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2021年01月31日 イイね!

幻の蒸機『C63形』

幻の蒸機『C63形』国鉄C63形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国鉄C63形蒸気機関車(こくてつC63がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が計画・設計したテンダー式蒸気機関車の一形式である。国鉄最後の制式蒸気機関車として計画されながら、1956年(昭和31年)に設計図が完成したのみで、実際には製造が行われなかった。このため未成車両となり、幻の(蒸気)機関車とも呼ばれている。

[写真・画像]
京都鉄道博物館に展示されているC63 1のナンバープレート

1 計画の背景
 C63形が計画されたのは1955年(昭和30年)頃のことであった。当時は財政難などで電化も遅々として進まず、また気動車やディーゼル機関車の技術も未成熟であり、無煙化を着実に進めていける状況にはなかった。その一方で現有機関車には老朽化が進んでいるものもあり、輸送需要増加と合わせて機関車不足を招くことになるため、「手戻り」ではあるものの蒸気機関車の新製はやむを得ないとの判断が下された。

2 構造
 地方ローカル線での客貨両用目的での使用を前提とし、主として老朽化が特に深刻化していたC51形を置き換える目的で設計された。構造はC58形をベースにしているが、できるだけC51形に近い性能を得ることを目標とした。
 国鉄最後の新製蒸気機関車となるため、以下のような新設計を取り入れている。
・ボイラーを全溶接構造として圧力を従来の16kg/cm2から国鉄蒸気機関車最大の18kg/cm2(≒1.765MPa)に昇圧する。
・1軸従台車の台車枠をばね上装荷として乗り心地向上を図る[1]。
・下方の一部を切り取った形状のデフレクターを採用。従来の門鉄デフなどのようにランボードからアングル材のステーを突き出して支持する方式ではなく、ドイツで採用されたヴィッテ式と同様、煙室から支持部材を水平に突き出して固定する方式。
・テンダ台車へのコイルバネやオイルダンパを新規採用。
・軸受は動輪軸・先従輪軸も含めすべてローラーベアリングとする。ただし一部は戦後製のC59形・C61形・C62形と同様、動輪軸・先輪軸をプレーンベアリング、従輪軸と炭水車車輪軸をローラーベアリングとし、比較する。

 軸配置はベースとなったC58形と同じく1C1(ホワイト式:2-6-2、アメリカ式:プレーリー)となっていた。

3 製造中止
 こうして1956年(昭和31年)には設計図が完成したが、製造正式決定を前に、無煙化の進捗状況と機関車の需給が再検討され、現段階では蒸気機関車の製造が絶対必要とはいえないとの結論に達し、当分の間は製造を見送り、情勢を見守ることになった。そしてその後すぐ交流電化及びディーゼル機関車・気動車の技術が確立し、急速に電化・ディーゼル化が進むこととなった。[2]。
 さらに、国鉄は1959年(昭和34年)に「動力近代化計画」として、1960年(昭和35年)の会計年度より蒸気機関車を15年で全廃する計画を立て、実行に踏み切った(完了は予定通り1975年度の年度末となる1976年3月)。これにより、蒸気機関車が不足する懸念は全くなくなったばかりでなく、国鉄が蒸気機関車廃止の方針に転換したため、ついにC63形の製造決定が下されることはなかった。
 このC63形については、同じく製造中止となったEH50形電気機関車と同様に、製造中止後も数々の情報や資料が紹介されており、日の目を見ることのなかった悲運の形式として、鉄道ファンには広く知られている。もっとも、基本となったC58形には、各動軸が短軸距で台枠中央に集中して配されていて前後端のオーバーハングが大きく、高速走行時に著しいピッチングとヨーイングが発生する傾向があったことが知られていた。このため、ボイラーの燃焼効率改善を目的として火床面積の拡大を図った本形式の場合、C58形よりもオーバーハングが重く大きくなることからこの症状がさらに悪化し、実際に製造しても当初目標とされたC51形並の走行性能が得られなかった可能性が一部で指摘されている。
 これについては、高速走行が問題となった紀勢本線でも動揺が発生しない時期があったこと、他の路線では80km/h以上の速度でも軽快に走行していたことから連棒の短かさと保線軌道の悪さが原因であり[3]、製造されればC58形の素晴らしさを証明する幻の機関車であったと評されている。[4]
 本形式の模型を梅小路蒸気機関車館に保存することとなり、正式図面を基に鷹取工場にてC63 1として製作された[2]。その後郡山工場(現・郡山総合車両センター)では、若手職員への蒸気機関車関連技術の継承を主な目的に、設計図を元に1/5スケールのライブスチームが製作され、動態のミニSLとしてイベント時などに使用されている。
 なお、郡山駅1階には模型が展示されている他、京都鉄道博物館の展示室においても模型が展示され、朱色に塗られたC63 1のナンバープレートも同館に存在している。また、日本の鉄道模型メーカーであるマイクロエースがこのC63形をNゲージで発売している。また、一部の鉄道ファンが、イギリスのぺパコーンのA1の新造に触発されてC63の新造を目指して活動している。

4 脚注
[1]^ C62等と同様のデルタ式従台車であり、日本製で一軸式のものは満鉄機関車等に見られる。
[2]^『鷹取工場回想(創業100年の記録)』p.79
[3]^ 栄光の日本の蒸気機関車
[4]^ 国鉄機関車事典―蒸気・電気・ディーゼル機関車66形式

5 参考文献
・JR西日本神戸支社鷹取工場100年史編集委員会『鷹取工場回想(創業100年の記録)』JR西日本鷹取工場、2000年1月。
・交友社『鉄道ファン』1962年10月号(通巻第16号) 久保田博「幻の近代化蒸気機関車“C63”」
・JTBパブリッシング『幻の国鉄車両』 2007年発行

6 C63形蒸気機関車が登場する作品
・霞流一『スティームタイガーの死走』(角川文庫、2004年) ISBN 4-04-372902-2
最終更新 2021年1月3日 (日) 14:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)


≪くだめぎ?≫
 『国鉄C58形蒸気機関車』9600形が戦時体制により軍から大量供出(251両)により、代替製造された。線路が弱い地方ローカル線に始めから回すモノだった。また、戦後でも如何に地方ローカル線でも輸送力が求められていた証拠でもある。8620形・9600形以後の蒸機でも不調機やローカル線に合わないモノもあり、代替製造の意味もあろう。試験の結果、C58形のリピート生産も有っても良かったかも。
 いずれにしても、蒸機の国産新製は
1914年(大正3年)~1948年(昭和23年)の34年間だった。
Posted at 2021/01/31 20:44:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蒸気機関車史 | ニュース
2021年01月31日 イイね!

『国鉄8620形蒸気機関車』

『国鉄8620形蒸気機関車』国鉄8620形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

8620形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が導入した、旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車である。

[写真・画像]
(上左)花輪線で88620号機ほか8620形三重連が牽引する列車、1971年6月
(上右)国鉄C11形蒸気機関車のねじ式連結器。1934-1940年にかけ孤立してねじ式連結器を使用した紀勢中線用に、特に改造された事例
紀勢中線に新製配置されたC11 98 紀伊勝浦機関庫 1938年
(下)8620形の形式図、ねじ式連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体

 基本情報
運用者 鉄道院→日本国有鉄道
製造所 汽車製造、川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所
製造年 1914年 - 1929年
製造数 672両
主要諸元
軸配置 1C
軌間 1067 mm
全長 16765 mm
全高 3785 mm
機関車重量 48.83 t(運転整備)
44.54 t(空車)[注釈 1]
動輪上重量 41.46 t[注釈 2]
炭水車重量 34.50 t(運転整備)
15.50 t(空車)[注釈 3]
総重量 83.33 t(運転整備)
60.04 t(空車)[注釈 4]
固定軸距 2286 mm
先輪径 940 mm
動輪径 1600 mm
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 470 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 13.0 kg/cm2[注釈 5]
大煙管
(直径×長さ×数) 127 mm×3962 mm×18本[2]
小煙管
(直径×長さ×数) 45 mm×3962 mm×91本[2]
火格子面積 1.63 m2
全伝熱面積 110.9 m2[注釈 6]
過熱伝熱面積 28.8 m2[注釈 7]
全蒸発伝熱面積 82.1 m2[注釈 9]
煙管蒸発伝熱面積 72.0 m2[注釈 10]
火室蒸発伝熱面積 10.1 m2
燃料搭載量 6.00 t
水タンク容量 13.0 m3[注釈 8]
制動装置 真空ブレーキ→自動空気ブレーキ
最高速度 90 km/h[要出典][3]
出力 558 kW[要出典]
シリンダ引張力 89.2 kN[4]
粘着引張力 101.6 kN[要出典]
備考 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.226の諸元表の自動連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体のデータに拠り[5]、必要に応じて『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の同じく自動連結器付、455 ft3形石炭6 tタイプ炭水車付の機体のデータ[2]を注記。

1 導入の経緯
 明治末期の1911-13年に急行列車牽引用の大型旅客列車用機としてイギリス・ドイツ・アメリカの各国から、車軸配置2Cの8700形・8800形・8850形および、2C1の8900形が輸入され、1912年6月にはこれらを使用して新橋 - 下関間に特別急行[注釈 11]が運行されるようになった。一方、当時の運輸状況ではこれらより若干小型で急行列車も牽引可能な旅客用機の需用が多かったため[6]、九州・関西・東北・奥羽の各線でも使用できる[7]機体として、8800形などを参考に日本の蒸気機関車国産化技術の確立を目的として本項で記述する8620形が導入された。汎用性を重視して、将来輸送量が増加した際には地方線区に転用することを考慮して設計された。
 ボイラーは、ベースとなった8800形などでは80.5 km/h(50 mph)での連続走行に対応した連続蒸発量を確保できる大型のものを搭載していたが、本形式の運行が想定された二級幹線の急行列車は連続走行速度64.4 - 72.4 km/h(40 - 45 mph)であり、8800形などの約8割程度の連続蒸気発生量のボイラー容量で十分とされたため、8800形などより二回り小型のボイラーを搭載することとした[8]。
 一方、走行装置は動輪直径を8800形と同じ1600 mm、シリンダー直径も同形式と同じ470 mmとして急行旅客用に使用できるようにしている[6]。また、十分な粘着重量を確保する[6]とともに、線形が悪く勾配も多い二級幹線での運用に対応するため[8]動軸を3軸とした一方で、当時の旅客用機は先台車を軌道に対する追従性を考慮して2軸ボギー式とすることが通例となっていた[7]ため、ボイラーの小型化による重量減への対応として本形式では車軸配置2Cの8800形から先輪を1軸少なくして車軸配置を1Cとしながら、1軸の先輪と第1動輪とを特殊な台車に装備して2軸先台車と同様の作用をさせていることが特徴となっている[6]。
 大正期における機関車の設計は、主要寸法を定める概要設計は鉄道院・鉄道省で行われ、詳細設計は鉄道省で実施する場合とメーカーで実施する場合の両方があり、例えば6700形やC51形は鉄道院・鉄道省で、9580形や9600形はメーカーで詳細設計を行っていたが、本形式はD50形などとともに一部を鉄道省、一部メーカーで行う方式としており[9]、鉄道省の津田鋳雄、汽車製造会社の池村富三郎が詳細設計を担当した[7]。
 また、製造は当初1913-19年度発注分は汽車製造会社が担当しており(一方で9600形は1917年度に汽車製造会社に発注されるまでは川崎造船所のみが製造している[10])、その後1920年度発注分から日立製作所[注釈 12]と川崎造船所が、1921年度発注分から日本車輌製造が、1924年度発注分から三菱造船[注釈 13]がそれぞれ製造に参加して1925年度までに計670両、間をあけて1928年度に2両が発注されている[11]。なお、このうちの日立製作所笠戸工場と三菱造船神戸造船所は第一次世界大戦終戦に伴う造船不況を契機に新たに機関車の製造に参入したものであり、日立製作所笠戸工場は当初鉄道省からの機関車の発注を得られなかったため、8620形を自主製造して製造能力を示してその後の受注につなげており[12]、神戸造船所は三菱鉱業美唄鉄道の2-4号機の製造実績があり、空気ブレーキ装置の製造所でもあったため受注を得ることとなっている[13]。

