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2025年07月24日 イイね!

戸塚村 藤兵衛新田(とうべいしんでん)

戸塚村 藤兵衛新田(とうべいしんでん)[写真・画像] 埼玉県川口市 戸塚環境センター
住所 〒333-0803 川口市大字藤兵衛新田290

戸塚村
 戸塚村(とづかむら)は、埼玉県北足立郡に存在した村。
 1956年(昭和31年)4月1日、大門村、野田村との合併による美園村の成立により、消滅。現在の川口市における戸塚地区とは旧戸塚村ならびに旧大門村の差間と行衛のことである。
  戸塚村 とづかむら
廃止日 1956年4月1日
廃止理由 新設合併
戸塚村、大門村、野田村 → 美園村
現在の自治体 川口市
 廃止時点のデータ
都道府県 埼玉県
郡 北足立郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 2,824人(国勢調査、1955年)
隣接自治体 埼玉県:川口市、岩槻市、
北足立郡草加町、安行村、埼玉県、南埼玉郡越谷町
 戸塚村役場
所在地 埼玉県北足立郡戸塚村
座標 北緯35度52分12秒 東経139度44分45秒
1.地理
埼玉県北足立地域の南東部に位置する。
2011年現在は川口市北東部に相当する。
2.歴史
・1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に平行して戸塚、西立野、長蔵新田、久左衛門新田、藤兵衛新田の2箇村3新田が合併し、戸塚村が成立。
・1956年(昭和31年)4月1日 - 大門村・野田村と合併し、美園村が成立。戸塚村は消滅した。
・1962年(昭和37年)5月1日 - 美園村のうち、旧戸塚村と旧大門村の差間・行衛が川口市に編入される。旧大門村の残部と旧野田村は浦和市へ編入された。
・2001年(平成13年)3月28日 - 埼玉高速鉄道・埼玉高速鉄道線開業。南側に隣接していた旧安行村との境界地に駅が設置され、戸塚安行駅と命名された。
最終更新 2022年2月23日 (水) 05:26 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 新兵衛新田 → 新栄町(しんえい、後に新栄)
と草加市により地名変更されたが、市境にある新栄団地の隣に、
川口市"戸塚環境センター"が隣接しているではないか。
住所が川口市「藤兵衛新田」、おとなりが「九左衛門新田」
バス停「川口東高入口」-「戸塚鋏」-「戸塚新田」-「環境センター」
 "綾瀬川""七左ェ門川"を挟んで越谷市七左町(しちさちょう)に
武蔵野中学校が設置されている・・。
Posted at 2025/07/24 16:36:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都道府県区市町村 | 旅行/地域
2025年07月18日 イイね!

埼玉県北足立郡新田村(しんでんむら)

埼玉県北足立郡新田村(しんでんむら)パリポリくんバス新田ルートを
平日限定運行に変更します
更新日:2025年3月1日
 令和7年3月末まで試験運行中のパリポリくんバス新田ルートは、本格運行への移行基準である収支率を達成することができませんでしたが、
令和5年10月の改善運行以降、利用状況が改善傾向にあることから、試験運行期間を1年間延長します。
なお、令和7年4月1日以降は利用傾向を踏まえ、
平日のみの運行に変更します。
パリポリくんバスの運行を継続するためには、皆様の積極的な利用が必要です。ぜひ、パリポリくんバスの積極的な利用をお願いします。
注:運賃及び時刻の変更はございません。
草加市交通対策課・交通安全係・交通政策係

新田村(しんでんむら)は埼玉県の南東部、北足立郡に属していた村。
 新田村
廃止日 1955年1月1日
廃止理由 新設合併
北足立郡草加町、谷塚町、新田村 → 草加町
現在の自治体 草加市
 廃止時点のデータ
 埼玉県 北足立郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 3,288人(国勢調査、1950年)
隣接自治体 北足立郡草加町、安行村、戸塚村
南埼玉郡越谷町、川柳村
 新田村役場
所在地 埼玉県北足立郡新田村
座標 北緯35度51分05秒 東経139度47分32秒
1.地理
河川:綾瀬川
2.歴史
・1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、九左衛門新田(くざえもん)、
長右衛門新田(ちょうえもん)、清右衛門新田(せいうえもん)、
新兵衛新田(しんべえ)、金右衛門新田(きんうえもん)、篠葉村(しのはむら)、
東中曽根村(なかそね)、槐戸村(さいかち)、善兵衛新田(ぜんべえ)
が合併し北足立郡新田村が成立する。
※1879(明治12)年3月17日~
(埼玉)足立郡中曽根村 →
北足立郡東中曽根村(現・草加市)、西中曽根村(現・鴻巣市)
・1955年(昭和30年)1月1日 草加町、谷塚町と合併し草加町となる。
3.交通
3-1.鉄道
東武鉄道 伊勢崎線:新田駅
最終更新 2023年2月13日 (月) 23:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

