ネッツ店に"ピクシス"軽自動車を真のパブリカ後継車としての投入は当然である。
 更に「"パブリカ"セダン」と見ると

「"パブリカ"セダン」(1961年6月~1978年2月)
→「ターセル セダン・コルサ セダン・ソルーナ」(1978年8月~2002年10月)
→「プラッツ・エコー・エティオス セダン」(1999年8月~)
→「初代プリウス・ヴィオス・ベルタ・ヤリスセダン・カローラアクシオ」(1997年12月~)

ガソリン車・ハイブリッド車「ヴィオス・カローラアクシオ」、ディーゼル車「エティオス セダン」と"エントリーセダン"。現行型カローラが「 フィールダー」も含めベルタのフルモデルチェンジ版であり、元祖"パブリカ店"として邁進する所存であります、となるのだろう。
Posted at 2016/11/02 07:03:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | トヨタ自動車 75年史 (2012年) | クルマ

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