2 概要
2.2 走行装置
 車軸配置は1C(日本国鉄式)、2-6-0(ホワイト式)もしくは通称モーガルと呼ばれる配列で、当時の旅客用機関車で一般的であった2軸ボギー式台車を本形式では先輪と第1動輪を一体化した「省式心向キ台車」に置換えて曲線通過性能を良くしており、その最小半径は80 mで、後年のローカル線用タンク式蒸気機関車であるC12形と同等である[7]。また、走行装置の基本的な寸法は8800形をベースとしており、動輪直径、動輪軸間距離、シリンダー径×行程、ピストン弁径、シリンダー中心 - ピストン弁中心間距離、左右シリンダー中心間距離が同一となっている[注釈 16][14]。また、シリンダー引張力も同一の89.1 kNであるが、ボイラーは小型化となった一方で先輪が1軸少なくなったため、動輪上重量が39.76 t(1931年形式図で41.46tに修正[1])と8800形の39.76 tを上回って[14]粘着率が4.5となり[28]、これは後継のC50形は4.3 - 4.5と同等であるが、8620および9600の代替機のC58形の3.2 - 3.3[29]や勾配線区用の4110形の4.3[30]も上回っている[注釈 17]。動輪の粘着力がシリンダー出力を大きく上回るため、「絶対に空転しない機関車」ともいわれており、空転に苦慮していた乗務員からの信頼が厚く、本来の旅客用高速機という用途から外された後は勾配のあるローカル線での仕業や、入換仕業で力を発揮した[注釈 18]。終戦直後の混乱期には老朽化と戦中の酷使が深刻化した4110形の補充として、米沢機関区から1両の8620形と9600形が試用されたが、勾配区間(33.3パーミル)では空転が多く、4110形が最も安定していた[36]。

2.3 ブレーキ装置
 ブレーキ装置は当初自動真空ブレーキ、手ブレーキを装備しており、運転室下部にブレーキ用のピストン2基を搭載し、基礎ブレーキ装置は動輪3軸に作用する片押式の踏面ブレーキとなっている。また、制輪子は制輪子吊に直接取付けられる甲種[注釈 22]のうち、甲-9号を使用する[44]。
 1919年に鉄道省は全車両に空気ブレーキを採用することを決定し、1921年から1931年上半期にかけて全車両が空気ブレーキ化されており[45]、本形式も1923年度発注の68661号機以降は空気ブレーキを装備して製造された[22]一方でそれまでの機体も順次真空ブレーキから空気ブレーキに改造されている。蒸気機関車用の空気ブレーキはアメリカのウェスティングハウス・エア・ブレーキ[注釈 23]が開発したET6を採用しており、この方式はH6自動ブレーキ弁、S6単独ブレーキ弁、6番分配弁、C6減圧弁、B6吸気弁などで構成されるもので、その特徴は以下の通りとなっている[46]。
・構造が簡単で取付および保守が容易。
・非常ブレーキが使用可能。
・ブレーキ弁に連動して元空気ダメ圧力を2段階に設定可能。
・補助機関車もしくは無火回送時においても客車・貨車と同様にブレーキが作用する。

2.4 連結器
 連結器は当初、基本的にはねじ式連結器を装備していたが、北海道においては、道内最初の鉄道である官営幌内鉄道が1形(後の鉄道院7100形)に当初より並形自動連結器を使用して以降これを標準としていたため、本形式も1917年に最初に北海道に配置された18649号機以降がこれを装備していた[19]。なお、設置高さが後の鉄道省の自動連結器より低い660 mmであった[47]。
 1919年に鉄道省は全車両のねじ式連結器を交換する方針を決定し[48]、まず、北海道内の車両の連結器高さを878 mmに変更することとして、1924年8月13-17日に一斉に工事を実施している[49]。続いて北海道以外の車両については、九州以外は1925年7月16-17 日に 、九州は7月19-20 日に一斉にねじ式連結器から自動連結器への交換を実施している[50]。本形式においてもこれにともなって連結器の交換を実施しているほか、1925年発注の78694号機以降は自動連結器を装備して製造された[22]。なお、当初は解放テコが連結器右側のみに設けられるものであったが、1930年頃より両側から解放操作が可能なものに改造されている[51]。

2.5 その他
 外観は6700形以降D50形までの明治末期から大正期にかけての鉄道院・鉄道省の国産蒸気機関車の標準的なデザインとなっており、化粧煙突、前部デッキから歩み板にかけての乙形の形状が特徴であったほか、運転室側面裾部は8620 - 8643号機[52]が8800・8850形や9600形9617形までなどと同様のS字形、8644号機以降が8700形や9600形9618号機以降と同じ乙形の形状となっている[注釈 24]。また、空気ブレーキ装置を装備した1923年発注の68661号機以降は歩み板の後半部が一段高くなって運転室側面下部の乙字形につながる形状となっており、運転室裾部を炭水車台枠上部に揃えたものとなっている[54]。

2.7 付番法
 8620形の製造順と番号の対応は、1番目が8620、2番目が8621、3番目が8622、…、80番目が8699となるが、81番目を8700とすると既にあった8700形と重複するので、81番目は万位に1をつけて18620とした。その後も同様で、下2桁を20から始め、99に達すると次は万位の数字を1繰り上げて再び下2桁を20から始め…という八十進法になっている。したがって、80番目ごとに万位の数字が繰り上がり、160番目が18699、161番目が28620、…となっており、番号と製造順は万の位の数字×80+(下二桁の数字-20)+1=製造順という関係となる。
 例えば58654であれば万の位の数字が5、下二桁が54となるので、製造順は5×80+ (54-20) +1=435両目となる。

3 製造
 鉄道省で672両を導入したほか、樺太庁鉄道向けに15両、台湾総督府鉄道向けに43両、地方鉄道(北海道拓殖鉄道)向けに2両の同形機が製造されている。

3.1 鉄道省
 鉄道省では大正時代の標準形として1914年から1929年の間に672両(8620 ... 88651号機)を導入した。半数以上が汽車製造会社製造。のちに川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所も製造した。樺太庁鉄道の15両は、1943年の南樺太の内地編入に伴い鉄道省保有となり、88652 - 88666号機となっている。樺太向けの15両を鉄道省としての製造両数に含め、製造両数を687両と記載している文献もある。

3.2 樺太庁鉄道8620形
 樺太庁鉄道の8620形は鉄道省8620形の同形車で、15両 (8620 - 8634号機) が製造されて豊原機関庫、泊居機関庫、真岡機関庫に配置された[79]。8620 - 8623号機の運転室は当初は鉄道省の機体と同様のものであったが、後に運転室後部を炭水車前端部まで延長して幌で接続した耐寒構造の密閉型となり、その後の増備機は当初より耐寒密閉型で製造されている[80]ほか、連結器は鉄道省の当初北海道配属となった機体と同じ取付高さの低い自動連結器を装備している一方、ブレーキ装置は真空ブレーキを装備している[1][注釈 25]。1928年および1929年製の11両は、製造当初8万番台の番号 (88620 - 88630) であったが、すぐに既存車の続番に改番された。1943年4月1日の樺太の内地編入による樺太庁鉄道の鉄道省への移管と樺太鉄道局の設置に伴い、これらの機体も鉄道省の8620形に編入されて88652 - 88666号機となった[79]。なお、樺太鉄道局の車両は順次空気ブレーキ化されており、後述する樺太鉄道局へ転属した本形式も空気ブレーキを装備していたが、88652 - 88666号機は1944年1月末時点では全機が真空ブレーキのままであった[81]。

3.3 台湾総督府鉄道E500形
 E500形[82]は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省8620形の同形車で、1919年から1928年にかけて、43両 (500 - 542号機)が製造された。形態は歩み板1段、運転室側面裾部乙字形、真空ブレーキ装備、炭水車は455 ft3・石炭6 t形で、連結器は当初より自動連結器を装備していた[83]。1937年に形式がC95形に改称されたが、番号は変更されていない[84]。第二次世界大戦後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局が1947年にCT151形(CT151 - CT193号機)に改形式・改番している[84]。
 戦後、事故廃車となった2両(CT154, CT155号機)の部品を組み合わせ、一部を新製して、1両(CT194号機)が再製されている[要出典]。

3.4 北海道拓殖鉄道8620形
 北海道拓殖鉄道の8620形は、1928年9月に汽車製造で2両(8621 - 8622号機)が同社の開業[注釈 26]用に新製し、翌1929年1月に竣工し、同年7月に空気ブレーキを設置したもので[85]、民鉄向けに製造された唯一の8620形である。形態は歩み板1段、運転室側面裾部乙字形、炭水車は455 ft3・石炭6 t形、連結器は自動連結器で当初は真空ブレーキを装備していた[83]。8621号機は1960年7月に廃車解体、8622号機もその後廃車され、鹿追駅跡に保存されている[85]。

4 運用
 最初は東海道本線、山陽本線などの幹線を中心に配置されたが、より高性能な形式が投入されるにつれて幹線からローカル線へと転用された[要出典]。平坦で距離の長い路線に向き[要出典]、客貨両用に効率よく使えるという特徴をもって長く運用され、鉄道車輌史研究家の臼井茂信は「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」と評している[1]。
 8620形の初回ロットは8620 - 8637号機の18両で、1914年5月に最初の6両が九州鉄道管理局の鳥栖機関庫の配置となって鹿児島本線門司(現門司港) - 鳥栖間で急行列車や直行列車などの牽引に使用された[14]。初回ロットの残り12両は神戸鉄道管理局に11両、東部鉄道管理局に1両の配属となった[86]ほか、これらを含む以降の初期製造の機体は以下の各区間で運行されている[14]。
・奥羽本線:米沢 - 秋田間
・東北本線:宇都宮 - 白河間
・東海道本線:東京 - 沼津間
・関西本線:亀山 - 湊町間
・山陽本線:広島 - 下関間
・鹿児島本線:門司 - 鳥栖間

 1915年には東海道本線東京 - 沼津間で特別急行1列車および2列車を牽引しての8850形との性能比較試験[注釈 27]が実施され、本形式は8850形より石炭消費量が5 - 6 %少ないとの結果が出ている[19]。また、翌1916年には東京 - 国府津間で6760形との性能比較試験が実施され、本形式は6760形石炭消費量が8 - 12 %少ないとの結果が出ている[87]。
 また、1914年時点において、本形式の牽引トン数は10パーミル勾配において急行列車300 t(35 km/h)、客車列車350 t(30 km/h)、25パーミル勾配において旅客列車180 t(18 km/h)に設定されていた(本形式のベースとなった輸入蒸気機関車のうち、8900形の牽引トン数は10パーミル勾配において特別急行列車320 t(48 km/h)、急行列車340 t(45 km/h)、客車列車380 t(41 km/h)、25パーミル勾配において特別急行列車・急行列車で170 t(30 km/h)に設定)[88]ほか、10パーミル区間で貨物列車550 t、25パーミル勾配で貨物列車180 tに設定されている[35]。本形式はシリンダ牽引力と粘着力牽引力の比が小さく設計されていたため、勾配区間における牽引トン数は従来の機関車より高めに設定されていた[35]。
 その後1930年代に入り、近郊旅客用もしくは支線区の貨物用[89]C11形や旅客用のC55形・C57形、地方線区の旅客用もしくは小単位の貨物用[90]のC58形等の導入に伴い、本形式は地方線区や入換用に転用されている[91]。
 9600形のような日中戦争勃発に伴う軍からの徴発はなかったが、樺太の内地編入に伴い樺太庁鉄道が鉄道省樺太鉄道局に移管された1943年以降に14両が同鉄道局に転属している。1両は1944年に樺太鉄道局から転出したが、他の13両は樺太庁鉄道から移管された88652 - 88666号機とともに終戦時にソビエト連邦に接収され、以後の消息は明らかでなく、書類上は全機が1946年3月31日に廃車となっている[79][77]。
 樺太鉄道局への転属、転出の状況は以下のとおり。
・1943年10月:(転属8両)18638, 18665, 38620, 48629, 48655, 48658, 48691, 68624号機
・1944年2月:(転出1両)18665号機
・1944年6月:(転属3両)18640, 58670, 78640号機
・1944年9月:(転属3両)38630, 38661, 38675号機