 草加市(そうかし)は、埼玉県の南東部に位置する市[1]。施行時特例市に指定されている。
 人口は約25万人。さいたま市、川口市、川越市、所沢市、越谷市に次いで県内6位の人口を有する。旧北足立郡。1958年(昭和33年)市制施行。
 都道府県 埼玉県
市町村コード 11221-6
法人番号 6000020112216
面積 27.46km2
総人口 250,502人(推計人口、2025年5月1日)
人口密度 9,122人/km2
隣接自治体 川口市、越谷市、三郷市、八潮市、吉川市
東京都足立区
市の木 マツ
市の花 キク
他のシンボル 市歌:想い出はいつも
 草加市役所
市長 山川百合子
所在地 〒340-8550
埼玉県草加市高砂一丁目1番1号
北緯35度49分31秒 東経139度48分19秒
1.概要
 草加松原や草加せんべいで知られる。江戸時代、日光街道で江戸から2つ目の宿場町である草加宿として栄え、その周辺部は水田地帯で稲作が盛んであった。
 戦後当初は5万人にも満たなかったが、高度経済成長期における1963年に当時東洋一のマンモス団地と言われた松原団地の造成や、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)と営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線の相互直通運転開始により人口が爆発的に増大し、急激な都市化が進行した。
 また、東武伊勢崎線は2003年3月19日からは半蔵門線・東急田園都市線との相互直通運転も開始され、都心への利便性が更に向上している。
 都営日暮里・舎人ライナーの開通に伴い、遊馬町、柳島町などの市西部の最寄り駅は、見沼代親水公園駅(足立区)である。
 毛長川を隔てて南側を東京都足立区と接しており、東京に通勤・通学する、いわゆる「埼玉都民」が多く、市内の広範に住宅地が広がる。
 自動車での移動も、以前からあった南北を結ぶ国道4号に加えて、東京外環自動車道やその高架下を利用した国道298号も開通し、東西の移動が格段に向上した。
 中心市街地(草加駅周辺)は、都心まで約15キロメートル、南部の谷塚では約10キロメートルという立地にありながら宿場町の面影を残す住宅地である。交通不便な市北東部以外は宅地化が進み、今後大規模な開発を行う余地が無いため、松原団地の建て替え事業(コンフォール松原)や草加宿を中心とした都市計画「今様草加宿」が進められている。2000年に彩の国中核都市に指定、2004年に特例市に移行した。
2.市勢
面積:27.46km2
総人口:250,225人
男性:126,603人
女性:123,622人
世帯数:120,033世帯
年間増加数:580人
年間増加率:0.23%
平均年齢:45.5歳
(2021年(令和3年)1月1日現在) 出典:草加市の人口
3.地理
  関東平野のほぼ中央部に位置し、市域の大部分が自然堤防による微高地とその後背湿地からなる低地であり、海抜は約3メートルほどである[2]。そのため、集落は微高地に形成され、後背湿地は水田として利用されてきた。市内には綾瀬川をはじめ多くの河川が存在するために、江戸時代より各種の治水対策が施されてきたが、昭和40年代以降の急激な人口増、水田の宅地化により保水力が損なわれ、洪水に悩まされることになった。しかしながら、東京外環自動車道とともに計画された綾瀬川放水路の完成以降は、大規模洪水は激減した。 しかし、いまだに水害は多く市内の小中学校では避難方法などの教育活動が熱心に行われる。
綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説が有力である。
市南部の毛長川沿いの自然堤防上には弥生時代終末期から古墳時代前期のものと思われる古墳群が存在する。
草加駅東側は丸井、イトーヨーカドーを核として構成する都市再開発ビル群であるアコスや、西友といった大型商業施設がある一方、草加宿を中心とした商店街も広がり、江戸時代の面影を残す。駅西側は閑静な住宅街が広がり、埼玉都民のベッドタウンとしての一面を見せる。
市域の中央部は宅地化が進んでいるものの、一部に農地や屋敷林も残されている。
旧日光街道沿いにある「草加松原」、そして「百代橋」「矢立橋」は草加のシンボル。かつて舟運で隆盛を極めた綾瀬川、札場河岸。現在は舟着き場の石段を復元した公園として整備され、五角形の望楼のほか、この地を訪れた松尾芭蕉の像や高浜虚子、正岡子規の句碑なども建てられている。
東武伊勢崎線獨協大学前駅西口には、竣工当時「東洋一」と言われた松原団地が、旧日本住宅公団により造成されている。東西の長さは、獨協大学前駅から国道4号草加バイパスまで約1キロメートルあるマンモス団地である。しかし、建築から相当年数が経ち、建物の老朽化も著しいため、都市再生機構 (UR) により解体、再開発が行われている。
河川:綾瀬川、中川、古綾瀬川、伝右川、毛長川、辰井川、葛西用水路、八条用水、綾瀬川放水路、千疋幹線排水
4.歴史
古墳時代前期(およそ250年 - 400年)頃 - 草加市では遅くとも古墳時代前期には人の定住が始まっており、当時の遺跡として東地総田遺跡[3]や谷塚古墳群等が残っている。
1221年 - 北条義時、承久の乱の戦勝を祝して武蔵国矢古宇郷(現在の草加市周辺)の郷司職50余町(約50ha)を鶴岡八幡宮に寄進する(「吾妻鏡」)。
1573年 - 地名『草加』の初見。(八潮市「持昌院文書ほか」)
1603年 - 草加地域の大半が江戸幕府直轄領となる。
1630年 - 江戸幕府、正式に草加宿を伝馬宿として認める(草加は日光道中の宿場町になる)。
1869年(明治2年)1月28日 - 武蔵知県事・河瀬秀治の管轄区域をもって小菅県が発足。小菅県の管轄となる。
1871年(明治4年)11月14日 - 浦和県・忍県・岩槻県の3県が合併して埼玉県が誕生。草加市域も埼玉県の管轄となる。
1879年(明治12年) - 足立郡の区域をもって行政区画としての北足立郡が発足。郡役所は浦和宿に設置。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制が施行され、南草加村・北草加村・谷古宇村・宿篠葉村(しゅくしのはむら)・吉笹原村・東立野村(ひがしたてのむら)・原島村(ばらじまむら)・与左衛門新田・弥惣右衛門新田・庄左衛門新田・太郎左衛門新田が合併し、北足立郡草加町が成立する。
1913年(大正2年) - 電灯が使用可能になる[4]。
1955年(昭和30年)

