サーキット建設のいきさつ
富士スピードウェイ建設は、
丸紅副社長森長英から河野一郎(建設大臣)
に話があった。その頃河野は名神高速道路の建設を担っており、
長時間高速走行可能な国産車を開発する必要があり、
また自動車の輸入自由化のこともあり、外車の性能と
比較しても遜色ない国産車を開発するには、サーキット
の存在は大きな意味があった。鈴鹿サーキットはホンダの
サーキットで、また当時は二輪レース用のサーキットと思われており、
四輪レースにも十分な幅員を持つサーキットが望まれていた。
また日本初のパーマネントサーキットであった
多摩川スピードウェイでは、規模、拡張性ともに問題があった。
富士スピードウェイの建設用地は99年間の借地権によるものである。
建設費用は借入金によるところが大きいが、河野が逝去したため、
日本ナスカー(株)副社長河野洋平は建設資金集めのために
銀行や企業回りをし、非常に苦労する。
富士スピードウェイ株式会社の前身「日本ナスカー株式会社」
は1963年(昭和38年)に設立。その名の通り日本国内に
おけるNASCAR形式のレース開催を目的として設立され、
翌1964年(昭和39年)1月にはNASCARとの間で日本及び
極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する
契約を締結。同年6月にはサーキット候補地として
静岡県駿東郡小山町大御神の150万坪の土地を選定し、
地権者らとの契約にこぎつける。
コースレイアウトは、NASCARのレースが行われるアメリカの
デイトナ・インターナショナル・スピードウェイに似た
トライアングル・オーバルトラックを予定しており、
1964年7月にはデイトナを設計したチャールズ・マネーペニーが来日し、
原案の製作に取り掛かった。しかし、日本ナスカーの招聘によって
現地を視察したスターリング・モスが「こんな地形で
オーバルコースを作るとはナンセンスも甚だしい」と指摘した通り、
山麓の傾斜地という立地条件からオーバルコースの建設が
困難なことが判明した。1965年(昭和40年)にはNASCARとの
間の開催権契約を白紙還元することで合意。改めてヨーロッパ式の
ロードコースとしてサーキットを建設することとなり、社名を現在の
「富士スピードウェイ株式会社」に改めた。同年10月には
三菱地所が同社に出資、実質的な経営権を握ることになる。
河野洋平によると、コース設計には様々な案があり、
結局日本のレースにも適した現在のコースに決まり、
建設を開始したという。河野洋平の
アメリカ視察は建設開始後であった。
また、NASCARの契約料は高額で、
河野たちは不満を持っていたし、NASCARの経営方式が
日本で通用するとも思っていなかったので、NASCARとの
契約をやめることにしたという。そして会社名も
富士スピードウェイ(株)と変わる。「サーキット」ではなく
「スピードウェイ」という名をつけたのはオーバル計画の名残である。
それからサーキットの愛称について河野らは考えたが、
呼びやすい愛称ということで、正式社名にはない
「インターナショナル」を入れて
「フジ・インターナショナル・スピードウェイ・カンパニー
(Fuji International Speedway COmpany)」とした。
当初、富士スピードウェイの経営には三菱地所は関わっておらず、
丸紅、毎日新聞社、富士急行が関わっていた。三菱地所が
行動を起こすのは河野一郎の逝去後である。三菱地所は
富士スピードウェイに隣接する土地を所有しており、
そこで冨士霊園の経営を行っていた。三菱地所社長渡辺武治郎は
特に富士スピードウェイの借地内にあるゴルフ場に関心を持っていた。
富士スピードウェイ社長鈴木九平と渡辺との間で交渉がまとまり、
また河野洋平も亡き父・河野一郎の後を継いで政界に入って
富士スピードウェイを退職し、以後は三菱地所に経営を託すことになる。
今現在は
2000年よりトヨタ自動車の傘下に入る。
富士スピードウェイ
伝説の30度バンク
1974年富士
史上最大のレース事故
30度バンク廃止へ
今現在一部の30度バンクは
メモリアルパークとして有ります
現在はショートコースの上に有ります


1973年に、中野選手がが死亡する事故、
1974年に、今も遺恨を残す風戸+鈴木選手の事故、
この二つの死亡事故が契機になって、
使われなくなりました。
実際には、74年の事故は30度バンク
の手前からの事故なので、
バンクのせいではありませんが、
バンクへの進入ラインが実質1本しかないため、
熾烈なライン取り合戦が展開され、
そのために接触、弾き飛ばされた結果が、
風戸のシェブロンが吹っ飛んだ原因なので、
オイルショックで暗い世相もあって、廃止しています。
この事故の顛末は、競技者同士の討ち合いと
とられてコース管理における非は問われなかった。
ガードレールの設置について疑問点もあったが、
警察が介入する事が話を更に混乱させ、
当事者の黒沢が業務上過失致死に
問われる事態にまで発展する。
さらに「日本一のサーキット」
といわれた所以である30度バンクは
2年連続の惨事の要因を作った事で
「長期間使用休止」→「廃止」となった。
この事故は多くの人物の運命をも翻弄した。
北野はこの事故から精彩を欠き、
以前の速さは見られなくなった。
黒沢も然りで、容疑は事実上の不起訴と
されたもののレース関係者との溝は深まる結果となった。
高原も、漆原も。生き残ったドライバー達にとっても、
このレースは重く人生にのしかかるものとなっている。
そして命を落とした鈴木、風戸も。
職人気質だが人付き合いも良く、ドライバー皆に慕われた
「誠さん」の走りは二度と見られなくなった。そして、
当時一番F1に近づいていた風戸も、その勇姿を幻のもの
として人々の前から消えていった。前年風戸が提案した
「ストレートにシケイン」があったら、
運命は変わっていたのだろうか。
昨年(2006年)三十三回忌を迎え、
ご遺族としてもひとつの区切りとなった。
また富士スピードウェイは新装され、
再びF1を招致できる「日本一のサーキット」
を目前に控えている。素晴らしいレースを
期待するのは言うまでもないが、
33年前に確かに起きた現実、それを忘れてはならない。
ありふれた言い方だが…
新装が過去を風化させるためだとしたら、
それは間違いである。
コース関係者、競技者においては、
一層の安全を期して臨んでもらいたい。
当時にCMです
ブリヂストン CM GC編
生沢、風戸、酒井ほか
1977年富士スピードウェイでの
F1日本グランプリのクラッシュ
1983 GC 高橋徹 事故
1998 JGTC Rd.2 All
Japan Fuji GT Race
富士スピードウェイは
いろんな歴史が有ります。
いろんな歴史が有るから
今の富士スピードウェイが有ります。
あ。言い忘れましたが・・・
富士スピードウェイの改装の時に
エアコンを付けに来ました・・・
最近はカートコースに
入り浸りですが・・・(汗)
FSW カートコース
Posted at 2017/06/24 17:28:11 | |
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