 戦後の1947年1月1日時点では、樺太の28両(樺太鉄道局からの編入15両・移管後の転属13両)と戦災により廃車となった3両 (48634, 68662, 78682号機) および戦前に事故廃車となった2両 (68640, 88628号機) を除いた654両が残っていて、釧路、帯広、池田、斜里、留萠、稚内、北見、渚滑、深川、小樽築港、室蘭、青森、尻内、盛岡、小牛田、郡山、弘前、東能代、秋田、米沢、新潟、新津、長岡、小山、高崎、大子、佐倉、成田、千葉、館山、勝浦、新小岩、品川、八王子、新鶴見、二俣、稲沢、米原、敦賀、七尾、梅小路、宮原、鷹取、竜華、王寺、奈良、豊岡、鳥取、米子、浜田、津山、新見、高松、松山、宇和島、小松島、高知、十日市、津和野、正明市、西唐津、早岐、伊万里、若松、吉塚、行橋、柳ヶ浦、大分、豊後森、南延岡、宮崎、都城、人吉、吉松の各区に配置されていた。
 1955年3月末には637両が残っていたが、中型ディーゼル機関車の実用化により、1960年3月末には491両、1961年3月末には380両、1962年3月末には333両とほぼ半減したが、その後主要幹線や亜幹線の電化もしくは無煙化が優先されたことや、地方ローカル線および入換用ディーゼル機関車の量産導入が進まなかったこともあり、かなりの数が蒸気機関車の末期まで残った。1964年3月末の在籍数は276両であったが、1968年3月末では138両であった。
 その後1972年3月末では41両と漸減し、7 kmにわたって33.3パーミルの上り勾配が続く花輪線での運用も1971年9月30日に終了した[92]。最後の運用は人吉機関区の48679号機および58654号機による湯前線の貨物列車であり、1975年3月9日が最後の運用となって[61]、48679号機は1974年12月1日休車、1975年5月6日廃車、58654号機が同年3月10日休車、3月31日廃車となった[93]。

6 保存機
6.1 動態保存機
6.1.3 鬼滅の刃と無限列車
 2020年に社会現象となるほど大ヒットした漫画『鬼滅の刃』、およびそこからのアニメ映画化『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に登場する無限列車は、この8620形に酷似した機関車である(話の舞台は大正時代)。このためJR九州では58654号機による旅客列車を2020年から当分の間、続いてJR西日本でも8630号機について館内のみだが時々、ナンバープレートを劇中の「無限」に付け替え、同作との相乗効果による集客に一役買っている。

7 脚注
7.1 注釈
[注釈 1]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は46.75 t/43.28 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 2]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は39.75 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 3]^ 1931年形式図で修正でも変更なし[2])
[注釈 4]^ 1931年形式図で修正後の値[1]、以前の値は81.25 t/58.78 t(『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の値[2])
[注釈 5]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では12.7 kg/cm2[2]
[注釈 6]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では116.0 m2[2]
[注釈 7]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では27.6 m2[2]
[注釈 8]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では12.9 m3[2]
[注釈 9]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では88.4 m2[2]
[注釈 10]^ 『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表では78.3 m2[2]
[注釈 11]^ 一等車・二等車のみ編成され、最後部には展望車を連結しており、関釜連絡船を介して中国・欧州などへの国際連絡運輸の一部となる「大陸連絡列車」とされていた。
[注釈 12]^ 1919年に日本汽船笠戸造船所として操業を開始し、1921年にこれを日立製作所が取得した。
[注釈 13]^ 1917年に三菱合資会社から造船事業を引継いだ三菱造船が設立され、その後1934年4月に社名を変更して三菱重工業となる。
[注釈 16]^ それぞれ1600 mm(5 fi 3 in)、第1 - 第2動輪間1767 mmおよび第2 - 第3動輪間2286 mm(6 ft 3 inおよび7 ft 6 in)、470 × 610 mm(18-1/2 × 24 in)、191 mm(7-1/2 in)、432 mm(17 in)、1683 mm(5 fi 6-1/2 in)
[注釈 17]^ 旅客用のC51・C54・C55・C57・C59形では3.2 - 3.8[31]、ローカル用のC10・C11・C12形では3.4 - 3.9[32]となっている。
[注釈 22]^ 乙種は制輪子に制輪子ホルダーが付き、そこに制輪子を取付ける。
[注釈 23]^ Westinghouse Air Brake Company, Pittsburgh(WABCO)
[注釈 24]^ 運転室側面下部の形状に関し、臼井重信、高木宏之、金田茂裕は8620-8643号機がS字形、8644号機以降が乙字形としている[52][23][24][22]一方で、川上幸義、浅原信彦は8620-8672号機がS字形、8673号機以降が乙字形としている[53]。
[注釈 25]^ 本形式の後継であるC50形も真空ブレーキ装備であったが、D50形(9600形同形機)は空気ブレーキを装備している。
[注釈 26]^ 1928年12月15日に新得 -鹿追間21.0 km、1929年11月26日に鹿追 - 中音更間23.7 km、1931年11月15日に中音更 - 上士幌間9.6 kmがそれぞれ開業している。
[注釈 27]^ 所要時間往路約200分、復路約210分、列車重量435 - 445 t、御殿場越えは補機として往路は9750形、復路は9850形を使用。

7.2 出典
[1]^ 『機関車の系譜図 4』 p.498
[2]^ 『8620形機関車明細図』 p.5
[3]^ 『追憶の蒸気機関車』
[4]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.42
[5]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.226
[6]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.178
[7]^ 『機関車の系譜図 4』 p.492
[8]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.26
[9]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.163
[10]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.23
[11]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.32
[12]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.70
[13]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.71
[14]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.28
[19]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.29
[22]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.31
[23]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.394
[24]^ 「”形式別・国鉄の機関車”補遺」『形式別 国鉄の蒸気機関車別冊 国鉄軽便線の機関車』 p.iii
[28]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.33
[29]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.197
[30]^ 『国鉄蒸気機関車史』.159
[31]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.83, 89, 129
[32]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.104, 110
[35]^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.117
[36]^ 「連合軍専用列車の時代」p.232
[44]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.420
[45]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.106
[46]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.115
[47]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.99
[48]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.96
[49]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.99-100
[50]^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.101
[51]^ 『8620形機関車明細図』 p.87-88
[52]^ 『機関車の系譜図 4』 p.496
[53]^ 『ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車 I』 p.109
[61]^ “随時アップ:消えた車輌写真館 48679”. NEKO PUBLISHING (2011年11月14日). 2020年4月19日閲覧。
[79]^ 『機関車表』 p.14567-14659
[80]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.395-396
[81]^ 『全国蒸気機関車配置表』 p.62-63
[83]^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.395
[85]^ 『機関車表』 p.5512
[87]^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.30
[88]^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.114
[92]^ 『ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車』 p.133
[93]^ 『機関車表』 p.1178, 1186

8 参考文献
 書籍
・日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第4篇』日本国有鉄道、1958年。
・日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第5篇』日本国有鉄道、1958年。
・臼井茂信『機関車の系譜図 4』交友社、1978年。
・臼井茂信『日本蒸気機関車形式図集成 2』誠文堂新光社、1969年。
・川上幸義『私の蒸気機関車史 下』交友社、1981年。
・高田隆雄『蒸気機関車 日本編』小学館〈万有ガイドシリーズ 12〉、1981年。
・高木宏之作『国鉄蒸気機関車史』ネコ・パブリッシング、2015年。ISBN 9784777053797。
・沖田祐作『機関車表』ネコ・パブリッシング、2014年。ISBN 9784777053629。
・浅原信彦「ガイドブック 最盛期の国鉄車輛 13 蒸気機関車 I」『NEKO MOOK』第2682巻、ネコ・パブリッシング、2018年、 ISBN 9784777021826。
・徳永益男、松本謙一「全国蒸気機関車配置表」、イカロス出版、2018年、 ISBN 9784802204354。
・『蒸気機関車全史 (1)』学習研究社〈歴史群像シリーズ〉、2005年。ISBN 9784056041514。
・『8620形機関車明細図』鉄道史資料保存会、1994年。ISBN 9784885400896。
・金田茂裕『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』機関車史研究会、1986年。ISBN 4871126145。
・金田茂裕「”形式別・国鉄の機関車”補遺」『形式別 国鉄の蒸気機関車別冊 国鉄軽便線の機関車』機関車史研究会、1986年。ISBN 4871126153。

 雑誌
・寺島京一「台湾鉄道の蒸気機関車について」『レイル』第23巻、エリエイ出版部、1988年。

 その他
・近藤一郎「形式別 国鉄の蒸気機関車 正誤表」2020年。
最終更新 2020年12月26日 (土) 10:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 1914年(大正3年)~1929年(昭和4年)製造の急行旅客用であり、「キューロク」9600形と双璧をなす。
 「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」
 「絶対に空転しない機関車」
と後にローカル線に回されても客貨両用に活躍した蒸機だ。現在話題の『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に登場する無限列車は、舞台は大正時代であるため、この8620形に酷似した機関車であるそうだ。(秋に劇場に行った娘に聞いたが分からないそうだが・・)

 無煙化は地方ローカル線・入換用機関車が結果、後回しにされたため、国産初の量産機達が最後まで活躍することになった。
Posted at 2021/01/31 19:16:49 | コメント(1) | トラックバック(0) | 蒸気機関車史 | ニュース
2021年01月30日 イイね!

レクサス欧州販売…45%以上がハイブリッド

レクサス欧州販売…45%以上がハイブリッドレクサス、欧州販売が100万台突破…45%以上がハイブリッド
2020.10.28 16:45 GAZOO

《photo by Lexus》レクサスの欧州ラインナップ

 レクサス(Lexus)は10月26日、欧州市場における新車販売台数が100万台を突破した、と発表した。
 レクサスは1990年、欧州市場に進出した。『LS400』(日本名:初代トヨタ『セルシオ』に相当)が最初のモデルだ。LS400はパフォーマンスや燃費などの面で、高級車のあり方を再定義し、プレミアムカー市場の変革の始まりを示した。
 レクサスは2005年、世界初の高級ハイブリッド車の『RX400h』(日本名:トヨタ『ハリアー・ハイブリッド』に相当)を発表した。欧州で販売された100万台のレクサス車のうち、45%以上がハイブリッド車だった。現在、ハイブリッド車はレクサス全ラインナップに用意されており、西欧では全販売の96%を占めている。
 レクサスはまた、変化する顧客のニーズと嗜好に従い、市場のトレンドを反映した新モデルを開発してきた。レクサスが、すでに欧州で55万台を販売したSUVクロスオーバーモデルが、その代表だ。現在のレクサスのラインナップでは、『RX』とそのロングホイールベース仕様の『RXL』、ミドルクラスの『NX』、コンパクトな『UX』と、ラインナップを拡大。SUVが、欧州販売の80%以上を占めている。
 欧州販売100万台のうち、SUVのRXが最多で、28万9284台を占めた。以下、『IS』が20万2210台、NXが15万5366台、『CT200h』が9万7637台、『GS』が7万4998台で続いている。
《森脇稔》[提供元:レスポンス]


≪くだめぎ?≫
 「チェイサー」、「RAV 4」、「オーリス」、「クラウン」と読めなくもない。
 でも「ハリアー →RX」が引き離している。
Posted at 2021/01/30 19:32:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2021年01月30日 イイね!