1月1日 - 草加町・谷塚町(やつかまち)・新田村が合併し、草加町となる。
8月1日 - 南埼玉郡川柳村(かわやぎむら)を編入する。
11月3日 - 旧川柳村の5つの大字のうち、伊原・上谷(うわや)・麦塚が草加町から分離し、越谷町に編入される(青柳と柿木は草加町側に残る)。

1956年(昭和31年)9月28日 - 南埼玉郡八条村のうち、立野堀が編入される。
1957年(昭和32年)5月1日 - 旧安行村の花栗・苗塚・北谷(一部)・原(一部)・小山(一部)が川口市から分離し、草加町に編入される。
1958年(昭和33年)11月1日 - 市制施行により、草加市となる。これに伴い、市内の大字を廃し、町名・町域変更が行われる。
彦右衛門新田 → 両新田西町
市右衛門新田 → 両新田東町
上谷塚 → 谷塚上町
中谷塚 → 谷塚仲町
下谷塚 → 谷塚町
東遊馬 → 遊馬町
原島 → 西町
南草加、東立野、庄左衛門新田(一部) → 氷川町
吉笹原 → 吉町
谷古宇 → 手代町、松江町、東町
宿篠葉 → 神明町へ編入
北草加、与左衛門新田、弥惣右衛門新田、太郎左衛門新田、庄左衛門新田(一部) → 栄町
立野堀 → 稲荷町
九左衛門新田 → 旭町(あさひちょう)
善兵衛新田 → 新善町(しんぜんちょう)
金右衛門新田 → 金明町(きんめい)
清右衛門新田 → 清門町(せいもん)
長右衛門新田 → 長栄町(ちょうえい、後に長栄)
新兵衛新田 → 新栄町(しんえい、後に新栄)
槐戸 → 八幡町(やはたちょう)
東中曽根 → 中根町(なかね、後に中根)
篠葉 → 弁天町(べんてん、後に弁天)
南青柳 → 青柳町
1965年(昭和40年) - 豪商浅古家(大和屋浅古質店)が所有する土地の一部を取得し、現市庁舎を建設する。
1967年(昭和42年) - 埼玉県草加保健所が設置される。
1968年(昭和43年) - 越谷市大字麦塚、大字千疋のそれぞれ極僅かな地域(麦塚:小字東、新田前耕地、蔵屋敷耕地、笹塚、山城耕地の各一部、千疋:小字九升田、庄権の各一部)を編入。(現在、越谷市では麦塚は川柳町(かわやなぎちょう)、千疋は東町(あずまちょう)と町名変更され地名が消滅してしまっているが、草加市に編入された部分の一部は、かなり狭小で無人の地区であるものの、柿木町内の一地区名として残っている。ちなみにこの千疋は、東京都中央区日本橋にある「千疋屋総本店」の屋号の由来となった創業の地である。)
1986年(昭和61年)4月1日 - 市町村防災行政無線運用開始(当時の夕方のチャイムは「夕焼け小焼け」)。
1990年(平成2年)4月1日 - 防災行政無線の夕方のチャイム「想い出はいつも」放送開始。
2004年(平成16年)4月1日 - 特例市へ移行。
2007年(平成19年)4月1日 - 防災行政無線放送等変更。
2008年(平成18年)
埼玉県草加保健所が越谷保健所及び吉川保健所と統合し、埼玉県越谷保健所草加分室に再編される。
9月1日 - 防災行政無線の子供の見守り放送開始。
2010年(平成22年)

埼玉県越谷保健所の再編が行われ、越谷保健所草加分室が埼玉県草加保健所に再度再編される。
4月1日 - 埼玉県越谷児童相談所草加支所が開設される。

2015年(平成27年)10月1日 - 草加市消防本部と八潮市消防本部が統合し「草加八潮消防組合」が設立される。
2016年(平成28年)

4月1日 - 草加八潮消防組合の業務が開始される。
10月3日 - 防災行政無線のデジタル化更新により、防災行政無線放送等変更。

2019年(平成31年)4月1日 - 児童相談所の機能強化に伴い、埼玉県越谷児童相談所草加支所が埼玉県草加児童相談所となる。
2023年(令和5年)5月8日 - 市役所新庁舎がオープン[6]。
2025年(令和7年)1月28日 - 埼玉県八潮市道路陥没事故が発生。市は下水道の使用を制限するよう呼びかけた[7]。
5.人口
草加市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 123,269人
1975年(昭和50年) 167,177人
1980年(昭和55年) 186,618人
1985年(昭和60年) 194,205人
1990年(平成2年) 206,132人
1995年(平成7年) 217,930人
2000年(平成12年) 225,018人
2005年(平成17年) 236,316人
2010年(平成22年) 244,062人
2015年(平成27年) 247,034人
2020年(令和2年) 248,304人
総務省統計局 国勢調査より
6.行政
6-1.主な公共施設
草加市立病院
谷塚サービスセンター
松原サービスセンター
新田サービスセンター
環境業務センター
勤労福祉会館
勤労青少年ホーム
スポーツ健康都市記念体育館
市民体育館
市民温水プール
市営総合運動場
歴史民俗資料館
中央図書館
草加市立中央公民館
原町コミュニティーセンター
瀬崎コミュニティーセンター
稲荷コミュニティーセンター
氷川コミュニティーセンター
八幡コミュニティーセンター
柳島コミュニティーセンター
谷塚ふれあいセンター
川柳文化センター
奥日光自然の家 - 栃木県日光市、草加市の保養施設
6-2.国の出先機関

