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2017年02月26日 イイね!

国鉄EH10形電気機関車・・・幼い頃、名古屋駅で、轟音を立てながら駆け抜けた黒い大型電気機関車

 国鉄EH10形電気機関車・・・幼い頃、名古屋駅で、轟音を立てながら駆け抜けた黒い大型電気機関車※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

何しろ小学校2年か3年の頃だったから、もしかしたら・・・記憶違いかも知れないが・・・
或る日、名古屋駅で見た電気機関車・・・
しかし・・・
・・・あの真っ黒で2車体1ユニットの
巨大な電気機関車が、
モーターとブロアーの轟音を立てながら
駆け抜けていったから、
間違いなくEH10だ!・・・

正直、一寸・・・怖かったな・・・(^_^;)
でも・・・同時に、何か、オーラというか・・・力強さを感じたよな・・・

ただ、ナマで『走行中のEH10』を目撃したのは、あの時が最初で最後だった・・・

なので、私的には・・・EH10は『密かに気になる』電気機関車でも有る・・・


例によって・・・
『引用という名の手抜き』で・・・(^_^;)
※Wikipediaより抜粋引用

量産機 EH10 16

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

EH10 61 製造銘板

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

JNR EH10 足回り

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

EH10 連結部分

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

試作機 EH10 3

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用


国鉄EH10形電気機関車


EH10形は、1954年(昭和29年)に登場した日本国有鉄道(国鉄)の直流電気機関車である。

1957年(昭和32年)までに64両が製作され、東海道本線・山陽本線の貨物列車牽引用に使用された。国鉄が製作した唯一の8動軸機であり、国鉄史上最大級の電気機関車である。その巨体から「マンモス」という愛称で親しまれた。

登場の背景
1940 - 1950年代の東海道本線では貨物輸送需要が大きく、最大1,200tの重量級貨物列車が大型蒸気機関車の牽引で運行されていた。

輸送能力の逼迫と石炭供給難を背景に1951年(昭和26年)に再開された東海道本線電化工事は急速に進展し、1953年(昭和28年)には浜松 - 名古屋間電化が完成した(同年中に名古屋 - 稲沢間を延伸)。この時点で名古屋 - 米原間の電化は目前となっており、さらには京都までの電化による東海道本線全線電化完成も視野に入りつつあった(米原電化は1955年、東海道全線電化は1956年に完成)。

しかし、この間の大垣 - 関ヶ原間は10‰の勾配が延々6kmに及び連続し、殊に機関車牽引の重量級貨物列車にとっての難所であった。1953年当時最新鋭の貨物用電気機関車であったEF15形をもってしても、この区間での1,200t列車単機牽引を想定すると出力不足により主電動機の過熱が懸念され、これでは十分な速力を得られず並行して運行される旅客列車のダイヤ設定にも支障が生じることが予測された。電化のみでは関ヶ原の隘路の解消は叶わなかったのである。

対策としては補助機関車の連結もあり得たが、これでは電化の意義が薄れるため、EF15形を凌駕する性能の強力型機関車を開発し、関ヶ原越えの問題を克服することになった。この新型機関車EH10形はEF15形(6軸・主電動機6個)とほぼ同性能の主電動機を8個使用する、日本では前代未聞の8動軸式大型機関車となった。

基本構造
動軸を8軸としたことで全長22.5mに及ぶ長大な車体は中央で2分割され、箱形の2車体を永久連結する特異な構造となった。2車体間は永久連結器で結合され、金属製の特殊な貫通幌と高圧引き通し線が渡されている。全長がこれまでの機関車以上に長くなったことから、構内有効長における機関車占用長さを少しでも減らすために(限りある構内有効長の中で、機関車が占用する長さが大きくなると、その分だけ貨車の連結両数が減る)従来の貨物用電気機関車で標準的であった前頭部のデッキは廃され非貫通構造となった。