『LS』マイナーチェンジ

『LS』マイナーチェンジ2020年11月19日
LEXUS、新型「LS」を発売-フラッグシップとしてDNAである静粛性と乗り心地のたゆまぬ進化を追求-
・静粛性と乗り心地など走りの基本性能の徹底的なつくりこみ
・深い陰影と艶やかで鏡面のような質感を実現した新規外板色「銀影(ぎんえい)ラスター」
・日本独自の美意識に由来した世界観を取り入れた上質なインテリア
・人の感性に寄り添った最新の高度運転支援技術の採用

[写真・画像] LS500h“version L”(マンガンラスター)<オプション装着車>

 LEXUSは、フラッグシップセダン「LS」を改良し、全国のレクサス店を通じて11月19日に発売しました。また、高速道路などの自動車専用道路での運転において、車載システムが車線・車間維持、分岐、レーンチェンジ、追い越しなどを支援する最新の高度運転支援技術「Advanced Drive」搭載車は2021年の発売を予定しています。
 LSは、1989年に米国で発売され、静粛性と快適性への高い評価でLEXUSの礎を築いたモデルです。フラッグシップとして好評を博し、30年以上に渡り90以上の国/地域で累計約87万台*1を販売しました。2017年にフルモデルチェンジした5代目は、斬新なクーペシルエットやエモーショナルな走りを実現するなど、大きな変革を果たしました。
 今回発表の新型LSは、LEXUS独自の上質な走りの深化を目指し、DNAである静粛性と乗り心地のたゆまぬ進化を追求。パワートレーンやサスペンションからシート縫い位置などの細部に至るまで徹底的なつくりこみを実施しました。エクステリアデザインでは、ヘッドランプ周りの意匠変更や、フロントグリルとリヤコンビネーションランプの表面処理を変更し、LEXUSのフラッグシップとしての洗練された存在感を際立たせました。また、進化した塗装技術によって深い陰影と艶やかで鏡面のような質感を実現した新規外板色の「銀影(ぎんえい)ラスター」を設定。インテリアはタッチディスプレイの採用による操作性向上に加え、日本独自の美意識に由来した世界観をインテリア空間に取り入れるべく、銀糸を織り込んだ西陣織®*2とプラチナ箔などの匠の手によってつくられる素材を採用しました。

Lexus International チーフエンジニア 武藤 康史
 「LSは、LEXUSブランド創設以来、フラッグシップとして静粛性と乗り心地、精密なつくりこみによって、多くのお客様に驚きと感動をお届けしてまいりました。常に最高の体験をお求めになられるお客様の期待に応えるため、新型LSは自らの原点に立ち返り、静粛性と乗り心地をさらに進化させています。そして、その磨き上げた基本性能の上でこそ実現することが出来た高度運転支援技術『Lexus Teammate』を採用。LEXUSの世界観をよりアーティスティックに表現するデザイン開発にも取り組み、お客様の想像を超える新たな移動体験の提供を目指しました。」

●LSの主な特長
◇静粛性と乗り心地など走りの基本性能の徹底的なつくりこみ
 LSの原点である上質な走りを追求するにあたり、人の感性を大切に、タイヤの内部構造からシートに座った際の質感、日常走行領域での加速レスポンスなど、静粛性や乗り心地をはじめとする走行性能に関係するパーツや制御を細部まで徹底的につくりこみました。
・3.5L V型6気筒ツインターボエンジンでは、使用頻度の多い走行領域でのエンジントルクの立ち上がりを向上させ、余裕のある力強い走りを実現しました。具体的には、電動駆動方式で過給圧を制御するウェイストゲートバルブのバルブ開度を緻密に制御し、アクセル操作に対して発生するエンジントルクの精度を高め、車両の加速レスポンスを向上させました。また、シフトスケジュールを変更し、ギヤ段を維持したまま加速できる領域を拡げることで、シフトダウン頻度を低減しました。
・加えて3.5L V型6気筒ツインターボエンジンにおいて、燃焼室形状の最適化により、燃焼効率を向上することで、出力、燃費性能、静粛性を向上。さらにコンロッド形状の最適化やクランクシャフトのクランクピン径を拡大することで軽量化と、剛性向上による優れた静粛性を両立しました。また、可変バルブタイミング機構(VVT)を油圧制御化し軽量化を図るとともに、オイルコントロールバルブをVVT内部に配置するセンタースプール構造で油路を短縮することで、応答性の向上も実現しました。
・減衰力可変ダンパーAVSは、新たに設計した油圧制御用ソレノイドのオイル流量制御バルブの流路を拡大。これにより減衰力を低減し、上質な乗り心地を実現しています。また、減衰力の可変幅拡大により、優れた操舵応答性と安定性に寄与します。
・ランフラットタイヤの縦バネ剛性、スタビライザーバーのばね定数、バウンドストッパーの先端剛性*3を最適化。またエンジンマウント内のオリフィスを変更*4することで減衰特性の変更を行い、室内に伝わる振動や衝撃を低減しました。
・2WD車のフロントサスペンションの高強度アルミ鍛造アームへの変更や、タイヤの質量低減によりばね下質量を約3.5kgの軽量化。路面からの入力をボディへ伝わりにくくすることで乗り心地を向上しました。
・シート表皮の縫い位置をより深い位置に変更するとともに、新たに開発した低反発ウレタンパッドを採用。振動吸収と柔らかな座り心地により、さらに快適性を向上させました。

◇新規外板色「銀影(ぎんえい)ラスター」の採用や日本独自の美意識に由来したインテリアデザイン
 LEXUSのデザイン思想にある、時の移ろいや環境の変化の中で、その時々の美しさを感じられる日本ならではの美意識を表した考え方「Time in Design」を追求することで、今一度LEXUSのフラッグシップの在り方を示し、LSならではの価値を高めることを目指しました。新型LSでは、「月の道*5」という自然界の神秘的な情景をモチーフに、内外装をコーディネートしました。僅かな光の変化で豊かな表情を浮かび上がらせ、存在感を感じて頂ける魅力的なカラーデザインとコーディネートにより、心地良いくつろぎの空間と、唯一無二の移動体験を提供します。
<エクステリア>
 ハイライトの美しい輝きと奥行きを感じる深い陰影を特徴とするシルバーの外板色 銀影(ぎんえい)ラスターを新規開発しました。シルバーは色を質感として感じ取りやすいため、カラーデザインの本質を追求するLEXUSにとって重要な色域として、長年開発に力を注いできたボディカラーです。銀影(ぎんえい)ラスターはLEXUS最新のシルバーとして、光輝材(アルミフレーク)を含んだ塗料の体積を凝縮させる「ソニック工法」を応用し、蒸着アルミを高密度で敷き詰める最新の塗装技術を採用。鏡面のように粒子感をほとんど感じさせない滑らかな質感で、周囲の僅かな光も繊細にとらえ、時の移ろいや変化に呼応し、様々な表情を見せる特別なシルバーです。
主な変更点一覧
・フロントバンパーコーナー部に縦基調のキャラクターラインを配置し、オーバーハングが短く見える意匠とすることで、LSならではの上質な走りを表現しました。また、フロントバンパー下端のメッキモールがサイドまで回り込む造形とすることで、伸びやかさを表現しました。
・新意匠の小型3眼ランプユニットとL字を際立たせたクリアランスランプの下に、ブレードスキャン®*6AHS*7を搭載した厚みのあるヘッドランプ形状で風格を際立たせました。また、サブラジエーターグリルをスクエア形状とし外側に配置することで、スタンスの良さを追求。加えてスピンドルグリルのメッシュカラーをダークメタリックに変更し、よりフォーマルなシーンにも配慮した上品さを表現しました。
・リヤコンビネーションランプ内のメッキモールをピアノブラックに変更。厚みを感じるランプ形状とし、ヘッドランプとの調和とともに存在感を際立たせました。
・“F SPORT”はサブラジエーターグリルのガーニッシュをサイドまで回り込ませることで、ワイドなスタンスを強調。その他にも専用色のスピンドルグリル、20インチホイールなどのアイテムを採用し、スポーティなデザインとしました。
<インテリア>
 エクステリアに合わせてコーディネートしたインテリアも同様に、時の移ろいの中で様々な表情を感じさせるデザインとしました。オーナメントにプラチナ箔&西陣®を新規設定し、西陣織®の銀糸やプラチナ箔の輝きにより、月明りに照らされた波の揺らぎによる「月の道」を表現しています。
主な変更点一覧
・ハンドルとセンターコンソールのスイッチ類を黒で統一し、視認性を向上させるとともに端正な印象としました。また使用頻度の高いシートヒーターとステアリングヒーターの操作画面を表示させるスイッチをセンターコンソールに追加することで、操作性を向上しました。
・マルチメディアシステムは、新たにタッチディスプレイを採用するとともに、SmartDeviceLinkTM*8、Apple CarPlay*9やAndroid AutoTM*10に対応。iPhone*9やAndroidTM*10スマートフォンを12.3インチタッチワイドディスプレイに連携することで、画面操作や音声操作が可能になるなど利便性が大きく向上しました。