法務省さいたま地方法務局草加出張所
国土交通省関東地方整備局北首都国道事務所
ハローワーク草加(草加公共職業安定所)

6-3.県の出先機関
草加保健所
草加児童相談所
越谷県土整備事務所神明排水機場
埼玉県企業局柿木浄水場(工業用水専用)
発達障害者就労支援センター「ジョブセンター草加」
埼玉県立そうか光生園障害者歯科診療所
6-4.その他機関
東埼玉資源環境組合第二工場(ごみ焼却施設、2016年4月から新工場が稼働)
6-5.広域行政
6-5-1.一部事務組合
・東埼玉資源環境組合:越谷市、吉川市、八潮市、三郷市、北葛飾郡松伏町とともに、可燃ごみ及びし尿処理を行っている。
・埼玉県都市ボートレース企業団:飯能市、加須市、本庄市、東松山市、狭山市、春日部市、羽生市、鴻巣市、深谷市、上尾市、越谷市、入間市、朝霞市、さいたま市とともに、戸田競艇の開催等に関する事務を行っている。
・草加八潮消防組合:八潮市とともに消防・救急業務、火薬類取締法・液化石油ガス法・高圧ガス保安法に基づく事務を行っている。
6-5-2.協議会
・埼玉県東南部都市連絡調整会議:越谷市、三郷市、吉川市、松伏町とともに公共施設の相互利用、図書館の広域利用、重症心身障害児施設中川の郷療育センターの共同設置、埼玉県東南部地域公共施設予約案内システム(まんまるよやく)の運営を行っている。また、政令指定都市移行を目標とした合併に関する会議を開催や構成する自治体の住民が参加できる事業を開催している。
・埼玉県南4市まちづくり協議会:川口市、蕨市、戸田市とともに、4市で共通する広域的な行政課題の連絡調整、図書館の相互利用、災害時における避難場所の相互利用、健康づくりをテーマとした各種のスポーツ交歓大会等の各種事業を開催している。また、埼玉県東南部都市連絡調整会議同様 県南4市(川口市・蕨市・戸田市・草加市)と合併する計画もある。
・東埼玉消防指令業務共同運用協議会:越谷市(越谷市消防局)、三郷市(三郷市消防本部)、吉川松伏消防組合(吉川市・松伏町)、春日部市(春日部市消防本部)、草加八潮消防組合(草加市・八潮市)とともに各消防本部で行っていた119番通報の受付及び各消防署等への通信指令業務を令和8年4月に統合する予定。
7.経済 産業
 総じて、第3次産業が中心である。しかしながら、工業団地(草加・八潮工業団地)では製紙工場もあり、第2次産業もある。
 日本を代表する米菓であるせんべいが名産である。「草加煎餅」として全国に知られる地域ブランド(地域団体商標)でもある。1932年(昭和7年)に組合が組織されると組織的なPRが展開された。第二次世界大戦中は原料米の統制により一時衰退したが、戦後間もなく復興した。1970年(昭和45年)ごろ最高の売上げと全国的な知名度が普及し、市域に約120店舗を数えた。その後、他地区から類似品の大量生産品が普及するようになり、売上げが減少している。