従来の国鉄電気機関車は、鋼板部材の組み立てないし一体鋳鋼によって構成された「台車枠」を全ての基礎としていた。台車枠の両端には先輪が結合され、走行時の牽引力は台車枠の端に装備された連結器から直接客車・貨車に伝えられた。大きさは異なるが、端的に言えば蒸気機関車の台枠と同一の構造である。2台の台車は強固に連結されており、牽引力は台車同士においても直接伝えられる構造であった。他方車体は台枠を備えるものの自らの強度を保つ機能しかなく、機器類を覆って台車枠の上に載っているだけの存在だった。

本形式はこのような伝統的な構造から完全に脱却した構造である。台車は電車のような鋳鋼製2軸ボギー台車であり、牽引力は台車から車体の台枠を経て連結器に伝えられる。在来型の大型電気機関車では長大な台車構造から曲線のスムーズな通過のために先輪が必須とされていたが、ボギー台車のEH10形は先輪を要さなかった。

日本の電気機関車史を見渡しても有数の超重量級の機関車ではあるが、台車枠を基礎とする構造と先輪の両方を廃したことから、出力の向上に比して大幅な軽量化が図られている。運転整備重量は118.4tとなり、一方の最大軸重は14.8tとなっている(量産機は運転整備重量116.0t、最大軸重14.5t)。在来型機関車と違って先輪がないため全軸駆動となり、重量の全てを粘着力確保に生かせるようになったために牽引力が向上した。とはいえ、これだけ車体重量が重くなると、ローカル線はもとより大半の地方幹線でも転用は不可能である。逆にいえば、東海道本線での運用に特化させることで割り切った機関車であったからこそ、ここまで思い切った設計にできたともいえる。

電装機器

主電動機は、EF15形とほぼ同等で絶縁強化等による熱対策を施したMT43形を8基搭載し、定格出力2,530kWを発生する。これはEF60形の後期形車が定格出力2,550kWを達成するまで、日本国内の電気機関車としては最大の出力であった。

制御システムは手動進段式の単位スイッチ制御方式である。従来のEF15形から大きな差はなく、平凡だが信頼性を重視した手法である。車体や台車は近代化される一方、モーターや制御装置は在来車と同様の堅実路線を採っていた訳である。このような経緯から本機は、EF15形以前のいわゆる旧性能機と、ED60形以降のいわゆる新性能機の、中間的な位置にある国鉄の直流電気機関車である。

EF15形に比して出力が30%以上向上したことから、1,200t列車を牽引しての関ヶ原越えに耐える性能を得ただけでなく、平坦区間での走行性能にも余裕が生じ貨物列車のスピードアップにも貢献した。

車体デザイン

車体デザインは、民間工業デザイナーの萩原政男[2]が手がけた。国鉄車両としてはいち早く、スタイリングを外部のデザイナーに委託したことは特筆される。

前面形態は角張っているが、窓部分が凹んでおり中央で二分割されている。2枚窓は同時期の80系電車、また前面窓部を凹ませる手法は72系電車との近縁性を強く伺わせるものである。車体塗装は巷間「熊ん蜂」とあだ名された黒色に黄色の細帯[3]を入れたいささか物々しい[4]もので、それ以前の電気機関車における茶色塗装に比し、より力強い印象を与えた。これも萩原の発案によるものである。

なお国鉄の電気機関車として初めて、前面下部にスカートを装着している。やはり萩原の発案である。

形態別

試作機
1 - 4号機が試作機に当たる。外観上の特徴として集電装置(パンタグラフ)が中央寄りにある点が挙げられる。パンタグラフ2基は、パンタグラフ間の引き通し線の重量を削減するため、車体中央寄りに設置され、2つの車体の連結面側に設置された。試作機は1・3号機は黒に黄色の帯、2・4号機はぶどう色2号に銀の帯で落成した。両塗装を比較検討した結果、1・3号機の黒に黄色の帯を正式に採用、その後の量産機は全てこの塗装で製造された。ぶどう色の2・4号機は全般検査時に他機と同じ塗装に塗り替えられた。