◇人の感性に寄り添った最新の高度運転支援技術の採用
 LEXUSはモビリティ社会の究極の願い「交通事故死傷者ゼロ」を掲げ、安全技術開発を進めています。世界トップレベルの先進安全技術を開発し、より多くのクルマに普及させていくことが重要という考えのもと、フラッグシップモデルに最先端技術を積極的に採用し、そこで培ったノウハウに基づいて普及技術を開発することで、各モデルへの広範な展開を図っています。新型LSでは、Lexus Safety System +Aを全車に標準設定し、各機能を拡充/進化させました。
<Lexus Safety System +Aの進化>
・「プリクラッシュセーフティ」の対応領域を拡大し、交差点右折時に前方から来る対向直進車や、右左折時に前方から来る横断歩行者も検知可能になりました。加えて低速時の衝突回避または被害軽減をサポートする低速時加速抑制などの機能が追加されました。
・カメラで主要な道路標識を読み取り、メーター内に表示する「ロードサインアシスト(RSA*11)」において、最高速度120km/hまで表示します。
<Lexus Teammate>
 人とクルマが気持ちの通った仲間のようにお互いを高め合い、共に走るというトヨタ自動車独自の自動運転の考え方「Mobility Teammate Concept」に基づいて開発された高度運転支援技術。乗員に安心感を与える運転支援を実現する上で必要不可欠な車両の高い基本性能を徹底的に磨き上げるとともに、ディープラーニングを中心としたAI技術*12も取り入れ、運転中に遭遇しうる様々な状況を予測し、対応することを支援します。さらにLexus Teammateはソフトウェアアップデート*12を活用し、お客様の手に渡った後も機能の追加、性能向上を続け、お客様のニーズに応え続けることで、愛車になっていくことを目指しています。ドライバーとクルマが対話の中でお互いの状態を確認し補い合うことで、安全な運転、快適な移動につなげます。
▽Advanced Drive(2021年発売予定)
 「Mobility Teammate Concept」に基づいた最新の高度運転支援技術により、高速道路などの自動車専用道路での運転において、ドライバー監視のもと、実際の交通状況に応じて車載システムが適切に認知、判断、操作を支援し、車線・車間維持、分岐、レーンチェンジ、追い越しなどを実現します。クルマに運転操作を安心して任せられるよう基本性能を磨き上げ、常に安全を最優先に判断することでドライバーに信頼される運転操作を追求。ドライバーはアクセル、ブレーキそしてハンドル操作からも解放され、長時間の運転における疲労の軽減が可能となり、より周辺に注意を払った安全な運転が可能になります。
▽Advanced Park*13
 最新の高度運転支援技術により、駐車場での操作において、ドライバー監視のもと、カメラと超音波センサーを融合し全周囲を監視することで、適切に認知、判断、操作を支援。ハンドル操作、アクセル、ブレーキ、シフトチェンジの全操作を車両が支援するとともに、俯瞰映像に車両周辺の死角や目標駐車位置などを常に表示し、安全/安心でスムーズな駐車を実現しました。
・操作支援の拡大
  ハンドル操作、アクセル、ブレーキ、シフトチェンジの全操作を車両が支援することで、ドライバー負担を軽減します。これにより、ドライバーは周辺の安全確認に集中することができます。
・直感的なシステム操作
 駐車区画横に停車すると自動的に駐車枠を認識し、スイッチを押すだけでAdvanced Parkが起動します。また複数の駐車区画を認識した場合は、ディスプレイに候補すべてを表示するとともに、最適な区画を提案し、ドライバーが選択をすることができます。
・360°センシング
 カメラと超音波センサーを融合し全周囲を監視。障害物の位置をディスプレイのカメラ映像上に表示することで、ドライバーに周辺状況をわかりやすく伝えます。障害物に接触する可能性がある場合は、警告するとともにブレーキ制御で接触回避を支援します。
・ドライバーとの協調
 駐車支援制御中にアクセル操作があった際は、踏み間違いの可能性があると判断し、制御を一旦中断し、ドライバーの意思を確認します。ただしブレーキを踏んだ場合は、減速の意図をくみ取り、制御は継続します。
・スムーズな駐車
 市場における様々な駐車パターンデータを収集・分析し制御に反映することで、乗員に安心感を与える無駄のない経路とメリハリのある速度コントロールを実現したスムーズな駐車を追求しました。
・使用環境を広げるメモリ機能
 駐車区画(白線)がない場所でも、カメラで捉えた画像情報をもとに駐車したい位置を事前にシステムに記憶させ、駐車支援を実行する事が可能なメモリ機能を採用しました。自宅や職場など、使用頻度の高い駐車場での利便性が向上します。

<ブレードスキャン®アダプティブハイビームシステム(AHS)>
 2019年8月にマイナーチェンジしたRXで世界初採用したブレードスキャン®アダプティブハイビームシステム(AHS)を採用。光源であるLEDからの光を高速で回転するブレードミラーに照射。ブレードミラーに反射した光が、レンズを介して高速移動しながら前方を照らす新機構のAHSです。残像効果で光は動いているように見えませんが、ブレードミラーの回転に同期させて、LEDの光を適切なタイミングで点灯/消灯することで、配光を細かく制御することができます。これにより、従来のAHSより細かい遮光が可能となり、ハイビームの照射範囲を広げることで対向車や先行車を眩惑することなく歩行者や標識を認識することができます。
<デジタルインナーミラー>
 デジタルインナーミラーに高解像度でより大きな9.6インチディスプレイを採用し、優れた後方の視認性を確保しました。

*1 2020年10月31日時点。LEXUS調べ
*2 西陣®、西陣織®は西陣織工業組合の商標です
*3 2WD車はリヤのみ対象です
*4 AWD車のみ対象です
*5 月明りが海面上で細長い道となり、照らされた波の揺らぎが繊細なグラデーションを生み出す、満月の前後数日間にだけ見ることができる現象
*6 ブレードスキャン®は株式会社小糸製作所の登録商標です
*7 AHS : Adaptive High-beam System
*8 SmartDeviceLinkTMは、SmartDeviceLinkConsortiumの商標、または登録商標です
*9 Apple、Apple CarPlay、iPhoneはApple Inc.の商標です
iPhone商標は、アイホン株式会社のライセンスに基づき使用されています
*10 AndroidTM、Android AutoTMは、Google LLCの商標です
*11 RSA : Road Sign Assist
*12 2021年以降、Advanced Drive搭載車に実装予定
*13 LS500hに標準設定


 メーカー希望小売価格(単位 : 円)
モデル名 エンジン トランスミッション 駆動 価格*(10%消費税込み)
・LS500“EXECUTIVE” V35A-FTS(3.5L V型6気筒ツインターボ) Direct Shift-10AT 2WD(FR)15,390,000
・LS500“EXECUTIVE” V35A-FTS(3.5L V型6気筒ツインターボ) Direct Shift-10AT AWD 15,800,000
・LS500“version L” V35A-FTS(3.5L V型6気筒ツインターボ) Direct Shift-10AT 2WD(FR)13,450,000
・LS500“version L” V35A-FTS(3.5L V型6気筒ツインターボ) Direct Shift-10AT AWD 13,860,000
・LS500“F SPORT” V35A-FTS(3.5L V型6気筒ツインターボ) Direct Shift-10AT 2WD(FR)12,340,000
・LS500“F SPORT” V35A-FTS(3.5L V型6気筒ツインターボ) Direct Shift-10AT AWD 12,440,000
・LS500“I package” V35A-FTS(3.5L V型6気筒ツインターボ) Direct Shift-10AT 2WD(FR)10,730,000
・LS500“I package” V35A-FTS(3.5L V型6気筒ツインターボ) Direct Shift-10AT AWD 11,140,000

モデル名 エンジン ハイブリッドシステム 駆動 価格*(10%消費税込み)
・LS500h“EXECUTIVE” 8GR-FXS(3.5L V型6気筒) Multi Stage Hybrid System 2WD(FR)16,870,000
・LS500h“EXECUTIVE” 8GR-FXS(3.5L V型6気筒) Multi Stage Hybrid System AWD 17,280,000
・LS500h“version L” 8GR-FXS(3.5L V型6気筒) Multi Stage Hybrid System 2WD(FR)14,930,000
・LS500h“version L” 8GR-FXS(3.5L V型6気筒) Multi Stage Hybrid System AWD 15,340,000
・LS500h“F SPORT” 8GR-FXS(3.5L V型6気筒) Multi Stage Hybrid System 2WD(FR)13,510,000
・LS500h“F SPORT” 8GR-FXS(3.5L V型6気筒) Multi Stage Hybrid System AWD 13,920,000
・LS500h“I package” 8GR-FXS(3.5L V型6気筒) Multi Stage Hybrid System 2WD(FR)12,190,000
・LS500h“I package” 8GR-FXS(3.5L V型6気筒) Multi Stage Hybrid System AWD 12,600,000
* 北海道地区のみ価格が異なります。リサイクル料金は含まれません
以上
LS 車両情報はこちら : https://lexus.jp/models/ls/


≪くだめぎ?≫
 2018年6月フルモデルチェンジしたハイブリッド『センチュリー』が大変影響を受けているね。
「銀影(ぎんえい)」
「日本独自の美意識に由来した世界観を取り入れた上質なインテリア」
「月の道」

"センチュリー"発表時に外国人記者から「いつ国外に出すのか」と、この日本国内専用車を気に入り、今回のLSマイナーチェンジに繋がったと思う。当然、海外向けである、もちろん日本でも受けると良いが。
Posted at 2021/01/30 19:02:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2021年01月25日 イイね!

『動力近代化計画』

『動力近代化計画』[写真・画像] 国鉄キハ81形
大阪交通科学博物館において静態保存されているキハ81 2
作成: 2006年7月27日

動力近代化計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

動力近代化計画(どうりょくきんだいかけいかく)は、日本国有鉄道(国鉄)の保有する鉄道車両の動力を近代化する計画。具体的にはエネルギー効率が低く燃料費がかさむ上、大量の煙のために安全性や快適性に問題がある蒸気機関車を計画的に廃止・淘汰する(動力源の近代化)とともに、旅客車については原則として電車もしくは気動車に置き換える(動力方式の近代化)という内容。国鉄内部に設置された動力近代化調査委員会が1959年(昭和34年)6月20日に答申し、翌1960年(昭和35年)から実行に移された。また、鉄道関係者からは蒸気機関車の淘汰によって不快な煙から解放されることを意味する無煙化という表現もされた。

1 計画当時の状況
 明治時代から昭和初期にかけて建設された国鉄の路線は、ほとんどが蒸気運転であった。電化計画は明治時代より模索されており1919年には、主要幹線や勾配区間、水力発電を生かせる箇所などの大規模な電化計画が閣議決定されるなど、近代化と蒸気機関車の撤廃に積極的であった。[1][2]。しかし、関東大震災と昭和恐慌により予算が降りず、戦時下に突入すると電化に当時の陸軍幹部の根強い反対意見があり(変電所が被害を受けると列車が走れなくなる)、当初の構想に反して戦後においても1958年(昭和33年)の全営業キロ約2万 kmに対し、電化されていたのは2,237 kmに過ぎず、非電化区間の動力車は蒸気機関車が4,514両、ディーゼル機関車が118両、ディーゼルカーが1,486両であり、蒸気機関車が非電化区間の主力であった[3]。蒸気機関車の熱効率は約5 %で、1950年代のデータで電気機関車が約30 %、ディーゼル機関車が約20 %とそれらと比較すると著しく低い[4]。そのため運転に際し大量の石炭を消費し、単位走行キロ当たりの燃料費が高い。また走行距離に応じて給炭と給水が必要になるほか、石炭の燃えかすを排出する必要があるため長距離運転には不向きであり、これらにより1日当たりの走行距離も低く設定せざるを得ないため、所要機関車数が多くなる。これらはいずれも鉄道経営にとって大きなマイナス要因となる。下表でもディーゼル機関車の車両単価は蒸気機関車より高いが、燃費や必要車両数を考慮すると経営面ではディーゼル機関車が有利となる。更に大量の煤煙を発生するため、安全性や快適性において他の動力車に比べて大きく劣っていた。

・長大トンネルでは、トンネル内にこもったばい煙を適切に排除しないと酸欠状態になる。例えば、急勾配で出力が必要な篠ノ井線の冠着トンネルでは、特殊な排煙装置が装着されていたが、それでも運転関係者の窒息死事故が発生したことがある。
・窒息に至らなくてもばい煙は不快であり、トンネル内では真夏でも窓を閉め切る必要があった。当時の列車には一等車・食堂車などを除いて冷房はなかった。
・大量のすすによる汚染の問題

●DD51形ディーゼル機関車とC61形蒸気機関車の燃費と走行距離の比較(電化前の東北本線のデータ)[5]
 形式 DD51形 C61形
・走行km当たりの燃料使用量 3.5 17.4
・燃料単価(円) 13 5.7
・燃費(円/km) 46 99
・1日当たりの走行距離 357 284
・車両価格(万円) 6,300 3,300

2 計画の概要
 当時、イギリスやオーストラリア、アメリカなど発展先進国(第二次世界大戦の戦勝国)は蒸気機関車の淘汰を推進していた。日本でも国鉄の財政改善と安全性や快適性の向上を目的に、既存の電化路線に加えて15年計画で主要幹線5,000キロを電化し、残余はディーゼル化をし、蒸気運転を廃止する、電化は交流を原則とする計画であった。国会では20年計画案も持たれたが、先進諸外国と比較して遅すぎるという意見が多かったため、15年計画とされた。また、電化、ディーゼル化ともに旅客運行は機関車牽引ではなく動力分散方式主体になったが、諸外国からの批判も多かった[注 1]。予定された投資額は4,865億円だが、蒸気運転を継続した場合にも取替え改修費に3,640億円かかるため増加分は1,125億円となるが、上記のように無煙化により大幅な経費削減(年間310億円)が見込まれるため経営改善に大きく寄与すると想定された(金額は全て当時の価格[6])。
 計画の策定時期には下記の諸条件が計画の内容に反映された。