しかしながら、現在でも旧草加宿を中心に市域で約60店舗がある。手作り感の強い、醤油味がベースの丸い素朴な米菓である。東京都と隣接するため「東京みやげ」と扱われることも多く、同様なものとして、千葉県浦安市にある東京ディズニーランドのみやげ物がある。
 幕末から晒(さらし)業や浴衣(ゆかた)染めが市域南部を中心に栄えていた。浴衣染めは、かつては長板中型が行われていたが、大正期に導入された注染が主流となった。1960年頃には出荷額も最高に達したが、その後水質汚染などから規模を小さくしている。
 1935年(昭和10年)ごろから、三河島付近から皮革業者が広い土地と豊富な水資源を求めて市域中央部に進出し、それとともに同業者が集積してきた。第二次世界大戦中は一時衰退したが、朝鮮戦争を契機になめし業を中心に発展した。1970年(昭和45年)ごろから水質・悪臭汚染でなめし業は縮小したが、製靴や鞄製造など皮革加工業が市域に広く点在する。
 1958年(昭和33年)の市制施行ごろから、市域に工場進出が目立つようになった。1963年(昭和38年)から埼玉県が造成した草加工業団地の完成と、引き続き造成が行われた1967年(昭和42年)の草加八潮工業団地の完成により、60社余りの企業が進出した。また、中小企業が市域に広く点在している点も特長といえる。
 かつては全市的に稲作が盛んであったが、宅地化の波に押されて、市域北東部の柿木町・青柳付近を除き、急激に耕地面積を小さくしている。
 市域北部を中心にハスやクワイも収穫され、またキクを中心に花の栽培が行われるが、第1次産業は当市においてはかなり少数で、専業農家はごく少数になる
8.文化
●草加市民憲章(1988年11月1日 告示第235号)
わたくしたち草加市民は、綾瀬の流れと松原をシンボルとして、おおきな夢をはぐくんできました。人の心をたいせつにし、自然をいかした住みよいふるさとをめざして、ここに憲章をさだめます。
わたくしたちは、
1. 平和を愛し、文化的で、ゆたかなまちをつくります。
1. きまりを守り、安全で、せいけつなまちをつくります。
1. 健康に努め、親切で、さわやかなまちをつくります。
●草加市歌「想い出はいつも」
 1988年(昭和63年)制定。
●相撲
 草加市青少年相撲振興会の寄贈などにより、市内のほぼ全ての小学校に土俵が設置されている。また、大相撲追手風部屋が市内に部屋を構えている(以前は尾車部屋も設立当初は草加市に部屋を構えていた)。
●ハープ
 「国際ハープフェスティバル」や、若手ハーピストの登龍門、「日本ハープコンクール」を毎年開催している。
●美術
 公益財団法人美育文化協会が草加市吉町に拠点を設置している。
●体操
 コナミスポーツ体操競技部の練習拠点であるコナミ体育館が市内にあり、地域・社会支援活動の一環として、体操教室や演技発表会が行われている。2016年リオデジャネイロオリンピックには、当市に在住している内村航平、田中佑典、加藤凌平 が出場している。
9.地域
■行政地名
当市域では、1958年の市制施行時に大字が全廃され、市域全体が「町」となった。町村合併と地名変更の詳細については、「歴史」の節を参照。
市内の現行行政町名の「町」はすべて「ちょう」と読み、「まち」と読むものはない。
市域の大部分は旧北足立郡のうちであるが、旧八条村・川柳村の区域のみは旧南埼玉郡である。
●旧草加町
・神明(しんめい)一・二丁目 ・住吉(すみよし)一・二丁目 
・高砂(たかさご)一・二丁目 ・中央(ちゅうおう)一・二丁目 
・吉町(よしちょう)一 - 五丁目 ・手代町(てしろちょう)一 - 三丁目
・草加(そうか)一 - 五丁目 ・栄町(さかえちょう)一 - 三丁目 
・学園町(がくえんちょう) ・松原(まつばら)一 - 五丁目
・松江(まつえ)一 - 六丁目 ・西町(にしちょう)
・氷川町 (ひかわちょう)
 1955年の2町1村合併以前の旧草加町には11の大字があったが、1958年の市制施行時に大字は全廃されて「町」となり、地名も大幅に変更している(本記事の「歴史」の項参照)。
 上記の現行行政地名のうち、西町、氷川町は住居表示未実施地区で、他は住居表示実施済みである。
 市制施行時の「栄町」(丁目設定なし)には、現在の栄町一 - 三丁目のほか、松原一 - 五丁目の大部分、草加一 - 五丁目の一部、学園町が含まれていた。
 学園町は1987年の住居表示実施によって成立した町で、町域の全てが獨協大学の校地であり、世帯数・人口はゼロとなっている。街区符号・住居番号も「1番1号」しか存在しない。
 市制施行時には東町(あずまちょう)という町名があったが、1966年に廃止されている(現・中央及び住吉のうち)。
●旧谷塚町(やつかまち)
・谷塚町(やつかちょう) ・谷塚上町(やつかかみちょう)
・谷塚(やつか)一 - 二丁目 ・谷塚仲町(やつかなかちょう)
・瀬崎(せざき)一 - 七丁目(旧・瀬崎町の全域)
・両新田東町(りょうしんでんひがしちょう)
・両新田西町(りょうしんでんにしちょう)
・柳島町(やなぎしまちょう) ・新里町(にっさとちょう)
・遊馬町(あすまちょう)
1955年の2町1村合併以前の旧谷塚町には9の大字があったが、1958年の市制施行時に大字は全廃されて「町」となり、地名も一部変更している(詳細は「谷塚町」の項参照)。当地区は住居表示未実施の町が多い。両新田東町と両新田西町の境界は複雑で、多くの飛地がある。なお、2011年7月18日をもって、上記の谷塚町の一部と谷塚上町の一部で住居表示を実施し、「谷塚一丁目・谷塚二丁目」に町名が変わった。また同時に瀬崎町の全域が「瀬崎(一 - 七丁目)」として住居表示を実施した。
●旧新田村
・旭町(あさひちょう)一 - 六丁目 ・金明町(きんめいちょう)
・新善町(しんぜんちょう) ・清門(せいもん)一 - 三丁目
・長栄(ちょうえい)一 - 四丁目 ・新栄(しんえい)一 - 四丁目
・弁天(べんてん)一 - 六丁目 ・中根(なかね)一 - 三丁目
・八幡町(やはたちょう)
 1955年の2町1村合併以前の旧新田村には9の大字があったが、1958年の市制施行時に大字は全廃されて「町」となり、地名も大幅に変更している(詳細は「新田村」の項参照)。上記のうち、旭町一 - 六丁目、弁天一 - 六丁目、中根一 - 三丁目は住居表示実施済み。他は未実施であるが、2014年11月22日に、新栄町、長栄町、清門町の全域で町名変更が実施され、それぞれ新栄一 - 四丁目、長栄一 - 四丁目、清門一 - 三丁目となった。
●旧川口市安行から編入
・原町(はらちょう)一 - 三丁目 ・北谷(きたや)一 - 三丁目 
・北谷町(きたやちょう) ・苗塚町(なえづかちょう) 
・小山(こやま)一・二丁目 ・花栗(はなぐり)一 - 四丁目
 北谷町と苗塚町は住居表示未実施。北谷町は、北谷一 - 三丁目の住居表示実施後の残余。
●旧八条村から編入
・稲荷(いなり)一 - 六丁目
住居表示実施済み地区。
●旧川柳村
・柿木町(かきのきちょう) ・青柳(あおやぎ)一 - 八丁目 
・青柳町(あおやぎちょう)
 柿木町と青柳町は住居表示未実施。青柳町は、青柳一 - 八丁目の住居表示実施後の残余。
●住宅団地
・コンフォール松原(旧草加松原団地) ・新栄町団地 ・草加旭町団地
・草加稲荷住宅(稲荷) ・草加花栗住宅(花栗) ・草加原町住宅(原町)
・草加原町第三住宅(原町) ・草加原町第二住宅(原町)
・草加新善町住宅(新善町) ・草加青柳住宅(青柳)
・草加柳島住宅(柳島町) ・草加遊馬住宅(遊馬)
・UR草加団地(中央、1960年7月 1棟のみ現存 全面建て替え 旧日本住宅公団関東支所)
10.旧松原団地跡地の大規模再開発~WELL BIND(ウェルバインド)
 草加市、獨協大学、UR 都市機構、東武鉄道(株)、トヨタホーム(株)の5者は、獨協大学前広域における産官学連携によるまちづくりについての協定を2024年5月9日、締結した。 まちづくりのために必要な協議組織の構築および明確な将来像の策定を進める。また、各者が所有する施設の活用、多世代の共生およびコミュニティ活動の推進、教育や研究活動、まちづくり推進拠点の開設などを推し進めていくものである。[12]
 旧松原団地は1964年に完成し、その総面積約54haに及んだ。完成から約半世紀が経過した2003年より草加市、獨協大学、UR都市機構の3者が協定に基づく連携により、団地の再生など構造・設備を中心に住環境改善に取り組んできた。 2024年5月9日の新たな協定に基づき東武鉄道とトヨタホームを加えた5者により、多世代の繋がり、学び、誰もが活き活きと暮らせる未来を育む「WELL BIND(ウェルバインド)」をコンセプトに連携が実現したのである。 トヨタホームは東武鉄道と連携し、街区整備による373区画の大規模な戸建住宅地を開発。それに伴ってクラブハウスを整備するなど、地域住民の防災拠点とコミュニティ形成機会創出を図る。また、戸建住宅地内に憩いの場となるテーマの異なった3つのポケットパークを整備していくことになる。[13]
11.脚注
[12]^ 産官学5者による連携協定締結
[13]^ [ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1590018.html Impress Watch]
最終更新 2025年7月1日 (火) 13:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 "トヨタホーム"も入って2024年5月より旧松原団地を再開発している様である・・。
 今回は北足立郡新田村(しんでんむら)。
1955(昭和30)年1月に谷塚町(やつかまち 1940年11月~)と供に草加町に合併、
1958(昭和33)11月に市制施行し、旧新田村も含めて、地名も大幅に変更された。
東武鉄道伊勢崎線の谷塚・草加・新田の各駅は明治~大正期に設置され、
東京都足立区の北隣りであり、いわゆる「埼玉都民」の住宅地である。