量産機

試作機の運用実績を基に細部の設計が変更され、重量配分が均等化されて運転整備重量が116t(軸重14.5t)になる。それに伴い運転席面積が拡大した。更に、分岐器や急曲線通過時を考慮して連結器を100mm前方へ突出させ全長を200mm長くした。また、パンタグラフの位置は両端近くに離された。これは複数のパンタグラフの位置が近すぎる事で、架線への押し上げ力が過大となったり高速走行中に共振を起こすなどして、架線に悪影響を与えたためである。そのため、写真などではパンタグラフの位置で試作時代の機との区別ができる。

高速試験機

1955年(昭和30年)10月に東芝で落成した15号機は、製作時から高速主電動機を装備し、歯車比も高速寄り (25:77 = 1:3.08) となった高速試験機で、塗色も量産機の黒からぶどう色2号に変更されるなど異彩を放っていた。高速度試験については次で述べる。試験終了後、歯車比や塗色は量産機と同様に改修された。

試験
高速度試験

この当時、東海道本線の輸送需要逼迫により列車の高速化が急務とされ、その一環で東京 - 大阪間を6時間30分で結ぶ超特急列車の運転計画が検討されていた。そこで1955年12月に前述の15号機と当時完成したばかりの軽量客車を用いて、高速旅客列車の牽引試験が行われた。高速旅客列車試験では最高で120km/hを達成し、また特急「つばめ」等の定期旅客列車の牽引にも試験的に充当されて好成績を得た。

この実績により、優等旅客列車牽引用の8軸機「EH50形」製作計画も浮上した。だが、軸重の大きい機関車を高速で走行させる場合には軌道強化が必要で莫大な費用がかかる等のデメリットが大きいと判断され、その後の国鉄は、昼行優等列車については後の新幹線へもつながる軽量で高速な電車方式に重心を移し、速度試験も151系などで行われるようになり、EH50形は計画が中止され未成に終わった。15号機も試験後は通常の貨物用仕様に戻された。

粘着性能試験

本形式は、東海道本線においてその高出力ぶりを遺憾なく発揮していたが、この高出力を勾配線区の牽引定数増加に役立てることはできないかという観点から、1966年(昭和41年)に14号機と64号機が甲府機関区に貸し出され、1966年5月14日から21日にかけて中央東線甲府 - 上諏訪間で25‰勾配区間における運転性能・粘着性能試験が実施された。

試験の結果は、牽引トン数650tで空転が発生するなど芳しいものではなかったため、EH10形の急勾配線区への投入は断念された。

改造

運用末期、オリジナルの菱形パンタグラフであるPS15形の部品不足により、1976年(昭和51年)2月に21号機が下枠交差式のPS22Bを装備したのを皮切りに、10両程がPS22Bへの載せ替えを行った。これは、捻出したPS15形によって予備部品を確保するという面もあった。

51号機と60号機は側面中央よりにあるエアフィルターが、変形鎧戸となっていた(60号機は一時的に変更した)。また、30号機はビニロックフィルタとなっていた。

運用

当初は東海道本線の高速貨物用として使われ、1959年11月から東海道本線・東京(汐留) - 大阪(梅田)間で運行開始された国鉄初のコンテナ特急貨物列車「たから号」の牽引に充当されるなど、その高出力を発揮して活躍した。しかし1960年以降、EF60形に始まる新世代の6軸電気機関車増備と、コンテナ列車等の高速化に対応できなかったことから、一般貨物用に転用された。その後も東海道(美濃赤坂支線を含む)・山陽本線(岡山操車場以東)、宇野線のみに限定されるかたちで地味な運用に徹した。

