
久しぶりに三和自動車のカーグラフィック広告からです。
1965年の東海道新幹線開業当時の名神高速道路と0系新幹線、高速道路もご覧のとおり。
思わずアクセル全開したくなりますね~。
さて、本題です。
72年9月号のカーグラフィック広告は発表されたばかりのポルシェ911と912が思わずアクセルに力が入り、名神高速道路で新幹線を追い抜いてしまった話編です。
(字が小さくて読みづらいとおもいますので一部抜粋します)---------------------------------
「これがポルシェなんですね」
訪問客は尊敬の眼ざしで言った。「私たちを追い越した車だ」
1965年7月のある日、目黒の三和自動車のショールームに中年の男性2人と小学生らしい男の子がドアをあけてたずねてきた。
「おそれいりますがちょっと車をみせていただけないでしょうか」訪問者は丁重に言った。
「どうぞどうぞ、ご遠慮なく」社員からはカミナリ親父と恐れられるO氏は笑顔で3人を招きいれた。
「どうもありがとうございました。すばらしい車ですね。」しばらくのち、一人が言った。
「いちど現物を見たかったのです。実は先日、この車に追い越されてびっくりしたものですから・・・」
O氏は機嫌よくあいづちをうった。
「ほほう、ま、こいつは速いですからね。」
「確かに速い!」相手は改めて感に堪えたように続けた。
「私の電車を抜けるのですから」
「電車をですか?あなたの?」けげんな顔をするO氏に彼はぽつりと答えた。
「・・・・ええ、私たちは運転士をしています。新幹線の」
こんど仰天したのはO氏のほうであった。
それから2日ほどのち、東京に続いて名古屋・大阪を巡回して、新らしいポルシェ911と912の発表会を行なってきた三和の社員三人が本社へ帰ってきたとたん、O氏の強烈な落雷が彼らを見舞った。
「こともあろうに超特急を!なんということだ!立場を考えたまえ!」こはいかに、天のみぞ知ると思っていた違反が露見し、三人もまた驚き慌てた。
以下、しょげかえった彼らの告白によれば、「名神高速道路には我々の911と912のほかに車の姿はなく」しばらく走るうちに新幹線と併行する場所にさしかかり「ちょうど超特急が走っていた」ので思わずアクセルに力が入り「しばらく並んでから」まだまだスピードメーターにもタコメーターにも余裕があったので「つい、追い越してしまいました」というのである。
しかも911のみならず、カタログ・データでは最高巡航速度185kmの912までが抜いてしまったのだから「ポルシェの性能にはまったく”うそ”がないなと実感させられ」はしたものの「もうこりごりです。悪いことはできない。」というハメになったのである。
当事者三名は譴責及び減俸を頂戴し、現在ではもっとも模範的なドライバーとなり、改悛の情いちじるしいので、7年前のこの事件をどうかお許し願いたいと思う。
という内容の広告です。------------------------------------------------------------
この広告に登場するポルシェに追い越された新幹線の運転手が三和のショールームを訪れたのは実際の話だそうです。
この件については雑誌ル・ボランとカーグラフィックに当時のディーラーだった三和のセールスマネージャーだった松本氏とメカニックの吉岡氏のインタビュー記事が掲載されていましたのでそれぞれご紹介します。
まず、2009年5月号のル・ボラン誌ですが、当時の”新幹線を抜いた男”本人であるセールスマネージャー松本圭右氏がその時のいきさつを話されています。
「私が入社したのは1965年5月です。ちょうど新しいオーナーである奥村氏が三和自動車のビジネスを引き継いだ時で、その方と親しい友人が一緒にやらないかと誘ってくれたんですよ」
当時の日本で輸入車販売は年間1万台を超える程度と規模は小さかった。
しかもセールスと言っても買いに来た人に”売ってやる”という態度で、しかも手形は使えず現金払いのみという古い商習慣が残っていた時代である。
「もっと積極的に売っていこうということになって、その一環として911と912のデモカーを仕立てたんです。そして、それを関西と名古屋の代理店に持っていくことになったのです」
入社3ヶ月の松本氏を含む3名がキャラバンに出たのは同年7月のこと。
まだ東名高速道路は開通していていなかったから、2台のポルシェは国道を夜通し西へ向かい、朝になって一宮ICからいよいよ名神高速道路に乗った。
「当時の911の最高速度は210km/h、912でも185km/hとされていたんですが、誰も当然、そんなスピードが出るのかテストしたことなんかなかったわけです。
でも、ポルシェには当時から、間違いなく言われている通りの最高速が出るという噂があって、
それで ”じゃあ、やるか” って。
貸切みたいな名神で、暑いけど窓も閉めてね(笑)、いざ挑んだわけです」
問題のポイントはすぐに訪れた。
一宮ICから名神高速道路に入ると、ほどなくして東海道新幹線と並走する形となる。しばらく行くと、新幹線は高速道路の頭上から岐阜羽島駅に至る。
「ちょうど私たちが差し掛かったところで、新幹線と並んだんです。
それで ”抜いちゃおうよー” って(笑)。
だからね、新幹線と競争するのが目的だったわけじゃないんですよ。
大阪、名古屋でのデモカーによる代理店行脚を終えた松本氏ら3人は、1週間ほどして当時目黒区にあった本社に戻る。そして当然、新幹線を抜いたなどという話はすることもなく、平然と業務報告をしたのだが、実は名神高速道路での出来事はすでに上司の耳に届いており、3人は大目玉をくらうことになったのだ。
一体どうしてバレたのか?