・ 当時フランスなどで進展していた交流電化に倣って、国鉄内部でも1953年(昭和28年)から交流電化調査委員会が設置され、1955年(昭和30年)の仙山線で交流電化の実験成功に続き1957年(昭和32年)から同線の実用電化が始まっていた[7]。
・電車化においては、カルダン継ぎ手を採用した新性能電車101系は試用中であったが、1950年(昭和25年)に登場した80系湘南型電車による東海道線での運用実績、特に終着駅での折り返しの容易さによる運用効率向上と運転速度の向上があった[8]。
・ディーゼルカーにおいては、液体型変速機を採用したキハ45000系気動車が1953年から量産され、特定線区の無煙化に貢献していた。

 日本の鉄道は山岳路線が多いことに加えて地盤が比較的軟弱で、機関車方式で高速化、輸送力強化を図るためには大きな軸重を支える軌道の強化に多大な資金が必要とされ、また曲線通過性能および登坂能力が劣る(機関車が空転すると立ち往生する)という問題があった。プッシュプル方式も、折返しは電車並に手際よく行なえても曲線通過の際の安全性に問題があるとの理由で採用されなかった。従って、動力分散方式の方が編成単位で5 %程度製造コストが割高になるものの、加減速性能が優れるために表定速度が10 %程度速くなるほか、機関車の付け替えおよび機回しが不要になるために運用効率が優れている(結果として運行コストが削減できる)ため、電化、ディーゼル化ともに動力分散方式が有利とされた(動力分散と高速鉄道も参照)。この方針に基づいて動力方式の近代化も併せて実施されることになった。

3 計画の進展
 この方針に沿って電化およびディーゼル化が進められ、当初計画どおり15年後の1975年(昭和50年)度をもって、国鉄の営業用車両から蒸気機関車は、すべて引退することになった。蒸気運転による定期列車の運行は1975年12月で終了、構内の入換用に残った蒸気機関車も1976年3月ですべて仕業を退いた。蒸気機関車の全廃は早い方が経営への効果は大きいことから、1967年の国鉄常務会では予定を繰り上げて昭和48年度末(1974年3月)での全廃が定められたが、国鉄の財政難による車輌製造の遅延等により、その後の計画の見直しで結果的には当初の予定どおりの無煙化達成となった[9]。
 国鉄向けの蒸気機関車の新製は、1949年(昭和24年)のE10形を最後に中止された。また電化やディーゼル化の進展は幹線から行われたため、地方の路線では大正生まれの8620形などが老朽化の問題を抱えながらも使い続けられることになった。その間にも8620形の後継機としてC63形の構想や計画もあったものの、設計図を作成した段階で計画そのものが中止された。この問題を解決するために、幹線で働き場所のなくなった大型蒸気機関車の軸重を軽減して地方路線に投入できるようにする改造が行われ、C59形の改造でC60形が誕生するなどした。しかしながら、大型の蒸気機関車は石炭の消費量が大きい(燃費が悪い)という問題があってあまり歓迎されず、こうした改造は少数に終わって、大型で新しい蒸気機関車よりも小型の古い蒸気機関車が最後まで働き続ける結果となった。

3.1 計画開始時の問題点
 1955年(昭和30年)に実施された仙山線での交流電化試験が予想以上に好調だったため、1957年(昭和32年)から始まった北陸本線の電化計画は急遽交流方式へ変更された。1960年(昭和35年)から始まった動力近代化計画では、電化は交流方式を原則とするが、直流との境界は適正に定めると明記された。交流電化は実用化検討中に開始されたため、技術的には不十分な点も多く、1957年の北陸本線の交流電化のED70形では初期故障が多発し、1959年の東北本線黒磯-福島間の交流電化のED71形でも運転の安定化までにかなりの期間を要した[10]。交流用車両において必要とされる整流器の本命とされたシリコン整流器が本格的に採用されたのは1961年に製造を開始したEF70形から[注 2]で、動力近代化計画策定時点ではまだ存在していなかった。
 またディーゼル機関車についても当時の本線用主力機は電気式のDF50形が中心であったが、蒸気機関車D51よりも非力であるため強力な後継機が必要であった。本命となったDD51形の登場は1962年(昭和37年)であり、このため、本計画では電化区間と非電化区間、直流区間と交流区間を適正に設定するために必要なコスト計算の根拠があいまいであったとされる。その影響もあってか、1961年(昭和36年)から1964年(昭和39年)に電化された山陽本線(倉敷 - 下関間)では全区間直流方式とされた[11]。

4 計画の推移
 幹線および亜幹線区間の電化は、全体的にはほぼ予定どおり進行した。直流電車はカルダン継ぎ手を採用した101系に続き、1958年には151系特急電車「こだま」が実用化され、その後は直流電化区間の電車化が進展した。交流区間は1961年に北陸本線用に生産されたEF70形がシリコン整流器を搭載して量産され、続いて交流機の標準型とされるED75形が大量生産された。その後これらの機関車に搭載されたシリコン整流器を電車に搭載した交流電車や交直両用電車が中距離電車から特急電車まで大量に生産された。ディーゼルカーは液体変速機搭載の一般型に続き、特急用キハ80系気動車が1960年に、急行用のキハ58系気動車が1961年に登場し、非電化区間の気動車化に大きく貢献した。機関車では本線用のDD51形が1962年に登場して貨物列車や客車の牽引を蒸気機関車から引継ぎ、中型機として1966年にDE10形が誕生して支線区間の無煙化推進に当たった。蒸気機関車が最後まで残った閑散ローカル線用には1971年にDD16形を製作して無煙化を完成させた。
 ただし、当初計画されていた交流電化区間の電車化および非電化区間の完全気動車化は資金面、運用面(当時は鉄道による郵便荷物輸送が行なわれていた[注 3])の問題および組合側の反対(入れ替えおよび機回しに係わる職員が不要になる)により、国鉄時代は実現されなかった[注 4]。これらの問題によって無煙化直後に50系客車など当初の方針と矛盾するような車輛を新造することを余儀なくされ続けた。

●車両在籍数推移[12]
 年度 1955年 1960年 1965年 1970年 1975年 1980年
・蒸気機関車 4,897 3,974 3,164 1,601 15 5
・電気機関車 522 794 1,369 1,818 2,051 1,856
・ディーゼル機関車 6 245 582 1,447 2,204 2,109
・客車 11,330 11,412 10,362 8,711 6,725 6,176
・電車 2,969 4,534 9,084 12,481 16,502 17,696
・ディーゼルカー 785 2,227 4,595 5,371 5,326 5,038
・貨車 105,843 118,729 142,258 149,485 120,597 99,562

 その後、直流区間との直通運転の関係で製造コストが割高な交直流電車が普及したため、交流電化の経済性に大きな疑問が持たれた。そのため、北陸本線富山以東及び鹿児島本線荒木以南の電化時には見直しが検討されたが、運転取扱いが至難であることと直流切替への改修費が莫大であることを理由に結局交流方式のままとされた経緯がある[13]。しかし、その後の山陽新幹線博多開業及び東北新幹線開業によりJR発足以降も交直両用方式を必要としているのは、長距離の旅客列車に関しては特急ひたちと特急サンダーバード、特急しらさぎ、特急いなほ系統と数少なくなっている。ただし、貨物列車においてはこの限りではない。
 国鉄時代の交流専用電車は711系や781系等数少なかったが、JR発足以降は複数の会社に乗り入れる列車が削減されたことから、新開発された交流専用車の方が交直両用車より圧倒的に上回っている。一方、貨物列車を牽引する電気機関車においては、逆に国鉄時代は交流専用機が多数を占めたが、民営化後は複数の旅客鉄道会社に乗り入れる列車が増えたことからほとんどが交直両用車の製造となり、交流専用機の製造は北海道新幹線の開通に伴う海峡線の架線電圧昇圧への対応用であるEH800型の20両のみである。
 電化計画路線のうち長崎本線や佐世保線、日豊本線南宮崎 - 鹿児島間、千歳線、室蘭本線沼ノ端 - 室蘭間は1975年(昭和50年)の動力近代化計画終了時に電化が実現しなかったが、1980年(昭和55年)までに順次電化された。また函館本線函館 - 五稜郭間はJR発足後津軽海峡線の一部として1988年(昭和63年)3月に電化された。
 21世紀に入ってからも電化は続き、筑豊本線黒崎 - 桂川間も篠栗線と共に2001年(平成13年)10月6日に電化された。また、電化計画路線にあげられている宗谷本線の旭川 - 永山間のうち、旭川 - 北旭川間(移転した旭川運転所構内)については車両基地への電車の回送列車のみであるものの、2003年(平成15年)3月に電化された。函館本線の五稜郭 - 新函館北斗間は、2016年(平成28年)3月の北海道新幹線(新青森 - 新函館北斗間)開業時にあわせて電化された。
 しかし、電化計画路線にありながら函館本線新函館北斗 - 長万部間と室蘭本線東室蘭 - 長万部間および沼ノ端 - 岩見沢間、筑豊本線の通称:若松線の電化は現在でも実現していない。これはエネルギー革命に伴って石炭の輸送量が減少したことと関係している。その反面、水戸線、御殿場線、外房線、内房線[注 5]、桜井線等、計画になかったが、電化が実現した線区も存在する。
 なお、高山本線は地元の陳情により、本計画直前の1958年(昭和33年)にディーゼル化が推進され、1980年(昭和55年)には全線の電化工事も起工されたが、国鉄の経営悪化により1985年(昭和60年)頃に中断し、キハ85系をはじめとする気動車による高速化を実施した。

4.1 客車列車の廃止および淘汰
 動力近代化計画のもう一つの柱である客車列車の電車化・気動車化は無煙化が終了した1976年(昭和51年)の時点で、優等列車に関しては(静粛性等の点で客車が優位とされた)夜行を除いてほぼ完了していた[注 6]ものの、前記のとおり普通列車には地方線区を中心に多くが残存し、その状態がしばらく継続した。しかし、客車普通列車の存続理由の一つであった郵便荷物輸送の衰退、地方線区で機関車を共用する機会のあったヤード集結形貨物の全廃(1984年2月1日国鉄ダイヤ改正)、長編成低頻度から短編成高頻度への運行形態の転換、および新幹線開業によって余剰となった急行形電車・気動車などの優等列車用車両の転用により、昭和57年11月15日ダイヤ改正より機動性に勝る分散動力車両への置き換えが段階的に進められた。1986年11月1日国鉄ダイヤ改正で荷物輸送(郵便郵送は改正の1か月前に終了)が一部の例外を除いて終了したこと、国鉄分割民営化に際して客車の置き換えに反対する組合員の多くがJR旅客鉄道会社に採用されなかったこと、機関車は旅客鉄道会社と日本貨物鉄道が個別に保有する形になったこと[注 7]でその動きが加速した。2002年に津軽海峡線の快速「海峡」の廃止により、昼間の定期列車から客車は完全に撤退した。以降は夜行の優等列車のみに客車の定期運行が残ったが、利用者の航空機・高速バスなどへの移行による利用の低迷やさらなる新幹線の開業に伴って夜行列車の削減が進んだ結果、2016年3月に急行「はまなす」の廃止によって、JRの定期列車から客車の運行が消滅した。さらにJR東海においては機関車牽引の列車そのものが事業用列車も含めて全廃され、完全に動力分散方式に移行している。
 計画において目指された旅客列車動力方式の近代化は、開始から56年をかけて実現したことになる。