『クレヨンしんちゃん』では、しばしば登場する
"ブリブリ左衛門"は住所を揶揄するお言葉と思われるが。
Posted at 2025/07/18 16:39:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | バス | クルマ
2025年07月11日 イイね!

橋本バス停

橋本バス停[写真・画像] 五里合中石 橋本バス停(はしもと)
2025年7月10日(木) 12:28

北浜野交差点から入ってきた旧・国道101号は
この「橋本バス停」に正面側から入り、
このルーミーのように右折するコースである。
 実はバス、男鹿市コミュニティバスは手前側の
「中石バス停」方面から着たら左折するコースだ。

 「橋本バス停」から100m北浜野方面まで住宅地だ。
"北浜野交差点"からこの住宅まで、
まったくの畑道・アスファルトだが、
「道路極小」だ。交差点入った所はまだ良いが、
進むに従って道路極小になる印象。
アスファルトが荒れているからだ。

 JAFツーリングマップ2012東北版(2012年3月末現在)
男鹿エリア地図には、五里合地区を旧・国道101号が巡る。
 ニューエスト秋田県都市地図(1991年7月旺文社)
男鹿ページでは現国道が当時から既に幹線道路扱いである。
 「ふしぎな国道」では2012年には現道に国道おにぎりが
移っている写真を掲載している。
 前年に東日本大震災があり、防災上の問題もあり、現状の姿に成ったようだ。
男鹿市の中の環境の変化もあったと思う程である、
「迷宮国道」だった訳だ。
Posted at 2025/07/11 08:34:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | バス | 旅行/地域
2025年07月10日 イイね!

元・迷宮国道交差点

元・迷宮国道交差点[写真・画像] 男鹿市五里合中石北浜野 交差点
12:24

「迷宮国道」として知られた"国道101号"の北側の入り口である。

「あきたけん おがし」
「いりあいなかいし きたはまの」
という住所である。

この大きな「青看板」国道標識、
そして国道標識を支える「大きな鉄塔」こそ、
かつて国道がこの「細道」に入るコース・ルートを辿った
証人である。
 この鉄塔に補助標識まで巻かれ、
斜め矢印・青おにぎり国道101号
「道路極小」と刻まれていたのだ。
Posted at 2025/07/10 22:23:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ふしぎな酷道 | 旅行/地域
2025年07月02日 イイね!

「『取手』で半減」する複雑な事情

「『取手』で半減」する複雑な事情常磐線の運行本数が「取手で半減」する複雑な事情 
地磁気観測所と鉄道電化の長い「攻防」の歴史
草町 義和 : 鉄道プレスネット 記者
2025/05/23 4:30
(上)常磐線の取手-藤代間を走る特急列車。脇に見える「紅白ひし形」の標識は「デッドセクション」を示すもので、地磁気観測所と鉄道電化の複雑な事情を体現している(筆者撮影)
(下)地磁気観測所とその周辺の鉄道路線(黒=直流電化、赤=交流電化、紫=非電化)。現在は地磁気観測所から半径35km程度(薄赤円)が事実上の直流電化規制圏になっている(国土地理院地図を筆者加工)

