とある休日に心と身体の栄養を補給しにお出かけしました~
❤
まずは心の栄養に・・・
京都と大阪の間に、「
天下分け目の天王山」、
明智光秀と羽柴秀吉が合戦した古戦場があります。
その山崎という場所に掲題の大正初期から昭和にかけて
建設された山荘があり、現在は美術館になっています。
大山崎山荘美術館
大山崎山荘 posted by
(C)乙女23
本館は、実業家「
加賀正太郎氏」が自らの山荘として設計、建てたもの。
山荘は大正時代に木造で建てられたのち、昭和初期に増築されました。
本館の中です。 posted by
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欧州遊学後帰国した加賀正太郎氏が別荘を建てようと、
1911年6月に木津、宇治、桂の三川が合流する天王山麓に土地を購入したのが、
山荘の始まりです。
加賀氏自らが設計し、1917年までには木造の洋館を完成させました。
山荘建設にあたり、「白雲楼」と呼ばれた塔屋をまず山側に建てています。
この塔の上から加賀が工事を指揮したといわれております。
塔は現在も美術館の山側の敷地に残っています。
白雲楼 posted by
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この敷地内を歩くとタイムスリップしたかのような錯覚に囚われます。
また、ここは日本?とも感じるような場所もあります♪
山荘に向かうまでの道のり posted by
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山荘の入り口。 posted by
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話は戻りますが
山荘は1967年に加賀の手を離れ、所有者は転々と移りました。
1990年頃、持ち主である不動産会社が山荘を取り壊し、
マンションを建設する計画が持ち上がり元住民から強い反対運動が起こりました。
京都府から保存について協力の依頼を受けたアサヒビ-ル社は、
加賀がニッカウヰスキ-の設立にも参加しており、アサヒビ-ル社と浅からぬ縁も
あることから、天王山麓の景観を保全するために山荘を買い上げることになりました。
敷地内のお庭 posted by
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荒廃寸前だった山荘は、京都府、大山崎町の協力も得て、
1996年に美術館として見事に蘇ったのです。
宝寺の隣に住んで桜哉 By 漱石 posted by
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山荘の工事中に、文豪「
夏目漱石氏」も山荘を訪れました。
隣接する宝積寺(通称宝寺)を眺めながら
宝(寶)寺の隣に住んで桜哉
句を残しています。
敷地内の睡蓮 posted by
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新館「地中の宝石箱」 posted by
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新館は「地中の宝石箱」とも呼ばれる、地中に位置するギャラリーです。
円柱形のギャラリーは半地下で、円柱上部は植栽が施されています。
これにより、ギャラリーとまわりの景観との調和が生まれました。
「
安藤忠雄氏」は環境に配慮して新館を地中に配しました。。。(HP抜粋)
新館と本館を結ぶ通路 posted by
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さて大山崎山荘と呼ばれていますが、
持ち主である加賀は、当初、夏目漱石氏に山荘の名付け親になって欲しいと
お願いしました。。。
漱石も承諾し山荘の名前を考えたそうですが、その名は加賀に却下され
結局は、加賀が大山崎山荘と名づけたとの事です。(笑
(漱石はどんな名前を考えて加賀に言ったのでしょうか。。。気になりますね)
*:.。.ニッコォォ(´^ω^`)(´^ω^`)(´^ω^`)ォォオォオ.。.:*
<P/S>
思った以上に長文になりますたので、次回は身体の栄養編を執筆いたします。。。
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Posted at
2011/06/12 20:39:55