5 脚注
5.1 注釈
[注 1]^ 実際、上記諸外国においては今日においても機関車牽引やプッシュプル方式などの動力集中方式が主流である。
[注 2]^ 1960年製造のEF30形もシリコン整流器であるが、関門トンネル連絡用の特殊設計で交流では全出力を発揮しないものであり、整流器の容量が小さい
[注 3]^ 荷物・郵便輸送においては、大都市部ではこれらの車両のみで編成される専用列車が多かったが、地方部では専用列車を運行するほどの需要がないため旅客列車に荷物車・郵便車を混結していた。これらの車両はそのまま幹線系の荷物列車に連結して継送するため直通運用を行う線区の郵便・荷物輸送は客車で行う必要があった。
[注 4]^ 動力の種類によって動力車操縦者の免許、整備資格、配置区(主に一般形と急行形の気動車は機関区に、電車は電車区に配置される)が異なる。動力方式の切り替えや新形車の導入のたび、合理化(職場や人員の整理)を推進したい本社や各鉄道管理局と、それによって雇用が脅かされるとする労働組合が対立し、折衝に多大な時間と労力を要するようになっていた。
[注 5]^ 内房線、外房線の電化は、需要の他に鹿野山測地観測所の地磁気観測に影響があることから、この時点では直流電化は不可能とされていた。
[注 6]^ 1975年3月10日国鉄ダイヤ改正の時点で、定期の昼行優等列車で客車を使用していたのは、函館本線の急行「ニセコ」1往復のみであった。
[注 7]^ 民営化後の旅客鉄道会社が営業列車運行用に製造した機関車は、JR東日本によるEF510形15両と、JR九州がななつ星in九州のために製造したDF200形1両のみである。

5.2 出典
[1]^ 「日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで」pp62.65
[2]^ 「日本の鉄道史セミナーpp98.99
[3]^ 『日本の鉄道史セミナー』 171頁。
[4]^ 『鉄道車両を知りつくす』 川辺謙一 学習研究社 76頁。
[5]^ 『日本の鉄道史セミナー』 177頁。
[6]^ 『日本の鉄道史セミナー』 172頁。
[7]^ 『日本の国鉄』 168頁。
[8]^ 『日本の国鉄』 169頁。
[9]^ 浅原信彦「国鉄蒸気機関車略史」『Rail Magagine』2015年5月号(No.380)、ネコ・パブリッシング
[10]^ 『日本の鉄道史セミナー』 168頁。
[11]^ 石原米彦「山陽・鹿児島本線の電化方式について」『交通技術』第13巻第10号、交通協力会、1958年。
[12]^ 『日本の鉄道史セミナー』 179頁。

6 参考文献
・『鉄道ジャーナル』1996年11月号
・久保田博『日本の鉄道史セミナー』グランプリ出版、2005年
・原田勝正『日本の国鉄』岩波書店<岩波新書>、1984年

7 関連項目
・交流電化
・SLブーム
・日本の鉄道史
・ヨンサントオ
・鉄道の電化
最終更新 2020年12月29日 (火) 12:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


鉄道車両の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
11 動力分散と高速鉄道
 一方、蒸気機関車を単純に電気機関車・ディーゼル機関車に置き換えるのではない、別の無煙化の道が日本で実施された。日本では、軟弱な地盤の関係もあり線路の制限軸重が厳しく、重量のある機関車を高速走行させることは難しかった。このため、編成全体に動力を配置した動力分散方式を用いた電車・気動車方式を中心として発展させていく方針が採られた。コスト面では動力集中方式に劣ると見込まれたが、運用効率がよいことでカバーできると考えられた。
 1950年から、東京 - 沼津間に80系が投入され、湘南電車として運転を開始した。それまで短距離の通勤・通学目的の列車に限定されていた電車が、初めて客車列車を置き換える目的で投入され、120 km以上の長距離を客車列車並みの長大編成で運転されるようになった。車内の設備も客車と遜色がない設備が用意された。
 1958年には151系が投入され、東京 - 大阪の電車特急「こだま」として運用を開始した。大戦前のイタリアでETR200型が長距離特急用に開発されていたことに次ぐものである。これにより長距離の優等列車でも電車が積極的に用いられることになった。
 気動車の面でも開発が進められ、1961年にはキハ81系が投入され、上野 - 青森間に「はつかり」として運転を開始した。これにより、気動車もまた長距離優等列車として用いられるようになった。
 こうした動力分散方式の車両開発のひとつの到達点として、1964年に東海道新幹線が世界最初の高速鉄道として開業した。東海道新幹線は、全電動車方式の0系を用いている。200 km/hを超える最高速度での営業運転やその列車本数の多さ、在来線と完全に独立したシステムなど多くの点で世界で初めてで特徴的なものであった。
 日本における高速鉄道の成功は、航空機と自動車に押されて鉄道が斜陽化しつつあったヨーロッパに大きな影響を与え、まずフランスで高速化の取り組みが始まり、当初は在来線の列車の200km/h走行から始まって、1981年には新幹線よりも最高速度の速いTGVが開業した。しかしTGVでは動力集中方式が採られ、日本の動力分散方式まではヨーロッパに波及しなかった。1991年にはドイツでICEが運転を開始している。
 当初は電車に直流電動機を使用していたため、保守に手間が掛かることがヨーロッパで動力分散方式が嫌われた大きな理由となっていた。しかし1990年代に入りVVVFインバータ制御が実用化されると電車に交流電動機が用いられるようになり、保守の手間はあまり問題とならなくなった。また回生ブレーキの技術が用いられるようになると、さらに動力分散方式が有利となり、ドイツでは2000年にICE 3が電車方式で開発された。動力集中方式に拘っていたフランスでも動力分散方式のAGVが開発されるなど、次第に動力分散方式が普及する傾向になっている。

13 参考文献
・久保田 博『鉄道工学ハンドブック』グランプリ出版、1995年、初版(日本語)。ISBN 4-87687-163-9。
・伊原 一夫『鉄道車両メカニズム図鑑』グランプリ出版、1987年、初版(日本語)。ISBN 4-906189-64-4。
・『最新 電気鉄道工学』電気学会電気鉄道における教育調査専門委員会、コロナ社、2000年、初版(日本語)。ISBN 4-339-00723-4。
・江崎 昭『輸送の安全からみた鉄道史』グランプリ出版、1998年、初版(日本語)。ISBN 4-87687-195-7。
・齋藤 晃『蒸気機関車200年史』NTT出版、2007年、初版(日本語)。ISBN 978-4-7571-4151-3。
・齋藤 晃『蒸気機関車の興亡』NTT出版、1996年、初版(日本語)。ISBN 4-87188-416-3。
・『鉄道電化と電気鉄道のあゆみ 創立30周年記念』鉄道電化協会、鉄道電化協会、1978年、初版(日本語)。
・青木 栄一『鉄道の地理学 鉄道の成り立ちが分かる事典』WAVE出版、2008年、初版(日本語)。ISBN 978-4-87290-376-8。
・ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史 19世紀における空間と時間の工業化』加藤二郎訳、法政大学出版局、1988年、初版(日本語)。ISBN 4-588-27641-7。
最終更新 2020年4月15日 (水) 00:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


鉄道の電化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

鉄道の電化(てつどうのでんか)とは、鉄道の動力を電気にすることである。
4.2 日本
 電気軌道では、路面電車系統では1895年(明治28年)に京都市で京都電気鉄道が開通しているが、一般の鉄道では甲武鉄道(現在のJR中央本線)が1904年(明治37年)に飯田町 - 中野間を電化したのが始まりである。当時の電化には、600V(京都電気鉄道などのように500Vの所も一部存在)の直流饋電が採用されていた[1](というより用いないといけなかった[注釈 17])。甲武鉄道は1906年(明治39年)に国有化され国有鉄道初の電化区間となった。以降、大正期は山手線など東京都市圏での通勤電車の走行を目的に実施され、昭和初期には城東線(現在の大阪環状線)など大阪都市圏でも実施された。
 一方私鉄では蒸気機関車運行だった南海鉄道(後の南海電鉄)が1907(明治40)年から電化を始め、1911年(明治44年)には60㎞以上の区間の電化を完成させるなど国有鉄道より長大な電化区間が誕生し、この時期国有鉄道にもなかった総括制御付きのボギー車(電2形、1909年)や、貫通扉や便所のある電車(電3・電附1形、1911年)導入など、この当時は私鉄の方が電化に関しては先進的な面が強かった[30]。
 もっとも国鉄側も手をこまねいていたわけではなく、1912(明治45)年に煤煙問題に悩まされていた碓氷峠を電化し、初の電気機関車の導入、1914(大正3)年には、京浜線(現在の京浜東北線)の電車運転開始に際し輸送量増加に伴う電圧降下防止に昇圧されることになり、当時の技術などを考慮した結果それまでの600Vから1200V(ちょうど2倍の電圧なので電動機の直列並列を切り替えれば従来の600V区間との直通もできた)が使用され、その後技術向上もあってさらに電圧をあげられるようになり、1922年(大正11年)に出された東海道本線の全線1500V電化の計画[注釈 18]に先立って試験を行い、その結果を私鉄にも公開した所、同年の大阪鉄道が私鉄で初めて1500V直流電源を採用(河内長野-布忍間)し、東海道線電化以後開業の私鉄は基本的に1500Vを採用するようになり、国鉄も京浜線・中央線・山手線を1931年(昭和6年)までに1500Vに昇圧した[31]。
 時系列的に少し戻るが、昇圧のきっかけとなった東海道本線電化計画は試験機関車が来る前[注釈 19]から丹那トンネルの開通まで見越して(実際の開通は1934年)東京から国府津まで1500V直流で電化(1925年)したが、その後は東海道線の電化は一時考えないで大阪付近の輸送量が多い地域の電化や清水トンネル・仙山線といった長大トンネル付近の電化を優先的に行い、手間取っていた丹那トンネルの工事完了後は再び東海道線電化も考えられたが戦争が起こり電化工事は戦後まで持ち越されている[32]。 (これら以外では関門トンネル(1941年(昭和16年))、外地の朝鮮総督府鉄道京元本線の福渓 - 高山間(1944年(昭和19年)なども電化)
 こうした限られた部位のみの電化は当時の軍部が国有鉄道を建設・運営する鉄道院・鉄道省に対し、戦時に変電所を攻撃されると運転不能になることを理由に、基本的には非電化とすることを主張していたと言われているが[注釈 20]、国鉄の技師であった朝倉希一によると電化の遅れについては軍隊の話は一切出ず「イギリスから輸入した電気機関車のトラブルとそれに伴う高コストが電化を遅らせた」としている[注釈 12]
 なお、一から路線を作る予定だった「弾丸列車計画」(後に東海道新幹線として帰結する)でも東京-静岡・名古屋-姫路の2か所のみを直流3000Vで電化し、ここ以外は当面非電化による蒸気機関車牽引予定で[33]、そのために大型の蒸気機関車の設計がいくつか行われていた[34]。
 この時期は私鉄でも電化工事が進み、1927年には小田原急行鉄道で82km、そして1929年・1930年には関東の東武鉄道と関西の参宮急行電鉄で立て続けに、130kmを超す当時としては異例の長距離電車が運行され[注釈 21]、目黒蒲田電鉄・宮城電気鉄道・富山電気鉄道など当初より電気軌道の利便性を兼ね備えた電気鉄道の開業が相次いだ。 (外地も含めると金剛山電気鉄道の鉄原 - 内金剛なども長大電化区間になる)
 こうした大手の私鉄と異なり中小私鉄では戦前は電化ではなく内燃動車で効率を上げたところも多かったが、太平洋戦争の影響でガソリンなどは配給制(闇市場でも高騰)になったため内燃動車に頼れなくなり、蒸気機関車が復帰を始めるも、戦争末期から石炭も品質が低下し数量確保さえ困難な時代[注釈 22]に成ったため、石炭産地の北海道と九州以外の非電化私鉄は燃料の確保に支障をきたすようになった。
 これに反し電気事業の進歩は著しく発電力は戦前以上に進んだため、中小私鉄でさえ多少の投資をしてでも電化した方が採算が合うと電化に踏み切ったところが多かった。
(特に昭和21年から26年(1946 - 1951年)は電化の件数が多く、1946年1月の近江鉄道八日市線から、1951年12月の長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の大半まで、(既存電化区間有無にかかわらず)一部分の電化や軌道・貨物線も含めると24社[注釈 23]もあり、大半は十数km程度の電化だったが、大井川鉄道39.5km、長岡鉄道31.6km(翌年残り2kmも電化)と30km以上も一度に電化している鉄道も存在している[注釈 24]。)
 しかし、その後はドッジ・ラインによる金融引締めが始まり電化工事の資金繰りが困難になった事、さらに燃料事情が好転、石油類の安定供給ならびに気動車の普及に伴い、非電化路線の電化事例は1954年(昭和29年)の三岐鉄道を最後に、約20社程度に留まった[注釈 25][注釈 26]。
 国鉄でも組織内部のみならず参画院方面からも鉄道電化が要望されることとなり、十河信二が国鉄総裁の時、3000kmの順次電化計画のため電化委員会が設けられ、蒸気運転の状態において電気と蒸気の経済比較の結果、直流1500Vでも十分電化運転が有利で、交流なら(地上設備を減らせるので)なお有利となった[注釈 27]、1950年代以降、多くの路線が電化されていき、東海道本線については1956年(昭和31年)11月19日、米原 - 京都間を最後に、支線を除く全線の電化が完了した。これを記念し、1964年(昭和39年)に鉄道電化協会がこの日(11月19日)を「鉄道電化の日」に制定した(→日本の鉄道史・1956年11月19日国鉄ダイヤ改正も参照)。
 また、直流饋電は多くの地上設備が必要でありコスト高となるため、電化が遅れていた東北、北陸、九州、北海道の電化を今後進めることも見越して、1954(昭和29)年から仙山線で商用周波数による交流電化の試験が開始され、1957年には同じく交流電化試験を行った北陸本線と共に、仙台 - 作並間 (50 Hz) と、田村 - 敦賀間 (60 Hz) での営業運転がはじまる[1]など実用化され、その後北海道・関東の太平洋側と東北・北陸(新潟周辺除外)・九州などに広がった[注釈 28]。戦後の電化は東海道本線を皮切りに、山陰地方を除く本州と九州で進められて行ったが、一方で北海道と四国の電化区間は短区間に留まった。特に四国では国鉄時代は国鉄分割民営化直前に本四備讃線開業に合わせて香川県内の一部区間で実施されたに過ぎない。 分割民営化後も引き続き電化区間の延長が実施されているが、内燃動車の性能向上により必ずしも電化の必要はなくなっている。2018年現在、JRの在来線は北海道、東北、北陸、九州を中心に交流2万V(海峡線は交流2万5千V)饋電が行われているほかは直流1500V饋電、新幹線はすべて交流2万5千Vである[1]。