 土浦市は茨城県南部に位置する人口約14万人の都市。古くから城下町として栄え、周辺には霞ヶ浦や筑波山、筑波研究学園都市がある。常磐線が市内を南北に縦断しており、東京都心への通勤交通も整っているように思える。しかし、東京都心と土浦を直接結ぶ列車は少ない。
 2025年5月時点の時刻表(平日下り、特急除く)によると、上野―土浦間の66.0kmを直通する列車は1日60本。土浦と同じ60km台の主要都市駅の場合、上野駅からの直通本数は宇都宮線の古河駅と高崎線の熊谷駅が70本台で、これに新宿・池袋方面からの湘南新宿ラインを加えると100本を超える。
■電車の登場で移転した「地磁気観測所」
 区間別の本数では、上野―北千住間が134本。東京メトロ千代田線が乗り入れる北千住―我孫子間は250本台と大幅に増える。我孫子駅で列車の行き先が常磐線方面と成田線方面に分かれるため我孫子―取手間は138本に減るが、それでも100本台を維持。ところが、取手―土浦間は100本を割り込むどころか半減以下の61本まで落ち込んでしまう。
 常磐線はなぜ、取手を境に列車が大幅に減るのか。そこには茨城県石岡市内にある「地磁気観測所」と鉄道の、長い「攻防」の歴史が詰まっている。
 地磁気観測所は、地球とその周辺空間で構成されている磁気の場(地磁気)を観測する気象庁の施設。その観測成果は無線通信に障害を発生させる磁気嵐の予報などに役立てられている。
 地磁気観測の歴史は古い。日本初の本格的な鉄道が開業してから11年後の1883年、現在の東京都港区赤坂に臨時観測所が設置されている。1887年ごろには、江戸城旧本丸北桔橋門にあった中央気象台(現在の気象庁)構内での観測が始まった。
 しかし1903年、東京で路面電車が開業。1904年には甲武鉄道(現在の中央本線)が電車の運転を開始する。このころから地磁気観測の「人工撹乱」が報告されるようになった。
 電車が使う電気は変電所から架線を経て電車に入り、モーターを回してレールに流れる。このとき電流の一部が「漏れ電流」として地面にも流れるが、これが雑音になって地磁気をかき乱し、観測を困難にするのだ。
 このため、東京市電気局(現在の東京都交通局)が観測施設の近くを通る路面電車を計画したのを機に移転が決定。中央気象台は「将来電車などが通りそうもない所がよい」(地磁気観測所編『地磁気観測百年史』1983年3月)として茨城県の柿岡町(現在の石岡市柿岡)を移転先に選び、明治から大正に変わった1912年、地磁気観測所が完成した。
■茨城でも「電鉄計画」で再び問題に
 ところが大正末期、周辺で私鉄の電鉄路線が計画されるようになる。昭和初期の1928年には、鉄道省(のちの運輸省、現在の国土交通省)が東京と筑波山を結ぶ筑波高速度電気鉄道の営業計画を許可。中央気象台は鉄道省に抗議するが、民間団体の関東商工会議所連合会は電鉄の整備に支障が生じるとして地磁気観測所の移転を要望し、問題化した。
 中央気象台の第5代台長を務めた気象学者の藤原咲平は、のちに「茨城県では初めは土地の繁栄の意味で(地磁気観測所の柿岡への移転を)歓迎せられましたが、今では茨城県の交通の妨害をするといふやうな意味で地方の名誉職の方や県会議員といふやうな方が頻りと気象台を攻撃されて居ります」(『気象と人生』鉄塔書院、1930年)と語っている。茨城の「心変わり」に困惑していたようだ。
 結局、地磁気観測所から半径30km程度の範囲では鉄道の電化を規制するという国の方針が1928年末までに事実上固まったようだ。周辺で計画された電鉄は非電化の蒸気鉄道として開業したものや、観測への影響が小さい低電圧で開業したものもあるが、筑波高速度電気鉄道は計画自体が消滅した(この経緯は2019年11月22日付記事『上野発着狙っていた「幻のつくばエクスプレス」』を参照)。地磁気観測所は現在、電車による観測への影響が35km程度まで及ぶとしている。
 一方で国鉄の常磐線は1936年に松戸まで電化。戦後の1949年には電化区間が取手駅まで延伸された。ここまでは電化規制の圏外だったが、国鉄はさらに電化の拡大を計画。地磁気観測所からの距離は土浦駅が約18km、石岡駅が約9kmで規制圏に入る。地磁気観測所と鉄道電化の問題が再燃した。
■「交流電化」で問題回避
 運輸省は1951年に小委員会を設置して技術的な検討を開始。1952年春から1953年春にかけ、東武鉄道と我孫子付近の既電化区間で電車による磁場撹乱の実測を行っている。1953年には運輸省や国鉄、中央気象台などによる協議会が設置され、調査と協議が本格化。常磐線の既電化区間で試験を実施し、1956年2月に「国鉄が採用している直流方式の電化は不可能」「交流方式の電化なら可能」と結論付けた。
 当時の日本の電化路線は直流方式だけだったが、国鉄が1953年ごろから交流方式の電化を研究していた。交流は送電ロスが少ないなどの利点に加え、地磁気観測への影響も小さい。こうして1961年に取手以北が交流電化。取手駅から次の藤代駅までのあいだに直流と交流の境界になる無電区間(デッドセクション)を設け、ここで電車の回路を切り替えるようにした。
 ちなみにこのころ、国土地理院の地磁気観測施設である鹿野山測地観測所(千葉県君津市)でも、近くを通る房総西線(現在の内房線)の電化計画が問題になった。こちらは直流方式で電化しつつ、変電所の間隔を通常より短くして架線・レールを電気的に分離。これにより漏れ電流を減らした。測地観測所も一部の観測業務を岩手県水沢市(現在の奥州市)に移転して対応している。
 交流電化により常磐線の電化問題は一件落着……のはずだったが、1981年ごろにまたしても問題化する。茨城県などが地磁気観測所の移転による常磐線の直流化を要望したのだ。
■「直流化」で列車増発へ移転要望