山陽本線岡山以西では、瀬野八越えの際、その特性上、補助機関車のEF59形やEF61形200番台との出力均衡が困難であることから、入線しなかった。

1975年(昭和50年)以降、老朽化が進行し、大型機で他線区への転用が困難なことにより、急速に数を減らしていった。

1981年(昭和56年)4月1日の宇野発吹田操車場行き3370列車を最後に運用を終了し、1982年(昭和57年)までに全車両が廃車された。

主要諸元
全長 : 試作形 22,300mm 量産形 22,500mm
全幅 : 2,800mm
全高 : 3,960mm
軸配置 : (Bo-Bo) + (Bo-Bo)
1時間定格出力 : 2,530kW
1時間定格引張力 : 18,720kg 高速試験機 18,500kg
主電動機 : MT43×8 高速試験機 SE174×8
動力伝達装置 : 1段歯車減速、吊り掛け式
歯車比 : 21:77 = 1:3.67、高速試験機 25:77 = 1:3.08
制御方式 : 非重連、3段組合、弱界磁制御
制御装置 : 電磁空気単位スイッチ式
制御回路電圧 : 100V
ブレーキ装置 : EL14AAS 自動空気ブレーキ、手ブレーキ
台車形式 : DT101

保存機
保存機は61号機のみで、他はすべて解体された。
EH10 61 (大阪市東淀川区東淡路南公園・静態保存)


東淡路南公園に保存されているEH10

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

EH10 61 東淡路南公園・静態保存

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

※引用終わり

製造数64両・・・
・・・保存機は61号機のみで、他はすべて解体された。・・・
現存するのは・・・たったの1両・・・なんとも寂しいよなぁ~・・・(´・ω・`)

いつか・・・そのうち・・・
見に行かねば・・・(`・ω・´)

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オマケ!

この動画の1:00辺りでEH10の高速度試験の模様が記録されてます。

ン?・・・1:58辺りで・・・BRTの先取り的な路線が・・・

・・・ただねえ・・・この動画・・・引用されているのが・・・
私の大嫌いな
『朝日新聞』なのがねぇ~・・・(^_^;)

どおりで・・・バイアスが掛かった表現が有るワケだ・・・(^_^;)

国鉄赤字はねぇ~・・・
新幹線(※私個人の感想)と・・・
中核派、革マル派などの
『プロ左翼』による
一部の『似非労組』が原因なの!
Posted at 2017/02/26 20:54:07 | コメント(4) | トラックバック(0) | 鉄ちゃん通信&“旅と歴史” | 旅行/地域
2017年02月22日 イイね!

祝・みんカラ歴8年!

祝・みんカラ歴8年!2月22日でみんカラを始めて8年が経ちます!
<この一年のみんカラでの思い出を振り返ろう>










もう8年か・・・(^_^;)

簡単、且つ、テキトーに振り返ってみる・・・

ゴールデンウィーク・・・



初めての・・・『ひたち』

・・・この時代に乗りたかったなぁ~・・・


当時は『同時発車!』ですよ!

そして

初めての・・・『成田エクスプレス』・・・但し、空港とは逆方向の列車で・・・

さらに

初めての・・・『スーパーあずさ』・・・

塩尻は・・・パスして・・・

あ、・・・コレは国鉄時代ですね・・・

5月末には『トヨタ博物館 クラシックカーフェスティバル』の会場にて・・・




初めての・・・ベントレー♪・・・(^_^)v

・・・こんな風にドライブ・・・えっ?・・・(^_^;)


夏・・・


初めての・・・『八木新宮線特急バス』・・・



そして・・・こんな気動車で・・・





・・・廃線跡を歩く・・・

秋・・・一寸・・・高飛び・・・(^_^;)























そして・・・
初めての・・・Mercedes-Benz Sクラス・・・


かなりのスピードでレーンチェンジしても・・・無理がない!

・・・と、全く纏まりの無い回想でしたが・・・(^_^;)


これからも、よろしくお願いします!

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オマケ!

・・・Mercedes-Benz Sクラスと言えば・・・
私的には・・・W116
450SEL6.9

Posted at 2017/02/22 23:17:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | 御挨拶 | 旅行/地域
2017年02月19日 イイね!