実は松本さんらがデモカーで飛び回っている間に、目黒のショールームに、まさにあの新幹線の運転士の方たちが、自分たちを抜いたポルシェ911なるクルマを一目見ようと、わざわざ訪れていたのである。
「悪いことはできないもんだ(笑)」
まったく信じられないような話である。けれど、これは全部実話なのだ。
「でも考えてみると、新幹線が名神高速道路と交差した先は、すぐ岐阜羽島の駅なんです。おそらく新幹線は、駅の手前だから、スピードを落としてたんでしょうね。あれは「こだま」でしたから(笑)。
でも、それより本当にデータ通りの最高速だが出たことの方が昂奮しましたねぇ。
思わず「出たっー」って叫んじゃったのを覚えていますよ」
鈴鹿サーキットは開業していたとはいえ、何しろ東名高速道路も開通していなかった時代である。
法定速度云々という話はもちろんだが、実際に100km/h以上の速度が出せるような環境は、当時の日本にはほとんど存在していなかった。
この広告が掲載されたのは”事件”から7年後の1972年のことだが、その当時だって環境に大きな変化があったわけではないはずである。それだけにポルシェの高性能ぶりを大いに知らしめることになったエピソードは、とてもインパクトを与えることになったのだ。
次は、2001年4月号のカーグラフィック誌、
幾度となく広告に登場する伝説の ”Yメカニック” こと吉岡晶氏が新幹線を抜いたその当時の裏話を語っています。
(下記写真)カレラ6のドライバーは生沢徹、吉岡氏はすぐ横でキャップ姿で立っている方です
「新幹線を抜いたっていう話は本当ですよ。
どこかの県警に車両を回送する途中だったていう話ですけどね。
京都の手前で名神と新幹線が交差するでしょう。
あそこで並走しているうちにちょっと茶目っ気を出したうちのメカニックがやっちゃたんですね。
後になって、抜かれた新幹線の運転手さんがショールームにやってきてね。
そのメカニックは油を搾られたはずだけど、処分されたっていうのは覚えにないねぇ」
これはメカニックの吉岡氏のインタビューからですが、ル・ボラン誌に実際にポルシェを運転していた本人である松本氏が上記の話をされていますので、新幹線を抜いたのが県警に回送中の出来事だったというのは勘違い?されているのでしょうか。
どちらにしてもポルシェ911と912が東海道新幹線を追い抜いたのは事実のようで、その追い越した場所は、京都の手前にあって名神高速道路と新幹線が交差している箇所というと岐阜羽島駅の手前、そして高速と新幹線が並走しているのはちょうど木曽川をまたぐ、東西約4km弱の区間。
上は静止画ですが、物足りない方は下にあるYouTubeで動画をどうぞ。
実際走行してみるとこんな感じなんですね~。
笑ってしまうくらいみんな速いです。ポルシェも真っ青です(笑)
4:25ぐらいから上の写真とおなじ並走区間に入りますが、これまたあっという間です。
ついでに新幹線から名神高速を眺めると・・・・新幹線を追い越していくクルマなんてありません(笑)
2014.2/1追加
67年のTOYOTA2000GT紹介ビデオで、ちょうど1:00あたりから名神高速と新幹線が並走している動画がありました。(新幹線に2000GTが抜かれていますがこれは撮影している車両が遅いだけ???)