 常磐線では東京都心から取手まで直流電車が大量投入され、高頻度運行されている。一方、直流電化規制圏の土浦方面に直通する列車は直流と交流の両方に対応した電車を使用しているが、交直両用電車は構造が複雑でコストが高い。そのため大量には導入できず、運行本数も抑えられてしまう。そこで茨城県などは、地磁気観測所が移転すれば直流電車が乗り入れ可能になり、列車が増えると考えた。
 これに対して気象庁は難色を示す。この時点で柿岡での観測開始から70年近くが過ぎており、同一地点での観測結果の連続性も重要になっていた。ここへきて移転すれば、せっかく蓄積してきた観測データが無駄になりかねない。
 ところが気象庁は1982年8月に「地磁気観測所と地域開発が共存しうる道、あるいはその制約条件などについて検討を加える用意がある」と表明する。9月には茨城県や運輸省、気象庁、地磁気観測所、国鉄などで構成される地磁気観測所問題研究会が発足。技術的検討が本格化した。
 これに先立つ1982年2月ごろ、関東鉄道が常総線の取手―水海道間を直流電化する計画を気象庁に打診している。この区間は東京の通勤圏で1977年から複線化が進んでいたが、水海道駅付近が直流電化規制圏のため電化できずにいた。
 関東鉄道が示した計画は内房線と同じ特殊な方式で、変電所の設置間隔を短くして架線とレールを細かく分割。地磁気観測への影響は従来の直流電車の4分の1に低減できるとした。常総線と常磐線は地磁気観測所からの距離など条件が異なり一緒くたにできないが、気象庁の考えが変化した背景には関東鉄道が打診してきた計画があったのかもしれない。
 地磁気観測所は1982年11月8~12日の深夜、特殊な方式による直流電化を想定した試験を常総線の沿線地域で実施。取手―水海道間を直流電化しても地磁気観測に影響を及ぼさないことを確認している。続いて1983年の1月から2月にかけては、地磁気観測所問題研究会の専門部会として、常磐線の既電化区間で直流電車の実測試験を実施した。
■一部機能の移転案は実現せず
 こうして検討が進んだ結果、地磁気観測所の一部機能移転案が浮上する。観測所では地磁気の変化を長周期と短周期で観測しているが、このうち短周期観測は移転可能とし、これにより直流電化規制圏を半径18kmまで縮小できるとした。これなら常磐線は取手止まりの直流電車を土浦まで延長でき、常総線も特殊な方式によらず直流電化できる。
 しかし、この案が実行に移されることはなく、1994年ごろに事実上断念されている。一部といっても移転費用がかかるし、さらに取手―土浦間を直流方式で電化しなおすための費用もかかる。これを誰がどう負担するか、解決できなかった。
 ちなみに常磐新線(つくばエクスプレス)がこのころ着工したが、都心寄りが直流、規制圏の筑波寄りは交流で整備された。関東鉄道は1994年、常総線の電化について直流で305億円、交流では240億円かかるとの試算を提示。沿線開発や関係機関の協力がないと電化は困難との認識を示しており、これも事実上断念されている。
 しかし、常磐線の直流化を求める声はいまもくすぶっている。たとえば茨城県が2024年6月にまとめた国への要望事項では、地磁気観測所の早期の県外移転が盛り込まれている。
 実際のところ、地磁気観測所の移転と常磐線の直流化はどのくらいの費用がかかるのか。地磁気観測所に関しては、1995年5月27日付『朝日新聞』東京地方版(茨城)が「35億円とも50億円ともいわれる移転費用」と報じている。
■直流化にいくらかかる?
 交流電化されていた滋賀・福井県の北陸本線・長浜―敦賀間と湖西線・永原―近江塩津間(合計51.7km)を直流化したプロジェクト(2006年完成)では、車両費を含む総事業費が161億3400万円。1kmあたりでは約3億1200万円だった。これを単純に常磐線の取手―土浦間26.4kmに当てはめると約82億3700万円。移転費と合計すると最大で132億円程度だ。
 ただ、北陸本線・湖西線と常磐線では列車の本数と必要な車両数が違いすぎるし、現在の物価水準を考えると132億円で済むとはとても思えない。それに地磁気観測所の柿岡への移転では当時の東京市が費用を一部負担しており、北陸本線・湖西線の直流化でも総事業費の9割近くを滋賀県と福井県が負担している。茨城県はどこまで負担できるだろうか。
 あるいは、最終的な目的は直流化ではなく列車の増発だから、直流電車と交直両用電車のコスト差を国が補償するといったことも考えられる。実際、茨城県も同様の考え方を国への要望事項として盛り込んでいる。今後もこの問題は折に触れて浮上するだろうが、何かいい知恵が出てくればと思う。
東洋経済ONLINE 6月28日(土)より


≪くだめぎ?≫
 "列車の増発"、と言えば「客車」である。万博最盛期であるが、「1970年・大阪万博」輸送で国鉄は"12系客車"を投入した。現在のJRは客貨が別会社であり、機関車を使う客車列車を新設するのに躊躇している。現在も客車が電車・気動車より安価であるは変わらないはずだ。
 「常磐線中電」が俗称されていた時は、荷物車・郵便車を連結していた客車列車が途中停車駅を絞って"電車ダイヤ"に合わせていた。EF510、場合によっては"ディーゼル機関車DF200"でも十分足があるはずだが・・。
Posted at 2025/07/02 07:18:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 交流電化 | 旅行/地域

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何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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