92年デビューでミハエル・シューマッハと共に一時代を築いたベネトンB192特集です。
ハイノーズ&吊り下げ式ウイングも話題になりましたね。
元々ジョーダンに所属していたベルトラン・ガショーが前年の90年にロンドンで割り込みしてきたタクシーの運転手と口論となり彼女が車内に携帯していた催涙スプレーを噴き付けた事で裁判沙汰となり母国フランスでは使用OKの催涙スプレーもイギリスでは使用禁止で91年に有罪判決で収監される事となり(同情する多くのドライバーが減刑を訴えたり嘆願運動をしたりも)、91年の第11戦ベルギーGPにベルトランの空きシートにメルセデスからの持参金を持ち込んだミハエル・シューマッハが収まりF1デビューします。
ベルトランは91年はル・マン24時間耐久レースではマツダ787Bを駆り総合優勝し幸運な年かと思いきや一転、奈落の底に転落してしまいます。
(92年日本GPにて撮影)
ベルトランはF1引退後はル・マンでNSXをドライブしたり日本のGTでスープラに乗ったりとマツダ787Bもそうですが何かと日本車と縁があるようです。
ミハエルはF1デビュー戦となったベルギーGPでは新興チームでかつデビュー戦で予選7位となり注目されるも決勝は0周でリタイアとなります。
しかし次戦のイタリアGPでは何と中堅~上位クラスの間くらいだったベネトンに移籍していました。
ベネトンの代表フラビオ・ブリアトーレがミハエル欲しさにジョーダンの代表エディ・ジョーダンと交渉しロベルト・モレノとトレードになります。
金銭補償付きのトレードでジョーダンには1戦あたりベネトンから6万ドルが支払われる事になっていたそうです。
ロベルトはジョーダンで2戦走った後にシーズン途中にして解雇されその後は下位チームを渡り歩く事となりそしてアメリカに渡ります。
ジョーダンも1戦6万ドルでミハエルを手放したのは後悔していたかもしれませんね。
まだバブリーだったこの頃はタバコスポンサーもOKでベネトンのメインスポンサーはキャメルで他の主要スポンサーの中にはオートポリスに三洋電機、USEN(有線放送)と日本の企業もあり景気の良さが伺えますね。
オートポリスも三洋も今は経営母体は変わっちゃいましたが(正確には三洋電機はなくなりましたが)
まだ若くてヤンチャ坊主だったミハエル
アイルトンに接触し何度かキレられてますが聞く耳持たずの何のそのです。
後にエディ・アーバインはアイルトンにシバかれてますね。
1992年
とってもツボです。
今でも顔見て結構名前が言えますね。
今のF1は数名しか分かりませんが。
これ
今禁止なんですね。
知らなかったです。
“あの頃、僕はブランドルだった”
ブランドルは当時チームメイトだったマーティン・ブランドルの事です。
耐久レースで活躍しル・マンやデイトナ24時間で優勝しています。
彼がドライブしたシルクカット・ジャガーは有名ですね。
マーク・ブランデルとチームメイトだった時はややこしかったですね(笑)
この記事は筆者がスーファミのF1ゲームであえてエース級のドライバー(ベネトンだとミハエル)を使わずこのマーティン・ブランドルでエース級ドライバーを抑えて優勝すると言う物です。
私もあえて中堅クラスのチームで優勝したりしたので筆者の気持ちがよく分かります(笑)
今では当たり前の実名チーム、実名ドライバーも当時は衝撃的でした。
ベネトンと言えばこのB186も好きでしたね。
今では考えられないカラーリングタイヤ、まさにバブリーですね。
ゲルハルト・ベルガーのメットもベネトンカラーになってますね。
隣はチームメイト(当時)のテオ・ファビです。
ゲルハルトと言えばこちらのメットも有名ですね。
四輪では珍しいSHOEIです。
アイルトンもホンダ系のヘルメットブランドのRheos(レオス)が四輪から撤退した後はSHOEIになりましたね(由良拓也氏デザイン)
てかベネトンの話じゃなくなってきたのでこの辺でおしまい。
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2014/06/26 05:44:17