6 脚注
6.1 注釈
[注釈 12]^ 原文「東海道線電化の一部として東京-国府津間の電化のために一括してイギリスに注文した機関車の品質が悪く、安全運転さえできなかった。(中略)多くの改造の結果使用に耐える状態になったが、電化論者の主張は完全に裏切られ、電化は高価であることを事実上に示した。これが国鉄の電化の実施を遅らせた大きな原因となった。」((朝倉1979-11)p.104)
[注釈 17]^ 当時の「電気事業取締規則及び電気鉄道電機取締規則」で電気鉄道は直流電圧600V以下という制限があり、これ以上の高電圧が使えなかった。
[注釈 18]^ 「東海道線全線を大正17年までに電化する」というような計画が出され閣議決定、東京-国府津の東海道本線と、国府津-熱海の熱海線がまず電化されることになっていた。((福原2007)p.62)
[注釈 19]^ なお、電気機関車無しでも電気動力運行を始めるつもりだった証拠として、すでに国産技術が確立した電車で100㎞近い長距離に対応できるようにしたデハ43200形が計画だけではなく実際に製造されている。(ただしデハ43200形は関東大震災による被災復旧に回され、実際にこの目的には使用されないまま終わっている。)
((福原2007)p.62-63「1-13 木製電車の最後を飾った伝説の名車」)。
[注釈 20]^ 東海道全線即時電化論者の内田信也は鉄道大臣時代に東海道本線の電化を目論み、東久邇宮稔彦王に陸軍を押さえるよう頼んだが、押さえることはできなかった。『喜安健次郎を語る』1959年、34-36頁
[注釈 21]^ なお、戦前日本で最長の距離を走る電車列車は1912年(昭和12年)より豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道をまたがって運行された豊橋-辰野間の196㎞。
(ただし、伊那電気鉄道は他と架線電圧が異なり1200Vなので、戦後の1955年に昇圧を行い電動車も直通可能になるまでは付随車だけ乗り越しで電動車は天竜峡駅で交代。)
同区間は戦中の1943年(昭和18年)に国有化されて飯田線になっているので、国鉄でも戦後80系電車に更新されるまではここが最長の「電車列車の運行区間」であった。
((福原2007)p.108「戦前期の最長距離電車運転」)
[注釈 22]^ 『交通年鑑』昭和25年版161 - 163ページによると、昭和22年時点の石炭の質は戦争の影響がほぼない昭和11年と比較して熱量が「6450kcal/kgから5350kcal/kg」、完全燃焼前にボイラーから出て熱量の損失になる粉炭率が「37-38%から70%」に悪化。そしてここまで低質になったにもかかわらず価格はインフレもあり282倍に高騰した。
[注釈 23]^ 電化順に近江鉄道・富山地方鉄道・淡路交通・福井鉄道・栃尾鉄道・大和鉄道・弘南鉄道・三重交通・土佐電気鉄道・下津井鉄道・大井川鉄道・北陸鉄道・流山鉄道・小坂製錬小坂線・秋田中央交通・遠州鉄道・住友別子鉱山鉄道・伊予鉄道・東濃鉄道・栗原鉄道・相模鉄道・十和田鉄道・松尾鉱業鉄道・長岡鉄道。 なお、相模鉄道が大手私鉄扱いになったのは1990年からで当時は含まれない。
[注釈 24]^ どちらも水力発電所が盛んな地域の鉄道である。
[注釈 25]^ ドッジライン自体は昭和24年から開始だが上記のデータは電化工事完了日時なのでずれがある。(『交通年鑑』昭和27年度版、交通新聞社、p.350・351)
[注釈 26]^ なお、茨城県ではそれとは別に石岡市柿岡にある気象庁地磁気観測所での地磁気観測への影響回避のため直流電化ができないから非電化が多く残っている。
[注釈 27]^ なお、これにかかわった朝倉希一によると、この時には「蒸機・電機共に機関車を新造する」という前提で計算したため、厳密には現状の機関車を使用できる蒸気運転はもう少し低コストに見積もるべきで、1921年にミルウォーキー鉄道に調査に行った際「電化で不要になった蒸気機関車を全部下取りに出すから電気機関車購入のコスト(同鉄道では全電化費の半分)は実質半分ですむ」というそこまで中古の機関車が高く売れるのか怪しい情報を聞かされたのを思い出したほか、電化の進展が速くなると蒸気機関車の他地域の転用ができなくなるのでそこまで楽観視するべきかどうかと指摘した所、部外の委員がこの調査でよいと言われて承認することにしたという。((朝倉1979-5)p.118)
[注釈 28]^ なお、既存直流区間も「(地上設備を減らせる)3000Vに昇圧させるべきではないか」という案が1975年頃から出たが、わが国で多い電車方式では(イタリアに3000Vで電車使用例があるので不可能ではないものの)高電圧の絶縁が厳しくなること、改造する車両数と電力設備が莫大なことから見送られた。((持永2012)p.32)

6.2 出典
[1]^ 宮本昌幸著、『鉄道の科学』、講談社、2006年6月20日初版第1刷発行、ISBN 4062575205
[30]^ (福原2007)p.48-49「1-7 ボギー車の連結運転と阪和間の運転(南海電1~3形)」
[31]^ (福原2007)p.65-66「1-14 架線電圧の変異と黎明期の電灯電力供給事業」
[32]^ (朝倉1979-5)p.117
[33]^ (齋藤・杉田2007)p.39
[34]^ (齋藤・杉田2007)p.32-37

7 参考文献
岩・沙克二・菅建彦『鉄道の百科事典』鉄道の百科事典編集委員会、丸善出版株式会社、2012年、p.1-58、第1章「鉄道学入門」1.1「鉄道の起源と発展史」。ISBN 978-4-621-08462-5。
フ・ランコ・タネル『ヴィジュアル歴史図鑑 世界の鉄道』黒田眞知・田中敦・岩田斎肇訳、株式会社河出書房新社、2014年。ISBN 978-4-309-22609-5。
福・原俊一『日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで』JTBパブリッシング、2007年。ISBN 978-4-533-06867-6。
持・永芳文・他『鉄道技術140年のあゆみ』持永芳文・宮本昌幸、株式会社コロナ社、2012年、p.23-188、第2章「電気鉄道と電力供給の変遷」第3章「鉄道車両の変遷」。ISBN 978-4-339-00832-6。
デ・イビット・ロス『世界鉄道百科事典』小池滋・和久田康雄訳、悠書館。ISBN 978-4-903487-03-8。
齋・藤晃・杉田肇『幻の国鉄車両』岡田秀樹、JTBパブリッシング、p.30-37「幻の広軌新幹線(弾丸列車)計画に登場する蒸気機関車」(齋藤)・38-43「幻の大陸連絡広軌新幹線(弾丸列車)の電気機関車」(杉田)。ISBN 978-4-533-06906-2。
朝・倉希一「技術随筆 汽車の今昔5「6.鉄道の電化」」『鉄道ファン』第19巻第5号(通巻217号、雑誌06459-5)、株式会社交友社、1979年5月1日、 112-118頁。
朝・倉希一「技術随筆 汽車の今昔11「11.広軌改築論、12.蒸気機関車を送る」」『鉄道ファン』第19巻第11号(通巻223号、雑誌06459-11)、株式会社交友社、1979年11月1日、 p.102-105。
大・塚和之「ジーメンスの電気機関車第1号」『鉄道ファン』第19巻第11号(通巻223号、雑誌06459-11)、株式会社交友社、1979年11月1日、 78-86頁。
最終更新 2021年1月11日 (月) 16:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 「東京・大阪間を結ぶ高速旅客列車にガソリンカーをあてる構想もあった」ことから、戦前から動力分散化が始まっていた、と言えるかもしれない。"ガソリンカー"から「ディーゼルカー」に変わるのは以後の歴史の通り。
 戦争末期から石炭不足になり、1949年(昭和24年)のE10形を最後に国鉄向けの蒸気機関車の新製は行われていない。以後は既存の蒸機を改造しただけである。私鉄に至っては大手私鉄は初期から電車運転、戦後一時期に地方私鉄は電化ブームになった。
 1953年から『国鉄キハ10系気動車』(キハ45000系)が量産されて、これでスタートして既存の電化路線に加えて15年計画で主要幹線5,000キロを電化し、残余はディーゼル化をし、蒸気運転を廃止する(1975年昭和50年)とゴール地点が決められた様なモノ(1960年(昭和35年)から実行)。私はスケジュール的に無理な「ディーゼル機関車・ディーゼルカー」の開発が、新幹線開発と同時に行われたことが"国鉄赤字"の一つだと今でも思う。
Posted at 2021/01/25 16:24:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 蒸気機関車史 | ニュース

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