YouTubeから拾った映像で偲ぶ・・・SNCF TEE Le Mistral

YouTubeから拾った映像で偲ぶ・・・SNCF TEE Le Mistral※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用











『おいおい、引用記事ばっかり書いとるジャマイカァーッ!』・・・

・・・と、『(安っぽい)(似非)正義感(笑)』丸出しの『(自称)意識高い系(笑)』から怒られそうですが・・・
まあ、『怒らせて反応見る』のも面白いかと


さて・・・前置きはその辺にしといて本題へ・・・

小学生の頃でした・・・
NHKの何かのテレビ番組で照会されたり・・・母が購読していた主婦雑誌『ショッピング』(たぶん、今は廃刊・・・)の中の旅のコーナーにて片平なぎさ(多分・・・)のレポートでも照会されたりして・・・
子供心にも『いつかはミストラルで列車の旅をしたい・・・』思っていましたよ・・・

しかし・・・

1982年には廃止されてしまいましたよ・・・(´・ω・`)

コレで・・・死ぬまで乗れなかった列車に・・・(´;ω;`)


さて、SNCF(フランス国鉄)の昼行列車 ル・ミストラル(Le Mistral)とは・・・?

例によって・・・
『引用という名の手抜き』で・・・(^_^;)
※Wikipediaより抜粋引用

ル・ミストラル (列車)
ル・ミストラル(Le Mistral)は1950年から1982年までパリ - ニース間をリヨン、マルセイユ経由で結んでいたフランス国鉄の昼行列車である。1965年から1981年まではTEEの一列車でもあった。フランスを代表する豪華列車であったが、TGVと引き替えに廃止された。

ここではル・ミストラルを補完していた以下の列車についても記述する。
ル・リヨネ(Le Lyonnais) : 1967年から1981年までのパリ - リヨン間で運行されていた列車。1976年まではTEE。
ル・ロダニアン(Le Rhodanien) : 1971年から1982年までパリ - マルセイユ間で運行されていた列車。1978年まではTEE。

各列車とも列車名の定冠詞「ル」を省略して表記されることもある。なお「ル・ロダニアン」は1964年から1971年までと1982年から1986年まではマルセイユ - ジュネーヴ間の列車名として用いられていた。

列車名の由来は以下の通り。
ミストラル : ローヌ河谷の地方風「ミストラル」
リヨネ : リヨンの形容詞形、またはリヨンの住民の意
ロダニアン : ローヌ川の形容詞形

歴史

前史

パリ - マルセイユ間の鉄道が全通したのは1855年のことであり、さらにニースまでは1864年に開通した。1937年までこの区間の鉄道はパリ・リヨン・地中海鉄道により運営されていた。

1929年、国際寝台車会社(ワゴン・リ社)はパリとヴェンティミリアをリヨン、マルセイユ、ニース経由で結ぶプルマン・コート・ダジュール急行(Pullman Cote d'Azur Express)の運行を始めた。これはテーブルつきの座席を備えたプルマン車(サロン車)による編成である。プルマン・コート・ダジュール急行のプルマン車は「コート・ダジュール型」とも呼ばれ、ワゴン・リ社が1925年以降ヨーロッパ各地の列車に連結していたプルマン車のなかでも最も豪華なものであった。

一方、パリ・リヨン・地中海鉄道は1935年からパリ - マルセイユ間で流線型蒸気機関車を用いた急行列車を運転した。この列車は1938年にフランス国鉄に引き継がれたが、第二次世界大戦勃発により運休となった。

戦後、1945年冬からフランス国鉄はパリ - マルセイユ間で一等車と二等車のみ(当時のフランスは三等級制)からなる急行列車の運転を再開した。また1946年にはパリ - リヨン間で途中無停車の気動車による急行列車の運転を始めた。