http://vod.ntv.co.jp/f/view/?index.php&item=0wb3kxMzqOH3aMkPg08x5AVBl3yI5P25#ooid=0wb3kxMzqOH3aMkPg08x5AVBl3yI5P25
65年発売当時のポルシェ911は最高速度210km(67年式911Sは225km)なので0系新幹線とスピードはまったく互角ですが、一方、912の最高速度は185km、210kmの新幹線を抜くこ

とは不可能と思われます。しかし、現在当たり前にイメージしている新幹線の速度は、この65年開業当時はまだ路盤が固まっていなかったため、東京ー大阪間は4時間、時速160km運転をしていて200km超える区間は一部だけだったそうです。(65年11月のダイア改正で速度制限の解除となったそうですが、それでも3時間10分運転かかっていました。)

この新幹線を追い抜いたという話の肝心な点ですが、当時の名神高速道路と新幹線が並走している岐阜羽島駅手前の区間の新幹線の走行スピードについては、調べましたがよくわかりませんでした。松本氏はインタビューで岐阜羽島駅に停車しようとして減速している「こだま号」だったから抜けたとのことですが、そうであれば新幹線の運転士が驚きのあまりショールームにやって来ないような気もしますし・・・
新幹線の話題ついでですが、下記の写真は最新の新幹線E5系「はやぶさ」。
2011年3月、東北新幹線でデビュー、時速300km運転で東京ー新青森間713kmを3時間10分で結びます。2013年にはさらに320km運転を目指すそうです。

300kmでの営業運転を達成したのは実は97年の500系山陽新幹線が初めてですが、同じ500系の東海道新幹線ではサービスの維持と環境配慮のためという理由で270kmでの運転となったそうです。
しかしながら、こうしてみると東海道新幹線開業から数えて約半世紀近くたっているんですね~。
余談ですが、このブログを書くのに新幹線というキーワードでいろいろと調べてみましたが、諸外国の高速鉄道と比較しても日本の新幹線技術というのは圧倒的にリードしているようです。
話は戻って、
このカーグラフィック4月号にはさらに ”Yメカニック” が912パトカー改造について次のような裏話を語っていましたのでご紹介します。
~そんな時代だからこそ、911はその筋からも厚い注目を集めることになった。京都府警、愛知県警、神奈川県警と交通機動隊のフラッグシップとして導入されたのである。
「パトカーを作るのは結構苦労しましたね。
最初は高いっていって断られたんだけど、何年かして損保協会だかなんだかが寄付するっていうことになったんですよ。
スピードメーターを直したりとか、スイッチを付けたりとか、サイレンの位置を決めたりとか、
そういうのは僕がほとんどやっていたんだ」
「その頃のパトカーの人たちはスピードに慣れてなかったんですね。
追いかけて何十秒後かにスピードメーターを止めるんだけど、普通のパトカーの位置だとスイッチが押せないっていうんですよ。怖くてね。
それでドアにしがみつきながら押せるようにドアハンドルにスイッチを付けてくれとか、シフトノブにつけてくれとか、そんなのが向こうの要望だったね。
あとはアナログじゃ信用ならないというのでデジタルにしてくれとか。
ポルシェのスピードメーターって目盛りが荒っぽいからダメだったんですね。
それで付け替えて納めたら、今度はデジタルは証拠として有効じゃないっていうんですよ。
昔のことですからね。」
パトカー以外にも日本グランプリでの904の修理に関する裏話、
356か911かわかりませんが納車してわずか40kmでクラッチを燃やしてしまったお客さんの話、
また当時、まだ5段ミッションが珍しかったために起こった信じられないエピソードが載っています。
「こんな力のない車はいらん」
昔は5段ミッションというとだいたいトラックしかなくてね。
あれは5段全部使うもんじゃないっていう知識がみんなあったから、、2速でスタートするんですよ。
だからなんでしょうね。そういえば
『箱根の山でノックしてしょうがない。こんな力のない車はいらんから引き取ってくれ』
なんて言われたこともありますけど、同じ理由でしたね。
わずか40kmでクラッチを焼いてしまった車は引き取りに行ってわずか3時間くらいでクラッチだけ交換して納めたそうです。
もちろん、その際は同じことを繰り返さないようクラッチをつなぐコツもしっかり教えたそうです。
(クラッチに関しては72~73年を境にそういうトラブルは少なくなったとのこと)
それから、このカーグラフィック2001年4月号にはとても貴重な2枚のお宝写真が掲載されていました。
これは912が日本に輸入された直後のショットで65年5月末に鎌倉で撮影されたものだそうです。
(品川5145の仮ナンバーがついています)
おそらく1965年5月18日、東京プリンスホテルで世界に先駆け発表された912ではないかと思われます。

神社の背景もいい感じに写っているショットです。鎌倉のなんていう神社なのでしょうか?
ご存知の方がいらしたらぜひコメントをお願いいたします。
もう1枚は横浜保税倉庫らしき場所に潜むPORSCHE356Cの姿。
ニューモデルである911がデビューした後、356の最終モデルを巡って争奪戦が繰り広げられたとか・・・・
72年7月号のカーグラフィックにはこんな広告が・・・・
1965年2月、これがおそらく最後になるであろうポルシェ356が横浜に着いた。
すでに1年半ほども前、フランクフルト・ショーでに出品されまったく新しいポルシェは、発売の時期こそあきらかではなかったものの、いわゆるショーだけが目当てというエスペリメンタル・カーではなく、モデルチェンジのための”現実的な”車であった。
ポルシェ901のちの911が実際に発売開始された場合、これまでの356シリーズは併売されるのかどうか一応の噂となったが、ポルシェ社の生産規模からみても、それはほとんど悲観的であった。
そして6気筒の911に続いて4気筒912の出現が予告された時、356の運命は決定した。
三和の社内でも一年以上前に告知された911の入荷もはっきりと見えてきた今、356の見込輸入は控えた方がよいという意見、ぎりぎりまで356を取り寄せようという意見、売れ残って値引きを要求されたらどうするか等々・・・・
結局、終わりまで356を輸入し続けようとの結論となった。
そして356はたちまちのうちに売り切れた。
むしろ、最後のそれを手に入れようとする愛好家の数が、輸入数よりも多かったのだ。
ちょっと長くなりましたが、本日もブログを見ていただいてありがとうございました。