ミストラル運行開始

1950年5月14日のダイヤ改正で、パリ - マルセイユ間に一・二等急行列車(Rapide)「ル・ミストラル」が登場した。列車番号はマルセイユ行が1、パリ行が2であり、列車番号の上でもフランスを代表する列車と位置づけられていた。当時はラロッシュ(Laroche-Saint-Cydroine, ヨンヌ県)とディジョンの間のみが電化されており、その他の区間は蒸気機関車牽引であった。

1952年にはミストラルはマルセイユからニースまで延長された。また同時にパリ - リヨン間が電気機関車牽引となった。電化区間はその後1959年にアヴィニョン、1962年にマルセイユまで延長された。

1954年からは機関車に"MISTRAL"の列車名標(ヘッドマーク)が取りつけられるようになった。フランス国鉄での列車名標の掲示は1975年で終わるが、ミストラルのみは1977年まで続けられた。

1956年夏のダイヤ改正から西ヨーロッパの鉄道は二等級制に移行し、ミストラルは一等車のみの編成となった。さらに同年7月、フランス国鉄はミストラルにステンレス製の新型客車(通称ミストラル56型)を投入した。これはフランスで初めて全車空調設備を備えたものであった。

スピードアップ

1950年当時のミストラルの最高速度は130km/hであったが、1952年のパリ - リヨン間電化とともに140km/hに引き上げられ、さらに1956年からは150km/hとなった。なおフランス国鉄は1956年からパリ - リヨン間で160km/h運転を行なっているが、ミストラルは16両編成と重いため150km/hに抑えられた。
1964年当時、下り列車はパリ・ディジョン間315kmで表定時速132.1kmを記録し、ギネスブックに停車駅間における営業列車の速度としては世界最高と認定されていた。これは東海道新幹線開業前のレコードホルダーであった。

TEE昇格

西ドイツ国鉄の提案をきっかけに、1965年から国内の優等列車もTEEに加えられることになり、同年5月30日のダイヤ改正からミストラルはTEEとなった。同時に非電化のマルセイユ - ニース間の牽引機関車が蒸気機関車からディーゼル機関車に置き換えられた。

1965年冬のダイヤ改正でミストラルのパリ - リヨン間の最高速度は160km/hとなり、さらに1968年にはリヨン - マルセイユ間も最高160km/hとなった。

新客車と増発

1969年2月9日のダイヤ改正からパリ - ニース間の全線が電気機関車牽引となり、所要時間は下り(TEE 1)が9時間08分(パリ→リヨン間3時間47分、パリ→マルセイユ間6時間42分)、上り(TEE 2)が9時間06分にまで短縮された。またこのときからミストラルに新型車両(ミストラル69型)が投入され、同時に余剰となったミストラル56型客車を利用してパリ - リヨン間にもう一往復のTEE「ル・リヨネ」が設定された。翌1970年にはリヨネもミストラル69型客車に置き換えられた。さらに1971年にはパリ - マルセイユ間でTEE「ル・ロダニアン」が運行を始めた。ロダニアンは土曜日のマルセイユ行と日曜日のパリ行は運転されず、また7月、8月のヴァカンス期にも運休となるなど、ビジネス色の強い列車であった。

1972年には、パリ - ニース間の所要時間は下り9時間02分、上り8時間58分となった。

リヨネとロダニアンの運行開始以降、ミストラルはパリとコート・ダジュールを結ぶ観光列車としての性格が強くなった。この時期のミストラルには半室がバーで残りの区画に売店や秘書室、理容室を備えたバー車が連結されていた。ただし秘書室や理容室は1970年代後半には営業していないことが多かったようである。編成中に2両ある食堂車ではフルコースのフランス料理が提供された。

また、繁忙期には以前の客車を用いた臨時列車「第二ミストラル(Mistral bis)」が定期列車の直後に運転された。

終焉

1976年5月26日から、リヨネには二等車が連結されるようになり、TEEではなくなった。1978年10月1日にはロダニアンも同様に二等車を含む通常の急行列車となった。

1981年9月27日にTGVがパリ - リヨン間で営業を開始したのとともに、リヨネは廃止され、ミストラルには二等車が連結されTEEではなくなった。さらに1982年5月23日からTGVがパリ - マルセイユ間の運行を開始(リヨン - マルセイユ間は在来線経由)した。これと引き替えに、ミストラルは前日5月22日の運行を最後に廃止され、ロダニアンはマルセイユ - ジュネーヴ間に運行区間を変更し、パリ - マルセイユ・ニース間の在来線昼行列車は姿を消した。

その他

居眠り運転防止のためル・ミストラルの運転室には座席がなく、運転手は立ったままであった。 またデッドマン装置が取り付けられ、運転中居眠りしてレバーを握る手が緩むとブザーが鳴り、さらに放置すると自動でブレーキがかかるというものであった。

年表
1950年5月14日 : 急行列車「ミストラル」、パリ - マルセイユ間で運行開始。
1952年10月 : パリ - ニース間に延長。
1956年7月 : 「ミストラル56型」客車使用開始。
1965年5月30日 : 「ミストラル」TEE化。
1969年2月9日 : 「ミストラル69型」客車使用開始。TEE「リヨネ」、パリ - リヨン間運行開始。
1971年5月23日 : 「ロダニアン」、パリ - マルセイユ間のTEEに。
1976年5月26日 : 「リヨネ」、通常の急行列車に種別変更。
1978年10月1日 : 「ロダニアン」、急行列車に種別変更。
1981年9月27日 : 「リヨネ」廃止。「ミストラル」急行列車に種別変更。
1982年5月23日 : 「ミストラル」廃止。「ロダニアン」、マルセイユ - ジュネーヴ間のインターシティに。

車両

客車

1956年以前の客車

1950年の運行開始当時、ミストラルに主として用いられていたのはDEV客車(Voiture DEV AO)の一二等合造コンパートメント車(当時は三等級制)である。これはフランス国鉄の客車研究部(Division des études des voitures, DEV)の開発した鋼製車両で、3両または4両がミストラルに連結された。

またミストラルにはかつてプルマン・コート・ダジュール急行に用いられていた国際寝台車会社(ワゴン・リ)のプルマン車が一二等各1両ずつと、ワゴン・リ社の食堂車も連結されていた。プルマンの二等車は1950年末には連結を打ち切られるが、一等プルマン車とワゴン・リの食堂車は1969年2月まで編成に含まれており、その後プルマン車は1969年9月まで、食堂車は1970年1月までリヨネに連結されていた。

ミストラル56型

ミストラル56型はDEVのステンレス客車(Voiture DEV Inox)の一形式で、空調設備を備えており最高速度160km/hでの運転に対応している。6人用個室8室を備えたコンパートメント車(A8myfi)と、コンパートメント5室に加え残りのスペースをバーとした車両(A5smyfi)がある。車体は無塗装であるが、1965年のTEE化後は窓の上に細い赤帯と"TRANS EUROP EXPRESS"の文字が加えられた。

1953年から1956年にかけて製造され、1956年7月から1969年2月までミストラルに使用された後、1970年1月までリヨネに使用された。

ミストラル69型

ミストラル69型、または新ミストラル(Nouveau Mistral)型は1968年から1970年にかけてフランス国鉄がTEE向けに製造した客車である。基本的な設計は1964年にパリ - ブリュッセル - アムステルダム(PBA)系統のTEEに投入された客車とほぼ同一であるが、台車が新型になっているほか窓がやや大きいなどの違いがある。

1969年2月からミストラルに、また1970年1月からはリヨネ、1971年5月からはロダニアンに用いられた。
一等開放座席・荷物・電源車(A4Dtux)客車の半分に中央通路を挟んで1列+2列の開放型座席21席があり、もう半分は荷物室と出力435kWのディーゼル発電機を備えた電源室となっている。編成の端に連結される。一等コンパートメント車(A8u)6人用個室8室からなり、定員48人。一等開放座席車(A8tu)通路を挟んで1列+2列の開放型座席46席を備える。食堂車(Vru)厨房と食事席39席を備える。PBA系統用の車両では食堂車はなくそれぞれの座席で食事を提供する方式だったが、ミストラルでは乗車時間が比較的長いことから専用の食堂車が設けられた。なおミストラルでも食堂車の両隣の開放座席車では座席で食事をとることもできた[7]。「特別バー」車(Arux)車両のほぼ半分が飲物や軽食を提供するバーとなっており、もう半分にはネクタイやスカーフ、本、土産物などを販売するブティック(売店)、文書のタイプなどのサービスを行なう秘書室、さらに理容室がある。ミストラル専用の客車であり、その豪華列車ぶりを印象づけるものとして知られていた。一等開放座席・バー車(A3rtu)車両の半分がバーであり、もう半分は開放型座席17席となっている。リヨネとロダニアンに用いられた。

機関車

蒸気機関車

ミストラルのヘッドマークをつけた141R形蒸気機関車

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

1950年の運転開始当時、ミストラルはラロッシュ-ディジョン間を除いて蒸気機関車牽引であった。その後電化の進展とともに蒸気機関車牽引区間は縮小され、1965年にマルセイユ - ニース間がディーゼル機関車に置き換えられたことでミストラルの運用から完全に退いた。

ディーゼル機関車

BB67000形ディーゼル機関車(BB 67000)

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

1965年のミストラルのTEE化時点から、非電化のマルセイユ - ニース間はBB67000形ディーゼル機関車(BB 67000)による牽引となった。同区間の交流電化の進展とともに牽引区間は縮小され、1969年の電化完了とともに運用から退いた。

電気機関車

CC6500形電気機関車

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用

1950年のミストラル運転開始当時、電気機関車が用いられていただったのはセーヌ川水系とローヌ川水系の分水界を越えるラロッシュ - ディジョン間のみだった。その後電化区間は拡大し、1969年には全線が電気機関車牽引となった。なおパリ - マルセイユ間は直流電化で直流電気機関車が使用され、マルセイユ - ニース間は交流電化であり、交直流電気機関車が用いられた。


※引用終わり

・・・と言うことで・・・YouTubeから拾った映像で偲ぶ・・・SNCF TEE Le Mistral

1956年のPR映像


1964年のPR映像・・・TEEのPRも・・・


1969年のPR映像


この列車で乗り鉄の旅をしたかったなぁ~・・・(´・ω・`)

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像から引用
Posted at 2017/02/19 23:10:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄ちゃん通信&“旅と歴史” | 旅行/地域
2017年02月13日 イイね!

カーペンターズが歌う、サンフランシスコのラジオ局のジングル

カーペンターズが歌う、サンフランシスコのラジオ局のジングル
う~ん・・・かっこいい!(^_^)v

子供の頃、ラジオから流れるカーペンターズの歌が好きだったりしましたよ♪(*・ω・*)

・・・あ、もうこんな時間ですので・・・この辺で・・・
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オマケ!




It's Pop in Pop!
Posted at 2017/02/13 02:26:48 | コメント(3) | トラックバック(0) | MUSIC | 音楽/映画/テレビ

プロフィール

「テレビで交通事故のニュースでよく登場する交通事故鑑定人の中嶋博史さん・・・

🧐モノクル(片眼鏡)と言うらしい・・・
テレビで見る度、このメガネがどえりゃあ気になって気になって、話の内容が全然頭に入らあへん!

#中島博史 

#交通事故鑑定人 

#モノクル 

#片眼鏡
何シテル?   05/14 03:19
ハンドルネームはTVドラマ『鉄道公安官』のオープニング&エンディング曲だった、 サーカスの『ホームタウン急行(Express)』が由来です。 旧ハンドルネー...
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